「まだ見ぬ君への愛の詩」




コンコンコンコン……

僕は肘をつき、右手の人差し指をテーブルに突きながら考え込んだ。
目の前に開いているノートパソコンの新規メール作成画面は真っ白なままだ。テーブルの中央に置かれたコーヒーのコップを手に取る。
すっかり冷めたコーヒーは微妙な温度のものになっていた。確か、30分以上前に置かれたコーヒーだ。全然美味しくない。

コンコンコンコン…

「…高見沢、うるさいよ」坂崎がギターを弾く手を止め、僕を見やりながら言う。膝の上にいつものギターを置き、ちょっと口を尖らせて上目遣いで僕を見ている。おまえは女か、さとう玉緒じゃあるまいしと心の中で思う。本当にこいつは僕と同い年なのかと思うと不思議で仕方がない。まぁ、そんな僕も年相応に見られることは、ほとんどないけれど。
「何考え込んでんの?新曲?」
「いや、そうじゃないんだけど…まぁ、ちょっとな…」返答に詰まった。
新曲を書くより、悩んでいる自分に少々驚いた。確かに曲はインスピレーションでメロディも浮かぶし歌詞も浮かぶ。依頼されたドラマとかタイアップのイメージに合わせて作るのは結構簡単だ。それを最高の状態でレコーディングするのが難しいだけのこと。そりゃ、たまにはスランプになることもあるけど。

「ちょっとな…って何だよ、気になるじゃん」部屋の窓際でタバコを味わっていた桜井が、僕の隣に座る。目の前にある灰皿でタバコの火をもみ消し、僕の飲みかけのコーヒーを手に取った。
「あ、それ…」僕が言う前に桜井はすっかり美味しくなくなったコーヒーを口に含んでいた。
「…ん、なんだよこれ。冷めてんじゃん」マズッと顔をしかめてコップを置いた。相変わらず立派な眉間のしわだ。マジックで描いてあるのかと思ってしまう。
「今言おうと思ったんだよ。もう30分も前に置かれたやつだから冷めてるって」
「早く言えよなぁ。…で?」
「…で、って何が?」
「だから、何考え込んでるのかって話。新曲じゃないってことは、レギュラー番組のこととか?それとも悩みでもあるのか?なさそうに見えるけど」
「俺にだって悩みの一つや二つあるさ!」
「例えば?…いつになったら遅刻が直るのか、とかどうやったらステージでイリュージョン(※)せずにすむか、とか?」 
(※)この場合ステージから落ちたりして突然消えることを指します

「違う!そんなの悩みに入らないよ!」僕の台詞を聞いて、坂崎がクスクス笑っている。坂崎は僕と桜井のやりとりを見るのが楽しいと言う。特に僕が桜井にからかわれている時が面白いみたいだ。
いつもは僕が桜井をからかうから、たまにしか見られないっていうのが理由らしい。
「じゃあなんだよ、悩みって?」
「…あのなぁ、悩みっていうのは、そんなに簡単に人に話せるものじゃないだろ?桜井に言って解決するわけでもないんだから」
「ま、確かにそうだけど」
「それに今考え込んでたのは、別に悩みがあるとかそんなことじゃないって」
「じゃあ何?」興味深々で二人が同時に尋ねる。こういう時は何故か声が揃う。長年一緒に居るから自然とタイミングが同じになるんだろうけど、まるで一卵性の双子みたいな揃い方だ。見た目は双子には程遠いけれど。
「二人に言うような話じゃないよ。そんなに気にしなくていいって。」
「…ということは女かな」ニヤッと笑い坂崎の眼鏡が光り、
「それしかないだろ」と桜井は頷く。これだから付き合いが長いやつらは困る。
「なに、ふられた?それともラブレターでも書こうとしてた?」確かにこれはラブレターになるのかもしれない、と心の中で思った。でも二人の顔を見やってとりあえず、
「どっちもハズレ」と答えた。正確に言えば、ラブレターではない…と思う。
「なんだよ〜気になるなぁ…。教えろよ」
「だーめ。じゃ、俺この後収録あるから行くよ。…坂崎はこの後あんの?」パソコンを閉じて立ち上がり、部屋の隅にかけてあったジャケットを手に取った。今日は控えめに蛇柄をチョイスした。

「うん、ラジオの収録。でもまだ時間あるからゆっくりしてから行くよ。
…桜井は?」
「俺は−」
「あ、このまま事務所待機か」桜井が答える前に坂崎が言った。
「…いーや、この後雑誌の取材。俺だってたまには一日仕事が入ることもあるんだよ」
「あらま、忙しいことで。んじゃ俺一人かぁ〜…」ちょっと寂しそうに俯いて坂崎が呟く。こんな時も同い年ってことを忘れる瞬間だ。これは何か言って慰めるべきか、と思っていると、
「俺ここで取材だけど?」と桜井がぽつりと言う。途端に笑顔になった坂崎が顔を上げた。
「そうなの?何時から?」
「…3時から」あまりに坂崎が笑顔なので桜井が少々戸惑っているのが分かる。
「まだ1時間もあるじゃん」
「あ、ありますねぇ…」
「じゃあさぁ、ちょっと合わせようよ。今度の野外でこれやりたいんだ。高見沢には言ったんだけどさ」そう言って軽く1フレーズ爪弾く。どうしたらあんな滑らかに弾けるのか。
「また懐かしい曲を引っ張り出してきたなぁ」苦笑いの桜井。確かに学生時代はよく二人でやってた曲だけど、最近は滅多にやらない。
桜井がそう言いたくなる気持ちもよく分かる。
「な、やろうよ。きっとファンも喜ぶよ。それに高見沢も聞きたいって」坂崎の駄目押しの一言。これを言われたら桜井が断れるわけがない。相変わらず上手いな、と思う。
「わかったわかった。やればいいんでしょ、やれば」
「はいっ決定〜♪」嬉しそうに脇に置いてあったファイルから楽譜を取り出す。
「何だよ、すでに用意してたのか!」これには僕も驚いた。
「うん♪はい、桜井」ニコニコ笑顔で坂崎は桜井に楽譜を手渡した。
「な〜んか、俺たち坂崎に操られてないか?」桜井が僕に尋ねる。
「…うん、何かそんな気がしてきた。女だけじゃ飽き足らず、俺たちも操ってたんだな」
「人聞きの悪い!誰も操ってないだろ!お願いしてるだけじゃん!」
「それがすでに操ってるんだよ!!」今度は桜井と僕の台詞がはもった。
「…え、そうなの?」坂崎は僕たちの言葉をそのまま素直に受け取りきょとんとする。
「まったく…。本人は操ってないと思ってるから性質が悪いんだよな」と僕が言うと桜井が頷いた。
「そうそう。…ま、今更どうにかしろ、なんて言うつもりはないけどな。俺も今更酒をやめろと言われてもやめられないし」桜井が酒をやめるってことは、僕や坂崎でいえばギターをやめるっていうのと同じこと。
とてもじゃないけど、そんなことできやしない。

まだ坂崎が何か言いたそうな顔をしていたけれど、時計を見たらマネージャーと約束した時間を5分過ぎてしまっていた。遅刻は日々だけど、今日は僕が指定した時間だったから、遅れると余計にぶつぶつ言われてしまう。
「悪い、じゃあ行くよ」僕はパソコンを小脇に抱えて部屋を出た。廊下ですれ違う人たちと軽く挨拶を交わしてビルの外に出ると、湿気を多く含んだ生温かい空気がまとわりつく。日本独特のあの蒸し暑い夏が近づいている証拠だ。いやな季節が来るものだ、と思いながら目の前に止まっている乗り慣れた車の後部座席に乗り込んだ。
「悪いな、待たせて」
「いえ、慣れてますから。じゃ、行きますね」笑いながらマネージャーはアクセルを踏んだ。

窓からはいつもの見慣れた風景が流れていく。でも見慣れた、とはいえこの時間に通るのはたまにしかない。普通にオフィスで働いている人たちが出るような時間でもないから、町は何だか閑散としている。時折見かけるのは、額の汗をぬぐいながら早足で歩く、営業マンと思われるサラリーマンだ。暑いのにワイシャツにネクタイ。僕なら10秒もしないうちにネクタイをゆるめてシャツの一番上のボタンを外していると思う。

車での移動中は、僕の好きに使っていい時間。つまり自由時間だ。よく、ツアーの構成とかレギュラー番組のネタ探しに考え込んだりする。
だからマネージャーは滅多なことがないかぎり僕に話しかけない。付き合いも長いから僕の性格をよく把握しているというわけだ。

でも、今日はツアーとか番組とか、それどころではない。
そう、さっき桜井と坂崎に邪魔されたとある考え事。それしか頭にない。
これから収録だっていうのに、その収録のことなんてこれっぽっちも考えていない。まぁ、自分のコーナーはあるけど、すでに内容は決まっているし、僕は脇だからそんなに考えることなんてない、というのが正直な話。
一体何を考えているのか、それはメールの文章だ。
メールの文章、一体誰宛の?
そう、その相手が相手なだけに、文章に悩んでいるのだ。

桜井や坂崎には話していないが、数ヶ月前、僕はある人と知り合った。そして今はメールのやりとりをしている。その人は女性で28歳、OLをしているらしい。あとは下の名前しか知らない。というより、それが本当の名前で本当に女性で28歳でOLをしているのか、ということも分からない。だけど僕にはそう自己紹介してくれたのだ。だからその彼女の言い分を信じるしか僕には術がない。そう、つまり世間一般で言うなら彼女は“メル友”ということになる。

何故その人と知り合ったのか、そんなことは別に大した問題じゃない。
僕がインターネットが好きでお気に入りのサイトがいくつかあるってことだけで、知り合うきっかけなんていくらでもあると思う。

彼女は“由紀”という。メールの文章の印象からいえば、とても真面目で仕事熱心、だけど自分の事は二の次にして友達や恋人のことを思いやる、そしてそうすることが人間として当たり前だと思っている女性だ。
自分が心優しい人間だと全く気づいていない。”優しいね”と言っても”お世辞”としかとらない。そんな女性なのだ。でもそれはメールだけの印象なのかもしれない。もちろん実際に会ったことがあるわけじゃないから、その印象が真実だと言い張る自信はない。でも、僕はたとえメールだけでも、その人の性格はある程度把握できると思う。よほど二重人格な人でないかぎり、メールだけ優しく、なんてできるものじゃない。

彼女は一般人、僕は歌手。生活パターンはずいぶん違うから、僕が起きている時に彼女のメールが来るってわけじゃなく、僕が寝ている間にメールが届き、僕が送る時は彼女はすでに夢の中、とか仕事中、という場合がほとんどだ。起きている時にメールが来るなんて、滅多にない。

ちなみに僕が歌手だということを彼女には話していない。とりあえず名前は“俊彦”で年齢は○○歳、そして生活パターンが逆だということは最初に話しておいた。おかげで今のところメールは滞りなく続いている。

彼女とのメールはとても楽しい。自分と全く異なる生活の話だから余計かもしれないが、会社であったほんの些細なこと、家族の話、友達の話、すべてが新鮮で僕は彼女のメールが楽しみで仕方がない。起きた時に彼女のメールが来ているとそれだけで嬉しくなる。たまに仕事の合間に受信したメールの中に彼女のメールが来ていることがある。その嬉しさをスタッフやメンバーに隠すことがどれほど大変か。そして読まずに仕事が終わるまで待つことがどれほど辛いことか。そのぐらい僕は彼女のメールを日々楽しみにしているのだ。

そんな彼女のメールには、いつも決まった台詞が書かれている。最初の言葉は”おはようございます”そして最後は”おやすみなさい”だ。これは僕のために”おはよう”を書き、自分が寝るので”おやすみ”を書いているのだ。他人が見たら不思議な書き方だと思うだろう。

彼女は不思議な人だ。時々僕の心を見透かしたようなことを書くことがある。僕がスランプに陥ってる時、疲れている時、やる気をなくしている時、よく眠れなかった時、そんな時は”おはようございます”のあとに必ず”最近疲れてないですか?”とか”よく眠れていますか?”と聞かれる。そして決まって”無理しないで下さいね”と続くのだ。彼女には超能力でもあるんじゃないだろうか、本当は近くで僕のことを見ているんじゃないだろうかと疑うほどだ。

そしてメールのやりとりが始まって数ヶ月経つが、彼女は毎日欠かさずメールを送ってくれる。予定があっていつもの時間に送れない時は、あらかじめ”明日は飲み会なので”とか”旅行なので”と前日のメールに書いてくる。そんな時は決まって”明日はもしかしたらメールが送れないかもしれません”って書かれているのだが、当日は飲み会や旅行から帰ってから”帰りました”というメールを送ってくれるので、メールが来なかったことがない。

僕もパソコンは毎日欠かさず開くし、ツアー中も肌身離さず持ち歩くのでメールを欠かしたことはない。僕みたいにパソコンが携帯電話と同じくらい必需品な人間ならメールは苦じゃないけれど、彼女には負担になってるんじゃないか、とよく思った。今でも思うことはある。でもそう感じた時には彼女から”無理してメール送らなくていいですからね。私は無理してないですけど。”と来るのだ。何においても僕を見透かしたようにメールにはそのことについて書かれているのである。
もしかしたら彼女は、自分のことを心配されるのが苦手なのかもしれない。だから心配される前に、自分は大丈夫、と言ってしまうのではないだろうか。

そんな彼女とメールのやりとりをしているからだろうか。僕も彼女のことはだんだん分かるようになってきた。彼女自身も情緒不安定な日や疲れている時、眠れなかった時、悲しい時があると思うのだが、そんなことは滅多にメールには書かない。だけど、そういう日は、メールの文章にどことなく元気がないような気がするのだ。どこ、とかなにが、というのは僕にも分からないけれど、何となく、そんな気がする。だからそんな時は返事のメールには”頑張りすぎたらダメだよ”なんて書いておく。
具体的にどんなことが彼女に起こっているのか分からないけれど、真面目で頑張り屋な彼女には、その言葉が一番いいと思う。案の定、次の日のメールには照れくさそうに”昨日はありがとうございました”という言葉が添えられていて、”実はちょっと仕事のことで悩んでいて…”なんて白状する。”どうして分かったんですか?”と尋ねられたこともあったけど、そういう時は”じゃあ、どうして由紀さんも僕のこと分かるの?”
って返す。お互い”どうしてだろう。不思議だね。”って結局は理由は分からないまま。本当にどうしてなんだろう。

そんな繰り返しをしていくうちに、僕は由紀さんに会いたいという気持ちが膨らんできた。最初はメールだけで十分だ、と思っていた。けれど、誰よりも一番自分の辛い気持ちに気づいてくれる由紀さんに、特別な想いを抱いている自分に気がついた。会ったこともないのに。顔さえ知らないのに。知っているのは彼女が話すメールのことだけなのに。
たったそれだけなのに、僕にとって由紀さんは傍で僕を好きだと言ってくれる女性より、何より愛しさを感じる存在になっていた。

もしかしたら、女性じゃなくて、女性と偽ってメールのやりとりをしている男かもしれないのに。28歳だというのも嘘で、本当は48歳とか僕より上なのかもしれないのに。
だけど僕は由紀さんが好きなのだ。

由紀さんが話したことが、すべて真実だと仮定しよう。
たとえすべて真実だとしても、きっと会ったらお互いの想像の中で終わるはずだった”由紀”と”俊彦”が現実になり、この関係は崩れてしまうかもしれない。僕は実際に会っても由紀さんへの想いが変わらない自信がある。

だけど、由紀さんの想像の中の僕と、現実の僕にどれほど差があるのか、メル友の”俊彦”にどんな想いを抱いているのか、それを思うと”会いませんか”という言葉がどうしても書けない。彼女は会うつもりはなくメールを交わすだけ、というつもりなのかもしれない。“会いませんか”と僕が言ったら彼女は”そんなつもりはないのに…”と思ってしまうかもしれない。
彼女も僕と同じ気持ちであれば、どんなにいいだろう。

「…さん。…高見沢さん?」マネージャーの声にハッとなった。顔を上げるとすでに後部座席のドアを開けてマネージャーが立っていた。
「…あ、ごめん」慌てて車を降りる。
「もしかして何度も呼んでた?」と尋ねると、
「いえ、そんなには。確か5回くらいは呼んだような…」と答えた。十分何回も呼んでるじゃないか。
「悪かったな」
「いいえ、たまに何十回と呼んでも気づいてくれない時がありますしね。ほんと、慣れてますから」マネージャーはまた笑ってそう言った。

収録が行われるスタジオに入り、控え室へ向かう。途中、すでに来ていた共演者とばったり会った。
「たっ高見沢さん!!!」まるで幽霊でも見たかのように彼は驚いている。彼は特徴的な髪型で、どんなに遠くにいても彼だと認識できる。今日もまるでゴルフに行くサラリーマンのような服装だ。
「よっ。…何そんなに驚いてんの?」
「だって…いつもはギリギリにしか来ないじゃないですか。今日はいつもより2時間は早いですよね。どうしたんですか、何かあったんですか?」
「…遅けりゃ遅いでブツブツ言うくせに、早けりゃ早いで驚く。どっちがいいんだよ」僕の後ろでマネージャーがクククッと小さく笑っている。
「いや、だって驚きますよ。遅いのは高見沢さんらしいなぁっていうのがありますし…。あ、それに今日まだ僕と高見沢さんだけですよ。まだ他の人は来てません。まぁ、まだ早いですからね」
「そうなの?…って君いつもこんな時間に来てんの?」
「ええ」
「こんなに早く来て何するんだよ」
「え?色々やることあるじゃないですか。台本チェックとか楽譜チェックとか。やっぱり間違えるのはプロとしてよくありませんからね」
「…それは素晴らしいことで。でもそんなに本番で喋んないじゃん」
「…ま、まぁそうですけどね?だからこそ、少ない台詞をしっかり言えるように早く来て練習するんですよ!」
「ああ、そう。まぁ頑張ってよ。じゃ、またあとで」
「頑張りますよっ!では、後ほど!」彼は最敬礼かと思うようなおじぎをして、スタスタと去っていった。さすが長寿ドラマに出演している俳優だけのことはある。礼儀正しいのが半端じゃない。

“高見沢俊彦様”と書かれたドアをマネージャーが開ける。
「それじゃ、時間になったら呼びますので」
「ああ、頼む」
マネージャーが部屋を出ていき、また僕は自分だけの時間を手に入れた。パソコンをテーブルの上に置き、電源を入れる。立ち上がるまでの時間が僕は結構イライラする。付けたらすぐに使えるパソコンってないものだろうか。

すでに部屋の空調が整っているので、ジャケットを脱ぎ無造作に部屋の隅に放る。スタイリストが見たら怒ることだろう。
ようやくパソコンが立ち上がり、僕はまたメールの新規作成画面を開いた。まだ書くことがまとまっていないのだが、この画面を開かないと余計に浮かばない。

今日はいつものように楽しくメールが書けない。言葉を選び、慎重に書かなければいけないのだ。その理由は昨夜来た彼女のメールに原因がある。
普段何があってもメールでは明るく振舞う彼女が、昨夜は違っていた。
悩みを書いていた、愚痴を書いていた、それなら明るく振舞えない理由が分かるからまだいい。そうではなく、昨夜のメールは今までにないとても短いものだった。

“今日はとてもメールを書けそうにありません。ごめんなさい。”

毎日の“おはようございます”も“おやすみなさい”もない。何とか書いたメールがこの一文、と見て取れた。体調が悪いのか、何かショックなことがあったのか、この一文では、数ヶ月メールのやりとりをしてきた僕にも検討がつかない。ただいつもと変わりがなかったのはメールが届いた時間。
これはいつもの時間とそんなに変わらなかった。

今日はいつもと生活パターンが違って普通に朝まで寝ていたのだが、寝る前にこのメールを見た為、あまりよく眠れなかった。
彼女に何があったのか気になって気になって仕方がない。できることなら彼女の傍に行って抱きしめてあげたい。なのに、どうして僕はメールでしか彼女と話ができないんだろう。初めてメールだけの関係というのがこんなにも悔しくて辛くて悲しいものなのだと感じた。

彼女はどう思っているのだろうか。もしメル友はメル友、と割り切っているのなら、僕に頼ろうなんて思わないだろう。“どうせメル友なんだから、私の力になんてなれないのよ”そう思っているのかもしれない。けれどもしかしたら、彼女は僕だけに自分の心のうちを話してくれていたのかもしれない。
メールのやりとりの中で、自分の考え方を語り合ったこともある。彼女が“こんな考え方じゃ、だめでしょうか”と不安げに尋ねたこともあった。そん
なことをただのメル友と思っている僕に、尋ねるだろうか。
そしてメールが書けない、という自分の気持ちを書いたメールを僕に送るだろうか。

彼女は、他人のことばっかり世話して自分のことはいつも後回しな人だ。
もしかしたら、自分という人間に不安を感じているのではないだろうか。自分はこれでいいのか、こんな考え方で正しいのだろうか、そんな風に心の奥で思っているのではないだろうか。そして誰かにありのままの自分を認めてもらいたいと願っているのではないだろうか。そして僕とメル友になったのではないか。

もちろんこれは僕の推測でしかない。単に眠くてメールが書けそうもない、ということだったのかもしれない。もしくは今日は何もなくて書くことがない、という意味だったのかもしれない。

けれど僕が知っている由紀さんは、今日何も書くことがないという時は素直に“今日は何も楽しいことがなくて書くことがないんです”と書いてくれる。
僕に心配させまいと、あいまいな表現はしない。
そんな人が、僕が心配してしまうような一言を書くだろうか。

気がつくと、パソコンの画面は放ったらかしにしていたからスクリーンセーバーに変わってしまっていた。
「…何かくだらないことをぐるぐる考えてたような気がするな。これはいくら考えても考えても結論は出ないことなんだよ」僕は一人呟いた。
「たとえ由紀さんが僕が思っているような人ではなくても、僕はもらったメールの言葉に素直にメールを返せばいいんだよ。そうだ、それでいいんだ。
…僕にできることはそれしかない」ようやく結論が出た。

昨夜来たメールをもう一度開く。
“今日はとてもメールを書けそうにありません。ごめんなさい。”
この彼女の言葉に素直に返事を書こう。僕が知っている“由紀”さんに、“由紀”さんが知っているメル友の“俊彦”から。
きっとそれでいい。それで彼女が元気になって、また僕にメールを送ってくれるなら。
”昨日はありがとうございました“という彼女の照れくさそうな言葉がもらえるなら。

ただのメル友としての言葉と受け取られてもいい。
それでも僕は、彼女にありったけの愛の詩を贈ろう。

まだ見ぬ愛しい君へ−

−Fin−


***********あとがき*************

「まだ見ぬ君への愛の詩」を読んでいただきましてありがとうございます。
このお話はタイトルですぐに内容が浮かびまして、結構スラスラと書けました。
というのも、珍しく自分の経験を元にしたお話なんです。
相手側はどんな気持ちなのかな、という想像も含めて、このお話が出来ました。

きっとみなさんにもあり得る、もしかしたら今そんな状態の方もいらっしゃるかもしれませんね。
メル友のことはメル友にしか気づいてあげられないこともあります。傍にいるより相手の素直な言葉を受け取って、その言葉を自分の言葉に変えて返してくれる、そんな人の方が相手の中で大きな存在になるのかもしれません。

恋愛の形は人それぞれ。みなさん素敵な恋愛して下さいね(*^-^*)

2004.9.15


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