弁護士佃克彦の事件ファイル

「石に泳ぐ魚」出版差止事件

(東京高裁編)

PARTV

二審判決に関する批判的見解

 二審判決に対しては、好意的な論評のみならず、もとより批判的な見解もありました。ことが小説表現の自由に関わる問題であるため、その批判的見解は、法律家からのみならず、作家や文芸評論家からも寄せられました。
 その中には、この事件を“文学に対する裁判所の介入”という記号でくくって判決と私たちをバッサリ切り捨てるような大ざっぱなものもありましたが、「裁判における見かけの対立は原告と被告のより深い対立の意味をうまくとらえていない」という的確な指摘がなされているものもありました。この指摘は加藤典洋氏によるものです(講談社「群像」2001年8月号)。加藤氏のこの論考の全体的な論旨に対して私は異論を持っていますが、上記の指摘については、事態を正確に捉えたものだと認めざるを得ません。私たち弁護士は日頃、依頼者の受けた苦しみを法的手続で救済していくことへの限界を痛いほど感じてきており、この件もその例に漏れないからです。Aさんの苦しみが、裁判上請求した名誉毀損・プライバシー侵害・名誉感情侵害によっては正確には表現し切れていないことは、私たち自身もAさんもよく分かっていることです。しかし、Aさんの苦しみを取り除く手段として選択できる途がかような法的手続しかなかったからその方法を採ったのであり、その選択はやむを得ないものでした。
 法律家でない人びとからの法律論を離れた諸見解に対しては、私は論評をする適格を有しておりませんからこれ以上触れないことにします。
 ここでは、法律家からの法律論としての批判的見解について若干触れることとします。

外貌に関する摘示について

 Aさんの顔に腫瘍があることを小説で触れた点につき、一審判決も二審判決も、そのような記述はAさんのプライバシーを侵害すると判断していますが、この判断に対して、松井茂記教授と田島泰彦教授は批判的意見を寄せています。
 松井教授は、「顔面の腫瘍は外貌に関する事実であり、原告に会った人であればだれでもそれに気付くであろう。はたしてそれをプライヴァシーと言えるであろうか。」(法律時報72巻4号104ページ)といい、また、田島教授も、「秘匿が難しい外貌に関わる事柄をプライバシーとして保護対象に構成しうるかについては、…異論がありうる。」(毎日新聞2001年2月22日・朝刊)と疑問を提示しています。
 つまり、Aさんは普段、みずから顔を出して日常生活を送っているのであるから、ことさらにプライバシーとして保護される筋合いのものではないのではないか、という問題提起です。


 確かに私たちは外貌を他人の目にさらして生活しています。近所で買い物をし、電車に乗って通勤をし、旅行で遠出をしたりするとき、覆面などはしていません。Aさんもしかり。しかし、そのように日ごろ顔をさらして生活しているという問題と、顔の障害をことさらに公刊物に記載して広く第三者に公表することとは、社会的な意味がまったく異なることです。自分の生活領域を超えて、広く多数の人に自分の顔の障害の事実が知られることが、どれだけ脅威となるかということは、論をまたないでしょう。
 松井・田島教授は、日常生活で他人が自分を見るという行為と、外貌に関する事実を不特定多数の第三者に公表するという行為とを、単純に同じものとして捉えているようですが、このような捉え方には賛同できません。
 これは、肖像権に関する議論と平行して考えるとご理解いただけると思います。人は日常生活を営む上で当然にその外貌をさらしていますが、だからといって他人が承諾もなくみだりにその容貌を撮影することが肖像権侵害となることは確定判例であり、世間の常識でしょう。つまり、外貌をさらしているということと、それに対して他人が本人の承諾の範囲を超えて撮影等の行為に及ぶこととは社会的意味合いが異なるということです。
 そして、そのような外貌につき、明らかに他人に知られたくない他の情報(障害による腫瘍)と結合して公表することが一層許されないことは、容易に想像できるのではないでしょうか。


 田島教授は、プライバシー概念につき「秘匿」性を重要な要素と捉えているようであり、顔は「秘匿」されていないではないか、という前提に立っているようです。
 しかし翻って考えると、Aさんの顔に関する情報は、この小説が出るまでは世間一般の人に対しては公表されていないのですから、一般の人に対する関係では、たとえAさんが日常生活で顔を出して生活していたとしてもやはり「秘匿」されているといってもよいのです。
 更にいえば、「秘匿」ということをことさらにプライバシー概念の要素として捉えようとするからややこしいことになるのだとも思います。プライバシー概念は、人が通常公表を欲しない私生活上の事実を公表すること、という捉え方をすれば、田島教授のような解釈は出てこないのではないでしょうか。また、このような捉え方をする見解の方が普通なのではないでしょうか。

父親の逮捕歴について

 小説にはAさんの父親が逮捕されたことが書かれているのですが、一審判決も二審判決も、この記載がAさんのプライバシーを侵害する、と断じました。
 これに対して田島教授は、「公権力の発動という公共的意味合いを考えると、親族の逮捕が、プライバシーの保護対象となる『私生活上の事実』に含まれるかにも疑問が残る。」と批判しています。つまり、逮捕の事実は私生活上の事実に含まれないからプライバシー侵害にあたらない、という論法です。
 しかし、“公権力が発動された事柄は私生活上の事実にあたらない”というのは明らかに論理の飛躍です。公権力が発動されたか否かは“逮捕した側”の問題であり、私生活上の事実か否かは“逮捕された側”の問題なのですから、両者は全く別の問題なのです。
 そもそもプライバシー権が「私生活上の事実」を守るという意味は、日常生活において起きた通常他人に公開しない事柄を公開しないままで守るという意味です。逮捕をされるということは、父親本人にとってもAさんにとっても、自分らの日常生活に降って湧いた事柄であり、かつ、他人に公表する筋合いの事柄ではありません。明らかに私生活上の事実です。 
 田島教授の論法によれば、逮捕歴も前科もおよそプライバシーにあたらないことになってしまいますが、そうするとたとえば、工場で30年間まじめに一生懸命働いて妻子を育てている50歳の男性であっても、20歳の時に酔っぱらって人を殴って逮捕されたという過ちを犯していたならば、それをいつ公表されても仕方がない、ということになってしまいます。そのような事柄の暴露が許されないことは論をまたないのではないでしょうか。


 尤も、公共性を有する事柄の公表にはプライバシー侵害は成立しない、という免責法理はあります。たとえば、過去に汚職で逮捕されたことがある市長選候補者について、その過去の汚職逮捕歴をスクープした場合、「逮捕された」という情報自体は私生活上の事実であっても、それを摘示することに公共性があるからプライバシー侵害の違法性はない、という理屈です。
 この場合の逮捕事実の摘示は、“「私生活上の事実」にあたるけれども公共性を有する事柄だから違法とはいえない”ということなのであって、“「私生活上の事実」にあたらない”ということではないのです。
 田島教授の立論は、プライバシー概念のいう「私事」性と、免責法理としての「公共」性とを混同してしまっているのではないでしょうか。


 またこの逮捕歴は、Aさんの名誉も毀損する、と一審・二審両判決は判断しています。
 この点についても田島教授は、「叙述は真実であるにもかかわらず公共性や公益性がないと断じ、免責を簡単に退けているのは納得できない」と批判しています。田島教授のこの見解は、Aさんの父親が逮捕されたという事実には公共性や公益性があり、名誉毀損は成立しない、という趣旨でしょう。
 しかし、一市井の人たる父親の大昔の逮捕歴が公共の利害に関する事実にあたらないことや、この小説であえて父親の逮捕歴に触れることに公益目的が認められないことは明らかでしょう。前述の汚職逮捕歴のある市長選候補者の場合とは性質も状況も全く違うのです。

舞台は最高裁へ

 二審判決批判に対する私の見解の披露はこのあたりでやめにしようと思います。
 今は先を急ぎ、次回から最高裁における上告審をレポートいたします。

最高裁編PARTTへつづく

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