「ふたりのGraduation」


−6月のある日−

「あ、降ってきた」
遠くから聞こえたその声に、ゆっくりと目を開けた。
一瞬、自分がどこにいるのか分からなかったが、身体に感じる振動で乗り物に乗っているのだとすぐに気づいた。
(そうだ、移動中だったんだっけ)今日はライブ会場まで久しぶりのバス移動。ここ最近は新幹線ばかりだったこともあって、出発した時は遠足気分でテンション高く乗り込んだのだが、パソコンで仕事を片付けているうちに、いつの間にか眠ってしまったらしい。
ぼんやりした視界に、何度もまばたきをする。頬に何かを感じて手でつまんでみると、自分の長い髪の毛だった。バスのシートにもたれて寝ていたのに、何故後ろ髪が顔にかかるのか。どんな寝相だったのか気になったが、ハミガキ粉すら後ろ髪についていたりするのだから、自分にとっては特別不思議なことではないのかもしれない。
(…あれ…パソコンがない…)眠ってしまう前に膝の上に置いていたパソコンの姿がなかった。片付けた覚えはない。もちろん無意識のうちにシャットダウンしてカバンにしまったのなら、覚えているはずはないのだが、そんなことはまずないと思う。
どこだ?そう思って隣のシートに視線を落とすと、きちんと閉じられバッグに入れられたパソコンがそこにいた。どうやら誰かが片付けてくれたみたいだ。それに、よく見れば足元には膝掛けまで掛けてある。自分の寝相のせいで半分落ちている状態だけど。誰かさんたちの甲斐甲斐しい世話ぶりに自然と口元が緩む。

「やっぱり降ってきちゃったね」再び聞こえた坂崎の声に、窓の外を見た。
窓ガラスに水滴がポツポツと当たっている。降り出した雨で薄い幕が張ったように、景色も少しぼんやりし始めた。
(とうとう降り出したか)朝から空を覆っていたどんよりした雲は、さらに厚みを増していた。これは降らないわけがないだろう、と言わんばかりの空模様だ。
確か今日は降水確率が50%だと、出発前に桜井が言っていた。”だから言っただろ”という得意げな桜井の顔が目に浮かぶ。

「ほらな。だから言っただろ?」
「でもさ、梅雨なんだから降る確率の方が高いんじゃないの?」坂崎がクスクスと笑う。
「それを言っちゃおしまいでしょ。ここは素直に”桜井はすごいな〜”って言えないもんかね」
「わー桜井すごーい」
「棒読みかよ」
「桜井が言えって言ったんじゃん」
「言えばいいってもんじゃないでしょうが。もっと感情込めて言えないもんかね」
「だってちっともすごいことじゃないじゃん」
「…ひ、ひどいっ」
「すごいのは桜井じゃなくて、天気予報でしょ。桜井が天気予報を見ないで雨を予測したなら、それはちょっとすごいけどさ。朝、天気予報しっかり見たんでしょ?」
「…いいじゃん、たまには褒めてくれたって」
「いつも褒めてるじゃん。大きな顔だねぇとか」
「それのどこが褒めてんだよ。思いっきりけなしてるだろ」
「違うよ、褒めてるんだよ。その大きな顔のおかげで後ろの席の人にもよ〜く見えるし、その大きくて通る声があれば何かあったときに助けも呼べるし」
「どんな褒め方だよ。もっと褒めるところはないのかよ」
「……」
「ないってか!」
「冗談だよ、冗談。やだなぁ、長い付き合いなんだから、冗談ってわかるでしょ?」
「分かんねぇよ?だって坂崎だもん」
「…どういう意味かな、それは」
「どういう意味でしょうねぇ…」
「……」
「…睨まないでくれる?可愛い顔が台無しよぉ〜」
「桜井も怯えないでくれる?眉毛が見事に八の字よぉ〜」
「あ〜ら、ごめんなさぁい。いつも誰かさんと誰かさんに苛められて眉毛が下がっちゃってぇ〜」
「あ〜ら、ごめんなさぁい。だって苛めがいがあるんですものぉ〜」
「まぁ、幸ちゃんたらひどいわぁ〜」
「…いつまで続けんのっ」
「え?止められるまで?」
「ライブじゃないんだから、オカマキャラをすすんでやんないのっ」
「いや〜だって染み着いちゃって。幸ちゃんも染み着いてこない?」
「こないよっ」
「いや、染み着いてくるんだって。次のツアーもやったらさ、もうバッチリよ!」
「やだよ!何がバッチリよ!だよ。もうやらないよ、俺は」
「…今、ぐっすりお休み中の脚本家にやれって言われても?幸ちゃんの…ローズでぇすっ」
「マリーでぇすっ」
「が見たいって言っても?」
「やらせるなっての!」
「今のは幸ちゃんが自らやったんじゃん」
「桜井が言うからうっかりやっちゃったんだよ!」
「ほら、染み着いてる証拠♪」
「やめてよっ本当に染み着いちゃう!」
「みんな笑ってくれるからいいじゃないの。涙流して笑ってる人もいるんだし」
「確かにいるけどさ。すごく苦しそうにしてる人いるもんね。大丈夫?って。そんなに可笑しいかなぁ」
「そりゃ可笑しいでしょ。俺自分でやってて可笑しいもん。だからさ、ここは諦めるしかないんだって」
「え〜」
「ほら、江戸っ子なオカマでいいからさ」
「どんなオカマだよ。べらんめぇ口調なオカマなんていないよ」
「いるかもしんないじゃん。粋なオカマ」
「粋なオカマってどんなだよ!」
「どんなって…例えば…今日は車を作っちゃうわよ!まずはハンドル!」
「ハンドルッ?」
「次はブレーキッ」
「ブレーキ?」
「そっ!またブレーキッ♪」
「またブレーキッ?」
「そ、燃費がいいのっ」
「燃費がいいのっ?」
「またブレーキッ」
「ブレーキッ……もう!やめてよっ!」
「…すごく楽しそうだったけど」
「3ヶ月もやってきたから口と身体が自然に動いちゃうの!それにこれのどこが粋なオカマだよ!」
「え、これを江戸っ子口調にすれば…」
「燃費がいい!?ブレーキだぁ?てやんでぇばぁろぉ!このすっとこどっこいが!!」
「そうそう、そんな感じ」
「どこもオカマじゃなくなってるんじゃん!ただの江戸っ子じゃん!」
「そう言われてみればそうだねぇ。それをカマっぽくしてみたらいいんじゃないの?」
「…ね、燃費…ブ、ブレ……無理っ!」

ダメだ。もう限界だ。
「クックックッ!」頑張って笑いを堪えていたが、もう堪え切れなかった。何でこの二人はこんなに面白いんだろう。今日の台本、江戸っ子に変えようか。
「…あれ、起きてたの?」笑い声に気づいて坂崎がひょいっと顔を覗かせた。
「起きてたよ」
「あ、ごめん。うるさくて起きちゃった?」
「いや、それが始まる前に目が覚めてた」そう答えて、ウンと伸びをした。
「パソコン、勝手にしまっちゃったよ。落として壊れても困るだろうし」
「うん、ありがとう。きっと坂崎だろうなと思って」
「あ、そう?」
「だって桜井には無理だろうし」
「ふん、どうせ電源の切り方分かりませんよ」
「でも膝掛けは桜井だろ?」
「そうだよ。ね、桜井?」
「…だって冷房で足元が冷えるかと思って」何だか照れくさそうにポツリと言う。
「サンキュ。おかげでよく眠れたよ」
「珍しくよく寝てたね…って高見沢、すっごい髪ボサボサ」クスクス笑いながら坂崎が俺の頭を指差す。
「え、そんなに?」
「うん、すっごいよ」どんなボサボサなんだ。
「どんな寝方したらそんなボサボサになるんだよ。シートの上でクルクルと回転でもしてたのか?」呆れたように桜井は笑って立ち上がると、近くに置いてあったバッグから鏡を取り出してこちらに向けてくれた。
「…本当だ、すっごいな」記録に残りそうなほどのボサボサ頭だ。とてもファンには見せられない。
「相当熟睡してたんだろうね」
「みたいだなぁ…」
坂崎がちょいちょいと髪の毛をあっちこっちに移動させると、あっという間に元に戻っていく。そつなく何でもこなすこの男は、本当に何でも手際よくやれるらしい。
「まぁ、ライブだけじゃなくてテレビだのラジオだのソロ活動だの忙しいから、疲れも溜まってるだろうよ。眠れる時に眠っておかないとな。いい歳なんだから無理はするなよ」出た、心配性桜井おいちゃん。
「分かってるって。まったく、桜井は本当に心配性だなぁ」
「心配してんのは俺だけじゃないぜ」
「ああ、分かってるよ。坂崎もだろ?」
「そうそう」
「何言ってんだよ。坂崎もおまえと似たように忙しい身だろうが」
「え、そうかな」
「そうだよ」
「確かに坂崎もあれこれと忙しいよな」
「高見沢ほどじゃないけど?」
「こいつと比べるなよ。どっちも忙しくしてるだろ。俺だけじゃないっていうのは、ファンがって言ってんの」
「そりゃ重々承知してるよ。なぁ、坂崎?」
「もちろん」
「俺んとこに多いんだよ。手紙とかで“高見沢さんと坂崎さんに無理しないでって伝えて下さい”って」
「そうなの?」
「そうだよ。俺んとこに来るのはそんなんばっかりなんだよ。俺へのメッセージだって“お酒とタバコは控えて健康に気をつけて下さいね”とか、そんなんばっかりでさぁ!」
「それはおまえがなかなか控えないからだろ。言われて当たり前じゃん」
「そうだよ」
「だから頑張って休肝日作って、タバコも減らしてるだろ!俺だってこれでも努力してるんだよっ」
「まだ努力が足らないってことだよ」
「そうそう」
「まだっ!?まだダメなの!?わたしゃ一体どこまで頑張ればいいのよっ」
「そりゃ、禁酒禁煙まで」
「だね」坂崎も大きく頷く。
「……」黙った桜井を見ると、今にも泣きそうな見事な八の字眉になっていた。坂崎と顔を見合わせる。さすがに少し苛めすぎたみたいだ。
「ごめんごめん、嘘だって」
「…嘘に聞こえなかった」拗ねる桜井に坂崎が言う。
「だって桜井あってのアルフィーなんだから、桜井が身体壊しちゃ困るもん。気持ちとして禁酒禁煙してほしいってのはあって当然でしょ。ファンだって同じ気持ちなんだよ」
「…そんなの分かってるさ」
「分かってるなら、休肝日作るだけじゃなくて量も減らさなきゃダメでしょ。ファンからお酒が送られてきたからってほいほい開けて飲んでちゃダメ。節度を守んなきゃ意味ないんだから。分かった?」
「…はい…」真面目な顔の坂崎に言われては“イヤだ”とは言えない。だって目が怖い。俺も“はい”としか言えなくなる。でも、そのおかげでこうしてすっかり丸く(?)納まるから悪いことではない。

「高見沢さん、少しは眠れました?」棚瀬がボサボサ頭でやってきた。こいつの場合はいつものことだ。
「ああ、何かすごく眠った気分」
「それはよかった」
「あ、悪いけどコーヒーもらえる?」
「あ、棚瀬!俺もコーヒー!」桜井が手を上げる。
「はいはい、持ってきます」
「棚瀬ぇ、俺水が飲みたい〜」坂崎もここぞとばかりにオーダーする。
「坂さんは水ですね。今持ってきますのでちょっと待っていて下さいね」棚瀬はにっこり笑って戻っていった。
「桜井のせいで喉渇いちゃったよ」
「俺のせいかよ」
「そうだよ、江戸っ子なオカマとか変なこと言うから」
「それ、いいよな。面白かった」と俺が言うと、坂崎が小さな目を見開いて俺を見た。
「やめてよ!今日のライブでやろうとか言う気だろ!やらないからな!」
「何で、いいじゃん」
「いーや!」
「何でだよ」
「いやなの!そんなこと言うなら、高見沢がやれよ!」
「へっ?俺?」声が裏返る。
「いっつも上でニコニコ笑って見てるだけなんだから、たまにはやってよ。今日は俺が上から見ててやるよ」
「やだよ!」
「ほら、やりたくないだろ?俺もやだもん」頬を膨らませて、プイッと顔を背けた。こうなったら絶対にやってはくれない。
「…分かったよ。じゃあ桜井がやって」
「俺かよ!」
「俺がいやで坂崎がいやならおまえしかいないじゃん?」
「俺だってやだよ!そもそも俺は江戸っ子じゃないぞ」
「あ、そうか。おまえは秩父っ子だもんな」
「そう、秩父っ子。で、おまえは蕨っ子だろ」
「蕨っ子…」
「埼玉県民に江戸っ子の真似は無理だよ」
「じゃあ江戸っ子はやめて秩父っ子にしよう」
「…は?」
「秩父弁のオカマね」
「ちっ秩父弁のオカマ!?」桜井は眉間に皺を寄せて俺を見た。
「あ、それならできるじゃん。いそうだもん」坂崎がウンウン頷く。これで2対1だ。
「そ、そりゃいるかもしれないけどさぁ!」
「今日の桜井の台詞んとこ、秩父弁でよろしくな」
「えっ!?マジで!?」
「うん」
「…き、気の迷いじゃなくて?」
「うん」
「い、今だけの話じゃなくて?」
「うん」
「…それはもう決まった…ってことですかね?」おどおどと尋ねる桜井に、俺は大きく頷いた。
「うん。秩父弁で」
「……」
「頑張れ、桜井♪」坂崎が笑顔で桜井の肩を叩くと、ガックリとうな垂れた。
「…また俺かよ…何で俺ばっかり…」
「だって桜井の秩父弁聞きたいんだもん」
「嘘つけ…単に面白がってるだけのくせに!」
…バレたか。

「はーい、お待たせしました!」棚瀬がコーヒーを持ってきた頃には、すっかり眠気はなくなっていた。
「まったく…思いつきで変えやがって…」ブツブツと文句を言う桜井の声は聞こえないフリをして、シートにもたれて窓の外を見た。高速道路の入り口を示す看板が目前に見える。その向こうに、海が見えてきた。
この辺りは海沿いの道が続き、そのまま高速へと上がる。ちょっと東京のベイエリアに似ている場所だ。ベイエリアほどの素晴らしい夜景はないけれど、所々で繋がる場所がある。ベイブリッジに似た橋とか、ナイトクルーズ中の船の灯りとか。さすがに今は日中だからそんな夜の姿は見られないが、以前夜に通った時に似ているな、と思った。
それ以来、ここを通るたびに恋人との別れの日を思い出すようになった。それに今日は雨。いつもより余計に思い出が蘇ってくる。

雨の東京ベイは好きな女(ひと)と別れた場所。一つの恋が終わった場所なのだ。と言っても、もうずいぶん前の若かりし頃の話だ。
決してその終わった恋を引きずっている…というわけではない。俺の中ではすでに良い思い出になっている。それなのに何故そんなに思い出すようになったのか。
あれからずいぶんと時が過ぎ、気がつけば50歳という大台も越えた。世間でいえば年頃の子供を持つ父親の歳だ。若くして結婚していれば、すでに孫がいてもおかしくはない。
そう考えた時、彼女はどんな母になっているのだろうと思ったのだ。母になっているかどうかなんて分からないし、彼女にとっては余計なお世話なのだが、きっととても素晴らしい母親になっているだろうな、と思う。夫を支え家を守り、子供にはたくさんの愛情を注ぐ。そんな姿が容易に想像できるような、素敵な女(ひと)だった。

彼女とは、お互い自然体のままでいられる関係だった。化粧っけがなくて、いつもラフな格好の彼女は、お気に入りだというスニーカーをよくデートに履いてきていた。おかげでたくさん歩かされたっけ。歩き疲れて喫茶店に入ると、彼女が必ず頼むのはオレンジジュース。ないと不機嫌になるぐらい好きだった。
彼女の前では格好つけたり飾らなくてもよかった。そのままの俺を受け入れてくれる。彼女との時間はとても心地よくて、ずっと一緒にいられたらいい、そう思っていた。
でも、そんな心地よい関係はいつまでも続かないものらしい。不規則な生活をする俺にとって、日中仕事をしている彼女と会うことは、思った以上に難しかった。会えない日が何ヶ月も続くこともあった。電話の回数も徐々に減っていき、やっと会えても、ちょっとしたことで喧嘩が始まってしまう。喧嘩なんてする気はないのに、お互いの気持ちの中にある会えない辛さが表に出てきてしまうと、その気持ちを抑えることができなくなるのだ。喧嘩ばかりでは、会いたいという気持ちは薄れてしまう。お互いの気持ちはすれ違い、いつしか一緒にいる時のあの心地よさも消えていってしまっていた。

最後のデートが東京ベイだった。その日はあいにくの雨。今日で終わりだということはお互い感じ取っていた。嬉しいはずの相合傘もちっとも嬉しくなかった。触れ合えるほど近くにいるのに、彼女がひどく遠くに感じて、俺は肩にすら触れられないでいた。
その日、初めて紅い口紅をしてきた。“あなたがいなくても私は大丈夫なんだから”そう言いたかったのかもしれない。でもそれは、赤い目をした彼女の精一杯の強がりだと俺には分かっていた。
どちらが別れを切り出したのか…はっきりと覚えていない。もしかしたら、お互い何も言えなかったかもしれない。それは、どんなに思い出しそうとしても蘇ってはくれなかった。

最後に交わした言葉も忘れてしまったけれど、彼女の泣き顔は覚えている。俺はそんな彼女にキスをした。それが彼女と交わした最後のキスだった。


遠くで空がピカピカと光った。どうやら雷雲まで雨と一緒にやってきたようだ。あの雲がやってきたら、きっと大降りになる。ライブ会場に訪れるみんなに影響が出ないことを祈るばかりだ。
棚瀬が前の方の席から顔を出して声を張り上げる。
「次のサービスエリアに入ります。小雨のうちに休憩しておきましょう!」
「ほーい」坂崎が幼稚園児みたいに手を上げた。

バスから降りると、運のいいことに雨が止んでいた。日ごろの行いがいいということだろう。
「くーっ!座りっぱなしだと意外に疲れるもんだよなぁ!」思い切り伸びをしていると、桜井が同意もせず、慌てているのか早足で俺を抜き去った。トイレか?と思っていると後ろからやってきた坂崎が、
「タバコでしょ。バスの中は禁煙だし、早く吸いたいんだろうね」と笑った。
「あ、そうか」
坂崎の予想通り、桜井の行きついた先は喫煙コーナーだった。待ちわびたような顔で、タバコに火をつけている。よほど吸いたかったらしい。
「我慢してるといつもより多く吸っちゃわないか、あいつ」
「あ〜あり得るね。棚瀬、桜井見といて。吸いすぎたらタバコ没収」
「あはは、分かりました。坂さんの命令ですって言って没収しておきます」笑いながら棚瀬が頷いた。
「じゃ、俺トイレ行ってくる」坂崎が歩き出す。
「ああ。俺は…」辺りを見回してみると、目の前に“展望公園”と書かれた看板があるのを発見した。
「何か展望公園があるみたい。ちょっと見てくるよ」
「分かった。…迷子になるなよ!」
「なるかよ!」俺は子供じゃない。大丈夫だ。…たぶん。

展望公園は、海が望めるなかなかいいロケーションだった。先程自分たちがバスで通ってきた道も遥か遠くに見える。ここでは何度も休憩しているのに、こんなところがあるとはまったく気づかなかった。そういえば、いつもは売店でソフトクリームやらお菓子やらに夢中になっている。気づかないのは当然か。
若干湿気を帯びた潮風を感じながら海を眺めていると、パタパタと足音が聞こえてきた。
「ママ!ジュース買ってきたよ!」中学生ぐらいのショートヘアの元気そうな女の子だ。ジュースを手に誰かの元へ向かう。彼女が向かった先には、母親と思われる女性が濡れたベンチにシートをかけて腰掛けていた。娘に手を振る母親もショートヘアだ。
「あんまり走ると転ぶわよ?」
「大丈夫よ!はい、ママの大好きなオレンジジュース、ちゃんと売ってたよ」
「ありがとう」娘から缶ジュースを受け取った母親は、ジーンズをはいた若々しい感じの女性だった。年齢は、40代後半…ぐらいだろうか。
別れた彼女に少し似ているな…そんな風に思うのは、きっと好きな飲み物がオレンジジュースだからだ。

「本当にママはそのオレンジジュースが好きだよね」
「そうなの、昔から大好きなの」
「昔からあったの?」
「そうねぇ…ママが学生の頃からあったかな」
「じゃあパパと結婚する、もっともっと前ね」
「そうね」
「じゃあパパより長い付き合いってことか」
「そうなるわね」あはは、と母親が笑った。
「あ〜おばあちゃんたち、元気かなぁ」娘が母に尋ねる。
「昨日“明日は何時に来るんだ”って電話かけてきたぐらいだもの、あの様子からすると相当元気よ。何か美味しい物用意して待ってるわよ」
「楽しみだなぁ。あと何時間で着くの?」
「そうねぇ…あと1時間ぐらいかな」
「ねぇ、ママのおばあちゃん家は、ここからだとどのくらい?」
「私の?車だと5、6時間はかかるんじゃないかしら」
「5、6時間かぁ…ちょっと遠いよね」
「そうね。ここからだとちょっと離れてるわね」
「ママの家って東京だよね」
「そうよ」
「今度いつ行くの?」
「そうねぇ…行けたら今年中には一度行きたいわね。東京のおばあちゃんたちもあなたに会いたいだろうし」
「行こうよ!で、ついでにさ、みんなで東京ディズニーランドに行こうよ!ね?」
「そうね、家族で行ってもいいわね」
「私ね、東京タワーとお台場にも行きたい!」
「それって私の家じゃなくて、東京に行きたいだけじゃないの?」母親がクスクスと笑う。
「…だって行ってみたいんだもん。私まだ東京タワーもお台場も行ったことないもん」
「あら、そうだった?」
「そうだよ!ママは東京に住んでたから行きたいって思わないかもしれないけど、私はやっぱり行ってみたいもん」
「そっか〜じゃあパパの仕事がお休みになったら、年末みんなで行こうか」
「ほんと!?」
「パパの仕事が休みで、パパがいいって言ったらね」
「私がお願いすれば、きっといいって言うよ!」
「…でしょうね。ほんっと、パパはあなたには甘いんだもの」
「可愛い娘からお願いされたらパパはイヤって言えないんだよ」
「ま〜よく言うわ」母親が呆れたように笑った。
二人の会話に自然と顔が綻ぶ。彼女たちの会話を邪魔しないよう、俺は後方の屋根付きのベンチに腰掛けた。時折見える娘と母親の横顔は、よく似ている。正面から見えないので確かなことは言えないが、どちらもなかなか整った顔立ちのようだ。
二人は話に夢中で俺の存在なんて、まったく気づいていない。こちらを振り返ることも、会話のボリュームが小さくなることもない。まるで自分が透明人間にでもなったかのような完全無視な状態だ。寂しい気もするが、嬉しくもある。こんな風に何もしない時間は、最近なかなか取れないのだ。
ここぞとばかりに、親子の会話をBGMにのんびり潮風に当たることにした。

「ね、東京であと有名なところはないの?」
「いっぱいあるわよ。東京駅の周辺も色々あるし、六本木ヒルズとか表参道ヒルズとか…」
「ママは洋服とか美味しいお店があるところばっかり言ってない?」
「あら、重要でしょ?」
「重要だけど、私はもっと違うところに行きたいよ。…あ、ほら、海の近くに何かあるんだよね?」
「海の近く?…お台場じゃなくて?」
「じゃなくて。ほら…何か高いビルがあってさ、観覧車があって…あと、近くに中華料理のお店がずら〜っと並んでるところがあるって−」
「それ、横浜じゃないの?赤レンガがあったり中華街がある辺りでしょ?」
「あ、そう、それ。あれ、東京じゃないの?」
「違うわよ。あれは神奈川県。お隣の県よ」
「何だ、違うんだ。じゃあ東京は何があるの?」
「何って言われてもねぇ…ママが住んでた頃からずいぶん変わったから、実はママもそんなに詳しくないのよね」
「じゃあママがいた時は何があったの?」
「う〜ん…お台場も今みたいな感じじゃなかったし、あったのはレインボーブリッジかしらねぇ」
「ああ、橋?さっき通ってきたような?」
「そうそう。橋。東京のベイエリアは夜景がきれいでね、素敵なところなのよ。もしかしたら今はもっと素敵なところになってるかもしれないわね」
「ふ〜ん…あ、分かった。パパとデートで行ったんだ?」
「パパとは行ってないわよ。残念でした」
「え!違う人と行ったの!?誰と!?」
「秘密〜」
「ええ!何!?教えてよ!」
「ダーメ。教えない」
「…教えないってことはまさかママ、それって浮−」
「な、何言ってるの!行ったのはパパと出会う前よ!」
「なーんだ、違うのか」
浮気じゃないと分かって何故かガッカリする娘に、俺が苦笑してしまう。今時の子供の発言や反応は少々危険だ。大人が困るようなことも平気で聞いてくる。大人がタジタジだ。
「なぁに、その残念そうな顔は」母親の声は少し呆れたようにも聞こえる。
「だってドラマみたいな話でもあるのかと期待したのに、違うんだもん。つまんないなぁと思って」
「期待しないの!」
「だってママ、すっごくキレイだったってパパ言ってたし」
「そんなお世辞には乗らないわよ」
「お世辞じゃないよ。パパ本当にそう言ってたよ」
「私はパパからそんなこと言われたことないわよ」プイッと拗ねるように顔を背ける。何だか可愛らしい人だな、と思う。
「パパには言わないから教えてよ。どんな人だったの?」
「……」
「ねぇ、どんな人なの?」娘の攻撃は続く。いったい母親はどのあたりで折れるのか。この先が見物だ。
「……」
「パパより格好良かった?」
「……」
「どうして別れたの?」
「……」
「ママが振っちゃったの?」
「……」
「…そっか、ママ振られちゃったんだ」
「ママ、何も言ってないわよ」
「言わないってことは振られちゃったんでしょ?」
「あのねぇ…ママにもそっと胸にしまっておきたい思い出があるのよ。そんな根掘り葉掘り聞かないでちょうだい」
「だって〜…」
「あなたにだって聞かれたくないことがあるでしょ?ほら、この前タカシくんに他に好きな子がいるって分かった時に−」
「わー!もうその話はいいよ!分かった!もう聞かないから!」
「ほら、ごらんなさい」
「…ちぇ…」
どうやら軍配は母親に上がったようだ。人生経験豊富な母が負けるわけはないか。

「あ、いたいた。高見沢ぁ〜!」坂崎の声に振り向くと、棚瀬を引きつれ、こちらにやってくるところだった。
「てっきりもうバスに戻ってるかと思ったのに、まだここにいたの?」
「あ、うん。ちょっと海眺めてて…」半分嘘だけど。
「そろそろ行こうかってさ」
「分かった」頷いてベンチから腰を上げる。
「マ、ママ、あの人高見沢さんだよ!あっちは坂崎さんじゃない!?」と興奮したような娘の声がした。二人は俺の存在に全く気づかずおしゃべりをしていたのだから、余計に驚いたのではないだろうか。
振り返ったら俺が話を聞いていたことがばれてしまいそうな気がしたので、振り返らずに立ち去ることにした。
坂崎がその親子に気づいて手をひらひらさせる。
「わ!手振ってくれたよ!ね、ママ!ほら!……ママ?」興奮気味な娘の声が、突然トーンダウンした。
「…どうしたの?ママ?」心配そうな娘の声が気になって振り返ってみると、そこには呆然と立ちすくみ、こちらを驚きの表情で見つめている母親の姿があった。
「……えっ?」初めて真正面から見たその母親の姿に、今度は俺が固まった。歳を重ね、確かに母という印象にはなっているが、その顔にはとても見覚えがあった。どう見てもあの、別れた彼女だったのだ。
少しクセっ毛な短い髪、優しそうな瞳、キリッとした口元、Tシャツにジーンズ。そして…デザインは違えど、同じメーカーで色合いはあの頃とそっくりなスニーカー。

こんなことってあるのだろうか。こんな偶然…。

彼女に戸惑いは見えるものの、しっかりと俺を見つめている。その目に、驚きの他に憎しみは感じられない。俺にも、彼女に対して憎しみなんて欠片もない。ここしばらくどうしているのか気になっていたぐらいだ。こんな風に再会できるなんて驚き以外、何もない。偶然の再会に、妙に嬉しくなった。

彼女に向かって笑いかけると、彼女は静かに驚いて目を見開いた。まさか笑いかけられるとは思ってなかったんだろう。少し困ったような顔をして娘を見下ろした。
「…ママ?」心配そうに母を見上げる娘を優しい瞳で見つめる。彼女は何かを考えているようだった。それが何かは、何となく分かる。彼女の困った顔を見て、俺は彼女のためにも気づかないフリをして立ち去るべきだったとひどく後悔した。
あの日の別れの言葉は思い出せないが、お互い笑顔で別れていないことは確かだ。もしかしたら彼女はあの日、深く傷ついたのかもしれない。ずいぶん昔のことだとしても、たとえ憎しみはなくとも、涙したことを忘れることはできない。あの時、悲しかったことに変わりはないのだ。

(ごめん…別れた男になんて、会いたくなかったよな。)心の中でそう問うと、彼女が何かを決意したかのようにゆっくりと顔を上げた。
言葉は何もなかった。けれど、その目はしっかりと俺を見てくれていた。まっすぐに俺を見つめる彼女の目は、あの頃と何も変わっていない。そして懐かしそうに、照れくさそうに彼女が微笑んだ。出会った頃の彼女の微笑みそのままだった。
(会いたくなかったなんて、そんなことないわよ)そう言ってくれているような気がした。俺は笑い返さずにはいられなかった。

“元気だった?”目で訴えてみる。
“そっちこそ”あの頃みたいに返事が返ってきた。
“今、幸せなんだね”
“ええ、とっても幸せよ。羨ましいでしょ?”
言葉はなくても、彼女の目がそう言っている。
ああ、それはよかったね。何だか悔しくなる。


「高見沢?」坂崎の声にハッと我に返った。坂崎がジッと俺を見上げている。
「…もう少し休憩したいってみんなに言ってこようか?」その顔は、何かに気づいている顔だ。どうしてこうもこの男は鋭いんだろう。
「何だよ、それ」
「…いや?そうしたいかなぁと思って」
「そんなこと思ってないよ。さ、行くぞ!」
「じゃあ行きましょうか」棚瀬がニッコリ笑って歩き出した。坂崎がそれに付いていく。俺も一旦歩き出したが、背中の向こうがやっぱり気になってもう一度振り返った。
彼女は笑顔でこちらを見ていた。娘は娘で、キラキラした目で見ている。ああ、あの頃の彼女にそっくりだ。

何も言うつもりはなかった。今、幸せな彼女に必要な言葉なんてない。幸せならそれでいいのだから。
俺はただ、二人に向かって手を振った。何も知らない娘が、興奮した様子でピョンピョン跳ねながら俺に大きく手を振る。可愛い娘の母となった彼女は、そんな娘の後ろで小さく手を振ってくれた。



バスに戻ると不機嫌そうな桜井が、
「遅いぞ」と俺を睨んだ。
「ごめん」素直に謝ると、ギョッとされた。
「何だよ、気持ち悪いぐらい素直じゃん」
「俺はいつでも素直だろ」俺の言葉を聞いて、坂崎がクスクス笑っている。
「坂崎!」
「ククク…」
「何だよ?高見沢、何かあったのか?」
「何でもない」
「そ、何でもなーい」
「ああ?」怪訝そうな声と、眉間に皺を寄せた桜井の顔は見ないで席に座る。
「何だよ、俺にも教えろよ」
「何でもないって。ちょっと思い出し笑い」
「思い出し笑い?何の?」
「高見沢の数々のイリュージョンについて」
「ああ、そりゃ笑えるなぁ」
「でしょ?」
「思い出し始めたらキリがないぞ。ほら、この前も−」
「そんなこと思い出さなくていいよ!」
「いいじゃん。減るもんでもないし」
「ね〜」
「はーい、出発しますよ〜!」いいタイミングで棚瀬の声がかかった。たまには役に立つ。

走り出したバスの窓から、先ほどの展望公園が見えた。彼女と娘の傍に、父親と思われる男性が立っている。娘がしきりにバスを指差し、父親に何かを話しているようだった。彼女はそんな娘の隣で、バスを見つめているようにも見えた。

君が幸せでよかった。
会えて嬉しかった。
これからもどうか、君が幸せでありますように。


「桜井」
「ん?」
「坂崎」
「なに?」
きょとんとした二人に、遠慮がちに聞いてみる。
「今日さ、一曲変えてもいい?」
すると二人は顔を見合わせた後、ケラケラと笑った。
「何言ってんだよ。そんなのいつものことじゃん」
「そうだよ。今更何遠慮がちに聞いてんの?」
「だって、いやかなーと思って」
「俺らが“えー”って言っても変えるくせによく言うぜ」
「ね」
そういえばそうだった。
「で?」
「え?」
「何やりたくなったんだよ?」と尋ねる桜井と、妙にニヤニヤした坂崎が無言で俺を見た。
「…うん、ほら今日は雨だろ?確か一日降るって予報だったよな」
「確か一日中雨って言ってたな。夜も降水確率は50%だったんじゃないか?…あ、ほら、また降ってきたし」桜井が窓の外を指差す。小さな粒がまた窓ガラスにポツポツと当たっている。
「で?」
「雨の曲やらないか?」
「雨?」
「そう、ちょっとやりたくなってさ」
「ふ〜ん、雨ねぇ。確かに雨の時に雨の曲ってのは情緒があるかもな」
「そうだね。で、何やりたいの?」
「えっとね、これ」俺は二人に楽譜を見せた。二人が楽譜を見て、ウンウンと頷く。
「やけに可愛い曲選んだな」と言う桜井に坂崎がまたニヤニヤする。
「本当だねぇ。思い出が蘇っちゃったんだねぇ…」
「……」嘘じゃないから否定もできない。
「は?何の話?坂崎、何ニヤニヤしてんだよ?」
「えー?何でもなーい」何でもないなら、せめて何でもないって顔をしてほしい。
「で、どうかな。いい?」もう一度聞いてみると、二人が苦笑いを俺に向けた。
「いいも何も、あなたがやりたいと言った曲をやらなかったことが今までありましたか?」
「覚えてる限りない!じゃあ、決定で!」
「はいはい」二人がため息をつきながら楽譜を受け取った。
「よろしく!」
「はいはい」二人の態度はまるで我儘な子供の言うことを聞く父と母のように見えた。俺は子供か?
坂崎がみんなに声を掛ける。
「業務連絡〜!今日“ふたりのGraduation”やりまーす!よろしく〜!」
「了解!」みんなの威勢のいい声が気持ちいい。今日もいい演奏ができそうだ。それに、あんなにいいことがあったんだ。きっとライブも素晴らしいものになる、そんな気がする。

今日も最高のライブになりますように。
たくさんの笑顔に出会えますように。

そして…
雨が止みますように。


ふと、思い出したように坂崎が手を上げる。
「あ、あともう一つ!」もう一つ…だって?そんなこと、言った覚えはないぞ?
「え?おい、坂崎。もう変更はないぞ?俺はそれしか−」
「今日は高見沢がMCで特別に有難い話をしてくれるそうでーす!」
『おお〜!』
「はぁ!?」俺、そんなこと一言も言ってないぞ?
「何だよ、坂崎!それ、どんな話っ?」興味津々で桜井が坂崎に問う。
「えっとねぇ〜…恋の話」ニンマリと坂崎が笑う。こいつ…
「坂崎、おまえ−」
「恋の話?なんだよ、どんな話なんだよ?」と桜井に尋ねられた坂崎はさらにニヤニヤする。
「桜井!坂崎が勝手に言ってるだけなんだから本気にするなよ!」
「え〜それは聞いてからのお楽しみじゃん?」
「おい!坂崎っ!何言って−」
「ちょっとぐらい教えてくれたっていいじゃん」
「ん〜しょうがないなぁ…じゃあタイトルだけね」
「こら!俺の話を聞け!」
「なになに?」
「昔の彼女と偶然の再会!その時高見沢は!?って話♪」
「さっ坂崎ぃ―――っ!!」


―おわり―

************あとがき******************

「ふたりのGraduation」でございました。お久しぶりの短編でしたが、いかがでしたでしょうか?短編…?という疑問はとりあえず横に置いていただいて!(笑)
この曲をお題として相方からもらったのは、もうずいぶん前のことです。連載小説を書き始めてまもない頃なので、2年ほど前ですね(笑)
話の内容は2年前にすでに決めていて、6月の初めに書き始めていたのですが、なかなか進まず。
そんな時にNHKホールのライブDVDでこの曲を歌う高見沢さんを見て、ピンときてようやく書き上がりました。
話は梅雨という何とも季節はずれですし、何より無駄な部分が多い話になっておりますが(^^;)曲の可愛らしい部分が少しでも表現できていたら嬉しいなと思っています。何よりローズ&マリーをやる二人も書けたので賢狂は大変満足です(笑)

2008.9.27

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