「ひとりぼっちのPretender」



-パチン-
真っ暗な部屋にようやく明かりが灯る。ソファの上に鍵とバッグを放り投げ、きつく結っていたヘアゴムを取った。ちょっとお疲れ気味な髪がぱさりと肩へ落ちた。
「いゃぁね、髪まで疲れきってる」苦笑しつつエリは上着を脱いだ。最近は金曜日の夜ともなると心身ともに疲れ果ててしまう。歳も関係しているのかどうか気がかりなところだが、5日間きっちり仕事をしたんだから疲れ果てるのも仕方ない、と自分を納得させている。
一日中誰も居なかった部屋だから、外と同じくらい冷えているので上着を脱ぐと肌寒い。暖房のスイッチを入れ、ちょっと身震いして洗面所へ。
戻ってくると、キッチンへ向かった。疲れきっていて何もする気もないが、さすがにお腹は空くので夕飯の準備にとりかかる。簡単に炒飯にするかな、一人呟いて冷蔵庫から使えそうな残り物を取り出した。

エリは一人暮らしのOLだ。仕事もそれなりに長くなり、周りの男たちからはそろそろお局の仲間入りだよ、と言われるようになってしまった。確かに最近入ってくる新入社員には口うるさく、まるで姑のようなので反論はできない。だって最近の子たちってだらしないんだもん、また独り言。
一人暮らしもずいぶん経つなぁ、としみじみ思う。一生ここに住むんじゃないかと思ってみたり。
「いやよ、一生なんて」自分の考えに直球で反論してみたが、ここを出る予定もない…というより予定がなくなった、が正しいのかもしれない。

つい昨日までは近いうちにここを出る事になるかも、とエリは思っていた。自分の中では、今までで一番しっくりくる彼氏だったから。二駅向こうの新築マンションなんていいかなぁ、なんて一人で勝手に妄想して、家具を見れば勝手に部屋の配置を考えたり。彼はいままでの人とは違う気がする、そんな期待がエリにはあった。でも結局は今までと同じ。昨夜、彼も他の男達と同じ台詞で去っていった。

−エリって真面目でつまらない−
「何よ、真面目じゃいけないのっ?」切りかけのたまねぎにグサッと包丁を刺した。
まるで自分の存在を否定するような言葉。いつもその言葉がエリを不安にさせる。真面目なのはいけないことなのだろうか。
せっかく今年のクリスマスは好きな人と楽しく過ごせると思ったのに…。クリスマス前に破局するなんて思ってもいなかった。
−エリって世渡り下手よね。いっつも貧乏くじ引いてるもん−
友人もグサリと言う。本当はその言葉に苦しいほど傷ついているのに、エリはそんな言葉を言われても笑って誤魔化してしまう。友人にさえ心を開けない自分。友人にさえ心の中の苦しみを気づいてもらえない自分。
「……私って何なのかしら」炒飯を作りながらエリはだんだん悲しくなってきた。でも何故か涙は出ない。恋人が去った時も一粒も涙は出なかった。
恋人にも去られ、親友と呼べる人も居ない。なんて孤独なんだろう、出来上がった暖かい炒飯を一人静かに食べる。暖かいはずの食事が、何より冷たく感じた。

翌朝、エリは早くからベランダに佇んでいた。あまり眠れなかったのだ。月曜日から金曜日は仕事の事だけを考えて過ごすので、別れた恋人の事とか、自分の中で引っ掛かっているものは心の奥底に沈めておけるのだが、土日は一人の時間が多くていつも心の闇が全面に出てきてしまう。鉢植えに水をやりながらエリはため息をついた。
「こんなにいい天気なのに気分は最悪っていうこのギャップがたまらなく嫌だわ」12月も半ばなのに今日はポカポカといい陽気だ。ベランダの手すりに肘を付き、アパートの裏にある公園に目をやった。朝から老夫婦がウォーキングしにやってきている。その老夫婦はいつも同じ時間にやってきて、仲良く歩いている。エリの理想の夫婦像だった。二人を見ていると、気持ちが穏やかになる。でも反対に自分にはそんな相手が居ない、という事を改めて認識してしまう時でもあった。

「…あれ?」老夫婦が公園に入っていった後、同じ道を三毛猫がてくてくやってきた。キョロキョロしていて、あまりこの辺りを知らないらしい。猫好きのエリはベランダからその猫をじっと見つめた。野良なのかはたまたどこかの家から逃げ出したのか、遠目では分からなかった。でもそんなに毛並みが悪いわけでもなさそうだ。猫は公園の手前で、ちょっと警戒しているのか、辺りをキョロキョロ見渡ししきりに匂いを嗅いでいる。他の猫の縄張りを気にしているのかもしれない。
「この辺には野良はいないよ〜三毛猫ちゃん」聞こえるわけないけど、と思いつつエリは呟いた。
すると突然猫が歩みを止めた。
「ん?どうしたのかしら…」エリが不思議に思っていると、猫はふいっとエリがいるアパートのベランダを見上げた。大きくて丸い純粋な瞳。あまりにばっちり視線が合ったのでエリはドキッとした。
エリの声が聞こえたのかはさだかではないが、すぐに猫は何事もなかったかのように公園へと入っていった。長いしっぽを軽やかに振りながら。
エリは妙にその猫が気になった。何だか自分に話し掛けているような気がするのだ。
−あんたも散歩でもしたら?いっつも家に居たらカビが生えるわよ− なんて。
そんなことがあるわけないが、とりあえず公園に行くことにした。確かに家にばかり居ても気分が滅入るだけだ。
「そうよ、気晴らし気晴らし」誰に言うでもなく、エリはフード付きのパーカーを羽織り、ジーンズにスニーカーというスポーティな格好で部屋を出た。
まるで今からジョギングをしに行くような健康的な格好だ。

早朝ということもあって、エリはアパートの階段をなるべく足音を立てずに降りていった。同じアパートの住人達にエリはほとんど会った事がない。どうやらエリ以外の住人は昼夜逆転の生活をしているらしい。エリが夕飯を食べている頃、仕事に出掛け朝帰ってくる。エリが出勤する時は、ようやく就寝、という時間なのである。きっと今日も皆寝付いた頃だろう。一体どんな仕事なのか気になるところもあるが、他人を詮索するのは嫌いなのでさほど気にしていない。他人は他人、自分は自分、それがエリの信条だ。

ただ、その信条は最近崩れかけている。自分の真面目さにつまらない、と言って去っていった恋人、自分の心の内を分かってくれない友人、周りにエリのすべてを認めてくれる人が居ないこと、それが一番の理由だ。たった一人でもいい、エリはエリらしくすればいいよ、なんて言ってくれれば自信がつくものなのだが、誰にも言われた事がない。私はそんなに性格が悪い人間なのか?と思うほどだ。自分に自信をなくしたら信条なんて脆いものだ。きっともう一度振られたら今度こそ底まで落ちてしまう。
−もう恋人なんていらない。友達もいらない。お願いだから私の存在をこれ以上否定しないで−
エリの心の叫びは誰かに届くわけもない。心の中なんて、誰も読めるはずないのだから。

「…と、また暗くなってきちゃった。いかんいかん。気晴らししようと思って出てきたんだから…。猫ちゃん探さなきゃ」
エリが住むアパートの裏にある公園は結構広い。大きな噴水もある。ここはもともと10年以上前に開催された博覧会の会場跡地で、敷地内には国際会議をするホールなんかもあるらしい。エリは建物に入った事はないが、公園にはたまにきている。やっぱり木々や水音は心を落ち着かせるものなのだ。仕事で腹が立った時や今日みたいに落ち込んでいる時にやってきては、何とか気持ちを前向きにしているのである。

「でもここ広いから猫一匹探すのは難しいかもなぁ…」そう思いつつ先ほど猫が入っていった公園の入口に着いた。すると入口から少し入った小道の真ん中に、先ほどの三毛猫がちょこんと背を向けて座っていた。
「あら、さっきの猫ちゃん」エリの声に耳をぴくぴくさせると、すっと腰を上げ小道を歩き出した。
「な、何か…私の事待っててくれてたみたい……」
猫の後姿は、ちゃんと付いてきなさいよ、と言っているみたいだった。妙に嬉しくなってエリはちょっと間を開けて猫に付いていった。小道を抜けると、そこは噴水があるいわゆる憩いの場、である。ベランダから見た老夫婦も噴水の反対側のベンチに座っていた。どうやら毎朝ここで朝ごはんを食べているらしい。おじいさんの手にはおばあさんの手作りと思われるおにぎりがあった。

猫はいくつかあるベンチの中から、手前から二つ目のベンチを選んでぴょんと飛び乗った。ちょうど朝陽が当たる日当たり良好なベンチだった。
「何だ、君日向ぼっこしたかったのか」ベンチの前まで来てそう声を掛けると、
「ニャアァ」と猫は鳴いた。
−そうよ− まるでそんな感じだった。
「横に座ってもいいでしょうか?」
「ニャー」
−座れば?−
「では遠慮なく。猫さんはどこから来たの?野良?」
「ニャ」
−さぁね−
「何よ、教えてくれないの?いじわるだねー」
「…」
「あ、怒ってる怒ってる」
エリがそう言うと、ふんっとでも言うように猫はそっぽを向いた。まるでエリが想像した言葉が本当の台詞のようだった。
「そんな怒らないでよ。ね?」そっと猫の背中に触れると、ちょっと警戒して尻尾がビクッとしたけれど、優しく撫でてやると安心したのか逃げる事はなかった。
動物の体温はとても心地よい。人間とは違う感触だけど、生きている、そう感じられる温かさだ。エリにはむしろ人間よりも温かみを感じるような気がした。人間なんかより素直で自分に正直で我が道を行く、そんな猫がエリは羨ましいのかもしれない。
しばらくすると、猫はエリの膝の上に乗ってきた。
「お、何だ、私の撫で方が気に入ったかな?」嬉しくなって顎をくりくりと撫でてみた。
「ウニャー…」
−もっと〜そこそこ〜− 想像して可笑しくてエリはぷっと吹き出した。
「おまえ、もともとどっかの飼い猫でしょ。人間の扱いも上手いし。捨てられちゃったの?」
「ンニャー」
「それは何に対するンニャー?顔からすると…「もっと撫でて〜」の「ンニャー」かしら。気持ちいい?」
「ンニャー」
「はいはい」
久しぶりに動物と触れ合って、エリは少し元気になってきた。人間だけを相手にする生活は相当疲れるものなんだな、としみじみ思った。猫でも飼ってみようかな、そう思った時だった。

−カシャ−
「え?何?」近くでカメラのシャッター音がしたのだ。顔を上げると、ちょっと離れた所に男が一人、エリに向かってカメラを向けていた。そんな状況に今まで出会った事がないので、エリは心底驚いた。
「なっ…何ですか!あなたは!」エリの声に驚いたのか、猫はビクッとして膝から飛び降り、そのまま落ち葉でいっぱいの木々の中へ勢いよく走っていってしまった。
「あ…」エリは立ち上がって追いかけたかったが、そんな事をしても猫に追いつけないのは分かっていたので、諦めるしかなかった。
「あ〜ぁ逃げちゃったね〜…」と残念そうに男が呟いたので、それはこっちの台詞よ!と思いながらエリは男を睨んだ。男はエリに視線を戻すと、自分に対して怒っている事が分かったのか構えていたカメラを下ろし、申し訳なさそうに、
「ご、ごめんね、驚かしちゃったみたいだね…」と謝った。
「そりゃびっくりしますよ、突然写真撮るんですから」エリは不機嫌そうにそう返した。せっかく猫とのふれあいを楽しんでいたのに。男はさらに申し訳なさそうな顔をして、
「ほんと、ごめんね。あまりにいいショットだったからつい…」と言った。どうやら悪い人ではないようだ。
「ま、まぁ、単に野良猫と遊んでただけなんでいいんですけど…突然写真を撮るのはやめた方がいいですよ」
「う、うん、そうだね、ごめんね。君があんまり幸せそうに猫を見てたから撮りたくなっちゃって…職業病だね、これは」ははは、と男は苦笑いをした。笑うと目がなくなってさらに悪い人ではないように見える。

男は自分とあんまり変わらない身長で、痩せ型だった。髪は猫っ毛で、パーマなのか天パーなのか全体的にクリクリしている。ちょっと鼻が大きめで、目は小さくてメガネをしている。素朴な青年(?)という感じだろうか。歳は自分より上のようだが、左耳にピアスをしていて、格好もジーンズに革ジャン姿で、いまいち年齢が分からない。
「職業病…ってカメラマンなんですか?」
「…え?」男がちょっとびっくりしたような顔をした。
「…違うんですか?今、職業病だって言ったんで…」
「……」男はきょとんとしてエリを見ていた。何かいけない事でも言っただろうか、エリは不安に思った。
「あの…私、何か変な事言いました?」
「え、あ、いや、そうじゃないよ。…そっか、僕の事知らないんだね。本当に会っちゃった。何か新鮮な感じだなぁ」
「え?…どういう事ですか?…もしかして有名なカメラマンさんなんですかっ?」
「や、そういうんじゃないんだけど…まぁいいや、知らないなら知らないで。その方が僕は都合がいいし」
「そういう風に言われると気になるんですけど…」男をまじまじと見つめてみたが、エリの頭の中にはインプットされていない顔だった。テレビか雑誌で見たような気もするが、たぶん自分にとって興味のない分野だったのだろう。脳細胞の働きが悪くてそれがどんな分野だったのかも思い出せない。
「ま、長年やっててもこうやって自分を知らない人に会うわけだから、人生ってまだまだだよねぇ…」
「…は、はぁ……」男が何を言いたいのかさっぱり分からないエリだった。
「ね、隣座ってもいいかな」
「は?…あ、ああ、どうぞ」馴れ馴れしい人だな、とエリは思ったが、会社生活が長くなると色んな人に出会うので、そういう人なんだ、という認識で接する事は得意だった。この人は馴れ馴れしい人、エリの頭にそうインプットされた。
「君、名前は何て言うの?」早速馴れ馴れしい質問が来た。もしかしてこれはナンパなのか?はたまたからかわれているだけなのか?いまいちどういうつもりでこの人は自分に話し掛けているのか分からなかった。

「え〜と…エリです…」
「エリちゃんかぁ…。可愛い名前だね」にっこり笑って男は言った。
「そ、それはどうもっ」お世辞なのは分かっているが、あんまりにっこり笑うので恥ずかしくなった。この人の笑顔は危険だ、エリはそう思った。動物的勘だろうか。
「こんな朝早くから散歩?それともジョギングしてるとか?」
「いえ…ベランダから眺めてたらさっきの猫が公園に入っていったんで、気になって来てみたんです。この辺りでは見かけない猫だったから」
「猫好きなんだ。僕と一緒だ」男は嬉しそうにまたにっこり笑った。よく笑う人だな、とエリは思う。
「まぁ、好きですね」
「ベランダから…ってことは家はここから近いんだね。どの辺?」
「え〜と、公園の西側の入口の……って何でそんな事まで答えなきゃいけないんですかっ」
「あはは、別に家まで行こうなんて思ってないから安心してよ。ふーん、西側って事はあっちだね。この公園いいよね。結構広いし、緑が多いし。毎年6月頃に来るんだけど、今年はいつもと違う季節の姿を見れて嬉しいよ。寂しげな冬の公園もなかなかいいよね」
「毎年来る時期が決まってるんですか?…一体どんな職業なんですか?」
「え……う〜ん…各地を回る、というか、みんなに会いに来る、というか…そんな感じ?」と言いながら男は首を傾げた。
「どんな感じですか!さっぱり分かりません!」
「あはは、抽象的に説明するのは難しいなぁ。ま、簡単に言えばライブだよ。各地に来てライブやってるんだ」
「…ライブ、ということは歌手ですか!?」
「うん、お笑い芸人に見える?」
「…見えなくもないです」
「え〜とぉ……確かにそっち系もやらない事もないけどねぇ…」
「どっちなんですか」
「本業は歌手。片手間にこのカメラとか芸人とか色々とね」
「芸人を片手間にしてるんですか!」
「あ、それは嘘」
「……」この人は私をからかって楽しんでるのか?エリが心の中でそう思っていると、
「だって僕を知らないっていう人に会ったの久しぶりなんだもん。何だかからかいたくて」と男は嬉しそうに言った。エリの心の言葉がどうやら顔に出ていたらしい。

「〜〜っ で、あなたの名前なんなんですかっ?」
「名前?それを言うとばれちゃうからなぁ…」
「ばれたくないんですか」
「うん」
「じゃあ何て呼べばいいんですか」
「そうだなぁ……好きに呼んでくれていいよ。何かない?」
「………年齢不詳さん、とか」
「た、確かによく言われるけど…何かやだ」
「我が儘ですね」
「自分に素直なだけ。ね、他に何かない〜?」
「…じゃあ、“おにーさん”とか。私の歳でおじさん、って呼ぶほど歳違いませんよね、きっと」
「……エリちゃんはいくつ?」
「…26です」
「………十分おじさんでいいかも。でも“おにーさん”ていいな、それでいこう!よし、僕は“おにーさん”ね」やたらと嬉しそうに男は言った。
「実際、いくつなんですか、おにーさんは!」
「そんなに知りたい?」
「だって気になるじゃないですか。私の歳でも“おじさん”って呼んでおかしくない歳って事でしょう?そしたら40は超えてますよね?」
「……じゃあ、こうしよう!」エリの問いかけには答えず、男はそう言うと、肩から提げていたバッグから封筒を取り出した。
「はい、これ」男はエリにその封筒を差し出した。CDが入るくらいの大きさだった。
「…なんですか、これ」
「今日さ、散歩中に僕の事知らない人に会ったら渡そうと思ってたものなんだ」
「は、はぁ…でこれは一体…」
「今日、そこの建物でライブがあるんだ」
「え、そこの会議場で、ですか?」
「うん。夕方6時から。その封筒の中にチケット入ってるから、今日ライブにおいでよ。そしたら分かるよ」
「え…」
「…何か予定あった?都合が悪いなら無理には誘わないけど…」
「い、いえ、何も予定はないですけど…チケットって1枚5千円とか6千円とかするじゃないですか。いいんですか、こんな高いの私に…」
「一応稼ぎはあるからチケットの1枚や2枚気にしなくていいよ」苦笑して男は言った。
「でも…」
「それに確か今日のライブのチケットは完売だからチケット手に入れて来て、とも言えないしね」
「か、完売!?そんな人気のある歌手なんですか!!」
「ここでやる時はいつもツアーファイナルだからね。地元の人だけじゃなくて各方面からもみんな来てくれるから」
「は、はぁ…」
「だからよかったら来てよ、というより絶対来てね」
「でも私おにーさんの歌何も知らないんですよ?そんなんで行くのは逆に失礼なんじゃ…」
「うん、そう言われると思って封筒の中に最近出したアルバムをセットで入れておいたから、それを聴いてね」
「えっアルバム!?」びっくりしてエリは封筒を開けようとした。が、
「あっだめっ!家に帰ってから見て!」と男が慌てて封筒の口を閉じてしまった。
「な、なんでですか?」
「今見たら正体がばれちゃう。だから見ちゃだめっ」
「…(つーか、本当にこの人は一体いくつなんだ…)あの…本当は歌手じゃなくて犯罪者、とかじゃないですか…?」エリの言葉に男はびっくりしてわたわたと慌てた。
「ちっ違うよっやだなっ僕犯罪するような顔に見える!?」
「見えないから余計に怪しい…どこかで見たことあるような気はするんですよね。もしかしてテレビの“この顔にピンときたら110番”て番組だったかも…」
「えっそんなっひどいっ」男はそう言いながらも何だか楽しそうな顔だった。

「とっとにかくっそれは家に帰ってから開けて!ね?」
「…分かりました。…あ、でもやっぱりせっかくなんで、アルバムにサインしてほしいんですけど。本人からもらったのにその証拠がないなんてつまらないです。誰かに話す時もサインがなかったら信用されませんし」
「エリちゃんはしっかり者だねぇ…というより冷静だよね。ファンの子なんて目の前で会うと口ごもっちゃったりとか泣き出しちゃったりするのに」
「だってファンじゃないし、おにーさんが誰なのかもさっぱり分かりませんし…泣く理由がないですからね」
「…その通りなんだけどね、何か寂しい…」
「寂しくなるのはおにーさんが正体を明かさないからです」
「うん、そだね……でもいいんだ。ライブに来てくれれば分かってもらえるだろうし」
「ライブに行っても知らない人だったらすみません。私そっち方面うといので。…でサイン」
「…あ、覚えてた?」
「当然です」
「…ははは、でも、サインは…今日のライブでファンになってくれたらって事にしようよ。それでまたここに来た時にしてあげる」
「ここに来た時ですか?ていうと…毎年6月でしたよね」
「うん、そう。すごいね、ちゃんと覚えてる」
「そういう事は忘れない性格なんです」
「そっか、すごいね。じゃあ、今日のライブでもしファンになったら、僕に手紙を書いてよ。この公園の話を書いてくれればすぐエリちゃんだって分かるし。ファンクラブに送れば僕達に届くから。手紙見たら僕から連絡するよ。電話か住所書いといてね」
「ファンクラブまであるんですね…すみません、おにーさんのこと全然分からなくて…」
エリはだんだん自分が全く知らない、という事が悔しくなり、彼に対しても申し訳ない気持ちになった。たぶん世間に出れば10人中9人くらいは彼が誰なのか分かるのだろう。

「ううん、気にしなくていいよ。僕達、そういう出逢いを大切にしてるんだ。だからむしろ自分を知らない人に会う事は嬉しい事なんだよ」
「嬉しいんですか?悲しくないですか?」
「悲しくなんかないよ。“なんだ、ここにも知らない人が居たか!頑張るぞ!”って気持ちになるよ。日本中に知らない人が居ない、ってくらいになりたいなって思うんだ。僕達の歌でみんなが元気になれればいいなっていつも思うんだよね。…だからエリちゃんにもぜひ来てほしいんだ」
「…え?それはどういう…」
「…エリちゃんみたいに一人で何かに悩んでいる人に聴かせたい歌がいっぱいあるんだ」
「……」どうして自分が悩んでいる事を知っているのだろう、エリは不思議だった。

確かに自分は見た目から幸せそうなオーラは出ていないけれど、悩みを表に出した事はない。今までだって恋人や友人にさえ気づいてもらえなかったのに…。
エリの驚きを穏やかに受け止め、男はにっこりと笑った。
「エリちゃんみたいに一人で悩む人ってね、結構多いよ。僕達の歌で元気が出た、っていうファンレターをよくもらうんだけど、そういう子たちもずっと一人で悩んでて、ある時偶然僕達の歌に出逢って何かに気がついた、って言うんだ。その何かっていうのは人それぞれで“これ”っていうものはないんだよね。それぞれ悩みが違って自分の自信になるものもみんな違う。もちろん出逢う歌も人によって違うしね。同じ歌がきっかけだったとしてもきっかけになる部分は別の所だった、なんてこともあるだろうし。歌ってすごいよ。そうやって違う悩みを抱えている人たちを元気にできるんだから。僕も今まで色んな歌に出逢ってきて、その時その時で色々助けられたし。
今は助けてあげられるかもしれない逆の立場に居るから、これからもずっと歌を歌って、誰か一人でも助けてあげられたらなって思うんだ。そしてまた僕達に出逢った人から“元気になれました”って手紙をもらう。これだから歌はやめられないよ」そう言うと男は一段と嬉しそうにエリに微笑んだ。

「…おにーさん自身には悩みはないんですか?私だったら自分に悩みがあったら歌も歌えないと思うんです。まるで嘘を歌ってるような気分になりそう…何をするにもそう。自分に自信がなきゃ人を助けるなんて無理。私にはできないです」
「…そっか、エリちゃんは真面目なんだね」その言葉がエリの心にチクリと刺さった。初対面の人までその言葉で私を傷つけるの?エリは辛くなって俯いた。だが彼から出た言葉は意外なものだった。
「そういう真面目な所、エリちゃんの長所だね。すごくいいと思うよ。きっとエリちゃんが歌手になったら、相当ファンがつくね。きっと僕もファンの一人になるよ」
「…え?」
「…ん?どうかした?」
「…真面目っておにーさんから見たら長所…なんですか?」
「うん、すごく。ほら、自分がいい加減だから。…エリちゃんは自分の真面目な所、嫌い?」
「…わ、私は……」エリは今まで言われた言葉を頭の中に並べた。どれも自分の真面目な所を否定する台詞ばかりだ。
突然、今まで我慢してきたものがエリの中から飛び出したように涙があふれてきた。
「えっ…エリちゃん?」ポロポロと涙をこぼすエリに男は心配そうな顔をした。
「…え?…あ、あれ、何で涙が…やだ、何で?」エリ自身、泣きたい、と思ったわけではなかった。ただ、言われた言葉を思い出しただけ。なのに勝手に涙があふれてくる。
「ご、ごめんなさい。涙が勝手に…」着てきたパーカーで涙を拭おうとすると、男がそっとそれを止めた。
「…え?あの…」
「心が泣きたいって叫んでる時に無理に止めたらだめだよ。泣きたい気持ちを無理矢理押し込めるとまたエリちゃんが辛くなるよ」
「…こ、この涙は私の心の……」
「うん、きっとそうだよ。ずっと心も泣くのを我慢してきたんだね。エリちゃんが泣くもんか!って頑張るから。でも我慢できなくなっちゃったみたい」男は自分のバッグからハンカチを出してエリに差し出した。
「しばらく泣かせてあげなよ。…本当は泣きたいんだよね?泣きたい時は泣いていいんだよ。僕が傍に居るから」
男からハンカチを受け取ると、彼の温かさがエリに伝わってきた。彼の言葉が心の中で何度も巡り、ずっと押し込めてきたものが徐々に込み上げてきた。
「……っ」まるでせき止めていた何かが外れたかのように、エリの瞳から大粒の涙がいくつも溢れてくる。
何年も人前で泣いた事なんてなかったのに。泣こうと思っても涙さえ出てこなかったのに。なのにどうして…。
分からないまま、エリは泣き続けた。きっと誰にも見せられないような顔になってる、この人のせいだ、そう思いながら。

ようやく気持ちが落ち着いてきて、エリは鼻をすすった。泣き終わると妙に寂しくなる。泣いている時は自分の事で精一杯で周りなんてどうでもいいのに。
「…気が済んだ?」優しい笑顔で、男はエリの顔を覗き込んだ。
「……そ、そういえばおにーさん居たんでしたっけね」泣き終わってようやく男の存在を思い出した。彼のおかげで泣けたというのにひどいものだ。泣きはらした顔を見られるのはとっても恥ずかしい。ハンカチで目元を隠しながら彼を見た。
「ははは。…すっきりした?」
「……」そう聞かれて、エリは今まであった心の奥に住んでいたトゲのようなものが消えている事に気づいた。泣き続けて疲れてはいるが、気分はいい。
「…何故だかすっきりしてます…」
「泣けた事で心が解き放たれたんじゃない?」
「…クサイ事言いますね」
「一応歌手ですから」
「あはは」
「あ、笑った」
「え、笑っちゃいけないんですか?」
「だって、今まで僕相手に笑った事なかったじゃない。猫には笑顔を見せてたけど」
「…そうでした?」
「うん」確かに笑ってなかったような気もするが、ついさっきの事なのにあんまり覚えていない。その時と今では、何かが違うような気がした。
「…あ、すみません。これ…ハンカチどうしよう…洗って返さなきゃ。でもいつ返せば…」
「来年の6月でいいよ」
「それはファンになったらの話ですよね?」
「うん、そうだけど、きっとエリちゃんはファンになってくれるような気がするから」
「なんて自信!」
「まぁねっプロですからっ」えへん、と男は胸を張った。
どうしてこの人の前では泣けたんだろう、エリはそう思いながらにこにこと笑う男を見つめた。初対面なのに、自分の事を何も知らないのに。彼はどんな歌を歌っているのだろう、エリは彼の歌を聴きたいと思うようになっていた。

「もう大丈夫みたいだね」
「え?」
「そろそろ行かなくちゃ。ライブのリハがあるんだ」
「あ…」散々馴れ馴れしい人だとか思っていたくせに、いざ行かなくちゃ、と言われると妙に寂しかった。もっと話を聞いてほしい、そんな気持ちがエリにはあった。
「なに?寂しい?」
「…うん」エリは信じられなかった。ものすごく素直に出た自分の言葉。“全然”いつもは強がってそんな言葉を口にしていたのに。素直に出た言葉に恥ずかしくなってエリは男から顔をそらした。
(うわ〜っ何言ってるのよ私っ何が“うん”よっいつから私はそんな事を言うようになったのよっっ)
「うんうん、素直でよろしい」男はそう言うとエリの頭を優しく撫でた。さらに恥ずかしくなったが、彼の温かさを感じて心地よかった。
「エリちゃんはエリちゃんらしくしてればいいんだよ。誰のものでもない、これはエリちゃんだけのたった一つの生き方なんだから」
「……はい」また素直に言葉が出ていた。彼の言葉は涙が溢れそうなほど、嬉しい言葉だった。
「それじゃ、行くね」男の手がエリの頭から離れた。
「あ…」
「今夜、ちゃんと来てよ?いい席なんだから、空席にしないでね。絶対だよ〜!」
男は会議場の方へ歩き出した。時折振り返って手を振ってくれた。エリも素直に手を振った。
きっともうこんな風に普通にお喋りする事はないんだろうな、と思うと寂しかったが、今夜のライブに行けば、また彼に逢える、エリは彼から受け取った封筒を胸に抱いて家へと戻った。

夕方5時。エリはまるでファンの子のように開場時間に合わせて会場へ来てしまった。
もう一度逢いたいな、という気持ちがあるから余計だろう。もらったアルバムを何度も聴いて、たぶんこれが彼の声だろう、という曲はさらに何回か聴いた。
「それにしても、あんな有名人だったのに気づかない私って何なのかしら…」アルバムとチケットの記載を見て、エリは彼が誰だったのかようやく分かった。彼は何十年も活動を続けているビックアーティストのメンバーだったのだ。ステージやテレビとは確かに少し見た目が違ったが、根本的な体型とか顔は同じなのだから気づいてもいいはず。
なのにエリは全く気づかなかった。相当そっち方面には自慢の記憶力は働かないようだ。
会場前にはたくさんの人たちが集まっていた。女の子ばかりかと思えば結構男の子も居る。自分よりかなり上の世代の人も居れば中学生くらいの子まで居た。一体どのくらいの世代層がここに集まっているのだろうか。

開場時間が遅れていたのか、5時10分を回った頃、開場待ちをしている列がようやくぞろぞろと動き出した。見るからにわくわくしている人、冷静にカバンからチケットを取り出す人、電話で誰かと話しながら進む人、様々な人が居て、エリはちょっと楽しくなった。エリも列の最後尾に並んだ。彼からもらったチケットを取り出す。
「…ほんとにすごいいい席のチケットくれたのね。来なかったら絶対ばれちゃうわ」
自分のチケットを見つめ、エリは苦笑した。エリがもらったチケットは“1階5列目”という、良席だった。ただ、席の番号は見ても一列何番まであるのか分からないので、どの辺りかは入らなければ分からなかった。
カメラチェックなるものを入口で受け、係員からパンフレットと何とかチケットをもらった。
何が何だか分からないので、とりあえずそれらをバッグの中へ。中のロビーでは、CDやグッズ販売をしているようだった。グッズ売り場は長い列ができ、辿り着くまでかなり時間がかかりそうだ。CD売り場は比較的空いていたので、ちょっと覗いてみた。DVDなども置いてある。CDの種類からしても、相当歌手歴が長いことが分かる。彼からもらったCDも真ん中に置いてあった。ライブが良かったら何か1枚買っていこうかな、そう思いながら1階の扉を開けた。

中は、何だかホール全体に霧が立ち込めるような状態で、クラシックと思われる歌が流れていた。これから何のライブだ?と不思議に思わせる雰囲気があった。ざわざわと客たちの楽しげな会話を横目にチケットを片手に自分の席を探す。前の方なのは言わずと知れた事。とりあえず前までずんずんと進んでいった。ステージがもう目の前だ、という辺りで椅子の後ろに「5列」という文字を見つけた。この列らしい。「32番」それがエリの番号だ。目の前は「28番」だった。
「この辺だな」28番から右側へ移動し、32番を見つけ、コートを脱いでとりあえず腰を下ろした。
「うわ、近っ」改めてステージの近さに目を丸くした。しかもステージのちょうど真ん中辺りだ。確か彼はいつも真ん中で歌っている、微かな記憶にある彼らの姿を思い浮かべた。

エリの周りはまだほとんど人が居なかった。みんなちゃんと来るのだろうか、余計なお世話だが何だか気になる。
「前、すみません」そう女性の声がした。見上げると、スタイルのいいなかなか綺麗な女性が立っていた。歳はエリと同じくらいだろうか。
「あ、いえ、どうぞ」さっと立ち上がり、女性を通した。
「すみません。ありがとうございます」女性は小さく頭を下げ、にっこりと微笑んだ。
優しそうな人だな、とエリは思った。女性はエリの右隣の席らしい。ファー付の暖かそうなコートを脱ぎ、女性はゆっくりと座った。
この人は誰のファンかな…妙に気になった。彼のファンかな。一人なのかな。色々気になったが、そういう事を聞くのは苦手だった。話しかけることもできないので、とりあえずさきほど入口でもらったパンフレット類をバッグから取り出した。グッズのパンフレットや他のアーティストのコンサート案内だった。あとは何とかチケットが1枚。裏を見ても特に席の番号が書いてあるわけでもなく、何のためだろう、と不思議に思って表を見たり裏を見たり何度も繰り返して首を傾げつつ眺めていた。

「…初めての参加ですか?」隣の女性が遠慮がちに声を掛けてきた。エリは話し掛けてもらえると思っていなかったので、とってもびっくりして声もなくウンウンとただ頷いた。
「そうですか。初めてでこの席は運がいいですね。お一人?」
「は、はい。一人です。お一人…ですか?」
「ええ。昔は友達と来てたんですけど、今子育ての時期で忙しくて。しばらくは一人で参加です」
「そうなんですか。…毎年参加されているんですか?」
「ええ。地元に来た時だけですけど。だから毎年6月と12月。最近ファンになったんですか?」
いいえ本人が来て、と言うので、とは言えず、エリはそうなんです、とだけ答えた。
「じゃあ新しく出たアルバムでファンになったんですね。嬉しいです」
「…あの、そのアルバムしか聴いてきてないんですけど、そんなんで大丈夫でしょうか。その辺りがすごく不安で…」
「あら、それなら大丈夫ですよ。色々古い曲から新しい曲まで幅広く歌いますけど、今回のツアーはアルバムが主役ですから。きっとアルバムの曲をたくさん歌ってくれますよ」
「そうですか、よかった…」
「ふふ。…あ、先ほど、そのチケットが気になってたみたいですけど」女性はエリが持つ何とかチケットを指差した。
「あ、これ。そうなんですよ。これ、何の為かなぁと思って。入口は別のチケットで入ったのに、今度は逆にこれを渡されて…」
「それはメモリアルチケットって言うんですよ。毎回もらえるんです。来てくれた記念のチケット」
「そんなのがあるんですか。へぇ…」
「彼らならではのおまけですね。ファンをとっても大事にしてくれる人たちですから、来てくれた記念に、と考えてくれてるみたいです」彼らしいな、とエリは思った。他の二人はどんな人なのか想像もつかないが、彼と同じようにファンを大切にしている人達なんだ、という事はよく分かった。
エリの周りもほとんど席が埋まり、異様な熱気に包まれ始めていた。

−ブー−
「あ、そろそろですね」と女性が言った。18時を知らせるブザーだったようだ。辺りも今まで以上に騒がしくなる。すでに立ち上がっている人や、落ち着かない様子で荷物を足元に置く人、やっぱり様々だ。
しばらくするとゆっくりと照明が落ちていく。わぁ!と歓声が上がり、みんな立ち上がった。
「えっ…」一人戸惑っていると、
「みんな最初からスタンディングなんですよ」と女性が教えてくれた。慌ててエリも立ち上がる。
「無理に立たなくてもいいんですよ。自分の思うように見ればいいんです」
「あ、大丈夫です。それに立たないと逆に目立ってしまう場所ですし」
「あ、まぁ、確かに」ふふふ、と女性は微笑んだ。ちょっと彼の笑顔に似ている気がした。
大きな音で音楽が聴こえてきた。ステージはキラキラと色んな色のライトが付いたり消えたりを繰り返す。まるで何かのオープニングセレモニーのようだ。エリはわくわくしている自分に気づいた。
−もうすぐ彼が出てくる−
ワァァァ!!と割れんばかりの歓声と拍手がホールに響いた。気が付くとステージに三人の影。パッと三人にライトが当たり、突然演奏が始まる。
「あっアルバムの曲!」すごい歓声の中でエリは叫んだ。嬉しくて隣の女性を見やる。
エリの視線に気づいて女性は“よかったですね”という意味を込めて頷いてくれた。

目の前には彼。公園で会った時とはずいぶん違う雰囲気で、ちょっとびっくりした。あんな素朴な人が変わった服を来てサングラスを付けてギターを持って歌っている。
−私に気づいてるかな−
そう思いながらエリはステージの上の彼を見つめた。

怒涛のように4曲くらい歌い終わり、ステージ上が暗くなった。暗くなっても彼の位置が分かった。明らかに他の二人とは見た目も違うし同じ場所に居るから探しやすい。
客席から声が飛び交う。彼を呼ぶ声が圧倒的に多い。
「一番人気なのかー」と呟くと、隣の女性が笑った。
「彼の話す時間だからですよ。それぞれ三人が話す時間があるんです。そういう時はそれぞれの名前を呼んだりするんですよ。呼んであげたらどうですか?」
「えっ…いや、そんな…」ぷるぷると首を振った。呼べるわけないよ、と心の中で思った。それにエリの中では彼の名前はみんなが呼ぶような名前ではなかった。“おにーさん”これがエリにとっての彼の名前だ。
「こんばんはー!!とうとう来ましたファイナルー!!」
ワァァァァ!!
彼の声に負けない客席からの歓声。
「今日と明日でこのツアーも終わり!!完全燃焼で行くぞー!!みんなもついてこいよー!!」
ワァァァァ!!

迫力あるドラムでまた歌が始まった。なんてパワフルな歌ばかりなんだ、エリは圧倒されていた。もちろん知らない曲もあるが、今のところどれもテンポが速い歌ばかりで、エリはすでにいっぱいっぱい。目が回りそうだった。

次の歌で彼が定位置から出てきた。彼のファンと思われる子たちから歓喜の声が上がる。手にはハンドマイクを持っている。どうやらギターを使わない歌らしい。左右の二人は定位置のまま、ギターをかき鳴らしている。彼が真っ直ぐ前まで出てきてステージのギリギリに立った。そう、ちょうどエリの前。彼は細い腕を振り上げる。思ったより筋肉が付いていた。
客席も同じ振りをする。私もやった方がいいかな、そう思いながらエリは彼を見つめた。
すると彼がちらりとエリの方を見た。もしかしたら違う人を見ているかもしれないけど、とにかくさっきは何もお礼も言っていなかったので、ありがとうの意味を込めて軽く頭を下げた。
彼は客席に向かって腕を上げながら左側にある細い通路に向かった。その時、ほんの一瞬だったが、エリは気づいた。彼はもう一度エリを見てくれていた。そしてたぶんエリ以外は気づく事ができないほどのその一瞬、彼は微笑んでくれた。エリと彼しか分からない、一瞬の出来事。あの公園で見せていた彼の笑顔。もちろん隣の女性も気づいていない。
もしかしたら彼の大ファンで凝視していた人は気づいたかもしれない。今の微笑みは何?誰に微笑んだの?と。でも誰もその意味は分かるわけがない。エリは嬉しくて気が付いたら誰よりも腕を振り上げていた。

再びステージが暗くなった。またみんなが彼の名前を呼ぶ。彼にスポットライトが当たる。額から汗が流れて、あのクルクルの猫っ毛な髪が頬にまとわりついている。ちょっと邪魔くさそうに彼は指で髪を取りくるくる回して後ろに流した。左耳にピアスが光る。公園でしていたシンプルな物とは違った。ステージ用なんだなぁと思いつつ彼の言葉を待った。
「はい。どーも」ものすごくシンプルな一言でエリは可笑しかった。みんなが名前を呼ぶ。
「はいはい、はい、はーい、ほーい、はいよー、おーう。……はいはい、ありがとー」とみんなに返事をしつつお礼を言う。
「はい、ツアーファイナルの初日、始まりましたねぇ。みんなのノリもすごいし、冬なのに暑い!汗だく!!」ドッと笑いがおきる。
「今日は最後まで汗をかいていただきますのでっそのつもりで!」みんなの嬉しそうな声がホールに響く。
「でもまぁ、ずっとそんなんじゃ最後まで体力もちませんので、ここからしばらくは座っていただいて、ごゆるりと聴いていただきたいと思います。どうぞ、お座り下さいませ」彼に言われてみんな“はーい”と返事をして椅子に座った。
「えー今回のツアーは…」彼が今までのコンサートについて語り始めた。何の事だかよく分からなかったが、彼の声はエリには心地よかった。みんながドッと笑って彼が、あ、と思い出したように言った。
「そうだ、いつもの聞かなきゃね。え〜と…今日、はじめて参加した人!!」はいっと言いながら彼は手を挙げる。
「ほら、挙げなきゃ」隣の女性に言われてエリは恐る恐る手を挙げた。エリの周りにも数人手を挙げた人が居た。
「おお、拍手〜!」彼がそう言うと客席から拍手が沸き起こる。
「毎回聞くんですよ、これ」と女性が耳打ちしてくれた。エリは笑顔で返した。まだ拍手が続く中、エリは彼に視線を戻した。彼はさっきのように一瞬ではなく、ちゃんとエリの姿を見てにこにこしていた。エリも自然に笑顔になった。

「はい、やっぱりいいですね。初めての人が参加してくれてるのは嬉しいことです。初めての方はですねぇ、お隣とか前とか後ろとか、かなりベテランの方々が揃ってます。新しいアルバムしか聴いてない方、とりあえず友達に借りたCDを聴いてきた方、知らない曲が何曲かあると思います。何だこの曲は!と思ったらそんなベテランに聞いて下さいね。きっと“それは何年何月何日に発売した何とかというアルバムに入ってます”なんて詳しく教えてくれますので。もしかしたら持ってるバッグから出てくるかもしれませんねっ」ドッと笑いが起きてエリも声を上げて笑った。隣の女性がエリに、
「よかったら聞いて下さいね」と笑いながら言った。
「はい、その時はお願いします!」エリも笑いながら返した。
「え〜それでは、そろそろ歌に行きましょうか。このツアーでは、このコーナーは普段あんまりやらない曲を中心に何曲かやってきたんですが、今回はこのツアー初です!というより今までツアーで歌った事あったかなってくらいですね」
オオオオッというみんなの驚きと喜びの声が上がる。
「この曲を歌おうと決めたのは実は今日のリハでして。はっきり言って本番までこの曲ばっかり練習してました」
“え〜なぁに〜”みんなのざわめきが大きくなる。
「さて何でしょう?…では聴いてください」そう言った彼がふとエリを見たような気がした。
一度ライトが消え、確認することはできなかった。再びライトが付いた時、柔らかな光が彼を照らす。

前奏が流れ、客席から小さく歓声が上がった。隣の女性も驚いた表情だ。よほど歌う事がない歌なんだな、とエリは思いその歌に耳を傾けた。
彼の歌声にエリは自然に目を閉じ、聴き入った。いつの間にか彼の優しい歌声はエリにとって何よりも心を落ち着かせるものになっていた。エリ自身も信じられないくらいに。
そして彼の声で歌われるその歌の歌詞に、エリは耳を奪われた。
(この歌…まるで私の事のよう…。…もしかしておにーさん、私の…為に……)まさか、そう思って彼を見た。彼はギターを弾きながら心を込めて歌っていた。エリの為だけでなく、ホールに居る、すべての人の為に。
(…そうよね、私だけの為、なんてコンサートで歌うわけないよね。今のおにーさんはファンの為のおにーさんだもんね。でもステージの上でも、おにーさんは公園で会った時と同じように優しくて何も違う所なんてないね。今はファンの為の姿、ただそれだけ。ステージではみんなのおにーさん。でも…)

エリの悩みに気づいてくれた彼。
“泣きたい時は泣いていいんだよ。僕が傍に居るから”と言ってくれた彼。
“エリちゃんはエリちゃんらしくしてればいいんだよ。誰のものでもない、これはエリちゃんだけのたった一つの生き方なんだから”そう言ってくれた彼。
(…でも、今だけ…この歌だけは私の為だけ、そう思ってもいいよね…?)エリはもう一度目を閉じて彼の歌声を心に響かせた。自然に涙が頬を伝っていった。


−本日のコンサートはすべて終了いたしました。お気をつけてお帰り下さい−
あっという間にコンサートが終わった。エリは半分放心状態だった。ゆっくり座って聴いたのはあの時だけで、その後はまたノリノリな歌ばっかりだった。
「ふふ、疲れてますね」隣の女性が帰り支度をしながら声を掛けてくれた。
「あは、すごいですね、このコンサート。いつもこんな感じなんですか?」
「ええ、いつもこんな感じですよ。…どうでした?」
「とってもよかったです。知らない曲もいっぱいありましたけど、どれも印象的な曲ばかりで」
「よかったらまた参加して下さいね」
「ええ、ぜひ。でもどうせなら誰かと来たいですね。一人だとちょっと寂しいかも」
「そうですねぇ。確かに一人だとちょっとはじけずらいっていう所もありますね。私も誰か連れてこようかしら」
「…あの…」
「はい?」
「あ、いえ…またここでお会いできるといいですね。色々教えていただいてありがとうございました。おかげで楽しめました」
「いいえ。私もとっても楽しかったです。ぜひまた参加して下さいね。それじゃ、私はこれで」女性は微笑んで席を後にした。ゆっくりとした歩調で出口へ向かう。エリはその後ろ姿を眺めつつ、
「…友達になれそうな人だったなぁ…もっと色々話したいなぁ…」と呟いた。つい昨日まではそんな台詞、心の中で思ったとしても口から出る事はなかった。彼のおかげだな、とエリは思った。

−うんうん、素直でよろしい−

彼の声が聞こえた。ポンッと背中を押された気がした。エリは振り返ったが、ステージには誰も居なかった。でもステージにまだ置いてある彼のポジションには、何故だか彼が居るような気がした。

−追いかけなくていいの?−

にっこり笑う彼の笑顔。
(…そうだね、追いかけなきゃね。)心の中で彼に答えた。急いで彼女を追いかける。
出口の手前で追いついた。
「あのっ」ポンと肩を叩くと彼女が振り向いた。
「あら、どうかしました?」振り向いた彼女が尋ねる。
「あの…今日歌った歌で、どのCDに入ってるのか教えてほしい歌があるんですけど、CD売り場で教えてもらえませんかっ?」エリはドキドキして彼女の言葉を待った。
「もちろん、いいですよ。じゃあ行きましょうか」彼女はにこやかに頷いた。
「ありがとうございますっあとお勧めのCDとか教えてくださいっ」
「お勧めですか?全部なんですけどねぇ…」
「えっ全部ですかっ?お金…足りないなぁ…」苦笑しながらエリが言うと、彼女があら、じゃあ、と口を開いた。
「はい?」
「じゃあよかったら私のCDお貸ししましょうか?」
「え?」
「隣の席になったのも何かの縁ですし。ほとんどのCD持ってますから、よかったら」
「いいんですか?初対面の私なんかに…大切なCDなんですよね?」
「あら、ファンならいい加減に扱うはずないですもの。それにとってもいいお友達になれそうな気がしますし。都合のいい時に待ち合わせて何枚かずつお貸ししますよ」
「…あ、ありがとうございますっ!ぜひ貸して下さい!!大切に扱いますからっ!私エリです!よろしくお願いしますっ!」エリは嬉しくて嬉しくて彼女の手をぎゅっと握り締めた。
「こちらこそ。私は早苗です。じゃあまずはエリさんの気に入った曲のCDからですよね。いつが空いてます?」
「土日ならいつでもばっちりです!」
「そうなんですか、じゃあ来週の土曜日でいいですか?」
「はいっ!」
「じゃあ、メールアドレスとかあります?なければ携帯の番号とか…」
「あっ両方あるので両方教えますね。早苗さんのも…聞いていいですか?」
「もちろん。じゃあ外で交換しましょうか」早苗が扉に手をかけた。外の光がホールに差し込む。
「はい。あ、それで私の気に入った曲は…」
「ちゃんと分かってますよ」
「えっ」
「だってエリさん泣いてましたし」
「…あ…み、見られてました?」
「ふふ、私もファンになった時に初めて参加したコンサートで、とある一曲で泣いちゃいましたから、気持ちはすごく分かりましたよ。心に響いたんだなぁって」
「そうなんですか。それで…曲名は何て言うんですか?」
「『ひとりぼっちのPretender』って言うんですよ」


おにーさん、今度約束通り手紙書くね。あの時のお礼も含めて。
あと、素敵な友達が出来た事も。でもきっとおにーさんのことだからステージから見てて分かってたのかもしれないね。
おにーさんが歌った『ひとりぼっちのPretender』
忘れていた私だけの生き方を思い出させてくれたよ。
あなたが認めてくれた私らしさ。二度と忘れない。

また6月に会おうね…おにーさん。
この場所で。
あなたと出逢ったこの場所で…



−Fin−

*****あとがき***********************

「ひとりぼっちのPretender」を読んでいただきましてありがとうございます。
このお話を書き上げたのは、2003年10月初旬でした。
2003年秋ツアーの曲目を知らぬまま名古屋市民会館に参加、そこでこの曲を初めて生で聴きました。会場のどこかにエリちゃんが居るのでは…なんて作者自身思ってしまいました(^^;)
お話の中では、春・秋ともに同じ場所でファイナルを行う、ということになっていますが、これは書き上げてから気づきました。はい、間違えました(笑)
まぁ、でもフィクションですからね、その辺は大目に見て下さいね。

エリちゃんのように一人悩んでいる方にとって、この物語が小さな自信になってくれたらな、と賢狂は思っています。
誰のものでもない、これはあなただけのたった一つの生き方…ですよね。 

2004.5.15


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