「星に願いを」


「ねぇ、これ5部でいいのよね?」私は分厚い書類の束を両手で掲げ、同僚に向かって尋ねた。
「あ、うん。5部でよろしく。ついでに−」
「ホチキス止めでしょ?」
「あ、分かった?」
「いつものことじゃない。これって急ぎ?」
「今日中でいいよ」
「了解。…あ、そうそう。部長がさっき探してたわよ。書類がほしいのになぁ…とか何とか呟いてたけど?」
「しまった!渡すの忘れてたっ!」同僚は冷や汗とともに立ち上がり、書類やらファイルが散乱したデスクから目的の書類を探す旅に出た。いつ見つかるのやら。ターゲット発見にはずいぶん時間がかかりそうだ。頑張れ。

頼まれたコピーをしていると、ふとコピー機の横に無造作に放置された雑誌が目に入った。きっと若い女の子たちが昼休みに読んだものだろう。表紙には“クリスマスはここで決まり”というありきたりの文句が書かれていた。
「そうか、もうクリスマスの予定を決める時期か…」目の前のカレンダーを見上げる。
10月も半ば。そろそろクリスマスの予定を決めないと目的のレストランや高級ホテルは予約できないのだろう。みんな大変だな、と思う。
「…ということは、あの子からそろそろメールが来るってことね。さて、今年はどうやって慰めようかしら」
「慰めるって誰をですか?先輩」ひょっこり後輩が顔を出した。
「やだ、どこから出てきたの?」
「え?普通に歩いてきましたよ?」
全然気づかなかった。
「で、誰を慰めるんですか?あっ年下の男でもいじめたんですかぁ?」
「何言ってるの。友達よ、女友達。十年以上の長い付き合いのね」
「振られちゃったんですか?そのお友達さん」
「ううん。いたって彼氏とは順調」
「じゃあ何で慰めるんですか?」
「その子の彼氏、イヴに必ず仕事があるから毎年いじけるのよ。会えないって」
「えーっイヴに仕事ですかっ?あーん、それは可哀相!毎年なんですよね?私だったら我慢できないっ別れますーっ」
「たかがイヴに会えないだけで?」
「先輩、たかがじゃないですよ!イヴは大切な日なんですから!」
「そうらしいわね」
「もー!何でそんなに冷めてるんですか?先輩は彼氏とイヴを過ごしたいって思わないんですか?」
「…さほど」
「じゃあ彼氏が“イヴは仕事で会えないんだ。ごめん”って言ったら“ああ、そうですか”で終わり?」
「他に何を言うのよ?」
「……」無言とともに大きなため息を返された。
彼女の言いたいことはちゃんと分かっている。自分が人より冷めていることも。
私だって彼女みたいに“クリスマスは恋人たちの大切な日”だと思いたい。冷めている私にだって、そういう乙女な気持ちはなくはない。
でもだからといってクリスマスのために慌てて彼氏を作ろうなんて気はない。そんな即席彼氏が私の本当の意味で大切な人になるとはとても思えないし。
出会いがないわけでもない。ただ、クリスマスを一緒に過ごしたいと願うほどの相手が見つからない。それだけの話だ。そんな人がいれば、私だってクリスマスを素敵に過ごす計画を立てる。でも今のところそんな予定はない。真っ白だ。
イヴに彼氏に会えない友人を慰める。それが私の恒例のイヴなのだ。

「ねぇ、この雑誌は誰の?」
後輩と周りにも聞いてみたが、分からなかった。だからといって置いておくわけにもいかない。持ち主の分からないものは廃棄、だ。とり終えた大量のコピーの上に雑誌を乗せ、席へと戻る。
何故私が捨てるはめになるんだろう。持ってきたものは責任を持って自分で捨ててほしいものだ。
ゴミ箱の前に来ると、雑誌を投入口に差し込んだ…のだが。
「…ん?」
雑誌の表紙に気になる文字を発見した。
“クリスマス限定!ホテルのスイーツ特集”
「……」
手元にこっそりと引き戻したのは言うまでもない。


仕事の後、帰路の途中にある喫茶店へと入った。
もちろん雑誌を読むためでもあるが、この店の紅茶も目的の一つ。早く帰れた日はこの店に寄ることにしている。すでに店員さんとも顔見知りなので、オススメの紅茶が入荷すると教えてくれる。今日はあっさりダージリンティにしてみた。紅茶を飲みながら雑誌をめくる。
「どれも美味しそうだなぁ…」
雑誌を拝借した時、今年のクリスマスはいつもと違うことをしようかという考えが浮かんでいた。
毎年切ない気持ちになっている友人のために、たまにはサプライズでも仕掛けてやろうか、なんて考えたのだ。
「…あ、ここのホテル良さそう」
見つけたホテルは小高い山の上にあるホテルで、ディナーの写真の隣には美味しそうなケーキが写っていた。よく読んでみると、敷地内に天文台が併設されていてイヴには天文ショーが見られる、というのがこのホテルのウリとのことだった。
「ん〜…でも女二人で旅行に来て、カップルで賑わう天文ショーに予約するのもおかしいわよね。予約入れても予定通り行けるとは限らないし。しかし何がいいのかしらねぇ…星なんか見て何が面白いのかしら」天体観測なんてこれっぽっちも興味のない私には、こんな施設が流行る理由がちっとも分からない。
「でも場所的にはいい感じなのよね」
「…あれ、もしかしてそのホテルに泊まられるんですか?」顔見知りの店員が通り掛かりに声をかけてきた。
「うーん、どうしようかなぁって思って。このホテル知ってる?」
「少し前に行きましたよ。ランチを食べに、ですけどね。料理美味しかったですよ。あとケーキがすごく美味しくて!」
「…そうなの?」
「ええ。そのホテルのパティシエ、自分のお店も持ってるんだそうです。ホテルから…車で2,30分のところにあるとか。あ、テレビにも出たこともあるらしいですよ」
「そう。そうなんだ」彼女は私同様スイーツに目がない。しかも好みの味は私と似ている。私は雑誌の角を大きく折った。
決まりだ。


「へぇ…良さそうな所だね」友人の彼は、私が持ってきた雑誌とホテルのホームページを印刷した紙をウンウンと頷きながら見てくれた。
「そうなんですよ。ここなら車で1時間くらいですよね?」
「うん、そうだね。それくらいで行けると思う。へぇ、こんな所があったんだねぇ」
「どう…ですか?やっぱり仕事の後に1時間かけて移動して…っていうのは大変です?」
「いや、俺は全然。1時間で行けるなら、ギリギリでイヴに着けそうだし。ありがとう、プラン考えてくれて。でも…いいの?女二人旅なのに、俺が合流しちゃったら−」
「ああ、それはお構いなく。いらっしゃったら私は別行動しますので」
「一人で?あ、それとも…」
「一人ですよ。行きたい所があるんですよ。だから一人で別行動でも全然問題ないですから」
「行きたい所?」
「…このホテルでパティシエやっている人の店に行きたいな…と」
「相変わらずケーキが好きだね」彼はやや呆れたように笑った。
「ええ、相変わらずで」
「でも本当にいいのかなぁ。何か悪いよ」
「いえ、そんな気になさらなくても。私が一人で勝手に思いついたことですから逆に迷惑かなぁって思ってるぐらいですもの」
「迷惑だなんて思ってないよぉ。今年のイヴはどうしたもんかなぁって悩んでたから、こんな提案持ってきてくれるなんてむしろ有り難いよ。…毎年、おいでよって誘っても断られるし、無理して会いに行こうものなら怒られるしで困ってたんだ、実は」
「あの子は結構頑固ですからね。でも、あの子の言動はどれも迷惑をかけたくないっていう気持ちからくるものなんですよ」
「うん、そうなんだよね。気遣いすぎなんだよね。もうちょっとわがまま言ってくれてもいいんだけどなぁ。聞き分けがよすぎると逆に不安になるんだよね。実は俺より好きなやつがいるんじゃ?とか…」
「それはないです。あの子はそんな器用な人間じゃないですよ。バカがつくほど一途なんですから」
「バカって…」
「あら、本当ですよ。だって電話がかかってきても、どこかに出かけてもいっつも惚気られてるんですから、私は。毎回惚気られる私の身にもなって下さいね」
「あははは…」彼は照れくさそうに笑いながら、もう一度雑誌に目を落とした。

今日は彼が所属するバンドのステージがある日。
友人に誘われて二人で来ることになっていたのだが、友人は仕事で到着が遅くなる、と連絡があったため私だけ先に会場にやってきた。このチャンスを逃すわけにはいかない。彼にあらかじめ連絡を入れ、早速楽屋に押しかけた、というわけだ。
友人に付いて二人で楽屋に来たことはあったが、一人でここへ来たのは初めて。緊張するかもと密かに思っていたのだが、どうやら私の精神は相当図太いようだ。

友人はもともと、このバンドが好きだった。
ファンだった彼女が彼と出会い、付き合うことになったと聞いた時にはさすがの私もそれは驚いた。今でもたまに信じられないぐらいだ。友人と彼が付き合いはじめたことで、私もちょくちょく顔を合わせるようになり、私の中で唯一知り合いの有名人なのである。

私は友人に誘われて彼らのコンサートに来ているわけだが、実はそれを結構楽しみにしているのだ。
最初はロックなんて…と思っていたけれど、参加してみると激しい曲だけでなくバラードや、昔歌っていたというフォークなんかもやってくれる。ロックバンドはロックしか歌わないという私の勝手な思い込みは、そうして崩れていき、今では友人が仕事で行けなくなっても一人で参加することもある。
だから結構楽しみにしているのではなくて、すごく楽しみにしているということなのだが、
「私よりハマッてない?」という友人の言葉は、とりあえずまだ否定している。そのうち認めざるを得なくなるのは目に見えているけれど。
「誰のファンになったの?」友人にそう尋ねられたことがあった。私は、
「三人が好きなのであって、誰かってことはないわね」と答えた。間違ってはいない。その時は本当にそう思っていたのだから。

「じゃあ、明日にでも電話してみますね。予約でいっぱいだったら、また違う手を考えましょう」
「ありがとう」
「あ、それでこのことは−」
「内緒ってわけだね」
「はい」
「内緒にしてたこと、当日怒らないかなぁ…」
「嬉しくて怒ってる場合じゃないですって」
「だといいけど」少し不安げな顔をしつつも、何だか楽しそうだ。もともとサプライズな企画は好きなのかもしれない。

「入るぞー。あのさー…あ」メンバーの一人が顔を出した。私を見て、はたと動きを止める。さすがの私も身体が固まった。
(わ…っ本物…っ)
入ってきたのは、バンドの中で一番存在感のあるメンバー。全身が普通の人と違うオーラに包まれているように見える。何だか輝いているというか、眩しいというか。でも、もしかしたらそれは衣装のせいなのかもしれないけれど。いや、でもやっぱりそれを抜きにしても輝いていることは間違いない。
「すみません。お、お邪魔しています」緊張しながら頭を下げると、彼は大きな目で私を見返した。すごくドキドキする。
「こちら俺の彼女の友達」
「…あ、そう。ごめん、客人がいるって思わなくてさ」
「何か用だったんだろ?」
「あ、うん…いや、でも後でもいいし−」
「すみません。私が出ます。用事も済みましたし、そろそろ失礼させていただきます」机の上に広げた雑誌類をかき集めてバッグにしまった。
「…そう?」
「ええ。もうすぐあの子も来ると思いますし」
「あ、そうだね。そろそろかな」
「ええ。予約とか、きちんと決まりましたらまた連絡しますね」
「うん、ありがとう」
楽屋のドアの前に立つ輝く彼に会釈する。
「し、失礼しました…っ」
「あ、いや。こちらこそ話し中に邪魔してごめん」非常に申し訳なさそうに彼は頭を下げた。
「い、いえ…。そ、それでは失礼します」
「うん、今日は楽しんでいってね」
「はい、楽しんでいきます。では」二人に頭を下げて楽屋を後にした。

「…びっくりした。まさか彼が入ってくるなんて」
私は三人が好き、のはずだった。
けれど、何度もコンサートに参加していくうちに、自分の中で三人の存在の大きさが変わっているのだと…実は最近気が付いた。友人の彼は元々”友人の彼氏”として知り合ったわけだから、存在が変わることはない。今でもやっぱり”友人の彼氏”という位置づけだ。問題は…あの人だ。さっき会った…あの人。この頃、彼が気になって仕方がない。
テレビに出ると聞けば必ず観てしまうし、観られない時は録画予約までしている。友人の彼がテレビに出る、と聞いても録画予約をとったことがないのに。この違いは何か。それはやっぱり彼が気になっているからなんだろう。

最初は本当に三人のことが好きだった。特に誰が、とかそんなことはなかったし、コンサート中に一人だけずっと見ている、なんてこともなかった。なのに、だ。いつからか…それは分からないけれど、コンサート中に見ている割合が変わってきた。
友人に他のメンバーのしていたことを言われても、そんなシーン私には覚えがない。何より他の二人の衣装すら何だったかも覚えていないのだ。偏って見るつもりはないはずなのにな、と思う。でも実際かなり偏って見ているのは事実だ。
つまり、彼のファンになってしまった、ということなんだろう。確かに彼が作る曲や歌詞に涙が出るほど感動するし、彼が語ることに大きく頷いたり、心の奥深くに沁み込むことは多々ある。彼のような人と出会えたらいいのに、とさえも思う。
私は、ファンというより、理想の男性として彼を見ているらしい。
そんなことを自覚し始めていた矢先のあの突然の対面。予期していなかっただけに、本当に驚いた。
「やだ、まだドキドキしてるわ…」

「あっやっと来た!先に来てると思ったのに」席に行くと、友人がすでに到着していて自分の席に座っていた。
「あら、早かったのね。仕事早く終われたの?」
「定時できっちり上がってダッシュで来たの!おかげで始まる前からお疲れよ」
「あらら。じゃあ今日は座って観る?」
「何言ってるのよ!立って参加するに決まってるでしょ!」
「だよね」
「あ〜今日はどんな衣装なのかなぁ…。楽しみ!」目を輝かせてワクワクしている友人を尻目に、私は密かに先ほどの突然の対面を思い出していた。


翌日の昼休み、例のホテルは無事に予約がとれた。私が電話を掛けた時点で、残り2部屋だったらしい。ラッキーとしか言いようがない。もちろん2部屋予約した。
早速メールで友人をクリスマス旅行へ誘ってみた。たまには予想外な答えでも返ってくるかと思ったけれど、予想通り「行く!」という言葉が帰ってきた。今年のイヴは仕事が休みなのだから、もしかしたらコンサートに行くのかな、とも考えたのだが、やはり行く気はないらしい。
”休みなんだから行けばいいのに。”という私の言葉に、彼女は”…色々思うことがあるのよ”と言葉を濁す。二人きりがいいんだよね。分かってるよ、そんなこと。でも口には出さないけれど。

彼にもメールで連絡した。
”昨日はライブお疲れさまでした。
例のホテル、無事予約できましたのでご報告します。
あの子にも旅行のことは話しました。もちろん計画のことは秘密で。”

すると、しばらくして彼から返事が届いた。
“昨日は来てくれてありがとう。楽しかった?
ホテルの予約ありがとう!ちゃんと秘密にしてるよ(笑)
突然だけど明日の夜、暇?ちょっと会ってほしい人がいるんだけど…。急でごめん、今のところ明日しか空いてなくて。”

「え?…何だろ、誰かしら」
不思議に思ったが、別段断る理由はなかった。友人の彼が変な人に会わせるような人ではないことは十分知っているし、何より私が誰に会おうとも独り身なのだから問題もない。

“明日の夜、大丈夫です。どこに行けばいいですか?
コンサート、楽しかったですよ!大笑いさせていただきました(笑)”

“ありがとう。
じゃあ、19時に○×駅近くの□△ビル1階で。
美味しい店があるんだ。…ケーキも美味しいらしいよ(笑)”

“分かりました。では19時に。
ケーキ楽しみです(笑)”


「あ、こっちこっち。仕事お疲れさま〜」
約束した場所に時間通りに行くと、彼がすでに来ていた。
「お疲れさまです。ごめんなさい、もしかしてお待たせしちゃいました?」
「いや、俺も今来たとこ。じゃあ、行こうか。もう一人はちょっと遅れるって」彼の案内で店へと向かう。いったい誰が来るんだろうか。
お店は創作料理のお店だった。雑誌で見たことがある。確かメニューが豊富でどれも美味しく、デザートの種類も多いとか。期待できそうだ。どの席も半個室のような造りで、隠れ家的。私が案内されたところは、店の奥にある個室だった。しかも掘りごたつ。
「よく来るんですか?」
「まだ一回かな。美味しいよって聞いて来てみたんだ」
「そうですか。確か雑誌にもこのお店載ってました」
「そう。やっぱり美味しいところは雑誌に載るよね」
「ですね。…あ、これ、そういえば渡してなかったな、と思って持ってきました。ホテルのホームページ印刷したものです」
「あ、ありがとう。今日はごめんね、本当に急で」
「いえ、あたしは全然」
店員がお茶とおしぼりを持ってきた。ホカホカのおしぼりをもらい、何だかホッとする。
ヴゥーン…と携帯のバイブ音がした。
「あ、ごめん俺だ」
「いえいえ、どうぞ」
「もしもし?あ、着いた?うん、俺たちはもう着いてる。店入って来ていいよ、一番奥の個室」かなり短い会話で通話が終了した。
「どなたが来られるんですか?」
「あ、うん。…もう来るから分かるよ」
「…はぁ」教えるつもりはないらしい。

「悪い、遅れて」
聞き覚えのある声に私は一瞬固まった。
彼が来てもおかしくはないけれど、こんなところに来るはずがない。
(声が似ているだけに決まってるじゃない。)そう思い直して個室に入ってきた人を見上げた。
「…えっ?!」個室の戸を開けて入ってきたのは、正真正銘あの人だった。
「いや、俺たちもさっき来たところだから」
「そうか、よかった。…こんばんは」彼が私にペコッと頭を下げた。
「え、あ、こ、こんばんはっ」慌ててお辞儀する。予想外な人の登場に、激しく動揺してしまう。この前の突然の出現よりも緊張する。こんなところで会うなんて思ってもみなかった。
どうして彼が来たのだろうか。まさか…勝手な想像で勝手にドキドキしてきた。
(…いやだ、私バカみたい。)
「自己紹介はいらないよね」と友人の彼が私に言う。
「あ、はい、よく…存じております」
「だよね。じゃあ…話は食べてからにして早速頼もう。好きなの頼んでいいよ」
「じゃあねー」
「おまえじゃないよ。彼女に言ってんのっ」
「あ、そうか」
「”あ、そうか”じゃないよ。そんなの分かるでしょ?まったくもー。はい、何にする?」
かろうじて食べたいものを選べたが、彼のことが気になって仕方がなかった。どんな小さなことでも見逃せない…そう、まるでコンサートで彼を眺めるように、私は目が離せなくなっていた。彼が目の前にいる。こんなことってあるんだろうか。
何を話しても何を食べても、すべてが上の空だった。

料理を食べ終えた頃、
「そろそろデザートじゃないの?」と友人の彼が笑いながら私と彼に言った。そう、彼もデザート好き。自分と話が合うんじゃないかと密かに思っている。
「おまえは食べないの?」
「うん、いいよ。もう腹いっぱい。それに…おっと、俺悪いけど先に出るよ」時計を見るなり彼はジャケットを手に取った。
「えっ?!」席を立とうとした友人の彼にびっくりして視線を送る。
(二人きりだなんてそんな…っ!)
「あ、うん…ごめんね。誘った俺が先に帰って。実はこれから仕事なんだ」
「そ、そうなんですか…」
「うん。あ、大丈夫。支払いはこいつがするから」
「えっ!おまえタダ食いかよっ」
「俺はおまえの頼みを聞いてやったんだけどなぁ?」
「……」
「おまえのスケジュールに合わせて今夜の仕事遅らせたんだけどなぁ?」
「わ、わかったよ!わかったからさっさと帰れっ」
「はいはい、邪魔者は帰ります」
邪魔者、と聞いてまた変にドキドキしてきた。
「それじゃ俺はこれで。またコンサートにも来てね」
「は、はい。また…行きます。お仕事頑張って下さい」と言いつつも私の目はまだ彼に縋っていると思う。気づいてはもらえないと思うけれど。
戸を開けて振り返ると、
「ちゃんと家まで送り届けろよ」と彼に声を掛けた。
「当たり前だ」
「…自分ん家に連れていくなよ?」
はいっ!?
「ば…っ」彼が反論しようとテーブルに手をかけると、
「じゃ!」と友人の彼は手をヒラヒラさせて戸を閉めた。
(も、もう!何、言ってるのよ!そんな台風みたいな捨て台詞していかないでよ!気にしちゃうじゃない!)彼はああいう所で少々…いや、だいぶ意地悪だ。

彼の残した言葉で気まずい雰囲気になった気がする。どちらもメニューを見たまま無言になってしまった。さっきまで何とか会話できていたのに。
(どうしよう、何を言えば…)メニューの美味しそうなスイーツを見てもちっとも頭に入らない。
「あの…さ」彼が口を開いた。
「はっはいっ」
「…ちゃんと、家まで送るから。そんな、自分ん家に連れていこうなんて−」
「いや、あの、そんな、あたしもそんなことは心配していませんから!き、気にしてませんし!」もちろん嘘だ。いつもの冷静さなんて一欠けらもない。この人の前だと私はいつもの自分ではいられなくなる。友人にはとても見せられない姿だ。
「……」彼はじっと、目の前のグラスを見つめている。
そんな姿がまた見とれてしまうほどキレイだった。こんなに近くでこうして見られるなんて、まるで夢みたいだ。でも、変な期待は捨てなければ。そんなことあるわけないんだから。
「…少しは気にしてほしいな」グラスを見つめたまま彼が小さく呟いた。
「…え?」
「俺のこと」顔を上げて私を見つめる。心臓がうるさいぐらいに高鳴った。
「君に会いたいってあいつに頼んだんだ」
「…えっ…」あまりのことに思考回路が止まった。
「一度ゆっくり…話してみたいって思って」
「あ、あたしと…ですか?」
「うん」吸い込まれそうな瞳にめまいがする。
「…そ、そんな風に思っていただけるなんて…こ、光栄ですけど…でも…一昨日ご挨拶しただけのあたしにどうして…?」
「うん…何でだろうな。すごく、気になった」
「…あたしが…ですか?」
「うん。凛としていて…綺麗な人だなって」
「そ、そんな…」あなたみたいにキレイな人に言われるほどキレイじゃない。
「いや、本当にそう思ったんだ。一言しか話せなかったけど、それだけですごく印象に残って…また会ってみたいって、ちゃんと話してみたいって思った。俺みたいな男は嫌いかなって思ったけど、どうしても会いたかったから。ちゃんと君のことを知りたくて」
「……っ」顔が火照るのを感じた。とても信じられない。
そんなことってあるんだろうか。私はからかわれているんじゃないだろうか。
「突然、そんなこと言われても…困るよね。ごめん」
「い…いえ…」
「でも嘘じゃないから。それは信じてほしい」真剣な眼差しで私を見つめる彼。
嘘じゃないんだ。これは夢?夢なら覚めないでほしい。
「また、食事に誘ってもいいかな」そう尋ねられて私は柄にもなく心が躍った。
「は、はい。喜んで」私の返事に彼が笑う。いつも客席から眺めていたその笑顔。こんな近くで見られることに私はただただ幸せを感じた。

その日はタクシーで自宅まで送ってもらい、また会う約束をした。
「この日はどうかな」彼が指し示したのは5日後。
「え…あたしは大丈夫ですけど…お仕事は…?今、ツアー中ですしお忙しいんじゃ…」
「忙しいけど大丈夫。だって会いたいし」ストレートに気持ちを口にする彼。今までそんな人と出会ったことがなかった。それだけに恥ずかしいやら嬉しいやらで何だかくすぐったい。
タクシーを見送って温かな気持ちで部屋へと入る。ジャケットを脱いでまずは卓上カレンダーに印をつける。いつもならどんな予定が入ろうともただ○をつけるだけなのに、彼と会うその日は花丸にしてしまった。こんな女の子らしいことを自分がするなんて思ってもいなかった。
「…私も女の子だったんだなぁ」自分で描いた花丸を見つめながら一人呟いた。

それからというもの、彼は忙しいなか私と会う時間を作っては二人で出掛けるようになった。それがたった一時間でも私は嬉しかった。都合が悪くなって約束がキャンセルになったこともあったけれど、それでも私は幸せだった。
彼はいつでも真っ直ぐで、飾らない言葉で私に気持ちを伝えてくれる。あれこれと飾り立てた言葉を並べて気取る、なんてことはしない。だからこそ、彼の言葉を私も真っ直ぐに信じることができた。
「俺と付き合ってほしい」そう彼に言われた時も、私はその言葉を素直に受け止めて頷いた。ただ、心配なことは一つあった。私のクールな性格に嫌気がさして、恋人から別れを切り出されることがよくあるのだ。彼にもそんな風に思われるのだろうかと心配したのだが、
「その性格、格好いいよね」と逆に褒められた。幸いにも彼には何ら問題なかったらしい。
特別自分を飾ることもなくて、私はいつも自然体。彼も自然体で接してくれる。そんな関係でいられる人がいるなんて思わなかった。
彼との恋は今までとは違う、そう思わずにはいられなかった。

街がクリスマス一色になった頃、私はイヴのことを考えるようになっていた。
気がつけば私も彼女と同じようにイヴに恋人と会えない、という立場になっている。同じ立場になって分かったことが思った以上にたくさんあって、彼女の我慢強さにため息が出る。そしてイヴのコンサートに行かない彼女の気持ちが苦しいくらい理解できた。
「…こんな気持ちをあの子はずっと自分の中に溜め込んでるのね。すごいな、あたしには何年も耐えられないかもしれない」
彼に“会いたい”と言いたくても言えない。つい最近までそんなに我慢しなくていいのに、そう思っていた。でも、本当に言えないものなんだな、と分かった。私も彼には“イヴに会いたい”と言っていない。いや、言えない。きっと“会いたい”と言えば無理してでも来てくれると思う。彼はそういう人だ。
でも無理させたくない。身体を休めてほしい。会うのはイヴじゃなくてもいい。
けれど、そう思っている自分の中に、イヴに会いたいと願う自分も存在する。そんな自分が心の中にいることが嫌になる。
どうしてそれくらいのことを我慢できないのか。自分は人より恵まれている人間だというのに。それでも会いたいと願う私は嫌な女なのだろうか。色々な気持ちが交錯して胸が苦しくなる。
でも今回は彼女のために計画したものだ。友人との旅行はもう一週間後に迫っている。自分のことは考えないようにしよう、そう自分に言い聞かせた。


イヴ当日。
予定通り私は友人と例のホテルにやってきた。ホテルまでの道のりではショッピングモールに行ったり、お茶したり、それなりに楽しんだ。彼女もその時は楽しそうな顔をしていて少しホッとした。
けれど夕方ホテルに着き、ディナーに出掛けると彼女がだんだん寂しそうな顔になってきた。
「…日中はね、明るいから忘れていられるのよ。でも夜になると会えないことを思い出して悲しくなるの。そういうこと、あるでしょ?」彼女はそう言った。
そうね、あるよね、そういうこと。でも私はあえて素直に同意はしない。
「…なくはないわね」
「どっちよ」
「だから、ないこともない、つまりあることもある、のよ」
「素直に“ある”って言ってよ」
「あたしが素直じゃないの、よく知ってるでしょ」そう返して私は目の前にあるケーキを口に運んだ。かなり美味しかった。ケーキがあってよかった、と心から思う。おかげで彼のことを今だけでも忘れていられる。

残念ながらお目当てのパティシエの紹介がメニューには載っていなかった。雑誌に載るぐらいの人なのだから普通ならパンフレットなんかに載せるはずなのだが、ここのホテルのパンフレットにもパティシエの名前はなかった。
私はセンチメンタルになっている彼女を残してパティシエの名前を聞きに席を立つ。名前を聞きつつその人が出しているというお店の名前と住所も確認した。ついでに美味しかったイチゴの産地と銘柄も聞いてみた。大収穫だ。

席に戻ると彼女はまだ寂しそうだった。
「行けばよかったのに」そう私が言うと、
「だって…」と友人は下を向いた。
さすがの私も彼女の気持ちが分かるだけに、いたたまれない気持ちになる。
分かるよ、その寂しさ。行けば会えるのに行かない気持ちも。私も同じだから。
何も言わずにはいられなくなった。
「分かってるわよ。あんたが行かない理由は、何となく分かる。もしあたしがあんたなら、あたしも嫌だもの」友人は驚いて目を大きく見開いた。私が友人のことを分かると言ったのは、今日が初めて。驚くのも無理ない。彼女は興味津々で私をしげしげと見つめる。
「なぁに、いい人できたの?」
「……」私は無言で紅茶を飲む。
「なによ〜言いなさいよ!」
「…あたしみたいに察してみなさい、たまには」彼女の気持ちが分かるようになっても、私の意地悪な性格は直らないらしい。

ディナーを食べ終えて一旦部屋に戻った。しばらく部屋で嘘っぱちな明日の出掛け先を検討し、友人の彼が到着する頃を見計らって、外に星を見に行くことにした。今夜は相当気温が冷えているからきっとキレイに見えると友人は私に言った。
星にはちっとも興味がない私だけれど、満天の星空というのは一度見てみたかった。どの星が何て星か、なんていうのは一切分からないけれど。

「うわーっ!!キレイ!」友人が嬉しそうに星空を見上げた。
「本当ねぇ…」本当にキレイだ。星が降ってくる、という表現はあながち嘘ではない。
「…あっ流れ星!ああ、消えちゃった。願い事言えなかった!」
「そんな一瞬に願い事三回言える人なんていないわよ。いたら教えてほしいわ」苦笑して空を見上げる。これが満天の星空。こんな風に星を見るために夜空を見上げるなんて、初めてかもしれない。
「確かにね。絶対無理よね、三回も言うなんて」
ふと、私の頭上を星が流れていった。私は見間違いかと思った。でも、今見上げていた夜空をスーッと何かが流れていった。確実に流れ星だろう。
実は流れ星を見たことがなかった。星空を見ることもほとんどないから余計かもしれないけれど。
私は流星群が来ると聞いても、興味もなかった。流れ星は宇宙の塵だという話だし、そんなものを見ても何の感動もないだろう、と物心ついた頃からそう思っていた。
けれど今見た流れ星は、塵とは思えない美しさだった。あっという間の出来事だったけれど、私は密かに感動した。
(流れ星に願い事…か。)
私も星に願えば彼がここに来てくれるだろうか、なんて叶うわけがないことを思ってしまう。今日ここにいることすら話していないのにそんな奇跡みたいなことがあるわけない。いい加減、諦めればいいのに。自分のことは、今日は忘れなければ。
友人はずっと星空を見上げている。きっと彼女が願っている事は私と同じなんだろう。大丈夫、もうすぐそれは叶うから。
「…あ、オリオン座!」
「え?どれ?」
「ほら、あれと、それとこれとあれを繋げて、その中央にある三つの星がオリオン座」空に指差してオリオン座の形を描いてくれたが、ちっとも分からない。そもそもこんなたくさんの星の中で何故星座が分かるのだろう。彼女はおかしいんじゃないだろうか。
「…分からないわ。どれがどれだかさっぱり」
「え〜分からないの?有名な星座じゃない。都会でもオリオン座なら見えるわよ。三つの星は分かる?ほら、あれ」それは何となく分かった。
「ああ、何か斜めに並んでる三ツ星ね?あれがオリオン座ね。ふーん…。普段夜の空なんて見ないし全然知らなかったわ。今度探してみるわ。きっと都会の空の方が探しやすいでしょ?」
「あはは、そうね。星が点々としかないからすぐ見つかるわ」
「…でも残念、雪は降りそうにないわね」雲ひとつない空を見上げる。
「雪?降ったらびっくりよね」
「きつねの嫁入りどころの騒ぎじゃないわね。晴れの日に雪が降るのは何かたとえはないのかしら」
「そんなたとえ話を出すあたり、若くない証拠ね」
「同い年でしょ。あんたも若くないってことよ」
「すでに若いって言える年じゃないもの」
「あら、彼から見れば十分若いでしょ。彼、若く見えるけど…あ、電話だわ」バッグから携帯を取り出すと、バイブの振動とともにランプがピカピカ光っている。携帯の画面を見て苦笑した。今話題にしていた友人の彼からだ。すごいタイミングに私たちの会話を聞いているんじゃないかと思った。
「誰?あ、さっき言ってたいい人!?」友人が目を輝かせて私を見る。さすがに”あんたの彼よ”とは言えない。
「…違うわよ。ちょっとごめん、すぐ戻るわ」
「どうぞ、どうぞ、ゆっくり愛を語らってきてちょうだい」
「何言ってるのよ、違うって」友人から離れながら小声で電話に出た。
「もしもし?着きました?」
『うん、今駐車場。どこに行けばいいかな。』
「とりあえずホテルの入り口の方へ向かって下さい。今からそちらに行きますので」
『うん、分かった。』小走りで来た道を戻る。友人はきっといい人からの電話だと思ってニヤニヤしてるんだろう。

入り口に向かうと、彼が駐車場から上がってきた。
「お疲れ様です。時間通りですね」
「うん、道がそんなに混んでなくてよかったよ」とても嬉しそうに笑う。この旅を計画してよかった、そう思える瞬間だ。
「…何だか嬉しそうですね」
「え、そう?…確かに嬉しいけど、俺そんなに嬉しそうな顔してる?」
「ええ、とっても。あの子もきっと泣いて喜びます」
「そうだと俺も嬉しいけどね。今日は本当にありがとう」
「いえいえ。あの子はあそこに居ます。早速電話してあげて下さい。あたしもタイミングよく向こうに戻らないと。何だかドキドキするわ」
「その前にお礼をしなきゃ」
「……え?お礼…ですか?何言ってるんですか、そんなのあたしは−」
「今日ね、実は勝手に予約変更したんだ」
彼の言葉が私には理解できなかった。
「…は?」
「3人で2部屋予約してたでしょ?」
「え、ええ」
「俺が4人に変えたから」
「…よ、4人?だ、だって3人しかいないじゃないですか」
「あいつから伝言」彼がにっこりと笑う。
「…え?あいつ…?」
「“俺も行く”ってさ」
「…はい?」
「俺が出る時、あいつまだいたからイヴに間に合うかは分からないんだけど」
彼の言う”あいつ”とは、つまり…。
なぜ今日彼のことが話題に出るのか。私は彼に今日のことは一言も話していない。
「な、何言ってるんですか。あたし、この旅行のことは彼に一言も−」
「俺が話しちゃった」
「は、話しちゃったって…!」
「前におまえは行かないの?って聞いたら“聞いてない!”って言うからさ」
「だ、だってあたし話してないですもの!」
「何で話さなかったの?俺が来られるんだからあいつだって来られるでしょ?ちっとも無理なんかじゃないじゃん」
「…そ、そうかもしれませんけど…でも−」
「あいつに会いたくないの?」
「そんな!会いたいですよ、もちろん!来てくれることは嬉しいです。会えるのなら、そんな幸せなことはないです。でも…」
「無理させたくない?」
「…はい……」
「二人して同じこと言わないでよ」彼は苦笑いを浮かべて小さくため息をついた。
「たとえ無理してここに来たとしても、一番大事に想ってる人に会えたら、無理したこととか疲れてることなんて全部忘れられるもんなんだよ」
「……」
「いつも寂しい想いをさせているのは、俺もあいつも痛いほど分かってる。だから多少無理してでも、会いに行きたいって思うんだ。会える時間がたとえ、1時間だとしてもね」

以前、彼が突然家にやってきたことを思い出した。
“少し時間ができたから会いに来た”
嬉しい反面、それ以上に無理をして来てくれたことに涙が出た。自分は忙しいのに、それでも私のために時間を作ってくれる。疲れているのに、いつだって笑顔で私を包んでくれる。私はそんな彼の優しさに、何を返せばいいんだろう。
「…無理して会いに来てくれても、あたしには…彼を想うこと以外にできることがないんです。いつも彼からもらうばかりで…何も返せないことが辛いんです。だから−」
「それだけで十分だよ」
「…え?」
「想うこと以外に何もいらないでしょ。それが一番大事だし、想うことで十分あいつに返せてると思うけどね」
「…さ」
「あいつもそう思ってると思うよ。君からもらった想いの分だけ、会いたいんだよ。じゃなきゃ、無理してまで会いに行かないと思うけどね?」そう言って彼は笑うと、私の肩を叩いた。
「ほら、そろそろ戻らないと。あいつが風邪ひいちゃう」
友人を置いてきた方向を見ると、彼女はベンチに座っているようだった。遠くからでもその姿を確認できた。寒い中、あんな冷たいベンチに座っている。確かに風邪をひいてしまいそうだ。
「…ほら、電話かけちゃうよ」笑顔の彼に促されて動揺しつつも私は友人の元へ歩き出した。

彼が来る。本当なのだろうか。本当に来てくれるんだろうか。
”想うこと以外に何もいらない”
本当にそれでいいのだろうか。本当にそれで、私は彼からもらったものと同じくらい返せているんだろうか。彼がそう思っているのかどうか、今の私に確認できる術はない。
(…今、どこにいるんだろう…)
突然、バッグの中で携帯電話が振動した。慌ててバッグをあさる。歩きながらだとうまく探せない。
ようやく電話を見つけて手に取ると、メールが届いていた。
「あ…」送り主は彼。震える指先で、ゆっくりとボタンを押した。

“もうすぐ着くから待ってて。”
そんな短いメールでも、彼の優しさと気持ちは私に十分伝わってきた。
”会いに行くよ“
“待っていてほしい”

彼はちゃんと分かってる。会いたいと心の中で願っている私の気持ちも全部。それを言えない私の気持ちも。彼は私のすべてを包んでくれている。嬉しさで胸がいっぱいになった。
涙が溢れそうになったけれど、必死でとめた。急いで彼に返信メッセージを送る。
“ありがとう…嬉しい。今日のこと、話さなくてごめんなさい。”

すぐに返事が来た。
”俺のこと思って話さなかったんだろ?気にしなくていいよ。それに俺も行くこと黙ってたからお互いさまだ。あと…10分くらいで着くよ。”

「…うん、ありがとう。待ってる。待ってるわ」幸せな気持ちでいっぱいになっていく。さっきまでの不安も彼の言葉で真っ白になった。私、なんて単純なんだろう。
会える。彼に会えるんだ。まさか私の願いまで叶うなんて思ってもいなかった。
満天の星空を見上げる。さっきの私の願いを、あの流れ星が聞いてくれていたのかもしれない。普段ならそんなこと思わない。でも今日だけは、そう信じたい気持ちになる。
「星も…悪くないわね」これからはもうちょっと星空を見上げてみよう。

天文台の方を見ると、友人がベンチに座ったまま電話をしていた。彼から電話をかかってきたようだ。
(あんたの彼にしてやられたわ。…感謝しなくちゃいけないわね。)私は早足で彼女の元へと向かった。


「え?どうして?何で?…どうしてここにいるの?…え?だって…電話…」友人は相変わらず察しが悪かった。彼女にしてみれば、電話で話していたはずの彼が目の前にいるのだ、パニックになるのも無理はない。私と彼が説明すると、彼女はポカンと口を開けて半ば放心状態になった。
「そ、そんなっ!…じゃ、じゃあ二人で結託してっ!?」
「ご名答〜やっと分かった?」
「じゃあこの旅は…っ」
「ここに彼が来るってことを前提に計画したものよ。だから…」がさごそとバッグを探り、ホテルのルームキーのカードを彼女に見せた。
「ちょっと待って、部屋のカードは私が持ってるわ!何で2枚もあるの!?」
「本当に鈍感ねぇ。二部屋とってあるってことに決まってるでしょ?」
「…ふ、二部屋!?」
「そ、二部屋。…実はね、あたしも彼を呼んでるのよ。あたしの彼も今日は仕事でね。終わったらここに来ることになってるのよ。そろそろ来ると思うんだけど…」
携帯電話が私を呼ぶ。不覚にもあまりの嬉しさに口元が緩んだ。でもきっと彼女は気づかない。察しの悪い友人でよかった。
「あ、電話だわ。来たみたいね。じゃ、そういうことで、あんたは彼と泊まりなさいね。明日ももちろん、別行動ってことで。じゃ、おやすみなさい〜」
「おやすみ〜」友人の彼が私に手を振る。その笑顔には、色んな意味が込められている気がする、いや、気がするのではなく、本当にそうなんだと思う。
私も感謝の気持ちを込めて彼に手を振る。
「え、あ、ちょっと…っ」友人が私を引き止めようと声をかけたが、聞こえないフリをして駐車場へ向かった。
携帯電話には、彼からのメールが届いている。
“着いたよ。今どこ?部屋?”
逸る気持ちを抑えきれなくて、いつしか私は小走りになっていた。吐く息が白い。今夜は相当冷えているようだ。でも何故だか寒いことなんて気にもならなかった。だって会えるのだから。
駐車場に着くと、ポツポツと立っている外灯を頼りに彼の姿を探した。

すると一台の車から一人、降りてきた。その姿に私は確信する。暗くて顔は見えない。けれど私には分かる。間違えるはずがない。私は躊躇うことなくその人の元へ向かった。

走ってくる私に気づいた彼が笑う。
「かろうじてイヴに間に合っ…えっ」そのまま彼に飛びついた。
「な、何だよ、どうした?珍しいな」驚きつつもそっと私を抱きしめてくれる。
「…来てくれてありがとう。好きよ、大好き」他に言う言葉なんて、思いつかなかった。ありきたりな言葉だけれど、それが今の私の一番伝えたい気持ちだから。
クリスマスをあなたと過ごせること。それが私の一番の願いだったの。
“クリスマスを一緒に過ごしたい”
そう願う人はたった一人だけ。私はあなたと過ごしたい。

彼はただギュッと抱きしめてくれた。言葉なんていらない。この瞬間があればそれでいい。
あなたの腕の中は世界で一番幸せになれる場所だから。

やっと私にも分かったよ。
心からそう思えた。
初めて素直にそう思えたの。
クリスマスは…
“恋人たちの大切な日”なんだって。

彼が耳元でそっと囁く。
「メリークリスマス」

最高のプレゼントをありがとう。



あなたの願いはなに?
クリスマスの夜、ちょっとだけ素直になってみようよ。
きっと叶うから。
きっときっと叶うから。
だからあなたも。
夜空を見上げて。
輝く星々に願いをかけよう。


「明日、どこに行こうか。行きたいところは?」
「そうね…。ね、何か食べたいものはある?」
「そうだなぁ…。とりあえずあれだな」
『美味しいケーキ!』


―Fin―


***********あとがき*******************
読んでいただき、ありがとうございます。
いつも読んでくださっている方はお気づきかと思います。この物語は、昨年UPしたクリスマスのお話「聖夜」の裏のつもりで書き上げました。ここに登場する友人、というのが昨年のお話の主人公でございます。突発で仕上げた話なので深くまでは書けていませんが、それでも結構な長さですね(^^;)

今年はクリスマス小説は書かないつもりだったのですが、11月にふと昨年書いた小説の主人公の友人は、いったいどんなクリスマスを過ごしたんだろう、と思いまして。きっとクールな彼女にも素敵な出来事があったんじゃないかな、と思い、ちょっと話を考えてみました。
彼女のお相手は高見沢さんをイメージして書いています。スイーツ好き、というところでまず高見沢さんしかいませんよね(笑)

みなさんにとって今年のクリスマスが素敵な一日になりますように(*^^*)

2006.12.20

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