※このお話にはメンバーは登場しません。
  しかも長くて暗いです…。
  それでもよいという方はどうぞ。


「自由になるために」





今日を生きて何になるんだろう。
私は私に問い掛ける。
返事がないことは分かってる。
でも何かに縋らなければ、私という存在が雪のように溶けてしまいそうで。
誰にも気付かれないまま、溶けて消えてしまうなんて耐えられない。
私はそんな雪のようになりたくなんてない。
…なりたく…ないのに。

頑張れば良くなる、誰かが言った。
でも頑張っても何も変わらなかった。
頑張ればあの頃の自分に戻れる、なんて期待してた自分が馬鹿みたい。
あの頃の私に戻れるなんてこと、ないのに。

必死に頑張って生まれたものは、たった一つだけ。
戻れないという絶望感。
必死に頑張って失ったものも、たった一つだけ。
戻れるという希望。

ねぇ。
私がここに居る意味はあるの?
夢も何もない毎日を送る私は、生きていていいの?

私が生きていく意味はどこにあるの…?
誰か答えてよ。

…ねぇ。
教えて。
私の生きる意味を。


「…なんて、自分で分からないのに、他人が分かるわけないじゃない」
深いため息がもれる。すでに自分自身で分かっていることなのに、心のどこかにまだ期待する気持ちがあるのかもしれない。だから誰かに問い掛けてしまうんだろう。淡い期待を持っている自分に、今まで以上に嫌気がさした。
いつからこんな性格になったんだろう。昔の私なら、こんな風には考えなかった。…いや、昔と今の自分とを比べてしまうこと自体、私が変わってしまった証なのかもしれない。
私は悪くない、そう思いたかった、いや思わなければ生きていけなくなっている。
本当にいつからこんな風になったんだろう。

…なんて本当は分かっているくせに。

夕方、西の空に太陽が暮れていく見慣れた町並みを、私はただ何もせずビルの屋上から眺める毎日を送っている。
いつから?あの日から。頑張っても何も生まれないことに気付いたあの日から。
そう、私がこんな風になったのは、その日からだ。思いとは裏腹な昨日、いつも通りの今日、そして見えない明日にただただ怯え始めた。自分でも信じられないくらいに。

私を変えたのは、たった一つの出来事だった。
両腕で抱えている自分の脚に視線を落とす。相変わらず自分の思いとは裏腹な私の脚。
私にとっては、そこに在っても無いようなもの。
私の自由を奪った忌々しい事故。
もちろん自分にだって非はある。わき道から飛び出したんだから。
そこはいつも通る道だったのに。いつもなら必ず立ち止まるのに。
けれど、車だって悪い。一旦停止さえしていれば、私の手前で止まれたはずなんだから。

私は事故に遭い、片足に損傷を受けた。他は幸いにも軽傷で済んだけれど、私の右脚は…。
「リハビリをしましょう」そう医者が言った。
「頑張って治しましょうね」母も言った。
私も治ることを信じてリハビリを受けることにした。医者の言う通りに、毎日毎日。
思い通りにリハビリが進まなかったこともあったけれど、
「頑張れば治りますから」その医者の言葉を信じて。
だって私にはやりたいことがあったから。
辛いリハビリに負けたくないほどの夢が私にはあったから。
だから負けたくなかった。


だけど。

頑張れば治るなんて、不確かな言葉、信じるんじゃなかった。
どうせ“必ず”ではなく“きっと”なんだから。そんな言葉、何の役にも立たない。
私が欲しかったのは“絶対”ただそれだけ。それだけだったのに。

リハビリを続けて、ようやく何とか歩けるようになった頃、医者と母の会話を聞いてしまった。
「歩けるようになったんですから、このまま頑張れば完治するんですよね?」
母の問いかけに返ってきた言葉は、母と私が望んでいた言葉ではなかった。
「日常生活においての歩行は問題ないと考えます。…ですが、このままリハビリを続けても走ったり運動することは無理でしょう」

「頑張れば治るって言ったじゃない…っ」私が吐き捨てた言葉に返ってきたのは、母の辛そうな顔と医者のため息だけだった。

ウソツキ。
嘘つき。
もう嫌だ。
医者なんて信じない。
「頑張れば治る」なんて言葉信じない。

私の脚は、一生治らない。

私は捨てたの。
夢も何もかも。
過去も、現在(いま)も、そしてこれからの未来も。
ううん、未来は捨てたわけじゃない。
未来はあの日で消えたのだから。
私には未来なんて何一つないのだから。


ビルの屋上で風を感じつつも、それが気持ちいいとか心地よいとか、そんなことは一切思わなくなった。
昔の私なら、心地よくていつまでも風を感じていたいと思うだろう。
そんな些細な気持ちさえ、今の私には生まれない。
あるのは、無力感と絶望感だけ。
まるで感情のない、ロボットか人形のように。

私の目はただ、ビー玉のようにただあるだけ。
太陽の光を感じても、心は何も感じない。
温かさも、柔らかな陽の感触も、眩しさも、何も。
こうして生きているのに、生きていない私。
身体から鼓動は聞こえても、心の鼓動は聞こえない。

このままじゃ私は…

無言のまま立ち上がり、屋上を囲うフェンスの手すりに触れた。冷たくて何が起きても変わることのない、ただそこに在るだけの物質。このフェンスに残るのは、ただ、私がここに居たという証拠だけ。もしかしたらそれすら、残らないかもしれないけれど。

ねぇ。
このフェンスを越えたら神様が私の脚を治してくれる?
天に向かい両手を広げ、泣き叫べばこの想いは届くの?
助けて、と口にすれば誰かが助けてくれるの?
どうすればいいの、と尋ねれば誰かが答えてくれるの?

誰も助けてなんかくれないよね。
だって誰も私の声なんて聞いてくれない。
私がこうして一人苦しんでいても、世間はいつもの生活を送っている。
私が居ても居なくても、その生活は変わらないのよ。

そう、居ても居なくても。
私が存在してもしなくても。
私が死んだとしても、この世界は変わらない。

変わるのは、私が消えてなくなることだけ。
ただ、それだけ。

腰よりやや上にあるフェンスを見つめた。
その向こうにあるのは、これから私が進まざるを得ない険しい道ではなく、何もない世界が広がっている。
何にも縛られない、私が苦しみから唯一逃れられる場所。

長い時間痛みに苦しむのはもうたくさん。
これ以上自分を嫌いになりたくなんてない。

一瞬の痛みで楽になれるのならそれでいい。

両腕に力を込めてフェンスの手すりを握った。

手すりに跨った時、目の前を黒い何かが通り過ぎた。
幻影?それとも私を迎えに来た天使?
いいえ。きっと天使なんかじゃない。
天使が黒いはずないもの。
それに私を迎えに来るのは悪魔。
私は天には行けない。
きっと地の底へ堕ちて、光のない世界が私を待っている。
でもいいの。
だって生きていても光なんてないのだから。

そして、もう一方の脚を手すりの向こうへと…


「ギーッ!ギギーッ!!」
突然、激しい悲鳴?鳴き声?が私の頭上から降ってきた。
私は我に返り、フェンスの手すりを背にして、あとは下へと落ちるだけの自分に驚愕した。
「…あ、…ああ…っ」自分の置かれている状況の恐ろしさに全身が震える。
風のうなる音、自分の乱れた息、そして恐ろしいほど早い鼓動が私の耳を占領する。
そして目の前に見えるのは、遥か下にある遠い地面だけ。
慌てて手すりを掴もうとするが、思うように身体が動かない。両脚がガタガタと震え、身体の向きを変えることさえままならなかった。ビル風にあおられ、ふらっと身体が揺れる。まるでビルの下から死神が私の脚を掴み、こっちへおいでと呼んでいるような恐怖を感じた。風の音すら、死神の囁きにさえ聞こえる。
「…ひっ……い、いや…っ」フェンスにしがみ付き、目さえ開けていることができない。

本当は死にたくなんてない!
やめて!
私を呼ばないで…っ

乱れた呼吸のまま手すりを握り締めた。硬直した身体で必死にフェンスをよじ登る。さっきは簡単に跨ぐことができたのに、なかなか脚が上へ上がらない。薄く目を開けて足元を見れば、さっきと同じように地面が見えた。下に見える何かが、私を呼んでいる。
きつく目を閉じて何とか手すりを跨いでフェンスから飛び降り、コンクリートの上に崩れ落ちるように座り込んだ。
荒い息を整えようにも、呼吸すらままならない。途端にむせ返るように咳き込んだ。これが醜くくて憐れな今の自分の姿。恐怖より、情けなさ、悔しさ、悲しさでいっぱいだった。視界が涙で歪み、無数の涙が溢れる。
「私…私は……っ」

いつも前向きだった私。
いつも自分に自信をもっていた私。
その私が、そんな私が…。

「…どうして…っ!どうして私だけがこんな目に遭うのよ……っ」

私の輝ける未来は?
私が思い描いていた未来は?栄光は?

「何で…何でよ……っ」
私の涙はコンクリートにしみこみ、あっという間に消えていく。
ここでこんなに苦しんでいる人間がいることさえ残らない。
私はどうすればいいのだろう。
どうすればこの身体に繋がれた鎖を取り払えるのだろう。
どうすれば…
自由になれるのだろう。

本当は何かに縋りたかった。
誰かに“大丈夫だよ”と言ってほしい。
誰かに私という存在に気付いてほしいの。
同情でもいい。
上辺だけでもいいの。

現在(いま)の私を受け入れてほしい。
昔の私と同じように。
壊れたおもちゃのように、見捨てないで。
現在(いま)の私を見て。

現在(いま)の私も私なの。
他の誰でもない、私なの。
夢を失っても私は私。

誰でもいいの。
誰か…私の居場所を教えて…っ


「ギギ…ッ!」バサバサッ
鳥の羽音と、さっきも聞こえた鳴き声のような…。
さっき私の前を通り過ぎていった黒いものなのだろうか。
悪魔の姿をした、天使なのだろうか。
私は声のする頭上を見上げた。
そこには鳥の群れが狂ったように四方八方へと飛び交っている。
その群れに向かい、黒い何かが飛び込んでいく。カラスだ。
一羽のカラスが、鳥の群れを攻撃しているのだ。
さっき私の前を通り過ぎたのは、カラスだったのだろう。
悪魔でも天使でもなかったことにホッとしている自分が居た。
自分を失いすぎて、大切なものすら分からなくなっている私の中にも、まだ“生きたい”と思う部分が残っている。
それが分かったからかもしれない。

鳥の群れを襲うカラスは、空中で一羽の鳥をくちばしで捕らえた。
仲間の鳥たちに攻撃されながらも、カラスはその鳥をくわえたまま、真下の私が居るビルへと降下してきた。
カラスは屋上の端に降り、鳥の片方の羽をくわえたまま、まるで勝ち誇ったかのように一鳴きした。
上空の鳥たちは激しく鳴く。仲間が捕らえられたことへの怒りか、それとも悲しみなのだろうか。
カラスに捕らえられた小さな鳥は、まだ抵抗を続けていた。カラスの身体を突付いたり、もう一方の羽を羽ばたかせ必死にカラスから逃れようとしている。
カラスはそんな鳥をおもちゃか何かだと思っているのか、一旦くちばしから離し、鳥の様子を伺うように見ている。まるで逃げてみろよ、とでも言わんばかりの態度だ。

私はその鳥が自分のように思えた。
たくさんの仲間たちの中から、カラスが無造作に選んだ鳥。
たくさん居るのに、犠牲になったのはたった一羽。
確率はかなり低いのに。
この鳥のように、私も選ばれたのだろうか。

カラスのくちばしから離された鳥は、片方の羽を広げたまま、必死に逃げようと歩き始めた。足も突付かれたのか、おぼつかない弱々しい足取りで、しかしカラスから離れようと必死だ。
カラスはそんな鳥の様子を眺めながら後を追う。
鳥が必死で逃げてもカラスは軽い足取りで追いつく。
「ギッ…ギギッ」と鳥が鳴いた。まるで悲鳴のようだった。

よたよたと歩き続け、何とか羽ばたこうと傷ついていない羽を動かすが、もう片方の羽はだらんと広がったまま動く気配はない。
カラスはそんな鳥を突付いた。突付くたびに小さな鳥は悲鳴を上げる。
“助けて…っ”
私にはそうとしか聞こえなかった。

「や、やめて!」カラスに向かって叫んだ。けれど、声がかすれて思ったほど大きな声にならない。
カラスは動きを止めて私を見た。深く息を吸い、もう一度叫んだ。
「やめなさいー!!」
バサバサバサッ
カラスは黒い翼を広げて飛んでいく。その姿は慌てて逃げるのではなくとても堂々としていて、私とこの鳥を馬鹿にしているように思えた。
飛び去ったカラスに、上空の鳥たちが威嚇するように鳴き喚いている。
残された鳥のところへと近づいた。
鳥は口をあけ、荒い息遣いで動けないでいる。
広がったまま動かない羽のあちこちには、血と思われるものがところどころについていた。
そっと手を近づけると、顔だけを私に向け、威嚇の声を上げた。
この鳥にとって、私はカラスと同じ敵なのだ。仲間は、今空を飛んでいる彼らだけ。
カラスを追い払ったからといって、仲間だと思ってくれるわけはない。
そんな都合のいいこと、鳥が思うわけがない。

でも…。
私には、この鳥は自分と重なって見える。
突然思いもしない敵に襲われ、傷ついた。
痛々しいその姿は、まるで自分を見ているようだ。
…いや、自分とは違う。
この鳥は私みたいに弱くはない。
情けなくなんてない。
私なんかより逞しくてずっと強い。
こんなになっても生きようと、敵から逃れようと必死で、私の手より小さいのに私よりずっとずっと大きく感じる。
私はこんなに弱いのに。鳥より何十倍も大きな身体なのに。
こんな小さな身体に、どうしてそんな強い心を持てるのだろうか。

この鳥が私の目の前でカラスに襲われたのは、偶然なのだろう。
でも、何か意味があるようで、とても偶然とは思えなかった。
自由を奪われた私の脚。飛べなくなった鳥の翼。
私に何かを伝えようとしてるのではないだろうか。
それが何かは分からない。
ただの偶然なのかもしれない。
でも頼るものも縋るものもない私には、そんな不確かなものでさえ、小さな光に見えた。
不確かなものは信じないと、思ったはずなのに。
矛盾だらけの私。

カバンからハンカチを取り出し、傷ついた鳥の傍におき、鳥を両手でそっと掴んだ。
威嚇するようにくちばしを私に向けるけれど、もう突付く力はないのか何もしない。
広げたハンカチの上に鳥をおき、両手で包み込んだ。
「…カラスみたいなことはしないから安心してね。病院連れていくからね。大丈夫だよ」
鳥に言っても理解できるとは思わないけれど、何故だかとても言いたくなって。
そういえば…と事故の日のことを思い出した。
事故を目撃した人が、すぐに救急車を呼んでくれて、救急車が来るまで私に付き添ってくれた。
「今救急車呼んだからね!しっかりね!大丈夫よ、大丈夫だからね」
知らない人だったから顔すら覚えていないけれど、その言葉は私の心に残っている。
何故だか本当に大丈夫な気がしたのを覚えている。
だからこの鳥にもそんな言葉を言いたくなったのかもしれない。

急いでエレベーターで降り、唯一知っている動物病院へと向かった。
走れないことに苛立ちを感じながら、転んではいけないと必死に歩いた。
リハビリの日々を思い出す。
辛かったけれど、治ると信じていた日々。
できることなら戻りたい。
戻れるものなら。
もしかしたら戻れなくしたのは自分自身なのかもしれない。
医者だって、100%治せる完璧な人間ではない。
そんなこと、私も分かっている。
分かっていて私は医者に“嘘つき”と罵った。
やり場のない悲しみや怒りをぶつける場所は、そこしかなかったから。
医者を罵っても脚は治らないのに。

自宅の近くにある動物病院にたどり着いた。
久しぶりに全力で歩いたから息切れがする。
ホッとしたのもつかの間、病院の扉には“本日は終了しました”のプレートがかかっていた。
「…もう診療時間は終わったんだ…。…どうしよう、他の動物病院なんて知らないし、たとえ見つけてもきっと閉まってるよね…」
ハンカチを開き、手の中の鳥を見た。
かろうじて目を開けてはいるが、今にも死んでしまいそうなくらい弱っているように見える。
「…どうしよう……」
助けてあげたいのに、自分ではどうすることもできないなんて。
何もできない自分の存在が、また嫌になった。

この鳥は私と違って生きようとしている。
必死にもがいて前に進もうとしている。
そんな鳥さえも助けてはくれないの?
傷を負った者たちは、その傷を負ったままハンデを背負うしかないの?
頑張れば乗り越えられる…やっぱりそれは嘘なの?
私は頑張っても乗り越えられなかった。
でも頑張れば乗り越えられる者はいるはず。
それは運なのかもしれない。奇跡なのかもしれない。
でもきっといる。
きっといると信じたい。

本当は私はまだ自分の人生を諦めたくなんてなかった。
もう諦めた、捨てたなんて嘘。
本当は自分の脚を、想いを信じたい。
本当は夢を諦めたくなんてない。

でも何を信じればいいのか分からないの。
何に縋ればいいのか、何を思えばいいのか分からない。
今、何をすればいいのか分からないの。

今の私に見えているものは、まるで自分のように傷ついたこの鳥の姿だけ。
この鳥がもう一度大空を飛べたなら、私にも何かが見えるような気がする。
何も見えないかもしれない。この鳥はもう二度と飛べないのかもしれない。
でも私は…
何かを信じたいの。
この鳥の強さを、そして今は傷ついているこの小さな翼を信じたい。
そして…自分が生きていく道を見つけたいの。

もう一度自分を信じたいの。

「病院に何かご用ですか?」女性の声がした。
顔を上げると、病院から出てきた40代くらいの女性がこちらを見ていた。
もしかしたら病院の人で頼めば治療してくれるかもしれない、と淡い期待を抱き、声をかけた。
「あ…っあのっ病院の方ですかっ?」
「ええ。…あら、あなた…それは、鳥?怪我したの?」私の両手の中でハンカチにくるまれた鳥の姿を見つけた彼女は、顔色を変えて私のところへ駆け寄り、鳥を覗き込んだ。
「は、はい…っカラスに襲われて、翼に怪我をしたんです!私、偶然その場に居て…それで…っ」
「そうなの、カラスに。…渡り鳥ね。いいわ、処置しましょう」彼女は私から鳥を受け取り、病院の扉を開けた。
診察時間は終わったから、と診察拒否されると思っていたので、私は意外な彼女の行動に目を奪われた。
あっけに取られている私に気付いた彼女は、私を振り返るとにこやかに、
「あなたも入って。大丈夫よ、絶対に助けるから」と言った。
彼女にとっては当たり前のセリフなのかもしれないけれど、私にはとても心強い言葉に聞こえた。
彼女の後をついていき、病院内の診察室に入る。人間の病院とさほど変わらない作りで、どちらかといえばこちらの方が設備が整っていてキレイだ。
「よかったわ、出かける前で。あと5分もしたら出かけてたわ」彼女はいつの間にか白衣を羽織り、長い髪を後ろに束ねて診察台の前に立っていた。
「…え、あの…もしかしてあなたが先生…なんですか?」
私の問いかけに彼女はにっこりと笑った。
「あら、女医じゃ頼りないかしら?」
「え、いえ、そんなことは…でも、何だか意外で…」
「そう?最近多いのよ、女医さん。さてと…」
診察台の上の鳥に視線を落とす。私もつられて鳥を見た。
先ほどと同じようにくちばしを開け、呼吸以外は動くことはない。
先生がそっと翼に触れるとびくりと鳥が反応したが、抵抗する元気もないらしく暴れはしなかった。
「……右の翼は折れてるわね。カラスは一羽だった?」
「はい。この鳥の群れにカラスが飛び込んでいったんです。その中のこの子がカラスにくわえられて…」
「そう」
「あの…っ…この子、助かりますか?」
「大丈夫よ。他はレントゲン撮らないとはっきりしないけど、たぶん骨折は右翼だけだし、内臓に損傷はないと思う」と先生は小さな鳥の身体を丹念に調べながら答えた。
「また…飛べるようになりますか?」
「…そうねぇ、飛べるとは思うけど−」
「後遺症とかが残るんですかっ?もう前のようには飛べないんですかっ?」
私の口調があまりに余裕がなかったからか、先生は驚いた様子で私を見上げた。
「…あ、えと…すみません…」
「…え?ああ、いいのよ。野生の鳥を心から心配してくれる人がいるなんて、この子は幸せ者ね。…でもね、この子が今まで通り飛べるかどうかは私には何とも言えないわ。私はこの子の怪我を治すだけ。飛べるかどうかはこの子次第なの」
彼女の言葉は私の胸にチクリと刺さった。まるで私自身に言っているように聞こえたのだ。
“あなたの怪我は治っている。あとはあなた次第よ。”

私の努力が足りないということなの?
あんなにリハビリを頑張ったのに。
毎日毎日休むことなくやったのに。
まだ足りないというの?

「もちろん怪我が治っても何か後遺症が残るかもしれないわ。そうなったら左翼と同じだけの筋力は戻らないでしょうし、左右の翼のバランスがとれなくて思うように飛べない。この子は自然界では生きていけなくなるでしょうね」と先生は続けた。
「……」
「…でもね、後遺症が残っても自然界で生きていく術を見つけることだってあるわ。どんな動物だって完璧なわけじゃない。私たちが気付かないだけで、自然界の動物たちは様々な障害を持っていると思うわ。その障害を表に出さないように、他の部分で補い厳しい自然の中で生きているのよ。人間だけよ、逃げ道があるのは」
「…逃げ道、ですか?」
「そう、逃げ道。そうねぇ…一番分かりやすいのは病気になった時。例えばあなたが風邪をひいたとするでしょ?」
「…はい」
「一人で治す?」
「…いえ、病院に行って薬をもらって…」
「家ではどんな感じ?ご飯は?」
「母が……あ…」私の顔を見て、彼女は頷いた。
「そう。自分が病気になった時、自然界だったら致命的よね。仲間が看病して薬をくれるわけじゃないし、食事だってもえらるものじゃない。自分のエサは自分で獲らなきゃいけない」
「そう…ですね。私たちは家族が助けてくれるし、もし一人だったとしても病院に行けばそれなりの治療はしてもらえますね」
「でしょう?この子みたいに野生の動物たちは、人間と違って自分の力で何とかしなきゃいけないのよ。だからこんな怪我をしてもこの子は生きようと必死なの。翼が折れても、例え脚が折れても、ね。人間と違って生きることに必死なのよ」
「……」私は彼女の手によって折れた翼に添え木を施されていく鳥を見つめた。

私との違いは、厳しい世界で生きているから。
私は甘ったれた人間の世界で、誰かに頼って生きようとしている。
この鳥は自分の力だけで生き抜こうと必死になっている。
その想いの強さが、私にはない。
だからこんなにも私と違う。
こんなにも。

これくらい生きていくことに必死にならなければ、ハンデを背負った者は自由を手に入れられないのかもしれない。
私は今まで辛いリハビリに耐えてきたつもりだった。けれどそれは違うのかもしれない。
思い返してみれば、私にはある程度頑張れば、この脚は元に戻るんだという安易な気持ち、そして周囲への甘えがあったと思う。
さんざん恵まれた環境の中で育った私。苦労や努力なんて、能力のない者が背負うことだと思っていた。
そして大きな舞台に立ち、いつか頂点に立てるのだという保障もない夢物語が、私の人生には必ずついてくるものだと信じて疑わなかった。
自分は誰よりも上へと登りつめる能力の持ち主だと。

そんな間違った自負心が、自分を崩壊させたのかもしれない。
事故は起こるべくして起こったのかもしれない…。
私を戒めるために。

私が考え込んでいる間に、先生は次々と処置を終えていく。
気が付いたときには、鳥は真っ白な包帯に包まれていた。
「…これでよし、と。幸い内臓は問題ないし、右翼の骨がくっつけば大丈夫」
「…あの、血も出てませんでした?」
「ああ、あの出血は大したことないわ。人間でいう擦り傷程度よ。これは1,2日で治っちゃう」
「そうですか。よかった…」
「野生の鳥だから治りも早いと思うわ。…でもしばらくはうちで入院だけどね」
「…預かっていただけるんですか?」
「もちろんよ。骨折が治って元の体力がつくまでの間ね」先生は包帯で包まれた鳥を見つめた。
「仲間と一緒に次の場所へ行かなきゃいけないものね。頑張んなさいよ、鳥くん」ツンと鳥のくちばしを突付くと、鳥は小さく“ピピ…ッ”と鳴いた。
「あら、返事してくれたのかしら」嬉しそうに先生は笑った。
「…あの…この子の治療代、私が払います。おいくらですか?」
「あら、いいのよ。この子は野生なんだし。私野生動物の治療では基本的にお金取らないから」
「えっでも…」
「いいのいいの!動物たちが元気になることが私の生きがいだから。この子が元気になったら、それが治療費の代わり。私が医者をやってるのは、仕事というより趣味だから」と先生は言った。
彼女は自分の仕事に誇りを感じ、やる気に満ちた目をしている。
生きている、というのはこういう姿を言うのだろう。
とても輝いて見えた。
「あなた、お家は近所?」
「あ、はい。結構近くです」
「そう。いつでもこの子の様子見に来てくれていいわよ。スタッフたちにもあなたのことは伝えておくし。この子の回復ぶりを見てあげてちょうだい。野生の力にきっと驚くわよ」
そう言った先生の笑顔は、とても印象的だった。


病院の帰り道、あの鳥の仲間たちが一時の休息地として暮らしている場所に寄ってみた。先生からたぶんここじゃないかと教えてもらったのだ。
自宅からも病院からもかなり近い、町の中央を流れる大きな川。海に近いこの町には、よく渡り鳥が飛来すると先生は言う。
コンクリートで固められた堤防に上がると、そこにはあの鳥の仲間と思われる鳥たちが群れをなしていた。
川岸にある浅瀬で、しきりに何かを啄ばんでいる。その動きは軽やかで、無駄のない動きだ。
「水鳥だから脚が長いのね。…可愛い」先ほど自分の手の中に同じ鳥がいたと思うと、妙に彼らに愛着がわいた。
鳥の区別がつかなかった私にも、あの鳥の仲間たちだけはすぐに認識できる。他の種類の鳥が何十羽といるのに。そんな自分が何だか可笑しかった。

あの鳥の仲間たちを眺めながら、ふと不安に襲われた。
あの鳥たちは、傷ついた仲間を待っていてくれるだろうか。
あの子のことは忘れて、次の飛来地に旅立ってしまうのではないだろうか。
人間でさえ、能力を失った仲間を見捨てるのだから。
何もかもが自分と重なる。
いや、私が自分とあの鳥を同じ立場だと思いたいのかもしれない。
だから重ねてしまうのだろう。

「…ね、みんなはあの子を待っていてくれるよね?きっと怪我が治って、またみんなと飛べるようになるから。だから、治るまでここで待っていてくれるよね?」彼らから返事がないのは分かっているけれど。あの子の飛びたいという強い心を仲間にどうしても伝えたくて。
自分が伝えられなかった想いでもあるから。
「…待っていてくれるよね?」
返ってくるのは、風の音だけだった。


翌日から病院通いが始まることとなった。
もちろん自分ではなく、あの鳥が入院している動物病院へ、だ。
本来なら、自分自身もリハビリの為に病院へ通わなければならない身。
けれど、どんなに頑張っても歩くことしかできないのなら、とあの日から行っていない。
最初のうちは母が私を説得しようとしていたが、最近はもう何も言わなくなった。
あの日の医者の言葉が、どれほど私を傷つけたのか分かってくれているのか、時々かかってくる病院からの電話も私に取り次ぐことはない。
「あんたがやる気にならなきゃリハビリにならないでしょ。しばらくゆっくり考えなさい」
母の言葉は私の気持ちを少し和らげてくれた。

昨夜、久しぶりに母とおしゃべりをした。
あの傷ついた鳥の話だ。
カラスに襲われたこと、それでもなお、飛ぼうと必死だったこと。
そして治療に応じてくれた優しい先生のこと。
母は私の話に大きく頷きながら聞いてくれた。
もちろん自分がビルの屋上から飛び降りようとしたことは一言も触れていない。
けれど母は、薄々気付いているようで、私の話を聞く母の目には、うっすらと涙が光っていた。
生きていてくれてよかった…そんな母の心の声が聞こえてくるようだった。


「あら、早速来たのね!」動物病院の扉を開けると、ちょうど待合室に出てきていた先生がにこやかに声をかけてくれた。診療時間内だから待合室にはたくさんのペットと飼い主たちが治療を待っている。
犬もいれば猫もいて。私には何だか分からない変わった動物を連れている人もいた。
「ちょうどスタッフにあなたのこと話したところなのよ。ナイスタイミングね。じゃあ、彼女案内してあげてね」
「はーい」私と同じくらいの年齢の女性が私のところへやってきた。
「先生今手が離せないので、私が代わりにご案内しますねー」
「あ、はい。すみません、ありがとうございます」
「いいえ〜。こっちですよ〜」おっとりした口調で彼女は待合室の奥へと歩いていく。
サバサバしている先生とは正反対な雰囲気の人だ。
彼女に付いていくと、奥から犬の鳴き声や鳥の鳴き声が聞こえてきた。
「この奥に入院中の動物たちがいるんですよ〜。昨日の鳥ちゃん、まだエサは食べないんですけど、水は飲んでくれたんですよ。たぶんそろそろエサも食べてくれるんじゃないかなぁって思います〜」スタッフの彼女はそう言ってにこやかに笑い、入院中の動物たちが居ると思われる扉を開けた。
さっきよりも鳴き声が大きくなり、動物たちが騒ぎ始めた。
「ごめんなさいね〜うるさくて」
「いえ…。でも何かみんな元気そうですね…」入院患者とは思えないほどそこにいる動物たちは異様に元気だ。
「あはは〜部屋の手前の子たちはもうすぐ退院する子たちなんですよ〜だから結構元気で。まだ治療中の子とか術後安静中の子たちはさらに奥のスペースにいるんです。昨日の鳥ちゃんも奥なんですよ〜はい、こちらです〜」部屋の奥にある扉を開け、おっとり彼女は私を部屋へと促した。
奥の部屋に入ると、そこは今通ってきた部屋とは違って静かで、時折小さな鳴き声が聞こえるくらい。
オリを見れば、寝ている猫や包帯をしている動物たちばかりだ。
キョロキョロと見回していると、スタッフの女性は部屋の一番奥から私を呼んだ。
「ここです〜」
「あ、はい」彼女が指差したオリを覗くと、昨日私が連れてきたあの鳥がちょこんと座っていた。
白い包帯はまだ痛々しいが、昨日と違って目をしっかり開け、こちらの様子をうかがっている。
「だいぶ良くなってますよ〜さすが野生ですね〜」
「そうですか!よかった〜」
「あとはエサを食べてくれればもっと回復が早いんですけどね〜」
「あげても食べないんですか?」
「ええ、まだ。野生ですから、人間を警戒してるんですね〜きっと」
「そうですか…」
「…あ、すみません〜私もそろそろ仕事に戻らないと…。ここに椅子があるので、よかったら使って下さいね〜。好きなだけ見てていいですよ〜」
「あ、はい。すみません、お忙しい時にお邪魔して…」
「いえいえ。私も、もしこうやって動物を保護したら気になって見に来ちゃいますよ〜だから気持ちはとっても分かりますよ。では、何かありましたら待合室か診察室に声かけて下さいね〜。ごゆっくり〜」
「ありがとうございます」
おっとりスタッフが部屋を出て行くと、私は椅子に腰掛け、鳥の様子をしばらく眺めることにした。私が見たところで鳥がエサを食べてくれるとは思わないけれど、やっぱりどうしても放っておけない気持ちになる。
この鳥が回復するまでは、見守ってあげたい。鳥にとっては、私が居たところで、何の足しにもならないと思うけれど。
「…でもよかった、少しは元気になって。昨日と様子が変わらなかったらどうしようって思ってたんだよ?早く治って仲間の所に戻りたいでしょ?ご飯食べなきゃダメだよ?」
鳥は私が怖いのか、それとも“食欲ないのよ”という意味なのか、そそっとオリの奥へと後ずさった。
「…また、空飛べるといいね」
小さく首を傾げた鳥は、私をじっと見つめ、まるで言葉の意味を理解しているかのようだ。
ピピ…と何かを訴えかけるように鳴いた。
「ん?どうしたの?…痛い?お腹空いたの?」
ピピ…また鳴いた。
鳥の言葉が分かればどれだけいいだろう。
何か言いたげな鳥は、落ち着かない様子で足元を突付いたり小さなさえずりを繰り返す。
「…何だろう、傷が痛むのかな……」
「お腹が空いたのかもしれないわね」部屋に先生が入ってきた。
「あ、先生」
「…ほら、しきりに地面を突付いてるでしょ?エサを探してるんじゃないかな。やっと食べてくれるかも」そう言った先生の手にはエサが入っていると思われる容器が握られていた。
「…それがエサですか?」
「ええ。水鳥だから、浅瀬にいる虫とか小魚を食べるの。これは小魚を少しすりつぶしたもの。人間でいう離乳食?」
「食べやすいように、ですね」
「そう。元気になったら生きた虫とかあげなきゃいけないけどね」
「む、虫ですか…」
「そうなの、虫。苦手?」
「と、得意な人はあんまりいないと思うんですけど…」
「あはは、そうね。私みたいに何でも手で捕まえちゃう女はそうそういないわね。…あなた、エサあげてみる?」
「…え、いいんですか?」
「もちろんよ。あなたがあげた方が食べるかもしれないしね。ピンセットで少しつまんで、鳥に見せてみて」
「は、はい」先生に言われた通りピンセットですり身をつまみ、オリの隙間から差し入れた。
鳥は警戒して後ずさりしたものの、ピンセットが気になるのかおずおずと寄ってきて攻撃するようにツンツンと突付いた。
「あ、突付いたわね。ピンセットを少し上に上げて、くちばしの前にエサが来るようにしてみて?」
「はい」くちばしの前に差し出されたものがエサだということに気づいたのか、鳥は奪うようにしてすり身をくちばしで挟み、勢いよく飲み込んだ。
「あ、食べました!」
「よしよし。じゃあ同じように続けてみて」
「はいっ」先生に言われもう一度ピンセットですり身をつまみ鳥へと差し出す。鳥はそれがエサだと確信したようで、自分から寄ってきて勢いよく飲み込み、さっきより元気な声でピピッと鳴いた。
「あらやだ、この子催促してるわ。とりあえず欲しがるだけあげてみてくれる?」
「はい。…これで回復はもっと早くなりそうですか?」
「そうね。近いうちに生きた虫をあげることになるかも」
「えっ…そ、それは先生があげて下さい…ね?」
「あははっでもこれを機会に虫に慣れてみるのもいいかもしれないわよ?」
「…え、ええっ」
「冗談よ!」先生は楽しそうにそう言うと、エサやりを私に任せて部屋を出て行った。
昨日会ったばかりだと言うのに、先生とは楽しく話ができて不思議だった。スタッフにしてもそうだ。最近人と話すことすら嫌だった私なのに、先生やスタッフの人とは気分よく話ができる。
「…そっか。二人とも私のことを知らないからかもしれない」
私の周りにいたのは私のことを知っていて、そして脚のことも知っている人ばかり。脚のことを言わないように、と気を遣いぎこちない会話をする人しか周りにはいなかった。
先生やスタッフの人はそんな私の事情を何も知らない。だからこそ、私にも普通に接し、私も普通に接することができるのだろう。
今の私を“私”として接してくれる人たち。
同情も慰めもない、当たり前の会話ができる。
私が求めていた当たり前の生活だ。
私の事情を知らないことは、それだけ親しくないだけでもある。
けれど、私にはその方が心が穏やかになれる。
今の私が求めていた人たちがここにいる。
久しく感じていなかった穏やかな気持ち。こんなに心地良いものだったなんて。
心に温かさを感じて目頭が熱くなった。
「……君、いい先生に治療してもらってよかったね。幸せだね…」
私の言葉に鳥はタイミングよくピピッと鳴いてくれた。
私をまっすぐ見つめながら。
「やだ、返事してくれたの?…ありがと……ありがとね…」
昨日までとは違う温かい涙が自然とあふれてきた。
私の凍った心をやさしく溶かすように。


その後も私は毎日動物病院へ通った。
雨が降っても、風が強くても。
自分のリハビリの時は、雨が降ると家からも出たくなかったのに。
そして不思議なことに、今まで慎重だった歩行にも少しずつ余裕が出てきて、歩くことが苦ではなくなりつつあった。
階段や段差では特に慎重で、一歩踏み出すことにも恐怖を感じることがあったのだが、今では手すりさえあればそんな怖さも感じることはない。
毎日動物病院に出かけることが、私にとっても一つのリハビリにつながってるのかもしれない。

出かける時にはいつも母が見送ってくれる。最初は不安そうな顔で、心配ばかりしていた母だったけれど、今では笑顔で手を振ってくれるようになった。私もそんな母に笑顔を返せるようになっている。
自然に笑う、だなんてそれだけでもものすごい進歩だと思う、と母は言う。
「あんた、前よりずっとずっといい顔してるよ。お母さん、今のあんたの方があんたらしいと思うわ」
私も、ちょっとだけそう思う。まだまだ自分らしくなんてないけどね。
でも昔の私が100%自分らしかったわけじゃない。どこか一部分には、自分らしさを押さえ込んだ偽りの姿があったような気がする。本当は弱いのに強がったり、好きなものを嫌いだって言ったり。
自分らしく生きるのは、結構難しくて勇気がいる。私にはそんな勇気が足りなかったのかもしれない。
少しずつ、本当に少しずつだけど、自分のこれからの道を示す何かが見え始めてきていた。

もちろん、そんな風に自分が変わってきているのは、鳥が順調に回復しているからだ。
毎日鳥の元気な姿を見ることで、私も元気になれる。
自分の姿を重ねたこの鳥が順調に回復することは、まるで自分のことのように嬉しい。
鳥が元気になることで、私にも生きる勇気がわいてくるようだった。
きっとあの鳥はまた仲間と一緒に空を飛べる。
大空を力いっぱい羽ばたいて、前よりも生き生きとして。
私の分も、自由に飛んでくれる。
そう信じて、私は鳥の回復を見守った。
まるで、あの頃の自分の回復を信じるように…。



「…うん、この調子ならあと一週間で退院かな。骨も無事つながったし」
「ほんとですか?よかった!」診察を終えた先生の言葉に、私は思わず拍手をした。
「エサもしっかり食べてるし、体調も特に気になるところはないしね。思ったより翼の筋力も衰えてないみたい。さすが野生、鍛え方が違うのかしらね」
「すごいですね、野生って」
「ほんとにね」カルテに診断結果を書き込みつつ先生は頷く。
「これなら仲間の鳥たちと一緒に次の場所へ行けますよね?」
私の問いかけに、先生は表情を曇らせた。私が先生と知り合ってから初めてみる顔だ。
「…先生?」
「……」無言で白衣の胸ポケットにペンを戻す。
「……先生、もしかして鳥たちはもう飛び立ってしまったんですかっ?」
「…ううん、まだあそこにはいるんだけどね」
「…?」
「友人にね、鳥を専門に扱う医者がいるのよ。それで昨日聞いてみたの。この鳥がこの辺りに滞在する期間をね」
「いつまで…なんですか?」
「…長くて明後日か、もしかしたら明日かもしれないって」
「あ、明日?そんな…明日なんて、まだ無理なんですよね?」
「難しいわね。いくら骨がつながったといっても、次の場所へ飛んでいけるほど体力があるとは思えないし、仲間の元に戻してもうまく飛べないかもしれないし。明日群れに戻しても、仲間についていけるとはとても思えないわ」
「……そんな…」
「この子の治りが悪かったわけじゃないのよ?むしろ素晴らしい回復力よ。私はここまで早く回復するとは思ってなかったから」
「…頑張って治ったのに……それなのにこの子は仲間と一緒に行けないんですか?こんなに頑張ったのに…」
泣かずにはいられなかった。だってこんなに生きようと頑張っていたのに。仲間の元に帰ろうと必死だったのに。
こんなに頑張っても私と同じ道を辿らなきゃいけないの?
この子は私とは違うのに。

助かったのに、ひとりぼっちなの?
仲間に見捨てられるの?
どうして?

ボロボロと涙を流す私の肩に先生がそっと触れた。
「まだ決まったわけじゃないわ。友人の情報は、平均的な滞在期間を教えてくれただけ。もしかしたら今年は長く滞在するかもしれないでしょ?ある年はもっと短くて早く飛び立ってたかもしれないし。とにかく今は、この子にできる治療を続けるしかないの」
「……」
「…私は信じたいな。この子の仲間たちを。あなたも信じてあげなきゃ。あなただけなのよ、襲われたこの子を助けようとカラスに立ち向かっていった仲間たちを見たのは。そのあなたが信じなきゃ、この子が可哀想よ」
「……先生…」顔を上げると、先生はスタッフを指差した。
スタッフの手にある小さなオリ。その中に入れられた鳥は、何かを訴えかけるように私を見ていた。
その瞳は、悲しそうにも不安そうにも見える。
助かって喜んでいるようには見えない。
私にありがとう、と思っているようにも見えなかった。
むしろ私には…

「…先生…私……」
「ん?」
「この子を助けたのは間違いだったんですか?」
「…え?」
「私が助けなければこの子はカラスに殺されてました。でも…私に助けられたこの子は、助かっても群れに戻れないかもしれない。ひとりぼっちになるかもしれない。助けたことで私がこの子を不幸にしてしまう…。私は…助けてはいけなかったんですか……?」
「……」
“私が生きていることも間違いなのでしょうか…”

「…そんなこと言ったら、助かっても群れに戻れなかったり、ひとりぼっちになると分かっている動物たちを助けている私たち医者のやっていることが…全部間違いになっちゃうわね」
「…っ」振り返ると、先生は悲しそうな目をして私に微笑んでいた。
「…あ、…私…」涙で先生の顔が歪んで見える。
「あなたの気持ちも分かるわよ。この子が群れに帰れるようにって見守ってきたんだもの。…でも、もしあなたが助けなかったらこの子は死んでいた。それはそれで、あなたに“助けてあげればよかった”って後悔の気持ちが生まれると思うの。どちらが正しいのかなんて、簡単に言えるものじゃないわ。これは医者の私でも明確な答えは出せない。医者も万能じゃないから」そう言って先生は白衣のポケットからハンカチを取り出し、私の手に握らせた。
「私はね、群れに戻ることよりも何よりも、生きていてほしいから助けるの。この子もそう。助けられる命は助けたいの。あなたがここへ連れてきてくれたから、この子はこうして生きているのよ。生きていることまで否定したら、この子はこれからどうやって生きていくの?この子のこれからは、まだ繋がったままなのよ。ずっとこの子を見守ってきたんだから、ちゃんと最後まで見守ってあげて。群れに帰っても、帰れなくても。この子はこうして生きているんだから」
「……先生…」
「生きる道は一つじゃないのよ。群れに帰ることができなかったら、この子の生きる道を見つけてあげるのが、私たちの役目じゃない?違う?」
生きる道。
一つじゃない。
この子の生きる道。
「…生きる道……見つけてあげられるんでしょうか…」
「この子の生きたいという強い想いと…そしてあなたの見つけてあげようって想いがあれば、きっと見つかるわ。それがどんな形になるかは分からないけど、私は信じるわ。この子と、あなたの想いを」
「……」
「あなたはこの子を助けたかったんでしょう?」
「…はい。…生きて…ほしかった……」
「この子も、死にたくない、生きていたいと思ってると思うわ。…あなたのお陰でこの子はこうして生きているのよ。あなたのこと、ちゃんとこの子は分かってると思う。自分を助けてくれた人、毎日“頑張れ”って声かけて、エサをくれた人だってこと。ほら、あなたが泣いてるから、あの子不安そうに見てるじゃない。あの子の頑張りをあなたが認めて褒めてあげることが、あの子の力になるのよ」
私を見つめ続ける鳥は、小さな声で“ピィ…”と鳴いた。まるで先生の言葉を理解して、返事をしてくれているようだった。
「…ほら、“うん”ってあの子言ってるじゃない。この子とこうやって過ごせるのも、あと一週間よ。笑顔で“あと一週間頑張ろうね”って励ましてあげなきゃ」
「そうですよ〜。この子、あなたじゃないと、エサの食いつき悪いんですから〜。あと一週間も、毎日来てあげて下さいね、自然に帰る前にめいっぱい食べて体力つけなきゃいけないんですから。ね、鳥ちゃん?」
“ピピッ…ピピピッ”
「ほら〜」スタッフがにっこり笑う。
「そうよ。あの子に体力つけてあげなきゃ」ポンポンと私の肩を叩き、先生はいつもの笑顔で言った。
「…先生……」
「…大丈夫。きっと大丈夫だから」
不安な私を温かく包んでくれる先生の言葉。“きっと”なんて不確かな言葉だと思っているのに、先生に言われると“きっと”が“絶対”に思えてくる。何て不思議な人なんだろう。彼女の言葉は、どうしてそんなにも力強く聞こえるのだろうか。
彼女自身が輝いているから、だろうか。
理由は分からないけれど。

鳥は首を傾げてこちらを見ている。その姿が本当に不安そうに見えてくる。
“どうしたの?何で泣いてるの?”なんて聞いてるのかな。
ね、本当に私が君を不安にさせてるの?
泣いてるから?
私が笑顔になれば、君も元気になってくれる?
“ピピッ”鳥が鳴く。
私、君のこと助けてよかったのかな。
“ピ…ピピッ”また鳴いた。
…仲間と……
…一緒に飛べなくても?
“ピピッ…”
…また鳴いてくれた……。

私、変ね。
人間よりも、ずっとずっと君の方が、言葉も分からないのにこんなにも君の気持ちが感じられるなんて。
単なる私の勝手な思い込みかもしれないけど。
“誰もそんなこと思ってない!”って本当は思ってるかもしれないけど。
もしかしたら“助けてなんて頼んでいないのに!”って私を恨んでるかもしれないね。
余計なお世話だったのかもしれないね。
…でも、でもね。

君には大空を飛んでほしかったの。
未来を諦めてほしくなかったの。
自分が出来なかったことを君に押し付けてるのは分かってる、分かってるよ。
自分の身勝手な君への期待で、君を傷つけてるかもしれない。
でも、それでもいいから、君に生きてほしかったの。

もしかしたらひとりぼっちになってしまうかもしれないね。
君を置いて、仲間たちは先に旅立ってしまうかもしれないから。
でも大丈夫。
君を一人になんてしないから。
そんな時は、私と一緒にいよう?
ずっとずっと傍にいるから。
君の傍で、私も、君と一緒に生きるから。

ね、一緒に生きよう?

“ピッ…ピピピッ”

君は一人じゃないよ。


それから7日目の朝、動物病院を訪ねると先生が鳥の最後であろう診察をしていた。休診日だというのに、スタッフも来ていた。先生もスタッフも、そして私もいつもより表情は硬い。
そんな私たちのいつもと違う顔に、鳥は少々落ち着かないようだ。
「先生、どうですか?」診察室を覗き込み遠慮がちに尋ねる私に、先生は念入りに鳥を調べながら、
「うん…」とだけ返す。
「まだ…無理そうですか…?」
「……よし!河原に行きましょう!」
「え…っじゃあ…」
「大丈夫、怪我は完治。体力も問題なし!」先生はいつもの笑顔を見せてくれた。
「よかった…っ!!」
「じゃあ箱持ってきます〜」スタッフも嬉しそうに診察室の棚から穴の開いた木箱を取り出した。
「河原まではこれに入れていきましょう。元気ありあまってるから素手ではとても連れていけそうにないし」
「はい」緊張した面持ちで私が頷くと、先生は苦笑いをして私の頭をポンと軽く叩いた。
「こら、表情が硬いわよ。もっと明るく!」
「あ、は、はい」
「じゃ、この箱はあなたが持ってね。外で待っててくれる?すぐ行くわ」
「は、はい!」先生から木箱を受け取り、病院を出た。
幸いにも今日は晴天。強い風もなく、比較的穏やかだ。
木箱の穴から鳥が時折くちばしを出して、箱から出せと訴える。
「だーめ。これから君の仲間の所に行くんだからね。それまでおとなくしてて?」
仲間がいてくれればいいんだけど…と願わずにはいられない。
“ピピッ”
まるで“またそういうこと考えるんだから!”と私を嗜めるように鳥が鳴く。
あまりにタイミングが良いから、心を見透かされているようでドキッとする。
「…ねぇ、君人間の言葉が分かるの?私の思ってること、分かるの?」
“……”何も反応はない。
「…やっぱり気のせいか……だよね、そんなことあるわけないよね」
でもそんなすごいこと、あったらいいな。

「お待たせ!じゃあ行きましょうか」先生が笑顔で病院を出てきた。スタッフも一緒に出てきたが、扉の前でこちらに手を振るだけで、行く気配はない。
「あの…彼女は…?」
「ん?ああ、彼女はお留守番。私の代わりに入院してる動物たちの面倒を見てもらうの」
「あ、そうなんですか」
「いってらっしゃ〜い!」相変わらずのんびりおっとりした口調でスタッフは私たちに手を振る。
「いってきまーす!」先生と二人でスタッフに手を振り、河原へと向かった。

人と一緒に歩くなんて、久しぶりだ。自分のおぼつかない足取りだとみんなが気を遣ってしまう。だからあえてどこに行くにも別行動をとるようにしていた。
まだ多少左右の足運びに違いはあるけれど、ほぼ歩行に問題はなくなっている。先生に迷惑をかけずに済みそうだ。
「いい天気で良かったわね」
「そうですね」
「このままピクニックに行きたい気分だわ」
「あ、いいですね。河原でお弁当とか」
「ああ!いいわね!コンビニでお弁当買って、ねぇ!」
「…でも、スタッフさんが怒っちゃいますよ?」
「あ、そうだ。留守番させといて自分はピクニックだなんて、ね。あの子普段はあんなにおっとりしてるんだけど、怒ると怖いのよ。ああいうタイプは怒らせると危険よ」
「あはは、先生気をつけないと」
「そうなのよ。これでも結構気を遣ってて大変なんだから!」

先生は今日までずっと色んな話をしてくれた。
動物病院を開業するまでのこと、もっともっと前の、学生時代のこと。
決して今日まで平坦な道を歩いてきたわけじゃなかった。
「挫折を味わったからこそ、今の私があると思うの。もし何も不自由せず過ごしてきていたら、今どん底だったかも」
そんな先生の話を聞いて、苦しんでいるのは決して私一人じゃないことに気づいた。
よく考えれば、病院のリハビリセンターには、大勢の人たちが来ていた。
彼らも、私と同じように辛い目に遭い、苦しんでいたのだ。
自分のことで頭がいっぱいで、そんな彼らの姿に気づかなかった。
中には、私よりずっとずっと辛い人もいたのに。
そのことに気づいた時、自分の今までしてきたことが、恥ずかしくなった。
自分だけが不幸だと、自分だけが辛いだなんて、よく言えたものだ。

ようやく今の自分と向き合えるようになってきた気がする。
私は脚を失ったわけじゃない。
私の生きる道は一つじゃない。
そう思えるようになった。
まだ、どこに進めばいいのかは分からない。
でも、いつか見つけられるような気がする。
もちろん保障はない。
でも、誰の人生にだって、保障なんてないのだから。
この鳥にだって。

「あなたが前に群れを見たのはこの辺りだって言ってたわよね?」
「はい。この辺り…だったんですけど…」先生と堤防を上がり、前群れを見かけた場所から川岸を見渡す。
「……いませんね…」目に見える範囲には、鳥の仲間たちは見当たらない。いるのは他の鳥たちだけだ。
「…いつも同じ場所にいるとは限らないし、もうちょっと上流に行ってみる?」
「そう…ですね」
“もういないのかもしれない”私はその言葉を口にするつもりはなかった。この子を悲しませたくないから。
先生も、たぶん言わないだろう。
数十メートルほど上流へ歩いてみたが、仲間らしき群れは見つからない。
「…朝起きるのが遅い鳥、なんてことはないわよねぇ…」冗談まじりで先生が呟く。
「そんな鳥いるんですか?」苦笑いで先生に返す。
「いるかもしれないわよ?鳥といっても種類はかなり多いんだから。もしかしたら夜飛ぶ鳥がいるかも」
「え、コウモリみたいにですか?」
「そう、夜行性…なんてね。…ちょっと川岸に下りてみるわ。あなたはそこにいてちょうだい」
「あ、はい。…気をつけて下さいね?」
「任せてちょうだい。こういうことはよくやってるから」
そう言うと、先生は軽やかに傾斜のあるコンクリートの堤防を下りていき、川岸の植物の間を覗き始めた。
もしかしたらもういないかもしれないのに、先生は真剣に鳥の仲間たちを捜し続ける。

先生の中に“諦める”という言葉は存在するのだろうか。
どうしたらあんな風に“諦めずに”捜すことができるのだろうか。
私もいつかはあんな風になれるだろうか。
ううん、なれるだろうか、じゃなくて。
私もいつかはあんな風になりたい。
先生のように“諦めずに”自分の想いを信じていきたい。
先生が教えてくれたように。
そして鳥が教えてくれたように。

私も諦めたくないから。

「先生!」堤防の下にいる先生に声を掛ける。
「…ん?」
「私もそっちに下ります!」
「え?でも…」
「大丈夫です!私も捜します!」鳥の木箱を持ったまま、私は堤防を下りよう足を踏み出した。
「あ、ダメよ、待って。結構傾斜があるから不安定であぶ……あっ!」
突然先生が私を指差した。
「……え?」
「…後ろ!」
「え…?」先生に言われ後ろを振り返った。
−バサバサバサバサバサッ−
無数の羽音が私の頭上すれすれを通過していく。近すぎてよく見えないが、どうやら鳥の群れだ。
「うわっ…」あまりの数と突風に私は驚いて座り込む。木箱の鳥も驚いたのかバサバサと騒いでいる。
「大丈夫っ?」群れが通過すると、先生が慌てて堤防の上へ戻ってきた。
「は、はい。びっくりしただけで…。す、すごい数…」
「あなたのこと、驚かしたかったのかしらね」
「…え?」きょとんとする私に、先生は上空の鳥の群れを指差して言った。
「近すぎて見えなかった?ほら、よく見てごらんなさい」
私の頭上を飛んでいった鳥の群れは川の上を大きく旋回し続けている。
“ピッ…ピピピピピピッ”木箱の鳥が激しく鳴いた。
「……あっ!」
―ピピピピッ ピピピピィッ―
鳥たちが鳴く。
この子の、この子の仲間たちだ。
「この子が戻ってくるの、待っててくれたみたいね」先生が上空の鳥たちを見上げて言った。
「あ、ああ…っ!」大粒の涙が、私の目からいくつも零れ落ちる。
「…ね、信じることも悪くないでしょ?」
「…はい。……はい…っ よかった、よかったね。みんな…待っててくれたよ…っ」木箱の鳥は落ち着きをなくし、バタバタと羽を広げている。
「…よかった……。本当によかった…っ」両手で木箱をぎゅっと抱きしめた。

偶然出逢った私たち。
でも、この出逢いは偶然じゃないよね。
君は私に、生きる強さを教える為に空から降りてきてくれたんだよね。
鳥に姿をかえて。
こんな私のところにも、天使が来てくれた。
小さな、小さな、私だけの天使。

君と出逢えてよかった。
君を信じてよかった。

私の目から、今までの苦しみや哀しみが涙となって流れていく。
生きているからこそ、流れる涙。

現在(いま)を生きていてよかった。

あの日聞こえなかった心の鼓動。
今、強く、強く感じる。

私はちゃんと“生きて”いる。

「さ、帰してあげましょうか。上のふた、開けてあげて」ポンと先生が肩を叩いて言った。
「はい。…ほら、みんなの所にお帰り。もうカラスにつかまっちゃダメだよ?」
そっと木箱のふたを開ける。
鳥は突然開けた視界に一瞬たじろいだが、上空の仲間たちを見つけると両方の翼を大きく広げ、羽ばたいた。
その羽ばたきは力強くて、あの日の傷ついた姿が嘘のようだった。
あっという間に群れへと加わり、もうどれがあの鳥なのか分からなくなってしまった。
「もう、区別できないわねぇ…」苦笑いの先生。
「あ、はは、ほんとに…」泣き笑いの私。
「…たぶん、今日か明日には次の場所へ旅立つでしょう。これが今年この子たちを見る最後になると思うわ」
「はい…」
「…彼らの姿、しっかり目に焼き付けてね」
「はい……」涙で、よく見えないけど。

よかったね。
ひとりぼっちにならなくて。
また仲間と一緒に飛べるね。
二度と会えないけど、私のこと、ほんの少しでいいから覚えていてほしいな。
こんな人間がいたってことを。
私はずっとずっと忘れないよ。

素敵な時間をありがとう。
私だけの小さな天使さん。

「さて、帰りますか」
「…はい」涙でいっぱいのみっともない顔を拭いて立ち上がった。
何だか足が震えてる。
「あら、何か足震えてない?大丈夫?」
「何か、あまりのことに震えが…」
「あらまぁ」呆れ顔の先生が私の腕を取って支えてくれた。
「すみません…」
「いえいえ。じゃあ、最後にお別れしときましょうか」先生は群れを振り返った。
すでに群れは水面に着水し、食事を始めている。
「ほんと、どれなのかしら…」
「分かったらすごいですよね」いくら毎日見ていた鳥でも、同じ鳥の中から見つけるのはとてもじゃないけどできそうにない。
「ま、仕方がないから群れ全部に。カラスには気をつけてよ!」先生が群れに手を振る。
「あはははは…」私も小さく手を振った。
「さ、行きましょう」
「はい」頷いて二人で歩き出した。
「何かホッとしたらお腹空いてきちゃった。あなた朝ごはん食べた?」
「あ、少し食べてきました。でも、もうお腹空いてきちゃってます」
「じゃあ喫茶店でも寄らない?私食べてないのよ〜」
「いいですね。行きましょうか」
「美味しいところ知ってるの。安くてね、それでいて量は多めで」
「いいですねぇ…」

とその時、私たちの前を何かが飛んでいった。
「……え?」その姿を追う。
どうやら鳥が私たちの周りを旋回しているようだ。
「………ね、ねぇ?あれ、もしかして…」
―ピピピッ ピピピピッ―
「…そんな、まさか……」
「ううん、そのまさかだわ。絶対にあの子よ」
一羽の鳥が、私たちの周りを旋回しながら、しきりに鳴いている。
私たちを見ながら。私たちに向かって。
夢を…見ているようだった。
「…ありがとうって言ってくれてるのかしらね」
「…先生には“ありがとう”ですよ」
「あら、あなたには違うの?」
「たぶん」
「…何て言ってるの?」
「…うーん……“おまえも頑張れ!”って。あとは“泣くなよ!”かな」
「…そう。じゃあ泣いてなんかいられないわね。頑張らなきゃね」
「はい。頑張らなきゃ怒られちゃいますね」

私も頑張るよ。
君がくれた勇気。
君が教えてくれた強さ。
もう一度自分を信じるよ。

もう一度、夢に向かって……




『さぁ、今日のレースはどのような闘いになるのでしょうか。注目は○○選手。そして◇◇選手。最近メキメキと力をつけてきた△△選手も忘れてはいけません。選手たちの今の表情をグラウンドにいる□□さんに聞いてみましょう。□□さん?そちらの選手たちの様子はどうですか?』
『はい、こちらグラウンドの…………』
ラジオから聞こえる声に耳を傾けながら私はストレッチを繰り返す。
今日は大きなマラソンの大会だ。沿道にはすでに多くの人たちが応援に駆けつけている。
スタートとゴールでもある競技場にも多くの人たちが集まり、レースのスタートを今か今かと待っている。
優勝タイムによっては、オリンピック出場権が与えられるだけあって、出場者も真剣そのものだ。
『まもなくスタートです』
ラジオの声に、私はスタートラインに立った。
といっても、私が立つのは競技場でも何でもない、ただの道路だ。スタートラインがあるわけでもなく、沿道にたくさんの人たちが集まっているわけでもない。

ここは私自身のスタートライン。私だけのスタートラインだ。
右脚を損傷し、走ることは無理だと言われた私。
一度は諦めて絶望した私。死のうと思ったこともあった。

でも結局は走ることを諦めることはできなかった。
どんな形でもいいから私は走りたかった。
スタートラインは一つじゃない、ゴールも一つじゃないと気づいたから。
私には私のスタートラインとゴールがある。

私だけのスタートライン。私にはちゃんとラインが見える。
ゴールは果てしなく遠くてテープは見えないけれど、きっといつか見えてくる。
そのゴールに向かって私は走り続けようと決めた。
傷ついた鳥がまた大空を飛んだように。

『さぁ、スタートまで30秒を切りました。今年のレースでは、どんなドラマが待っているのでしょうか。大会新記録を打ち破る選手は出てくるのでしょうか。そして、ゴールであるここ××競技場へ最初に戻ってくるのは、どの選手なのでしょうか!』

ドラマは大会の中だけじゃない。私の中にもある。
私だけの私の為のドラマ。
他の誰も作れやしない。

『パーンッ』

ようやく走り出した私。
長いレースが今、始まった。

『各選手、一斉にスタートしました。己の限界に立ち向かう選手たち。自分と自分との孤独な闘いが、今始まりました!それぞれの夢に向かって…!』


―Fin―


*****あとがき**************************

「自由になるために」でございました。
メンバーが登場しない上に、長くて暗いお話でしたね…すみません(^^;)
以前「Beyond The Win」もマラソンのテーマ曲でしたが、違うタイプのお話を書きまして、今回は、ストレートにマラソンのことを書こうと決めておりました。
といっても、マラソンのことは最後しか出てきてませんが、きっと「走れない」とか書いた時点でその辺りは分かっていただけたのかもしれませんね。

毎年マラソンを見ていると、選手それぞれに色んなドラマがあって、色んなことを乗り越えてその大会に出場している、なんて話を聞きます。自分じゃ到底乗り越えられそうもないものと闘っている選手たちはすごいなぁといつも思います。
そしてきっと、出場するはずだったけれど出られない人も中にはいるんだろうな、と思い生まれたのがこのお話です。
人が挫折してもう一度立ち上がる時に何が必要なのかは、誰も分からないものですよね。でも、このお話のように、心を溶かしてくれる何かが一人ひとりにあるような気がします。
それが動物だったり、音楽だったり人だったり。絵画だったりするかもしれません。

まだまだ表現しきれていない部分が多くて、勉強不足な作品ですが、今、何かに苦しんでいる人に、このお話で少しでも勇気をあげられたらいいなと思います。

2005.7.15


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