※このお話にはメンバーは登場しません。
 しかも長いです(^^;)
 それでもよい、という方はどうぞ♪




「もう一度君に逢いたい」




僕は夜の公園に居た。何年ぶりだろう、公園なんて。
もちろん、こんな夜に子供が遊んでいるはずもなく、公園内は静まり返っている。
僕はコンビニの袋を片手に普段気にも留めない近所の小さな公園に立ち寄っていた。このまま公園の前の道を通って真っ直ぐ行けば自分のアパートだ。コンビニで買ったビールを飲むのなら自分の部屋でいいのに、今日は何故だか部屋ではなく、この公園で飲みたい気分だった。

「ま、たまにはいいさ、外で飲むのも」勝手に自分自身にそう言い聞かせて、ブランコに腰を下ろした。秋の冷たい風にさらされていたブランコの板は、昼間子供が使っていたとは思えないほど冷たかった。夜まで子供のぬくもりが残っていることなんてないと思うのだが、その冷たさが妙に僕の気分をさらに沈めてくれた。
重い気持ちで缶ビールを開ける。いつだって一口目のビールは何より美味いのに、今日だけはただ味のない炭酸水を飲んでいるような感覚だった。自然とため息が出る。

特に何があったわけでもなかった。いつもように会社に行き、いつものように働いて疲れて帰ってきただけだ。自分勝手な部長の機嫌をとり、課長の尻拭いをして、いつも通りくたくたになっただけ。明日も仕事なのに、こんなところで何をしているんだろう、そう思っても何故か僕の腰は重くて一向に立ち上がることはなかった。

かといって何もなかったわけでもない。
昔、新入社員として配属された部署に、バリバリのキャリアウーマンが居た。僕が入った時にはすでに部長で、今や本社でいい役職についている。
そんな彼女が今日は出張で僕の居る支社に来ていたのだ。彼女は相変わらずで、男に負けずにバリバリやっているようだった。
部長にとって彼女は比べ物にならないほど職位が上だ。簡単に言えばここ支社の支社長より上。当然部長なんかじゃ太刀打ちできない。
ペコペコと彼女に頭を下げるいつもは自分勝手で偉そうな部長の姿は、かなりの見ものだった。

他の部長や課長の中にも彼女の後輩が居て、なつかしそうに話が弾んでいた。その会話の中に“男に負けてられないわ”という彼女の昔からの口癖が健在だったのが僕は嬉しくもあり羨ましくもあった。
会社に入った頃は、そんな彼女に負けまいと、僕もこの仕事を誇りに頑張りたい、そう思ってがむしゃらに仕事をしていた。右も左も分からない新人の僕なりに頑張っていたと思う。彼女も当時僕が一番やる気に満ちていたから一から色々教えてくれた。1年後、彼女は今後の僕の成長を楽しみに本社へと異動した。

そんな彼女は、僕を見つけて声を掛けてくれた。5年ぶりの再会、だろうか。
「どう?元気でやってる?」彼女は5年前と変わらない笑顔で僕に笑いかけた。彼女は僕よりずいぶん上(正確な年齢差は未だに分からない)だけど、若く見えるしなかなかの美人だからとても目立つ。彼女を知らない僕の後輩たちが、ざわざわと騒がしく僕と彼女のやりとりを見ているようだった。
「は、はい。元気ですよ。先輩も…ってすみません、僕は先輩なんて言える立場じゃないですね」
「何言ってるのよ。先輩は先輩でしょ。それはこの先も変わらないじゃない。別にいいわよ、先輩で。“本部統括室長”なんていうお堅い呼び方よりずっといいわ」
「とうとう本部統括室長まで行きましたか。すごいですね。それに相変わらず元気そうで何よりですよ」
「当然よ。私が元気なかったらこの会社は終わりよ」
「そこまで言いますか」
「もちろん。…でもあなたはあんまり元気じゃなさそうね。体調悪いの?」
「え?いえ、元気ですよ。ちょっと毎日残業続きで疲れがたまってるだけですよ」
「こっちも相変わらず忙しそうね。サービス残業なんてしてないでしょうね?」
「え…と…」
「してるんだ。だめよ、ちゃんと残業手当はきっちりもらわないと!私から支社長に言ってあげるわ。支社の社員にサービス残業なんてさせるなって」
「え、いや…」
「大丈夫よ、あなたが言ったなんて言わないから」彼女はサバサバしていて、女っ気がない。だから男に混じって負けずに仕事ができているのかもしれない。ちなみに独身だ。分かる気もする。
「ね、今日の帰りご飯でも食べない?他の元同僚たちの近況も聞きたいし。社内を一回りしてきて、色々声掛けてみたんだけど、みんな会議とか予定があって付き合ってくれないのよ。あなたも何か予定ある?」
「僕ですか?まぁ、特に何もないですけど…」
「けど…何よ?」
「…給料日前なんで…その〜」
「わかったわかった。私がおごるわよ!」
「じゃあ喜んで♪」
「そのかわり次に支社に来た時は、フランス料理のフルコースでもおごってもらうからそのつもりでね!」
「えっ冗談ですよねっ!?」
「私が冗談言うわけないじゃない。いつだって真面目よ。じゃあ、今日は定時で上がってね。ロビーで待ち合わせましょ。もし何か予定が入っちゃって行けそうもなかったら支社長室に居るから電話して。じゃ、またあとでね!」
「えっ…あっ…ちょ、ちょっと先輩!…って行っちゃったよ…。フランス料理のフルコースって…マジかよ…。次来た時は何としてでも逃げないとな…」苦笑しつつ僕は仕事に戻った。

定時後、約束通りロビーで待ち合わせ、夕飯を食べに行くことになった。先輩はここを離れてずいぶん経つから美味い店が分からないと言うので、最近評判になっている会社の近くにあるイタリア料理店に行くことにした。
「へぇ、こんな店が出来たのね。なかなかいいじゃない」
「結構値段も手頃なんですよ。安月給のサラリーマンには嬉しい限りです」
「そうね。安くて美味しいのが一番よね。…ふ〜ん、女の子が好きそうな内装ねぇ。彼女とよく来るんだ?」とジャケットを脱ぎながら先輩に尋ねられて僕は苦笑いをして席へ座った。
「あら、なによその笑い」
「え?いや、だって彼女なんていないし、この店も半年前にグループの飲み会で来たきりですからね」
「え、そうなの?…だって私がこっちに居たときは高校から付き合ってる彼女が居たじゃない。別れちゃったの?」
「…ま、まぁ…そういうことです」僕は動揺をできるかぎり隠して極力いつもの口調で答えた。がやはり先輩には気づかれてしまったようだった。
「…ふられたの?」
「……そう見えますか」
「…だってあなたの顔、めいっぱいどんよりしてるもの。…まるでその別れに納得できてないような感じ。いつ?」
「そ、そんな話はもうやめましょうよ。元同僚の近況を聞きたいんじゃなかったんですか?」その話題から早く逃げたかった。僕はメニューを広げ、先輩と目を合わせないように視線を落とした。
「…あなたの近況だって聞きたいわ。5年前とずいぶん雰囲気が変わったし、5年前より仕事への意欲がなくなっているように見えるけど…それは私の目の錯覚?誰よりも仕事への情熱があったのに…」
「…何年も経てば、誰だって変わるんですよ。変わらない先輩の方が不思議ですよ」僕が顔を見ずにそう答えると、
「……そう」と先輩は寂しそうな小さな声で呟いた。
少し気まずい雰囲気になり、先輩は触れてはいけない話題なんだろう、と察してくれたらしく、そのあとは元同僚の話をしてほしい、と言ってくれた。料理がテーブルに並ぶ頃には、また普通に会話が弾み、あの話題に戻ることはなかった。

食べ終わって店を出て僕と先輩は一緒に地下鉄の駅へ向かった。
「泊まってるホテルまで送りましょうか?」と僕が言うと、先輩は笑いながら、
「あなたの降りる駅の次だし、駅前のビジネスホテルだから大丈夫よ」と首を振った。
「そんな重役が駅前の安いビジネスホテルですか?シティホテルのスィートにすればよかったのに」
「私ねぇ、そういうキラキラしたホテル嫌いなのよ。いいのよ、安くて。どうせ寝るだけなんだから」
「た、確かにそうですけど…まぁ、先輩がいいならいいんですけどね」
ホームへ降りると、ちょうど電車がホームに入ってきた。

到着した電車はかなり混み合っていた。座席は空いているはずもなく、僕たちは駅員に背中を押されて閉まる扉に挟まれないように扉前に乗り込む形となった。
「…相変わらずこの路線は混んでるわねぇ」先輩は扉のガラスに手をついて少々苦しそうにしながら僕に言った。
「ですね。でも最近“女性専用車両”なんてのができたんですよ。朝のラッシュ時…だけだったかな」
「へぇ!なかなか粋なことするじゃない。その方がいいわ。だってこの状態だったら触りたくなくても隣の人に触っちゃうことだってあるものね。それで痴漢呼ばわりされたらおじさんたちもたまったものじゃないもの」
「ですねぇ」と相槌をしながらふと周りのおじさん達を見てみると、数人“そうそう”と頷いている人が居た。僕と目が合うと素知らぬ顔をして目線をそらす姿が何だか可笑しかった。

あっという間に僕の降りる駅に着いた。僕のアパートは結構会社の近くにある。
満員電車の酸欠状態を長い時間耐えるのは僕には出来ないのだ。駅にすれば2駅程度。電車に乗って10分もすれば会社に着いてしまう距離だ。おかげで朝はのんびりしてしまい毎日余裕がない。早く起きればいいのに、まだ大丈夫だとついつい寝てしまう。いつも後悔するのに繰り返してしまうのは何故なのだろうか。
「それじゃ、次の駅ですけどホテルまで気をつけてくださいね。今日はごちそうさまでした」
「ありがとう、気をつけるわ。次はあなたのおごりね。楽しみだわ」
「あ、あはは…」
「明日も一度支社に顔出すわ。午後には本社へ帰るけどね。時間があったらまた部署まで行くわね」
「はい。それじゃ、おやすみなさい」
「おやすみ。明日も仕事頑張ってね」
閉まった扉の前で僕は軽く手を振った。先輩も扉の向こうで手を振っていた。
ホームからゆっくりと電車が動き出し、先輩の姿が見えなくなってから僕は階段へ向かった。乗り込んだ車両の位置がいつもと違うので妙に階段までの道のりが長く感じた。

階段を目の前にすると隣のエスカレーターが目に入り、無意識のうちに足がエスカレーターへと向かっていた。イタリア料理は量が多い。かなりの満腹感があったので、僕の胃が階段を拒否したのかもしれない。そうやって運動不足になり肉になるんだと分かっているが僕の精神も胃も軟弱なので仕方がない。
普段より駅に着く時間が早いせいか、改札前はいつもより賑やかだった。待ち合わせかはたまた迎えを待っているのか、若者や中年女性の姿もちらほらある。
時計を見やると、まだ8時だった。奥様方は帰りの時間、そして若者はこれからだ、なんてところだろうか。カバンからカードケースを取り出し、改札を出た。
改札前のタクシー乗り場には数台のタクシーが客待ちをしている。一瞬、足がそちらへ向かったが、アパートまで徒歩10分。運転手に嫌な顔をされるのは目に見えているし、そこまで軟弱な自分もどうかと思う。給料日前だから財布の中身も黄信号、当然タクシー代なんて払ったら給料日まで僕はさらに質素な生活をすることになる。
「…歩いて帰ろう。食べた分少しでも消費しないと…」なんて独り言を言いながらアパートへ向かった…つもりだった。

それがこうしてアパートの手前にある公園で一人ビールを飲んでいるのだ。
「ほんと、何でこんな所でビール飲んでるんだろうなぁ…」自分でも不思議だった。もちろん黄信号だった財布は確実に赤へと変わった。さらなる質素な生活が決定だ。

何年か前の僕だったらこんな所で飲んだりしなかったのにな、と思う。理由の一つは普段あまり飲まない、ということもあるが、昔はアパートに帰るといつも彼女が来ていて夕飯を作ってくれていたから、寄り道もせず真っ直ぐアパートまで帰っていたからだ。それが当たり前の風景だった。ところが今ではこんな状態だ。
“5年前とずいぶん雰囲気が変わったし、5年前より仕事への意欲がなくなっているように見えるけど…それは私の目の錯覚?誰よりも仕事への情熱があったのに…”
先輩の言葉を思い出した。

僕が変わったと言われるようになったのは、付き合っていた彼女と別れてからだ。
自分ではそんなに変わったつもりはないのだが、どうやら人から見ると雰囲気が違うらしい。確かに彼女が居た頃は、どんなに仕事に疲れていてもどんなに辛いことがあっても、彼女の声を聞けば元気が出て癒されていたから、自然に毎日輝けていたのかもしれない。“幸せそうだな”と周りから言われることも多かった。
それが突然、こんな風に日々の仕事の疲れが顔にまで出るようになったんじゃ、誰だって雰囲気が変わったと言うだろう。もちろん自分ではそんな疲れを顔に出していないと思っているのだけど。

彼女とは高校からの付き合いでお互い離れた大学に通っていた頃も就職した時もずっと続いていた。お互い慣れない会社生活も二人で支えあって頑張っていけると思っていたが、ささいな喧嘩でその関係は壊れてしまった。年月にして6年。別れたのは…5年も前になる。

どんな喧嘩だったのか、どんな別れ方をしたのか、5年も経ったせいでそれさえもかすかにしか覚えていないが、目に涙をいっぱいためた彼女の顔ははっきりと覚えている。走り去る彼女が吐き捨てるように言った「さよならっ」という言葉を聞いた時、僕は彼女を追いかけなかった。またいつもの喧嘩の時と同じようにしばらくしたら戻ってくるだろう、そう思っていたのだ。ただの小さな喧嘩、僕はそう思っていた。
でも彼女はそのまま、帰ってくることはなかった。

どうしてその時、僕は彼女に会いに行かなかったんだろう、と思う。本当は彼女が僕を想う気持ちよりも、僕が彼女を想う気持ちの方がずっと大きかったから、別れることは僕にとって何より苦痛だったはずだ。なのに僕は彼女は戻ってくるつもりがない、と気付いた時も彼女に会いに行こうとしなかった。若い時の変なプライドが僕にはあったのかもしれない。喧嘩別れだったし、自分には非がないと思っていたから会いたいなら向こうから来ればいい、そんな風に思っていたのかもしれない。
本当は会いたいのに、無理に強がっていたあの頃の僕。もしかしたら彼女は僕が来るのを待っていたかもしれない。あとで後悔したけれど、もちろんもう遅かった。会いに行くタイミングを逃してしまっていた。

まだ彼女のことが忘れられない、そういうわけではないが、あんな別れで彼女は納得できているのだろうか、そう思う。もちろん僕も納得していない部分がある。
もう過去の話だからその時の喧嘩の内容とか、どっちが悪かったとか、そんなことを言うつもりは毛頭ない。ただ、彼女が吐き捨てるように言った「さよなら」という言葉だけで僕たちは終わってしまっている。僕は何ひとつ彼女に言葉を返していないのだ。彼女に「さよなら」も「元気で」も何一つ言っていないのだ。

彼女と別れた頃からだっただろうか。仕事にも行き詰まりを感じてきた。頑張っても頑張っても認められない毎日、頑張れば頑張るほど裏目に出たり…。この仕事が自分に適しているのか、自分は何を目指していたのか、完全に目標を見失い、僕の中の入社した時あった情熱は完全に冷え切ってしまった。
入社した頃は、与えられた仕事をこなすことで精一杯だった。上司に提出したことで、ある種の達成感を感じることができて、それは新人なりに日々の活力にもなっていた。

それが時が経ち、日々の仕事に余裕が出来てくると、今まで気にならなかった部分に疑問を抱いたり不安になってしまう気持ちが生まれるようになった。がむしゃらだった頃は未来のことなんて考える余裕もなかったのに。
彼女が居た頃は、お互いがお互いを認め合っていたから、何でも前向きに考えていた。おかげでそんな疑問や不安が大きく膨らむことはなかった。
彼女が居なくなって、自分の頑張りを認めてくれる人を失い、このまま仕事を頑張っても認められないのか、自分の道はこれでいいのか…という今まで心の隅に隠れていた思いが僕の心に大きく広がってしまった。その広がりを止めてくれる人も居ない。不安な思いは広がる一方だ。

そんな気持ちが膨らんでいた今日、先輩が本社から出張でやってきた。以前と変わらない様子で前向きに仕事をしている。その先輩と自分とのギャップに僕は苛立ちを感じた。何故先輩は認められて昇進して、僕は誰にも認めてもらえないのだろうか。先輩の活き活きとした笑顔は、僕にとって一番自信を喪失させるものだった。

「…なんて、先輩に言ったら殴られるかもな」そう呟いてビールを飲み干した。
相変わらず味のない炭酸水のように感じたが、もともと酒が強いわけではないので、1本で十分酔いがきている。それでも珍しくまだ飲みたい気持ちがあったので、もう1本袋から取り出した。そしてビールを開けようとした時、
「あなたお酒弱いんだから、あんまり飲むと悪酔いするわよ」と聞き覚えのある声がした。そう、ついさっきまで聞いていた声だ。
「…え?」顔を上げると、僕が座るブランコの前に、先ほど地下鉄で別れたはずの先輩が呆れた顔をして立っていた。
「せっ…せ、先輩っ!?な、何でここに!?」僕はびっくりして手に持っていた缶ビールを地面に転がした。一気に酔いがさめた。
「……何でって…あなたがあまりに元気なかったら心配で来てみたんじゃないの。あなたのアパートは何度かタクシーで送ってあげたからよ〜く覚えてるしね。話を聞こうと思って引き返してきたのよ」と先輩は言うと、地面に転がった缶ビールを手に取った。
「…飲みたい気分なんでしょ?悪酔いしないように私も付き合ってあげるわ。これ、もらうわね」
「えっ…あっ…」僕がわたわたしていると、
「まだその袋に入ってるんでしょ?1本くらいいいじゃない」と言いながら先輩は隣のブランコに座り、缶についた砂をハンカチで取り除いてさっさと開けてしまった。
(…相変わらず自分勝手な…まだ飲んでいいとも何とも言ってないのに…っ)
僕は心の中でぶつぶつ言いながら袋の中の最後の1本を取り出した。さっきまでのほろ酔い気分がまったくといっていいほどなくなってしまった。
今日はついてない、僕はそう思った。
「…それで?」
「……は?何がですか?」
「何って…何かあったんでしょ?私が居なくなった5年の間に。まぁ、別にいいわよ。話したくないなら話さなくても。無理矢理聞くのは私嫌いだから。でもね、あなた、本当は誰かに自分の話、聞いてほしいんでしょ?今まで聞いてくれてた彼女が居なくなって話を聞いてくれる人が居ないんじゃないの?」
「…そ、そんなこと先輩に関係ないじゃないですか。べ、別に心配してくれ、なんて頼んだ覚えもないし、話を聞いてほしいなんて言う気もありませんよ。…ほっといて下さいよ」
「可愛くないわねぇ。…ま、いいわ。とりあえずビール飲みなさいよ。飲みたいんでしょ?」先輩はそう言って缶ビールをぐいぐい飲み始めた。僕にはできない芸当だった。そんなことをしたら一気に酔いが回ってアパートまでも帰れなくなる。
僕は一口ずつ、ゆっくりと口へ運んだ。

1本飲んだところに先輩が現れて酔いがさめてしまったから、ともう1本飲んだのは間違いだった。案の定僕は頭がふらふらして、意識も朦朧としてきた。
「やっぱり2本でダメね。引き返してきてよかったわ」先輩の声が聞こえたけれど、かなり遠くで話しているようにしか聞こえなかった。
「はいはい、ブランコじゃ危ないからあそこのイスに座りましょうね。はーい立ってねー」
「な…何言って…んですか…まだ…全然…だ、大丈夫です…よ…」
「どこが大丈夫なのよ。今にも倒れそうよ。ほら、しっかりしなさいよ」先輩に腕を取られて、どうやらイスのある所まで歩かされているようだったが、歩いている感覚がない。確かにこれは相当やばいかもしれない。
「まったく、お酒に弱いところは変わってないんだから。そういうところはもう少し成長しなさいよね、入社して6年も経つんだから」
「…お〜きなお世話ですよぉ〜…」
「あら、ちゃんと聞いてたの?じゃあ昔よりは多少強くなったのかしらねぇ」という先輩の言葉を聞いた直後、僕はふわふわと身体が浮いているような感覚にとらわれ、気持ちよくなった。世界はぐるぐる回り、先輩の顔は福笑いのようになっていて、指を差して一笑いした…ような気がする。そのあたりからどうやら僕は記憶がなくなったらしい。

気が付くと、僕は自分のアパートの部屋で横になっていた。
「……あ、れ…?ここ…僕の…」起き上がろうとすると、頭がクラクラした。
「だめよ、まだ無理よ。寝てなさい」
「…え?…あ、せっ先輩っっ」寝ている僕の横に先輩が座っていた。
「意識がなくなる前にあなたの部屋まで連れてきて正解だったわ。寝られたら私じゃ運べないもの」
「すっ…すいませんっ僕…っ」
「ああ、いいから寝てなさい。まだクラクラするんでしょ?それとも水飲む?」先輩は立ち上がって、キッチンからコップを持ってきた。平社員の僕が偉い人から水をもらうとは…。本部統括室長にさせることではない。
「……ほ、ほんとにすみません……」情けないやら恥ずかしいやらで僕はうな垂れた。
「ほんとにね。…なんてね、別に気にしなくていいわよ」僕の血の気が引いた顔を面白そうに眺めながら先輩は笑って言った。
「飲めないくせに飲みたい気分みたいだったから、止めるのもな、と思ってたし。そういう時は飲みたいだけ飲めばいいのよ。でもね、弱いんだから、これからは部屋で飲みなさいね」
「…は、はい……」
「起きれる?」
「…起きます起きますっ」慌てて身体を起こし、僕は先輩からコップを受け取った。まだクラクラするけれど、公園でのふわふわした感じはだいぶなくなっていた。
「明日は確実に二日酔いね。仕事でヘマしないようにしなさいよ?そういう状態で仕事に行くと、初歩的なミスしたりするわよ」
「ごもっともです…。…あの、僕もう大丈夫なんで、時間も遅いですし、先輩はホテルに戻られた方がいいんじゃ…」
「何言ってんのよ。これで帰ったら来た意味がないじゃないの」
「…と言いますと?」
「あなたの話を聞きに来たって言ったでしょ?聞くまで帰らないわよ」
「ええっっ」
「お酒も入ってるし、そろそろ話したくなったでしょ?あなたのことだもの、しらふじゃ聞いても絶対話してくれないだろうなって思ったの。だから酔いが回るまで待ってあげたんじゃない」
「……や、やられた…」僕は過去に数回あった出来事を思い出した。僕が何かに悩んでいる時、先輩は必ずと言っていいほど食事に誘い、酒に弱い僕に半ば強引に飲ませ、ほどよく酔った頃僕から悩みの種を聞き出してしまうのだ。僕はどうやら酔わないと自分のことを話さないらしい。その性質を知っている先輩はそれを利用してこうして僕が酔っ払うまで待っていた、というわけだ。
「今頃気づいても遅いわよ」得意げな顔で先輩はにやにやっと笑った。
「…そうやって昇進してってるわけですか」
「そうそう」
「…ほんっとに先輩は変わってないですね」
「あら、ありがと。私にとっては一番嬉しい褒め言葉だわ♪」
「…褒めてるつもりはまったくないんですけど…」
「ん?何か言った?」
「いやいやいやいやいやいや…」僕はいつになったら解放されるのだろうか…違う意味で頭がくらくらしてきて意識が遠のいた。

こうなったら仕方がない、僕は先輩に帰ってもらうためにも一通り話すことにした。彼女と別れたこと、進むべき道を見失ってしまったこと。そんな風に自分のことを長く語るのは初めてかもしれない。先輩は時折頷きながら僕の話を聞いている。そうやって真剣に聞いてくれる先輩の姿は、やはり5年前と全く変わっていなかった。始めは適当に掻い摘んで話していたのだが、あの頃、先輩が僕に酒を飲ませて悩みを聞き出していた頃の気持ちがいつしか蘇り、いつの間にか自分の中に溜め込んでいた5年分の思いを口から吐き出していた。
本当はこんなにも誰かに聞いてもらいたいという気持ちがあったんだな、と僕は思った。別に強がって感情を抑えていたわけでもなかったし、誰でもいいから聞いてほしいと切に願っていたわけでもない。この気持ちは、一体どこから湧き上がってきたのだろうか。

一通り話し終えると、先輩は何度も頷き、
「ふ〜ん…なるほどね。そういうこと」と呟きながら僕の顔を見た。呆れているのか、同情してくれているのか、どっちとも取れる表情だった。先輩のことだからこれは“呆れて”いるのだろう、と僕は思った。
「…ま、誰にでもそんな時があるからね。分からないでもないわ」
「えっ?」意外な言葉だった。
「…何よ」
「…え、あ、いえ…先輩のことだから“バカじゃないの!”って言うと思ってたんで…」
「あなたの中での私ってそんな人間なの?…まぁ、中身半分くらいはそんな人間だけどさ」と言いながら先輩は苦笑した。
「だって先輩はそんな弱気なこと思ったりしないでしょう?」
「そんなことないわよ。私だってここまで来るのに何度も挫けそうになったし“もう辞めた!”って投げ出したくなったことあるわよ」
「えっっっせっ先輩がっ!?」
「…ほんと、私を何だと思ってるのよ。私だって人間なんだからね」
「だって人間っぽくないですもん…」
「あー!?」
「いえっ何でもっっ」
「…ったく。失礼なんだからっ…ほんっと可愛くないわねっそんなんだから彼女に逃げられるのよっ」
「…う……」きつい一言だった。
「あ〜もう。そんなこと言いたくてわざわざ引き返してきたんじゃないわよ。話を端折るんじゃないの」
「すみません…」酔っ払った僕をアパートまで連れてきてくれたことも思い出し、僕は平に謝った。

「…誰だって今を見失うことだってあるわよ。恋人と別れることだって誰にでもあるでしょ?」
「…そうですけど…」
「だからあなたの気持ちも分からないでもないわよ。私にだって恋人との切ない別れもあったわ。その時はさすがの私も落ち込んだわよ」
「…はぁ…」
「でもね?要はそこからどうやって立ち直るかよ。あなたは立ち直ろうとしていないだけ。違う?」
「…確かに今の僕は立ち直ろうとしてないです。それは認めますよ。でもだからといって立ち直れるような転機がないんじゃ無理なんですよ」
「転機がないなら作ればいいじゃない」
「…転機を作る…?」
「そ、自分自身で作ればいいのよ。転機がいい具合に来る人なんてごくまれよ。そんなの待ってたらあなたおじさんになっちゃうわよ。何でも自分で切り開かなきゃ」
「今の僕には過去を振り返ることしかできないんですよ。切り開く元気もないです」
「…じゃあ今のままでいいの?」
「え?」
「このまま、ズルズルと過去を引き摺って、現在(いま)から目をそらしてこの先、生きていくわけ?そんなつまらない人生を送るつもりなの?」
「……」
「…それもいやなんでしょ?でも今は前に進めない。…ちょうど人生の壁にぶち当たってるところね。…若い証拠ね。懐かしいわねぇ…」先輩はしみじみと何かを思い出すように頷いた。

「何が懐かしいんですか?」
「自分の若い頃を思い出すのよ。私も会社に入って…4年目だったかな、あの時は果てしなく高い壁にぶち当たったような感覚だったわ。本当は頑張れば登れる何てことのない壁だったんだけどね」
「…先輩の壁って何だったんですか?」
「当然、女って壁よ」
「…女?それのどこが壁なんですか?」怪訝な顔で僕は尋ねた。
「今の時代、女がバリバリ仕事をするのはいたって普通になってきたけど、私が就職した頃は、女は家庭に入るのが当然だっていう時代だったのよ。だから、四大出て就職した私は、周りの男どもに煙たがられてたのよ」
「そ、そうなんですか?」
「そうよ。今はキャリアウーマンっていわれて格好いい女ってイメージがついたけど、昔はそんな格好いいイメージなんてなかったんだから。どっちかというと変わり者って感じかしらね。結婚もしないで仕事なんかして、そんな風に言われてたのよ」
「…へぇ…」
「まだ新人の時とか若いうちはいいわよ。結婚までの繋ぎ程度で働いてる女が多かったから、私もその一人として見られていたわけ。だけど、私は一向に辞めないし、男に負けじと仕事をする。“何だこの女は”って言われるわけよ。男たちとしては辞めさせたいのね。邪魔なのよ。だから頑張ろうとすると邪魔したり、わざと仕事を回さなかったり。時には一日仕事を与えられなかった時もあったわ。お茶でも入れてろって言われたこともあるしね。その時はさすがにダメージ大きかったわよ。このまま働いていても何も得るものもないんじゃないかってものすごく悩んだわ。その時つき合ってた男にもね、“結婚したら仕事は辞めてくれ”って言われてたのよ。あの時は本気で仕事を辞めることが正しいんじゃないかって思ったわ」
「……」

「でもね、その時…たった一人だけ私を応援してくれた人が居たの。違う部署から異動してきた人だったんだけど、私の部長にあたる人。つまりあなたと私のような関係ね」
「その人は先輩に何て?」
「“女だからって諦めたら君の今までの頑張りはどうなる”“君にとっての仕事は何なんだ。他の女性たちと同じように結婚までの繋ぎだったのか”そう言われたの。結構グサッときたわよ、私には。絶対に結婚までの繋ぎだと思われたくない、そういう気持ちが常にあったから。だけど、壁にぶち当たって自分の信念みたいなものをすっかり忘れてしまっていたのね。就職した頃の情熱が薄れて自分を見失って…気が付いたら行くつもりだった道から外れて迷子になってた。どっちが前か後ろか分からないほど、真っ暗な闇の中に立っているような、そんな気分だったわ。“君進むべき道はどこだ?”そう部長に聞かれて、希望に満ちていた新人の頃の思いを思い出したけど、それが本当に自分が進むべき道なのかどうか、それすらも分からなくなってた。ほんと、今のあなたのような状態だったのよ」

「…先輩にもそんな時が…」僕は信じられなかった。いつも自分に自信があって輝いている先輩が、自分と同じように悩み苦しんだことがあるなんて。先輩にはそんな気持ち、無縁なものだと思っていた。
「誰にだってあると思うわ。特にそうね…仕事に慣れてきた頃かな。新人の頃ってさ、毎日の仕事をするのが精一杯で、他の事なんて気にならなかったでしょ?それが仕事に慣れてきて、周りが見えてきて、ふと“これでいいのか?”なんて思う。ベテランになっていくほど仕事が進化すればまだそんな思いは小さくて済むけど、仕事の内容が変わらなくてただ勤続年数が増えていくだけ、そういう時に考えてしまうことなのよね。あなたも就職して6年でしょ?まさにそういう状態になってるんじゃないかな」
「…たぶん、その通りです。後輩もできて先輩と呼ばれるようになって、仕事もそれなりにこなせてきましたけど、毎日同じことの繰り返しで、自分の成長が目に見えてこないというか、頑張りが認めてもらえないというか…」
「自分自身が前に進んでいるのかどうなのか、分からない状態ね。今、自分はどこに居て、どうすればいいんだ、みたいな」
「はい…」
「どうすれば解決できると思う?」
「え?」
「自分で考えてごらんなさいよ。どうすれば自分の現在地を知ることができるか」
「…自分の現在地……」
「そう。一度自分の周りを確かめてみるといいわ。同期を見てもいいし、後輩や先輩を見てみるのもいい。そうするとね、自分が進んでいるのか後退してるのか、結構目に見えて分かるものよ。…ね、何か飲み物もらっていい?」
「あ、はい。冷蔵庫に何か入ってると…」僕が立ち上がろうとすると先輩はそれを制し、
「いいわ。取ってくるから」と言いキッチンの冷蔵庫を開けた。
「…う〜んと、あ、このアミノ酸飲料もらうわね。私好きなのよ」
「あ、ええ、どうぞ」

先輩はニコニコしながら戻ってきて、また僕の横に座った。
「何で笑ってるんですか?」
「え?だって…あなたもそんな風に考える年頃になったんだなぁと思って。壁にぶち当たることってね、悪いことじゃないのよ。むしろいい事だわ。きちんと自分の道を確かめたいと過去や未来を考えてる。最近の子はそんな事も考えずに、ただ言われた事だけをやってるって事が多いからね」
「…それで、先輩はそうやって自分の位置を確認できたんですか?」
「うん、だいたいね。そうやって自分の位置を確認するとね、意外と前に進んでいないものなのよ。あるいは後退してることもあるわ。学生から社会人になった時って色んな意味ですごいギャップだったでしょ?そのギャップの大きさで自分の頑張りが目に見えるものなのよ。あなたもそうだったんじゃない?私が居た頃、ずいぶん頑張ってたもの。たぶんその時、自分の中で自分の頑張りが見えて、余計に頑張れたんじゃないかな。…それが、毎日変化のない同じような日々が続いて仕事もあんまり変化しなくて、仕事に慣れれば時間だって余ってくる。新人の頃と仕事への意識が変わるのは当然のことだわ。こんな仕事簡単にできる、もっと内容の濃い仕事がしたい、もっと自分を認めてほしい、そういう思いが徐々に強くなっていく。だけど周りは自分を認めてくれなくて、仕事の内容も変わらなくて仕事への意欲が失せて
いく…そんな感じ?」
「…まさにそんな感じですよ。先輩にこんな気持ちを分かってもらえるなんて思いも寄りませんでしたよ」
「あはは、意外だった?」
「意外すぎです」
「誰だってそんなもんよ。強い人間なんていないんだから。人生の壁に当たって挫折して…そうやってみんな強くなっていくの。だからあなたもここから、強くならなきゃ。今があなたの人生の分岐点よ。この先を決めるのはあなた自身。諦めることは簡単だわ。現在(いま)から逃げれば済むことだもの。そこで逃げないで現在(いま)を見つめて、未来に進む勇気を持たなきゃ。あなたなら乗り越えられると思うわ。私の後輩ですもの」先輩はそう言ってにっこり笑った。

「そんな…買いかぶりすぎですよ」僕は首を振って俯いた。この状態を乗り越えられるなんて、僕にはそんな勇気はない。
「私ね、見込みのない人にアドバイスしたり、こんな風に自分のこと話したりしないわよ。20年以上仕事してきたから、人を見る目はかなりあると思ってるわ。あなたなら、きっと大丈夫」先輩の顔は、何故だか自信に満ちていた。どうしてそこまで言い切れるのか不思議で仕方なかった。こんなにも自分を見失っている僕に対して、きっと大丈夫だなんて言葉が何故出てくるのだろうか。

「そうね、まずは自信を取り戻すために過去をもう一度振り返ってみるのね。あと…5年前に別れた彼女のこともきちんと納得しないとね。そうすればこれからすべきことが見えてくると思うわ」
「へ?彼女のこともですか?」
「そうよ。あなたが自分を見失った一番の原因はその彼女と別れたからでしょ?彼女と別れたから自信を失ったわけじゃない。違う?」
「ま、まぁ…そう…ですけど…。でもいまさら納得しろって言っても終わっちゃってる話ですよ?」
「何言ってるの。あなたの中では終わってないんでしょ?だから納得できてないんじゃない」
「…いや、納得できてはいないですけど、終わってない…とはさすがに…」
「納得できてなかったら終わってないのと同じよ。彼女を想う気持ちはさすがにないにしても、その時のお互いの気持ちをもう一度考えることはできるでしょ?それにその時の彼女があなたと同じように納得できていなくて、ずっと心の中にその気持ちをわだかまりとして持ち続けていたら、二人とも前になんて進めないじゃない。きっとお互い、伝えていない言葉がまだあるんじゃないの?」先輩の言葉を聞いて、確かにそれはある、と僕は思った。伝えていない言葉、言えていない言葉。僕からの“さよなら”をあの時言えていない。他にも会って話せるなら言いたいことはいくつもある。
これが僕の中にある、納得できていない理由なのだろうか。

少し考え込んだ僕を見て、先輩はまたにっこりと笑った。
「ほら、考えればあるでしょ?」
「…え、ええ。まぁ…」何と答えていいのか分からず、とりあえず曖昧な返事をした。
「…いいのよ、たまにはじっくり過去を振り返っても。過去は振り返るためにあるものなんだから」
「…先輩、くさいですよ」
「何よ、いいこと言ったでしょ?」
「あはは、まぁ、確かに。…でも」
「でも?」
「昔の恋人のこととか、過去を思い出すのって…僕は女々しいんじゃないかと思うんですよ」
「女々しい?そう?」
「先輩はそうは思わないですか?」
「う〜ん…女々しい…かなぁ。そりゃ、片想いとかで“ずっと好きなのに…”とか言ってる男は女々しいと思うわよ。それも場合によるけどさ。でも、誰だって昔の恋人や過去を思い出すことってあると思うのよね。あの時は幸せだったな、とかあの時は散々だったとか。良い悪いは別にして、過去って忘れたくても忘れられないじゃない?生涯の汚点、なんて過去もあるかもしれないけど、でもその過去があったおかげで今があるっていう場合もあるでしょ?“過去を捨てた”とか言ってる人も居るけど、結局は過去から逃げられるはずがないのよ。過去なんて死ぬまで付いてまわるものだから、上手く付き合っていけば自分のプラスになると思うの。だから女々しいとか、そんなことないと思うわ。前向きに生きることも大切だけど、時には振り返って自分の道を確かめなきゃもしかしたら道を逸れてるかもしれないし。それは前だけ向いてたら気づかないことだしね。自分の人生を生き抜くためにも、振り返る必要があるんじゃないかしらね」
確かにそうだな、と僕は思う。実際、今自分が居る位置も分からなくなっている僕にとって、過去は今を知る材料になる。過去がなければ後悔や反省もできない。先輩に言われて気づくほど、僕は周りが見えていないようだ。昔はそんなことなかったのに、そう思いながら先輩の話に聞き入っていた。

「どう?もう全部吐き出した?」先輩がペットボトルの清涼飲料水を飲み干し、僕に尋ねた。ずっと話し込んでいたので、二人とも少々声が枯れた。
「次に支社に来るのはいつか分からないから、言うなら今のうちよ。聞きたいことも今のうち」そう言われて先輩がものすごい重役だったことを思い出した。
「じゃあこれから先聞けないかもしれないので聞いていいですか?」
「ん、いいわよ。なに?」
「……結婚しないんですか?」先輩の眉がピクピクと二回動いた。
「……いまさら結婚できると思う?」そう尋ねる先輩の顔は、少々ムッとしていた。
「え、まだ大丈夫でしょう。…といっても僕先輩の歳知りませんけど…」
「……知らなくていいわ。とにかくもう無理よ。っていうより、もう結婚しなくても大丈夫って感じかな。今の生活に満足してるからね」
「地位も安定してますしね」
「あら、何言ってるの。私の地位なんて一番安定してないわよ」意外な言葉に僕はびっくりした。本部統括室長なんて役職まで付いているのに、安定していないなんて僕は聞き間違えただろうか。
「いや、安定してるでしょう?揺ぎ無い地位じゃないですか」
「ばかねぇ、これでも苦労してるのよ。トップと折り合いが悪ければ落とされるし、難しいんだから維持するの」
「そ、そんなものなんですか…」
「そうよ。上にも派閥があってね。会長派、社長派、副社長派の人間が居るわけよ。いつ落とされるかっていう闘いが日々繰り返されてるんだから」
「は、はぁ〜…すごそうですね。先輩は何派なんですか?」
「私?…本当は何派でもないんだけど、今は共感できる副社長についてるわ。あなたたちのような社員のこともしっかり考えてる人なのよ。自分のことより会社や社員のことを考えて今の社方針を変えようとしてる人」
「確か…まだ若い方でしたよね?40代…前半の…」
「そう。うちの会社では異例の若副社長ね。とある会社から引き抜かれてうちに来た人なのよ。だからその人が社長になるのにはなかなか壁が多くてね。今、それを少しずつ壊してるところよ」
「壊す…ですか?どうやって?」
「……会長や社長についてる重役たちを副社長につけようと思ってね、重役たちを説得中なの。これがなかなか大変で。古い考えのじじいばっかりだからなかなかウンって言わないのよねぇ…たぶんこっち側につけるのは無理なんだけどね」
「じ、じじい…ですか…」お偉いさんをじじいと呼ぶ先輩は、やっぱりすごいと僕は思った。僕にはとても言えない。

「そ、じじい。まぁ、でもあと1,2年くらいしたら、社長は変わるだろうし社長側についていた重役たちの居場所はなくなって追い出せるから、それまでは今の社方針で我慢してね。何とか変えてみせるから」
「えっ重役達を追い出すんですか!?」
「そうよ。私がここまで昇ってきたのは、じじい達を追い出すためよ。あんなじじい達のやり方じゃ、この先この会社は生き残れないわ。今の時代も昔のやり方で乗り切ろうとしてる。それじゃ無理だって言ってるのに方針を変える気もない。だから副社長と会社を変えようって今争ってるのよ。社員の給料体系もそうよ。年功序列なんてばかばかしい制度じゃ若い社員はやってられないでしょ?いくら頑張っても給料に反映されないなんておかしいもの。頑張った社員にはそれだけの給料を支払うべきなのよ。仕事を適当にやってる人間にはそれ相応の給料を支払う、そうじゃなきゃ頑張ってる社員はたまらないじゃない?仕事をまともしていない主任がよ?位が主任だからって頑張って働いている若い社員より給料がいいなんて、冗談じゃないわよ。あんたのその給料はその若い社員がもらうべきお金よっ」先輩は声を張り上げ、手に持ったままの空のペットボトルを勢いよく潰した。
「せ、先輩…っ落ち着いて下さいよっちょっとヒートアップしすぎですよっっも、もう夜遅いんですからっ」先輩は熱くなると声が大きくなる。
そんなところも相変わらずだった。

「あ…、ごめん。最近重役たちとやりあってるからこの話題になるとつい…」
「熱くなるのも分かりますけど…でもあんまり無茶しないで下さいよ。重役たちから何か仕組まれて落とされちゃいますよ?」
「大丈夫よ。一応私にも他の重役たちに引けをとらない人がバックに付いてるから。そう簡単には落とせないわ」
「は、はぁ…何かすごい世界ですね…僕たちには無縁な話だなぁ…」
「何言ってるの。あなたたちのような若い社員が頑張ってこそ、副社長と私の社内改革につながるんだから。ちゃんと仕事頑張りなさいよ。私たちは若い有望な社員のために闘ってるんだからね」
「…先輩…」
僕はものすごい誤解をしていた。先輩には努力という言葉は無縁だと思っていた。将来有望と周りから言われ、本社に異動した時から、今まで何も問題なく順調に昇進してきたのだと、ずっと思っていた。部長だったあの頃と同じように、いやそれ以上に僕たち若い社員のことを考えて日々奮闘しているのに、色んな壁を乗り越えて今の地位を手に入れたのに、僕は大きな誤解をしていたのだ。先輩は僕たちより誰よりも、この会社を思い、会社を変えようと日々頑張っていた。どうして先輩は順調に昇進して僕は誰にも認めてもらえないのか、なんて思った自分が情けなかった。

「じゃ、そろそろ帰るわ。地下鉄があるうちに帰らなきゃね」先輩はポンと僕の肩を叩き、立ち上がった。
「…どうやら、見つめ直すべき部分が少し、解かってきたみたいだし?」遅れて立ち上がった僕の顔を見上げ、先輩はあの頃と同じ笑顔を見せた。
「…はい…。先輩のおかげで、今の自分を買いかぶってたところとか、色々見つけました。こんな自分が上司に認められるわけないですよね、ほんと、情けないです…」
「情けない、なんてことはないわ。さっきも言ったけど、自分を見失うことは誰にだってあるわ。自信をなくすこともある。それを自分自身で理解した上で、本当に進むべき道を自分で見つければいいのよ。今目の前にある壁を乗り越えれば、おのずと進むべき道が見えてくるはずよ。…もちろん、別れた彼女のこともね」狭い玄関で靴を履き、先輩は振り返って僕を見た。
「はい…」僕は素直に頷いていた。
「…そうね、次に支社に来た時は、5年前のように輝いてるあなたに会いたいわね。また、昔みたいに私に夢を語ってよ。楽しみにしてるから」
「また酒なんて飲ませないで下さいよ?」
「さぁ、それはどうかしらねぇ…」
「怖いなぁ…」苦笑しつつ、先輩と共に外へ出ようとしたが、
「あ、あなたは出なくていいわよ。階段から落ちても困るから」と言われ、出るに出られなくなった。
「ここでいいから。一駅向こうなんだから心配ないわよ。それにこんなおばちゃん襲う人も居ないし」と先輩はにこやかに笑ったが、そんなおばちゃんにはとても見えなかった。母親でもおかしくない歳なのだがそんな上にはとても見えない。輝いている女性は、いくつになっても綺麗なんだと世間の見た目だけを着飾ってる人たちに教えてやりたくなる。
「それじゃ、二日酔いに負けないで明日も仕事頑張りなさいね」
「はい、頑張ります」
「じゃ、おやすみ」軽く手を上げ、先輩は階段を降りていった。靴音が遠ざかると辺りはシンと静まり返り、ふと寒さを感じた。吐く息もかすかに白く見える。こんなにも外は冷えていたんだな、とそこでようやく気がついた。

玄関の鍵を閉め部屋に戻ると、部屋も結構冷えていて驚いた。先輩は何も言わなかったけれど大丈夫だったのだろうかと思ったが、きっと重役の話になって熱くなっていたから、寒さなんて気にもならなかったのだろう。

さっきより寒さを感じて、僕は温かいものが飲みたくなった。
棚からコーヒーの瓶を取り出し、カップに適当に流し入れた。ポットのお湯を注ぐと、それまで冷えていたカップを持つ手が温かなる。といってもしばらくすると熱くて持てなくなるのだが。そうなる前にカップをテーブルに置き、砂糖とクリームを入れた。ブラックでは飲めないたちなので、同僚からはよく馬鹿にされている。

何故だか外が見たくなって部屋にあるたった一つの窓の前に立った。
いつも閉めたままのカーテンを開けると、きれいな月が夜空に光っていた。こんな風に月を見るなんて、いつぶりだろうか。今夜は三日月だった。
人は当たり前にあるものにはいつしか見向きもしなくなるようだ。僕もいつの間にかこんな風に当たり前にあるものの方がなによりきれいだということを、忘れてしまっていたようだった。望遠鏡を買うほど、天体観測が好きだった僕なのに。あの望遠鏡はどこへいったのか、実家の物置か…それすらも忘れている自分にそれくらい覚えてろよ、と言いたくなる。

部屋のホットカーペットをONにして、窓の前で腰を下ろした。カップに息を吹きかけ、そっと口にする。部屋中に広がっているコーヒーの香りが口の中にもふわっと広がる。喉から胸の辺りがホッと温かくなった。
不思議と眠気もない。時計は0時を回っているのに、何故か寝なくては、という気持ちもなかった。明日も仕事だというのに、どうしたことか。

最近はずっと、考え込みたくないからと仕事から帰ると風呂も軽くシャワーで済ませて早々と布団に入っていた。仕事の疲れもあるからすぐに寝つき、朝までまるで死んだように寝ていたのだ。そんな自分がこうして深夜にコーヒーを飲むなんて有り得なかった。
今日までの気持ちを先輩に全部吐き出したからか、頭の中は空っぽになっているような気がした。自分の中に溜め込んでいた思いは、予想以上に僕の頭の中を占めていたようだ。
“いいのよ、たまにはじっくり過去を振り返っても。過去は振り返るためにあるものなんだから”
先輩の言葉がまるで催眠術のように頭の中を巡った。
そう、いいんだよ。たまには過去を振り返っても。
僕はそっと目を閉じた。


結局一睡もしないまま、僕は朝を迎えていた。朝、といってもまだ5時だから外は暗い。
寝ていないのに何故だか清々しい気持ちだった。二日酔いによる頭痛もないようだ。寝なかったのがよかったのだろうか。
とりあえずシャワーを浴び、部屋着にしているウェアに着替えた。
「…さてと…出勤までどうするかな…」そう呟いて部屋を見回したが、暇つぶしができるような物は何もない。出勤までまだ軽く3時間はある。女みたく時間のかかる身支度があるわけでもないから、スーツに着替えてヒゲでも剃れば出掛けられる。
「…そうだ。たまには川の堤防でも散歩するか…」何年ぶりか、とても健康的な時間潰しの方法を思いついていた。上着を羽織り、念のため携帯電話と財布をズボンのポケットに突っ込み、部屋を出た。

外は少しずつ白み始めていた。朝の澄んだ空気がとても心地よい。
自然と深呼吸したくなり大きく息を吸い込んだ。見上げた空はうす雲に覆われているようだった。確か今日は晴れの予報だ。そのうち雲ははれるのだろう。

アパートの階段を降りると、新聞配達の若者が走ってきた。こんなに朝早くから配っているんだなぁ、と感心していると、彼は僕を見つけ、
「おはようございます!」と挨拶をして会釈までしてくれた。今どきの茶髪で眉毛も女のようにきれいに整えている若者だったが、頬は紅潮し額には汗が光っていてとても純粋で眩しく見えた。
「おはよう、朝早くからご苦労様。頑張れ」僕が笑顔でそう返すと、
「はい!ありがとうございます!」と答え、にっこり笑って通り過ぎていった。
こんな風に声を掛け合うことが、こんなにも気持ちがいいものだとは思わなかった。僕は自然と“頑張れ”という言葉を掛けていた。他人に頑張れなんて、以前の僕は言っていただろうか。

その後も朝の散歩をしている老夫婦とすれ違うたびに、僕は挨拶を交わした。結構早くから散歩をしているんだなぁ、と新たな発見だった。
川が近くなるほど、その数は増えてくる。犬を連れている人、一人で歩いている人、走っている人、夫婦で仲良く歩いている人。日々同じ電車に乗って仕事をして真っ直ぐアパートに帰っている人間には、そんな何の変わり映えのない風景さえも新鮮で珍しく見える。
堤防へ上がるゆるやかな坂を上り、ものすごく久しぶりに緑と川のせせらぎを目にした。
「あれ…こんなに…この川ってきれいだったっけ?」川の水がきれい、とか景観がきれいなどと言えるようなそんな大層な川でもないのに、何故かとてもきれいに見えた。来てよかった、僕はそう思った。
「少し、歩いてみるか。まだまだ時間はあるし」携帯電話をポケットから取り出して時間を確認すると、ようやく5時半を回ったところだった。
「最近運動不足気味だから、ゆっくり歩いた方がいいよな」2、3回屈伸をして、僕は歩き始めた。

昨夜先輩が帰ったあと、5年前に別れた彼女のことを思い出していた。
溜めていた思いを全部出して頭が空っぽになったせいか、忘れていた小さなことも思い出すことができた。
別れた原因となった喧嘩は、やっぱりとても些細なことだった。今思えばくだらない、馬鹿げたことが原因だった。どちらも謝ろうとせず意地の張り合いでとうとうそのまま…。僕が折れて謝れば済むことだったのに。こんなに時間(とき)が経ってしまってから気づく僕は情けないけれど、あの頃僕は彼女に頼りすぎていた。就職して生活ががらりと変わったせいで何かとストレスがたまり、毎日のように愚痴をこぼしていた。彼女だって同じようにストレスがたまっていたと思う。けれど僕は自分のことで精一杯で、自分の愚痴を聞いてもらい、彼女に励ましてもらうだけで満足していた。もしかしたら、いやきっと彼女も僕に仕事の事を聞いてほしかったはずだ。よく考えてみれば彼女の口から愚痴なんて数回しか聞いたことがないのだ。それだけ僕は、彼女を思いやることすら考える余裕もなくなっていた。別れた原因は些細な喧嘩だったが、その時にはすでに彼女は限界に近いほどのストレスを抱えていたのかもしれない。その思いに気づかなかった僕にすべての責任があったのだと思う。

あの頃、僕にとって彼女がすべてだった。彼女が居なければ、僕は仕事も頑張れなかった。喧嘩した次の日は、仕事が手に付かないこともよくあった。そんな時はよく先輩に叩かれていたけれど。
まだ若かったあの頃は、愛するという意味を履き違えていたのかもしれない。彼女に甘えることが、愛情表現だと思っていた。あまり甘えない彼女は、自分と違って強いんだと勝手に思い込んでいた。本当は、僕よりも弱くて誰よりも包んであげなければいけない存在だったのに。「さよなら」と言った彼女の目は、別れを望むものではなく、僕を求めて見つめていたのに。
傍に居ることが当たり前になり、その存在に甘えた自分。付き合いが長くなるにつれ、支えあったりお互いを想う気持ちがいつしか薄れていったのだろう。傍に居て当たり前の存在があるなんて、どうして思えたのだろうか。彼女が傍に居る、ということが永遠に続くものだと何故思ったのだろうか。

仕事もそうだ。上司に認めてもらえないのは当たり前だった。僕はただ、自分は頑張っていると勝手に思い込んでいただけ。同期で僕より先に出世したやつは、やっぱり僕よりも頑張っていたし、僕に並んだ後輩も僕とは比べ物にならないくらい頑張っている。それなのに僕は与えられた仕事だけをこなし、それだけで認めてもらおうとしていたのだ。与えられた仕事は出来て当たり前なのに。
“一度自分の周りを確かめてみるといいわ。同期を見てもいいし、後輩や先輩を見てみるのもいい。そうするとね、自分が進んでいるのか後退してるのか、結構目に見えて分かるものよ”

結構どころではないくらい僕は分かった。僕はとんでもないくらい進んでいなかった。先輩が本社へ異動し、彼女と別れた時から、僕は一歩も前に進んでいなかったのだ。それで認めてもらおうと思っていた自分にものすごく腹が立った。会社を首にならなかっだけでも僕は幸せなのだ。

結局、僕は自分自身で壁を作り上げていただけだった。本当は僕の前に立ちはだかる壁なんて、何一つなかったのだ。自分で壁を作り、越えられないんだと思い込んでいた。すべてを理解した今、何て自分は馬鹿なんだと本当に心の底から思う。
先輩は、僕が自分自身で壁を作っていたことをきっと分かっていたんだろう。分かっていたのに、あえて僕に考えてみるように言ったのだと思う。
本当は、“馬鹿じゃないの!”と言いたかったのかもしれない。

先輩の本当の優しさに気づいた時、フランス料理のフルコースじゃ全然足らないと僕は思った。海外旅行くらい手配すべきじゃないかと思ったほどだ。それくらい、僕は先輩に感謝したい気持ちでいっぱいになった。
感謝の気持ちと同じくらい、やはり先輩はすごい人だと改めて思った。
自分もトップ争いに巻き込まれて(というより自分から争いに加わっているのだが)他人の事を気にしている場合じゃないのに、昔の職場の部下の心配までして、しかも家へ来て夜中まで話を聞いてくれたのだ。
そんな簡単にできることじゃない。

こんなにも自分を見失っていた僕に、“きっとあなたなら大丈夫”だと言ってくれた先輩の目は、5年前と何も変わっていなかった。5年前の輝いていた頃の僕と同じように、今の僕にも失望ではなく希望の言葉をかけてくれた。
―僕はこのままでは終われない―
そう思わずにはいられなかった。僕たち若い社員のために会社を変えようと頑張っている先輩のためにも、僕は負けられない。先輩の期待に応えたい。そう、あの頃の…輝いていたあの頃の僕の思いが、空っぽになった僕の心に蘇っていた。

ふと水面に目をやると、キラキラと輝いていた。日の出だ。雲の切れ目から朝陽がゆっくりと顔を出していた。朝陽の光を浴びて、雲も消え入るような眩しさに満ちている。足元の草を見れば、朝陽の輝きを体いっぱいに浴びようと葉を広げているように見えた。
僕の未熟な心も、あの朝陽のように輝けるだろうか。あの頃のように、また夢を追いかけられるだろうか。

未来を思う気持ちは期待より不安の方が何倍も大きい。もしかしたら輝くことができないかもしれない。また夢に躓いたり大切な人を失ってしまうかもしれない、そういう気持ちはこの先も消えることはないだろう。
でも、僕はもう後悔はしたくなかった。自分を見失い立ち止まるより、一歩ずつでもいい、先へ…未来へ歩いて行きたい。
時には立ち止まることもあるだろう。また自分を見失い目の前に壁ができることもあるかもしれない。
でも、そんなものに負けたくない。
僕は自分の未来は自分で作っていきたい。そして二度と大切な人を失いたくない。

いつしか雲ははれ、青い空が広がっていた。陰りのない、あの頃の僕の心のように澄んだ空だ。
愛しい人を想う気持ち、そして夢を追いかける気持ち…純粋だったあの頃の心。
僕はもう一度この空のようになりたい。雲ひとつない、無限に広がる青い空のように。
そしてもう一度あの頃の夢を追いかけていきたい…
いつまでも…いつまでも…。


アパートに戻った僕に、偶然とは言い難い物が届いていた。昨日見忘れた郵便受けに一通の葉書。
まるでその葉書は僕の想いを知っているかのようだった。
朝の眩い光に包まれた葉書は僕を優しく包んでくれた。僕の想いも一緒に…。


君が僕と同じようにあの頃のことを想っているなんて、都合のいいことは思わない。
僕のことなんてすっかり忘れてしまっているかもしれない、正直その気持ちの方が僕の中では大きい。
でも、あの日言えなかった君への「さよなら」、そして伝えたかった言葉たち。
今なら君に言える気がするんだ。
君は“今さら”と思うだろうね。
君のあの時の気持ちを分かったのが別れてから5年後だなんて、本当に“今さら”だよね。
でも流した涙がもう乾いていたとしても、君が悲しい涙を流した過去は消えない。消せないんだ。
だから…今さらだけど、できることならあの日君が流した涙を未来への微笑みにかえたい。
これから未来へ歩いていく君に、あの時のわだかまりが足かせになってほしくないから。

だから…君に逢いたい。
あの日で立ち止まっている僕たちの心を解き放てるのなら
もう一度…君に逢いたい。
あの頃の君の笑顔に…
もう一度…

君に逢いたい。





Fin


*********あとがき*********************

メンバーも出てこない、こんな長い話を読んでいただきまして、ありがとうございます。

最初はメンバーの誰かをあてはめて…と思っていたのですが、頭に浮かんだのはサラリーマン。メンバーがサラリーマン……似合わない…(汗)ということで、普通の人を主人公に書いてみました。曲のイメージを壊していないといいのですが(^^;)

最後に届いた一通の手紙…分かっていただけましたか?このイラストがないと何が届いたのか分からないので、今回はイメージイラストではなく、こちらに置かせていただきました。

賢狂はOLをしてますが、この主人公のように仕事でこれでいいのかと悩んだことがありました。入社3年目あたりでしょうか。私はこんなことをする為に就職したの?とかここに居る意味があるの?なんて毎日のように自分に問いかけてみたり…。

実はそんな時、アルフィーに出会ったんです。今の私があるのは、アルフィーのおかげなんです♪何事も後ろ向きな私を前向きにさせてくれたアルフィー。私という人間を認めてくれたのはアルフィーだったのです。

そんな人生の転機ともいうべき出来事を、違う形でお話にしてみたのがこの物語です。

きっと誰の心にも何かに対しての”不安”を隠し持っていると思います。
そんな心の声に気づいてくれる人に出会ってほしい、そんな願いを込めて書いてみました。

みなさんにとってのその人が、私のようにアルフィーだったらいいな、なんて思っております(*^^*)

2004.7.15


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