※このお話は、1989年頃をイメージして書いています

「Loving You」





―君を愛している―

何度となく言いかけた言葉。
そして未だに口にできない言葉。
何故君に言えないのだろう。
あの頃は考えることもなく口にしていた言葉なのに。

いや、分かっている。
言えない理由なんて。

僕はこの先も口にすることはないだろう。
いつまでも心に秘め、そして心の中で囁くだろう。
君を愛している、と…


「ごめん!待たせて!」よりによってこいつとの待ち合わせの日に仕事が長引くなんてツイていない。今日は早く帰るとスタッフに言ってあったのに。また小言を言われるに決まってる。
案の定、千春はちょっと冷たい目で僕を睨んだ。
「遅いわよ。いつもの事だけど、その遅刻癖何とかならないの?」
「今日は絶対遅刻しないつもりだったんだよ。だけど…」
「仕事が長引いたんでしょ?」
「…うん」
「…分かってるわよ、そんな事。でもね?私の時はいいけど、大事な彼女との待ち合わせの時は遅れないようにしなさいよ?」
「彼女なんて居ないって」
「はいはい。ほら、行くわよ」千春は僕の腕をぐいっと引っ張った。まるで尻にひかれたダメ亭主みたいだ。

千春は高校の同級生。未だに連絡を取り合っている数少ない女友達だ。歌手なんてものをやっていると、昔からの友達はだんだん減っていく。
そしてドーンと売れた時は何故か親戚やら友達がやたらと増えたけど、その時期を過ぎると潮が引くみたいにサ〜ッと居なくなる。居なくなった時は妙に寂しく感じたけど、中には誰?っていうやつも居たから、そういう輩が居なくなってある意味すっきりした。
彼女は売れない時期も売れてからも、変わらず定期的に連絡をくれる。売れない頃は昼飯をおごってくれたりもした。そういう恩があるから、未だに彼女には逆らえない所がある。
「あ、そうそう。今度ね、みんなで集まろうって言ってるの。25日。来れる?」
「25日?…あ、その日は夕方からレコーディングが入ってる。たぶん朝方までかかる…かな」
「そうなの?じゃあまた来れないのね。みんな会いたがってるんだけどな」
「俺も行けるもんなら行きたいよ。みんな元気?」
「元気よ、元気。相変わらずよ。30代後半にもなろうっていういい大人たちが、未だに高校の時と変わらないはしゃぎぶりなんだから」
「おっさんおばさんくさくなるよりはいいんじゃない?」
「まぁ、そうだけどね。でも確実におっさんおばさんの域には来てるわよ。だってもう小学生の子供が居たっておかしくない年なんだから。独身は年々肩身が狭くなるわね」千春は目じりに笑いジワを作って僕を見た。相変わらず隠し事ができないやつだな、と思う。千春の”独身”という言葉に、独身のはずの自分のことはすでに省かれているんだから。

「…で?」
「…え?何が?」
「何か俺に報告があるんだろ?…結婚でも決まったか?」
「………な、何で分かったのよっ」がらにもなく顔を真っ赤にして千春が尋ねる。いや、誰でも分かると思うんだけど…。
「おまえが分かりやすすぎるんだよ。顔に幸せオーラが出てるし。それに、さっきの”独身は〜”っていうのも俺に対してだけ言ったしな。自分のことはすでに除外してやがる」
「えっ…そ、そう?そんなつもりはないし、自分では幸せオーラなんて出してないつもりなんだけど…」
「付き合い長いんだから分かるさ。それからおまえが俺に飯でもどう?って言ってくる時は何かあった時なんだからな」
「…た、確かにね」
「だろ?…そうか、決まってよかったな。おめでとう」
「…ありがと。それで式は出られる?できれば出てほしいなと思って」
「日にち教えてくれればその日は空けとくよ。…でも、まさかツアー中じゃないだろうなぁ?」
「大丈夫!その辺を考慮して、来年の9月にしたから!9月5日。大丈夫でしょ?」
「よしよし。それなら何とかなるよ。じゃあ出席の方向で。マネージャーにもその日は空けとくように言っとくよ」
「うん、よろしく。友人代表の挨拶とかはもう頼んであるから、高見沢くんは料理とワインでも堪能してていいわよ。一応、料理の評判がいい式場にしたから」
「嬉しいこと言ってくれるじゃないか。じゃあ千春のウェディングドレス姿をじっくり眺めつつ美味い料理を食べさせてもらうよ」
「私は眺めなくていいわよっ」
「何言ってんだよ。一生に一度だろ?千春があんなの着た所なんて二度と見られないんだからな」
「…高見沢くん」
「ん?」
「…お願いだから主役の私より地味な格好で来てよ」
「……安心しろ。その辺はちゃんとわきまえてるから」
「そうよね。でも普通にスーツ着てきても私より目立ちそうよね。…あ、ギターも持ってこないでよ?あの、変な形のやつとか」
「持っていくかよ!」
「あっはっは!」千春が大きな口を開けて遠慮なく笑った。時に女友達だと忘れてしまいそうなくらい千春は男勝りなやつなのだ。本人には言えないが、僕の中では男友達の域に入っている。一体旦那になる男はどんな奴なのか、ものすごく気になるところだ。
これで仲間内で独身は僕一人になる。何だか寂しい気もするが、職業がら、仕方のないことなのかもしれない。まぁ今の生活に不自由しているか、と言ったらそうでもないから、きっと僕はこのまま突き進むんだろう。

千春お勧めの店に着くと、個室を予約してくれたらしく、店員が奥へと案内してくれた。普通なら僕がしておくことだろうな、と少し申し訳ない気持ちになった。
「ここね、予約しておかないといつも満員なのよ。彼女を連れてくる時は予約するようにね」僕の横顔を見て申し訳ないという気持ちを察したのか、千春がそう言いながら僕の背中をポンと叩いた。
「だから居ないって。分かってるくせにそういうこと言うなよな」
「ははは。ごめんごめん」
案内された席に座ると、店員の男が水の入ったグラスを持ってきた。一礼してテーブルにグラスをおいて顔を上げると、目の前の僕が誰か気づいたらしく、妙に目を輝かせている。
千春はそんな店員の様子など気にもしないで、
「このBコースにしましょ。飲み物は…白?赤?」と僕に尋ねた。
「赤かな」
「じゃ、Bコースで、飲み物はハーフボトルで赤ワイン。グラスは2つね」
「…あ、は、はい、かしこまりました」店員はわたわたと慌てながら伝票を書き、一礼するのも忘れて部屋を出ていった。
「高見沢くんに気づいたみたいね。人気者じゃない」
「人気者ってわけじゃないさ。ただ俺みたいなやつ、そうそう居ないから気づくんだよ」
「もっと人が居ない店がよかったかしら…」
「全然。気づかれようが何だろうが関係ないよ。別に悪いことしてるわけじゃないし」
「…ほんと、有名人っぽくないんだから」
「それは褒めてんのか、けなしてんのか?」水の入ったグラスを手に取って一口飲んだ。
「あら、褒めてるのよ、これでも。あなたの良い所だと思ってるんだから」
「そりゃどうも」
「ねえ、桜井くんと坂崎くんも元気?テレビでは見かけるけど、最近会ってないから」
「二人も相変わらずだよ。あ、千春が結婚すること二人にも言っておくよ。きっとびっくりするぞ」
「…あら、それはどういう意味でびっくりするってこと?」
「…色んな意味で、さ。で?旦那になるやつはどんなやつ?年は?」
「…え?…うん…年は…3コ下で」
「年下か!!」
「な、何よぉ…悪いぃ?」
「い、いや、悪くないけど…へぇ、千春がねぇ、年下と…これはまた二人がさらに驚くな…」
「何よ、私に年下は似合わないってこと?」
「だっておまえ、今までずっと年上だったじゃないか。それが突然年下だろ?そりゃ誰だってびっくりするって」
「そ、そう?」
「何だよ、心境の変化?」
「そういうわけじゃないわよ。見つけたのがたまたま年下ってだけよ。…ま、まぁいいじゃない。そういうことは」いつもは何でも話す千春が照れくさそうに誤魔化すので異様に面白かった。千春もやっぱり女だったんだなぁ…としみじみ思う。

「…高見沢くん、何ニヤニヤしてんのよ」ムッとした顔で千春が僕を睨んだ。
「いや?幸せそうで羨ましいなぁと思って」
「羨ましいと思うならあなたも結婚したら?相手なんて選り取りみどりでしょ?」
「んなわけないだろ。千春が思ってるほど俺の周りに女は居ない」
「そぉお?何か10人くらいは居るような…」
「居るかそんなに!!おまえ俺を何だと思ってんだよ」
「あはは、ごめんごめん。…で、結婚しないの?そろそろ面倒みてくれる人見つけた方がよくない?」
「居なきゃ居ないで自分のことくらい自分でやれるよ。いいんだよ、俺は一人で。誰に何と言われようと、千春やみんなが結婚して独身が俺だけになっても、俺は独身でいいの」
「あ、そう。まぁそれもあなたらしいといえばらしいけど。でも独身が一人っていうのも寂し……あ」千春は何かを思い出したように途中で固まった。まるで大事なことを忘れていたかのような顔をしている。
「どうした?」
「あ…」千春が何か言いかけた時、店員が料理を運んできた。先ほど注文をとった店員だ。料理をテーブルに置きながらやっぱり僕を見ている。20歳くらいの学生だろうか。男にまじまじと見つめられるのはどうも落ち着かない。何か言いたいなら言ってくれ!そう思う。
だが彼は料理の名前と赤ワインの銘柄を言っただけで立ち去った。また次の料理も彼が運んでくるのかと思うとちょっと憂鬱だった。
「…それで、どうしたんだよ」再び千春に尋ねた。千春はボトルを手に取り、僕のグラスにワインを注いだ。そしてようやく、
「あのね…」ととても言いにくそうに口を開いた。
「うん、何?」
「…独身は高見沢くんだけじゃないことに気が付いたの」
「…え?…だって、俺たちの中では千春と俺だけだったじゃないか。……誰か、離婚したのか?」
「……」千春が無言で頷く。一体誰なんだろう、僕には予想もできなかった。
「…誰だよ?」
「……美紗」
「え!?」僕の驚きに、心臓が激しく反応した。ざわざわと心が騒ぎ出し、途端に鼓動が速くなった。僕の鼓動が千春にまで聞こえてしまいそうだ。
「先月…だったかな。離婚したって連絡があって。詳しくは私も知らないんだけどね」
「他のやつらも知ってるのか?」
「美紗が話したみたい。もちろん理由とかまでは話してないみたいなんだけどね。みんなもそんな事聞けないし…。高見沢くんには私から伝えてくれる?って言われたの。あなたには言いにくかったんじゃないかな」悲しげな目で千春は僕を見た。
「…そうか」僕は呟いて美紗の姿を思い浮かべた。結婚式には出ていないけれど、写真はもらった。相手の姿なんて何一つ覚えていない。でもあの時のとても幸せそうな美紗の顔はしっかりと覚えている。どうして…その言葉が僕の頭を巡っていた。
「美紗がね、祝福してくれたのにごめんね…って」
「…美紗が?」
「うん…」

誰かに心臓を掴まれたのように胸が苦しくなった。ごめんね、と言った美紗を想うと、ますます苦しくなる。唇を噛んで必死に心を落ち着けようとした。動揺を悟られたくない、そんな心内を誤魔化すためにワイングラスを手に取ったが、手が震えてしまい、誤魔化すどころか動揺をさらけ出すはめになってしまった。すべて分かってしまった千春が、落ち着いた、優しい口調で僕に言う。
「…まだ、美紗のこと想ってるのね」
「……」何も言うつもりはなかった。無言という返事は肯定だということを千春はよく分かっているから。僕は大きく息を吐き、ようやく少し落ち着くことができた。
「それじゃ、結婚なんて無理よね」
「……無理だろうな」
「…美紗は正解だったわね」
「何が?俺と別れたこと?」
「違うわよ。私に伝言を頼んだこと。だって美紗から直接言われたら、高見沢くん、卒倒してそうだもの」
「いくら俺でも、卒倒はしないよ。立ちくらみ程度だ」グラスのワインを一気に飲み干した。
「酔っ払って私が送る、なんてことさせないでよ?」
「これくらいで酔わないよ」と言いつつ、一気に飲んだせいでクラクラする。いつもやってから後悔するのが僕の悪い癖だ。
「…夫婦って難しいのね。幸せそうに見えても本当は問題を抱えていたりして。私もこのまま結婚して大丈夫なのかしらって思うわ」
「千春は大丈夫だろ」
「何で言い切れるのよ?」
「尻にひきすぎないようにすれば上手くいくさ」
「それって私が尻にひくって言いたいわけね。まったく、私を何だと思ってるのよ」
そう言いながら千春はナイフとフォークを手に取った。僕たちはまだ料理に一口も手を付けていなかったのだ。
ようやく僕たちの夕飯が始まった。
千春はその後、美紗の話題を出すことはなかった。僕も話題にしてほしくないと思っていたから、有難かった。そういう所は長年の付き合いで分かってくれているのだ。千春が僕たちの事情を知っていてくれてよかったと思った。
たわいのない話をしながら僕たちは料理をたいらげていった。
でもどんな話をしても、どんなに笑っても、美紗のことが頭から離れることはなかった。
僕の中で忘れかけていた何かがまた動き出した気がした。何かが、なんていうはっきりしないものなんかじゃないことは、すでに分かっている。けれど“それ”だとは僕はまだ認めたくなかった。

「私が誘ったのにおごってもらっちゃって…本当にいいの?」タクシーの中で千春が尋ねる。酒が入ってちょっと顔が赤い。ワインは少し飲むだけで酔ってしまう、と昔千春から聞いたことがある。
「いいって。とりあえず稼ぎはあるから」
「でしょうね。じゃあ、お言葉に甘えて。ごちそうさま」
「どういたしまして。ま、俺からの結婚祝いってことで」
「まぁ、嬉しい」本当に嬉しそうに千春が笑った。どうやら酔いがいい具合に回ってきているようだ。
酔っ払うと千春はいつもよりよく喋る。だから結婚相手の事や馴れ初めを聞くにはいい頃合だ。
聞いてみると意外にも、相手から交際してほしいと言われたらしい。僕は逆だと思っていたからこれには驚きだった。早く顔が見たいものだ。
そして千春の家に着くまでに、結婚相手のことはだいたい把握できてしまった。喋りすぎだ。
「ほら、着いたぞ。…あ、タクシー代はいらないからな」
「いいの?だって夕飯も…」
「だから、稼ぎはあるっての」苦笑しつつ僕は“でも…”と言い続ける酔っ払いの千春をタクシーから降ろしたが、千春の足元が不安定なのでちょっと心配になった。タクシーの運転手に、
「ここで待っててもらえますか?」と言い、部屋の前まで付いていった。
「大丈夫か?」心配する僕をよそに、千春はけらけらと笑ってバッグから鍵を取り出した。
「なーに言ってるの。大丈夫に決まってるじゃない」と言うものの、鍵穴になかなか鍵が入らない。
「どこが大丈夫なんだよ、この酔っ払いが」千春の手から鍵を取り上げ、鍵穴に差し込む。
「お〜すごいすごい」
「何にもすごくない!」
「え〜すごいわよ〜。さすが高見沢くんね〜」
「俺じゃなくてもできるっての。ほら、ちゃんと鍵閉めて寝ろよ?今すぐ風呂に入るなよ?」
「わ〜かってるって。今からお風呂入って寝るわよ」
「…分かってないぞ」何を言っても無駄だと思った。
「ん〜じゃねぇ、送ってくれてありがとー」
「はいはい、じゃあな」ドアを押してこちらから閉めてやろうとすると、千春がドアの間から顔を出した。
「高見沢くーん」
「ん?何?」
「…25日、美紗も来るから都合つけて来なさいね〜。いつもの店でやるから。夜の7時からよ〜」
「……だ、だからその日は−」
「おやすみー」僕の言葉を聞かないまま、千春は勢いよくドアを閉めた。何だか恋人の家に来たがケンカになって閉め出されたような気分になる。ものすごく嫌な感じだ。
「…これだから酔っ払いは……」独り言を言いながら僕はタクシーへと戻った。

自宅に戻ると、部屋中を引っ掻き回し、あるものを探した。何故そうしたかは自分でも分からなかったが、見つけないといけない気がしたのだ。
「確かあったと思うんだけど……」あいまいな記憶を頼りに、僕はありそうな所を探した。雑誌と雑誌の間、その頃買った本の中。
「2年前だからこの部屋にはあるはず……あ…これか?…あった!」
散らかった部屋の真ん中に腰を下ろし、奇跡的に見つかった写真を見つめた。
美紗の結婚式の写真だ。式に出席した千春からもらった、たった一枚の写真。
幸せそうな顔の美紗が僕に笑いかけている。

「………」やはり、どうして…という思いは消えなかった。けれど僕の元を去り、他の男と結婚した昔の彼女に“どうして”なんて聞けるだろうか。僕にはそんな権利はない。
僕を捨てた彼女。でもだからと言って恨んでいるわけでもない。僕には彼女を幸せにする自信はなかったし、彼女が僕を捨てて他の男を選んだのは正しいと思っている。結婚すると聞いた時、心から祝福できたのだから。もちろん彼女への想いをすべて吹っ切っていたわけじゃなかった。正直、全然吹っ切ってなかった。でも好きだからこそ、彼女の幸せを願い笑顔で“おめでとう”と僕は言ったのだ。彼女が幸せならそれでいいと、その時、心からそう想っていた。

もちろん今でも。
この写真の笑顔が今はないと思うと、胸が締め付けられて苦しくなる。彼女が幸せであれば、僕も幸せだったのに…。
でも僕には彼女を不幸にした相手の男を恨む気持ちはなかった。夫婦にはお互いにしか分からない何かがあるのは解かっているから。他人があれこれ言う資格なんてない。
二人が別れた理由より、僕はただ、彼女が今どうしているのか気になった。
一人で暮らしているのだろうか。実家に戻っているのだろうか。…それとも別の男が傍に居るのか……。
「…25日か…」部屋の隅のカレンダーに目をやった。偶然にも、その日は美紗と別れた日だった。


僕が店に入ると、みんなが驚いて席を立った。中央に座る千春だけはにんまり笑って僕を見ていたけれど。
「高見沢!今日来れないって…」
「仕事は!?」
「スケジュールを一日ずらしてもらったんだ。おまえら元気そうだな」
「おまえは相変わらず白いなぁ!夏なんだから少しは日焼けしろよ!ちゃんと太陽に当たってんのか?」
「太陽とはすれ違いの日々だよ。ま、夏嫌いな俺にはちょうどいいけど」
「ほら!ここ座れよ!!」懐かしい仲間たちに一人ずつ声を掛けながら勧められた席へ向かった。途中、遠慮がちに隅の席に座る美紗を見つけた。
まるで自分は場違いだと言わんばかりにひっそりと座っている。美紗だけ声を掛けないわけにはいかない。僕と美紗が付き合っていたことは、千春しか知らないのだから。
「よ、久しぶり」なるべく明るく言ったつもりだったが、どうしても笑顔は作れなかった。美紗は遠慮がちに僕を見上げ、
「ほんと、久しぶりね。でもテレビではよく見かけるから何だか不思議な感じだわ」と返して小さく微笑んだ。また心が苦しくなった。
「そうだよな。テレビによく出てるから会ってる気分になるんだけど、実はすごい久しぶりなんだよな」
「…1年以上会ってないよな、確か。千春はこの前会ったけど」席に座りながら全員を見渡した。
「そうそう。だって前会った時オレ、子供居なかったもん」
「あ、そっか。おまえパパになったんだったなぁ。女の子だっけ、可愛い?」
「めちゃめちゃ可愛いぞ!もうなぁ、親ばかになるのは当たり前だ」
「こいつ今から嫁行く心配してんだぜ?笑っちゃうだろ!」
「まだ1歳にもなってないだろ?早いよ!」ドッと笑いがおきたところで千春がねぇ!と言った。
「今日の主役、忘れられてるんですけどー?」
「あ、そういやそうだったな。今日は千春の独身さよなら会だったっけ」
「忘れてもらっちゃ困るわ。一番重要じゃないの!」
「はいはい、そうでした。じゃあみんな揃ったし、もう一回乾杯しようぜ。高見沢、ビールでいい?」
「ああ」
「いやー、全員揃うなんて久しぶりだよなぁ!高見沢仕事だったんだろ?」
「そう。でも千春のお祝い事だし来ないわけにも行かないからな。昨夜からすごい勢いでレコーディングしてきたよ。こんなに頑張ったのは久しぶり」
「あら、私のために頑張ってきたの?嫌だわ、槍でも降るんじゃないかしら」千春が嘘ばっかり、という目で僕を見た。やっぱり千春にはバレバレだった。
僕の目の前にドンとジョッキが置かれた。
「はいっじゃあもう一回!千春の婚約を祝して、かんぱーい!!」
みんなのビールジョッキが一斉に掲げられる。みんな笑顔に溢れている。
斜め前の美紗も笑顔だったけれど、瞳は悲しみを隠しきれていなかった。
無理に笑う彼女が痛々しかった。


「ほんとに久しぶりね。仕事はどう?毎日大変でしょう?」帰りのタクシーの中で美紗は微笑んで僕に尋ねた。無理して笑顔を絶やさないようにしているのは、同情されたくないからだろうか。
僕と彼女が同じタクシーになったのは、もちろん千春のせいだ。いや、せいじゃなくてお陰、と言うべきか。確かに方向は同じだから他のやつらが怪訝に思うことはないけれど。
「前ほどじゃないよ。ちゃんと休みももらってるし」
「そう。あの頃は忙しくて大変だったものね。倒れるんじゃないかと思ったもの」
「俺そこまで弱くないぞ?」
「そうね。見た目と違ってね」美紗はクスクス笑って僕を見た。こんなに傍で見るのは何年ぶりだろう。
「…ちょっと痩せた?」と聞くと、僕から目をそらした。
「うん…ちょっとね。……千春から聞いたよね?」
「…ああ」
「………」
「…その……ごめん、何て言ったらいいか…」掛けてやれる言葉が見つからなかった。いくつも作り上げている詩が何の役にも立たない。
「ううん、いいの。私の方こそごめんね。…高見沢くんには誰よりも祝福してもらったのに……」
「……」やっぱり何も言えなかった。何を言えば彼女の悲しみを取り払ってやれるのか僕には分からない。彼女の悲しんでいる顔なんてもう見たくないのに。

しばらく僕たちは何も言わなかった。彼女も何を言ったらいいのか分からなかったのかもしれない。
きついカーブを曲がる時に彼女の肩が僕に触れた。細くて頼りない美紗の肩。
ほんの一瞬だったけれど、僕にはとても長く感じた。一瞬の彼女のぬくもりに、あの頃を思い出さずにはいられない。
僕のマンションが近くなってくると、美紗はしきりに窓の外を気にし始めた。見覚えのある風景にあの頃を思い出しているのだろうか…なんて、自分勝手な想像が膨らむ。
ふと彼女が口を開いた。
「高見沢くん」
「…ん?」
「……部屋、寄ってもいいかな」
「…え?」
「…美味しいワイン飲みたいな。それともワインはもう飲んでない?」
「え、あ、いや、あるよ。…でも、結構時間…」予想していなかった彼女の言葉にうろたえて腕時計を見た。10時過ぎだ。
「だって家に帰っても一人だし、待ってる人なんて居ないもの。それとも高見沢くんには待ってる人が居るの?…それならやめておくけど」
「い、居ないよ、そんな人」
「じゃあ寄ってもいい?」彼女の目はしっかりと僕を見つめていた。まるで付き合っていたあの頃みたいに。
「………いいよ」また僕の心がざわついた。

「ワイン、どれがいい?」
「何があるの?」キョロキョロと部屋を見回しつつ、美紗がキッチンへやってきた。
「赤も白もあるけど辛口。あとは…スパークリングワインとか。おまえ辛口は苦手だったよな?」
「うん、ちょっと苦手。私、スパークリングワインがいいな」
「…相変わらず好きだな、甘い酒」
「だって美味しいじゃない。飲みやすいし」嬉しそうに美紗が微笑んだ。笑顔はあの頃と同じだ。ただ心に傷を負い、あの頃は光り輝いていた瞳にたくさんの哀しみが宿っている。微笑んでも陰りが見えるのはそのせいだろう。
「ソファに座ってろよ。一応客なんだから」そう言ってテーブルにボトルを置いた。
「ううん、寄りたいって我が儘言ったのは私だし、グラスくらい準備させて」
美紗はあの頃から何一つ配置が変わっていないキッチンへ行き、あの頃と同じグラスを二つ手に取った。
「…ね、このグラス最近洗った?」
「え?…ん〜洗ったような…ないような…」
「…念のため洗うわ」苦笑して美紗が言った。
キッチンに美紗の後姿。あの頃と同じ風景がもう一度見れるなんて、思ってもいなかった。

「…ねぇ、高見沢くん。今、恋人は?」グラスを洗いながら美紗が尋ねる。
「……居ないよ」
「そう。だからグラスとか使ってないのね。食器もほこりだらけよ」
「………あの日から使ってないから」言うつもりのなかった台詞が出た。
美紗を見ていると、どうしてもあの頃の想いが蘇ってきてしまう。自分の気持ちにブレーキをかけたかったが、うまくコントロールできない。案の定、美紗は驚いて振り向いた。
「……意外だった?」振り向いただけの美紗に僕が尋ねる。
「…あなたらしい気もするけど、あなたらしくない気もするわ。…私のせい?」悲しそうな目で僕を見る美紗。まるで自分が他の男を選んだ事が正しかったのか間違っていたのかを問いかけているような目をしている。

確かに、あれから恋人を作らないのは美紗のせいだ。忘れようとすると余計に想いが募り忘れられず、時間(とき)にまかせてようやく心の隅にまで追いやったのに、千春の一言で忘れかけていた想いが押し戻されてしまった。
けれど今、そんな言葉を美紗に言うわけにはいかない。これ以上美紗に悲しい想いなどさせたくない。
「…違うよ。今は仕事に専念してるだけ。美紗と別れてから恋人が居ないのはそういう相手が見つからないだけだよ。俺だっていつも恋人が居るわけじゃないんだから。美紗が気にすることじゃないよ」
「…そう」小さな安堵のため息を漏らし、洗ったグラスを持って美紗が部屋へ戻ってきた。

僕の部屋にはカーペットもなければラグもない。何もないフローリングに大きめのソファが一つあるだけだ。部屋でくつろぐにはソファに座るしかない。美紗が遠慮がちに僕から少し離れてソファに腰を下ろした。
「…ね、ちょっと部屋冷やしすぎじゃない?」小さく身震いして美紗が言った。
「…あ、寒い?ごめん、設定温度が低いんだと思う」エアコンのリモコンを手に取り、設定温度を見た。いつもは何気なく電源のON/OFFしか使わないから設定温度が何度かなんて知りもしなかった。
「やだ、寒いはずだわ。18度って…そんな設定温度にしてる人初めてみたわ」美紗が僕の手元のリモコンを覗き、心底驚いて言った。
「暑いの嫌いだからな」
「でも限度があるでしょ。そんな温度にしてたら夏風邪をひくわ。だめよ、また今年も野外ライブがあるんでしょ?身体を大事にしなきゃ…。そういう所は昔から変わらないんだから、俊彦って。…あ……」口が滑った、とでも言うように美紗が口元を押さえた。
「…久しぶりに聞いたな。美紗が俺のこと“俊彦”って呼ぶの」
「……ごめん…」
「何も謝ることじゃないさ。どっちかといえば君付けの方がまだ慣れてないし」
そう返しながらワインのコルクを抜きグラスに注ぎいれた。グラスの中に気泡が立ちキラキラと輝いている。
「はい」美紗にグラスを手渡す。
「ありがとう」
僕たちは何も言わずお互いのグラスとグラスを合わせた。乾杯する理由が見当たらないのだから仕方がない。

僕はワインを一口飲み、グラスを一旦テーブルへ置いた。このグラスで最後に美紗とワインを飲んだのはいつだっただろうか。でもそれがいつだったとしても、今は何の役にも立たないのだけど。
ふと美紗を見ると、グラスのワインを一気に飲み干して空のグラスをテーブルへ置いていた。見たことのない光景に僕は驚いた。美紗はそれほど酒に強いわけじゃないのだ。いつもはシャンパングラスのワインを一杯飲み干すのにかなりの時間をかけるのに、だ。おかげで美紗はクラクラしてきたらしく、でもその状態が気持ちいいようで、ニコニコしながらソファにもたれかかった。
「ふぅ…美味しい」
「お、おい。そんなに一気に飲んで大丈夫か?甘いとはいえワインだぞ?」
「今日ぐらい自分の好きなように飲んだっていいでしょ?」
「ま、まぁそうだけどさ。でもおまえそんなに酒強くないんだからそういう酒の飲み方は…」
「あら、俊彦はいつもこうやって飲んでたわよ。人に言う前に自分のこと何とかしたら?」
「…た、確かにそうだけど…」
美紗は僕のことをまた“俊彦”と呼んだ事にまったく気づいていないようだった。
美紗の声で名前を呼ばれると、胸の奥が熱くなることも美紗には到底分かり得ないことだろう。
「でしょ?だからあなたに言われる筋合いはないの。今日は飲みたい気分なのよ」
「何だよ、自棄酒か?」少し早くなった鼓動を抑えるために冷静な口調で美紗に尋ねた。
「…自棄になりたくもなるわよ。こんなことになるなんて、思ってもいなかったんだから…」美紗は小さく鼻をすすった。
その気持ちも分からなくもない。振られたりした時は僕もそう思う。もっとも、美紗はそんな振られた程度の話なんかじゃないから、きっともっと計り知れない辛い気持ちがあるのだろう。

「…美紗、俺に話を聞いてもらいたいんだろ?だからここに来たんじゃないか?」
そう尋ねながら空になった美紗のグラスにワインをついだ。
「……」頷きもせず、美紗は僕を見た。その目はやっぱり悲しみに満ちている。
「…でも、聞いてほしいけど俺に話すのは申し訳ない、とか思ってるんだろ。確かに別れた恋人に話すようなことじゃないよな。…でも話せる人が居ないんだろ?千春にも話せないのか?」
「…ち、千春に話せるわけないじゃない。あんなに幸せそうな千春に、こんな不幸せな話、誰ができるの?」
「ま、まぁ、そうだけど…。でも千春も心配してたぞ?もちろん他のやつらも」
「…でもまだ話したくないの。彼と私の関係はすでに終わってしまってるけど、私の中では、まだ何も終わってないのよ…」途端に目が潤み、ポロポロと涙の粒が零れた。予想はしていたけれど、実際に泣かれるとおろおろしてしまう。
女の涙は苦手だ。でもこんな時に泣くなよ、なんて言えるわけがない。

「誰にも話してないのか?」僕の問いにコクリと小さく頷いた。
「じゃあ、ずっと一人で悩んでいたのか…」また小さく頷いた。
「……だって私と彼との問題だから…。でも…千春やあなたに話そうか、って考えたのよ?間違った答えを出すことが怖かったし、誰かに聞いてもらって少しでも辛い気持ちを和らげようって…。でもできなかったの。…きっと、心のどこかで…まだ大丈夫、私たちはまだ終わってなんかいないって思ってたのね。だから千春や高見沢くんに話さなかったんだわ。…なんて自分のことなのにまるで他人のことを話してるみたいね、私…」
「……」僕は黙って美紗の言葉を聞いていた。やはり、どうしても彼女に掛けてやれる言葉が見つからないのだ。
彼女が求めている言葉は一つ。そして想いも一つだけ。けれど僕にはその言葉を言う権利もなければ、その想いの相手でもない。たぶん彼女も僕には何も求めてはくれない。ここに居ることだけを彼女は望んでいるのだと思う。
彼女の中の僕という存在はすでに過去のものだから。

美紗は涙を拭いて一口ワインを飲んだ。けれどまた一つ、二つ、涙は止まらなかった。
「いやね、涙が止まらないわ。こんな風にはなりたくなかったのに…」
「泣きたい時は泣けばいいさ。誰も見てないんだから」
「…そうね、誰も居ないものね……」涙の粒が頬をつたる。そんな横顔を見ていられなくなって僕は美紗から目をそらした。目の前のグラスを手にしてワインを飲み干す。もう一杯飲む気にはなれなかった。

ふと温かなぬくもりを感じた。タクシーの中で触れた一瞬のぬくもりではなく、あの頃と同じもの…。
「…み、美紗?」僕の隣には、僕に寄り添う美紗が居た。流れる涙を拭くこともなく、目をそっと閉じて僕にもたれている。鼓動が波を打ちまた心がざわついた。
「…大丈夫か?」そう尋ねると美紗が目を開けた。
酒がまわったのか、その目はうつろになっている。まるで僕の自制心を試しているのかのように美紗はとろんとした目で僕を見つめる。たぶん昔の僕だったら自制心なんて一瞬にして吹っ飛んでいるだろう。
昔のように一瞬にして理性がなくなる、なんてことはないにしても、美紗は未だに忘れられない昔の恋人。きっと僕の理性なんてクモの糸ぐらいの細く頼りない鎖で繋がれている。いつ切れたっておかしくない。だってこの部屋に今は僕と美紗しか居ないのだから。美紗は夫と別れて独り。そして僕も独り。
僕たちを隔てるものは何一つない。
「ね、高見沢くん」僕にもたれたまま美紗が呟いた。
「……な、なに?」動揺を隠しながら努めて冷静に聞き返す。
「…ほら、よく…失恋したら髪を切るとか言うじゃない?」
「…あ、ああ。言うけど…それが?」
「…ううん、ただ…本当にそれで次に行けるのかなぁと思って」美紗は自分の長い髪を一束指先でつまみ僕を見上げた。また瞳が潤んでいる。
「さぁ…どうだろうな」
「……私も…髪を切れば…忘れ…られるのか…な………っ」耐え切れなくなってまた美紗の瞳から涙が流れた。辛そうに悲しそうに美紗の涙は流れていく。
「…美紗…」
「こんな…の…嫌よ……忘れたいのに忘れられないなんて…っ…どうしたら…どうしたら忘れられるの……ねぇ………」身体を震わせながら美紗はすすり泣いた。無理して微笑んで自分の想いをひたすら胸に押し込めていた美紗。激しく声を上げて泣いてもいいのに、彼女はそれでも自分の悲しさすべてを僕にさらけ出してはくれない。一日中でも泣き続けられるほど悲しいのに、何故そこまで自分を中に押し込める必要があるのか。

美紗は大粒の涙を流し僕の肩に顔を押し付けた。誰にも言えず一人悩み続けた美紗が出した答えは何より辛い選択だったのだろう。僕の知らないところで彼女は一人苦しんでいたなんて…。
まだ癒えていないその深い傷に苦しむ彼女の姿に心が激しく乱れた。心が乱れるほど彼女を求める僕の想いはもはや隠せるものではなかった。けれど僕はその想いを彼女にぶつけることはどうしてもできない。心の葛藤が激しい鼓動となって僕を苦しめる。

僕にもたれてすすり泣く彼女を抱きしめてあげたい。
弱く傷ついた彼女を辛さや悲しさからこの手で守ってあげたい。
そして昔のように彼女に愛の言葉を告げたい。
まだ君を愛していると伝えたい。
僕がその悲しみを忘れさせてあげると。
今ならそれができる。
流れる涙を拭いて震える唇に優しくくちづけて、その心の痛みも涙もすべて君への想いで忘れさせることができると。

美紗がそれを望むのなら僕は迷うことなんてなかった。手を伸ばせば美紗に触れられる。抱きしめることに何の躊躇いもいらない。お互いがお互いを求めれば止めることなんて必要ないのだから。
けれど美紗がここへ来た理由は、決して僕ともう一度…なんてためじゃない。そう、僕はやっぱり美紗にとっては過去のことだから。
愛情が残っていないわけじゃないと思う。けれど今の美紗には彼しか居ないのだ。美紗が愛しているのは彼だけなのだ。
その気持ちは痛いほど伝わってくる。僕に愛を求めているわけでも僕に心の隙間を埋めてほしいと思っているわけでもない。美紗が欲しいのは彼の愛。そして求めているのは彼の愛の言葉だけ。美紗は彼を求めて泣いている。

僕は美紗を愛している。けれど美紗はまだ彼を愛している。伝わらない愛を美紗に告げるほどの勇気は僕にはない。美紗に僕の想いを知られ、彼女が目の前から消えてしまうことも耐えられない。
そして彼女がもし僕のもとに戻ってきてくれたとしても、僕は彼女を幸せにすることはできない。また同じ過ちを繰り返すだけ。僕にはそれが分かっている。彼女が求める愛に僕は応えることができない。お互いの求める愛の形がまったく違うから。だからどんなに彼女を想っていても僕には彼女を幸せにすることはできないのだ。

臆病な僕の心が告げられない言葉と想いをそっと心の奥底に沈めていった。

そっと美紗の髪をなでた。美紗は僕にもたれたままだ。
「…なぁ美紗。無理して忘れなくてもいいんじゃないかな」
「……」
「だってまだ好きなんだろ?」ゆっくりと美紗が頷く。
「それなら忘れる必要はないよ。忘れられるまでずっと想っていればいい。その間、ずっと辛いかもしれない。思い出して悲しくなって泣いてばかりかもしれない。でも、それが本心なんだから、本心を偽る必要なんてないと思う。それが忘れる一番の近道だと…俺は思うよ」
「……高見沢くんもそうだったの?」下を向いたまま美紗が尋ねる。
「…どうかな」
「なによ、教えてくれないの?」
「俺ケチだからね」
「…もう」泣きはらした目で弱々しく美紗が微笑んだ。けれど無理に微笑んでいるような感じはなかった。
「…ちょっとは気が晴れた?あんまり俺役に立ってないけど…」
「ううん、そんなことない。ありがとう、聞いてくれて。おかげでちょっとすっきりした。やっぱり詩を書く人は言うことが違うわね」
「なーに言ってんだよ。褒めてももう酒は出さないぞ」
「え〜もう終わり?」
「当たり前だ。ほら、何時だと思ってるんだよ。いくら一人だからってな、こんな時間まで男の部屋に居座るなよ」
「…あ、ほんと、もうこんな時間?」
「言っとくけど俺、明日も仕事なんだからな」
「え、そうなの?やだ先に言って。聞いてたら寄るなんて言わないわよ〜っやだ、ごめんね?」
「…いいよ、別に。今度出るアルバム買ってくれれば」
「うんうん、買う。買うわ。5枚ぐらい買って家族に配る」
「そこまでしなくていいよっまるで売れてないみたいじゃないかっ」
「あ、そう?…じゃあ2枚にしとく」
「いや、3枚で」
「え〜…しょうがないわねぇ…じゃあ3枚ね」美紗が楽しそうにクスクス笑った。
こんな関係でもいい、彼女の幸せを傍で願えるのなら。
これでいいんだよ、僕は僕自身に言った。

呼んだタクシーが到着すると、マンションの前まで見送りに出た。
「ほんとに今日はありがとう。高見沢くんのおかげで元気が出たわ」
「そうか、よかった。また美味いワイン用意しとくよ。いつでも来いよな」
そう言ったら、さっき押し込めた僕の本心が慌てているのが分かった。本心は“やめてくれ”と叫んでいるような気がする。
「それじゃ、またね」美紗が後部座席に乗り込み、窓を開けて手を振った。
「ああ、また。おやすみ」僕が手を振り返すと同時にタクシーが動き出した。
あっという間にテールライトが遠ざかり、車も見えなくなった。それでも美紗の姿は僕の前から消えることはなかった。

ずっと焼きついたまま、離れない姿。たぶん、しばらくはずっとこのままだろう。
またせっかく忘れかけても、一瞬にして蘇り、僕の心を悩ませる。でもそれは仕方のないことだ。忘れるまではそれの繰り返し。もう諦めるしかない。無理して忘れられるものじゃないから。

だからそれまではこのままでいさせてほしい。
告げることのない言葉を秘め、君を想うことを許してほしい。
君を忘れるまで。
君を想い出にできるまで。

忘れられるその時まで、僕の想いはただ一つ。

君を愛しているよ。

−Fin−

****あとがき***********************

はい、「Loving You」でございました。
自分で予想していたより、スムーズに書き上がった作品です。
まぁハッピーエンドではなくて切ない感じで終わってますが、いかがでしたでしょうか。
相手の女性、美紗さんは読者の方に嫌われちゃうかなぁと思ってるのですが、どうですかね?(^^;)
高見沢さんが「愛している」と言えない相手、という設定を中心に作り上げたお話なので、高見沢さん自身が心の葛藤をしてくれないと成立しないんですよね。なので、こんな女性を作ってみたわけです。美紗さんの気持ちも分からないでもない…でも高見沢さんが可哀想…と思っていただければ嬉しいです。

2005.4.15


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