弁護士佃克彦の事件ファイル

「石に泳ぐ魚」出版差止事件

PARTT

 今回は、柳美里さんが執筆した小説「石に泳ぐ魚」の出版差し止め事件についてレポートしたいと思います。

在日韓国人女性が柳美里氏から突然受けた打撃

 A子さん(仮名)は在日韓国人の女性。A子さんは92年に、当時若手の戯曲作家だった柳美里さんと知り合い、交友を重ねてきました。
 そのような友人関係にあった94年8月、柳美里さんは、A子さんをモデルとして登場させた「石に泳ぐ魚」と題する小説を、ある文芸月刊誌に掲載しました。
 A子さんは当初、その小説が発表されていることを知りませんでしたが、発表から1か月ほど経ったある日、知人から、「柳美里という作家の小説にあなたのことが書かれているよ」と教えられました。
 A子さんが早速その文芸誌を入手すると、「自伝的処女小説」とのフレーズのもとに柳美里さんの小説「石に泳ぐ魚」が掲載されており、その小説には、A子さんの国籍、出身大学、大学での専攻、留学先、家族の経歴や職業などの属性がそのままなぞられた副主人公が登場していました。A子さんには顔に一見して分かる腫瘍があるのですが、その障害の病状から外見までがその小説には描かれていました。つまり、A子さんはその小説の中で、自分の属性をほとんどそのまま引き写したモデルとして扱われていたのです。
 ところが小説の中でその副主人公は、外形やプロフィールなどの客観的属性はA子さんのそれをそのまま引き継ぎながらも、また、ストーリーのプロットでもA子さんと柳美里さんとの交友中に起きたエピソードをなぞりながらも、その言動や人格が随所で変容されていました。その変容は、副主人公が奇怪な振る舞いや軽率な行動に出るなど、A子さんの心にひどく打撃を与えるものでした。更にその小説では、A子さんの顔の腫瘍について、直喩暗喩含めてさまざまに侮辱的に描写していました。
 初めてこの小説を読んだときの衝撃をA子さんは後に、裁判所に提出した陳述書で次のように語っています。
「はじめは、私の経歴がまるで暴露でもされるかのように写し書かれていることに驚愕しました。しかし、読み進むにつれ、副主人公は、私自身の人格から次第に変形してゆき、現実の私にはとうていあり得ない言動をとる、歪んだ人物に描かれていました。外観的特徴は私の姿で描かれているのに、その言動や人格は私が受け容れがたい性質の人間に歪曲されていたのです。」
「小説を読み始めてからというもの、私は部屋の中でひとり転がりもがく程苦しい思いをしました。ともかく何もかもが信じられないという衝撃で、声にならない悲鳴をあげながら、自分の皮を1枚1枚はぎ取るような思いで本のページをめくったのです。」

単行本まで出てしまうのか


 このように苦しんでいるA子さんのもとに、更なる打撃の報が届きました。柳美里さんがこの小説の単行本を出版する手配が進んでいるというのです。
「雑誌に発表されただけでも十分な痛手であるのに、単行本として刊行され、版を重ねられたら、私は一生この小説で歪曲された副主人公のイメージを引きずっていかなければならない。」
 A子さんには単行本の刊行はもはや恐怖ですらありました。
 そこでA子さんは柳美里さんと連絡を取り、時間をかけて何度も話し合いをしました。A子さんは柳美里さんに単行本化の取りやめを強く求めたのですが、柳美里さんは「この小説を読めばあなたも分かってくれると思った。」「処女作なのでどうしても出版したい。」と言い、A子さんの気持ちは全く理解してもらえませんでした。
 八方ふさがりとなったA子さんは、知人を頼って弁護士を紹介してもらい、94年11月、「石に泳ぐ魚」の出版差止を求める仮処分を東京地方裁判所に申し立てました。
 この仮処分手続を担当した弁護士は、梓澤和幸氏と飯田正剛氏であり、私はまだ関与していません。私がA子さんのお手伝いをするようになるのは、仮処分後の本案訴訟(いわゆる“本裁判”)になってからです。
 次回は、仮処分の経過と本案訴訟に至る過程をレポートします。

つづく

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