「Journeyman」


 自分の命があと3ヶ月程だと分かった時、俺は家を出ていく決心をした。
 それまでずっと共に暮らしてきた、愛しい女が見せる悲しげな顔を見ているのが耐えられなかったからだ。
 さよならも告げず、彼女が悲しみに疲れて眠っている間に、家を後にした。
 あいつには、俺のことなど忘れて、幸せになって欲しいと心から思う。
 親と生まれてすぐに死に別れた俺に、愛情というものを教えてくれたのは彼女だったから。
 苦しめるくらいなら、居なくなった方がましなんだ。
 大丈夫、とても優しい子だから、すぐに良い奴が見つかる。

 さあ、俺はどこへ行こうか。
 こうして宛ても無く歩いて、どこまで行けるだろう。
 まだ夜も明けない。
 まるで自分の未来を現しているような暗闇。
 ため息を吐いて、視線を泳がせてみると、少し先に橋が見えた。
 その橋に引き寄せられるように、ふらふらと足を運ばせる。
 辿り着いて、下に流れる川を覗き込む。
 昨日までの雨のせいか、水嵩が増してかなりの勢いがあった。
 今、ここから飛び込んだら死ねるかな。
 飛び込むなら、こちら側より川下の向こう側の方がいいかもしれない。
 そんなことを考えていて、後ろから近付いていた車に気付くのが遅れたのだろう。
 移動しかけた瞬間、まぶしいフロントライトの光と耳を突きさすようなブレーキ音を全身に感じた。
 奇妙な浮遊感を感じた後、凄まじい、酷く熱いような痛みが身体中を走り抜ける。
 地面に叩きつけられて、そこから呼吸がうまく出来なくなった。
 血が流れ出しているのだろうか、それともあぶら汗か。濡れた感じが気持ち悪い。
 自分の鼓動が異様なほど頭に響いて、耐えがたい吐き気が襲いかかる。
 そんな中、車の遠ざかる音を聞いた。
 引き逃げ・・・か。
 まあ、いいさ。どうせ死ぬ体だったんだ。
 怒る気力も失せている。
 このまま朽ち果てても構まいはしない。
 力もどんどん抜けていく。
 けれどなかなか意識は消えていかない。
 死ぬまでの時間って、こんなに長いんだ。
 時間があり過ぎて、色んなことを思い出してしまう。
 彼女と出会った日のこと。笑って、ケンカして、一緒に眠った日々のこと。
 ああ、もう一度逢いたいな。
 でもそれももう叶わない。
 また、頭の上を車の通る音が聞こえた。
 少し行った先で、その車が止まったようだ。
 扉の閉まる音と靴音。
 近付いて、くる。
 「おい、大丈夫か?」
 耳元で、男の声。
 俺に声をかけながら、軽く揺さぶってくる。
 触られる度、激しい痛みが突きぬけていく。
 「この近くに病院がある。今助けるからな!」
 いいんだ。
 放っておいてくれ。
 もう、助からない。
 無駄なんだ。
 「まだ助かる。こんな所で死んだら駄目だ」
 その言葉を聞いた後、俺の意識は消えていった。


 気が付くと、白く、ふわふわとした場所に寝かされていた。
 天国、なのかな。
 「あ、起きたかな」
 どの方向から聞こえてくるのか分からないが、遠いような近いような、話声が聞こえてきた。
 「まだ麻酔が効いているから、意識はもうろうとしていると思うわ」
 「そっか。でも良かった。助かって」
 麻酔?助かった?一体何の話をしているんだろう。
 「けど、怪我のことよりも・・・」
 「うん・・・」
 声が少し淀んできた。
 視界も、段々と暗くなっていく。
 真暗な渦が、ぐるぐると回っていて、その中に吸い込まれていくような感覚に襲われながら、そしてまた、意識は消えていった。

 次に目が覚めた時、俺はやっと、今自分が置かれている状況を把握することができた。
 天国かと思ったこの白い場所は、病院のベッドだったらしい。
 どうやら、あの交通事故から、俺は助かってしまったようだ。
 よっぽど薬が効いているのか、それとも包帯でぐるぐる巻きにされているからなのか、身動きすることはできないが。
 「よう。目が覚めたかい?」
 かすかに聞き覚えのある声が、足元の方からやってきた。
 誰だ?
 「ああ、駄目だよ、まだ動いたら」
 少し慌てた感じで駆け寄ってきたのは、見知らぬ男だった。
 確かに声は聞いたことがあると思ったんだが。
 「気分はどう?」
 最悪だ、と言ってやろうと思ったのだが、口から出てきたのは、くぐもった唸り声だけだった。
 どうやら声帯もやられているらしい。
 ますます最悪な気分だ。
 しかしそんないらだちに気付いたのか、感じの悪い視線を向けているであろう俺に対し、 そいつは苦笑に口の端を歪めただけだった。
 「まあ、いい気分じゃないよな。でもさ、せっかく助かったんだし」
 それが大きなお世話なんだ。
 どうせまたすぐに死ぬだけなんだから。
 「・・・あのまま死にたかったのにって、顔してるな」
 俺の心を見透かしたようなことを、またそいつはつぶやいた。
 そうだよ、俺は助けて欲しいなんて頼んだ覚えはないんだ。
 逆に、放っておいてくれと願っていたじゃないか。
 そこまで考えたところで、やっと、目の前にいるこの男が自分をあの事故から助けたのだと思い致った。
 そうか、それで聞き覚えがあったのか。
 事故現場で聞いた、あの声だ。
 あの時は、もう死ぬつもりで、目も開けなかったから、姿は見ていなかった。
 まあ、そのつもりがなくても、目は開けられなかったと思うが。
 とても真剣な、必死な声だった。
 何度も、大丈夫だ、助かる、大丈夫だと、繰り返していたように思う。
 だけど助けてもらったって、感謝なんて出来やしない。
 苦しい時間が延びただけだ。
 「お前の病気のことは聞いたよ」
 突然の言葉に、思考が一瞬停止した。
 知って、いる?
 この俺の状態を?
 「あまり長くは生きられないっていうこともね」
 そこまで分かっているのか・・・?
 だったら尚更、どうして、どうして助けたりした?
 俺にはもう、何も、何一つないんだ!
 大切なものも締めた!
 安らげる場所も、優しい笑顔も、自ら捨ててきたんだ!
 自分自身を要らないと思ったから、だから!
 生きていて今更どうなるっていうんだ!
 このままずっと、死ぬ恐怖に脅えながら、身体中を蝕んでいく痛みに苦しめっていうのか!!
 叫んでそいつに掴みかかってやりたかったが、身体は動かず、声は先程と同じで唸り声にしかならなかった。
 「動いちゃだめだ!傷が開いちまう!」
 無理にでも動こうとする俺を、奴が慌てて押さえ込む。
 「・・・ごめん、興奮させたみたいだね」
 素直に謝るそいつから、怒りが収まらないまま、顔を背ける。
 小さなため息が聞こえた後、男が離れていく気配がした。
 そして、そっと扉の動く音。
 「また、明日も来るから」
 そう言い置いて、そいつは帰っていった。
 勝手に、しろ。
 俺は荒い息のまま、きつく目を閉じた。

 それから毎日俺の所へ、そいつは顔を見せにきた。
 朝早い時もあれば、昼過ぎだったり、夜遅くだったりと、時間はまちまちではあったが、一日も欠かさずに訪れる。
 何の仕事をしているのか知らないが、割と忙しいらしく、5〜6分だけという日もあった。
 反発して、何も反応しない俺にもめげず、そいつは話をしていく。
 嫌な顔をせずに、毎日毎日。
 もしかして、俺を助けたことへの責任でも感じているんだろうか。
 確かに助けられたと知った時には、余計なことを、と憎んだりもした。
 けれど実際のところ、こいつが悪いということは何もない。
 ただ単に引き逃げ現場に居あわせて、病院まで運んでくれただけだ。
 それなのに。
 身に覚えのない八つ当たりまでされて。
 普通、助けた相手にこんな態度をとられたら怒るんじゃないだろうか。
 俺だったら、確実にキレてる。
 けれど、辛抱強いらしいそいつのおかげで、身体中の包帯が取れていくごとに、ほんの少しずつ、意固地になっていた俺の気持ちもほぐれていった。
 そんな中、奴にその突然な話を持ちかけられても、素直に従おうと思えたのは、当然の成り行きだったのかもしれない。
 いつもの通り、顔を見せに来たそいつは、ベッドの傍らにあった椅子にこし掛ける。
 そしておもむろに切り出したのだ。
 「お前さ、俺の家に来ないか。もうすぐ退院だけど、家にも帰りたくない、金も持ちあわせてないじゃ、野宿になっちゃうだろ」
 確かに傷は殆ど治っている。
 病気は進行し続けているから、相変わらず治る見込みはないが、それでも病院に居続けるわけにもいかない。
 一銭も持っていなかった俺のために、治療費やら入院費やらを払ってくれているのもこいつだし。
 そんな訳で、そろそろ退院をということになったのだが、今更飛び出てきた彼女の元に戻るつもりはない。
 一体どこにいけばいいのか、途方に暮れかけていたところだったのだ。
 「色んなものがあって、ごちゃごちゃはしてるんだけどさ、そんなに狭い家でもないし。ちょっとにぎやかだから、それでも良ければ、なんだけど」
 近所に騒音でもあるのか。それとも子供でもいるのだろうか。
 確か、こいつは独身だとかいう話だったが。
 しかしその疑問は、薦められるまま、やつの家に上がってみて、すぐに解決した。
 確かに狭くないのだが、そいつの家には、やたらと生き物が住みついていたのだ。
 魚やら鳥やらカエルやら、中には俺が今までみたこともないような奇妙な奴らまでいる。
 あと、何匹いるのか分からない猫の群。
 おまけに、奴が言っていたとおり、部屋中に様々なものが大量に置いてある。
 カメラにガラス細工に雑誌にCD。何が入っているか分からない、いくつもの箱。
 それから楽器。
 なんなんだ、ここは。
 全てのものに圧倒されてしまった俺に、これらの持ち主が声を掛けてきた。
 「どうしたんだよ、ぽかんとして。あ、もしかして疲れた?外に出るの久しぶりだったもんな。部屋の中に居てくれれば、どこにいてもいいよ。ベッドも使ってくれて構わないし」
 この男は何かと気付いて気遣ってくれるが、今回ばかりは少しばかり的が外れた。
 それにしてもまあ、よくこれだけ集めて家の中に入れたものだ。
 そんな風に部屋の中を眺めているだけで何だか疲れてきてしまったので、言葉に甘えて部屋の隅を借り、休むことにした。
 日当たりが良く、床が暖かくなっている場所の側に、少し暗がりになっているスペースがあったのでそこを休む場所と決めて、ゆっくりと壁にもたれる。
 奴の言う通り、辺りはとても騒がしかったが、程なく眠りに入いることができた。
 そして、眠っている間に移動させられたらしい。
 起きた時にはベッドの上にいた。しかも布団まで掛けてある。
 本当に世話好きというか、甲斐甲斐しいというか。
 いい女房になるぞ、って、奴は男だけど。
 「あ、起きた?俺、今から出かけるから」
 そう言いながら、奴は着替えを済ませたところのようだった。
 「退屈だったらその辺のもの触っててもいいよ。でも壊さないようにな?」
 笑いながらそう言ったが、壊さなければって、どうやったら壊れるか分からないものばかりだから、怖くて、とてもじゃないが触れない、と思う。
 「それじゃ、行ってきます」
 軽く手を振って出かけるのを見送って、俺はもう一度眠ることにした。
 まだ慣れないこの部屋で、下手に動いて何かを壊すより、その方が無難だと感じたからだ。
 そして、適度に体温で暖まった布団の中にもぐり込と、すぐに眠気がきた。
 自分でも不思議なのだが、初めて訪れた家であるのに、ここは何故だか落ち着ける。
 家主の、あの性格が影響しているのだろうか。
 そんなことを考えながら、またゆっくりと眠りに入っていく。
 こうして、少し奇妙な同居生活が始まっていったのだった。

 何事もなくいく日か過ぎ、この、物や生き物だらけの部屋にも慣れた頃、奴が芸能人で、しかもベテランのミュージシャンだということを知った。
 楽器の演奏や歌がやたらに巧いなと思っていたら、本職だった訳だ。
 特にギターは絶品と言ってもいいんじゃないだろうか。
 家に居る時にも、たまに弾いているのだが、聴いているととても気持ちが良くなるのだ。
 病気が進行してきて、最近は身体中痛くなったり、呼吸が困難になってしまうこともあるのだが、そんな時でもあいつのギターの音色が癒してくれて、ふっと、痛みが引いたり身体が軽くなったりする。
 本当に不思議な奴だ。
 医者でもないくせに、苦しみを和らげてくれる力を持っているなんて。
 曲や歌を使って、俺に伝えてくれる。
 どんなに辛くても、生きているということがどれだけ大切で凄いことなのかを。
 「いつかは誰だって死ぬけどさ、生きていられる間は、せっかくだから、ぎりぎりまで生きてみたらいいじゃないか」
 まだ入院していた頃、あいつが言ったそんな言葉も、今では素直に肯ける。
 最後の最後まで、生きているということを感じてみようと思う。
 日ごとに細くなっていく息と、痛みにやつれていく身体でも、ただ静かに時を感じることができる。
 あの事故にあった時のような、なげやりな気持ちはもうどこにもない。
 焦りも、淋しさも、怖くなくなっていた。
 俺に思い出を沢山くれたあの子にも、目を閉じれば逢えるから。
 最後に見た悲しみに曇った顔じゃなく、心から愛しいと思った微笑みの彼女に。

 そしてその日、俺は自然と自分の最期を感じとっていた。
 あいつもそれに気付いていたのだろう。
 一日中、俺の傍を離れずに、ギターを弾いていてくれた。
 優しい音を聴きながら、少しずつ意識が離れていく。
 そっと、あいつの大きな手が俺を撫でる。
 「お前また、生まれかわってこいよ。今度は健康な身体でさ。そんでまた俺のところに遊びにおいで」
 静かな声が、俺をゆっくりと包み込んだ。
 そうだな。
 どこに生まれかわれるかは分からないけど、お前にも会いにきてやるよ。
 今度は彼女と一緒に、さ。
 元気に走りまわる俺を見せに来るって、約束する。
 それまで一刻のさよならだ。
 ほんの短い間だったけれど、出会えて良かった。
 「ありがとう」も、言えないままだったけれど、次に会えた時に伝えればいいよな。
 それまでギターでも弾いて、待っていてくれ。
 必ず、会いに来るから。
 会いに、来る、から。

 そして、その夜、俺は一つの旅に出ていった。
 終わりではなく、新しく生きる、その始まりへの旅に。


−−−−−−−−−あとがき−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 「人生とは、時と人との旅である」ってことで、Journeymanでした。
 書いている最中に、こっそりBGMとしてかかっていたのがフォークルの「感謝」だったことは、秘密です。(笑)
 この話は一応、『幸ちゃんと猫』シリーズの第2弾でございますね。
 以前から、のら猫さん達の最期を見送る幸ちゃんを、猫側からみた話を書いてみたいと思っていたんですよ。
 今回もあえて、猫だということは書かなかったので、男を撫でる幸ちゃんとか、ベッドに運ぶ幸ちゃんとか想像されちゃったかもしれませんが。(笑)
 もちろん、話の中に出てくる彼女さんというのは、この猫さんの飼い主です。
 次に生まれかわったら、きっとまた一緒に暮らせることでしょう。
 今度は人間でもいいかもしれませんね。
 そんで、二人で幸ちゃんに「ありがとう」って言いに行ってあげてください。
 なんてね。(*^^*)