※長めなお話です(^^;)

「Beyond The Win」





−9月初旬−
「あ、またあの子来てる…」
最近、近所の遊歩道によく現れる女の子。俺はその子を見掛けると何故か立ち止まってしまう。彼女はいつも周りも気にせずスケッチブックとにらめっこ。通りかかった犬に吠えられようが、暑かろうが彼女はいつも絵を描いている。見かけないのは雨の日と強風でスケッチブックが飛んでいきそうな日ぐらいだろう。
この遊歩道はずいぶん前にほとんど水が流れていない用水路の上に造られた散歩コースだ。完成した時はずいぶん景色が変わって違和感があったものだったが、今やあることが当たり前になってしまった。時とはそんなものなんだなぁとしみじみ思う。そして今では定番の犬の散歩コースとなっている。

彼女はいつも同じ時間、同じ場所に居るわけではなく、遊歩道の所々にある座れる場所を選び、日々違う時間、違う場所に居る。どんな絵を描いているんだろう、といつも気になる。俺も結構絵は好きだから。
年は大学生…くらいだろうか。美大生なのかもしれない。いつもよれよれの着古したTシャツを着て、下は絵の具がところどころに付いたジーンズという格好だ。決して今時のおしゃれをしているような子ではないから、このご時世ならきっと逆に目立つ存在なのではないだろうか。太めの赤いフレームの眼鏡をしていて、髪もあまり手入れをしていないような、伸ばしっぱなしな感じがする。とりあえず後ろで一つに束ねて邪魔にならないようにしているようだ。誰が見てもおしゃれとは言えないだろう…失礼だけれど。
化粧をして可愛い格好をすればきっともてると思うのだが、化粧の「け」の字もなさそうな…いや、眉毛は整えてる…みたいだ。

「くぅ〜ん…」俺の足元で愛犬ヨークシャテリアのセナが俺を見上げて鳴いた。あまりに俺が動かないからだ。大きな目で"早く行こう"と訴える。
「あ、ごめんごめん。行こうな」セナに謝ってようやく歩き始めた。
彼女は俺とセナの足音がまるで聞こえないかのように、ただひたすらスケッチブックに向かっている。それだけ真剣だということだろう。周りのことも気にせず夢中になる…そんな時が自分にもあったなぁと思うと彼女の邪魔をしてはいけない、なんて思ってしまう。本当は話し掛けてみたいけれど、我慢我慢。

彼女の前を通り過ぎる時、好奇心に負けてちらっとスケッチブックを覗いてみた。優しいタッチの風景画がそこにはあった。絵はがきなんかにしたらよさそうだな、なんて思いながらさりげなく通り過ぎた…のだが。
「わぁっ!」と突然彼女が声を上げた。
「…えっっ!?」俺は何もしてないっ!まるで電車で痴漢に間違われたやつみたいに勢いよく首と手を振って彼女を見た。
するとあろうことか、セナが彼女の脚に前足を掛け、しきりに小さな尻尾を振っていた。
「あっ!こ、こらっ!セナッ!!」俺は慌ててセナを抱き上げた。
「…あ〜びっくりした〜!」女の子は心底驚いた、と言わんばかりに大きく息を吐いた。
「ご、ごめんね。うちの犬が驚かしちゃって…。……あ、スケッチブックがっ」大切なスケッチブックが彼女の足元にひっくり返って落ちている。セナに驚いて落としてしまったのだ。スケッチブックの傍には絵筆まで落ちている。血の気が引く音が聞こえたような気がする。
セナを地面に降ろし、スケッチブックと筆を拾い上げた。恐る恐るスケッチブックを見ると、今彼女が描いていたと思われる最初のページは端が折れてしまっていた。
「あああ…大事な絵なのに……ほんと、ごめんなさい。すいません。申し訳ない!!」とにかく頭に浮かんだ謝りの言葉を何度も繰り返して頭を下げた。セナは足元で"どうかしたの?"なんて聞きたげな顔で俺を見上げている。邪魔しないように細心の注意を払っていたのに愛犬が邪魔するなんて。こいつは俺に恨みでもあるんだろうか。日ごろの愛情を仇で返すなんてひどすぎる。涙が出そうだ。
けれど女の子はさほど気にした様子もなく、俺が差し出したスケッチブックと絵筆を受け取りながら、
「あ、いいですよ。そんな、気になさらなくても。落書きですから」とハキハキとした物言いで俺に笑顔を返してくれた。ああ、いい子でよかった…また涙が出そうだった。

「あたしの方こそ、突然声を上げたりしてすみませんでした。びっくりされたでしょう?ワンちゃんもびっくりしちゃったかな?ごめんね」セナに視線を落とし、女の子はセナの頭を優しく撫でた。
「いやいや、こいつが悪いんだから謝らなくていいよ。セナ、ごめんなさいしなさい」しゃがみこんでセナの頭をクイッと押した。すると何か言いたそうに上目遣いで俺を見た。"何も悪いことしてないもん"とでも言うつもりか。
「セナちゃんって言うんですか?」
「あ、うん。そう、セナ」
「セナって…もしかして…」
「うん、アイルトン・セナのセナね」
「あ、やっぱり。F1好きなんですね。可愛いね、セナちゃん」
「ありがとう」愛犬を褒められ嬉しくなった。まるで自分が褒められたような気分になる。

「いつもこの遊歩道を散歩されてるんですか?」
「…うん、いつも通ってるよ。やっぱり車が来ない所の方が安全だしね」
「そうですよね。ここなら自転車も通らないし危なくないですもんね」
彼女は俺たちのことなんて気づかないくらい真剣に絵を描いているようだ。だって昨日も俺は彼女の前を通り過ぎているのに。きっと他の誰が通っても彼女は気づかないんだろう。
「…君は最近この遊歩道で絵を描いてるみたいだね。学生さん?」
「………えっと…」苦笑いして恥ずかしそうに俯いた。何か、悪いことを言っただろうか。
「…あれ、俺、何か悪いこと言ったかな…」
「いえ、そうじゃないんですけどね。学生に…見えるんだなぁと思って」
「…というと学生さんじゃないってことだね。じゃあ趣味で絵を?それにしちゃ上手すぎるよねぇ」
「……まぁ、その…一応、駆け出しの…画家……ってことで…」
「え!プロの画家さんなの!?」そりゃ上手いはずだ。
「…プロの画家さんに向かって"学生さん?"なんて失礼なこと聞いて申し訳ない」
「や、でも、なりたてなんで、そんなプロって言われるほどのものでもないんですけど…っ」
「いやいや、その若さでこんな素敵な絵が描けるなんてすごいよ。俺もね、絵は好きだからこんな風に絵が描ける人が羨ましいよ。風景画家さんなの?」
「はい、主に風景を描いてます」
「でも何でまたこの遊歩道を描こうと思ったの?もっと良い遊歩道なんて他にもあるのに…」
「…ああ、それは…あ、よかったらここ座ります?立ち話もなんですし」そう言って彼女は自分の隣のスペースを俺に勧めてくれた。邪険に扱うでもなく、こんな風に優しく会話を交わしてくれるなんて思いもしなかった。もっと早く声を掛けていればよかった。

「ありがとう」腰掛けつつ、セナを見た。お腹も空く頃だし、きっと"早く帰ろう"って鳴くだろうと思ったのだが、そんなこともなく俺が何か言う前に俺の足元にちょこんと座った。この態度は一体なんなのだろうか。俺が彼女と話をしてみたいと思っていたことを知っていたとでもいうのだろうか。まさか。

「この遊歩道は子供の頃から来ていてすごく好きな場所なんです。私もよく犬の散歩でここに来ましたよ。四季によって風景も違うし…あ、小学生の頃はここで写生の宿題を描きました。確か銀賞もらったかな」
「そうなんだ。じゃあご近所さんなんだね。家はどの辺?」
「あ、今は違う所に住んでるんですよ。ここで絵を描く為に来てるんです」
「そうなの、わざわざ?それもすごいなぁ。でもそんなにしてまでここの絵を描いてくれてるなんて嬉しいなぁ。ここがまだ用水路だった時から知ってるだけに、遊歩道になって絵を描いてもらえるようになってよかったな、と思うよ」
「用水路の頃をご存知なんですか?あたし、知らないんですよ。どんな感じだったんですか?」
「用水路?殺風景なもんだったよ。水なんてほとんど流れてないし、全部コンクリートで固められてて。もっと昔はね、綺麗な水が流れてて、魚もいた小川だったらしいんだ。けど、生活排水が流れ込むようになってから水が汚れてきて魚もいなくなって…で、気が付いたらコンクリートで固められた景観を損ねるような用水路になっちゃった…ってわけ」
「…そうだったんですか」
「うん。だから遊歩道になった時は景色が一変して景観がよくなってみんな喜んだんだよ。そりゃ、工事中は何かと文句を言ってた人も居たけど、出来てからは態度がコロッと変わって。今じゃこの町のシンボルだからね」
「そっか、そんな風にしてこの遊歩道が出来たんですね。いい勉強になりました」
「あ、そう?こんな昔話ならいくらでもあるよ」
「あは、そういう話、あたし大好きなんですよ。ほら、絵の参考にもなるじゃないですか。今居る場所が昔どんな風景だったのか、そういうことも考えながら描いた方が、素敵な絵が描けるんです」
「なるほど。確かに昔の風景が一部残ってたりすることもあるもんな」
「そうなんです!そういう物を見つけるとほんとに嬉しくて。この遊歩道もところどころに昔の名残があって、それを見つけた時にものすごく幸せな気分になれるんですよ」
「へぇ…。ほんとにこの遊歩道が好きなんだね」
「はい!どんな素敵な遊歩道が他の場所にあっても、私のNO.1はここですからね」屈託のない笑顔で彼女は俺に笑いかけた。この子は本当にこの遊歩道が好きで、絵を描くことも大好きなのだ。そんな純粋な彼女を見ていると、画家として応援したくならないわけがない。

「…あ、あのね…」
「はい?」
「…よかったら名前、教えてくれないかな」
「…あたしの…名前、ですか?」不思議そうに彼女が聞き返すから、何だか俺は変な汗が出てきた。もしかして変な意味にとったんじゃないか、なんて思えてきたわけだ。
「いや、そのね、変な意味じゃなくてね?君の描く絵、ものすごくいいなぁと思うんだ。だから、画家さんとして応援したいし、応援するなら名前を知っておきたいな、と思って!だからそんなナ、ナンパとかじゃないからね?こんないい年したおっさんが君みたいな若い人をナンパすると思うっ?」
「や、あの、あたし、ナンパだなんて思ってないですから、そんな慌てなくても…」
「…あ、そ、そう?そうなの?それなら…いいんだけど、ああよかった」心臓がバクバクいってるよ。
「…あはは。あたしはただ、こんな駆け出しの新米画家の名前を教えてほしい、なんて言われたのが初めてだったので、驚いたんです。そんな風に画家として扱われたことなんて、まだないですから」
「そうなの?俺からしてみたら立派な画家さんだと思うけど…」
「同業者はそうは思ってくれないんですよね。やっぱりその道には厳しい人たちですから。同業者じゃなく一般の人でも結構厳しい評価をしますし。いつもバッサリ切られてますよ」
「同業者が厳しいことを言うのは分かるよ。でも一般の人間なんて何がいいとか悪いなんて分かってもいないのに勝手な評価するなんてひどいな。そんな風にバッサリ切るやつほど大した絵が描けないやつなんだよ、きっと。だからそういう一般の人間の言うことなんて気にしなくてもいいよ。単なるヒガミだよ」
「あは、そうかも。あたしも自分の得意分野以外にはいい加減な評価するかも…。うん、確かにそうですね。なるほど…。今日は新しい発見がいっぱいですよ〜」
「それはよかった」お互い名前も知らないのにこんな風に話をして笑い合えるなんてすごいなぁ、と思う。

「あ、それで、あたしの名前なんですけど。本名じゃなくて、これは画家名…って言ったらいいのかしら…。画家としての名前は"かのん"て言います」
「"かのん"さんかぁ。由来はなにかあるの?」
「ああ、ものすごく単純で。あたしの苗字が"菅野"なんです。それで文字を並び替えただけっていう」
「あ、なるほど。"かんの"を"かのん"ね」
「はい。あ、おじさんの名前は…っておじさん、なんて言ったら失礼かしら…」
「いや、おじさんだから失礼でもなんでもないよ。たぶんかのんさんのお父さんでもおかしくない年だからね。俺は"おじさん"でいいよ。名乗るほどの者でもないしね」というより名乗りたくない、んだけど。できれば俺という人間を知らないまま、ただの"おじさん"として接したいから。
「じゃ、じゃあ"おじさん"で。う〜ん、でも何か"おじさん"ってイメージじゃないけど…」
「そう?ほら、髭なんて生やしてるから十分おじさんだよ?」
「う〜ん、でも何か違う…。普通のサラリーマンさんじゃないですよね?だからかな」
「えっっ な、何でサラリーマンじゃないって分かるの?!」
「え?その…醸し出す雰囲気っていうか、何ていうか…。あたしと似たような世界に生きてる人なんじゃないかなぁって、そんな気がします」

鋭い。というよりもしかしてばれてるのだろうか。分かってるのに知らないフリをしてるとか。
でも髪もセットしてなければサングラスだってはめてない。ステージ衣装も着てなければベースも持ってない。着てるのはその辺のおっさんが着るようなジャージだ。ジャージに名前が書いてあるわけでもない。
声…だけで俺だと分かる人は相当なファンぐらいだ。第一歌う声と喋る声は違うし。
足元のセナに目をやった。セナの首輪に"桜井賢の愛犬"なんて文句も書いてないし俺自身いつも肩書きを背負って歩いてるわけでもない。俺は日常では周りの一般人に溶け込めるはずだ。他の二人みたいに目立つわけじゃない。髭だけで俺だと分かるやつは相当なファンの中でもそうはいないだろうし…。
「…あの、どうかしました?」彼女が怪訝な顔で俺を見た。
「え?あ、いや。かのんさん鋭いな、と思って」
「やっぱり!どんなお仕事されてるんですか?」ランランに輝く目で俺を見つめる。嘘を付くことは下手だが、それでもここでは嘘を付く方がいいはずだ。
「うん、まぁ、歌をね」これは嘘じゃない。
「へぇ!歌ですか!え、どんなジャンルの歌ですか?」
「う〜ん、フォークかなぁ。自分の世代の頃の歌。かのんさんが生まれる前の時代だよ、たぶん。あ、でも別に売れてるわけじゃないよ。ただ、趣味が高じてバンドを組んで歌ってるって感じ。コアなファンが居るから何とかやってきてるっていう、まぁ、そんな感じかな」コアなファンが居ることも嘘じゃないよな。
「へぇ…。あたしとは違う分野のアーティストってわけですね。確かに声がすごく素敵ですもの、歌ってもきっと素敵だと思いますよ」
「はは、ありがとう」
「こういう世界って安定しないから大変ですよね。落とされたり持ち上げられたり、また落とされたりして這い上がったり。それでも自分には絵を描くことしか能がないから、他の道に進むわけにもいかないし。お互い大変な世界に居るわけですね」
「うん、そうだね」

確かに若い頃は落ちたり這い上がったりの繰り返しだった。でも俺には歌しかないから、今の彼女と同じように他の道に進むわけにはいかなかった。歌は俺のすべてだから。歌があるから今の俺がある。
そして彼女は絵があるから今の彼女が居るんだろう。絵が彼女のすべてなのだ。新米画家とベテラン歌手。立場は違えど俺の辿ってきた道はこれから彼女が辿るであろう道だ。他人とは思えない、彼女とのつながりを感じた。

「じゃあ、いつも同じ時間にセナちゃんの散歩ができるわけじゃないですよね。ライブハウスとかで歌ったりするわけだから、夜はいないことが多いってことですもんね」
「そうなんだ。俺がこんな夕方に散歩する時はライブやレコーディングがない日、つまりオフってわけ。ま、来月に入ったらまたライブがあるから、来週あたりからリハーサルで夕方の散歩は奥さんの役目になるってことだね」
「じゃあお会いできるのは今週までですね。残念。もっと色々お聞きしたかったです。…あの、あたし、今週中は毎日ここに来るつもりでいるんです。たぶん朝から夕方まで一日中。もし見かけたら声掛けて下さいね?セナちゃんにもまた会いたいし。…ダメですか?」
「いや、そんな見かけたら絶対声掛けるよ。セナもかのんさんが気に入ったみたいだし。かのんさんのお邪魔じゃなかったら…」
「邪魔だなんて。あたし、同じような世界で頑張ってる方とお話する機会なんて滅多にないから、ぜひお話したいんです」
「そんな風に言ってもらえて光栄だよ。じゃあ、見掛けたら声掛けるよ。今度はセナが驚かさないようにしないとね」
「あははっそうですね。お願いします!」

彼女に手を振って遊歩道を後にした。彼女はまだあと1時間くらい描くつもりらしい。きっと描いても描いても飽きないのだろう。そんな時は誰だってある。もちろん俺にもあった。
ただ、その後に来るものが何か、俺にはよく分かっている。押し寄せる不安、苛立ち。思うように歌えない(彼女の場合は描けない、になるのだが)そんな時期が来る。できることなら彼女にはそれが来ないといいのだが。
でも画家として成功したいなら、どうしても越えなければならないものなのだ。きっと越えなければ彼女は画家として成功しない。描けなくなる時期が来なければいいのに、と思うのは俺の個人的な意見だ。アーティストとして言うなら、描けなくなる時期は経験すべきだと思う。ただ、彼女のような若くてまだまだ未熟な駆け出しの画家が果たして越えられるのか、その不安が俺にアーティストではなく個人的な思いを膨らませてしまう。それだけ彼女は未熟だということだ。俺が歌手になった頃と同じように。

「ただいま」玄関に入るとセナの足を拭き、部屋へ上げてやった。セナは嬉しそうに廊下を駆けていき、キッチンに向かった。
「はいはい、おかえり。今用意するからね」そうセナに話しかける妻の声を聞きながらキッチンへ向かう。
「ただいま」キッチンを覗き込んでもう一度言う。
「おかえりなさい。もうすぐ夕飯できるから」
「ああ」洗面所で手を洗ってからリビングに行き、テレビの前のソファに腰を下ろした。目の前のテーブルに置いてある夕刊を手に取る。今日も一面は暗い悲しいニュースがいくつも並んでいた。
「たまには明るい話題とかないのかなぁ…」
「え?何が?」妻がキッチンから料理を運んできた。テーブルの上のリモコンやタバコを隅に寄せる。

「新聞。毎日毎日殺人やら汚職やらで嫌になるよ。たまにはさ、山で迷子になってた小鹿を保護した人をバーンと載せるとかしたらいいのに」
「"野性の小鹿を保護!"で一面記事になると思うの?」
「…無理か」
「無理よ。第一、そんな見出しじゃあなたも満足できないでしょ?」と苦笑いしながら妻は再びキッチンへと戻っていった。
「まぁ、そうなんだけどさ。でもたまにはいいかも」
「そうね、たまにならいいかも。…ねぇ、今日、散歩長かったけど、どこまで行ってたの?」
「…え?…い、いつもの遊歩道だけど…?そ、そんなに長かった?」動揺しつつ平静を装って尋ねた。別に何も悪いことをしていないけれど、若い女の子と話をしてきた、なんて何だか話しにくい。
「いつもの倍、とまではいかないけど、遊歩道の先の公園まで行けるぐらいじゃないかなぁと思ったから。…わかった!」キッチンから顔を出し、妻が言う。
「えっっなにっ?」
「遊歩道のベンチに座って一休みしたんでしょ?セナはお腹空いて帰りたいって言うのに引き止めて。違う?」
「…セナは帰りたいって言わなかったぞ。おとなしく足元で座ってたよ」
「あ、やっぱり一休みしてたんだ」
「あ、うん、まぁ…」
「それならそうと最初に聞いた時に言えばいいのに。別に一休みしてたことなんて秘密にしなくていいじゃない?」
「う、うん、まぁね。…そうやって"セナはお腹空いてるのに"とか言われると思って…さ」これ以上追求されないように夕刊で顔を隠した。
「あら、そうですか。ごめんなさいね、予想通り言っちゃって。…はい、用意できたわよ」
夕刊を閉じると、テーブルにはいつもの夕飯が並んでいた。夕刊をたたみ横に置きながら妻の顔をこっそり見ると、特に不審に思っている感じではない。人知れず小さく安堵のため息をついた。

翌日、夕方までには終わるはずだった仕事が長引き、残念ながらセナの散歩には行く事ができなかった。"必ず会おう"なんて約束していたわけじゃないけれど、遊歩道に来てるんだろうな、と思うと申し訳ない気持ちになる。"ごめんな、かのんさん…"俺は心の中で謝った。
そんな気持ちがどうやら顔にも出ていたらしい。ようやく仕事が終わった時、二人がポンッと俺の両肩を叩いた。
「…ん?」振り向いて二人の顔を見たら逃げ出したくなった。だってものすごく嫌な笑みを浮かべてる。これから何かを追求しようとしている意地悪そうな顔。二人の言いたい事はもう分かっている。

「なぁ…」高見沢が何かを言おうとするのを遮り、
「言っとくけど喧嘩なんてしてないぞ!」と言い放った。
「…あれ?違うの?…絶対そうだと思ったんだけどなぁ。なぁ、坂崎」
「うん。やたらと俯いたりため息ついたりしてたから、きっと"ああ、まだ怒ってるんだろうな"なんて考えてたと思ってたのに。本当に違うの?」
「だから違うっての」
「おかしいなぁ…。じゃあ何にため息ついてたんだよ?」ほら来た。来ちゃったよ。
奥さんとの喧嘩じゃないなら何、まぁ確かに誰だってそう思うだろうよ。けどさ、たまにはそっとしておいてくれたっていいじゃないか。俺だって一つや二つ、俺だけの心にそっと閉まっておきたいことがあるんだよ。
おまえらにだってあるだろ、そういうことが。俺にだってあるんだよ、そういうことが!
…な〜んて心の中で訴えても二人が気づくわけがないんだけど。
「おーい、桜井?聞いてんのか?」気がつくと、くるっくるの巻き髪をした俺と同級生なのに"王子"と呼ばれている色白のやつが目の前で手を振っていた。そしてその後ろではこれまた俺と同級生なのにとてもそうは見えないちっちゃくて可愛らしいやつが背伸びをして俺を見ている。順調に年を取ってるのは俺だけじゃないか、と最近よく思う。

「はいはい、聞いてますよ」
「で何なんだよ、ため息の理由は」
「おにーさんたちに教えなさい。悩みなら相談に乗ってやるよ」嘘をつけ。さんざんその言葉に騙されてきたんだ、もう騙されない。話したら笑いのネタにされるんだから。
「別にな〜んにも悩んでなんかおりませんよ。仕事が長引いて"やれやれ"ってため息ついてただけ。おまえらだって途中で"疲れた〜"とか"まだ〜?"って言ってただろ。それと一緒」
「そりゃ、俺たちは予定より長引いてブツブツ言ってたけどさ、桜井のは違うだろ」と高見沢が断言してきた。
「違わない」とにかく否定する。
「いや、違う。だって"参るよな、長引いて"ってさっき声掛けたとき、上の空で"あ〜、うん"って返ってきただけだったぞ。どっこも長引いて参ってるって感じじゃなかった」…しまった、確かに上の空だった。
「でもなぁ…喧嘩じゃないとなると、何だろ。う〜ん…」坂崎が腕組みして考え込んだ。まさかいくら鋭いこいつでも若い女の画家さんに関係していることだとは思いもしないだろう。それが分かったら探偵をつけて調査しているとしか思えない。

「だから悩んでないって。おまえらが気にしすぎなんだよ」
「…そうかなぁ…。絶対何かあると思うんだけど…」眼鏡の奥にある坂崎の小さな目がキラリと光った。俺の心に探りを入れている。この目が怖いんだ、この目が。
これ以上追求されたら俺は白状してしまいそうだ。早くここから立ち去らなければ…。
どうしようかと思っていると、二人を呼びにマネージャーたちがやってきた。
「高見沢さん、そろそろ行きましょうか」
「坂さんもそろそろ出ましょう」
「…あ、そうか。もう行く時間かぁ」
「すみません、ゆっくり休憩する時間がなくなってしまって」
「まぁ、仕方ないよな。じゃあ行くか」
「行きますか」少々残念そうな顔をして二人が上着を手に取りドアへと向かう。
よし、俺は運がいい。密かに頷いた。これで二人の追及から逃れられる。マネージャーたちに感謝だ。
と、ホッとしてみんなを見送っていると、二人が振り向いた。
「…な、何だよ」
「…続きはまた明日な」ニヤリと高見沢が笑う。
「明日はきちんと話してもらうからね、桜井」坂崎も意地悪そうな笑みを俺に向け、ようやく二人は部屋を出て行く。俺一人、部屋にポツンと残された。
……明日が来なきゃいいのに。

でも明日はやってきた。当然だけど。
「おはよ。…で、昨日のは何だったのかなぁ?」重い気持ちで打ち合わせの部屋へ入ると、俺より先に来ていた坂崎がニコニコしながら(でも目は笑っていない)尋ねてきた。途端にため息が出た。
「だから…何でもないって」
「またまた。桜井は嘘が下手だから」
「そりゃおまえほど嘘は上手くはございません。でも本当に何でもないって。おまえらの思い過ごし」
「…そうかなぁ…」
「そうそう。それに俺のこと気にするより今度のツアーのことを考えろよ」
「考えてるよ。桜井の出し物何にしようって」
「それは考えなくてもいい」
「えー、だってメインじゃん」
「あれメインかよ!」
「ファンが喜んでるんだから、メインでしょ。今回はどうしような」
坂崎の思考が"今度の俺の出し物"になったようでホッとした。あとは予定通り高見沢が遅刻して来ればもう追求されなくて済む。遅刻すれば来てすぐに打ち合わせが始まるから。今日ほどやつが遅刻するように、と祈った日はない。

案の定高見沢は遅刻してきて、すぐに打ち合わせが始まった。
今度のツアーの構成なんかの最終調整みたいなものだ。とはいっても、当日曲目が変わることも珍しくない俺たちだから、最終調整なんて本当は必要ないと思うんだけど。きっとこれから毎日あれを入れる、これを抜く、やっぱりこれを入れる、なんていう微調整が始まるんだ。お陰でツアー前にもらう資料は何度も改訂され、資料の枚数も増える一方だからファイルは相当分厚くなる。
今日も打ち合わせで追加された曲が何曲もあった。早速資料改訂だ。来週からのリハーサルでどのくらいの曲を練習しておかないといけないのか…と思うと憂鬱になった。

今日は予定通り仕事が終わり、二人の追及を受けることもなく家路に着いた。玄関を開けると、妻が散歩に行こうとセナにリードを付けているところだった。
「あら、おかえりなさい」
「ただいま。あ、セナの散歩なら俺が行くよ」妻が持つリードを手に取る。
「え?でも今仕事から帰ってきたところなのに…」
「いいよ、今日はそんなに疲れてないし。疲れるのは来週のリハからだよ」
「まぁ、そうだろうけど…」
「それに来週からは俺が散歩に連れて行けないからな。行ける日は俺が行くよ。悪いけど荷物、頼むよ」
「あ、はい。…じゃあ、お願いします…」
「うん、じゃあ行ってきます」
少々怪訝な顔の妻を残し、再び外へ出た。
この態度で浮気してる、なんて疑われるんじゃないだろうか、と少し不安になったが、うちの奥さんはそこまで考え付かない…と思う。それに本当に浮気してるわけじゃない。同じような世界に飛び込んできた若者と話をしている、ただそれだけなのだから。…何だか言い訳しているみたいな気分になってきた。

いつもの散歩コースを順調に進んでいき、これまたいつもの遊歩道へとやってきた。
俺の気のせいだと思うが、セナはいつもより歩調を速めているような、そんな気がする。
ふと一昨日のセナの行動がよみがえってきた。
一昨日のセナはいつもと違っていた。あんな風に途中で座り込んだ時、文句も言わず足元に座るなんて、今まで一度もなかった。
もしかしてこの歩調が速いような気がするのも、気のせいなんかじゃなく、本当なのではないだろうか。セナがかのんさんに会いたいと思っているのか、それとも俺の気持ちを知っていてかのんさんとのお喋りに付き合ってくれているのかもしれない。今日のセナを見て、そう思わずにはいられなかった。
セナに真意を尋ねてみたいけれど、聞いても"うんその通り"なんて返ってくるわけもないから、ただ俺の想像で終わるしかない。だからここは俺の良いように解釈すればいい。セナは俺の気持ちを酌んでくれている、そういうことにしておこう。

いつもと変わらない遊歩道のコースを進む。かのんさんはどこに座っているのだろう、そう思いながらやたらと前方を気にしつつ歩く自分に気づくと、無性に笑えてきた。まるで恋焦がれる人がこの先に居るような、そんな態度じゃないか。やっぱりこれは妻に話さない方がいい話題…のような気がする。
と、突然セナが走り出した。
「…おっどうしたセナ?」突然のことに驚きながらもセナに合わせて俺も小走りする。
「キャンキャンッ」今度は前を見ながら鳴いた。
「何だよ、何だよ。突然どうしたんだよ?……あっ」セナが急に走り出し、鳴いた理由が分かった。もちろんそれは、セナが俺の気持ちを酌んでくれていれば、の話。
前方にかのんさんが居たのだ。いつもは絵を描くことに集中していて何が起きても反応しない彼女が、セナの鳴き声に珍しく反応して俺たちに手を振っている。ここで手を振らないやつはいないでしょ。
「こんにちは!よかった!今日は会えましたね!!」
「こんにちは〜。セナがかのんさんを見つけて走り出したんだよ。目敏いよ、こいつ」
「えっそうなんですか?嬉しいですー!セナちゃんあたしのこと覚えてくれたんだね。ありがとう」相変わらず屈託のない笑顔でセナに笑いかける。セナも嬉しそうに尻尾を振ってかのんさんに擦り寄った。
「どうやらかのんさんを気に入ったみたい。いつもより歩くの早かったんだよ」
「えー、嬉しいなぁ、セナちゃん。あたしもセナちゃん大好きよ〜」
セナをよしよしする彼女の傍には、いつものスケッチブックが開いてあり、そこには描きかけの風景画があった。
「あ、今日はこの辺りを描いてるんだね」スケッチブックには相変わらず柔らかいタッチの風景画。こんな絵を描ける人が本当に羨ましい。彼女の目にはこんな何気ない風景までも美しい風景に見えるのだろうか。
「はい。今、どこを描こうか考えてまして…。一番いい所を選ぼうと色んな所を描いてるんです」
「…というと?」
「ええ、今度展示会に出品する予定で、それに出す絵を考えてるところで…」
「へぇ!展示会?いつなの?」
「ええと…来年の1月です」
「1月か〜、絶対に観に行くよ。楽しみだなぁ…」
「あ、でも…まだ出品できるかどうかも分かりませんし…」
「そうなの?」
「ええ。あたしの師匠が出品するか判断してくださることになってるんです。出来が悪かったら出品は取りやめになるんですよ。だから、選りすぐりのものを描かないといけないんです」
「そうかぁ、それはかなり大変だね。それにあと…4ヶ月ないよね」
「はい、今月初めから描き始めるつもりだったんですけど、なかなか決まらなくて。なので今週中に絶対に決めて来週から描き始めようと思ってるんです」
「そう。だいたい決まった?」
「はい、だいたい…ですけど。どうしても、ここの絵は出品したいんです。あたしの出発地点でもありますから」
「そうだね。小学校の時に銀賞もらってるし」
「あはは、はい。そうなんですよね。だから頑張って描かないと」
「うん、頑張って。応援してるよ。もちろん、セナもね」
「ありがとうございます。頑張ります!…おじさんもお仕事の方はどうですか?」
「俺?う〜ん、来週から大変かな。リハが始まるんだ。注文のうるさいメンバーがいるからね、いっつも大変なんだよ」
「注文がうるさい…ということは、その方がバンドのリーダーさんですか?」
「そうそう。注文がうるさいわりに自分は天然ボケなやつでね、なかなか手に負えないやつなんだよね」
「はぁ…大変そうですね」
「うん、大変。いっつもいじめられてるんだ、俺。やんなっちゃうよね、まったく」
「ふふ…。でも、何だか楽しそうですね。メンバーの方たちとは仲良いんですね、きっと」
「う〜ん…仲良いっていうのかなぁ…。長年の付き合いだからね。もうこいつらはこういうやつなんだって分かってるからねぇ」
「そんな風に長年バンドを続けてこられたんですね。すごいなぁ…。あたしもずっと絵を描いていきたいなぁ…」まるでそれは夢だと言わんばかりのかのんさんの発言。でもそう呟く気持ちも分からなくはなかった。俺だって、こんなに長年歌ってるとは正直思っていなかったから。どんなに追い求めても叶わないものだって中にはある。どちらかといえば叶わないものの方が多いかもしれないし。そう思えば、俺たちは人よりは少々すごいのかな、なんて思ってみたり。

「さて、そろそろ帰ろうかな。絵描きの途中なのにお邪魔しまして。出品する構図が決まるといいね」
「はい、ありがとうございます。こちらこそ、セナちゃんの散歩の途中なのに引きとめてしまってすみませんでした。また会えるといいですね!」そう言うと、かのんさんはもう一度セナの頭を撫でてくれた。彼女に撫でられると気持ちいいのか、セナはクリクリの大きな目を細めている。俺にだってそんな顔したことないぞ。
…ってこれはやきもちか?

かのんさんと別れていつもの散歩道を途中で曲がり、一昨日みたいに"遅かったね"なんて言われないように早めに家に戻った。
「あ、おかえりなさい。ちょうど今夕飯できたところよ」
「あ、うん。ただいま」玄関を開けたら目の前に居たので少々驚いた。まさか気になって玄関先で待っていたのか…?なんて思ったが、単に玄関に飾ってある花の水を替えていただけだった。
疑心暗鬼とはまさにこのこと。
まだ三日しか経っていないけど、そろそろ限界かもしれない。どうも自分だけの心の中に閉まっておけない性格らしい。近いうちに二人でセナの散歩に行って、その時かのんさんを見かけたら話してやろう。
…なんて考えただけでずいぶんすっきりした。単純なやつだな、俺って。

翌週、予定通りリハーサルが始まった。高見沢先生にあーだこーだと注文をつけられ、ものすごい出し物の提案をされたり…。坂崎に助け舟を求めて視線を送っても、"それでいいんじゃない?"と笑顔で返される。年々俺の発言力はなくなっていくような、そんな気がする。
もちろんセナの散歩もほとんど行けなくなった。おかげで家に帰ってもセナの尻尾の振りが小さくて"この人どこかで見たような…"的存在になりつつあるようだった。何とか時間を見つけて触れ合ってやらなければ…。

が無情にも月日は流れ、とうとうツアーまであと3日となってしまった。結局リハーサルが始まってからずっと俺はセナを散歩にすら連れて行けなかった。
もちろん、それと同時にかのんさんにも会っていない。まぁ、かのんさんは出品作品の製作で忙しいだろうから、遊歩道には来ていないとは思うが、それでも"来てるかもしれない"なんて気持ちがちょっとあるからずっと気にはしていた。
このままツアーに入ってしまうのか…そう思って一服していると、マネージャーが声を掛けてきた。
「桜井さん、あのですね…」
「あ?なに?」
「…何かご機嫌斜めですね。何かありました?」
「…別に……。で、なに?」
「…あ、はい、あのですね、今日の午後に予定していた−」
「打ち合わせ?」
「ええ、その打ち合わせなんですけど、高見沢さんに急な仕事が入りまして…」
「あ、そうなの。じゃあ打ち合わせはなし?」
「はい、すみません」
「了解。別にいいよ、よくあることだし」
「あ、まぁ、そうですけどね。…というわけで、午後はオフってことでお願いします」
「…オフ……」マネージャーの言葉を復唱した。今、オフって言ったか?
「はい、オフで」
「………オフかーっ!」俺の叫びにマネージャーが驚いて目の前で固まっている。
「じゃあ、これ終わったら帰れるわけだな!」
「………あ、は、はい…」
「了解了解!じゃ、あと少し頑張ろっ!…オフッ♪オフ〜ッ♪」
「…さ、桜井さん…?」怪訝な表情のマネージャーをその場に置き去りにして、俺はご機嫌でスタジオに戻った。いつものベースもやたらと音がいい…まぁ、これは気のせいだろうけど。
午後がオフになってやる気が出る俺って…なんて思うけど、でも今日は仕方がないじゃないか。ずっとセナとの触れ合いがなかったんだから。いくつになっても休みは嬉しいもんなんだよ。ね。

残りの仕事をるんるん(死語だな…)で片付け、早速家へ戻った。
「あら、おかえりなさい。早かったのね」
「ただいま。そう、午後の打ち合わせがなくなってね。お陰でセナの散歩に行けるよ」
「そうね、セナに忘れられちゃうのは悲しいものね」
「そうそう。最近尻尾の振りが小さいからなぁ…。セナー、散歩行くぞー」セナはどうやら昼寝をしていたらしく、トテトテとのんびり玄関までやってきた。
「なんだ、セナ。散歩に行きたくないのか?」お気に入りのリードを目の前にちらつかせると、途端に尻尾をふりふり。よかった、まだ俺のことを完全に忘れたわけじゃなかったみたいだ。
「あ、ねぇ、待って」妻が俺を引きとめた。
「ん?…何か買ってくるもんでもある?」
「ううん、違う違う。私も行こうと思って」そう言うと妻は下駄箱からスニーカーを出した。
「何だ、珍しいな」
「最近はずっとあなたの代わりにセナの散歩に行ってたでしょ?」
「うん、そうだな。それが?」
「テレビでね、毎日同じくらいの距離を歩いた方がいいってやってたのよ。だから行けるときはできるだけ毎日セナの散歩には行こうと思ってたの」
「…あ、それで一緒に行こうと」
「そうそう。セナの散歩って一定距離だからいいのよ。ほら、万歩計も付けてるし」そう言った妻のズボンには確かに万歩計が付いていた。
「なるほどね。まったく…すぐテレビに影響されるやつだなぁ…」前も何か始めたけど、一週間であきてたような気がする。ヨーグルトとか…何とかっていうお茶とか。
「あら、あなただって人の事言えないでしょ」
「うん、まぁね」確かに俺もそういうところがありました。どうも失礼いたしました。

そんなわけで今日は二人でセナの散歩に行くことになった。
二人で行くなんて、本当久しぶりだなぁ。
「久しぶりね、二人でセナの散歩なんて」妻も同じことを思ってたみたいだ。
「ああ、前行ったのいつだっけ?」
「もう何年も前じゃない?だってあなたが散歩に出掛ける時間が定まらないんだもの。合わせられないのよ、私」
「確かにな。すいませんね、定まらないお仕事で」
「いいえ、もう長年一緒にいるんですから慣れました」にっこり笑う妻。
二人とも年を重ねてきたけれど、中身は二人とも若い頃と変わってないなぁと思う。ま、そういう夫婦もいいよね。きっと俺たちはずっとこんな感じなんだろうな。

いつもの遊歩道。
居ないだろうと分かっているのだけれど、ついつい座れるところがあると姿がないか確認してしまう。
足元を歩くセナを見ると、この前のような先を急ぐ早足でもない。きっと居ない、ということがセナには分かってるんだろう。

そういえばかのんさんのことを妻に話そうと思っていたんだった。この状況は願ったり叶ったりじゃないか。…でも彼女が居なきゃ説明しにくいな。どうしたものか…。
と妻が口を開いた。
「…今日も居ないわねぇ…」
「…へ?……何が?」尋ねながら妻を見やると、妻はキョロキョロと何かを探している様子。
「なに、猫でも居る?」
「違うわよ、女の子よ、女の子!」
「…お、女の子?」え?それって…
「そう女の子。最近ね、この遊歩道で絵を描いてる子が居たのよ。すごく綺麗な風景画を描いてる子なの。ここ最近見かけないのよ。どうしたのかしら。あの子の描いてる絵を見るの、すごく楽しみにしてるのに…」なんだよ、俺悩む必要なかったのか…。
「…なんだ、かのんさんのこと知ってたのか。彼女ならしばらく居ないと思うよ」
「………ねぇ、どうして彼女の予定も、しかも名前まで知ってるの……?」妻の顔色がスッと変わったような気が……いや、気のせいじゃない…。ぶわっと嫌な汗が全身に滲んだ。
「…えっ?…あ、あれ?彼女に話しかけて…はいないんですか…っ?」額から汗が流れる。
「…一生懸命絵を描いている人に話しかけるような、私は非常識な人間じゃありません」
「あ、そ、そうですね。はい、その通りです」
「それで……どういうことなのか…説明…………してくれるわよね?」
…結局こんな風にばれるのか……俺って運がない…。
「クゥーン…」セナの鳴き声がまるで同情しているように聞こえた。


「……と、いうわけでして……」遊歩道のベンチに座り、かのんさんとの出会いから何から何まで俺は妻に事細かく話した。秋なのにやたらと汗をかきながら話す俺を、妻は最初冷たい目で見ていたが、徐々に表情は穏やかになっていた。どうやら誤解はとけているみたいだ。
「ふーん…そんなことがあったの。…何も私に内緒にしなくてもいいじゃないの。ちゃんと話してくれればこーんな風にならなかったのに」
「…や、その…」
「なぁに、やっぱり何かやましい事隠して−」
「そんなわけないだろ!俺が隠し事できるとでも−」
「思ってないけどね」
「分かってて言うなよっ!」
「内緒にしてたから意地悪言いたくもなるのよ」妻はセナを膝に乗せ、ツーンとそっぽを向いた。

一応、これはかのんさんにやきもち…ってことなんだよな?長年一緒に居る奥さんにやきもち焼かせてる俺ってまだまだいけるってことかぁ…って何で自信持ってんだよ俺!とにかくここは妻の機嫌を直さなければ。
訳の分からない自信を振り払い、
「内緒にしてたわけじゃなくて、言おう言おうと思ってたんだよ。どうせならこうやって一緒にセナの散歩に行く時に話したいなって。だから今日話そうとさっき思ってたんですっ」とそっぽを向いたままの妻に言った。ふと妻の膝の上のセナを見ると、
"そう、本当だよ。信じてあげてよ。"とでも援護してくれてるのか、大きな瞳で妻を見上げていた。セナ頼む!喋ってくれ!なんて思ってしまう俺。セナが唯一の証言者なんだからそう思ってしまうのは仕方がない。
「…なぁ、そんなに怒るなよ」
するとセナを撫でながら妻が一つため息をついて、振り向いた。
「別に怒ってないわよ」
「…へ?」意外な言葉だった。だってさっきまでそっぽ向いてたじゃないか。
「ちょっと意地悪言ってみたかっただけー。いやぁね、私がそんなことで怒ると思う?」
「思ってみたんですけどね…」
「まだまだ甘いわね。それに、どちらかというと、あなたが約1ヶ月の間内緒にできたことに驚いてるわ。あなたにも少しぐらい隠し事ができるのね〜」クスクス笑う妻はむちゃくちゃ楽しそうだった。

結局俺は妻の手のひらの上で転がされてただけだったわけだ。
この1ヶ月の間の俺の不安やら心配やらため息は何だったのだろう。やっぱり隠し事はするもんじゃない、そう思わずにはいられなかった。
「…それで、ええと、何さんだっけ?」
「え?あ、ああ、かのんさん」
「かのんさんは、今何で来てないの?」
「展示会に出品する作品を描いてるんだよ。来年1月に出品するんだって。でも師匠の画家さんがOK出さないと出品できないらしいよ」
「へぇ…。厳しいのね。でも彼女の絵なら大丈夫だと思うわ。だってあんなに素敵な絵なんですもの」
「うん、俺もそう思う。若いから今後の成長も大いに期待できるし。でも…」
「でも?」
「この先、厳しい世界でやっていけるかなぁって思ってね。彼女はもっとずる賢くならないとダメだよ、ずっと画家をしていくなら」
「…そうね、いくら才能があってもこういう世界って運もないとね」
「うん…、でもそう言いながらも彼女は今のままで純粋な画家としてやっていってほしいな、と思う部分もあるんだけどね。純粋だからこそ、あんな素敵な絵が描けるんだと思うから」
「…だから応援したくなったわけね。自分と似てるから」妻はにっこり笑って俺を見た。
「ま、俺が純粋だとはさすがに言わないけど、これから彼女が辿る道は俺が辿ってきた道と似てるだろうからね」
「あら、歌には純粋だと思うわよ。他は……違うかもしれないけど。でも本当、彼女の作品が展示会に出品されるといいわね。ね、出品されたら見に行くんでしょ?」
「行くよ。彼女のファンとして」
「じゃあその時は私も行くわ。あなたと同じくらい私も彼女の絵、好きなんだから」
「はいはい」
「これからは彼女に会ったら報告してよ?内緒にしないでね?」
「しないって。真っ先に報告するよ」もうこんな風に嫌な汗かきたくないからね。
とにかく無事話せてよかった。これで心配する必要もなくなったし、気分よくツアーに行けるよ。
よかったよかった。


−ツアー初日前日−
ツアーを明日に控え、午後はオフをもらった。二人からは"今夜の酒は控えめにな"と釘をさされ、ちょっと寂しい帰宅。リビングに行くと、"セナの散歩に行ってくる"という妻のメモを見つけた。セナとはしばらく散歩できなさそうだな、と思うと今日は俺が行きたかったなぁと思う。家に帰れる日は絶対にセナと触れ合うんだ!と一人密かに意気込んだ。
しばらく戻って来なさそうなので途中読みの本を読むことにした。続きが気になってはいたが、なかなか読む時間がとれず、なのに先に読んでしまった妻が最後を言いそうになったりして余計に気になって…。ようやく妻の意地悪から解放されそうだ。

順調に本を読んでいる時だった。明るかった外の光が、徐々に消えていることに気づいた。
「…ん?」先ほどまで晴れていた空がどんよりとした雨雲に覆われている。今にも降り出しそうな雲。
「あれ、今日雨降るって言ってたっけ…」本を閉じてリビングの窓を開けた。
洗濯物はすでに取り込んであるから大丈夫そうだ。
なんて思っていたらとうとう降り出した。小さな粒がぽつりぽつり。次第にそれが大きな粒になり、あっという間に土砂降りに。
「うわー、土砂降りになっちゃったよ。……あ、あいつ傘持って行ったのかな…」たぶん雨がこんなに降るとは思っていなかったはずだ。玄関に行ってみると、妻の傘もあるし、セナのカッパも置いたままだ。
「しばらく止みそうにないから迎えにいくか。きっと雨宿りはしてるだろうから大丈夫だと思うけど…」
念のためタオルと妻の傘、それとセナのカッパを持って家を出た。空を見上げるとそうそう止みそうにないどんよりした雲が辺り一面を覆いつくしている。小降りにはなるだろうけど、どう見ても1,2時間は降り続きそうな感じだ。
足音が雨音に消されてしまうくらいの雨の中、小走りで散歩コースを辿る。途中慌てて家へ帰る学生や主婦を見かけた。傘を貸してやりたいけれど、そうもいかない。
遊歩道の手前、定休日の店の軒先で妻とセナの姿を見つけた。そんなに濡れている様子はない。
「あ、あなた…っ」でも妻は少々慌てた様子。突然の雨だったからかな。
「大丈夫か?ほら、傘とセナのカッパ…あ、でもこの土砂降りじゃカッパ付けるより抱いて帰った方がよさそうだな。濡れてないか?」タオルを差し出すと、妻は俺の腕に触れた。不安げな顔で俺を見ている。
「ん?…どうかしたのか?セナ…もそんなに濡れてないよな。何か…あったのか?」
「私たちは急いでここまで引き返してきたからほとんど濡れてないから大丈夫。だけど…」
「だけど…?」
「あの、画家の女の子、かのんさん?今日遊歩道に来てたのよ」
「え、かのんさんが?おかしいな、どうしたんだろう…」
「ね、おかしいでしょ?何だか様子もおかしかったの。スケッチブックも道具もなくて絵を描いてる様子もなかったし。…何かあったのかもしれないわ。私が話しかけるのはどうかと思って通り過ぎたんだけど…でその後すぐに雨が降り出したのよ」
「…そうか。いい作品が描けていないのかもしれないな。それで彼女も雨宿りできるところに移動してたんだよな?」
「それが…」どうやら不安げな顔はその部分だったようだ。
「彼女…もしかしてこの雨の中まだ遊歩道に居るのか?」
「たぶん。だって降り出した時に振り返ったんだけど、動く気配がなかったもの。ずっと下を向いて、座ってて…。ね、あなた見てきて。きっと同じところに居るわ。風邪ひいちゃうわ、あの子」
「…分かった、見てくる。セナと先に帰ってて。居なければすぐ帰るし、もし居たら駅まで送ってくるよ」
「うん、お願い。…あ、これ、私の上着。そんなに濡れてないからよかったらあの子に」
「ありがとう。気をつけて帰れよ」傘を渡し、妻から上着をもらってかのんさんの所へ向かった。

何があったのだろうか。かのんさんがここへ来るのは絵を描くためだ。なのにスケッチブックも道具もないなんておかしい。何があったか予想はできるけれど、予想したくなかった。
きっと彼女は今、自信をなくしている。絵にも自分にも。
そんなところに俺が行って、何ができるのだろうか。落ち込んでいる彼女に俺は何が言えるというのだろう。頑張れなんて決して言えない。頑張れない時に頑張れなんて言葉、一番辛いだろうから。
何を言ってあげるべきなのか…。左手のタオルと妻の上着を握り締めて遊歩道へ入った。

妻が話していた場所にかのんさんは居た。降り続く雨の中、身動き一つしない。愛用の眼鏡はびしょ濡れで、泣いているのかそれとも雨なのか分からないほど頬も濡れている。
もちろん服もずぶ濡れだ。持ってきたタオルじゃ役に立ちそうもない。
けれど引き返している間にも彼女はこの雨の中ここに座っているだろう。その間に風邪をひいてしまう。
たぶんこの雨は今の彼女の心だ。止めることはできないと思う。
俺にできるのは、その心の雨に傘を差し出すことだけ…。

「…だめだよ、かのんさん。ちゃんと雨が防げるとこに行かなきゃ」差し出した俺の傘に気づいたが、かのんさんが顔を上げることはなかった。
「……どうして…あたしがここに……」消え入りそうな声で俺に尋ねる。
「うちの奥さんが雨の中遊歩道にかのんさんが居るって教えてくれたから。ほら、あそこの公園に屋根付きのスペースがあるから行こう。風邪ひいたら大好きな絵も描けないよ。身体を大事にしなきゃだめだよ」俺が促すと、ゆっくりと立ち上がり歩き出した。立ち上がって歩き出してもかのんさんが前を見ることはなかった。

「ほら、髪拭いて。…服は…どうしような、ここまで濡れてたら拭いても意味ないし…。うちで奥さんの服に…」かのんさんが下を向いたまま首を振った。
「…濡れることが分かっててあそこに居たんです。だからいいんです、このままで…」
きっと何を言っても無駄だろうなと思った。自分が濡れようが何だろうが今のかのんさんは構わないのだろう。あのまま雨に濡れ続けてもかのんさんはあの場所で座っていたと思う。唇は真っ青で身体も震えているのに。
せめて何か温かいものでも、そう思って近くにある自販機で温かいココアを買った。
「はい、じゃあせめて温かいものは飲んで。飲まないっていうんだったらうちに連れてって奥さんに無理矢理でも風呂に入れてもらうよ。それが嫌なら飲みなさい」珍しく俺が強い口調で言うので、かのんさんは恐る恐るココアを手に取った。きっとたかが遊歩道で出会ったおじさんに怒られる筋合いなんてないのに、と思ってるだろうけど、こんな状態のかのんさんを放っておけるわけがない。
これで…かのんさんとお話する機会は最後かもしれないな。こんな余計なお世話するようなおじさんとこ
れからも好んで話してくれるとは思えないし。

かのんさんは無言でココアを口に含んだ。時々鼻をすすり、髪から滴り落ちる水滴をタオルで拭ったり。それでも顔を上げようとはしない。その姿に、俺の口から"どうしたの"という言葉が出てくるのを懼れているのだと気づいた。心の傷に今は誰にも触れてほしくない…と。
そんな真新しい傷に俺は触れるつもりはないし、かのんさんを慰める気も励ます気もない。それは今のかのんさんにどちらも何の意味がないからだと分かっているから。かのんさんが望んでいることが何なのか分からないけれど、俺が言えることはもう決まっている。
「…何があったか…なんて聞くつもりはないよ。何となく…分かるから」
「……」
「でも一つだけ聞いていい?」そう尋ねると、かのんさんは小さく頷いた。
「…絵を描くことはまだ好き?」
「…え?」俺の質問にかのんさんが初めて顔を上げた。泣きはらした目、辛そうな瞳。彼女に起きた出来事は、たぶんこれまでの人生の中で一番辛いものだったのだろう。
「…絵を描くことも嫌いになった?」
「……どうしてそんなこと…聞くんですか?」
「だってかのんさんの絵、これからも見たいから」
「……」今にも泣き出しそうな辛そうな目をして、俺から顔を背けた。
「…もう、かのんさんの絵は見られないの?」
「……そうかも…しれません」
絵の世界で生きることを諦めたということだろうか。大好きな絵を描くことも嫌いになって。
でも俺には分かる。本当は絵を描くことを嫌いになったわけでも、諦めたわけでもない。諦めたのなら"かもしれない"なんて曖昧なことは言わない。絵を描くことを嫌いになったのなら、ここへは来ていない。
「…それは、かもしれない…んだよね。じゃあまだ諦めたわけじゃないよね?だからここへ…自分の原点であるここへ来たんじゃないの?」俺の言葉にかのんさんがピクッと反応した。自分の想いを指摘されたからだろうか。
「もう一回聞くよ?…本当に絵を描くことも嫌いになった?かのんさんの本心で答えてくれないかな」俺の言葉に少し俯いていたが、しばらくするとゆっくりと顔を上げ、俺の目を見て彼女は首を横に振った。
「…嫌いになんて…なれませんでした…なろうと思ったけど…」
「でしょ?心の底から好きなことを嫌いになんてなれないものだよ」
「…あたし…どうしたらいいのか…分からなくて……気が付いたらここに…」
「そう。何か辛いことがあったんだね…」
俺の言葉にまたかのんさんは涙ぐんだ。そんな顔を見てたらこっちまで泣けてくるよ。

何とかもらい泣きしないように心を落ち着かせ、かのんさんの隣に座った。
「そうだなぁ…。好きなことを嫌いになることはできないけど、好きなことから離れることはできるよ。…だから、しばらく絵から離れてみたらどうかな」
「…絵…から離れる…?」
「うん。…大好きな絵からしばらく離れてごらん。描くことをやめる。そして今までしたことのない事に挑戦してごらん。自分の趣味とは違う方向を試してみるといいよ」
「違う…方向…」
「今、絵を描くとたくさん辛いことを思い出すよね。大好きな絵を描いているのに辛いなんて嫌でしょ?大好きな絵は楽しんで描きたいよね。そのためにまず、かのんさんが一番したいことから離れてみるといい。そして描きたくなるまで離れてごらん。今のかのんさんにはそれが一番いいと思うよ。もちろんこれは俺の考えだけどね」
「…おじさんも…歌から離れたことがあるんですか…?」俺の言いたいことが分かったのか、かのんさんはそう尋ねた。
「俺は逆かな。歌って歌って歌いまくってみた。歌えなくなるまで歌ったり。俺の場合は歌うことは苦痛じゃなかったから。逆に歌わないことに苦痛を感じるからね。歌うことが俺のすべてだから」
「……」
「かのんさんは描くことに苦痛を感じているような気がする。だからあえて絵から離れてみた方がいいのかもしれないな、と思ったんだ」
「…でも…描かなきゃ…展示会に出す作品…」
「でも思うように描けない…んじゃない?」
「……っ」目にためていた涙がポロポロと零れ落ち、またかのんさんは俯いた。

「…描きたくても描けない、なんてこれから先何度もあると思うよ。今と同じ苦しみはこれから何度もやってくる。そのたびにかのんさんはこんな風にボロボロになるの?それじゃ、描きたい絵はいつまで経っても描けないよ。描けない事実に向き合わなきゃいけない。そういう強さをかのんさんに持ってほしい」
「……い、今はそんな強さ、持てないです……」
「うん、今はね。でも今じゃなくてもこの先、持てる時は来るよ。かのんさんが今までと同じくらい絵が好きで、この遊歩道を今まで以上に大事に思ってくれれば。そうすればきっと自然にかのんさんが描きたい絵が描けるようになるよ。いや、きっとじゃない。絶対にね」
「……絶対?…どうしてそう言えるんですか?あたしには…とても描けるようになるなんて思えない…」
「どうして…か。…う〜ん……俺に、俺たちに似てるから…かな。俺たちもたくさん辛いことがあったから。認めてもらうまでに長い時間かかったからね。それでも俺たちには歌しかないって頑張ってきたんだ。自分たちの歌をたくさんの人に聴いてもらいたいって。その想いだけでここまで来たんだよ」
「……」
「初めてかのんさんと話した時、俺たちに似てるなぁって思ったんだ。本当に絵が好きで、この遊歩道が好きで。純粋に絵を描いているかのんさんの姿が、昔俺たちが場所さえあればどこででも歌っていた若い頃の姿とだぶって見えたんだ。かのんさんは若い頃の俺たち。俺たちが辿ってきた道をかのんさんはこれから辿っていくんだなぁって。その道を行くかのんさんの姿が俺には見えるんだ」
「……あたしが…ですか?」泣きはらした目でかのんさんが俺を見つめる。
「うん。かのんさんなら夢を叶えられるよ」
「…そんな…」
「そりゃ途中で諦めたら誰だって夢は叶えられないよ。今ここでかのんさんが諦めたら、一人前の画家になれるわけがない。俺も途中で諦めてたらここには居ないと思うし。もし今の夢を捨てて違う道に行くのも間違ってはいないと思うよ。他にも自分にできることはあるかもしれないしね。だけどね、諦める前にきちんと自分と向き合ってみなきゃだめだよ」
「自分と…向き合う…」
「そう。自分がどのくらい絵を描くことが好きなのか。この遊歩道は自分にとってどんな存在なのか。ちゃんとそれを冷静に考えてごらんよ。今は辛くて冷静に向き合えないかもしれないけど、その状態で諦めたら絶対に後悔する。後悔する人生なんていやでしょ?」
「……」
「だからって別に絵を描くことを本当にやめる必要はないよ。さっきのはただ俺の考えで言っただけだから。かのんさん自身、自分と向き合える時間が作れればそれでいいと思う。それが絵を描く、描かないどちらかは俺には分からないし、違うことをするのがいいことなのかも分からない。どう向き合うかはかのんさん自身で決めることだよ。俺にはそれ以上言えることはないよ」

気が付くと雨がそろそろ止みそうだった。雲もだいぶ切れてきて光が射してきた。
「お、雨上がりそうだな。これなら多少服も乾くかな」
「……」空を見上げるかのんさんの横顔はまだ不安げだけど、涙は消えていた。俺の言った言葉の中に、何かを見つけてくれただろうか。
「ねぇ、かのんさん」
「……はい」
「かのんさんがノリにノッてる時、一枚の絵を仕上げるのにどのくらいかかる?」
「…え?仕上げる時間…ですか?」
「そう。どのくらい?」
「……たぶん…一週間もあれば…」
「じゃあお師匠さんに判定してもらう10日くらい前から描き始めれば全然大丈夫。まだまだ時間はあるじゃない。焦る必要はないよ」
「で、でも…もし描けなかったら…」
「もし描けなかったらまた次があるよ。チャンスは一度きりじゃない。かのんさん、自分いくつ?俺みたいにおじさんなわけじゃないんだから、一度のチャンスにこだわってちゃだめだよ。若い人には無限のチャンスがあるんだから。まだまだこれからじゃない」
「……」
「大丈夫!かのんさんにはもうファンが三人も居るんだから!」
「え、ファン?」
「そ、俺ん家に三人…いや、二人と一匹か。ね?」
「おじさん…」
「すごいよ、最初から三人も居るなんて。俺なんてグループ三人なんだけど、最初三人とかだもん。一人につき一人だよ?それに比べたらうらやましいよ、三人なんて」
「……あはは…」
「…ほら、雨も上がったよ」
空もかのんさんを応援しているように、今までの雨が嘘みたいに青く澄んでいた。
俺は心の中で呟いた。口には出せないけれど、誰よりもかのんさんに言いたい言葉。
"頑張れ"と。

その後、かのんさんの服は結局半渇き。妻の上着を半ば強引に渡し、駅までは一人で大丈夫だと言うのでそのまま公園で見送った。駅に向かうかのんさんの背中にはまだ以前のようなパワーは感じないけれど、それでも雨の中泣いていた時よりずいぶん立ち直っているようだった。
家に戻るとすごい勢いで心配顔の妻が玄関へやってきて彼女はどうだったのか、と尋ねてきた。
俺の話を真剣に聞き、大丈夫そうだと俺が言うと安心したのか妻もようやく笑顔を見せた。やっぱり夫婦だなぁと思う。俺と同じようにまるで自分の子供の事のようにかのんさんを心配する妻。長年一緒に居ると似てくるものなのだ。
「また…遊歩道で絵を描く姿が見られるといいわね」
「うん、きっと見られるよ」
100%ではない確率だけど、もしかしたら50%ぐらいの確率なのかもしれないけれど、俺はかのんさんはまたあそこで絵を描くと信じている。彼女の目はまだ諦めてはいなかった。その目を俺は信じたい。


―翌日―
とうとうツアーが始まった。
今回は春に続いてのアルバムを引っさげてのツアー。アルバムの曲をやらないわけにはいかない。
なかなか難しい曲が揃っているし、ほとんど俺一人で歌う曲もある。気の抜けないツアーなのだ。
「桜井、喉の調子は?」坂崎がギターを爪弾きながら尋ねる。
「好調…だと思う」
「だと思うって何だよ〜」
「不調ではないってことだよ」
「頼むよ、今回のツアーはおまえのバラードで決まるようなもんなんだからな」
「分かってるって。今から緊張させるなよ」
「はははっ」
普通に喋ったり笑ったりしながら、手元も見ないでギターを弾いてるこいつは何者なんだろうとよく思う。ベースも弾けるしエレキも弾ける。かと思えばパーカッションも何でもござれだ。
俺なんてこいつにベースを教えてもらったわけだし。こいつがベースでもよかったと思うんだけどな。…あ、でもそうなるとアコギがいない…俺じゃ無理…やっぱりこいつがアコギをやるしかないってことか。

なんて考えながら今日のリストをチェック。しばらくの間はこのリストが基本。だからその間は何とかやっていけるけど、ある時パッと半分くらい変わったりする。おいおい待ってくれよ、と言いたくなるけど待ってくれるようなやつなら変えたりしない。文句を言ってる暇があったら練習。そっちの方が賢明だ。
今回のツアータイトルになっているアルバムからは、かなりの曲数をやることになっている。その中にはさっき坂崎が言っていた"バラード"も含まれる。この曲は若い頃の俺じゃ歌いこなせなかっただろうな、という作品だ。色んな曲を歌ってきたからこそ歌える、そんな曲。バラードだからってしっとり歌えばいいって問題でもない。バラードといってもラブソングなわけじゃなく、これはメッセージソング。客席のみんなの心に響くように歌わなくてはいけない。この曲があるから、今回のツアーは一日一日がいつもより気が抜けない。毎回歌ってもらうから、と高見沢には言われてるし、きっと最終日まで組み込まれたままなんだろう。胃に穴があいたら高見沢のせいだ。

ふと、ある一曲を見てかのんさんの顔が浮かんだ。それはとあるマラソンの大会に提供した曲だった。俺は大会当日に競技場でこの曲を歌った。これから走るランナーたちの為に。そのせいかずっとこの曲はスポーツのイメージがあった。けれど…。
イスを倒しそうな勢いで立ち上がって、部屋の隅に置いたあったカバンからクリアファイルを取り出した。
「…桜井、どうかした?」
「いや、ちょっと…」すごい勢いでファイルをめくり、その曲の歌詞を取り出した。
坂崎も立ち上がり、ギターを持ったまま俺の所へやってきて横から歌詞を覗く。
「…それが…どうかしたの?」
「……」
「…おーい、さーくちゃーん?」
坂崎の呼びかけなんて耳に届かないほど、歌詞に釘付けだった。
マラソン選手の為に歌った曲だからって、スポーツ選手だけに相応しい曲だとは限らない。
この曲は夢に向かっている人すべてへの曲なんだ。今頃気づくなんて、俺って何てやつだろう。

「おっす。…あれ、二人とも何やってんの?」
「あ、高見沢。桜井がおかしいんだよ。突然立ち上がってファイル開いたと思ったら歌詞見て固まってんの」
「歌詞見て?…何だよ桜井、俺が書いた詩に何か文句でもあるわけ?」
高見沢がヌッと俺の目の前に顔を出した。
「…うわぁっっ!びっくりしたっ!」
「何だよ!人をオバケみたいに!!」
「突然おまえの顔が出てきたら誰だって驚くだろーがっ!」
「何―っ!?そのセリフ、そのままおまえに返してやるよっ!」
「何だとっ!?どうせ俺の顔はでかいさ!」
「どうせ俺は白いさ!」
「まぁまぁ…どっちもどっちだって。二人とも落ち着けよ」坂崎がギターをイスの上に避難させてから高見沢と俺の間に割って入ってきた。俺と高見沢に挟まれると余計ちまっとしていて小ささを実感する。
「…まったく、二人とももう少し大人になれよなぁ…」と坂崎が言うので、高見沢と俺は顔を見合わせた。いつから坂崎が大人になったのだろうか。
「自分のことは棚に上げてよく言うよ」高見沢が一言。
「うんうん。一番子供っぽいよな」俺も一言。
「見た目が」二人のハーモニー。
「やかましい!」蹴散らされた。
「幸ちゃん恐い〜…」
「桜井っ気持ち悪いっ!〜〜っそれで!何歌詞見て固まってたんだよ!」
「あ、そうだよ。それが聞きたかったんだよ」
「え、あ、ああ。この曲、マラソンで使っただろ?」
「うん。桜井が競技場で歌ってテレビではちょうどCMに入っちゃったっていう伝説の」
「…その伝説はいい…。そう、だからスポーツ選手に似合う曲だと思ってたんだよ。そしたら歌詞見たらどんな夢に向かってるやつにでも似合う曲じゃないかってさっき気づいて…」
高見沢が眉をひそめた。
「さっき気づいたのかよ」
「……あ…」いかん、まずいことを言ってしまった。
「おまえなぁ…自分のリードボーカルの曲の歌詞くらい把握して歌えよ」
「……はい、すみません…」
「で?何で突然そんなことに気づくんだよ?リスト見てたから?」と坂崎が尋ねる。
「…それもあるけど…」
「あるけど?何?」
「……ええと…」
「…あ!何か隠してんなっ?こらっ言え!」高見沢が容赦なく俺の首を絞めてきた。
「やっやめろっぐっぐる゛じい゛!!」手加減のない高見沢の攻撃。あ、いかん…い、意識が遠のく……。
「高見沢ぁ…それじゃあ桜井喋れないだろーが。離してやんなさい」という坂崎の声も何だか遠くに聞こえるよ…。俺っていっつもこんなばっかり……。


「ふーん…新米の画家さんねぇ…」何故か俺のおごりのコーヒーをさも当たり前のように飲む高見沢。
何で俺がおごってんだろ…。俺がおごられるべきじゃないのか?
「…ちょっと前に何か隠してたのはそれかぁ…」ニヤニヤしながら坂崎が言う。
「……」確かに隠してたけど、こいつはどうしてこう物事と物事を繋げるのが上手いのか…。
「…なんだよ、桜井。おまえ何か隠してたのか?」
「……」こうも忘れっぽいやつもどうかと思うけど…。坂崎も呆れ顔だし。
「…で、そんなにいい絵を描く子なの?」
「そうなんだよ。綺麗な風景画でさ。優しいタッチで…普通の遊歩道がおしゃれな遊歩道になるんだよ」
「へぇ…。ぜひ見てみたいなぁ」絵に興味津々の高見沢。さすが先生、絵にも興味をお持ちでいらっしゃる。
「その子コンサートに呼べばよかったのに」と坂崎。
「呼べないよ。俺、自分のこと名乗ってないもん」
「そういうとこ桜井らしいよなぁ。でもその曲聴かせてやりたくなったんだろ?」
「…うん、まぁ…」
そう、今は辛くて自信をなくしているかのんさんに、もう一度夢を信じてほしくて…。俺の歌じゃ無理かもしれないけど、でも聴いてもらえるなら彼女の為に歌ってあげたい、そう思う。
「その遊歩道に行けば会えるんだろ?自分のこと言ってチケット渡せばいいじゃん。地元のコンサートなら来れるでしょ」
「たぶんしばらくは会えないよ。自信をなくしてる時に題材である遊歩道に来れるわけないし。それにしばらく絵から離れてみたら?って言っちゃったし…」
「…なんでそういうこと言うかなぁ…」やれやれ、と言わんばかりに坂崎がため息をつく。
「それが彼女にとって一番いいかな、と思ったからさ。いいんだよ、きっと彼女は自分で立ち直るから。俺はただのおじさんでいいの」
「…ただのおじさんとして応援するわけだ」
「そうそう。だから今更俺がアルフィーの桜井だ、なんて言うつもりないよ」
「まぁ、確かに今更言うのもな。いいんじゃない?桜井がそれでいいなら。あとは本人次第ってわけだな。その子の絵が一人前の画家として雑誌やテレビで紹介されるといいよな。そしたら俺たちにも教えてくれよ。展示会とか行きたいし」そう言う高見沢の隣で坂崎も頷いている。
「ああ、もちろん教えるよ。…でもその時は一緒には行かないからな」
「…わかってるよ。俺たちで桜井の正体を彼女に教えといてやるよ」
「……」絶対教えない…と俺は心に誓うのだった。


ツアーも順調に進み、途中地元関東へ戻ってきた。
いつものようにリハーサルを終え、いつもと変わらない雰囲気の中でライブ開演。相変わらずノリにノッてくれる客席とステージでクルクルと回る派手な衣装の高見沢。ちょっと服の裾を踏み、よたってしまったり、相変わらずのボケッぷりを披露している。そんな計算もしてないボケに俺たちが敵うわけがない。してやられたな、と坂崎と顔を見合わせた。
そしていつもの坂崎のMC。

幸ちゃ〜ん!という愛がめいっぱいこもったファンからの熱いコールに笑顔を振りまきつつ話を順調に進めていく。そんな中、俺はというとバックのやつらと話したり、袖でスタッフに音が悪いだ何だと文句を言う。水分補給をしてステージに戻っても俺にはライトは当たらないから、ちょっと後ろを向いてサングラスを直したり。

坂崎の話にみんなが夢中になっている時にゆっくりとポジションに戻った。そろそろ曲へ行く…はず。ここでは懐かしい曲をやることになっている。高見沢のお色直しができるまでの時間稼ぎ…というべきか。でもやつはよく、俺と坂崎が二人でやってるのを聴きたいと言いやがる。今回もそうだった。ちらりと反対側の袖を見ると、すでにそこには高見沢がお色直しを終えて立っている。
(準備出来てんならおまえもやれよっ)と視線を送ってみたが、暗いので分かるわけがない。
もう一度サングラスを直し、首をぐるりと回して客席に視線を戻した。

坂崎の一挙一動を見逃すまいと双眼鏡で眺める人たち…中には暗がりにいる俺を見ている変わった人も居る。暗がりの俺を見ても何も楽しくないと思うんだけど。あとは何やらメモッてる人とか、隣と喋ってる人とか。トイレから戻ってきて急いで席に戻る人もいる。
俺は結構目がいいので、だいたいの人は把握できる。面白い格好をしている人も結構居て、これがまた前の方だと可笑しくて。今日は前の方には変わった格好の人はいないみたいだ。ちょっと安心。だって歌ってる時に目線に入ると笑っちゃうから。

と、俺がこっそり客席を見渡している時に、初めてコンサートに来たと思われる人を見つけた。隣の友達に色々と教えてもらっているようだった。たぶん、あの真ん中の人が坂崎で、ヒゲにサングラスの人が桜井、派手な衣装の人が高見沢よ、とか言っているんだろう。その女の子はちょっと落ち着かない様子で友達の話を聞きながらステージを見つめている。コンサートなんていうもの自体が初めてのような、そんな感じがする。
(初めて来たコンサートがアルフィーっていうのもすごいよな。横の友達、君は偉いよ。)なんて密かに思った。

その女の子、よく見たらかのんさんに似ていた。眼鏡はないし、髪もおろしているから見た目は全然違うけれど、あの眼鏡をして髪をしばりすっぴんだったらかのんさん、になりそうな、そんな女の子だ。
何だかとっても親しみがわいた。まるでかのんさんがそこに居るみたいに。
(…あ…、あの曲、今日歌うじゃん…)
そう、あの曲。かのんさんに歌ってあげたいあの曲だ。今日もリストに入っている。
(…かのんさんに聴かせたいっていう俺の気持ちが似ている人を呼んだのかもしれないな。…よし、今日はかのんさんに歌うつもりであの曲を歌おう。そして今度遊歩道で会えたらアルバムをあげよう。俺の好きなバンドのアルバムなんだって…それで、いいじゃないか。)

絵を描くことも歌うことも同じだね。どちらにも夢が詰まってる。
夢を叶えることはなかなか難しいけれど、それでも諦めないで夢を追いかけてほしい。
辛くなったら俺たちの歌を聴いて。
いつでも君のために歌うから。
いつでも俺たちはここに…ステージに居るから。



「おかえりなさい。今日も盛り上がった?」家に帰ると妻が出迎えてくれた。
「ああ、すごい盛り上がりだったよ。…あ、それでさ、客席にかのんさんに似た人が居たんだよ!」
「えっそうなの?まぁ、それはびっくりねぇ!」
「な?びっくりだろ?俺も驚いちゃったよ。ま、たぶんどうしてるのかなぁって気にしてるから、余計に似て見えたんだろうけどさ」
「そうかもしれないわね。だってそろそろあの雨の日から…1ヶ月でしょ?きっと12月には作品を仕上げないといけないわけだから、そろそろ描き始めてないと間に合わないものね。大丈夫かしら、彼女…」
「大丈夫だよ。そのうち"無事描けました〜"って遊歩道に来るさ」
「…そうね、そうよね」
そうだよ、きっと。
ね、かのんさん…。


12月に入り、ライブも残すところあと数箇所となった。日程は10月11月に比べたらずいぶん余裕があるので、また少しずつセナの散歩に行けるようになっていた。
この日も散歩に行こうと玄関でスニーカーを履いていると、
「あら、またそれ持っていくの?」と笑いながら妻が言った。それ、とは俺が持っている紙袋のこと。
「会えるかもしれないだろ?持ってないときに会ったりするもんなんだよ」
「そうかもしれないけど…でも、もう何日も持ち歩いてるじゃない」
「会えるまでは持ってくの。じゃ、行ってきます」
「はいはい、行ってらっしゃい」
かなり呆れた顔の妻を残し、セナの散歩へと出掛ける。
紙袋の中身は言わずと知れたあのアルバムだ。ここ何日か持ち歩き散歩に出掛けているが、まだかのんさんには会っていない。
作品は描けたのか…画家を続けているのか…ものすごく心配だったが、日ごろ顔には出さないようにしている。妻が俺以上に心配してしまうから。妻には"大丈夫だって"なんて軽く言ってはいるが、本当は大丈夫じゃないかもしれない、という気持ちでいっぱいだった。
12月に入っても現れないなんて、まだふっきれていないからなのかもしれない。今作品を仕上げている途中だと思えばいいのに、どうも悪い方向へ考えてしまう。よくない性格だ。

遊歩道に入ってもセナの様子は何ら変わりはない。かのんさんが居るときみたいに突然走り出したり吠えたりすることもない。やっぱり今日もいないんだな、と深くため息をついた。
「なぁ…セナ…?かのんさん、どうしてるのかなぁ…」セナに聞いても答えが返ってくるわけでもない。空を見上げても誰も何も教えてはくれない。
「今日も会えそうにないな」またこの紙袋は無駄になってしまうようだ。いつかはこの紙袋をかのんさんに渡せる日が来るのだろうか。かのんさんに俺からのメッセージを伝えることはできるのだろうか…。
いつもの場所でUターンして来た道を戻る。会うのは犬を連れた近所の人たちばかり。
俺が会いたいのはあんたたちじゃないんだよ。
俺が会いたいのは…。会いたいのは…

「キャンッ!」セナが一声鳴いた。
「おじさーーんっ!!!」
「…えっ!?」も、もしかしてっ!!
セナの尻尾がすごい勢いでパタパタパタパタ。
やはりこの反応はっ!!
「おじさん!!よかった!会えたっ!!」前方から笑顔で走ってくる人…本物のかのんさんだ!
「か、かのんさん!!」
「ごめんなさーいっ!長いこと来られなくて…っ奥さんの上着も借りたままだし早くお返ししなきゃと思っていたんですけど…っ」息を切らしながら笑顔で俺の目の前までやってきた。
「いや、そんな上着なんていつでもよかったんだけどっ…よかった、会えて!」嬉しくて顔が緩んじゃうよ!
「はいっあたしもずっとお礼を言いたくてっ!でもっ応援してくれてるおじさんの為にも先に絵を描かなきゃと思って…っ」
「えっ!と、ということは!」
「はいっ!出品作品は出来上がりまして…っ無事師匠のOKももらいました〜っ!」
「やったーっ!!よかったー!!」
「はい〜っ!おかげさまで無事描き上げました〜!」飛び切りの笑顔でかのんさんがぴょんぴょん跳ねるので、俺もつられてぴょんぴょん飛び上がった。セナが不思議そうに足元で俺を見上げているけど、そんなことは気にしない!
「ね、いつ描き上げたの?」
「えっと、三日前です。10日で描き上げたんですよ!おじさんの言ったとおりです!」
「そうか!よかったよかった!うちの奥さんも心配してたんだよ、本当によかった!」
「何だかおじさんのご家族にまでご心配かけちゃいまして…」
「いやいや、うちのやつもかのんさんの絵が好きなんだって。だから展示会は夫婦で行くよ」
「本当ですか?嬉しいです〜!ぜひぜひ来て下さいね。もう少ししたら招待状もらえるので、お渡ししますね!」
「本当?嬉しいなぁ。ありがとう。楽しみにしてるよ」
「ふふふっ」どこにも曇りのないかのんさんの笑顔。一番待っていたものだ。
もう俺からのプレゼントなんて必要ないくらい、かのんさんは輝きを取り戻している。無駄になった紙袋の中身、でも悲しくはなかった。嬉しい無駄だから。

「また元気なかのんさんに会えて本当に嬉しいよ。…色々とふっ切れたかな?」
「…はい。おじさんのおかげで自分と向き合うことができました」
「そう、よかった」
「あたし、おじさんに言われた通り絵を描くことが辛くなってしまって…。描きたいものが描けないし今まで描けていたものすら描けなくなって。こんなこと初めてだったからどうしていいのか分からなくて…。おじさんの話を聞いて家に戻って一人で考えてみたんです。自分のこと、絵のこと。心から真剣に考えたこと、今までなかったなぁって気づいたんです」
「…うん」
「今まで当たり前のように絵を描いていたので、絵を描くことの素晴らしさもいつの間にか忘れてしまっていたみたいで…。こんなんじゃ一人前の画家なんてとても無理だと思って、もう一度初心に戻ろうと一度絵を描くことをやめてみたんです」
「え、本当にやめてみたの?」ちょっとびっくりした。
「はい。確かに無理に絵を描いても楽しくないですからね。絵を描くことがどれくらいあたしにとって大切なことなのかを知るために、2週間くらい筆もとりませんでした」
「…それで初心に戻れた?」
「その間に今までやったことなかったこととか、色々やってみたんです。その中で大切なことを学びました。おかげでひとまわり成長したような気がします。おじさんのおかげですよ!」
「え、俺?いや、俺なんて別に何も…」
「いいえ!あの時、ここで雨の中泣いていた時に、おじさんが傘を差し出してくれなかったら、あたしは立ち直れなかったです。あたしのこと分かってくれてあたしに自分と向き合うようにってアドバイスしてくれたからこそ、今のあたしがあるんです。だから、きっかけをくれたのはおじさんです。本当に感謝してます」
「そ、…そんな風に言われたら照れるよ。は、恥ずかしいなぁ…」何だかかのんさんを見れなくて頭をかきながら視線をそらせた。相変わらず純粋で真っ直ぐな人だ。
「ふふ、だって本当のことなんですもの」
「…あ、あはは……」
「…あ、それでですね、あたしおじさんに渡したいものがあるんですよ!」
「え、うちのやつの上着…じゃなくて?」
「はい。あ、もちろんそれも洗濯して…はい、これです」
「あ、うん。洗濯してもらっちゃってありがとう」
「いえいえ。それで…これなんですけど、よかったらおじさんも聴いてほしいなと思って」
「え?…聴く?」かのんさんから差し出されたのは、CD屋のビニール袋だった。確か駅前にあるはずだ。

「これは…?」
「絵から離れていた時に、友人に誘われてコンサートに行ったんですよ。あたしコンサートなんて初めてで何もかも新鮮で。それでその時のコンサートがものすごく良かったので、おじさんにもぜひその曲を聴いてもらおうと思いまして。そのCDの8曲目なんです。よかったら奥様と聴いて下さい。きっと気に入っていただけると思います!」
「そうなんだ。じゃあその曲もかのんさんの成長を手助けしてくれたのかな?」
「はい。歌ってすごいですね。あんなにも心に響くなんて、初めて知りました。おじさんの歌もぜひ聴きたいです。今度ライブがある時は教えて下さいね。絶対行きますから!」
「あ、う、うん。来て来て」となるとまずは俺が誰ってことから説明しなきゃいけないな…。うーん、嬉しいけど困ったな。
「それじゃ、今日はこれで帰りますね。今度またここの絵を描きに来ますので、その時はぜひ奥様も紹介して下さい。上着のお礼もしたいので」
「うん、喜ぶよ、うちのやつ。きっとサインサイン!って色紙持って来るよ」
「サ、サインですかぁ?じゃあそれまでに練習しないと」照れくさそうにかのんさんが笑った。
「あはは、サインなんて練習しなくていいんだよ。かのんさんの素直な字でサラッと書けば。かのんさんの絵みたいにね」
「はい、そうですね。じゃあ、あたしの下手な字で素直にサラッと書きますっ」
「うんうん、それでいいんだよ」
「はーい。…それじゃ、また来ますね。おじさんも歌、頑張って下さいね!」
「うん、頑張るよ。かのんさんも頑張って!」
「はい!それじゃあ!」ブンブンと腕を大きく振って俺に手を振り、かのんさんは来た道を元気よく駆けて行く。

「若いってのはいいねぇ…」ついおっさんくさいセリフが俺の口からもれた。でもおっさんなんだから仕方がない。
駆けて行くかのんさんの後ろ姿を見つつ、もらったCD屋のビニール袋を開けてみた。かのんさんの心に響いた曲、誰のどんな曲なのだろうか。
「……ん?…あ、あれ?こ、これ!」俺は我が目を疑った。夢でも見ているのかと思った。
かのんさんからもらったビニール袋から出てきたのは、我がアルフィーのCDだったのだ。
「え?…あれ?なに?」じゃあ、かのんさんが初めて行ったというライブは、俺たちのってことなのか?かのんさんの心に響いたのは、俺たちの曲ってことなのか?
「……じゃ、じゃあ、もしかしてあの日…かのんさんに似てるって思った人は……か、かのんさん本人!?嘘っ!!」
あまりのことに信じられなくてもう一度かのんさんの後ろ姿を見つめた。すると突然かのんさんがくるりとこちらを振り返った。
「…ん?」
遠くからかのんさんが大きな声で俺に言った。
「おじさーんっ!!そのCDの8曲目だからねー!!絶対に聴いて下さいねー!!あ、それとーっ!!その曲を歌ってる人っ!ちょっとおじさんに似てるかもー!!今度サングラスしてみて下さいねーっ!!」
「…っ!」お、おいおい!まずいって!!
なんて俺が慌ててることなんて知らないで、かのんさんはひたすら上機嫌で駅の方向へ消えていった。

残された俺は何て言っていいやら分からずただただもらったCDを見つめるしかなかった。
さて、どうやって自分のことをかのんさんに説明すればいいものか……。
まだまだ俺の悩みはつきないようだ。

かのんさんに渡そうとしていたCDを紙袋から取り出した。
かのんさんからもらったCDと並べてみる。
どこをどう見ても、同じCDだった。
俺がかのんさんに聴いてほしかった曲。
それは…。

そう、8曲目。


Fin

***********あとがき****************

「Beyond The Win」を読んでいただきましてありがとうございます。
予定より長いお話になってしまったのですが、書きたいことは書けたのでいいかな、と思っております。

全編にわたり桜井さん一色なお話だったので、時にヘラヘラしながら書いておりました(笑)
でもラストはみなさんも予想できたんじゃないかなぁと思ってますが、いかがでしょうか。ひねりも何もなくて申し訳ないのですが、この曲はストレートに書きたかったので、思うままに書かせていただきました。

散歩道とかセナちゃんと歩く桜井さんを想像していただければいいなぁと思います(*^^*)

2004.10.15


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