※このお話にはメンバーは登場しません。
 また、お話が長めです(^^;)
 それでもよい、という方のみお読み下さいませ。

「Another Way」




「パパおそい〜!はやく〜!」
「こら、そんなに走ると危ないぞ!」数十メートル先の振り返りながら走る息子を俺たちは慌てて追いかけた。
「貴くん、止まりなさい!」俺の隣で妻が叫んだが、まったく耳に入っていない。
俺たちが追ってくるのが分かると、息子の貴志は余計に勢いよく走る。
田舎の道とはいえ、いつ車が来るか分からない。俺は運動不足の身体にムチを打って貴志に追いつき後ろから抱き上げた。たかが数十メートル走っただけなのに息が上がってしまった。
「うわーつかまったぁ〜!」もうすぐ4歳になる貴志はまだまだ無邪気で毎日イタズラばかりだ。妻の美幸と俺はかなり手を焼いている。
「やだーはなせー」と言いながら俺の腕の中でじたばたする貴志に美幸が優しく叱る。
「貴くん、道路で走ったら危ないでしょ?前から車が来たらどうするの」
「だってこないもん」
「…確かにな」貴志の答えは的を射ている、俺は大きく頷いた。
「パパ!!」美幸がキッと俺を睨む。貴志への態度とずいぶん違うと感じるのは気のせいか。
「確かにここは本当に車が来ないけど!万が一来たらどうするのよ!」
「わかってるよ、そんなこと」
「それに貴志はここ初めて来たのよ?先に何があるか分からないんだからちゃんと見てないと危ないじゃない」
「だからわかってるって。な、貴志。ママを怒らせると恐いの知ってるだろ?いい子にしろよ」腕の中の貴志を見やると、口を尖らせてそっぽを向いていた。俺の小さい頃にそっくりだ。

俺・慎一は、妻・美幸と息子・貴志の三人家族だ。珍しく連休が取れたから、こうして家族サービスとして旅行に来たのである。といっても、来た所は今住んでいる町の隣町である俺と美幸の郷里。
この町は隣の県との県境にあり、その隣の県には有名な温泉街がある。旅行の本来の目的はそこであり、今日はその帰り、というわけだ。
郷里、なんて言うとものすごく田舎のように聞こえるかもしれないが、そういうわけではなく、隣町に行けば大型のショッピングセンターなんかもある。…ただ、隣町に出るのに山を二つ越えなければならない為車で40分はかかるのだが。要は拓けた街と街の間にある、山あいのちょっとした田舎なのだ。
高校卒業まで、俺たちはここで暮らしていた。

美幸は近所の幼馴染だった。家も近かったし同い年だから小さい頃からよく一緒に遊んでいた。特に好きだった、というわけでもなく、本当に単なる友人の一人だったのだ。お互いの両親も仲が良くて、よく家族ぐるみで遊びに行ったりしていた。

高校卒業後、俺は隣町の鉄工所へ就職したため、会社の近くで一人暮らしを始めた。美幸は美幸で父親の仕事の関係で隣町に引っ越して短大へ進んだ。
美幸の両親は俺をよく家に呼んでくれて夕飯なんかをごちそうしてくれた。何かと気にかけてくれて俺にとっては第二の親のような存在だった。たぶん、郷里から一人で出てきて心細いだろう、なんて気持ちが美幸の両親にはあったんだろう。

美幸を友達以上に感じ始めていたのはその頃からだ。毎日会ってたわけじゃなかったけれど、隣に居なくてもいつも美幸の存在を感じていた。いつの間にか俺の中でなくてはならない人になっていたらしい。
気持ちを伝える時は付き合いが長いから余計に照れくさくて、何て言ったかほとんど覚えていない。美幸も目をまん丸にしてびっくりしていた気がする。あまりその時の事は憶えていないのが正直なところだ。
後で聞いた話、美幸自身は高校の時から俺を想ってくれていたらしく、両親もそれを知っていて、夕飯でも、なんて理由をつけて家に呼んでいたらしい。お節介な親だ、と美幸が笑いながら話してくれたのを覚えている。

就職して4年経った頃だっただろうか、仕事もそれなりに稼げるようになり、自分にもそれなりの自信がついた俺は思い切って美幸にプロポーズをした。お互いの両親も心から祝福してくれて、1年後に結婚した。出会ってからすでに23年経っていた。

俺が結婚したのを期に両親も同じ町へ引っ越してきた。同居したい、そう言うのかと思っていたのだが、そうでもなかった。もともとこっちの町からの方が会社が近いし、便利だから、親父はサラッとそんな事を言っていた。

お袋に聞いたところ、どうやら孫が生まれた時にいつでも預かれるように近くに住みたかったらしい。俺が就職した時に"あいつが結婚したら引っ越すぞ"なんてすでに親父から言われていたそうだ。まさに計画的犯行だ。他にも色々理由があるようだったが、俺としては徐々に年老いていく両親が近くに住んでくれるのは非常に有難い事だったし美幸も俺も一人っ子だから、どちらの両親も子供の近くに居たいと思っているのだろう。美幸も両親を大切にしているし、お互いの両親がどちらも近くで暮らしているのは、俺たちにとっても好都合なのだ。

結婚して2年後には貴志が生まれ、俺は親という立場になった。何だか恥ずかしいようなくすぐったいような、けれど不安な気持ちでいっぱいだった。本当に俺たちで子供が育てられるのだろうか、子供を授かるのはまだ早かったんじゃないだろうか、なんて毎日のように二人で不安がっていた。
親として多少だが自信が持てるようになったのは最近のことだ。ついこの間、美幸が言っていた。
"親って、子供と一緒に成長して同じように大きくなっていくものなんだって最近ようやく気づいたわ"
俺も最近気が付いた。30歳を目前にして、やっと俺たちも一人前の親になれたのかもしれない。

「…慎一?どうかしたの?」美幸の声に俺は我に返った。無言で歩く俺を怪訝に思ったのか、とても不安げな顔で俺を見ていた。
「ちょっと…どうも懐かしい場所に来ると昔のことが蘇ってきてさ」
「…そう。…何思い出してたの?」
「ん?就職してからのこととか、いろいろ。美幸のお義父さんとお義母さんには世話になったなぁ…って改めて二人に感謝してたとこ」
「そんなこと言ったら二人が喜んじゃうわ。図に乗るから言っちゃダメよ?」
「本当の事なんだけどな」
「でもダメ。二人の性格知ってるでしょ?一回そんなこと言ったら1ヶ月はその事で電話かかってくるわ」
「ははは、確かにな。じゃあ感謝は心の中で言いつつ土産を渡すか」
「それでいいのよ」
「ねぇねぇっママー、ずにのるってなに?」俺と美幸の手をとって間でプラプラして遊んでいた貴志が話に割り込んできた。
「えっ…」美幸がびっくりして貴志を見下ろす。
「だからぁずにのるってなぁに?のりもの?」わくわくしながら妻の言葉を待つ貴志と困った顔をしている美幸のあまりのギャップが可笑しくて仕方がなかった。
「…えっとね………ねっ慎一っ何て説明すればいいっ?」
「おっ俺に聞くなよっ」突然ふられても困る。
「だって〜っ」
「ねぇ〜パパ、ずにのるってなぁにぃ〜っ?」
「あ〜う〜ん…大人がな、そう、大人が乗る乗り物なんだよっだから貴志にはまだ乗れないものなんだよ。大人になったら乗れるよっ」
…う〜ん、かなり苦しい。
「…そ、そうなのよっ大人が乗る、乗り物!」美幸がすごい勢いで何度も何度も頷く。その勢いに押されたのか、はたまた本当に納得したのか、貴志はふ〜ん、とだけ返してまた俺たちの手を掴んでプラプラ遊びを始めた。

「…ふぅ…」二人で同時にため息をついて顔を見合わせた。最近何にでも興味を持ってしまうので困ってしまう。俺たちが説明できることとか聞いてほしいことにはあまり興味を示さず、答えにくいことや今みたいに大人の会話の一部を聞き取って尋ねることが多い。しかも悪い表現の言葉に興味を示す。わざとかと思うこともしばしば。
だが3歳児にそんな策略的なことができるとも思えない。貴志の前では人の悪口は言わない方が無難だろう。

「あっこうえんだぁっ」貴志が前方の公園を発見して嬉しそうに駆け出した。そう、この町の一番大きな公園だ。といっても俺がここに住んでいた頃の話だから、今はもっと大きな公園が出来ているかもしれないが、俺たちの遊び場はほとんどがここだった。

「懐かしい!この公園、昔のままね〜!」
「そうでもないんじゃないか?…ほら、あんな遊具あったか?」
「…あ、ほんと。あんなのなかった。あそこは…何があったっけ?」
「…え〜と……タイヤじゃなかったか?」
「…あ、そうそう。タイヤ。よく遊んだよねぇ…」俺と美幸は昔と同じ公園の中央にある円形の花壇の周りに設けられている木のベンチに腰を下ろした。
「そうだな。でもおまえ、俺たちに付いてくるのはいいけどよく転んで泣いたよなぁ」
「だって慎一たちが走るの速いんだもん。頑張って付いていこうとすると転んじゃうのよ。少しは待ってくれればいいのに」
「待ってやってたじゃん」
「えーそんなの覚えてないよ」
「そういうことは覚えとけよなぁ」ジャングルジムで遊び始めた貴志を眺めつつ俺がそう返すと、美幸の次の言葉がなかった。不思議に思い美幸に視線を戻すと、また不安そうに俺を見つめていた。

「…何、どうした?」
「…やっぱり何かあった?」
「…やっぱりって?」
「だって…最近考え込んだりすることが多くなった気がするし、突然ここに行こうなんて言うし…」
「突然じゃないだろ?2週間前に行かないかって言ったよ」
「そういう意味じゃなくて。…就職してから一度もここの話しなかったのに、っていう意味よ。ずっと…まるで、そう…ここでの思い出をなかったことにしてる感じだったから…」
「…まぁ、確かにな。そう考えると突然だったかもな」
「…どうして突然ここに来ようって言い出したの?」
「……」
「…ねぇ、どうして?」
「…何となくな」
「何となく?…本当に?何か…」
「本当だよ。別に心配することなんか一つもないよ」
「…本当?…それならいいんだけど…」
「何心配してんだよ。子供じゃないんだからさ、そんなに心配しなくてもいいさ」
「だって…」
「だって…何だよ」
「…慎一ってそういう所はまだまだ子供なんだもん、心配しちゃうわよ」
「30歳間近な男にそれはないだろ。もう十分大人だって」
「…じゃあちゃんと話してよ。どうしてここに来ようって言ったの?」
「だから、何となく…」
「嘘」
「嘘じゃないよ」
「嘘よ。顔に書いてある」そう美幸に言われてつい顔に手をもっていきそうになって右手がピクリと動いた。
「ほらっ」美幸が目ざとくそれを見つけて俺を見た。ちょっと得意げな顔が憎らしい。

「……」
「30歳間近な十分大人なんでしょ?妻に隠し事するなんて許さないわよ」
「…だからさぁ…」
「だからなに?」
「…ただ……」
「…ただ?」
「貴志が生まれてこうやって親になっただろ?」
「うん、親になったわね」
「子供の頃の思い出を自分の中に封印してずっとここまで来たけど、そんなんでいいのかなって思ったんだよ。ここでの暮らしは悪いことばっかりじゃなかったのに、たった一つの苦い出来事の為にいい思い出もみんな封印して、まるで今の生活から俺の人生が始まってる…そんな生き方じゃ、親としてよくないんじゃないかなぁって…思い始めたんだ」

「…貴志に何か言われたの?」
「…"パパは子供の頃、何になりたかったの?"って聞かれてさ。なりたいものはたった一つだったのに"何だったかなぁ…昔のことだから忘れちゃったよ"って貴志に答えた自分が居たんだ。何か情けなくてさ」
「慎一は野球一筋だったもんね。…どうしてそう答えなかったの?とっても頑張ってたし、何も隠すことじゃないでしょ?」
「自分では納得できてない部分があるから…かな。というか、途中で挫折したからさ、貴志に話せるような話じゃないんだよな」苦笑しつつ遊具で遊ぶ貴志に目をやった。目を輝かせて夢中で遊んでいる貴志の姿は、どうしても子供の頃の自分の姿と重なってしまう。
自分の中に封印しているつもりでも思い出してしまう、夢を追いかけていたあの頃の自分。挫折して夢をあきらめてしまった自分の姿。
情けなくて誰にも語れたものじゃない俺の思い出。そして果たせなかったあいつとの約束のこと−。

「でも挫折って誰にでもあるじゃない。私にだって一つや二つ経験があるわ。それを乗り越えて今の私たちがあるって思えば十分じゃないの?それじゃダメなの?」
「いや、ダメってわけじゃないさ。今の自分がダメってわけでもない。でもさ、俺は美幸のようにその挫折を乗り越えた形で現在(いま)を生きているわけじゃないんだ。挫折を味わった頃の自分はここに置き去りにして、その思い出を全て捨てて生きてきたんだ。簡単に言えば、俺という人生は二つ存在して、一つは今の俺、もう一つはここで過ごした18年の18歳までしか成長していない俺。本来、一つの人生として存在しなきゃいけないものが、止まってる人生と進んでる人生の二つに分かれてる…そんな感じなんだよ」
「…止まってる18歳の慎一と、今の29歳の慎一…その二人が慎一の中に存在してるってことね?」
「うん、そんな感じ。だからまるで自分の人生じゃないみたいに存在する18歳までの俺の話なんて、貴志に出来ないんだよな。他人の人生を語ってるみたいでさ。本当は自分の人生なのに」
「…うん」美幸が不安そうに小さく頷く。美幸の瞳は"なのにどうしてここへ来たの?"そう問いかけているようだった。

「…その二つ存在する人生を、そろそろ一つにしなきゃダメなんじゃないかと思ってさ。ちょうど休暇も取れそうだったし、いい機会だから18歳の俺と向き合おうってちょっと思ってみたんだよ。貴志に…自信を持って子供の頃の話が出来るようにさ」
「…そっか。だからここに来ようって言ったのね」
「そう。ま、美幸にも悪いしな」
「私?」
「だって俺が話さないからっておまえも話さないようにしてたし、美幸の思い出まで俺のせいで封印しちゃったら辛いだろう?昔の話を美幸と語りたいな、と思って。おまえ昔の話は色々覚えてそうだし」
「まぁね、そりゃ色々覚えてるわよ。慎一が3回連続で赤点取ったこととか、黒板消しの投げ合いしてて教室のガラス割ったこととか、学校一の美人の百合ちゃんにふられて家でお義父さんのお酒をこっそり飲んで次の日ひどい二日酔いになったこととか…」
「…うわぁっ!んなことまで思い出させるなよっ…つーかよく覚えてんなぁ、そんなこと」
「ふふふっ慎一のことはよ〜く存じ上げてますから」
「そういう話は貴志には言うなよ。親の威厳ってもんがあるんだからっ」
「そうね、言わないでおいてあげるわ」ちょっと勝ち誇ったような顔の美幸。これは将来絶対に言うと俺は確信した。今からその時の言い訳を考えておかなきゃいけないかもしれない。

「ママー!ブランコおしてー!」貴志が小さく揺れるブランコに乗ったまま美幸を呼んだ。まだ自分では上手く漕げないのだ。
「はいはい、今行くわ」と貴志に答えて、美幸は立ち上がった。俺が見上げると、美幸は俺を振り返り、
「じゃあ今日は慎一の思い出探しの旅ってわけね。そういうことなら私もちょこっと協力してあげる」と何やら意味深な言葉を口にして貴志の所へ行ってしまった。
「…ちょこっと協力?…何かいやな予感がするな……」俺の勘が当たらなければいいな、と思わずにはいられない。

まだ午前中ということもあって公園には俺たちしか居ない。だいたいは昼過ぎか夕方ぐらいにやってきて、夕飯前に帰る、というのがどこの家庭にもあるスケジュールだろう。
さらに今日は世間にしてみたら平日。どの家庭も父親は仕事、子供は学校のはずだ。公園に来るのは乳幼児を連れた母親ぐらいだと思う。
しかもまだ2月。今日は昼頃から気温が上がる、と天気予報で言っていたが、朝の冷え込みが残る午前中から遊びに出てくる子供なんて居ないのではないだろうか。何より母親が家から出たくないだろう。
貴志は常日頃から早起きで、旅行の時の早朝出発や寒いのなんてものともしない。もともと俺も美幸も朝にはめっぽう強いからその血をめいっぱい受け継いでいる、ということなんだろうが、時には夜明け前に起き出し散歩に行こうなんて言うこともある。血を受け継ぎすぎるのも問題なんじゃないかと思う。

しばらくすると、ブランコは飽きたらしく貴志は白い息をいっぱい吐きながら俺の所へ走ってきた。
「パパもあそぼうよ〜トンネルつくって!」砂場を指差し、俺の手を取ってぐいぐい引っ張った。
「わかったわかった。そんなに引っ張らなくても行くよ」どうせ途中で飽きるんだよな、と思いつつ砂場へ付いていった。美幸は、というと、砂場の隣にあるさっきまで貴志が遊んでいたブランコに腰を下ろし、
「ふぅ、ちょっと休憩」と呟いていた。
子供の遊びに付き合うのはなかなか体力が要るものだ。母親は特に大変なのだと思う。子供の世話をして家事もこなし、旦那の世話もこなす。相当ハードな毎日なのだろう。

ただ最近は旦那は放ったらかし、なんていう家庭もあるみたいで、職場にも奥さんの事で愚痴をこぼす同僚は多い。"専業主婦なのに出勤する時はまだ寝ていて、残業で帰ると子供と一緒にもう寝てる"とか、まるでカメハメハ大王の奥さんみたいな話を聞く。あ、でもそれは"朝陽のあとに起きてきて夕陽の前に寝てしまう"だからもっとひどいか。まぁ、そういう事は各家庭で異なるわけだから、何が奥さんの役割だと区切るのことはできないのかもしれないが。
俺たちの親の時代は女は男の一歩後ろで慎ましやかにとか、女は男の世話をするのが当たり前、なんて時代だろうが、今はそんなことを言っていたら結婚だって難しい。男だってそれなりに時代の波に乗らなくては幸せな家庭は作れないのだ。…なんて自分に言い聞かせて俺は美幸に頼まれた洗濯物を取りこむのである。自分で言うのも何だがなかなかいい夫だと思う。

貴志の為にシャツの袖をたくし上げ砂と格闘して大きな山を作り始めると、ブランコで一休みしていた美幸が、
「あら…」と声を上げた。
「ん?どうした?」と声を掛けると、美幸は公園の入口あたりを見やりながら、
「何だかにぎやかな声が聞こえてきたわ。貴くん、お友達が来たかもしれないわよ」と俺と貴志に向かって言った。
「こんな時間に来るってことは貴志くらいの子かもっと小さい子だな。きっと貴志みたいに早くから"公園に行こう"って子供なんだろうな」俺の言葉に美幸はそうね、と笑って頷いた。
「友達にならなきゃな、貴志」
「……」案の定黙る貴志。貴志は人一倍人見知りが激しい。一度遊んでしまえば慣れるのだが、どうも初めの一歩が貴志にはとても勇気がいることらしい。俺は小さい頃、誰にでも話しかけて友達になる子供だったから、そんな貴志の気持ちがあまり分からない。美幸曰く、貴志は広く浅くな友人関係より狭く深くな友人関係を求める性格なんだそうだ。3歳児のそんな細かい部分まで分かるものなのか微妙な所だが、美幸に言わせれば近所の友達と遊んでいるのを見ればすぐに分かる、とのこと。子供の面倒を見つつそんな分析までしている美幸の思考回路がすごい。でもそれが母親ってものなのかもしれない。

「ぼくいちばーん!」公園の入口に貴志ぐらいの男の子が元気に走ってきて自慢げに手を広げた。たぶんかけっこのゴールのつもりなのだろう。貴志もよくやる。
「ひろくんにばーん!」と2着の男の子が入口に着いた時、1番に着いた男の子がようやく俺たちの姿を見つけてちょっと不思議そうな顔をして立ちすくんだ。2番目に着いた男の子も俺たちに気づいたようだ。
"誰かな…"お互いにひそひそと声をひそめて話しているつもりみたいだが、丸聞こえだった。

「どうしたの、ひろくん。公園に入らないの?」母親らしき声が聞こえた。
「あ、ママ、こうえんにしらないひとがいるよ。おじさんとおばさんと、あとおとこのこ」
「お、おじさんかぁ…」
「お、おばさんかぁ…」美幸と俺は同時に呟いていた。自分の親と同じくらいの歳なのだから本来ならおじさん、おばさんは正しいのだが、まだ20代だからか、俺たちには妙に引っ掛かる言葉だ。まだ"お兄さん""お姉さん"と呼ばれてもおかしくないはずだ…なんて俺たちの言い分が子供に通じるわけもないのだが。

2人の母親らしき女性2人が公園の入口へやってきた。ちょっと遠慮がちに俺たちを見やり、小さく会釈をした。俺たちと同じくらいの歳のようだ。どこかで見たような気もする。
「こんにちは」美幸がブランコから立ち上がり、にこやかに会釈を返した。
「こんにちは。ほら、ひろくんたちもご挨拶は?」母親たちに言われた男の子2人は、ちょっと母親の陰に隠れながら、
「…こんにちは…」と俺たちに言った。
「こんにちは。こら、貴志もちゃんと"こんにちは"しなさい」砂場で大きな目をクリクリさせて動揺している貴志の肩を肘でツンとつついた。すると貴志は手についた砂をはらいながら、下を向いて消えてしまいそうな声で、
「……こんにち…は…」と言った。貴志にはこれが精一杯の挨拶だ。
「ごめんなさいね、この子恥ずかしがり屋で…」美幸の言葉に2人の母親はまるで図ったかのようにいえいえ、と同時に首を振った。
「優しそうなお子さんでいいですねぇ。ほら、なおくん、ひろくん、一緒に砂場で遊んだら?大きなお山作ってるわよ」
「あ、ほんとだ。いいなぁ…」
「これからトンネル作るんだよ、一緒にどうだい?」俺がそう声をかけると、なおくん、ひろくんと呼ばれた2人はぱぁっと笑顔になって砂場へ走ってきた。
「貴志、一緒に作ってもいいよな?」念のため貴志に聞いてみた。貴志は無言で作りながら、小さくウンと頷いた。頬がちょっと赤い。本当は一緒に遊びたいのだ。

近所には貴志と同じくらいの子があまり居ない。いつも一緒に遊ぶのは貴志より少し歳が上の子供たち。お兄ちゃんお姉ちゃんに囲まれて貴志は遊んでいるのである。だから余計に初めて会った同じくらいの歳の子と、どうやって話をしていいのか分からないのだろう。

「君がなおくんで、君がひろくん?」俺がそう尋ねると、2人はウンと大きく頷いた。
「そうだよ。ぼくなおき。こっちはひろしくんだよ。きみはなまえなぁに?」
なおくんが貴志に尋ねる。
「…ぼく…た、たかし」
「じゃあたかくんだ。おおきいやま、がんばってつくろうね」とひろくんが元気な声で貴志に言うので、貴志は顔を上げた。にこにこ顔のなおくんとひろくんにつられたのか、すぐに貴志も笑顔になった。
「う、うん。おっきいのつくろう!」3人は元気に山作りにとりかかった。

貴志もやればできるじゃないか、俺は安堵のため息をついた。
「じゃあ、山は3人で頑張って作れるかな?」
「うんっパパはいまいらないっ」貴志にそう言われてちょっと悲しくなりながら手を洗いに砂場を出た。美幸が苦笑いしながらこちらを見ていた。俺も苦笑するしかなかった。
「こちらに引っ越されてきたんですか?」ひろくんの母親に尋ねられた美幸が小さく首を振った。
「いえ、もともとここに住んでいたんですけど今は隣町に。旅行の帰りに久しぶりに寄ってみようってことになったんですよ。この公園でよく遊んだねぇって主人と話してたところです」
「…こちらに住んでらした?…あら、いつ頃までかしら。もしかしたら同じくらいの歳だから……って、あれ?…え、あの…もしかして……美幸ちゃん?」なおくんの母親が細い目を見開いて美幸を見つめていた。隣のひろくんの母親も"えっ!?"と声を上げて美幸を見た。
「え?」美幸の傍に戻った俺も同時に声が出た。2人でなおくんの母親とひろくんの母親をしげしげと見つめた。

小柄でちょっとぽっちゃりしていて、細目のおっとりした感じのなおくんの母親、そして長い髪を後ろに一つで束ねて、はっきり二重で目の下にぽつんとほくろがあるちょっとクールな感じのひろくんの母親…。封印していた記憶の欠片が俺の頭の中で少しだけ形になった。懐かしい顔がまるでアルバムを開くようにポンッと頭に浮かんだ。

「……あ、あれ?もしかして……圭子と…遥!?」俺は美幸より先に叫んでいた。
「えっ!あっ!慎一くん!?」遥がさらに驚いた顔で俺を見た。美幸のことしか目に入っていなかったようで、今ようやく俺のことに気づいた。
小さな身体をいっぱい使って驚く遥の姿は昔と変わっていない。おっとりしたなおくんの母親が遥、くっきり二重のひろくんの母親が圭子だ。
「えぇ〜っっ!圭ちゃんと遥ちゃん!?やだっ本当だ!気づかなかった〜!!」美幸がキャーッと声を上げて圭子と遥の手を取った。
「懐かしい〜っ!!」
「本当!高校卒業以来じゃない!?」
「うん、卒業してから隣町に引っ越しちゃったしね!卒業後に同窓会やった時は美幸ちゃん欠席だったし」
「そうなの、あの時はちょうど用事があって出席できなかったのよ〜!やだ〜2人とも元気そうで嬉しい〜!」
「美幸ちゃんこそ元気そうでよかった〜!し・か・も!慎一くんが旦那さんなんてね!結婚したのは噂で聞いたけど、もう、ほんと、びっくりよ〜!」
「あ……あ、あはははっ」美幸が照れくさそうに俺を見た。

遥と圭子は小学校から中学校までの同級生だ。美幸の当時の親友と言っていいだろう。当時3人は何をするにもどこに行くにもいつも一緒で、俺たちのグループにくっついてよく一緒に遊びに行ったものだった。
2人は俺たちと高校は別だったのだが、たまに会っている美幸から2人の近況をよく聞かされていた。卒業以来会っていない、ということは、これは10年振りの再会ということだろうか。

「慎一くんも元気そうで!いいパパしてるじゃないっ!」圭子がバシッと俺の腕を叩いた。一見クールに見える圭子だが、実は江戸っ子のようにチャキチャキしていてどちらかといえば男友達、という部類に入ってしまうタイプだ。黙っていればクールな美人、で通るのだが…なんて本人に言えるわけもない。
「圭子も相変わらず元気そうだな。圭子も遥もしっかりママしてるわけか、本当びっくりだよ」
「あら、それはこっちの台詞よ。慎一くんがパパだなんてね。ガキ大将だった慎一くんがいいパパになってるなんて、他の同級生や先生たちも想像もしてないわよ」
「俺だってねぇ、この歳になれば落ち着いてるっての。俺のことより自分たちはどうなんだよ。おまえらは昔とちっとも中身が変わってないじゃないか」
「まぁ失礼ねっ!そういうところ慎一くんも変わってないわよっ」
「ほんとっ!さっきまでのいいパパぶりはどこへ行ったのかしらっ」
キャーキャーと声を上げて騒ぐ大人たちを子供たちは不思議そうな顔をして眺めている。自分たちが子供の頃、母親たちの井戸端会議を興味なさげに見やっていたあの頃とだぶって見えた。

「それで、今はどのあたりに住んでるの?ご両親と同居?」遥と圭子の具体的な質問が美幸に飛ぶ。美幸は会えたことが嬉しくて嬉しくて、すっかり俺と貴志のことを忘れて遥と圭子にあれやこれやと近況を話し始めていた。会話の間に必ず楽しげな笑い声が入る。何がそんなに笑えるのか俺には分からないのだが。
誰それはどこに引っ越して、あの人は去年離婚して、この人はどうで…女が大好きなとりとめもない世間話が始まった頃、俺は逃げるようにその輪から出て砂場へやってきていた。いや、逃げる、という言葉はちょっと違うかもしれない。そういう話は、男が加わるものじゃないし、何より男なんて輪に入れてもらえないものだ。だから、追い出された、が一番いい表現なのだと思う。

「ねぇ、パパ。ママはひろくんとなおくんのママとおともだちなの?」3人が作った山にトンネルを作ろうと俺がそっと砂をかき出していると、貴志が俺の袖をくいくいと引っ張って尋ねた。ふと見るとひろくんもなおくんもちょっと気になっている様子。
「そうだよ。パパとママのお友達。久しぶりに会ったんだよ。子供の頃、いっつもこの公園で一緒に遊んだ友達なんだ」
「ふ〜ん。ママたちもここであそんでたの?」なおくんが遥に似たおっとりした口調で尋ねる。よく見たら目元もそっくりだ。

「そう。ここはね、ママたちの一番の遊び場だったんだよ。だからとっても大切な場所なんだ。ゴミなんてポイッて捨てちゃだめだよ?」
「ぼくたちポイッてすてないもん。ちゃんとゴミばこにすてるよ。だってゴミはゴミばこにすてるんだもん。ねぇ!」
「うんっゴミポイッするひとはわるいひとなんだよ。ママいってたもん」
「そうだな。ポイするのはよくないよな。そんな悪い人はどうしような」と俺が3人に聞くと、ひろくんがパッと立ち上がってポーズをとった。どこぞで見たことのあるポーズだ。
「そんなやつはぼくがやっつけてやるよ!」
「おお、たのもしいなぁ!ひろくんがやっつけてくれるのか」
「うん!だってぼくねっ」とひろくんが何か言おうとしたが、なおくんがわたわたと慌ててひろくんの口を塞いだ。
「ひっひろくんっだめだよっひみつだよぉ!」
「…あ…っ」そうだった!となおくんと顔を見合わせひろくんは両手で自分の口を押さえる。
「ん?ひみつなの?貴志と貴志のパパには内緒で教えてほしいなぁ…。貴志も聞きたいよな?」
「…うん…。ひろくん、おしえて?」
「……だれにもいわない?」
「いわないよ。パパもね、ゆびきりげんまんしたらぜったいにいわないよ。ね、パパ?」
「うん、言わないよ。ひろくんとなおくんと貴志と貴志のパパの秘密にするよ」
「…じゃあ、はなしてもいいかな…」ひろくんがなおくんに尋ねる。ひろくんは本当はみんなに言いたくて仕方がないのだ。もちろんなおくんも。
「…じゃあ、たかくんとたかくんのパパだけね」砂の山を囲んで、いい大人と子供3人はこそこそと顔を寄せ合った。ものすごい秘密を打ち明けようとしているひろくんを守ろうとしているのか、なおくんはキョロキョロと辺りを見渡し、母親たちの様子をうかがいながらまるでひろくんをガードするように両手を広げ、ひろくんに、
「ひろくん、いいよ。だれもきいてないよ」と言った。そのなおくんの姿は真剣そのものだ。可愛くて可愛くて仕方がなかった。

なおくんの言葉を聞いてひろくんは頷くと、
「…あのね、ぼくね、かめんライダーなんだよ…」ととっても小さな声で俺たちに囁き、大切に背負っていたリュックからライダーが持っている武器…名前は覚えていないが…「なんとかガン」をこそっと取り出した。貴志くらいの男の子たちが欲しがる、憧れのオモチャだ。
「おお!それテレビで見たことあるぞ!」俺はわざとらしいくらい大げさに驚いて見せた。
「…えっ!ひろくんがかめんライダーなの?!」貴志も俺に負けないくらい大げさにびっくりして目をまんまるくした。でも、もちろんこれは俺と違って真剣に驚いているのだけど。

「たかくんダメだよっちっちゃいこえで…っ」なおくんがまた誰かに聞かれていないかと辺りを警戒する。
「…あ…ごめんね。ひみつ、ひみつだもんね。…でもすごいねっひろくんライダーなんだっっ」目を輝かせて貴志はひろくんを見つめた。
「そうだよっひろくんはかめんライダーなんだよ」何故かなおくんが自慢げに答える。
「すご〜い……」
「…でも、ぜったいにママたちにはないしょだよ?」
「ママたちはしらないの?いつからライダーなの?」貴志にそう尋ねられるとひろくんは小声で、
「クリスマスにね、サンタさんにおねがいしたんだ。ライダーになりたいですって」と言った。
「そしたら?」
「そしたらね、サンタさんがこれくれたんだ。"かっこいいライダーになってね"っておてがみももらったんだよ」
「へぇ〜!!いいなぁ〜!」
「だからぼくもこんどクリスマスがきたら、ひろくんみたいにサンタさんにおねがいするんだ」となおくんは小さな声で俺と貴志に言った。
「なおくんは何になりたいんだい?」
「ぼくはね、ウルトラマン!おっきなかいじゅうをいっぱいたおすんだ」
「そっか〜。そしたらこの町は平和になるなぁ。ひろくんとなおくんが守ってくれるんだもんな」
「うんっ」ひろくんとなおくんは自信満々な表情で俺に頷いた。
「じゃあこの公園も、ずっときれいな公園でいられるな」
「そうだよっぼくたちがいるかぎり、このこうえんはへいわなんだよっねぇ!」
「ねぇ!」ひろくんとなおくんは大きく頷いてお互い決めのポーズをとる。
俺は、いつまでもこんな純粋な心を忘れないでほしいなぁ…なんて年寄りくさいことを思ってしまった。

「ぼくもなりたいなぁ…」貴志がうらやましそうに呟く。去年のクリスマス、貴志は仮面ライダーのフィギュアが欲しいと言うのでサンタさんから、という形でプレゼントした。ひろくんみたいに"仮面ライダーになりたい"とお願いすればよかった、と今ものすごく後悔しているのだろう。

親としては、そういうお願いは純粋で可愛くて嬉しいのだが、その反面現実を知った時にどんな反応を示すのか怖い部分がある。確か美幸は小さい頃、両親が枕元にプレゼントを置くのを目撃したらしい。起こさないようにこそこそしてそっと包みを置くのを見て、両親がサンタなんだと気づいたが、自分が寝ているものだと思っている両親の為にもここは寝たふりしかないと、とにかく目をつぶっていたらしい。そして翌日、起きた時にプレゼントを見つけたような素振りで2人の前で大げさに喜んで見せたという、何とも健気な話だ。

俺は逆に、サンタなんて居ないと思っていた。サンタを乗せたソリが空を飛ぶなんて、そんなことがあるわけがない。ずいぶん可愛げのない子供だったみたいだ。でも確か、貴志より小さい時は信じていたはずなのだが。

夢から覚めて現実に直面する時、子供はどんな気持ちなのだろうか。昔自分も子供だったのに、そういう気持ちはいつの間にか忘れてしまっている。サンタが居ないということにショックを受けたのだろうか。それとも嘘を付いていた両親にショックを受けたのだろうか。それとも、サンタが居なくてもプレゼントは両親からもらえると分かって、それならいいか、なんて思ったのかもしれない、俺ならば。どっちにしても、何かしら現実というものにぶつかっているはずだ。ただ、忘れているだけ。

そう、ただ日々の生活にそんな子供の頃のことなんて要らないから、頭の片隅の毎日の生活には使わない部分にすっかり追いやられているだけなのだと思う。たぶん俺は人一倍そういう部分が多いのだろう。たくさんあるはずの思い出を、すべて引きずり出すのには相当時間がかかりそうだ。

「わーい!できたーっ!」3人が大喜びで飛び上がる。砂場には、俺が掘ったトンネルが開通した大きな砂の山が完成した。と同時に自分の中に仕事と同じくらいの達成感があることに気が付いた。意外な感情に何とも言えない笑いが込み上げてくる。そしてベンチには途中で脱いだ上着が丸めて置いてある。途中で暑くなって上着を脱いでトンネルを掘ったなんて、ちょっと信じられなかった。

「ぼくクルマもってるから、やまのまわりにどうろつくろってはしらせようよ!」ひろくんが提案した。2人は頷き、早速道路作りに取り掛かった。この遊びは思ったより長くなりそうだ。
手を洗い、上着を着て美幸たちを見ると、すでに1時間は経ったと思うが相変わらず談笑していた。何をそんなに話すことがあるのだろうか。女のおしゃべりにはついていけない。

そろそろ昼も近いのではないか、そう思った時、懐かしい音が聞こえてきた。
―キーンコーンカーンコーン キーンコーンカーンコーン―
中学校の昼の鐘だ。中学校は小高い丘にある。だから鐘の音が町によく聞こえてくる。
「あら、もうお昼?」
「やだ、早いわね。さっき朝ごはんを食べたと思ったのに。…あ、ねぇ美幸ちゃんたちお昼はどうするの?」遥が尋ねる。
「特に決めてなかったんだけど…慎一、どうする?」
「どうする…って俺に言われてもな。…最近はこの辺りにも何か店は出来たのか?」と圭子と遥に尋ねると2人は苦笑しながら、
「出来るわけないじゃない。相変わらず何もないわよ」と返ってきた。
「だろうな」
「…あ、中学校の裏にね、サンドイッチとかおにぎり売ってる店はあるわよ。確かお弁当もあるはずよ、ねぇ遥?」
「うんうん、あるある。結構美味しいわよ、前食べたけど。生徒たちもそこに買いに行くらしいわよ」
「えっ昼休みに校内から出れるようになったのか!?」俺は驚いて身を乗り出した。
「その店だけ許されてるって話よ。店をやってる人が、確かPTAの会長さんと知り合いとかで」
「何だよ、それ。相変わらず大人たちは勝手なことしてるなぁ」
「そうね。あの頃慎一くんもずいぶんその件についてはPTAと闘ってたものね」圭子が思い出しながら笑って言った。
俺が中学の頃、昼休みに校内から出る出ないでPTAと対立したことがあった。うちは共働きで2人とも朝が早かったから弁当がなかった。だから昼はコンビニでもいいから弁当でも何でも買いに行きたいと思っていたのだ。それなら朝コンビニで買っていけばいいじゃないか、と思うだろう。しかし学校に一番近いコンビニは、家から学校への道筋ではなく、簡単に言えば…学校を中心に考えて、家が南ならコンビニは北にあったのだ。
学校を横切りコンビニへ行き、また学校へ戻る、そのルートしかない。同じ事を思っているやつはもちろんたくさん居た。だがPTAは昼休みの外出は断固として認めてくれず、校内に出入りしているパン屋から買えと譲らなかった。

そのパン屋のパンが美味いなら我慢もできるが、相当ひどい味だったから買うわけもなく、結局俺たちは毎朝遠回りしてコンビニに寄ってから登校していた。
「でもまぁ、その店が美味いなら、生徒は俺みたいに文句は言わないだろうな。…じゃあ出入りしてたパン屋はどうなったんだ?」あの、違う意味ですごいパン屋。あんなパン屋があること自体不思議で仕方がない。
「ああ、あれ?…私たちが中学に遊びに行った時…確か高校の時だったと思うけど、その時先生から出入りをやめたって聞いたけどね。だって美味しくないから売れてなかったし、出入りするだけ無駄だったでしょうからね」
「そりゃそうだ!」
「それで、学校の裏にその店が出来たのよ。慎一くんみたいに反対方向から来る生徒の数が多いのにコンビニまで行かせるなんて!って親たちがPTAに文句言ったらしいわ。その親たちを納得させる為にPTAの会長が知り合いに店をやるように依頼して、その店に買いに行くのは許可したみたいよ」
「ふーん、PTAの会長の知り合いの店っていうのが気に入らないけどな」
「まぁね。でも、今のPTAの会長さんは結構話が分かる人みたいよ。私たちの時とは大違い」
「ほんとだな。あの時のPTA会長は最悪だった。あれでも人の親なんだから信じられなかったよ」
「ほんとほんと」俺の言葉に頷く遥を横目で見ながら圭子が口を挟む。
「…それでさ、お昼はそこで買ってみんなで食べない?天気もいいし、河原で食べるっていうのはどう?」
「河原か〜。懐かしいわねぇ!いいわね、だいぶ暖かくなってきたし、外で食べても良さそうよね。ね、慎一?」と美幸は嬉しそうに俺を見上げた。俺は本当は動揺していたけれど、3人にそんな気持ちを気付かれたくなかった。必死で笑顔を作る。
「い、いいよ。じゃあ、買いに行くか?」

「ひろくん!なおくん!お昼ご飯買いに行くよ!」
「貴くん!」母親たちの言葉に子供たちは首を大きく横に振った。
「まだつくるもん。おなかすいてないもん」3人の口から出る言葉は同じだった。きっとまだ砂の道路が完成していないのだろう。
「え〜、十分遊んだでしょ?」
「無理だよ。さっき道路を作って車を走らせようって張り切ってたから。たぶんそれが完成しないとウンって言わないと思うよ。早くてあと30分はかかるな」
「そうなの?んもう、遊んでてほしい時はすぐに飽きるくせに、こういう時はやたらとハマるんだから…」遥が大きくため息をついた。
「どうする?」3人の母親は顔を見合わせる。
「そうねぇ…じゃあもう少し待ちましょうか。あの子たちが終わるまで待って、買いに行きましょ」
「そうね。あ、じゃあ慎一」
「ん?」
「あなた先に行ってていいわよ」
「先に…って河原へか?」
「うん。河原まで先に行ってて。どうせ中学の辺りとか通って行くわけだし。ほら、思い出探ししなきゃいけないじゃない?」
「ま、まぁそうだけど、別にそんなしなきゃいけないってわけでも…」
「あら、慎一のことだから今日しなきゃ次はいつ来るか分からないでしょ?別に急いで帰る必要もないんだから、今日一日ここでのんびりしましょうよ。しばらくしたら貴志たちを連れてお弁当買って河原に行くから。…それに、あと30分私たちの話をじっと聞いていられるの?」と美幸に言われてその30分を考えてみた。
「……無理だな、確かに」
「でしょ?だから先に行ってた方が慎一にもいいと思うんだけど」美幸は笑って言った。
「……分かったよ、先に行って待ってるよ」
「…場所は、覚えてるよね?」
「…何となくな」大嘘だった。忘れようとしたけれど、忘れられない場所なのだから今でもはっきりとその風景を思い出す事ができる。
「じゃ、またあとでね」3人が俺に向かって手を振った。中学の頃の、3人の姿がだぶる。
歩き出した俺は、
「なるべく早く頼むよ。…あと、俺の弁当だけ買い忘れる、っていうのもやめてくれよな」と返して軽く手を上げ公園を出た。

「まさか先に1人で河原に行くことになるとはな…」あそこは一番最後までとっておいて、決心がついたら行こうと思っていたのに、心の底からため息が出る。
美幸の提案は協力的というより非協力的なものにもっとも近かった。協力的というのは俺が"ありがたい"と思う事をすることだ。これはまさに"ありがた迷惑"である。
もちろん河原へ行きたいなんて気持ちはこれっぽっちもない。できれば中学校の裏に出来たという店で待ち、買ったらまた公園に戻って食べる方が何十倍もいい。けれど行かないわけにもいかない。行くことになったのは、美幸たちに行きたくないという気持ちを気付かれたくないからと、普通にふるまったからでもある。要は自分で撒いた種、ということだ。

中学校までの懐かしい道を歩きながら、色々なことを思い出した。家の前を通ると必ず吠える犬が居たこと、配達された牛乳を玄関前で必ず腰に手を当て飲み干す人のこと、ゴミの日に両手に大きなゴミ袋を下げて収集場所にやってくるスーツのおじさんのこと、雨が降ろうが雪が降ろうが毎朝乾布摩擦をしていたおじいさんが居たこと…何故か、そんな小さなことばかりが頭に浮かんでくる。

決して当時のままの風景ではないのだ。ある家は建て直していたり、とある家は外壁が塗り直してあったり、家がなく空き地になっていたり…それなのに違和感なく俺の記憶と重なっていく。たぶん、ある一部分が記憶のどこかで繋がれば、自然にここは18歳まで暮らしていた町なのだと認識できるのだろう。

「…あ、柴田さん家…あの頃と少しも変わってないな。あれ、田中さん家、庭がウッドデッキに変わってる…あんなに雑草だらけだったのに」自然に苗字まで出てくる。確か田中さん家の隣は"七五三"と書いて"ナゴミ"さんで息子さんが俺の2つ下だったはずだ。小学校の頃、同級生たちに"しちごさん〜!"ってからわかれていた。

藤田さん家を過ぎると、右側に何十年も放っておかれている雑木林があって、かなり傾斜のある坂道が始まる。坂道はゆるいカーブになっていて、左側のガートレールの脇には毎年つくしが顔を出し、いつも誰かが採っていた。春の味だと大人たちは言っていたけれど、つくしの何が美味しいんだか大人になった今でも俺には分からない。

あの頃と変わらない風景の坂道を上がると、学校の敷地内に植えられたポプラ並木が見えてくる。田舎の学校だから、やたらと運動場が広い。そのせいなのかどうなのかは知らないが、学校をぐるりと取り囲むようにポプラの木が植わっていて、公園が併設されているのかという印象を受ける。
久しぶりに見たポプラの木は、相変わらず幹が太く、ずっしりとその場に根を下ろし生き続けていた。樹齢はどのくらいになったのだろうか。

敷地を取り囲むフェンスとポプラの木々の間から、校舎が見えた。誰が見ても学校だと分かる、白いとは言い難い何とも言えないグレーに近い外壁、整然と並ぶ窓、たくさんの人間が居るはずなのに、温かみすら感じられないあの建物だ。何故日本は"学校"をあんな建物にしたのだろうか。よっほど両親たちが通っていた頃の木の校舎の方が温かみがあり、学び舎、と言うに相応しいと思う。

昼休みということもあって、校舎からはワイワイガヤガヤ明るい声がひっきりなしに聞こえてきた。すでに弁当を食べ終えて運動場でサッカーやキャッチボールをしている生徒も居る。みんな思い思いの休み時間を過ごしているようだ。

フェンス越しに運動場を眺めていると、1人の生徒が俺に気づいてじっとこちらを見ていた。手にはグローブと野球のボールを持っている。まだそれほど体格もよくない、身長も低く顔も幼いからきっと中学一年生だ。野球部に入ったけどまだ球拾いばかりだからと、休み時間にキャッチボールをしているのだろうと勝手に思い、俺もそうだった、と1人頷いた。
その生徒はまだ俺を見ている。何をそんなに見ているのだろう、と思ったがすぐにその理由が分かった。フェンスのあちらこらちに"不審者に注意!"という看板がいくつも設置してあった。
「明らかに不審者だと思われてるな、俺。最近そういう人が多いのかな」
早々に退散することにした。

俺もあんな感じだったのかな、と昔を思い出しながら正門前を通り過ぎ、学校の裏手へ向かう。つまり、家とは反対方向に唯一存在したコンビニの方向だ。今度はゆるやかな下り坂が続く。

俺も中学の頃は、暇さえあればグローブとボールを手にして練習していた。
気がついたら日が暮れていた、なんてことはしょっちゅうで、食べることより野球が好きだった。
朝は一人で新聞のスポーツ面を読み、休み時間はキャッチボール、授業後は部活で汗を流し、家に帰ればプロ野球の中継を見る。それが終われば庭で憧れのピッチャーの投球フォームを真似して軽く投げ込む。バカがつくほど野球少年だったといっていい。

その時俺と同じくらいの野球バカが1人居た。同じクラスになったことはないが、野球部で同じピッチャーをしていた透だ。俺は右投げ、透は左投げだった。同じピッチャーだからといってライバル、というわけではなかった。
右投げと左投げだと監督から投げろと言われる場面が全く異なる。だから俺が投げる時は透の出番ではなく、透が投げる時は俺の出番ではない。野球を詳しく知らない人にはどういうことなのか分からないと思うが、とにかくそういうわけで、俺たちはライバルというより、簡単な言葉で言えば当時の"親友"だった。

透は中学生レベルをすでに通り越した体格と才能の持ち主だった。左腕の筋肉は到底かなわなかったし、透に勝てる左投げピッチャーは中学生にはいなかったと思う。体格にも才能にも恵まれ、透は野球をやるために生まれてきた、と言ってもいいくらいのやつだった。
俺はと言えば、体格も才能も透ほどではなかったが、透と同じくらい野球をやるために生まれてきた、と周りから言われていた。確かに右投げピッチャーは俺がトップの成績だったから。だけど、もし透が右投げだったら俺には投げるチャンスなんて一回もなかっただろう。

俺たちには夢があった。リトルリーグ、そんなものじゃなく、甲子園でもない。確かに甲子園は通り道だとは思っていたけれど、俺たちの夢はプロになることだった。甲子園に行こうがプロにならなければ意味がない、俺と透はいつもそう言っていた。
プロになるために何が必要だろう、俺は透に聞いた。もちろん実力もそうだが、何より高校野球で有名にならなければスカウトも来ない。まずは野球の強い高校へ行き、そこで野球部に入ることだ、と透は言う。
そんなの当たり前のことだけど、当時俺たちはかなり真剣に話し合っていた。

透は中学三年の時"別々の高校へ行こう"と俺に提案した。何故かと尋ねると、同じ高校から投手が2人もドラフトにかかることはないと思う、と答えた。別々の高校へ行き、そこで有名になる。どちらもどこかの球団から声がかかり、ドラフトに指名されてプロになる。お互い同じ球団かもしれないが、違う球団になるかもしれない。でも同じプロで活躍し、時に対戦チームとしてお互いがマウンドに立ち、投げ合うというのもいいんじゃないかな、と透は真剣な顔をして俺に言った。親友がライバル、俺たちにはすごくいい響きに聞こえたものだった。

そして受験する高校を決めた。俺はスポーツが盛んな地元の高校。甲子園出場経験もある。スポーツバカが集まる高校だから、偏差値はそんなに高くなくて俺は推薦で合格できた。
透は2つ向こうの町にある野球の強い進学校に行くことにした。進学校なだけに偏差値は結構高く、俺とどっこいどっこいの成績だった透は、とても推薦なんてもらえなかった。そして考えたのは"スポーツ推薦"だ。これは"私はこのスポーツが得意です。高校に入ってもそのスポーツで活躍することを約束します"と学校側に提示し、そのスポーツをすることを約束した上で入学する、という方法だ…と思う。実はそんなに詳しくなのではっきりとは知らない。結局その"スポーツ推薦"で透も見事合格した。

中学の卒業式の後、透と俺は河原へ行った。美幸たちの懐かしい場所でもあり、俺の忘れられない場所でもある河原だ。そこで透は俺に手を差し伸べながら言った。
"たぶん中学の時より野球三昧になるから、なかなか会う機会は作れないと思う。だから次に会うのはおまえの高校と試合する時か、甲子園の予選だ。もしかしたらプロになるまで会えないかもしれない。だから今言っておこうと思うんだ。慎一、絶対にプロになろう!そしていつか、同じマウンドで投げ合おうぜ!""ああ、約束だ!絶対にプロになろう!"俺は透の手を強く握り締めた。

その日から俺は、透に一度も会っていない。もちろん、プロ野球の選手になったわけじゃないから会えるわけもない。そう、俺はあの河原で誓い合った約束を、守ることができなかった。
たかが子供の約束、そう思われると思う。だけど、俺たちは真剣だった。プロになることが、自分の人生に課せられた使命だと思い込むぐらい、真剣だったのだ。
俺は高校の野球部に入部したあとすぐに挫折をして、野球につながるすべてのものから逃げた。新聞のスポーツ面は開くこともなくなり、プロ野球の中継を親父が見始めると部屋へ戻る。愛用していたグローブもボールも、ゴミと一緒に捨てた。
自分が未熟だったせいで夢が叶わなかったのに、まるで周りが悪いかのように自分に言い聞かせたこともあった。高校すら行きたくなくなったこともある。
美幸に野球部を辞めたことについて一度だけ聞かれたことがあった。あまりに俺が変わったから、心配してくれたのだろう。だけど俺は理由を美幸に話すことはなかった。今だって誰にも話したことはない。心の奥底に押しやった出来事。

それなのに俺は、今から透との約束を交わしたあの河原へ行こうとしている。100%で表すなら、行きたくない気持ちは99.999…%、行きたい気持ちはこれっぽっちもない。
けれどその0.1にも満たない思いの中に、どうしても離れない透の姿が浮かぶのだ。消そうとしても離れない、透の姿。あの頃の透ではなく、現在の透の姿が俺の頭から離れない。あの日から一度も会っていないのに。

その理由は約2週間前の休日に遡る。CM中だからと何気なく替えたテレビのチャンネル。とあるプロ野球チームの選手について取り上げている番組だった。もちろん俺は見るつもりはなかったから、すぐにチャンネルを替えようとリモコンのボタンを押そうとした。だがその時テレビの画面に映し出された人物を見て、俺は全身に震えが来た。リモコンもゴトッと足元に転がった。

テレビに映っていた人物、それは紛れもなく透の姿だったのだ。そこにはプロ野球の世界でベテラン選手となった29歳の透が、いつも隣で見ていたあの投球フォームで投げ込んでいた。
野球というものから遠ざかって以来、透がどうしているのか全く知らなかった。高校二年の時、透の高校の甲子園出場が決定し、透もエースとして試合に出るということは美幸から聞いて知っていた。だがプロ野球の選手として活躍しているということは、予想もしていなかったのだ。
29歳の透は、相変わらず野球バカで中学の時と同じように"三度の飯より野球が好き"と話していた。まだ独身で、昨シーズンは12勝したらしい。

俺はチャンネルを替えることができなかった。透は夢を叶えてこうしてテレビに出ていて、かたや俺は挫折して鉄工所で働く一家の主。当然自分の中に惨めな気持ちが生まれた。でも透の姿は、そんな惨めな気持ちすら失くさせてしまうほど、輝いていた。
そして彼は相変わらず野球バカだたけれど、大人になっていた。現実を知り、何度となくケガに悩まされ解雇も経験していた。番組の説明によると、透は一昨年、今の球団のプロテストを受け見事合格、そして2年目の去年、見事二桁勝利を収めたということだった。

そんな彼は最後にレポーターにこう尋ねられた。
"これからの夢とか、あったら教えて下さい"照れくさそうに透が口を開く。
"夢ですか。…そうですね、子供の頃はプロ野球の選手になるのが夢だったんですよ。テレビで映るあのマウンドに立ちたい、それが夢でした。今は…野球選手として子供たちに夢を与え続けられたら、と思います。同世代の方たちにも、あいつ頑張ってるなぁ、なんて言ってもらえるように、これからもマウンドに立ち続けたいですね。"
あいつらしい台詞だった。嫌味も感じさせない、本当に心の底からそう思っているのが伝わってきた。

何て俺は情けないんだろうな、と思った。逃げて逃げまくって今の生活に甘えて、過去に封印までしている。こんな自分じゃ、貴志に"子供の頃の夢"なんて到底語れるはずがなかった。
挫折を乗り越えていない俺が、貴志の親である資格がはたしてあるのだろうか。封印している18歳までの俺が29歳の俺に何か言いたそうに胸を締め付ける。

そして俺は思う。このままでは、親として…親というより1人の人間として間違ったまま年老いてしまうのではないだろうか。子供のなりたいものに反対し、親の思いを子供に押し付ける、そんな親になってしまうような、そんな気がした。子供が夢に挫折することを恐れ、それを防ぐために無難な道へ誘導する、はたしてそれは親としてよい判断なのか。

親は子供に何をさせるために必要なのだろう。子供は決して自分の果たせなかった夢を叶えるための道具ではないし、自分のコピーでもない。血を受け継いだといっても、違う人格なのだ。親が子供を意のままに操ることなど、できはしない。してはいけない。
親というのは子供を心から愛し、見守るために居るのではないかと思う。子供の人生を傍で見守り、時にアドバイスをする。最優先されるべきものは、子供本人の気持ちだ。

挫折も乗り越えていない俺が、貴志の気持ちを最優先することができるだろうか。貴志が俺と同じように壁にぶち当たった時に、俺はどうやって貴志に道標を示すのか。今の俺にはアドバイスすら何一つ満足にできない。立ちはだかる壁から逃げて逃げまくる方法しか俺にはないのだから。

だけど…夢には挫折したけれど、今、俺は紛れもなく貴志の父親だ。貴志の父親という立場から逃げることはできない。父親として貴志の気持ちには正直に向かい合わなければいけないのだ。

そのためにまずしなければいけないこと、それが18歳までの俺と向かい合うこと。散々逃げてきた出来事と正面から向き合うこと、そう俺は思い、ここに来ることにしたのだ。

何をどうすればいいのか、それはまだ分からないけれど、ここに来ることが向かい合う第一歩だと思った。正直来るまでの道のりは辛い山道のようだった。行きたくない気持ちと行かなければいけないという気持ちが交互にぶつかりあい、運転している時ハンドルを握る手にはいやな汗までかいていた。今だって河原に向かうこの道を歩く足取りも決して軽いものじゃない。足首に鉄の重りでもついているかのように一歩一歩がとても重い。できれば途中で引き返したいくらいだ。
でも引き返したら俺は、貴志にも美幸にも合わせる顔がない。これ以上惨めにはなりたくなかった。これ以上透との距離を広げたくなかった。その気持ちが、かろうじて俺を河原へと向かわせている。

学校帰りに立ち寄っていた川は、田舎を流れる川といっても一級河川だから、河川敷もあって川幅は結構ある。そして川の周辺は田んぼや畑が多い。この辺りは水害にとても気を遣っていて、特に流れが曲線を描くカーブでは水量が増えた時にもしっかり対応できるように内側の堤防はコンクリートで固められている。でもコンクリートの部分以外は景観を損なわないように、と草木が茂り都会の川より何倍も川らしい姿だ。

河川敷はジョギングコースの道と、その脇にゲートボールや子供たちが遊べるようになっている広場が所々にあり、自然とふれあう憩いの場所だった。今もその姿のままなのかは分からないが、きっとそんなに変わってはいないだろうと思う。

見覚えのある風景が見えてきた。透と2人で駆け上った堤防。冬はそこに生えている植物の実が服にいっぱいくっつき、全部取るのに苦労したものだった。硬い実でしかもトゲトゲしていたから服に付いたまま座ったら痛くて仕方がない。何の役にも立たないそんな植物が堤防に生えている意味が俺たちには分からなかった。

その場所は今でも変わらずあったけれど、トゲトゲの実の中を駆け上がる元気は今の俺にはない。遠回りだが、堤防を上がる階段まで行くことにした。階段は自転車用のなだらかなスロープ付きだからとてもゆるやかなものだ。ちょっと大またで一段飛ばしで上っていく。昔は二段飛ばしで上がっていたような記憶がある。

「…はぁ…はぁ…たかが階段上がっただけでこれかよ。まいったな…はぁ…はぁ…」切れた息を落ち着かせるまでしばらくかかった。ようやく落ち着いた所で懐かしい川を一望した。変わらない橋、変わらない河川敷の風景。来た方を振り返れば丘の上にポプラに囲まれた中学校が見える。何一つ変わっていないように見えるが、最後にここに来てから10年以上経っている。きっとここから見える風景もあの頃と何かは変わっているのだろう。

俺たちが集まる場所はいつも同じだった。近所の老人が集まるゲートボール場から少し離れた芝生の広場だ。ここは結構穴場で、小さい子供は来ないしゲートボール場との間に少し小高い木々が生い茂っていたから見られることもない。内緒話をするにはもってこいの場所だったのだ。

ジョギングコースをちんたら歩くわけにもいかないので、俺は堤防の上の砂利道を歩いてそこに行くことにした。時々犬の散歩をする人とすれ違った。最近はやたらと小型犬が多い。ちょっと前の大型犬ブームはどこへいったのだろうか。そしてその大型犬たちはどこへいったのか。ペットは一番人間の流行の影響を受ける。生き物は流行で買うものじゃないのにな、と思う。人間の身勝手には呆れるものがある。

人と自転車しか通れない赤い小さな橋を越えると、川がゆるやかなカーブにさしかかった。ゲートボール場が見えてきたからもうすぐだ。行くことは嬉しくないが、思い出の場所に変わりはない。今も変わらないのだろうか、という気持ちはある。ゲートボールを楽しむ老人たちの向こうにあの頃と変わらない小高い木々が生い茂っていた。いや、あの頃より背が高くなっているような気がする。
「…懐かしいな」自然と出た言葉だった。逃げていた自分の気持ちの中に、もう一度この風景を見たいと願う気持ちがあったのかもしれない。

ゲートボール場を過ぎた所に下へ降りる道があり、降りた先はジョギングコースへ繋がっている。その手前に草木に覆われた秘密の芝生広場は存在する。一旦戻ってみないと見つけられない、そんな場所なのだ。下へ降りる道を下りながら草木に覆われた芝生広場を見やった。まだ木々に阻まれて広場が見えない。相当草木が育ってしまって芝生も生えていないんじゃないかと思うほどだ。ジョギングコースの手前で道をそれ、広場を目指した。

すると、広場の手前の草木の間から人影らしきものが見えた。草木のせいでよく見えないが、男が1人居るようだった。
(…先客が居るみたいだな。にしても、こんな所で何してんだろ…)自分たちしか知らないと思っていた場所に知らない人が居るとなるとちょっと気になる。そう思ってジョギングコースへ戻り、ゲートボール場の方向へ行く通りすがりになりすまし様子を伺うことにした。ジョギングコースから男の居る場所までは5,6mはある。怪しまれることはないだろう。

ちょっと小走りにコースを走り出し、広場の前を通り過ぎる時にちらりと男を見やった。男は上下ウォームアップスーツで大柄なやつだった。俺の方には背中を向け、しきりに何かの練習をしている。広場の隅にある石でできたテーブルの上にはグローブが置いてあった。
男が何をしているのか気付いた時、俺は小走りすることも忘れ立ち止まり、自分の目を疑った。これは幻だ、そう思った。
男は何度もボールを投げるフォームを繰り返していた。何度も右足を振りかぶり、左腕を豪快に振り下ろす。腕を振り下ろすたびに、ヒュッと音が鳴り、威力がものすごいということが分かる。投げ終わった後の姿、そしてまた構える姿、腕を上げる姿、足を振りかぶるその姿。見間違えるはずがなかった。

「……と、透!?」呆然としながら俺はジョギングコースから広場の男に向かって叫んだ。男はちょっとびっくりして振り返った。俺の姿を見つけると、無言のまま何度かまばたきを繰り返す。男はゆっくりと歩き出し、誰か分かると顔いっぱいに笑みを浮かべ、小走りで俺の所までやってきた。
「…し、慎一!!」2週間前テレビで見た姿そのままの、29歳になった透だった。

「何だよ、久しぶりじゃないか!元気だったか?」透は放心状態のオレに昔と同じ口調で言った。
「何か、おまえ小さくなった?…あ、オレがでかくなったのか!そうだよな!最後に会ったのは中学3年の時だもんなぁ!オレあれからさらにでかくなったからなぁ」まるで機関銃のように俺に話しかける透。

「今日は仕事休みなのか?久しぶりに帰ってきて、町はどうだった?あんまり変わってなかっただろ?きっとおまえのことだから田中さん家の庭に驚いただろ。あんな草ボーボーだった庭が今はウッドデッキだぜ?しかもきちんと手入れされてる。10年も経つと人も変わるもんだよなぁ!」
「…ちょ、ちょっと待て!いっぺんにあれこれ言うなって!」
「…は?何で?何だよ、慎一。おまえ耳まで遠くなったのか?まだ29なのに」
「違う!そうじゃない!今のこの状況にまだ頭がついていってないんだよ!だいたい何でおまえがここに居るんだよ!この前テレビで見た時、確か海外でトレーニングしてたじゃないか!」
「あれは3週間も前に録ったVTRだよ。先週日本に帰ってきて、今は地元に戻ってきてるんだよ。また来週からチームのキャンプに行くんだけどな」
「…ああ、そうですか」
「…何だよ、そっけないなぁ。久しぶりに会ったんだから、もう少しテンション上げろよ」
「上げられるわけないだろ」
「何で?」きょとんとして透は俺を見た。俺の気持ちなんてこれっぽっちも分かってないようだ。自分の奥底にしまっていた心の傷が蘇り、ついさっきまで後ろめたい気持ちでいっぱいだったのに、透はまるでそんな出来事はなかったかような態度。ものすごくイライラしてきた。俺は何年も悩んできたのに、当の本人はケロッとしている。悩んできたこの年月は一体なんだったのだ。

「なぁ、何でだよ?」またきょとんとして透が尋ねる。何かがプツリと切れた。たぶん傷口をかろうじてふさいでいた細い糸と、数本の血管だと思う。
「…俺は!おまえとの約束をやぶったんだぞ!?一緒にプロになろうっていう約束を守れなかった!おまえはそのこと怒ってんじゃないのか!?怒ってるから一度も連絡してこなかったんだろう!?なのによくそんな風にできるよなぁ!俺はずっとおまえに合わせる顔がないって悩んでたんだ、昔みたいに話せるかよ!」
「……」
「俺はここでおまえと夢を語り合ってた慎一じゃないんだ。夢に挫折した人間なんだよ。だからおまえと懐かしく昔を語る権利なんてないんだ!」透がじっと俺を見るので、耐えられなくなって下を向いた。"久しぶりだな"なんて笑顔で言われるより、一発殴られた方がよかった。殴られて許してもらうつもりじゃないけれど、心のモヤモヤをとるにはその方がいい。

「…オレ、別におまえと昔を語ろうなんて思ってないぜ?約束のことも別に怒ってないし」透の口からあまりに意外な言葉が出て、俺は現実なのか夢なのか分からなくなった。
「…何で?だって…」混乱したまま尋ねる。
「そりゃ、高校入っておまえの高校と練習試合をした時におまえが居なかったのはショックだったよ。何で居ないんだよって腹も立ったさ。だけど、ずっと一緒に野球をしてきたおまえが大好きな野球を辞めたってことは、オレにはどうすることもできない何かが起こったんだろうって思った。その"何か"はオレには分からないけど、オレにも起こりうることだったんじゃないかって考えたんだ。そう思ったら、おまえを責めることなんてできなかった。オレも壁にぶち当たってたらこうして野球をやってたかどうか分からないからな」
「……」
「それに昔は昔、今は今、だろ?昔は野球少年だったオレとおまえ、そして今は何とか生き残ってるプロ野球選手と…一家を支える父親、たったそれだけの違いじゃないか。野球が好きだったのは変わらない事実だろ?夢が同じだったのも事実だ。こうして29歳になったオレたちが話してるのも事実。お互い大人になったってことでいいんじゃないか?オレはそう思うよ」
全身の力が抜けていくような、そんな気がした。

透との約束を守れなかった、そのことが俺の忘れたくても忘れられない出来事。野球から逃げ、この町からも逃げた。戻りたくても戻れないあの頃。やり直せない夢の続き。夢に向かって輝いていたあの頃の思い出は透にとって嫌なものになっていると思っていた。
だけど、大人になっていなかったのは俺だけだったようだ。透は野球バカだけど十分大人になっていた。10年以上背負い続けてきた荷物が手品のように一瞬にして消えた。本当に種も仕掛けもない手品。力が抜けてしまい、たまらなくなって俺は芝生に腰を下ろした。

「……お、おまえは相変わらずだな。今まで悩んでたことがだんだんバカらしくなってきたよ」透も俺の隣に腰を下ろす。こんなことなら、もっと早くここに来ればよかったと思わずにはいられない。
「慎一は深く悩みすぎなんだよ、昔から。でも、だからいい父親になれたのかもしれないな。今のおまえはおまえで輝いてると思うよ。今の暮らしは決して後悔するものじゃないんだろ?」
「…それはもちろん」
「それならいいじゃないか。おまえは今の暮らしを誇りにすればいい。今の暮らしを手に入れる為に、野球と出会ったってことにすればいいんだよ。
…なんてな。オレも野球人生で色々あったからな。こんなオレでも色々あれば大人な意見が言えるってわけさ」厳しいプロの世界で、本当に色々あったのだろう。透の笑顔には、そんな辛さもすべて乗り越えた強さを感じた。

「…あの、野球バカで単純明快な透がなぁ…大人になったよなぁ」
「それはこっちの台詞だ。慎一はおっさんくさくなったよな」
「悪かったな!」
「あはは!冗談だよ!おっさんって感じじゃなくて、父親って感じだな。おまえも大人になったじゃん。…息子の貴志くんは今年で4歳だっけ?」
「ああ、もうすぐ……え?何で息子の名前知ってるんだよ?」
「…あ…」しまった、と透は俺から目をそらした。
「…俺が結婚したことも何で知ってる?貴志の歳まで!俺はあの日以来おまえには会ってないんだぞ?どういうことだよ!…説明しろ!」俺より10cmは上にある透の胸ぐらをつかみ、鍛え上げられた腹筋を殴った。
たぶん子供が叩いてるくらいの感覚しかないだろうけど。
「…痛いって。別に探偵を雇って調べたわけじゃないさ」
「当たり前だ!」
「……美幸ちゃんに決まってるだろ」
「へ?…み、美幸?…どういうことだよ?」またまた意外な言葉に俺はぽかんとした。
「オレさ、高校の時、1回だけおまえの高校に行ったことがあるんだ」
「高校に?何しに?」
「野球辞めた理由をおまえに聞きに」
「い、いつだよ」
「確か…2年の時だったかな。だけど、その時はもう帰ってて居なかったんだよ。で−」
「その話と美幸とどう関係が…」
「まぁ聞けって。それで、家まで行こうかなぁと思ってたら美幸ちゃんと偶然会ったんだよ」
「美幸と?じゃあ、あいつに聞いたのか?俺が野球部を辞めた理由」
「聞いたけど、詳しくは知らないって言われてさ。美幸ちゃんも辞めた理由を聞いたけど、話してくれなかったから、きっと聞いても何も話してくれないよって。彼女もすごく心配してたから、何か分かったら連絡してくれって頼んでおいたんだ」
「美幸にか!」
「うん。そしたら毎年年賀状を送ってくれるようになって。それがずっと続いてて、おまえと結婚したことも子供が生まれたことも知ってるってわけ」
「……み、美幸のやつ、そんなこと一言も…ってことはおまえ!」
「ん?」
「今日ここに居るのは美幸から!」
「やっと気づいたのか?1週間前にハガキが届いて、ここに寄ることになってるから、よかったら慎一に会ってあげてねって」透が面白そうに笑いながら言った。

「み、美幸のやつ〜!!!」美幸が言っていた"ちょこっと協力してあげる"はこのことだったのだ!透に年賀状を書いていることすら全然気づいていなかった。
「いい奥さんじゃないか。さっきも実家に電話があってさ。"慎一が1人で河原に向かってるからよろしくね"って」
「〜〜〜〜〜っ」俺は美幸に上手く操られていたようだ。まるで騙された気分だった。
「だからオレが一度も連絡しなかったのは、おまえが元気なことは分かってたから。何かあると美幸ちゃんからちゃんと手紙が来るからね」
「あ、あいつ〜〜っ」ちょっと意地悪く笑う美幸が頭に浮かんだ。
「まぁまぁ。お陰で肩の荷がおりて楽になっただろ?」ポンポンと透が俺の肩を叩いた。
「そうだけどさぁ!何か気に入らないなぁ…。それに俺、美幸に浮気されても気づかないかもしれないな」
「ははは!そうだろうなぁ、10年も気づかなかったんだから。でも美幸ちゃんは浮気なんてしないだろ。おまえが浮気しないかぎり」
「しねぇよ」
「だろうな」何だか可笑しくなってお互い顔を見合わせて声を上げて笑った。
29歳の俺と18歳の俺がようやく向き合えたような気がした。

バシッ!!
手のひらにジーンと痛みが広がった。
「いてぇよ!おまえ、手加減して投げろよ。俺は素人なんだから!」
「違うだろ、腕がなまってるだけじゃないか。そんな本気で投げてないし、このくらいちゃんと取れよな」
透の球は相変わらず威力がある。本気で投げていないとは言うけれど、素人が取るには痛すぎる。そして野球から10年以上も遠ざかってる人間に取れというのがまず間違っている。
透は、ちゃっかりもう一つグローブを準備していた。それも自分には必要のない左手用のグローブ。
だけど、またこうして透とキャッチボールができるなんて、思ってもみなかった。

「去年、12勝あげたんだってな。すごいじゃないか。腕の調子はいいのか?」
「まぁな。4年前まではなかなか思うように投げられなかったんだけど、今のチームのプロテストあたりからは調子いいよ。今シーズンは15勝目指してるんだ」
「あんまり無理するなよ。若くはないんだからな」
「無理すれば選手生命が短くなるのは百も承知だよ。無理するつもりはないさ。だけど、今まで以上に鍛えないとすぐに衰える。気が抜けないよ」
「プロでいるのも大変だよな。若い選手に交じって頑張ってるおまえはすごいよ。ファンもいっぱい居るんだろ?」
「そうでもないと思うけどな。一応バレンタインにはダンボール2,3箱のチョコが届くけど」
「うらやましいことで。…結婚はしないのか?」
「まだしないつもり。支えてやれないからな。自分の面倒を見るのに手一杯だから。オレそういうの不器用だからさ、知ってるだろ?」
「ああ、よく」くくっと笑って透にボールを投げた。
「何だよ、その笑い」ちょっとムッとした透の黄金の左腕からボールが飛んできた。
「わっバカッ!…いってぇ〜っ!!」案の定、ムッとした分だけ力が入ってめちゃめちゃ痛い。
「ふんっ…おまえも、もう少し本気で投げてこいよ。小学生並みだぞ」
「なんだとぉ〜っ!?…こっこれはまだ肩慣らしに決まってるだろっそろそろ本気でいこうかと思ってたところだ!」
「ほぉ、そうかい。じゃ、そろそろどうぞ♪」
「よぉし!いくぞ!!」

―10分後―
「はぁ…はぁ……っ」俺は大の字になって芝生の上に転がった。息も絶え絶え、もう腕も上がらない。
「何だよ、もう終わりか?」呆れた顔をして、透が隣に座った。
「げ…現役選手と…一緒に…しないでくれ…っ…ああ、しんどい…」
「運動不足なんだよ。たまには運動しろよ。これからは貴志くんとキャッチボールするとかさ」
「…まだ無理じゃないか?3歳だぞ?」
「もうすぐ4歳なんだろ?それにおまえの息子なんだから、そのうちやろうって言ってくるさ。…ほら、これ飲めよ、水分補給」そう言って透は昔よく飲んでいた清涼飲料水を差し出した。
「サンキュ。おまえ、まだこれ飲んでんのか?好きだなぁ…」
「だってこれが一番飲みやすいじゃん」
「昔もそう言ってなかったっけ?」
「そうかも。オレ好きになると長いからなぁ…」笑いながら透が自分のグローブを見つめる。そこで気づいた。透のはめているグローブ。使い古した、相当古いグローブだ。

「透…それ、そのグローブ…」
「これ?気付いた?…今日おまえと会えるって思ったからさ、実家の物置から引っ張り出してきたんだよ。おまえと一緒に買ったグローブ。何か捨てられなくてさ。あの頃が、一番野球に対して純粋だったし、ただ野球がやれるだけで嬉しかったから。だから余計にこれには思いがこもってて捨てられないんだ」
「……」俺も持ってるよ、と言えたらどんなによかっただろう。何故あの時捨ててしまったのか、今更だけど残念で仕方なかった。

「…ごめん、俺…野球やめた時に…」
「だろうと思った。慎一のことだから、"野球"に関するものは見たくなくなったんだろ?どうせオレがプロになったことも知らなかったってクチだろ」
「…さすが、よく分かってらっしゃる……」言い返す言葉もない。
「ほとんど毎日一緒に居たんだぜ?おまえのこと分からないわけないだろ。野球のことで、オレより慎一のこと分かるやつがいるか?」
「いないだろうな」
「だろ?…だから余計に、長く現役続けようって思ったんだ」
「…?どういうことだよ?」
「慎一が、オレがプロになったってことをプロの間に気づいてほしいな、と思ってさ。プロだった、なんてあんまり格好いいもんじゃないし」
「十分格好いいよ」
「オレは過去形より現在進行形がいいんだよ。だからこそ今も現役でいられるんだ。過去形で満足してるようなやつはプロでは生き残れない。いつ落とされるか分からない世界だからな」
「…そんな厳しい世界だけど、それでもおまえは野球が好きなんだろ?」俺が尋ねると笑顔の透と目が合った。その笑顔ですでに答えはわかりきっている。

「ほんと、相変わらず分かりやすいやつだな」
「長所でもあり短所でもあるけどな」
「確かに」
河川敷に冬の乾いた風が吹きぬける。だがそんなに強い風ではない。川の流れのように穏やかで、ただ何も言わずに通り過ぎる風。そして春のように暖かい心地よい陽射しが俺たちを包み込んでくれる。

自然と言葉が出た。
「透」
「…ん?」
「……あの時の約束、守れなくてごめん。…今更だけど……」
「いや、いいよ。おまえとまたここで会えただけで十分だよ」
「…俺さ」
「うん」
「…高校入って、張り切って野球部に入部したんだ。1年で甲子園に出てやるって意気込んで。おまえに絶対負けない、そう思って。だけど、中学みたいに恵まれた環境じゃなかった。スポーツバカが集まる高校なんだから、同じこと考えて入部するやつ、何十人と居るんだよな。今まで俺の上を行く右投げなんて中学には居なかったけど、高校にはうじゃうじゃ居てさ。そこで自分のレベルは中学でしか通用しないんだって現実にぶちあたったんだ」
「…うん」透が小さな声で頷く。

「…それでも最初は頑張ったよ。そいつらより上になってやる!って。だけど、ダメだった。ある時、監督に投手志望の部員を集められて、とりあえず1人ずつマウンドから投げてみろって言われて、投げることになったんだ。もちろん、俺はその時投げられる最高の球を投げてやるって思ったよ。バッターボックスには打てそうにもない俺と比べ物にならないくらい細いやつが…2年だったんだけど…立ってて。打ち取れる自信はあった。絶対あんなやつには打てないってどこからくるのか知らないけど、そんな自信がすごいあったんだ。だけど、結果は予想もしてなかったホームラン。最高の球を投げたのに、細くて打てそうもないやつにホームラン打たれたんだぜ?監督にもボロクソ言われて…。そこで奮起してまた最初から頑張ればよかったのに、俺はそこで挫折したんだ。もういやだって。中学までは挫折なんて一度もなかった。いつもエースだったから。だから俺は挫折をバネにもっと頑張るっていうことを知らなくて、逆にそういう努力をするっていうのはみっともないと思ってたから…。要は我が儘だったんだな。自分が一番じゃなきゃやってられないって。自分が一番であることが当たり前だと思ってた。自分より実力のあるやつらはいっぱい居るのに、それを認められなくてその現実から逃げたんだ。だから野球をやめた。…ばかばかしい理由だろ?笑っちゃうよな…」

「笑えるわけないだろ。…やっぱりオレにも起こりうることだったと思うよ。オレの高校は、偶然左投げが一人も居なかったんだ。左投げはオレと入れ替わりで卒業しちゃったらしい。だから監督は実践で使える左投げがほしくてしかたなくて、入部したオレに目をつけたってわけ。これが逆だったら…右投げが居なくて左投げがたくさん居たら、オレには出番はなかったんだよ。そしたら慎一と同じような状況になってたかもしれない。慎一がプロになって、オレはサラリーマンになっててもおかしくないさ」

「…人生ってすごいな。ほんと、紙一重なんだもんな」
「そうだな。色んな偶然が重なって、成り立っていくんだからな」
「その中の偶然が一つでもなかったら、違う生き方をしてたのかもしれないな」
「例えば?慎一の違う生き方って何があると思う?やっぱり野球?」
「…うん、やっぱり、そうだなぁ…。例えば…俺がプロになってるっていう生き方もありだよな。高校で右投げがいなくて透みたいに必要とされてエースになってプロに一直線!とか。あるいは挫折を乗り越えて他の投手を超えてプロになる、とか。そう思うと、あの時現実から逃げずに正面からぶつかっていけばよかったって思うよ。そうすれば、もっと違う人生になってたかもしれないのに」
「…じゃあ、その日に戻れたら戻りたいと思う?」と透が問いかける。

「…戻りたくないって言えば嘘になるな。戻ってやり直せるなら、また野球をやりたいと思うよ。今後こそプロになってやるってさ。でも…」
「でも?」
「…今の生き方に不満があるわけじゃないし、美幸と結婚して貴志が生まれて、それはそれで幸せなんだ。その生活を消してまであの頃に戻りたい、とは思わないな。まぁ、結局は過去なんだから戻れるわけないんだし。だから、現在(いま)は現在(いま)、過去は過去として分別つけて、先にある俺たちの未来に目を向けるのが一番いいんじゃないかな」
「…おまえもいいこと言うじゃん」
「まぁな。一児の父ですから?」
「うん、それでいいんじゃない?それがおまえらしくていいよ。貴志くんの父親として、胸張っていけばいいんじゃないか?」ニッと少年みたいに透が笑った。
「ああ、そうするよ。…おまえは、プロとして胸張っていけよ。それが、俺の自慢でもあるし自信にもなる。おまえが頑張ってるなら俺も頑張れる、そんな気がする」
「嬉しいこと言ってくれるじゃないか。…オレも同じさ。おまえが応援してくれるなら、体力が続くかぎり野球を続けていけるよ」透が立ち上がってあの時と同じように、手を差し出してきた。ちょっと驚いて透を見上げながら遅れて腰を上げた。

「この約束は守れよ。おまえは、美幸ちゃんと貴志くんを大切にしろ。オレは野球を続けていく。この約束をやぶったら、今度は許してやらないからな」
「…やぶれるかよ。一生守ってやるさ。おまえも、野球続けろよ。いつか、現役を引退する時もくるけど、引退しても野球はやれるんだ。いつまでも野球バカでいろよ」
「当然だろ」差し出した俺の手を透が力強く握り締める。あの時より、透の手は何倍も男らしくてごつくて、憧れていたプロ野球の選手そのものの手だった。

ふと子供のにぎやかな声が聞こえた。堤防を見上げると、美幸たちがこちらへ歩いてきていた。子供たちが先を行き、こちらに向かって時折手を振ってくれる。
「お、来たか?…でも、何かいっぱい居るけど…」美幸と貴志だけが来ると思っていた透が不思議そうに呟く。きっと誰か分かったら驚くことだろう。そしてまた、たくさんの思い出話とみんなの笑いであふれることは間違い。懐かしい場所で、懐かしい人たちとあの頃のことを語り合えるなんて、信じられなかった。
もう俺には、封印する過去なんて1つもないのだから。

昼ごはんを芝生広場で食べた後、透と、そして遥と圭子たちとも別れて、俺たちは河原の堤防を歩くことにした。俺と美幸の前を、貴志がずんずんと歩いている。手には透が大切にしまっていたあの古いグローブ。透が貴志にくれたのだ。もちろんサインと背番号入り。
俺がテレビで透を見た時、隣で貴志もテレビを見ていた。透がその時の選手だと貴志は気づいたらしい。もう2週間も前のことなのに、すごい記憶力だ。もしかしたら天才かもしれない。

サイン入りのグローブをもらって、貴志はとても嬉しそうだ。何だか仮面ライダーのフィギュアをもらった時より嬉しそうな気がする。
「貴くん、嬉しそうね」美幸が微笑んで言った。
「ああ。仮面ライダーより嬉しそうじゃないか?」
「うん、私にもそう見える。やっぱり慎一の子ね。野球が好きなんじゃないかしら。さっきも透くんとボール遊びしてものすごく楽しそうだったもの」
「…確かになぁ。野球かぁ…息子が野球選手っていうのもいいな」
「プッ」隣で美幸が吹き出した。
「な、何だよ」
「だって…ついさっきまで野球って言葉さえ口にしてなかったのに。透くんと会ってから、私慎一の口から何回野球って聞いたかしら。あの頃の野球少年な慎一が戻ってきたみたい」楽しそうに、そして嬉しそうに美幸が言う。美幸はこうやって俺の隣で、ずっと俺のことを見守ってくれていた。今日はそのことに改めて気づかされた。美幸のすることに、"ありがた迷惑"なんて1つもない、それが俺の結論だ。

「…美幸」
「ん?」
「…ありがとな」照れくさくて、顔を見るかわりに美幸の手を取った。美幸の手は、少しひんやりとしていた。きゅっと美幸が優しく握り返してくれる。
「…何が?私、お礼を言われるようなことしたかしら」何のことだか、そう呟きながら美幸はそっと俺に寄り添った。よく見たら、耳が真っ赤だ。お互い、笑うしかなかった。

「パパー!」前を歩いていた貴志が振り向いて俺たちのところへやってきた。
美幸が素早く手を離す。別に子供の前で手をつないでいてもいいと思うのだが。
「どうした、貴志?」
「ぼくね、おうちにかえったらこのグローブでキャッチボールしたい」
「…そうか。でもこれ、ほら、サインが入ってるぞ?貴志の宝物なんじゃないのか?このグローブは古いから、使ったら壊れちゃうかもしれないよ」
「え〜こわれちゃうの?やだ、ぼくのたからものだもん」
「だろう?だから新しいグローブ買ってあげるよ。そのグローブは貴志の宝物入れにしまって、新しいグローブでキャッチボールしよう、な?」
「うんっあたらしいグローブ!パパとキャッチボール!」貴志は嬉しそうにぴょんぴょん跳ねて、俺の手を取った。
「ほら、グローブ落としちゃったら大変だからパパが持ってやるよ」
「うん」俺は貴志から懐かしいグローブをもらい、貴志は空いた手を美幸に差し出した。俺たちの真ん中で、貴志はいつになくウキウキしている。初めてグローブとボールを買ってもらった時の自分を思い出す。確か、4歳ぐらいの頃だったと思う。

「あ、パパ。ボールもいるよ」
「うん。一緒に買おうな」
「バットはいらないの?」
「バット?ボールを投げるんじゃなくて打つならいるよ。貴志はボールを投げるの?バットで打つのがいいのかな?」
「う〜んとね…なげるのがいい!だってとおるおじさんかっこよかったもん」やっぱり"おじさん"なんだ、と心の中で思った。
「そうか。じゃあバットはまた今度にするか。まずはグローブとボールだもんな」
「うんっ」嬉しそうな貴志を見て、俺と美幸は幸せに気持ちになった。純粋な子供の笑顔。何にも勝る俺たちの宝物だ。

「なぁ、貴志。貴志は大きくなったら何になりたい?仮面ライダー?」
「おおきくなったら?んとねぇ…かめんライダーはひろくんだからね、ぼくはね、とおるおじさんみたいにやきゅうやりたい!」
美幸と俺は顔を見合わせた。美幸の顔は"やっぱり!"って顔をしていた。
「どうして貴くんは野球をやりたいの?」美幸に聞かれると、貴志は、
「だってテレビにでられるんでしょ?ぼくテレビにでたい」と答えた。
「何だ、テレビに出たいだけか」ちょっと残念。

でもなりたいものがあるのはいいことだ。自分だって野球と出会う前まで色んなものに憧れていた。美幸だってきっとそうだったと思う。
きっとこの先、貴志のなりたいものは色々と変わっていくだろうけど、俺たちは貴志をいつでもどんな時でも見守っていたいし応援していきたい。俺みたいに挫折することもあるだろうし、透みたいに様々な苦難に立ち向かわなければならないこともあるだろう。だけど乗り越えるのは貴志自身。だって貴志の人生なのだから。

貴志の人生の手助けができたらいいと思う。ささいなことでもいいから、いい意味で貴志の力になりたい。まだ小さいから、手助けをするのはずっと先のことだけど、今できることもある。貴志も透みたいに自分の夢を叶えてほしいから。

「…なぁ、貴志」
「なぁに?」
「パパにさ、"子供の頃何になりたかった?"って前聞いたよな?」
「うん、きいたよ。でもパパわすれちゃったんだよね」
「それがな、さっき思い出したんだ」
「ほんと?なぁに?」興味津々で貴志が俺を見上げる。美幸が貴志の隣で今日一番の笑顔になった。

「うん、あのな。パパ、野球の選手になりたかったんだ」


−Fin−



********あとがき******************

またまたメンバーが出てこないうえにこんな長い物語を読んでいただきましてありがとうございます(*^^*)

「Another Way」の場合、はじめからメンバーの話は考えていませんでした。坂崎さんの歌声を聴いていたら、家族、子供、夢…そんな話を書きたくなりましてこのような物語を書かせていただきました。

賢狂は結婚もしていませんが、将来こんな風に子供と自分が子供だった頃の話をしたいなぁ…なんて思うんです。
だんなさんと子供が話しているところを眺めるのもいいなと思います(*^^*)

お子さんがいらっしゃる方に何か感じていただけたらなぁ、なんて僭越ながら思っております。

2004.8.15


感想をいただけるとうれしいです(*^^*)
メール または 賢狂のブログの拍手コメントへ