「夢よ急げ」



 「・・・・・・」
 え、何だ?
 目の前で、唇が動いている。
 けれどとても小さい声なのか、近くに騒音でもあるのか、上手く聞き取れない。
 「・・・・・よ」
 よ?
 「・・・いて・・・」
 いて?
 いてって、「痛て」とか「居て」か?
 どこか痛むのか、それとも寂しいのか。
 それともまったく別の言葉か。
 「・・・・・・」
 何度も何度も同じ言葉を繰り返しているのに、どうしても分からない。
 相手も伝わらないのが悲しいのか、段々瞳が潤んでくる。
 その涙が零れ落ちる前に何とか聞いてあげたくて、顔を近付けた瞬間・・・。
 
 ジリリリリリリリリリリリリ・・・・・・・ッ

 「うあっ?」
 頭上で鳴り響いた電子音に、開いていたはずの目を、もう一度開けることになっ
た。
 微妙にかすむ視界に映るのは、言葉を紡ぐ唇でもなく、潤んだ瞳でもなく、やけに
見慣れた空間。
 タンスに書棚、ローチェストと厚い地の紺色カーテン、背の低い観葉植物。その横
に籐のゴミ箱。
 目が馴れてくると、そこが自宅の寝室だということが判明した。
 そして頭上で鳴りっぱなしになっていたのは、長年使用している目覚まし時計。
 昨日乾電池を替えたばかりだからか、やけに豪快でやかましい。
 ベチッと、必要以上に強くボタンを叩いて、音を止める。
 そのまま目の前まで引き寄せて時間を見てみると、11時30分ちょっと。
 カーテンの隙間から光が洩れているから、もちろん午前の11時だ。
 明日は夕方過ぎから仕事が入っているから昼頃起きれば大丈夫だ、と、昨夜にセッ
トしておいた時間。
 それを思い出し、せめてあと30分遅くしておけば、と小さく後悔した。
 しかし時すでに遅しで、目は覚めてしまったのだから、しょうがない。
 未練を残しつつも、休むには十分すぎるほど眠っていた身体を起こして、遮光カー
テンを開けた。
 薄く透ける、細かいレースのカーテン越しに、すっかり高くなった太陽を見上げ、
大きく伸びをしてみる。ついでにあくびをひとつ。
 起きぬけのパジャマのままでは寒いので、タンスの中から手早く服を選んで着替え
を済ませた。

 御手洗と洗顔を終え、居間へ向かう。
 新聞を手にしかけた所へ、妻が買い物から帰ってきた。
 「あら、おはよ。これからお昼ご飯作るけど、食べるわよね?」
 「ああ、お帰り。食べるよ」
 時間の関係をまったく無視した不自然な会話なはずだが、長年繰り返されてきたこ
となので違和感はまったくない。
 もちろん朝早く起きることもあるし、ライブの打ち上げ後など、朝帰ってくる場合
なんかは夕方まで眠っていることもあるので、毎日ということではないけれど。
 「出来たわよ」
 しばらくして、妻の昼食、自分にとっては遅い朝食に呼ばれた。

 「いただきます」
 料理に箸をつけながら、先程の夢を思い出す。
 いったい何を伝えたかったんだろう。
 うるさい目覚まし時計のせいで、かろうじて聞き取れた言葉も忘れてしまった。
 俺を見つめながら、同じ言葉を何度も繰り返していたのに。
 そういえば、誰だったかも思い出せないな。
 よく知っているはずの人だった。
 息がかかりそうな程、傍に居たのに、フィルターがかかっているような、もどかし
い記憶しか思い出せない。     
 大切な人だったように思う。
 泣きそうになっていた時、強く抱きしめてやりたくなった程だ。
 そっと、目の前で食事をしている妻の顔を見てみたけれど、少し違うような気がす
る。
 そうすると昔付き合っていた女性とかか?
 けれど思い出してみても、これだ!と思える人はいない。
 もっとこう、頼りなげで、寂しそうで、触れたら崩れ落ちそうな・・・って、妻やそ
の昔の恋人達がそういうタイプの女性じゃないとは決して、口が裂けても言えないけ
ど。
 「どうしたの?」
 きっと思い出せないもどかしさから、百面相でもしていたのだろう俺に、妻は怪訝
な顔で覗き込む。
 体調でも悪い?と、心配する妻に、なんでもないよと答え、笑ってみせた。
 ここで慌ててしまうと妙な心配をされてしまって、後で怖いことになりかねない。
 い、いや、どんなことでも心配はさせちゃいけないからな。うん。
 その後、たわいもない日常の会話を交わしている内に、そのまま夢のことは忘れて
いった。 


 夕方になり、本日の仕事場であるテレビ局へ到着。
 マネージャーに誘導されて楽屋へと向かう。
 扉を開けると、アコースティックギターの音が聞こえてきた。
 「なんだ、坂崎今日は早かったんだな」
 弾いていたのは、考えるまでもなくこいつ。
 楽屋にいる時は寝てるかギターを弾いてるかのどちらか。
 ごくまれに違うことをしているな、と思うと、自宅から持ってきたペットの世話を
しているか、雑誌の原稿でも書いているのかパソコンを開いてカチャカチャやってい
るか、だ。
 けれど、傍らにはやっぱりギターが置いてある。
 今日も例にもれず、一人でずっと弾いていたようだ。
 「昼の収録から直で来たから。家に戻るような時間でもなかったしね」
 言われてみれば、髪の毛が割と整っている。
 家から来たのであれば、もっとくしゃくしゃになっているだろう。
 うっすらと化粧も残っているようだ。
 ツアー中でなければ、自宅、もしくは事務所待機の俺と違って、テレビやラジオ、
それからフォーク系のライブなどで忙しい坂崎なので、一日に2〜3の仕事が入って
いることは珍しくないのだ。
 かく言う俺でも、新曲のプロモーション中なんかには、ラジオを1日で何本も録っ
たり雑誌の取材に応じるなんてことがあるけれど。
 「で、もちろん高見沢はまだ?」
 「もちろんまだ」
 ギターを爪弾きながら、坂崎が微妙な笑顔で頷く。
 高見沢も超がつくほど多忙なスケジュールではあるけれど、もともと時間にはルー
ズな奴なので、俺達より早く来ていたことなど殆ど、ない。
 せめて収録に遅れるのだけはやめてくれと思うのだが、これがまた治らないから、
もう諦めてはいるけれど。
 そんなことを考えているうちに、軽く扉をたたく音が聞こえた。
 「おはようございまーす」
 入ってきたのは、専属ヘアメイクの女の子だった。
 今回はテレビ収録なので、セットしてもらわなければならないのだ。
 「あ、俺、トイレ行ってくるわ」
 そう言って入れ違いに坂崎が出て行き、俺は髪の毛を整えてもらうため、鏡の前へ
移動した。
 鏡に映る自分の姿を見て、ふと蘇ってきたのは今朝の夢。
 何故か、妻と食事をしていた時よりも、少し鮮明に思い出せている。
 それまで忘れていて、突然全部思い出すなんてこともあるから、きっとそれと同じ
ような感覚なのだろう。
 そう、その人はとても華奢な身体だったんだ。
 それから、繰り返していた言葉はたぶん、四文字。
 四つの文字を何度も俺に告げていた。
 潤んだ瞳が切なくて、そしてなんだかやけに色っぽくて。
 君は誰で、何を伝えたかったんだ?
 「おい桜井。桜井ってば。さーくーらーいっ」
 「痛てっ」
 肩をおもいっきり叩かれて、振り向くと、そのにはくるくるくるくるした髪の毛が
あった。
 「なんだよ、痛いな、叩くなよなぁ」
 「呼んでも気付かないお前が悪い」
 「だからって、その貴金属ジャラジャラの手で叩くなって何度も言ってるだろ。ホ
ントに痛いんだから」
 くるくるした髪の持ち主は先程までそこに居たはずのヘアメイクではなく、メイク
までばっちりな高見沢であったのだ。 
 「お前さ、なんかあったのか?」
 「なんでだよ。何にもないぞ」
 「ホントにぃ?」
 「だから、なんでだよ」
 「呼んでも全然気が付かないしさ、さっきヘアメイクの子も、セット終わったのに
お前がまったく動かなくて、しかも苦悶した表情だったって怖がっていたからな。何
か悩みでもあるのかなと」
 ああ、そうか。ヘアメイクの女の子が居なくなっていたのは、すでに終わっていた
のに気が付かなかっただけだったのだ。それもなんだか情けない話ではあるが。
 「別に悩みなんてないけどな。それにしても高見沢がそんなこと気遣うなんて、珍
しいじゃないか」
 「何ぃ?お前ね、俺のことなんだと思ってんだよ」
 腹立たしいと言わんばかりに、両腕を組んで見下げる格好をとる高見沢。
 「何言ってんだよ、こういう細かいことまで気が回るなんて滅多にないだろうが」
 「悪かったなっ。だって坂崎も言ってたんだよ、桜井の奴、もしかしたら悩みでも
あるのかもしれないって。な、坂崎」
 高見沢が振り向いた先に、相変わらずギターを抱えていた坂崎が座って肯いてい
た。
 「俺がトイレから戻ってきたことも分かってない感じで、鏡をずーっとにらんでん
だもん、こりゃなんかあったなって」
 そうか、坂崎に言われて、さすがの高見沢も心配になったというわけだ。
 坂崎は鈍感な高見沢と違って、周りのことによく気が付く。
 あの小さい目で、どうやってあんなにもしっかりと色んなことを把握していられる
んだと思うくらい。
 「いや、本当に何でもないんだ。ちょっと今朝見た夢が気になって」
 「夢?」
 二人の声がハモって、俺に聞き返す。
 「すごくおぼろげで、そこにいたのが誰だったかも思い出せないぐらいなんだけど
な」
 「悪い夢だったの?」
 「いや、悪いってわけじゃな・・・・・あっ」
 「な、何?」
 言いかけて、気が付いてしまった。
 そうだよ、なんで分からなかったんだろう。
 今、お互いが座っている場所の関係上、ちょうど見上げる感じになる坂崎の視線で
思い出した。
 こいつだ。
 そう、坂崎だよ。
 夢の中で俺の前にいたのは坂崎だ。
 どおりでよく知っていると思ったんだよな。
 「なんなんだよ。おーい、桜井さーん?」
 「どうしよう、坂崎見たまま固まってるみたいだけど」
 「どうしようったって・・・。まあ、溶けるまでほっとくか」
 「まだ時間あるしな。ほっとくか」
 「桜井がおかしいのは前からだし」
 「そうだな」
 そんな冷たいやりとりをされているのにも気付けないほど、まるで長年の謎が解け
たような爽快感に、その時俺は酔いしれていた。
 だがしかし。
 一つ、やっかいなことまで思い出してしまった。
 夢の中で、坂崎のことを『抱き締めてやりたい』って思ってたんだよな。
 しかも、切ない瞳がやけに色っぽく感じてて。
 触れたら崩れ落ちそうなんだけど、たまらなく抱き締めたかった。
 ん?
 抱き締める?
 ああっ!
 そうか、分かったぞ!!
 ようやく分かった。
 あいつが言い続けていたこと。
 なんだ、そうだったのか。
 そうそう、あの時坂崎がずっと言っていたのは、
 『抱いてよ』だ。
 確かに四文字だもんな。
 これで全部判明して、更にすっきり爽やか!
 って、おい。
 なんで坂崎が、俺に向かって『抱いてよ』って言ってるんだ。
 それもとっても切なげに。
 それはちょっと、いや、かなりまずくないか?
 いくら夢の中だって言ったって、さ。
 夢は願望が顕れるって聞いたことあるし。
 と、いうことは何か?
 俺は坂崎にそういうこと言って欲しいわけ?
 そりゃ、こいつらと付き合い始めてもう、かれこれ30年以上立っていて、今まで
に、まったくこれっぽっちも一度だってやましい気持ちになったことがないのかって
言うと、絶対にない!とは言えないんだけどさ。
 出会った頃の坂崎って、女の子みたいだったし、最近だって、ステージ上とかで見
せるしぐさとかが、妙に色気があって、ドキっとされられることがある。
 細くてしなやかな腰とか、ふとのけぞったときの首のラインとか、さ。
 楽屋やツアーで移動中のバスの中で眠っているあどけない顔に、ちょっかいかけた
くなったりすることもあるし。
 女みたいって言えば、高見沢だって、肌は白いし髪は長いし、眼も大きいし、こい
つもなんだかんだと細いんだけど。
 けど坂崎の方が、俺より背も低くて小さいから、抱き締めて組み伏せるには、お手
頃サイズなんだよなぁ。
 いや、待て待て待て。
 落ち着け、俺。
 相手は男だ。それも坂崎だぞ。
 いくら色気があるったって、若い頃から一緒に銭湯に行ったり温泉に入ったりして
いるから、奴の身体には、俺よりも若干立派な息子さんが付いていらっしゃることも
確認済みだし、外見はどうでも、中身は高見沢共々男らしいってことも良く知ってい
る。二人とも本当に女好きだし。
 俺にしたって、奥さんもいるんだしさ。
 ずっと一緒に居たって、そういう恋愛感情とかは、ないんだ。
 坂崎のことは好きだよ。坂崎だけじゃない、高見沢も好きだ。
 好きじゃなかったら、こんなに長い間、傍になんていられないよ。
 歌うことは大好きだけど、こいつらと一緒じゃなかったら、続けられていなかった
かもしれない。
 坂崎と高見沢が居たから、今の俺がいることは確かだから。
 三人の、アルフィーの桜井でいられるから、こんな世知辛い芸能界なんて所でやっ
ていけているんだと思う。
 だから、恋愛感情なんか持ち込んで、せっかくの、この絶妙なバランスを崩しちゃ
いけない。
 そんなこと、あいつらだって絶対望まないもんな。
 危ない危ない。夢に振りまわされて、変な考えに行きつくところだった。
 今朝見たのはきっと、願望とかそんなんじゃなくて、何でもない夢だったんだ。
 荒唐無稽で訳の分からない夢なんて、よくあることだし。
 誰だよ、夢は願望の顕れだなんて言った奴。ったく。

 「桜井ー、そろそろ正気に戻ってくれないかな」
 「リハ始まるから、行くぞ」
 「え?あ、ああ」
 呼ばれて気が付くと、二人は俺の目の前に立っていた。
 「おい、しっかりしてくれよ、メインボーカル」
 ペシペシと俺の肩を叩く高見沢。
 今度もやっぱり手加減を忘れている。
 「そうだよ、歌詞忘れたって、高見沢先生みたいに即興で歌詞作れないんだから」
 そう言って笑う坂崎の笑顔に、胸の奥の底の方が、ほんのちょっとだけ痛んだよう
な気がしたけれど、それは無視することにした。
 俺には眠って見る夢じゃなくて、他にちゃんと大切な夢があるじゃないか。
 こいつらと一緒に音を作り続ける。
 死ぬまでかどうかなんて分からないけれど。
 いくつもの夜も昼も、痛みも喜びも共有しながら、歌い続けていく。
 「さ、行くぞ」
 今日も三人で、未来のために。

 夢よ急げ、だ。





ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
後書きという名の悪あがき。(涙)

はい、謎めく魅力に負けてしまいそうな桜井さんでした。(笑)
この曲で、どうしてこんな話になるんでしょうね。(--;)
幸ちゃんの魅力の部分は、もちろん私の独断と偏見ですが、幸ちゃんファンならきっ
と分かってくれるハズですよ、ね?
いや、別に、桜井さんがホ○だとか、そういうことじゃないんですよ。
友情と愛情の境目を揺れ動く青春の頃の痛みみたいな物が書きたかったんです。(も
う50歳にもなろうっておじさん達をつかまえといて青春て・・・)
ちなみに、某シングルコレクションの池○先生のイラストに感化されてしまったため
に、桜井さんがこのような扱いになってしまった・・・ということではないですよ?
この話自体は、あのジャケットイラストが発表されるずっと前に書き上げておりました
から。(^^)
さてさて、皆さんはどんな感想を持っていただけたんでしょうか・・・・。