小羊の歌 〜自分史「断想」〜



はじめに

私は1943(昭和18)年の生まれで、大学に進学して東京に出るまでは新潟県で育った「元新潟県人」である。その後、1973 年、鹿児島大学に職を得たので、 鹿児島に来てそのまま住み着き「鹿児島県人」となった。私の妻久子は1942(昭和17)年の生まれで、育ったのは滋賀県である。二人は京都大学に勤務していた ときに組合活動を通して知り合い、1970 年に結婚した。私たちは一男二女の子どもを授かったが、長女は京都で生まれ、長男、二女は鹿児島で生まれた。私たち 夫婦にとっては、鹿児島は地縁、血縁が全くない土地であったから、私の子や孫たちに、私のこれまでの人生と私のご先祖について伝えておきたい思ったのが、 「自分史」を書くに至った最初の動機であった。


他にもう一つの動機があった。私は大学を定年退職した2009 年の2 月に、「現 象と本質のはざまで-大学教員生活41 年をふり返って」と題する最終講義を行ったが、それを聴いていた私の元大学院修士の学生だったK さんが次の「問い」を 発した。「数学は先生にとって何だったと思いますか?」  このときは、この「問い」には、お茶を濁す程度の回答しかできなかったが、これに答えるには、これまでの私の人生をふり返る必要があった。しかし、大学を定年退職する間際というのは、大学の教育・研究者としての職務を全うすべく全力疾走してきて加速がついた状態にあるので、ゆっくり過去をふり返る余裕などはまったく無かった。それが出来るようになったのは退職後しばらくしてからのことであった。この「自分史」に殊更に「一数学者の」と形容を付けたのは、前述の私の元学生が発した「問い」 に答えようとする意図があったからである。この「自分史」の最後に、元学生のK さんが投げかけた「問い」に対する私の答えが書いてある。


表題を「小羊の歌」とした所以については、「おわりに」で述べた。


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記憶の始まり

 

私の記憶は、新潟市本町通3番町の家の暮らしから始まる。本町通りから上大川通りに抜ける、2番町と3番町の境界の小路を入った、 左側、手前から2番目の家であったと思う。本町通りから入る小路の入り口の右側には、高野薬局という店があった。高橋正平さんという方の家に間借りをしていた。 長屋造りのようなその家は、玄関を入ると真ん中に階段があり、その階段によって左右対称に分かれており、その向かって右半分の一階に住んでいた。小路の手前から奥に向かって六畳二間があり、 一階の左右は奥でつながっていた。炊事場、トイレはその奥の部分にあり、二世帯共同で使っていたと思う。 私は、長い間、高橋正平さんという人は母の母方の叔父にあたる方と 思っていたが、戸籍を見ると、母の母方の祖父の歳の離れた弟であるから、正確には、母の母方の大叔父ということになる。正平さんは、村上塗の職人で、 家で食器等の塗り物を作っていた。


あれは私がいくつの時のクリスマスの朝だったのだろう? 枕元には、みかん一個とスルメの足と紙に包んだ白砂糖が置いてあった。嬉しかったのだと思うが、 人生初めての経験で、どう反応してよいものか戸惑いながら、しばらく、ぽつねんと布団の上に座っていた。あの自分の姿が今でも脳裏にこびりついている。4歳の夏に、 後で述べる「寄居浜迷子事件」を起こすのだが、その頃の私の意識はもっとはっきりしていたと思うので、この記憶の中の最初のクリスマスの朝は、多分、 それ以前のことだったのだと思う。すると、3歳か4歳の誕生日が終わった直後のことではなかろうか? 1946年(昭和21年)か1947年(昭和22年)のことである。 私の記憶は遅くともこの頃から始まっていると思われる。


私の父は、当時、新潟中郵便局に勤めていた。職場は、新潟市中心街の大通り、柾谷小路が東堀通りと交わる交差点の現在と同じ場所にあったと思う。 本町通3番町の自宅からはすぐ近くである。調べてみると、1949年(昭和24年)に、逓信省の、いわゆる郵電分離(郵便と電信電話の仕事を分離すること)が行われている。 それ以前のことであるから、その当時は郵便局ではなく、逓信省の下部組織であったわけで、正確には別の名称であったものと思われる。その当時、 父が具体的にどのような仕事していたのかは知らない。また、この頃の父に関する記憶は皆無といってよい。朝早く仕事に出かけ、夜遅く家に帰って来て、 ほとんど顔を合わせる機会がなかったのだろうか? 一つだけ覚えているのは、あるとき父が母と「首切り」について話をしているのを耳にした。 終戦直後の混乱期のことである。巷では会社の人員整理も多かったであろう。私は恐る恐る、「ほんとに首を切るの?」と尋ねた。父は笑いながら、 「そうだ。本当に首を切るのだよ」と答えた。私は幼心に、大人の世界は怖いところだと思った。この父とのやりとりは後々まで覚えていた。


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新潟の思い出

 

私達一家は、私が5歳になった春に、父方の祖父の家があった長岡市に引っ越し、 父方の祖父母と一緒に住むようになった。 1949年(昭和24年)のことである。したがって、私の新潟に関する思い出は、私が3歳から5歳にかけての高々2年くらいの間のものであるが、今でも懐かしく思い出す。戦争が終わって間もない頃で、当時の新潟の町にはアメリカ軍が駐留しており、街中を、アメリカ兵を乗せたジープが走り回っていた。時折、家すれすれの上空をアメリカの軍用機が 飛ぶこともあった。終戦直後の食糧が乏しい時で、母親たちは近郊の農家に買出しに出かけた。皆、戦後の混乱期を必死に生きていたのだと思う。しかし、 いつの時代にも子供たちは、みずみずしい感受性をもって外の世界を眺めているものだ。


夏、母と一緒に弁当を持って、信濃川が海に注ぐ河口に張り出した突堤までピクニックに行った記憶が鮮明に残っている。2歳上の兄も一緒だった。突堤の先端には灯台が あった。突堤で弁当を食べて、その後、干上がった岩場で、小さな蟹を取って遊んだ。取った蟹は空になった弁当箱に入れた。帰りは疲れて、途中から母に背負われて信濃川の川端を歩いた。 その時、近くの製材工場から流れて来たチェンソーの音とみずみずしい大鋸屑の香りを後々まで覚えていた。あれは私が3歳の夏だったのだと思う。


こんなエピソードもある。これは私の記憶というわけではなく、後々母から聞かされて、何となくその時の自分の意識が蘇ってきたという類の話である。母はある日、私がどこからか拾ってきた榊の木を地面に植えているのを見つけた。 その頃の家々には大抵、 神棚があって、神棚には榊の木が飾ってあったものだ。母は私に、「それは根がないから、植えてもダメなのだよ」と教えた。それを聞いた私は、今度は、捨ててあったネギの根っこを拾ってきて、地面にさしてある榊の木の根元に添えるように置いた というのである。笑い話といえば笑い話であるが、そのユニークな発想が面白くて、私はこのことを後々まで忘れることはなかった。


他にも、近くの白山公園の植込みのお茶の木の実を取ってきて、バケツに水と一緒に入れてゴシゴシこすって石鹸液のような泡を作ったこと、 昭和橋(現在の昭和大橋)を渡って、川向うの下所島 に住んで居た母の妹の家を、昼食用のコッペパンを持って、兄と二人で訪ねたこと、現在の鳥屋野潟の方角ではないかと思うが、母と一緒にザリガニを取りに出かけて大漁だったこと、小雨の中、 足が隠れる程のだぶだぶのレーンコートを着て、長岡から帰って来る父を出迎えに、新潟駅まで行ったものの、結局、父は帰って来ず、駅から家に帰る途中、犬に追いかけられたこと、 「きっと犬はお化けだと思ったのだよ」という母に、「だけど足はちゃんと出ていたよ」と受け答えをした自分等を懐かしく思い出す。川開きの花火の日に、萬代橋の欄干が崩れ、多数の人が亡くなった。 潜水具を付けた人が川に潜り、人を探しているのを萬代橋の袂まで見に行ったことも記憶の中にある。


長岡に引っ越す直前に、母は昭和橋の袂にあった、蒸気汽船の乗り場に連れて行き、乗せてくれた。蒸気船は「ポンポン」と音を立てて走った。 私たちが「ポンポン蒸気」と呼んでいた所以である。萬代橋の袂までの短い距離であったが、船は初めての経験であった。船は川面を渡る風を切って進んだ。


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寄居浜迷子事件

 

新潟市に寄居浜というところがある。“ある”といっても、現在は地図で検索しても出てこない。新潟駅から萬代橋を渡り、柾谷小路をまっすぐ進むと突当りが「寄居町」である。 そこから広い坂道になっていて、その坂道をどんどん登っていくと海岸に行き着く。その辺りが寄居浜である、と私の記憶ではそうなっているのだが、地図で見ると、寄居町から東中通を西に一筋行ったところにある「営所通一」から坂を上り、 寄居中学の横を通る道の方が真っ直ぐ海に通じているようである。今は海岸道路のすぐそばまで海がせまり、波除用のテトラポットが置いてある。現在の姿からは、かってその辺りに広大な砂浜があり、夏になると市民の海水浴場として賑わっていた ことを想像することは難しい。私が高校生の頃に聞いた話では、日本列島は新潟県糸魚川市の親不知と静岡県静岡市の安倍川を結ぶ大地溝帯(フォッサマグナ)を軸として、新潟県の日本海側が沈み込むように捻じれており、その結果、砂浜が 無くなったということであった。他にも、信濃川の途中に大河津分水を作ったため、下流に供給される砂が少なくなったせいであるとか、信濃川の河口に長大な突堤を築いたため、浜に砂が供給されなくなったせいであるとかの説があるようである。


私が4歳の1948年夏だったと思うのだが、土用の丑の日に、その寄居浜へ、みんなで海水浴に行った。“みんなで”と言っても父が一緒だったという記憶はない。確かなのは、母と5歳年上の従兄の个衛(かずえ)さんがいたことである。 个衛さんは私の母の姉の長男で、母の実家があった西蒲原郡味方村吉江(現在、新潟市南区吉江)に住んでいた。後に味方村の村長を4期務めた人である。味方村と新潟市とは、当時、中之口電鉄という電車で結ばれていた (この中之口電鉄は車社会の到来とともに、1999年(平成11年)に廃止された)。个衛さんが一緒だったということから推測して、同じ村の母の実家に住んでいた、母の弟の熊一さんも一緒だったのかも知れない。 个衛さんのお父さんは戦争で亡くなられていた。


事件というのは、寄居浜で海水浴をしている最中に、私がみんなからはぐれてしまったことである。当日は土用の丑の日で、砂浜は大変な人出であった。私はまだ幼かったので、水着はつけておらず、素っ裸で波打ち際で遊んでいた。  今でこそ 3、4歳の幼児も水着をつけるが、当時は着けないのが普通であった。ふと振り返ると、母たちの姿が見当たらない。小さな子供の足で、そう遠くまで移動できるはずはないので、芋を洗うような人ごみの中で、 たまたま母たちの姿を見失ったのだと思う。その時、私が瞬時に考えたのは、そのまま家まで歩いて帰ろうということであった。そして、寄居浜から本町通3番町の家まで、約2キロの道のりを、ほんとうに歩いて帰ったのである。  それも素っ裸のままで。比較的わかりやすい道と言えなくもないが、なにしろ初めての道である。 途中、人通りの多い大通りもあるのだが、誰にも見咎められることもなく家にたどり着いた。 幼心に、お巡りさんに見つかってはまずいと 思ったのであろう、途中にある交番の前を避ける道を選んで通ったということである。


後に残された母たちは、大層心配したに違いない。突然姿を消してしまった私を探して、あちこち歩き回った。最悪、波にさらわれて海の底に沈んでしまったのではと考えたのではなかろうか? 見つからないので、 しかたなく迷子の届け出をして家に帰って来て、吃驚した。そしてホッと胸をなでおろしたことであろう。押し入れの中で布団にくるまって寝ている私を発見したのである。母から後で聞いた話では、5歳年上の従兄の个衛さんに、 寄居浜から本町通3番町の家まで、歩いて帰れるかと尋ねたところ、帰れないと答えたそうである。


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祖父芳郎のこと

 

私達一家は、1949年(昭和24年)の春に父方の祖父芳郎の家があった長岡に引っ越した。父が36歳、母が33歳のときである。 祖父は1883年(明治16年)2月28日の生まれであるから、この当時、66歳であったことになる。祖父は長岡市にあった北越製紙(現・北越紀州製紙)に勤めていたのだが、66歳という 年齢からして、この時はすでに退職していたものと思われる。しかし、時折、自転車に乗って、長岡市の北方の蔵王にあった会社に通う姿を見かけているので、あるいは嘱託として 働いていたのかも知れない。


祖父芳郎は、新潟県中頚城郡佐内村1番地(後に、中頚城郡有田村大字左内230番地→直江津市左内→上越市左内 と、時代とともに地名が変遷) にて、高橋安平、セキの五男として生まれている。「角川日本地名大辞典(旧地名編)」によれば、左内村の古称は、「福田左内古新田」であり、1886年(明治19年)に、「左内」に 改称されたという。「福田左内古新田」の名は、「上越市史通史編4近世二」(上越市史編さん委員会、2004年(平成16年)発行)の5ページにある福嶋城内の地図に見ることができる。  豊臣秀吉は、越後の守護大名、上杉景勝を会津に移封した後、1598年(慶長3年)、越前の国北ノ庄(現福井県福井市)から、直臣堀秀治を越後の国に入封させた。堀秀治が住んだのは、多分、 上杉氏の居城であった春日山城であろう。秀治が亡くなった後、11歳の嫡男忠俊が跡をつぎ、家老の堀直政(越後三条城主)主導のもとで作られた新しい城に移り住んだ。これが福嶋城である。 城は保倉川を挟んで直江津港に近いあたり、現在の古城小学校の場所にあった。その後、越後堀氏は内紛のため、秀吉亡き後、天下を握った徳川家康によって改易させられた。 このとき福嶋城に 入ったのが、家康の六男、信州松代城主松平忠輝であった。 忠輝治世の初め、1610年(慶長15年)から1611年(慶長16年)にかけて、北国街道・三国街道・北陸道の宿駅に伝馬宿に関する法令が 出され、これを機に忠輝は交通の要衝高田に城を築き、1614年(慶長19年)に福嶋城から移転した。1998年に刊行された「新潟県の歴史」(山川出版社)によれば、「福田左内古新田」が作られたのは、 この高田城への移転の後であるという (同書、p.149 の福島古城図を参照)。


現在の左内町の南端には、「上越市立直江津地区館カルチャーセンター」への入口があり、その入り口の右側には「直江津ゲートボールハウス」がある。この辺りが現在の左内町一丁目一番地であるが、 そこには「本誓寺跡」という案内板が建っている。 現在、本誓寺は上越市高田地区 (旧高田市)にあるが、この本誓寺とはいったいどのようなお寺であったのであろうか? 調べてみると、 永禄元年(1558年)、上杉謙信(長尾景虎)が信州笠原にあった浄土真宗本誓寺の僧、超賢を招聘して建て させた寺であるという。これに先立つ天文22年(1553年)、当時、関東管領上杉憲政の家臣であった長尾景虎(上杉謙信)は、 従五位下弾正小弼に叙任されたことへの返礼のため上洛しているが、このとき超賢に、越中、加賀の一向宗門徒を取りまとめて通行を保障して貰ったことへの褒賞であったという。  私の推測であるが、堀を挟んで佐内の北にあった福嶋城が高田に移った際に、本誓寺も一緒に高田に移り、その跡に佐内村が出来たのではなかろうか? 保倉川は1676年(延宝3年)まで、左内から北流 して日本海に注いでいた。 いつの頃からか、祖父の実家はこの「左内」の 地で代々、庄屋を務めた家であったという。このことは、 後々、私が大学に進学して東京に出たとき、当時、東京都教育委員会の指導主事をしていた、父の弟、すなわち私の父方の叔父、芳雄さんから 聞いて初めて知ったことであった。


戸籍謄本によれば、祖父芳郎は、24歳の1907年(明治40年)3月21日に、中頚城郡有田村大字三ツ橋523番地の吉沢喜太郎母サヨと 養子縁組をした後、4月9日に協議離縁をし、同年7月15日に西頸城郡能生町大字能生81番、坪井キソと入夫婚姻の届を出している。このとき、祖父は政次郎から芳郎に名前を変えている。 坪井キソは、同郡同町大字能生の丸山末吉、カメ夫妻の四女で、1885年(明治18年)11月5日生まれである。九歳のときの1895年(明治28年))5月25日に、坪井キヨ(1863年(文久3年) 1月11日生)という人の養女になっている。祖父芳郎は坪井家の養女に婿入りしたわけであるから、坪井の姓を名乗っていても、芳郎、キソの両人とも、坪井家とは血縁関係はないことになる。 もっとも、キソさんの養母の坪井キヨと実の両親の丸山末吉、カメ夫妻が血縁関係にあるという可能性もあるわけだが。祖父芳郎とキソが結婚後、住んだのは新潟市であった。 


私は、母が祖父芳郎の結婚について、「駆け落ち同然の結婚」と言っているのを耳にしたことがあるが、これは上のような戸籍謄本上の 記載から推測してのことであったのかも知れない。祖父芳郎の義母坪井キヨがどのような人であったのかはわからない。しかし、祖父芳郎の最初の妻、坪井キソの実家の丸山家は 能生において脇本陣を務めた家であったという。これは、現在、東京に住んでいる丸山家のご子孫から聞いたことである。能生は直江津と糸魚川のほぼ中間点にあり、 北陸道の宿場町の一つであった。


坪井キソさんは、1909年(明治42年)3月27日に、第一子(父の異母兄、又一さん)を出産した後、3か月後の1909年(明治42年)6月26日、 新潟市西堀道4番町49番地にて亡くなられた。産後の肥立ちが悪かったのであろう。亡くなった住所は、病院の住所だと思われる。そして、祖父芳郎は再婚するのだが、 その相手が私の父方の祖母坪井アイである。


祖母アイは、1881年(明治14年)11月20日に、新潟県中蒲原郡小林村大字鍋潟13番地、児玉三蔵、タツの長女として生まれている。小林村大字鍋潟は、 退職後、新潟を訪れた際に、一度だけ訪ねたことがあるが、母の実家があった西蒲原郡味方村吉江からは遠くないところである。2010年(平成22年)に、祖母アイの父親の児玉三蔵さんの戸籍を 調べたが、1920年(大正9年)に新潟市の白山浦に転籍をしており、転籍をしてから80年以上が経過しているので、小林村大字鍋潟の戸籍は廃棄されたということであった。祖父芳郎が住んで いた学校町と白山浦は隣の町内である。 私の推測では、この児玉三蔵さんという人は、私の祖父芳郎と同じく、若いときに在郷から当時の大都市の新潟市に出てきて、何か仕事をしていた人では なかろうか? 父方の祖母アイは、まったく、土の匂いを感じさせない人であったので、新潟市で育ったのではないかと思う。 


祖父芳郎には、妻アイとの間に5人の子供がいた。秀夫、敬、政男、芳雄、千代の四男一女である。それぞれ、1912年(大正元年)11月、1914年 (大正3年)1月、1917年(大正6年)12月、1920年(大正9年)5月、1923年(大正12年)2月に出生している。 出生地は秀夫、敬が新潟市学校町、政男が朝鮮京城府御成町、芳雄が長岡市袋町、 千代が長岡市東神田町である。長男の秀夫が私の父である。正確には、上に異母兄、又一さんがいるので、戸籍上、父秀夫は祖父芳郎の二男である。


父の長弟敬さんが遺された「係累に関する覚書(一)」(2023年に敬さんの子息の美樹さんから入手)によれば、祖父芳郎は新潟市学校町にいたとき、越後鉄道の測量技師として働いていたという。父から聞いた話では、祖父芳郎は、若いとき、東京に出て東京物理学講習所(東京理科大学の前身)で学んだという。学費がいらない学校であったという。長岡の東神田の家には、測量器具と測量に使う数表があった。この数表は祖父芳郎の形見として今でも私が持っている。


1920年(大正9年)に、四男芳雄が長岡市で生まれているので、祖父芳郎は、1918年、1919年(大正7,8年)のころに長岡にやってきたものと思われる。 私たちが新潟から 引っ越したのは、千代が生まれた東神田の家であった。祖父芳郎は、私たちが長岡に移り住んでからしばらく、当時の北越製紙社長の田村文吉さんの名代として地代の取り立てをしていた。時折、土地の 測量をすることもあったと思う。 田村家は、私たちが住んでいた東神田の辺りにたくさん土地を持つ地主でもあった。


ちなみに、田村文吉さんは戦後最初の長岡市長で、昭和22年の第一回参議院議員選挙に当選し、参議院議員を二期12年務めた方である。 郵政大臣を務めたこともあった。北越製紙は、長岡の神田通りにあった紙問屋田村商店が、明治の末に近代的な会社に変身したものである。会社の出発点は、近郊の農村から大量に出る藁を 原料として、ワラ紙やボール紙を作ることであったという。


私が小学校の6年生になった、1955年(昭和30年)の5月に、しばらく病で床に臥せていた祖母が亡くなった。その2か月後、祖父芳郎も後を追うように して亡くなった。享年72歳であった。 祖父は亡くなる直前に、思うところがあったのであろう、私と私の兄を長岡の中心街、「大手通り」にあった「更科」という蕎麦屋に連れて行き、ザル蕎麦をご馳走してくれた。私はザル蕎麦の食べ方が わからず、上からツユを少しかけてみた。すると、自然の理に従い、ツユはテーブルの上に流れた。


祖父との直接的な触れ合いは、これが最初にして最後であった。それまで、同じ一つの家に住みながら、いわゆる祖父と孫との関係は全くなかったのである。あの夏の日の夕方、浴衣がけでカンカン帽をかぶり、ステッキを 持って、悠然と歩いて行く祖父の後を、距離を置きながら恐る恐るついて行った 私達兄弟の姿を懐かしく思い出す。


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長岡の家

 

1949年(昭和24年)の新緑の陽光の中、父に手を引かれて木々に囲まれた長岡の家を初めて訪れた日のことを、 おぼろげながら記憶している。その家は新潟で住んでいた家に比べると、はるかに大きな「お屋敷」であった。土地の登記簿を見ると、401.3u(121.6坪)の土地であるから、それほど 大きいというわけではないが、屋敷の中には、柿、栗、梅、桃、スモモ、イチジク、クルミ等、多くの実のなる木々があり、生け垣と黒塀に囲まれていた。生け垣は桑の木で、 季節になると桑の実が沢山ついた。背後には樹齢何百年と思われる欅の大木が2本あり、家はこの欅の大木に抱かれるように建っていた。それがこの家に風格を与えていた。


家の裏手、黒塀の向こうは燐家の畑であり、その向こうは新潟大学教育学部長岡分校のグランドであった。戦前は長岡女子師範学校と いう学校であったが、戦後の学制改革で新潟大学教育学部長岡分校に変わったのである。祖母は、しばらくは、この学校を「女子師範」と呼んでいた。木々で囲まれた家の横の 細道を抜けてグランドを覗きに行くと、休み時間などには、沢山の大学生の男女が様々に興じている姿を見ることができた。


後で知ったことであるが、この新潟大学教育学部長岡分校の敷地には、藩政時代の長岡藩筆頭家老、稲垣家の下屋敷が あったという。1920年代の中頃から1930年代の中頃にかけて、世界的に有名になった、「武士の娘」(A Daughter of the Samurai, 大岩美代訳、ちくま文庫)の著者、 杉本鉞子はこの稲垣家の娘である。長岡は江戸時代、徳川家の譜代大名、牧野家の城下町であった。石高7万2千石の小大名である。長岡藩は戊辰戦争のとき、西軍と戦い 城下は戦火に包まれた。この戦争で長岡藩を陣頭指揮したのが、司馬遼太郎の小説、「峠」の主人公、河井継之助である。長岡は、また太平洋戦争のときに空襲に会い、 街の大半が焼き尽くされている。したがって、現在、長岡には昔の城下町を感じさせるものは何も残っていない。 ついでながら、太平洋戦争時の連合艦隊司令長官山本五十六(いそろく) は長岡の出身である。


新潟大学教育学部長岡分校の校舎は、その後、新潟大学教育学部長岡分校付属幼稚園、小、中学校と東北中学という新しくできた 公立中学校に分割して使用されていた時代があった。今はこれらの学校は他所に移転し、跡地は住宅街に変わっている。


長岡の家は2階建てで、半分がトタン屋根、半分がセメント瓦であった。 セメント瓦の部分は後で増築したのであろうが、上階と 下階にそれぞれ8畳の部屋があった。トタン屋根の部分は、下階が8畳の客間、7畳半の茶の間、9畳ほどの台所からなっていた。9畳ほどの台所は6畳ほどの板の間と 3畳ほどの土間(セメント敷)からなり、板の間の部分にカマド二つとガスコンロ二つがあり、土間の部分にはポンプ式井戸と木製の置風呂があった。トタン屋根の 部分の上階は8畳、4畳半、3畳の部屋からなっていた。私たち家族は、1955年(昭和30年)に祖父母が亡くなるまでの6年間、このトタン屋根の部分の上階の8畳、4畳半、 3畳のスペースに住むことになった。3畳の部屋は物置として使っていたので、実際は、上階の8畳、4畳半のスペースに、父母、兄と私の四人が住んでいた。 炊事は階下で 生活する祖父母夫婦とは別で、まったく独立した生活であった。


とはいえ、今の生活からすると信じられないことなのだが、この2階の私たちの生活スペースにはガスや水道の設備がなかった。  母はどのようにして炊事をしていたかというと、廊下の隅に流し台、飲料用、炊事用の水の入ったカメ、汚水をためるカメをおき、そこで調理をし、食器類を洗っていたのである。 煮炊きは七輪で炭をおこして行った。ときどき階下の台所のカマドを借りて米を炊くことはあったが、それもいつの間にか止めてしまった。風呂も階下の風呂を使用することはなく、 歩いて15分ほどのところにあった銭湯に行った。


こんな風であったので、大きな「お屋敷」に住んだとはいえ、生活は新潟における長屋造りのような家での生活と同じであった。むしろ、 家事における母の労働は重くなったと云える。毎日、汚水を階下まで捨てに行くとともに、飲料用、炊事用の水を階上まで運び上げたのである。よくもこんな生活を6年間も続けた ものだと思うのだが、今になって考えてみると、1950年代の後半から1960年代にかけて、高度経済成長によって日本の社会が大きく変わる以前には、このような「原始的」とも いえる生活が日本のあちこちに広く残っていたのではないかと思うのである。


私の兄が生まれたのは1942年(昭和17年)1月であるが、その頃、父母は長岡の家で祖父母と一緒に住んでいたという。しかし、父母は しばらくして家を出た。 姑、小舅との間でいろいろ問題があったということを母から幾度となく聞かされた。 母の結婚当初、長岡の家には結婚前の父の弟と妹が、 一緒に住んでいたのではないかと思う。 私の父母が、祖父母が老年になって再び父の実家に帰ったときに、上述のような生活形態を選んだのは、このような過去の事情があったからだと思う。


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吉江のこと、母のこと

 

母の実家のあった新潟県西蒲原郡味方村大字吉江は、中之口川の自然堤防の上に開けた村である。中之口川は天井川であった。 日本で一番長い川、信濃川は、信州に源を発し、長岡の隣の三条の辺りで、信濃川本流、中之口川、西川に分岐し、蒲原平野をゆったりと流れ下る。 吉江はその中之口川と西川に挟まれた領域にあった。  集落の西側には、見渡す限りの田園が広がり、遠くに弥彦山、角田山を望むことができた。 私の幼少の頃は、夏休みには兄と一緒に訪れ、長期に滞在したものである。現在の風景は昔とは、 すっかり変わってしまったが、掘割が張り巡らされ、秋の稲の刈り入れ時には、刈り取った稲を船で運んでいたので、 水郷といってよい趣があった。また、稲を干すためのハザキを横に渡すために、背の高いトネリコの木が 農道沿いに沢山植えてあった。掘割とトネリコの木のある吉江の風景は私の心の故郷といってよい。


吉江には戦国時代、魚津城の悲劇で有名な、上杉氏の家臣、吉江氏の居城があったという。平城であったと思われる。場所は特定されていないが、 現在、高念寺というお寺がある辺りではなかったかといわれている。 この高念寺に隣接して母の実家があった。1000坪ほどの広大な土地に屋敷を構えていた。 吉江城は、豊臣秀吉により、 当時の越後の国の守護大名、上杉景勝が会津に移封になった際に廃城になったという。


母の実家の高橋家が、いつ頃から吉江に住み着いたのかは知る由もない。 かねて、当時、吉江の高橋家の当主であった、熊一さんに 聞いてみたことがあったが、お寺の過去帳が火事で焼けてしまったので、わからないということであった。「味方村誌(通史編)」(味方村誌編纂委員会編集、2000年(平成12年)発行)に よると、文献史学の上では、吉江に人が住み着いていたことの証しは、平安時代末期から鎌倉時代初期まで遡れるという。初めは青海荘(現在の加茂市付近)の支配下に属し、その後、弥彦荘の配下に入ったという。 中之口川をはさんで、味方村の向かいの白根市生瀬地区の馬場屋敷下層遺跡から、正応6年(1293年)の年号が入った、青海荘の荘園領主が吉江の村に年貢の萱の収穫を命じた許可証らしき、 木簡に書かれた墨書が出土しているという(前掲書p.88)。母の実家高橋家は、いつの頃からか、この吉江の地で、代々農業を営んできたのである。 


私の母は1915年(大正4年)11月28日に、高橋熊助、イユの次女として生まれた。女四人、男一人の兄弟姉妹の上から二番目で あった。 女四人、男一人の兄弟姉妹の名前は、上から、フジ、キイ(母)、ミイ、熊一、ヨキイである。それぞれ、1912年(明治45年)1月、1915年(大正4年)11月、1919年(大正8年)4月、 1924年(大正13年)3月、1927年(昭和2年)5月に出生している。母の父、すなわち私の母方の祖父、高橋熊助は、隣村の黒崎村から私の母方の祖母、高橋イユのところに婿入りしている。  祖母高橋イユを筆頭者とする戸籍謄本によれば、入籍したのは、1911年(明治44年)8月20日である。祖父高橋熊助は江部太惣次の三男として、1886年(明治19年)1月10日に出生している。また、祖母高橋イユは、 高橋妻之十、ミツの長女として、1889年(明治22年)11月7日に出生している。


同じく祖母高橋イユの戸籍謄本によると、イユの祖父母高橋澤五郎、エノの七男正平は1926年(大正15年)2月に新潟市本町通三番町205番地に分家している。 私がもの心ついたときに、間借りをして住んでいたのは、この正平さんの家である。 高橋正平さんは、1884年(明治17年)12月20日生まれであるから、新潟市本町通三番町に分家したのは 41歳のときである。 妻の久恵さんとは1911年(明治44年)に結婚しているので、正平さんが26歳のときである。妻久恵さんは山形県西田川郡温海村大字湯温海の出身である。 温海は新潟県との県境に近い温泉町である。正平さんが村上塗の職人であったことと関係があるのであろうか? 新潟県の村上と山形県の温海は、山を挟んで隣町といっていい位置関係にある。  正平さんが新潟市本町通に分家した1926年(大正15年)は、私の母が尋常小学校を終了する 1年前のことである。


私の母は結婚前、新潟で日赤病院の看護婦として働いていたのであるが、味方村の尋常小学校を卒業した後は、上級学校に進学することはなかったという。 「味方村誌(通史編)」によれば、小学校令が改正され、6年制の味方尋常小学校が、2年の高等小学校を並置した味方尋常高等小学校になるのは、1935年(昭和10年)であるから、 母が21歳の時である。したがって、母が子供の時は、高等小学校は並置されておらず、6年制の尋常小学校だけであった。尋常小学校卒の母に、看護婦になる道は開けていたので あろうか? その頃の看護婦の養成制度がどのようなものであったのか、知る必要があるのだが、当時の義務教育が尋常小学校の6年だけであったことからして、当然、尋常小学校卒の女の子 が看護婦になる道はあったのではなかろうか?


ここから先は私の推測であるが、当時の農家にとっては、子供も貴重な労働力であったはずで 母が新潟市に出たのは、尋常小学校を卒業してすぐ ということは考え難いので、母は尋常小学校を卒業後何年か、家業の農業の手伝いをした後、上述の高橋正平さんを頼って新潟に出たのではなかろうか? 農家の仕事が辛く、町の生活に 憧れがあったという母の言を聞いたことがある。 そして、新潟の日赤病院で見習い看護婦(看護助手)として働きながら看護婦の資格をとるための学校(コース)に通ったのではなかろうか?  あるいは自学自習だったのかも知れない。 母の実家の経済状況を考えると、仕送りをして看護婦の資格をとるための学校に、わざわざやったとは考え難いのである。 我が家には、母が 昔使った分厚い看護学の本があったのは事実である。しかし、母は看護婦の資格試験に合格することはなかったという。 視力が弱かったからというのが母の言である。 母は高崎の個人病院で 働いていたこともあったという。


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坪井又一さんのこと

 

私の父には、学年でいうと四つ上の異母兄がいた。坪井又一さんという。私の祖父芳郎の最初の妻、坪井キソさんとの間の子で、 1909年(明治42年)3月27日に誕生している。又一さんの母キソさんは、産後の肥立ちが悪く、又一さんを出産して間もなく亡くなられた。その後、又一さんは能生(現・糸魚川市)の キソさんの生家に引き取られて育てられた。長じて、又一さんは学業に優れ、将来を嘱望されていたが、胃腸が弱かったので(胃アトニー)、それを克服するために大阪の断食道場で 断食療法を行い、それがもとで若くして亡くなられた(祖父の戸籍謄本によれば享年30歳)。これらのことは父から聞いて知っていた。


祖父芳郎が亡くなったとき、祖父の遺品の中に又一さんの形見の背広があった。それを見た私の母が、「(又一さんは)小さな人だったのだね」と 言ったのを覚えている。確かにしっかりした仕立ての、こじんまりした背広だった記憶がある。また、長岡の家には又一さんの追悼集が残されていた。追悼集には又一さんの写真も載っていたが、 又一さんは坊主頭で眼鏡はかけていなかったと思う。宮津高等女学校と第二岡山高等女学校の代表の弔辞が掲載されていたので、又一さんはこれらの学校で教えておられたのだということを知った。 国語の先生であること、追悼集に掲載されていた又一さんの短歌から、歌を作っておられたということもわかった。又一さんの奥様には、祖父芳郎が亡くなった直後、仏前にお参りに来られた際に、 長岡の家でお会いしている。 1955年(昭和30年)、私が6年生のときである。


又一さんはその後ずっと、私にとって気になる存在であった。私が大学に進学して東京に出たときも、京大数理研の助手となって京都に 移ったときも、京都から鹿児島に転出したときも、又一さんの追悼集は私の手元にあった。しかし、私が鹿児島に移ってしばらくした頃、東京の芳雄叔父さんに又一さんの追悼集の話をすると、 見たいというので送ったところ、程なくして芳雄叔父さんが亡くなってしまわれたので、又一さんの追悼集はそのまま行方がわからなくなった。 


私は定年退職後の2011年の春、祖父芳郎の実家があった直江津(現・上越市)と本籍地である能生を訪ねる旅をした。能生は日本海に面した街道に沿って 開けた町であり、背後には海岸段丘が迫っている。段丘上にはお寺が沢山あったが、そのうちの一つの金剛院に至る坂道を歩いていたとき、偶然にも、そのお寺の境内の段丘の斜面に、「坪井又一之墓」 と書いたお墓があることに気付いた。お墓は海に向かって建っていて、 下から良く見える場所にあった。 私はお寺を訪ね、住職からそのお墓について話を聞いた。そして、驚いたことに、毎年、 そのお墓にお参りをされている人がいること、又一さんの奥様は健在で、山形の親戚の家に身を寄せておられることなどを教えて頂いた。


旅から帰って、早速、金剛院の住職に教えて頂いた人たちに手紙を書いた。 祖父芳郎が入夫した能生の坪井家についてもっと知りたいと思ったことと、 ひょっとしたら行方不明になった、又一さんの追悼集を持っておられる方がいるかも知れないと思ったからである。


又一さんの追悼集は出てこなかったが、毎年、又一さんのお墓にお参りをされていた人は、又一さんを引き取って育てられた、又一さんの母キソさんの 実の姉、つまり又一さんの母方の叔母のお孫さんにあたる、東京在住のご姉妹で、ご姉妹の母親が又一さんと一緒に実の姉弟のように育てられたということがわかった。 ご姉妹は母親のお墓に お参りをするとともに、又一さんのお墓にもお参りをされていたのである。ご姉妹のお姉さんからは返事の手紙を頂き、幼い頃、又一さんに遊んで貰ったこと、又一さんが宮津高女に在職中、丹後の間人 (たいざ)海岸で一緒に海水浴をしたこと、又一さんが亡くなったときのご自身の母親たちの様子、1988年(昭和63年)に又一さんの50回忌の法要が金剛院であり、このご姉妹と宮津高等女学校の 教え子二人、それに又一さんの奥さんのキヨさんとそのご姉妹が出席されたことなどを教えて頂いた。


私は、又一さんのことを何らかの形で書き残しておきたいと思い、試みにネット上で検索してみた。 すると驚いたことに、又一さんの歌集が マイクロフィルムの形で国会図書館に保存されていることがわかった。早速コピーを取り寄せたが、「歌集」は又一さんが亡くなられた翌々年の1941年(昭和16年)に、「坪井又一歌集」 (非売品)として、妻のキヨさんによって刊行されており、その一冊が国会図書館に寄贈されたものと思われる。「歌集」には、1934年(昭和9年)から1939年(昭和14年)までの又一さん の短歌147首と詩6篇、又一さんの年譜が収められている。


この「年譜」によると、又一さんは1928年(昭和3年)に新潟県高田師範学校を卒業後、高田市(現・上越市)の小学校の教師を務めた後、1930年(昭和5年) に東京高等師範学校(現・筑波大学)に入学された。 途中、休学の期間があり、1935年(昭和10年)に東京高等師範学校を卒業され、すぐに京都府宮津高等女学校の教諭として赴任された。 1936年(昭和11年)、27歳のときに歌集「山谷集」を読み、作歌を志すようになり、土屋文明氏に私淑された。1938年(昭和13年)にアララギ甲会員となり、7月に初めて雑誌「アララギ」に短歌を 発表、同じ年の8月、原キヨさんと結婚し、同月、岡山県女子師範学校教諭兼岡山県第二岡山高等女学校教諭として転出された。調べてみると、岡山県第二岡山高等女学校は岡山県女子師範学校に 併設された学校であったという。又一さんが亡くなられたのは、1939年(昭和14年)10月19日、午前5時30分、大阪警察病院があった大阪市天王寺区小宮町8番地においてである。妻キヨさんとの 結婚生活は一年と二ヶ月程であったことになる。


「歌集」の中に、又一さんの父、すなわち私の父方の祖父芳郎に関するものはないか探してみると、次の一首を見つけた。


気短き便をよこす父のもとに すこやかにして帰り行くならず


「歌集」には「母を想う」と題された短歌が4首、詩が1篇あった。ここで「母」というのは、生後間もない又一さんを引き取って育てられた叔母のことである。この叔母は、又一さんが 25歳のときの1934年(昭和9年)に急逝されており、これらの詩歌は、在りし日の「母」を想う歌である。その中から二首。


母在りし日の記憶さへ すでにはるけくて 石蕾(あをさ)の汁の味も忘れぬ

きはまれる貧しさ故に逝きし母か 病める日憶ふ 海のほとりに


<追記>私の従弟の美樹さん(父秀夫の長弟・敬さんの子息)に、2023年に送って貰った、「係累に関する覚書(一)」附属の「資料3」(昭和42(1967)年4月29日、亡父母の13回忌の際に集録したもの)に、又一さんは、「校長を擲って(宮津高等女学校より)岡山女子師範に転職」とある。


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1961年夏

 

剛速球投手、尾崎を擁する浪速商業が甲子園で優勝した1961年の夏は、私にとって忘れ得ぬ夏である。この年、私は高校三年生で、 受験勉強の真最中であった。志望校を、東大理科一類に定めて、日夜、勉学に励んでいた。しかし、当時の私は、人生の目標をはっきりと定めていたわけではなく、東大理科一類を第一志望 とした理由は、はなはだ他律的な、心もとないものであった。 私は、いわゆる世間でいうところの「優等生」で、周囲からそのように期待され、私自身も、その期待に答えられるよう、 がんばっていたと思う。


高校に入って2、3年生になると、定期試験とは別に「実力試験」というものがあった。2年生のときは、通常の成績が特に優秀な者のみ20名ほどが3年生と一緒 に受験させられた記憶がある。実力試験は、英数国の三教科のみで、3年生の後半になって、理科、社会が加わった。「実力試験」では、英数国三教科の総合成績と科目毎の成績優秀者の名前が張り 出された。成績優秀者として名前が張り出されるためには、教科書による勉強だけでは不十分で、それ以上のものが求められた。


当時の地方都市には塾や予備校はなかった。中学卒業生の大半が「金の卵」として、東京などの大都会に集団就職していた時代のことある。 大学への進学率は約一割だったと思う。先輩や友人の中には、家庭教師について、英語や数学など、個人レッスンを受けている者もいたが、私の家には、経済的な余裕はなく、そのようなことは 不可能だった。私は、与えられた条件のもとで、自分に出来ることをやるしかなかった。 


私が教科書の勉強以外にやったことといえば、「蛍雪時代」、「大学への数学」、「受験の英語」といった受験雑誌を購読すること、これらの雑誌によって 知った、評判の良い受験参考書を徹底的にマスターすること、「オリオン社」の通信添削を受講することであった。受験に関する情報や体験談は、雑誌「蛍雪時代」から得ることが多かった。


当時のほとんどの国立大学の理系学部がそうであったように、東大理科一類の入試科目は、英、数、国、理科二科目、社会二科目の五教科七科目であった。 私は、理科は物理と化学、社会は世界史と日本史で受験することにしていた。科目ごとの点数配分からして、東大はオールラウンドな者が有利であると言われていた。一科目でも不得手なものがあると 他の科目で挽回することは難しかった。当時、東大理科一類は、総合点で六割の得点で合格と言われていたと記憶している。合格最低ラインが六割というのは、低いように思われるかも知れないが、 それだけ東大の入学試験は、内容的に難しかったということである。


さて、1961年の夏、私は、夏休みを利用して、東大Z会の模擬試験を受けに上京することを思い立ったのである。当然、それは、私一人だけで上京することを 意味した。親について来てもらうことなど考えるべくもなかった。調べてみると、当時、長岡から東京までの片道運賃が、鈍行で740円、東大本郷キャンパス周辺の宿泊料金が一泊1000円〜1500円である。 私は、この計画を母に告げ、了解を得た。しかし、母は了解したとはいうものの、私の単身での上京に半信半疑だったのではないかと思う。私のそれまでの東京体験といえば一度しかなかった。 それは、私の父が、東京国立にあった、郵政省の「中央講習所」に、一年間の講習に行って帰って来た年の五月のことだったので、私が小学校六年で、兄が中学二年のときだったと思うが、 五月五日の子供の日に、東京の上野動物園が無料開放されるというので、母が私と兄を東京へ連れて行ってくれたのである。夜行の鈍行列車で行って、上野動物園を見物した後、また夜行の鈍行列車で 帰ってくるという強行軍であった。私が、夏休みを利用して、東大Z会の模擬試験の受験を思い立ったのは、この体験があってのことだったと思う。


東大Z会の模擬試験は、8月20日(日)であったと特定できる。何故かというと、私は、模擬試験の終了後、上野の演芸場で寄席を見物した後、御徒町駅から山手線 に乗り、帰りの夜行列車の始発駅である上野駅に向かったのだが、その御徒町駅のホームで、尾崎を擁する浪速商業が甲子園で優勝したことを報ずる電光ニュースを見たからである。その日が8月20日 (日)であったことは、図書館で昔の新聞を調べてみればわかることである。


模擬試験の日程からすると、8月18日(金)の夜行列車で長岡を発ち、8月19日(土)の早朝に上野に着いたものと思われる。 国会図書館で、昔の日本交通公社の 時刻表を調べてみると、昭和36年7月号に、23時長岡発、6時36分上野着の列車の記載があるので、この列車であったものと思われる。


私は上野に着くと、早速、地図を頼りに本郷の東京大学まで歩いてみた。早朝なので、東大正門の鉄扉は閉まっていた。私は、鉄扉越しに、おそるおそる、 そっと中を覗き込んだ。そして、一瞬、息をのんだ。 鉄の扉の向こうには銀杏並木が真っすぐに延び、その向こうに、時計台(安田講堂)が屹立しているのが見えた。 その姿は、“威容”ともいえるもので、 地方から出てきたばかりの私を圧倒するに十分な“威厳”を備えていた。


東京大学の歴史を調べてみると、まず、明治の初期に生まれた東京開成学校と東京医学校が1877年(明治10年)に合体して東京大学となり、他方、工部省の 工学寮から工部大学校が同じ年の1877年に発足し、その両者が併合されて、1886年(明治19年)に「帝国大学」になったのが、東京大学の始まりであるという。その時、公布された帝国大学令の第一条 には、「国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攷究スルコトヲ以テ目的トス」とある。東京大学は、「近代」国家としての日本を作り上げていくうえで必要な高級官僚や高級技術者の養成機関 として機能した。また、当時の東大の教授たちも自身の学問研究よりも国家のための仕事を優先したという。「大日本帝国」の統治形態を規定した明治憲法は、統治権は神聖にして不可侵な天皇にあり、国民は天皇の臣民であると定め、 国民は天皇を「現人神」として崇めることを強いた。「帝国大学」は、この「絶対主義的天皇制」を支える国家機関の一つとして、十分、威厳あるものでなければならなかったであろう。 私が見たものは、この「大日本帝国」の残像だったに違いない。戦前の東京帝国大学の卒業式は、天皇を迎えて、この時計台(安田講堂)で行われていたのである。私はあのとき、 私が目指している東京大学と自分との間にある、越えなければならない“壁”の大きさを感じていたのだと思う。


8月19日(土)、早朝、東大正門の鉄扉越しに、時計台(安田講堂)を見た後、どのように時を過ごしたのか、はっきりした記憶はない。おそらく、 昔、母と兄と一緒に訪れた上野動物園を訪ねたのではないかと思う。 その夜、東大農学部正門近くの「追分旅館」という小さな旅館に泊まったことは、はっきりと記憶している。


8月20日(日)の夜、長岡の手前で集中豪雨があり、上越線が不通になった。そのせいで、長岡に帰るべく私が乗り込んだ夜行列車は、東北本線で福島に向かい、 福島から磐越西線で新津へ、新津から信越線で長岡に帰ることになった。このことも忘れ得ぬ記憶である。


後で送られてきた、模擬試験の成績は、合格ラインに、はるかに及ばない散々なものであった。しかし、「冒険」ともいえる、この夏の経験は、翌春の本番の 入学試験に、十分、役にたったと思う。いまになって想うと、懐かしい青春の一コマである。


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駒場での生活

 

元東大全共闘議長(代表)、山本義隆氏の「私の1960年代」(株式会社「金曜日」、2015年刊)という本が出た。山本義隆氏は、学年でいうと 私より二つ上であるが、私とほぼ同じ時代を生きた人と言って良いと思う。ただし、山本氏は、「60年安保闘争」を大学生として経験しているので、この点は私との大きな違いかもしれない。山本氏の本 は、私が忘れかけていた、大学生時代に遭遇したいくつかの政治的、社会的事件を思い出させてくれた。実を言うと、私は、大学に入学した直後に、山本氏に直接、お会いしているのである。


1962年(昭和37年)春、私は無事、東大理科一類(理学部物理学科、数学科、化学科、および工学部がおおよその進学先)に合格することができ、教養課程の 2年間を過ごすべく、東大教養学部があった東京目黒の駒場キャンパスでの生活を始めた。生活の場は、その当時、キャンパス内にあった駒場寮であった。私の中学、高校時代の友人の中には、寮での バンカラな(と思われていた)集団生活には、およそ似つかわしくないと思っていた私が、寮生活を始めたのでびっくりする者もいたが、私は、自分の家が経済的に余裕はないことは十分わかっていた ので、寮での生活にためらいはなかった。経済的に、寮生活はかなり安上がりだったのである。寮には自治会があり、入居者は、寮委員会が入居希望者のなかから、経済的条件や出身地を考慮して 決めていた。


駒場寮の部屋割はサークル毎で、駒場寮に入るには、まず、サークルに入る必要があった。私が入ったサークルは、「ワンダー・フォーゲル」、 いわゆる「ワンゲル」であった。「ワンダー・フォーゲル」とは、ドイツ語で「渡り鳥」の意味で、バック・パックを背負って、あちこち、さまよい歩くイメージであるが、山に登ることが多く、 「登山部」ほど、ハードではない「登山同好会」の趣であった。私は、高校時代こそ受験勉強一辺倒で、山に登ることはなかったが、中学時代には友人同士で、近隣の山々によく出かけていたし、 「妙高山」、「守門岳」など新潟県内の千五百メートル〜二千メートル級の山々にも挑戦していた(いずれも事情があって、途中で下山)。親しい仲間同士で山や海でのキャンプもよくやった。 このように、私は趣味に関しては、どちらかというと、アウト・ドア派だったので、私が「ワンゲル」を選んだのは、自然なことであった。 


ワンゲルは4部屋で、一部屋約6人、1,2年生あわせて総勢24名程であったと思う。新一年生と二年生との初対面のときにわかったのだが、ワンゲルの2年生に、 長岡高校の先輩の山岸昭夫さんがおられた。これはまったくの偶然で、予期せぬことであった。山岸さんは、前年度に長岡高校から現役でただ一人、東大(文科一類)に合格した人であった。高校の 受験指導の先生の求めに応じられたのだと思うが、山岸さんは、東大を受験する私たち後輩のために東大の最新情報を手紙で書き送ってくれていた。その中に、私たちが入学予定の1962年(昭和37年) 度から、ロシア語を第二外国語とするクラスが出来るということが書かれていた。私は、この情報に基づいて、第二外国語をロシア語にすることに決めていた。この年、はじめてロシア語が第二外国語と なった背景には次のような事情があった。


当時は東西冷戦の真最中であったが、1957年(昭和32年)10月、ソ連(当時)は西側諸国に先駆けて、人類史上初めて、人工衛星、スプートニク一号の打ち上げに成功した。これは西側の大国 アメリカに大きな衝撃を与えた。いわゆる「スプートニク・ショック」である。このこともあって、当時、日本でもソ連の科学・技術が注目され、ロシア語の理系の専門書、教科書が次々に翻訳、 出版されていたのである。山本氏は前述の本の中で、「その当時(山本氏が教養学部に在籍した1960〜1961年)、東大の教養学部では正規のロシア語の授業はなかったのですが、物理学者の玉木英彦教授が 理科系の学生にむけておこなったロシア語講座は、大教室が満員になるくらいの盛況だったのを覚えています」(前掲書、p.32)と書いている。


私が入学した年、理科一類は17クラスで、このうち、15,16,17組の三クラスがロシア語のクラスであった(私は17組)。一クラスは約50名だったので、この年の理科一類の学生定員は、およそ850名だったことになる。当時は、改訂安保条約の締結を 強行した岸内閣の後に登場した池田内閣が、「所得倍増計画」を掲げ、物質的な「豊かさ」を求めて突っ走った「高度経済成長」の時代であった。この国策によって、1960年代は国立大学の理工系学部 の学生定員が急増した。山本氏の本によると、山本氏が東大に入学した1960年に、東大理科一類の学生定員が450名から600名に増えたという(前掲書、p.24)。ちなみに、この1960年には、東大工学部に 原子力工学科と電子工学科ができている。その1960年から私が入学した1962年までに、さらに250名増えたことになる。「高度経済成長」による日本の繁栄ぶりを世界にアッピールすべく、1964年には 東京オリンピックが開催されている。これは、私が駒場の教養課程から本郷の専門課程に進学した大学三年生のときであった。


さて、駒場での山本義隆氏と私との出会いであるが、山本氏は駒場寮ワンゲルの二年上の先輩だったのである。私が駒場寮に入寮してすぐに、「新入生歓迎コンパ」 が開かれ、その席に山本氏は先輩として参加されていた。山本氏を私に紹介してくれたのは、長岡高校の先輩の山岸昭夫さんであった。山本氏はその年の春に、理学部の物理学科に進学されていた。 物理学科に進学した山本氏は、秀才中の秀才なのだということを山岸さんから聞いたと思う。山本氏は後々、「磁気と重力の発見」(みすず書房、2003年刊)で大佛次郎賞を受賞されたが、そのとき新聞 に掲載された氏の写真と、私が最初に山本氏にお会いした時に受けた印象とは、だいぶかけ離れたものであった。新聞に載っていたのは、60歳を超えた老成した山本氏の姿であるから、当然といえば当然 なことであるが。


山本氏は後に、いわゆる「東大闘争」において、ノン・セクトの学生活動家として、東大全共闘議長(代表)を務めることになるのだが、氏は前述の本の中で、 「率直に言って、私が大学に入ったのはただひたすら物理学と数学の勉強がしたかったからなので、ほとんどノンポリです。その当時の政治意識としては平均値を少し上まわる程度だったと思います。 それでもクラスの代議員をやっていました。」と書いている(前掲書、p.9、後ろから7行目)。にもかかわらず、私の目から見ると、山本氏の場合は、大学入学時において、「物理学と数学と学生運動」 という座標軸がはっきり定まっていたのだと思う。山本氏は、「反権力」、「反体制」の立場を貫かれ、行きついた先が、「東大解体」であり、物理学研究者としての「自己否定」であった。結果として、 山本氏は大学を去ることになるのだが、それはそれとして首尾一貫した生き方を選択されたと思う。


私はと言えば、大学入学時は、地方の閉ざされた狭い空間から、いきなり広い空間の中に放り出された感じで、新しい環境の中での自分の立ち位置を図りかねて いた。大学で何をやりたいのかもはっきりせず、広大な空間の中を、座標軸も定まらぬまま、浮遊しているような状態であったと思う。 高校時代、主体的に生きていたかと問われれば、答えは「否」で ある。いわゆる「優等生」として互いに競争させられ、「優等生」同士、互いに友人として交わることもなく、学校側の管理下に置かれていたという意識がある。大学に合格することによって、 この抑圧的状況から解放されたという気持ちが強かった。


ワンゲルの日常活動としては、トレーニングと称して、明治神宮外苑までのランニングをよくやった。駒場キャンパスの裏門から出て、渋谷方面をめざし、 現在のNHK放送センターの横あたりを通り、山手線沿いの道に出た。当時は、東京オリンピックの前だったので、現在、国立代々木競技場がある辺りには、駐日アメリカ軍の居住施設である 「代々木ハイツ」があった。その「代々木ハイツ」のゲート前を通り、明治神宮外苑に入り、外苑の広場でしばらく休憩した後、外苑の裏門から出て、駒場キャンパスまで帰ってきた。往復6キロほどの 道のりだったと思う。ワンゲルの遠行は、北八ヶ岳、尾瀬、伊豆大島などに行った。また、夜間の山手線一周もやった。渋谷駅を真夜中に出発して、山手線に沿って新宿方向に向かって歩いた。 一周50キロほどの行程であるが、キャラバン・シューズで硬いコンクリートの道路上を歩いたので、足に負担がかかり、品川のあたりで動けなくなった。 仕方なく五反田まで足を引きずりながら直線距離を歩き、目黒から電車に乗り、やっとのことで寮までたどり着いた記憶がある。


当時の大学には、全員加入の学生自治会があり、学生はこの自治会を通じて社会問題に関して発言し、意思表示をしていた。実際に運動を担っていたのは、 いわゆる「活動家」と呼ばれる人たちで、これらの人たちの多くはセクトに属していた。 一般の学生は、「活動家」にアジられて動員される側であった。「60年安保」もまた然りである (前掲書、p.8、「1.大学入学直後の六十年安保闘争」)。山本氏がクラス代議員として、学生運動に関わっていたとき、改訂安保条約の自民党による単独強行採決に抗議するデモで、東大文学部四年生 の学生活動家、樺美智子さんが亡くなるという衝撃的な事件があった。


寮での生活は、学生運動と無縁ではなかった。寮のワンゲルの仲間の中にも、セクトに参加して、学生運動をやっている者がいたし、様々なセクトの学生が毎日の ように、「アジビラ」を寮の各部屋に配って歩いていた。私が入学した年には、「大学管理法反対闘争」があった(前掲書、p.37、「4.六十二年の大学管理法反対闘争」)。この年の5月、 池田隼人首相が、「大学教育が革命の手段に使われているから大学を管理する法律が必要である」と発言したことに端を発している。11月に入ると、「大学管理法案粉砕」のためのストライキがあり、 教養学部学生も参加した。このとき、私も初めて街頭デモに参加し、警官の警棒で殴られる経験もした。教養学部自治会委員長として、このストライキの先頭にたったのが、後の国会議員、江田五月で あった。江田五月はこのストライキの責任を問われて、退学処分になっている(翌年、学生運動と断絶することを宣言して復学)。しかし、私は、いわゆる「学生運動」とは一線を画し、深入りすること はなかった。私の社会的・政治的意識は、いまだ未成熟であったと思う。


この頃、私は、ロマン・ロラン(1866〜1944)の「ジャン・クリストフ」(世界文学全集23、24、25、新庄嘉章訳、新潮社、1961年刊)を憑かれるようにして 読んでいた。「ジャン・クリストフ」はロランの代表作で、これによってロランは、1915年にノーベル文学賞を受賞している。ロランは、「これは文学作品ではなく、信仰の書である」、 「これは成功のために書いたのではなく、内心の命令に従って書いた」と言っている(前掲書、「ジャン・クリストフ T」、p.8)。さらに、『「思想あるいは力によって勝利を得た人々としての英雄」 ではなく、「心によって偉大であった人々としての英雄」について書いた』(同上、p.9)とも言っている。ジャン・クリストフの幼年期は、ベートーベンをモデルにしているというが、この小説は、 どんな逆境にあってもひるまずに、人間完成をめざして苦闘する一人の天才の魂の生成史を書いたものと言えるだろう。 私が魅せられたのは、天才の燃えるような魂の軌跡であった。ロランは 自由主義者で、「どんな党派にも組織にも参加しようとしなかった。一旦組織の中に入ると、精神は拘束を受けて、個人の自由が失われてしまうことをおそれた」(同上、p.585)という。このロランの 立場は、当時の私と通ずるものがあった。私は、自己意識が強く、他者、組織、社会との関わり方に関しては、たいへん不器用であった。私は、ジャン・クリストフの生きざまをわが身に投影しながら、 自分自身の生き方を模索していたのだと思う。本に残されていたメモによると、私が「ジャン・クリストフ」を読了したのは、駒場での最初の学年が終わろうとしている、1963年の3月の初めのことで あった。


駒場で寮生活を送っていたときに遭遇した世界的事件といえば、ケネディー米大統領の暗殺事件がある。 1963年、11月のある朝、誰かが、「おい、 ケネディーが殺されたぞ !」と言いながら部屋に駈け込んで来た。 私はそれをベッドの中で聞いた。冷え込んだ晩秋の朝で、窓の外に目をやると、冬枯れた木々の間を乳白色の朝靄(もや) が立ち込めていたことを覚えている。


ついでながら、歌手の加藤登紀子と駒場寮ワンゲルとの意外なつながりについて書いておく。加藤登紀子は、私と同じ年に東大に入学しているが、当時、 彼女は演劇活動をやっていた。そして、ワンゲルの先輩の工藤さんと同じ劇団に属していた関係で、彼女は、たびたび、駒場寮のワンゲルの部屋を訪れていたという。これは後々、駒場寮ワンゲルの 同期会をやったときに、昔の仲間から聞いた話である。 工藤さんにチケットを買わされ、劇団の公演を見に行ったことがあった。場所は目黒区公会堂であったと思う。その公演で加藤登紀子は主役を演じて いた。演目は、アーノルド・ウエスカー作「大麦入りのキチンスープ」であった。


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「進学振り分け」の頃

東大の入学試験は、文科、理科とも一類から三類までの大分類で行われるので、教養課程2年前期が終了する時点で、進学先の学部学科を決めることになる。  学部学科には定員があるから、進学先の選択はまったく自由というわけではなかった。夏休み明け、2年前期の試験が終わり、成績が出た時点で、各人にそれまでの成績の平均点と 類ごとの成績の席順を書いた紙きれが渡され、それをにらみながら進学先の希望を出すことになる。成績によっては第一志望の学科に進学できず、第二志望にまわされることもあった。


私が所属する理科一類の進学先は、工学部、または、理学部の数物系、すなわち数学科、物理学科、化学科などが考えられた。最終的に、私は理学部数学科に 進学したのだが、この時点で、私は数学について深く知っていたわけではなかった。確かに、私は、高校3年生の時には数学部の部長をやっていたが、実際に部活動でやったことと言えば、受験数学の 域を出ることはなかった。大学に入学した後も、寮の仲間と集合論の輪読会をやったこと以外は、教科書とその周辺の参考書の勉強に終始していた。


私の工学部のイメージは、会社への就職と結びついていた。会社人間として働いている自分の姿を想像することは、まったく出来なかったので、私には最初から 進学先の選択肢として工学部はなかった。当時の私は、学問研究への憧れを持っていたと思うが、「工学」を学問研究の対象として見ることはなかった。 


物理に関しては、高校時代から何となく苦手意識があった。その理由を考えて見るに、物理は数学のように論理だけでは割り切れない側面があるからでは なかったかと思う。後々、数学の研究をやるようになってからは、論理だけを追っても、なかなか理解できない数学にたくさん出会うことになるのだが、その当時は、数学は論理を追っていけば、 ともかくわかることができるという感覚を持っていた。 もっとも、教養課程の「解析学」で習った、実数の連続性の公理的取り扱いや、極限に関する論証の方法としての「ε‐δ論法」(イプシロン・デルタ論法)を、心底から 「わかった」と思っていたかと言えば、大いに疑問のあるところである。何故このようなことをやらなければならないのか理解していなかった。


進学先として化学科を選ばなかったのは、化学科には「実験」があったからだと思う。「科学の本質は論証性と実証性にある」と言われるように、実験・観察は 論理的思考とともに科学を推し進める両輪である。しかし、当時の私は、「モノ」の世界よりも抽象的、概念的な世界に惹かれていた。


このようなわけで、私は進学先として理学部数学科を選んだのだが、理学部数学科には「純粋数学」と「応用解析」の二つのコースがあり、このどちらかを選ぶ 必要があった。それぞれのコースの定員は10名と5名であった。「応用解析」がどのようものであるかは、おおよその見当はついた。なぜなら、教養課程には「解析学」という授業科目があり、そこで 微分積分学を学び、その微分積分学を用いて、「力学」、「電磁気学」を学んだからである。しかし、「純粋数学」が何を意味するのかはわからなかった。当時、教養課程の数学には、「解析学」の 他に「代数学と幾何学」という授業科目があったが、この授業科目で学んだことは、ベクトルと行列の計算の仕方や、連立一次方程式の解き方であった。紹介された参考書は、 佐武一郎著「行列と行列式」(裳華房)であった。このような数学が「純粋数学」であるとはとても思えなかったのである。ちなみに、佐武一郎氏のこの本は、現在では、 「線型代数学:数学の基礎的諸分野への現代的入門、増補改訂版」として、同じ裳華房から出版されている。


当時、大学生協の書籍部に、裳華房の大学演習シリーズの一冊として、「大学演習 代数学と幾何学」(三村雅雄編)という本が並んでいた。この本を図書館 から借りてきて目次を見てみると、「I 複素数と多項式、II 行列と行列式、III 直線、平面、空間、VI 二次曲線と二次曲面、付録 Desargues、Pascal、Brianchon の定理」とある。「I 複素数と多項式」 には、複素平面、代数学の基本定理、Lagrange の補間式、方程式の判別式、終結式などの記述がある。 また、三次方程式、四次方程式の解法が演習問題として載っている。この本の内容をすべて 勉強していれば、「代数学と幾何学」の意味を理解することができたと思うし、「解析学」とは別の数学に関して何らかのイメージ を持つことができたと思うが、私が授業で学んだのは、この本の II に相当する部分だけであった。 参考までに、この本の内容に関連して若い世代のために書いておくと、当時の高校の数学では、 ベクトルや複素平面(それに確率)を学ぶことはなかったのである。上記の本の 「III 直線、平面、空間」 の内容は、ベクトルの概念を使えば簡単で、今では高校の数学に含まれている。


現在の教養課程には、「代数学と幾何学」という授業科目はなく、代わりに「線形代数学」があるのが普通である。私が大学に入学した1960年代の初め頃は、 教養課程の授業科目が、「代数学と幾何学」から「線形代数学」に移行していく過渡期にあったのではなかろうか。 現時点で振り返ってみるに、数学に興味・関心を持つ者に対しては、教養課程に おいて、当時の「代数学と幾何学」に相当するような授業科目があっても良いのではないかと思う。


当時、東大数学科が、数学者、高木貞治(1875〜1960)の伝統を受け継いでいることなど知る由もなかった。高木貞治の専門分野は「代数的整数論」で、 「類体論」を確立し、虚2次体のアーベル拡大に関する「クロネッカーの青春の夢」を解決したことにより、「世界」の数学者達から高い評価を得ていた。 江戸時代の関孝和を別とすれば、 「世界的」に評価された最初の日本人数学者と言ってよいのではなかろうか。高木貞治は、数学のノーベル賞と言われるフィールズ賞の第一回選考委員を務めている。ちなみに、フィールズ賞は、 カナダ人数学者、ジョン・チャールズ・フィールズ(John Charles Fields)の提唱によって1936年に作られた賞である。


私が大学に入学した年の翌年、1963年の2月に、孤高の数学者、岡潔(1901〜1978)の随筆集「春宵十話」が世に出て、「数学は情緒である」という岡の言が、 世間の耳目を集めていた。岡潔は1960年に文化勲章を受章していたのである。そんなわけで、岡潔の名前は知っていても、高木貞治の名前は、「解析概論」の著者として知るくらいで、それ以上のことはなかった。 調べてみると、高木貞治は、岡潔が文化勲章を受章した丁度その年、1960年に亡くなっている。ちなみに、岡潔は京都大学の前身、京都帝国大学の出身で、専門分野は「多変数複素関数論」である。


フィールズ賞を日本人として最初に受賞した、「複素多様体論」の小平邦彦(1915〜1997)の名前も知らなかった。小平邦彦は東大数学科を卒業した後、 物理学科も卒業し、東大物理学科の助教授を務めている。小平邦彦は戦後最初の頭脳流出と言われた人で、1948年にアメリカに渡り、その後ずっとアメリカで研究生活を送っていた。 フィールズ賞を受賞したのは1954年のことである。


三次方程式、四次方程式の解法や、二次曲線、二次曲面の分類の先に、高木貞治の「数論」や小平邦彦の「多様体論」があることなどは、まったく 知る由もなかったのである。


私の母校、長岡高校の2年上の先輩に西澤輝泰さんという方がおられた。この方が理学部数学科の「純粋数学」に進学されていたので、この方にお会いして教えを 請いたいと考えた。当時、西澤さんは学部の四年生であったが、すでに結婚されているという噂も聞いていた。 長岡の西澤さんの実家に問い合わせて東京の住所を教えて頂き、西澤さんを訪ねたのは、 2年生の夏休みが終わった直後のことであったと思う。西澤さんは池袋駅近くのアパートに奥様と一緒に住んでおられた。1DKの部屋であったと記憶している。 後で西澤さんから聞いた話では、 「(私から)連絡があったときには、ギョッとした」と言われた。当時は数学の勉強はまったくやっておられなかったということである。 そのような状況にあった西澤さんの口から「純粋数学」 について話を聞くことはなかった。


西澤さんはその後、数学基礎論の「言語論」を専門とされ、九大、京大数理研、電気通信大、新潟大経済学部と移動された。新潟大経済学部では、学部長まで勤められた。 西澤さんが、京大数理解析研究所の助手をしておられたときには、私も同じ研究所で助手をしており、私の「人前結婚式」の司会をやって頂くなどいろいろお世話になった。西澤さんは、私が、2013年、 長岡での古希を祝う高校の同窓会に出席した際には、自分から長岡まで足を運んで下さった。そして、長岡在住の駒場寮ワンゲルの先輩の馬場昭夫さん(旧姓、山岸)を含めて三人で宴をともにしたが、 西澤さんはその翌年に故人となってしまわれたので、お会いしたのは、この時が最後となった。


話をもとに戻すと、私は迷った末に「応用解析」を第一志望として届を出した。「純粋数学」よりも「応用解析」の方が、若干、「振り分け」の最低点が低いと いう噂もあり、安全策を取ってということもあったと思う。しかし、学部に進学した後でわかったことだが、学生の立場からすると、「純粋数学」と「応用解析」の区別はまったくなかった。 この区別は単に文部省向け、世間向けのものであったのだと思う。


進学先が決まった2年後期からは、専門の講義があった。数学科の場合は、彌永昌吉先生の「複素関数論」、守屋美賀雄先生の「線形空間論」、吉田耕作先生の 「常微分方程式論」であった。これらの授業のときには、数学科に進学が決まった者が集まるわけである。守屋美賀雄先生の「線形空間論」には、おおいに感銘を受けた記憶がある。「公理的方法」 による数学に出合ったのは、これが最初であった。「線形空間」の公理から始まって、次々に線形空間の基本性質が論理的明晰性を持って導出されていく様は小気味よかった。


守屋美賀雄先生の「線形空間論」の時間であったと思うが、教室に入っていくと、コッペパンをかじりながら分厚い本を机の上に広げて勉強している者がいた。 その男は後の大阪大学教授、川久保勝夫君(故人)であった。机の上に広げられていた分厚い本は、高木貞治の「解析概論」で、コッペパンは彼の昼食だった。彼は駒場寮の「数学研究会」に 属しているということであった。また、信州飯山の出身で、一度、高専に入学した後、進路を変えて大学に進学して来たということで、年齢は私の一つ上であった。川久保君は、私と同じく駒場寮の 住人で地方出身、しかも隣県同士ということもあって、何となく打ち解けることが出来、私は、後々、何かと彼を頼りにすることになる。。


もう一人、先方から私に近づいて来た者がいた。これは、後の衆議院議員、広島市長の秋葉忠利君であった。当時、私はどちらかというと内向的な性格で、 初対面の人に自分から話しかけることはなかったが、秋葉忠利君は、東京教育大付属駒場高校出身で、当時からたいへん積極的、かつ都会的なスマートさを身に着けていた。リーダーシップがあり、 私達、数学科の新しいクラスのまとめ役を果たすことになる。秋葉忠利君が私に近づいてきたのは、多分、自分とは異なる雰囲気を持った地方出身の人間に興味を持ったからではなかったかと思う。 彼は高校時代に、AFS留学生(AFS = American Field Service)としてアメリカに留学しており、その関係で大学への進学が一年遅れたということであった。したがって、彼の年齢は私の一つ上である。 この辺の事情は、彼が後に出版した著書「真珠と桜−「ヒロシマ」から見たアメリカの心」(朝日新聞社、1986年刊)に詳しい。彼は私を東大駒場の図書館に連れて行き、書架から一冊の本を取り出して、 「こんな本を見るとわくわくする」と言った。その本は、ポントリャーギンの「連続群論」(柴岡泰光, 杉浦光夫, 宮崎功共訳、岩波書店、1957年刊)であった。私が見た最初の数学の専門書と言えば、 この本である。彼と二人で総武線に乗り、千葉にあった彼の自宅を訪ねたこともあった。


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学部生の頃

本郷の専門課程に進学して迎えた最初の夏休みに、多分、秋葉忠利君、または、後の東工大教授、井上淳君の発案だったのではないかと思うのだが、 当時、信州、野尻湖畔にあった東大の合宿所兼保養施設、野尻湖寮で新しい数学科の仲間で合宿をやった。総勢10名そこそこの少人数であった。合宿中、みんなで車座になって自己紹介をした。そのとき、 「父は作家の新田次郎で、満州から引き揚げてきました。その時の体験は、母(藤原てい)が書いた、「流れる星は生きている」という本に書かれています」と自己紹介する者がいた。この男こそ、 後々、自身の3年に渡るアメリカ留学の体験を基に、「若き数学者のアメリカ」を書いて、1977年、日本エッセイスト・クラブ賞を授賞した藤原正彦である。 2005年には、時の総理大臣小泉純一郎に よって推し進められた新自由主義的な経済政策を批判して、「国家の品格」を著わし、200万部を超えるベストセラーになった。2012年には、父、新田次郎の遺作となった未完の小説「孤愁 サウダーデ」 の後を継いで完成させ、父との共作という形で世に出している。


私は藤原正彦の自己紹介を聞いてびっくりした。新田次郎の息子ということもさることながら、私は小学生のころ、小学校の校庭で催された地域住民を対象とした 野外映写会で、映画化された「流れる星は生きている」を見ており、その一シーンを鮮明に覚えていたからである。そのシーンには、母親が3人の幼子を抱えて、濁流の河を必死に渡っている姿が映っていた。 あの幼子の一人が成長した姿で目の前にいると思うと自ずと感慨が湧いてきたのである。


2007年、藤原正彦は、読売新聞の「時代の証言者」というコラムにおいて、「数学と品格」という題で、25回に渡って書いているが、その14回、「学友みな「自分は天才」」 (2007. 12. 11付)に載った写真はこの野尻湖寮での合宿の際のものである。井上淳君が写っていないので、この写真を撮ったのは井上淳君であると思われる。井上淳君を入れて総勢12名であった。  


2014年、藤原正彦の自伝的小説、「ヒコベエ」(新潮文庫)が出たので買って読んでみた。するとこの本の中に(p.123〜p.125)、前述の渡河シーンに関連した記述が あることを発見した。藤原正彦は、満州から引き揚げて来た後、母親の健康状態がなかなか回復しないので、母親の負担を少しでも軽くするために、母親の両親の申し出もあって、小学校に入学する 前年の1949年、夏から秋にかけて4か月ほど、父母、兄、妹と離れて、ひとりで信州八ヶ岳の西麓、湖東村笹原の母方の祖父母の家で過ごしている。藤原正彦が兄弟のなかで、一番、 体も気も強く逞しかったということであろう。その信州の家は、かつて、母親が子供達3人と乞食同然の姿で日本に帰りついたときに身を寄せたところでもあった。藤原正彦はすぐに村の生活に溶け込み、 地元の子供たちと朝から晩まで自然の中を遊びまわる日々を送っていたが、あるとき、みんなで、幅4メートル、水深は深いところで40センチ程の川を渡ることになった。地元の子供たちは、藤原よりも 年下の子供も含めみんな、なんなく川を渡り切ったのに、藤原だけ、くるぶしを水につけた所で止まったままどうしても動けない。恐怖心ばかりこみ上げてきて、気が遠くなるほどである。これは、 喧嘩も一番、気の強さも一番の「ヒコベエ」が生まれて初めて知った自らの弱点であり、生まれて始めた味わった屈辱でもあったと藤原は書いている。満州から引き揚げてくる時に、藤原は 母親に抱えられて、折からの梅雨で濁流となった泥まじりの川をいくつも越えた。藤原の川に対する恐怖心はこの時に刷り込まれたのである。


藤原正彦は体も大きく高校時代にラグビーをやっていたということもあって、学部時代の印象は「やんちゃ坊主」というものであった。これは最近の彼の エッセイ等を読んで受ける印象と少しも変わらない。彼の文才ないしは表現力の豊かさを感じさせるエピソードとして私が記憶しているのは、当時、若者の間で爆発的に人気があった女優、 吉永小百合を「右側微分係数は存在するが、左側微分係数は存在しないような顔をしている」と描写したことである。このユニークな表現は後々、折に触れ思い出した。


学部では講義と演習には欠かさず出席し、極めてまじめな学校生活を送った。教職関連の単位も取り、3年生のときには、東大教育学部付属高校で教育実習もやった。 4年生になるとセミナー(数学講究)があった。指導教官を選び、その指導教官のもとでセミナーの仲間と一冊の本を輪講形式で読み進めるのである。その頃の私は何をやるかについて明確なアイデアを 持っていたわけではなかった。「ベクトル解析」(=Advanced Calculus)の延長線上で、何となく「多様体上の解析学」というイメージはあったと思うが、それほどはっきりしたものではなかったし、 そもそも「多様体」の概念を正確に知っていたわけではなかった。ここでも秋葉忠利君がリーダーシップを発揮した。その頃、「微分位相幾何学」が新しい数学として注目されていたが、秋葉忠利君が これをやろうと言い出したのである。しかし、当時の東大数学教室には微分位相幾何学の専門家はいなかったので、川久保勝夫君を含めて三人で、岩堀長慶先生に相談に行った。すると、後期になると 微分位相幾何学が専門の田村一郎先生がアメリカから帰って来るので、J. Milnor の「Morse Theory」ならば、それまで面倒を見ても良いと言われた。そこで、私達はそうすることにした。 私達のセミナーには、後の名古屋大学教授、佐藤肇君も顔を出していたが、彼の指導教官は彌永昌吉先生で、そこで、H. Cartan・S. Eilenbergの「Homological Algebra」 を読んでいたので、彼は 私達のセミナーの正規のメンバーではなかったと思う。佐藤肇君は駒場では私と同じ理科一類17組であったので、以前から良く知っていた。田村一郎先生が帰って来られてからは、N. E. Steenrodの 「Topology of Fiber bundle」 を読んだ。


この頃、セミナーとは別に、個人的に、H. K. ニッカーソン・D. C. スペンサー・N. E. スティーンロッド著、原田重春・佐藤正次訳 「現代ベクトル解析−ベクトル解析から調和積分へ−」(岩波書店、1965年刊)や、秋月康夫著「調和積分論(上)、(下)」(岩波書店、1955年刊)を読んでいた。 「調和積分論(上)、(下)」は、1954年にフィールズ賞を受賞した小平邦彦先生の研究業績を紹介するために書かれたものと思われる。この本で知った、 「(小平の)コホモロジー消滅定理」や、これを用いた「ホッジ多様体の埋蔵定理」には数学の奥深さを感じた。「微分可能多様体」、「リーマン多様体」、「複素解析的多様体」、 「ケーラー多様体」、「ホッジ多様体」、「ホッジ構造」、「ヤコビ多様体」などの言葉(概念)を知ったのは、この本によってである。


おそらく、大学院との共通講義であったと思うが、4年生の後期に伊勢幹夫先生(故人、1932〜1977)の複素多様体に関する講義があった。テーマは「小平の埋蔵定理とその応用」についてであった。 伊勢幹夫先生は、日本数学会の和雑誌「数学」に「対称空間」に関する総合報告(数学 11、1959、76−93;数学 13、1961、88−107)を書いておられるように、元々は微分幾何が専門の方であるが、 その頃は複素領域を、双正則な自己同型群の離散部分群で「割って」できるコンパクトな複素多様体に関心を持っておられた。 私は学部終了後、大学院に進学したが、その際、伊勢幹夫先生を 指導教官とすることになったのは、この講義の影響が大きかった。


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大学院生の頃

東大数学科の卒業生の進路は、(1)大学院に進学し研究者をめざす、(2)国家公務員試験に合格し官庁に就職する、(3)民間企業に就職する、 (4)高校もしくは中学の教員になる のいずれかであった。私は(1)の道を選択したのだが、東大理学部数学教室の同窓会名簿を見ると、私が学部を卒業した1966年3月には、前年度の留年生を 含めて17名が卒業しており、そのうち、(1)の道を選択した者は13名であった。 この中には、国家公務員試験に合格した者もいたが、最終的には、その道に進んだ者はいなかった。あとの4名 の進路は、(3)か(4)であった。一口に「研究者」と言っても、大学の研究者、公的研究機関の研究者、企業の研究者など、いろいろなタイプの「研究者」があるわけだが、当時の私達は、 「研究者」といえば、暗黙の内に「大学の研究者」をイメージしていたと思う。


私が進学した大学院の正式名称は、「東京大学大学院理学系研究科(修士課程)数学専攻」である。その後、1992年に組織改編があり、数学専攻は理学系研究科 から独立し、「大学院数理科学研究科」となり、建物も教養学部がある駒場キャンパスに新しく出来た。これは文部省が進めていた大学院重点化政策の結果であるが、数学専攻が理学系研究科から離れ、 駒場キャンパスに移ったのは、理学部の他の学科に比べ、教養課程の基礎教育、一般教育を担当する教養学部所属の教員数が多いという事情があったためと思われる。「数学」は「自然科学」と密接な 関係にあるものの、独立性も強いということも分離独立の理由の一つであったかも知れない。 新しい建物が完成したのは、1995年4月のことであった。


この組織改変により、理学部数学教室、教養学部数学教室、教養学部基礎科学科第一基礎数学教室が統合され、学生数は学部、大学院ともに大幅に増えた。 東京大学大学院理学研究科・理学部ホームページに掲載されているデータによれば、2017年5月1日現在で、理学部数学科は、3年生が42名、4年生が59名となっている。また、 東京大学大学院数理科学研究科のホームページによれば、大学院数理科学研究科の学生定員は、修士課程が各学年53名(うち外国人留学生6名)、博士課程が各学年32名(うち外国人留学生3名) となっている。私達が大学院生だった50年前は、学部生、大学院修士課程の学生は各学年15名程度、博士課程に進学する者は毎年一人か二人であったことと比べると大変な違いである。 私達の時代には、「大学院に進学する」ことは、「大学の研究者を目指す」ことを意味したが、現在では、必ずしもそのようなことは言えないであろう。大学院の学生定員が増えたにも拘わらず、 2004年の国立大学の独立法人化以後、博士課程大学院生の就職先である大学の助手(=助教)のポストが大幅に減ったので、大学の研究者への道は厳しいものになっている。 


「大学の研究者を目指す」と言っても、その頃の私には、数学の論文が書けるような気は、まったくしていなかったので、明確な展望があったわけではない。 研究を進めるには、具体的な「問題意識」を持つことが肝要であるが、当時の私には未だそのようなものはなく、おぼろげながら数学の全体像がわかってきたところであった。現在ならば、 このような状態で大学院の入試を受けたならば、おそらく門前払いされることであろう。今から思うと、私達の時代は、私のような曖昧さを持った学生にとっては、大変おおらかな良き時代であったと言えよう。


私の大学院時代の指導教官の伊勢幹夫先生は教養学部の数学教室に属していたので、週一回のセミナーは、先生の研究室があった駒場キャンパスでやった。 現在、東大大学院数理科学研究科の建物がある場所には、その昔、駒場寮の南寮があり、その建物が教養学部の先生方の研究室に転用されていた。 セミナーをやったのはこの建物である。 私のセミナーには、後の東大教授、落合卓四郎さんと、後の東北大教授、堀田良之さんも出席されていた。ご両人とも私の一学年上の先輩である。


私がセミナーで最初に読まされた論文は、 F. Hirzeburch の「Uber eine Klasse von einfachzusammenhangenden komplexen Mannigfaltigkeiten, Mathematische Annalen 124: 77-86」であった。球面の直積空間に、可算個の相異なる「複素多様体の構造」が入ることを示した有名な論文である。私は第三外国語でドイツ語の単位を取ったとは 言うものの、第二外国語はロシア語であり、十分なドイツ語の語学力はなく、辞書を引きひき奮闘したものの、結局、この論文を自力で最後まで読み切ることは出来なかった。本当のところは、 当時は、まだこのような論文を読み切るだけの「数学力」が身についていなかったということである。セミナーでは、落合さん、堀田さん、それに伊勢先生ご自身も話されることがあった。 大学院に入ったばかりの私も研究者の一人として扱われているという感覚があって、大いに戸惑った記憶がある。


この頃、S. S. Chern の「Complex Manifolds」(Lectures at the University of Chicago、Autumn 1955−Winter 1956)や R. C. Gunning & H. Rossi の 「 Analytic Functions of Several Complex Variables」 を自力で勉強していた。参考までに、若い世代の人達のために書いておくと、この S. S. Chern のレクチャーノートは、これを発展させた内容のものが、現在、 シュプリンガーの Universitext の一冊 、「Complex manifolds without potential theory : with appendix on the geometry of characteristic classes, 2nd ed.」として出版されている。訳本も 「複素多様体講義」(シュプリンガー数学クラシックス、第17巻、藤木明、本多宣博訳、2005年)として出ている。また、R. C. Gunning & H. Rossiの本は、その後継本と思われるものが、 出版社 Wadsworth & Brooks/Cole から、R. C. Gunning 単著の3巻本として出ている。「I : Introduction to holomorphic functions of several variables」、「II : Local theory」、「III : Homological theory」 がそれである。


伊勢先生からは、日本には、特異点を許す「複素解析空間」をやっている研究者は少ないので、この方面をやってみたらどうかというアドバイスを受け、 Behnke−Steinや、Grauert−Remmertの「(複素)解析空間」に関連した論文も読んだりした。また、小平邦彦先生の複素構造の変形論の論文も読み始めていた。


私の二つ上に、後の東京都立大学教授、笹倉頌夫さん(故人)がおられた。私が大学院に進学した年に、東大の助手のポストに就かれたばかりであった。 この頃、東大数学教室には、P. A. Griffiths のセミナー・ノート 「Some Results on Moduli & Periods of Integrals on Algebraic Manifolds I, II, III」 の青刷りコピーが出回っていたが、 笹倉さんはその勉強会を率先して組織された。私も声をかけて頂いたので、この勉強会に参加するようになった。楕円曲線、K3曲面は、それぞれ、正則1次型式、正則2次型式の周期行列が 「モジュライ(moduli)」(同一の位相多様体に入る相異なる複素構造の全体)をあらわすことが知られていたが、Griffithsのセミナー・ノートは、これを高次元複素射影多様体の場合に 一般化しようとするもので、ある場合には、第2種の有理型式の周期が「(局所)モジュライ」(複素構造の変形の ”effective” なパラメーター)をあらわすことを示していた。


私も勉強会で報告したが、Griffiths のセミナー・ノートは、草稿のまた草稿といった代物で、まともな証明は書いてなかったので、報告には大変苦労した。 ちなみに、Griffiths のこのセミナー・ノートは、後に、「Periods of integrals on algebraic manifolds, I, II, Amer. J. Math. 90 (1968), 568-626; 805-865」、「On the periods of certain rational integrals, I, II, Ann. of Math. 90 (1969), 460-495; 498−541」 として出版された。その後の展開を見ると、Griffiths がこの理論を作った意図は、複素射影空間に埋め込まれた高次元代数多様体を、 超平面切断の一次系(= Lefschetz pencil)を用いて研究することにあったのではないかと思う。


後の学習院大学教授、飯高茂さんは私の一つ上で、大学院修士課程修了と同時に東大の助手のポストについておられたが、飯高さんが、代数多様体に付随した 「標準写像」を用いて「小平次元」を定義し、高次元代数多様体を研究するためのプログラム、いわゆる、「飯高プログラム」を提唱されたのは、この頃のことである。 飯高さんは、沢山の 未解決問題と予想を提示されていた。


私が大学院2年の時、学部の3年生に、後の京大数理解析研究所教授、柏原正樹さんがおられた。佐藤幹夫先生が、ご自身の「超関数(hyperfunction)」について 講義をされた際に、柏原さんが、佐藤の超関数の理論で懸案となっていた、「層Cが軟弱層(flabby sheaf)である」ことを証明したというニュースが私たちの間を駆け巡ったことも鮮明に記憶している。


私が大学院2年の後期に、小平邦彦先生がアメリカから帰って来られて、大学院で講義が始まった。「解析学特論 I」では「複素構造の変形論」を、 「幾何学特論 II」では「代数曲面論」を講義された。これらの講義の内容は、それぞれ、東大数理科学レクチャーノート 7 「複素多様体と複素構造の変形 I」(諏訪立雄記)、 東大数理科学レクチャーノート 8 「代数曲面論」(山島茂穂記)で読むことが出来る。


私の手元に小平先生自筆の小稿がある。2次元の孤立2重点の変位(displacement)に関する、メモ程度の簡単なものである。 私が小平先生から直接頂いたもので あることに間違いはないのだが、どのような経緯で頂いたのか、今となっては、はっきりと思い出せない。当時、小平先生を囲んで、「解析多様体セミナー」が開かれており、私もそこで、 P. A. Griffiths の仕事について話したことがあったが、その話に関連して頂いたものと思われる。この小稿は額に入れて今も大切にとってある。


私は Griffiths の青刷りセミナー・ノートを素材にして修士論文を書いた。 題名は「有理型式の周期行列からなるある空間と、複素射影空間内の超曲面の なす continuous system の local moduli について」であった。ここで、「ある空間」というのは、Griffiths のmodular variety のことである。主な成果は、(1)複素射影代数多様体では、原始型式(primitive form)の周期(ホモロジー群の基底となるサイクル上での積分)を、 有理形式(rational form)の周期で表わすことができるという、Griffiths の青刷りセミナー・ノートの中に記述があるものの証明がはっきりしない定理の完全な証明を与えたこと、 (2) Griffiths が与えた、有理型式の周期が局所モジュライを与えるための十分条件を、複素射影空間内の非特異超曲面に適用し、この十分条件を満たす非特異超曲面の形をできるだけ一般的に 求めたことである。


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京都での5年間

私は1968年3月に東大大学院修士課程数学専攻を修了するとすぐに、京都大学数理解析研究所の助手として就職した。当時、 私には修士論文以外に公刊された学術論文はなかったのだが、そんな私が助手として就職できたのには、次のような経緯があった。1967年の冬に、数理解析研究所で 代数幾何関係の研究集会があり、修士論文をほぼ書き上げていた私にも発表の機会を与えて貰うことができた。この発表を聴いていた数理解析研究所の中野茂男教授が、 私を助手として呼んでくれたのである。中野茂男教授は、「小平のコホモロジー消滅定理」をベクトル束の場合に拡張した「中野のコホモロジー消滅定理」で 名前が知られていた方である。この研究集会では、笹倉頌夫さん、飯高茂さん、諏訪立雄君ら、多くの東大の代数幾何、複素解析幾何の人達が発表した。後の北海道大学教授、 諏訪立雄君は、大学院は私と同期であるが、学部は物理学科であった。


今でこそ、数理解析研究所は、日本人3人目のフィールズ賞受賞者、森重文さん(2015年〜2018年、国際数学連合総裁)をはじめとする錚々たる研究者を抱えた、世界有数の 数学研究のCOE (= Center of Excellence) となっているが、私が助手になった頃は、一緒に採用された同じ歳の助手、教務職員も沢山いて、できたてほやほやの若々しい研究所 であった。 就職して2年目からは、頼まれて京大教養部の非常勤講師として、一般教育の数学科目を担当するようになったが、1年目は、ひたすら研究をして論文を書いて いればよいという結構な身分であった。


私の修士論文は、P. A. Griffiths の青刷りのセミナー・ノート 「Some Results on Moduli & Periods of Integrals on Algebraic Manifolds I, II, III」 を素材としたものであったが、私はこの修士論文の中のオリジナリティがあると思われる部分を学術論文として刊行したいと思い、独立した論文として まとめることにした。そして、一年ほどかけて書き上げたプレプリント 「Generalized Poincare residu cohomology operator」 を、プリンストン高等研究所にいた Griffiths のもと に送った。 この表題に言う “Generalized Poincare residu cohomology operator” というのは、Griffiths が代数多様体 (もっと一般には、ケーラー多様体) のコホモロジー群のうえに、 “Hodge filtration” を発見するきっかけになったもので、Griffiths 理論の鍵をなすものであったと思う。 返事はすぐには来ず、1969年の11月になって届いた。 私が送ったプレプリント がプリンストン高等研究所に届いた3月には、Griffiths はフランスにいて、プレプリントはフランスに転送されたが、手違いがあって Griffiths には届かなかったようで、最近になって 見たということであった。そして、「内容的には重複する部分もあるが、あなたのやり方の方が良くアレンジされていると思うので、できるだけ早く出版するように」 ということで あった。ところで、プレプリントは、私が所属する講座の中野茂男教授にも見てもらっていたのだが、一カ所、難点があることを指摘された。この難点を克服すべく、手直しをしている うちに、程なくして、「On the periods of certain rational integrals I, II」 と題する Griffiths の論文が、プリンストン大学数学教室と高等研究所の紀要、Annals of Mathematics の90号、No.3 (pp.460-541) に掲載されていることに気付いた。読んでみると、私が論文として発表しようとしていることは、すべてこれに含まれていることがわかった。私はがっかり したが、もともと Griffiths が主宰するセミナーの「記録ノート」を素材に書いたものだったので、これもやむを得ないことと納得せざるを得なかった。 


この頃、ヨーロッパに Griffiths 理論に注目している数学者がいた。その数学者の名前は P. Deligne という。 この人がブルバキ・セミナーで、 Griffiths の仕事を紹介している記事(Travaux de Griffiths, Seminaire Bourbaki 22e annee, no.370, 1969/1970)を見つけたのである。 P. Deligne は、 「Weil予想」 を解いて、1978年のヘルシンキでの国際数学者会議で、フィールズ賞を受賞することになる 新進気鋭の俊才だったのだが、その頃の私は、彼がどのような数学者なのかまったく知らなった。1971年に、彼が書いた 「Theorie de Hodge II, Publ. Math. IHES 40, 5-58」 という分厚い論文が世に出てきた。 その前年の1970年には、シュプリンガーの 「数学レクチャー・ノート・シリーズ 」で、確定特異点を持つ微分方程式の理論 (Equations Differentielles a Point Singuliers Reguliers, Lecture Notes in Mathematics 163, Springer, 1970) を発表していた。これらの論文はすべて1976年の「Weil予想」の解決に関係していたのだろうか? 関係していると したらどのように関係していたのだろうか? 私は知るべくもなかった。 私は、Deligne の 「確定特異点を持つ微分方程式の理論」 に注目した。なぜなら、Griffiths 理論には、 「ピカール・フックス方程式」 という確定特異点を持つ微分方程式が登場していたからである。


私はその後、何とか一つの結果を得るところまでこぎつけたのだが、その結果の評価については、私自身、あまり自信を持つことが できなかった。その結果とは、その頃、カリスマ的数学者として存在感があった久賀道郎先生が著わした一般向けの数学書、「ガロアの夢―群論と微分方程式」 (日本評論社、1968年7月刊)の最後に書いてあった 「ハッタリ的言明」 に影響されたもので、Kolchin の偏微分体の拡大体のPicard-Vessiot群に関するものであった。 Griffiths や Deligne が目指していた方向とは直接、関係しないもので、どちらかというと古典的な多変数特殊関数に関係したものであった。


この頃考えていたもう一つの問題は、通常特異点を持つ代数曲面に関する局所トレリの問題であった。私が東大大学院の修士2年のときに、 それまで長い間アメリカに滞在されていた小平邦彦先生が日本に帰って来られ、東大で講義をされた。その講義の一つであった代数曲面の講義で、「通常特異点を持つ代数曲面モデル」 を用いて、代数曲面に関する古典的なリーマン・ロッホの定理を証明されたのだが、その最後に、「代数曲面の正則ベクトル場の層を係数とするコホモロジー群の次元を、 通常特異点を持つ代数曲面モデルの数値的特性数を用いて表わす公式をつくれ」という問題を提出されていた。私は、通常特異点を持つ代数曲面(3次元複素射影空間の超曲面)は、 非特異な部分多様体を中心とするモノイダル変換(=ブロー・アップ)とモノイダル変換の逆(=ブロー・ダウン)を施すことにより簡単に非特異正規化できるので、 両者のコホモロジー群を比較することにより、上述の 「小平の問題」 を解くことができ、これを用いて、 通常特異点を持つ代数曲面の非特異正規化モデルに関する局所トレリの問題も解けるのではないかと考えたのである。Griffiths は非特異超曲面の場合に、局所トレリの問題が肯定的に 解けるための十分条件を与えていたので、私はこの結果を、マイルドな特異点をもつ特異超曲面の場合に拡張しようとしたのである。


ところで、私は就職すると同時に京都大学職員組合に加入させられ、翌年の1969年4月からは、中央執行委員をやらされることになった。 職場には組合の中央執行委員は若手の助手にやって貰う慣行があったのだと思う。その当時の京都大学は、いわゆる「大学紛争」の真最中で、大変騒々しい雰囲気の中にあった。 私が就職した前年の1967年、医師法一部改正・登録医制度に反対し研修協約の獲得をめざして、東大医学部自治会と青年医師連合が行ったストライキに対する処分の撤回を求める 闘争と 日大の学費値上げ反対闘争に端を発した大学紛争は燎原の火のように全国の大学に拡がり、京都大学においてもヘルメットをかぶりゲバ棒 (ゲバ=ゲバルト) を持った学生 が大学当局と対峙する状況があった。私が京大職員組合の中央委員会をやることになった1969年の1月には、東大の安田講堂を占拠した「新左翼」と呼ばれる学生達と機動隊との 攻防戦があり、その年の東大入試は中止になった。後にノーベル物理学賞を受賞されることになった益川敏英さんも当時、京大理学部の助手をしておられて、組合活動に参加されて いた。益川さんがテレビで、「ノーベル賞受賞の対象となった論文は、京都大学で組合支部の書記長をしていた時に書いたものである」 と言っておられるのを聞いたが、これは、 多分、1970年のことだったと思う。組合の集会で益川さんの姿を見かけたことがあった。


当時、アメリカは社会主義国北ベトナムへ空爆を繰り返しており、この戦争に反対する運動も大学の中にあった。 「ベトナムに平和を!市民連合」 (いわゆる「べ平連」)の運動である。沖縄の米軍基地がベトナムに向けての最大の出撃基地となり、横須賀と佐世保が米軍第七艦隊の拠点として 使われているという現実があったのである。


私はそれまで、どちらかというと政治的、経済的な社会問題に関しては疎い人間であった。 与えられた京都大学職員組合中央執行委員という 役目を型どおりに、こなして終わるという選択肢もあったのだが、私の性分としては、やるからには自分で納得してやりたいという気持ちが強かったのだと思う。 「マルクス経済学講座」全四巻 (宇佐美誠次郎・宇高基輔・島恭彦編、有斐閣、1967〜68年刊) を買ってきて読んでみた。全四巻の内容は、第一巻が「マルクス経済学入門」、 第二巻が「現代帝国主義論」、第三巻が「国家独占資本主義論」、第四巻が「日本経済分析」であった。私はマルクス経済学を学ぶ中で、史的唯物論の基本命題、「(社会の) 下部構造は上部構造を規定する」を知った。


当時の京都は 「蜷川民主府政」 の全盛期で、「日本の夜明けは京都から」 のスローガンのもと、反「アメリカ帝国主義」、反「国家独占主義」 の「革新運動」が、いやが上にも盛り上がった時期であった。私はこのような高揚した雰囲気の中で、組合活動を通して知り合った現在の妻と1970年10月に結婚した。京大楽友会館 での「人前結婚式」であった。この結婚式の司会をやって頂いたのが、当時、たまたま数理研の助手をしておられた、長岡高校、東大数学科を通しての先輩、西澤輝泰さん(故人)で あった。


1971年秋から1972年春にかけて広中平祐先生が数理解析研究所に滞在された。広中先生は、1970年のニースの国際数学者会議で 「フィールズ賞」を受賞されていた。広中先生は京都大学の出身で、母校に里帰りされたわけである。広中先生は1971年秋学期に、京大数学教室で学部学生向けの 「入門代数幾何学」 の講義をされている。この講義を、後に、日本人3人目のフィールズ賞受賞者となる森重文さんが聴いていて、彼が記録した講義ノートが京都大学学術出版会から刊行されている。 広中先生の数理研滞在の機を捉えて、1972年4月に数理研の助手になったばかりの藤木明さんの呼びかけで、広中先生の解析空間に関する論文の勉強会が持たれたが、私は出席しなかった。 広中先生は大変気さくな方で、数理研の所内で、「一緒に食事でも」 と声をかけて頂いたことがあったが、その当時の私には、それに応じる勇気がなかった。広中先生と二人だけの 会話で、数学研究に関して生産的な話をする自信がまったくなかったのである。


私は組合活動を通して、社会的存在としての自分を見つめ直すことになった。これは、私自身の出自に関係しているのだと思うが、 数学科の学生時代を通して、数学研究者の 「貴族性」 というものを感じていたので、数学そのものを社会の下部構造との関係で考えてみたいという気持ちが湧いてきたのである。 この頃、私は数学研究において、はっきりした展望が持てないまま、私自身の数学的蓄積(知識と経験)の貧しさを痛感せずにはいられない状況にあった。このような状況の中で、 たまたま数理研の掲示板に貼ってあった、鹿児島大学教養部数学教員公募の文書をみて、応募したところ、縁あって採用して貰うことができたので、1973年4月から鹿児島大学教養部 に転出することになったのである。 私には、まったく未知の土地で 「自己再生」 を図りたいという気持ちが強くあったと思う。


京都での5年間で遭遇した歴史的事件といえば、1969年7月20日の米アポロ宇宙船による有人月面着陸がある。その年、数理研の所長に なられたばかりの吉田耕作先生が、「理論的にはニュートン力学ですむことで、決して難しいことではないのですよ」と言っておられたことが記憶に残っている。。


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鹿児島での生活

私は1973年4月の初め、新大阪駅18時28分発の特急寝台 「あかつき」 に乗って鹿児島に向かった。妻と一歳になったばかりの 娘を京都に残しての 単身赴任であった(半年後に合流)。 終着駅の西鹿児島駅(現在の「鹿児島中央駅」) には翌朝9時過ぎに着いた。駅には鹿大教養部数学教室の面々が、総出で出迎えに来ておられた。一息ついた 鹿大教養部数学教室の事務室の窓から、道路向こうの鹿大教育学部の赤土のグランドと、紫原方向の台地の上に立つテレビ塔と、台地の斜面に這いつくばるように広がった街の 風景が見えた。この風景は私に異国情緒を感じさせてくれた。それは、色彩の明るさと土地の高低差のせいだったと思う。私が育った長岡の家は、新潟大学教育学部長岡分校 (旧長岡女子師範) のすぐ裏手にあり、中学もその付属学校に通ったので、私は1950年代の地方国立大学の雰囲気を、身をもって知っていたのだが、鹿児島大学にはその雰囲気が 残っていて、私をホッとさせるものがあった。


最初に住んだのは、伊敷の鹿児島女子高のすぐ近くにあった国家公務員合同宿舎であった。その庭先には、何種類もの名も知らぬ草々が小さな花を 沢山つけていて、その色彩の豊かさに、「さすがに南国」 と思ったものである。程なくして、「ハイビスカス」、「ブーゲンビリア」、「カイコウズ(海紅豆)」 などの色鮮やかな 南国の花々を知った。1973年当時の桜島は活動期にあり、時々噴煙を上げ、灰を鹿児島市街地に降らせていた。伊敷の宿舎から空を見上げていると、黒い雲が桜島方面からこちらに 向かって流れて来た。しばらくすると、パラパラと音を立てて灰が降ってきて辺り一面薄暗くなった。このようなことがしばしばあった。 その頃、桜島が大爆発する夢を良くみた。 逃げても逃げても噴石が後を追ってくる夢で、うなされるようにして目を覚ますのが常であった。数年すると、さすがにそのような夢はまったく見なくなった。鹿児島を含む南九州の 独特の景観は、何万年、何十万年、何百万年に渡る火山活動が作り上げたものであるということ、その火山の近くに住んで生活を紡ぎ、文化を築いてきた 人々の歴史に思い至るように なったのはつい最近のことである


鹿児島に来て程なく、私は日本科学者会議に勧誘され、会員になった。早速、鹿児島支部の事務局に入ることになったのだが、まず、やったことは 「自然科学研究会」を作ったことである。振り返ってみると、私が学生だった1960年代は、フランスのブルバキ集団の活躍が盛んで、日本にもそれに呼応する若手を中心とする数学者集団があり、 数学の抽象化が極度に進んだ時期であった。華麗な抽象的数学構造物に圧倒されて、初めて現代数学を学ぶ者には、その背後にある数学的実体が見えにくくなっていたと思う。 このような時期に主体性を失わずに数学研究を進めていくためには、どうしても科学的な数学観を身につけ、自分自身がよって立つ足元を固める必要があった。そこでまず、自然科学全体の 構造の中での数学の位置を知り、数学の本質を明らかにしたいと思ったからだと思う。「自然科学研究会」では、いろいろな専門分野の方に、自分のやっている研究について話をして貰うこと から始めた。やがて、哲学者と物理学者の協同作業による 「現代自然科学と唯物弁証法」 (岩崎允胤・宮原将平共著、大月書店、1972年刊) の学習へと進んで行った。 


1974年、私は組合の書記長をやり、鹿児島で日教組大学部の 「全国教研集会」 を持った。このとき 「全国教研集会」 の世話役を務めて頂いた 教育学部の清原浩さんと一緒に、「『資本論』素人学習会」なるものを立ち上げた。私が「資本論」を読んでみようと思い立ったのは、京都における組合活動の中で社会的存在としての自分自身を 見つめ直すことを強いられたことを契機として、人間の社会の運動・発展の法則を知りたいという強い要求を持つようになったことと、「自然科学研究会」をやりながら読んだ、見田石介の 「科学論」 の中に、「資本論」 の方法こそが科学の方法であると書いてあったことによる。


歴史的パースペクティブを持って、数学の発生から現代数学に至るまでの道筋を人類の歴史とも重ねながら知る必要も感じていた。そこで、教養科目 「数学論ゼミ」 を開講し、ソビエト科学アカデミー版「数学通論―数学:その内容、方法、意義―」(遠山啓監訳、東京図書、1958年刊)の第一巻、第一章「数学の概観」を読んだ。いうまでもなくこれは、弁証法的唯物論 の立場に立った「数学史」、「数学論」の本である。数学の歴史を知らず、現実の世界から離れ、現代数学の一断面だけを頭の中で抽象的に思考している状態は、非常に不健康で無理をしている状態なのでは ないかと私には思われた。


ソビエト科学アカデミー版「数学通論」の監訳者の遠山啓さんは、「数学教育研究協議会」 という組織を主宰され、「水道方式」 という算数・数学の学習・教育方法を 提唱されていた。そのメンバーの一人であった銀林浩さんが書かれた 「量の世界―その構造主義的分析」 という本は、私に新しい視点をもたらしてくれた。数学はさまざまな「量」を通じて他の諸科学と つながっているわけで、その多様な 「量の世界」 をブルバキ流の 「構造主義」 の立場で分析されている様は 「目からうろこ」 という気持ちであった。高度に抽象化した現代数学には、できるだけ 「量」 からは 離れようとする力が働いているので、数学の世界にどっぷりつかっている者には、到底、思いもつかないことであった。私はこの本を題材に教養科目 「数学原論」 という講義をしたが、学生たちも大変興味を 持って聴いてくれたと思う。一般の人々がより広い視野から数学に興味を持って学習できるようにするには、このような教育は必要だと思った。


組合活動を一緒にやったこと、「『資本論』素人学習会」 を一緒にやったことが縁で、鹿大教育学部で行われていた清原さんのゼミに参加させてもらい、 そこでピアジェの 「数量の発達心理学」 を学習し、個体(=個人)レベルにおける数学的概念の形成・発達の過程を学ぶことができたことも、私の数学観の形成に大いに役にたった。


これまで述べた私がやったことは、私自身の 「一般教養」 の再教育であったと言える。このような 「教養教育」 が私の数学研究に直接寄与する ことはなかったと思う。 しかし私の数学研究を支える精神的なバックボーンになったとことは確かで、これは私にとっては大変意義のあることであった。


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数学研究の進展

私がこの『自分史「断想」』を書き始めたきっかけは、以下の二つのことであった。一つは、2009年に母を亡くした際に、私の母 が子として記載された母の親の戸籍謄本 (私の母方の祖母は婿をとったので、母方の祖母を戸主とする戸籍謄本) を見たことである。父の同様な戸籍謄本 (私の父方の祖父の戸籍謄本) は、以前に見たことがあったのだが、母のこのような戸籍謄本を見たのは、このときが初めてであった。私の父は、既に2005年に亡くなっていた。 母の死後、母の遺産を処置するには、相続人を確定するために、このような戸籍謄本が必要になるのである。これは女性の場合、結婚すると古い戸籍から抜けて、新しい戸籍に入る ためと思われる。この母の古い戸籍謄本を見たとき、私の胸のうちに、私の親のこと、私の親につながる先祖のこと、先祖の地である新潟のことを、私の子や孫たちに伝えて おかなければという気持ちが湧いて来た。これは、私が地縁や血縁がまったくない土地にやってきて新しい家族を持ったためだと思う。その後、私は、私の父方の祖父の 戸籍謄本や、父方の曽祖父の戸籍謄本を、関係の市役所に Eメールや手紙を送って取り寄せた。2011年には、私の父方の祖父の実家があった直江津 (現・上越市) 佐内と祖父の本籍地で ある能生 (現・糸魚川市) を訪ねる旅をした。能生では、若くして亡くなった父の異母兄、坪井又一さんのお墓を偶然みつけ、寺の住職からいろいろ話を聴くことができた (「坪井又一さんのこと」を参照)。私は、このようにして集めた私の先祖に関する情報と私の記憶をもとに、この「自分史」 の前半部分を書いたのである。


二つ目のきっかけは、私が大学を定年退職した2009年の2月に、「現象と本質のはざまで -大学教員生活41年をふり返って」 と題する最終講義を 行ったのだが、それを聴いていた一人の学生が 「数学は先生にとって何だったと思いますか?」 という質問を発したことである。そのときは、「数学を趣味でやるのと職業としてやるの とではまったく違う。職業としてやるのは、それなり大変で苦労もした」 というように答えたと思う。しかし、大学を退職する間際というのは、それまで全力で疾走してきて 加速がついた状態にあるので、「大学教員生活41年をふり返って」 と銘打ってはいるものの、ゆっくり過去をふり返る余裕などはまったく無かったというのが実際であった。 それが出来るようになったのは退職後しばらくしてからのことである。この 「自分史」 の後半部分は、「私にとって数学は何だったのか」 という問いに答えるために書き 始めたといって良い。この問いに答えるには、前半部分の私の出自に関わることも関係してくると思っている。


私の手元に残された資料を頼りに、研究者としてのこれまでの生活をふり返ってみると、研究の進展とともに、人と人との繋がりの輪が 拡大していった様がよくわかる。私の数学研究の主な成果は、次の三つにまとめられると思う。 

(1)通常特異点を持った複素代数多様体の普遍族の存在 (小平邦彦先生の曲面の場合の 高次元化と大局化) を証明したこと。
(2)(1)の族に付随して現れる混合ホッジ構造の変形族に関する無限小混合トレリの問題のコホモロジー論的な定式化を与えたこと。
(3)通常特異点を持った3次元複素代数多様体の非特異正規化のチャーン数を与える数値的公式 (曲線、曲面の場合の古典的公式の3次元バージョン) を証明したこと。


研究成果 (1) は、私の学位論文 「Deformations of locally stable holomorphic maps and locally trivial displacements of analytic subvarieties with ordinary singularities」 (局所安定な正則写像の変形と、通常特異点を持った解析的部分多様体の局所自明な変位)」 (Sci. Rep. Kagoshima Univ., 35, 9-90,1986) と東大理学部のジャーナルに発表した論文 「Global existence of the universal locally trivial family of analytic subvarieties with locally stable parametrizations of a compact complex manifold (コンパクト複素多様体の局所安定なパラメトライゼーションを持った解析的部分多様体の 局所自明な変位の普遍族の大局的存在)」 (J. Fac. Sci. Univ. Tokyo 40, No. 1, 161-201, 1993) が関係するものである。以下では、この研究成果 (1) とそれに関連する研究 について、私の問題意識の進展とともに、人と人との繋がりの輪が拡大していった様を辿ってみようと思う。


私が京都から鹿児島に移った1973年当初、考えていたのは、3次元複素射影空間内の通常特異点を持った代数曲面の非特異正規化に関する 「小平の問題」 と 「局所トレリの問題」 (「2.大学入学から京都での研究生活まで」の「京都での5年間」、「3.鹿児島での生活と数学研究の進展」の「ある種の無限小混合トレリ問題」」を参照) であった。「小平の問題」 に関しては、具体的な計算をコツコツとやった。通常特異点を持った代数曲面の 非特異正規化は、非特異な部分多様体を中心とするモノイダル変換(=ブロー・アップ)とモノイダル変換の逆(=ブロー・ダウン)を施すことで得られるので、それぞれの段階ごとに、 対応する代数曲面の正則ベクトル場の層を比較していけば、何らかの結論が得られるだろうと思ったのである。これをまとめたのが、論文 「On the sheaves of holomorphic vector fields on surfaces with ordinary singularities in a projective space I, II, III, Sci. Rep. Kagoshima Univ. 25 (1976), 1-26; 26 (1977), 51-97; 27 (1978), 21-41」 である。この論文では、代数曲面の2重曲線は既約かつ非特異、したがって、3重点はないという仮定のもとで計算をしていた。重要なのは、3次元複素射影空間内の 通常特異点を持った代数曲面 S の、3次元複素射影空間内における局所自明な無限小変位を表わす層を係数とする 0次元コホモロジー群から、S の非特異正規化 X の正則ベクトル場の層 を係数とする 1次元コホモロジー群への自然な写像 (「連結写像」と云う) がいつ全射になるかということで、論文ではこの写像が全射になるための S に関するコホモロジカル な十分条件を与えている。


1976年4月から、宮嶋公夫さんが新たに鹿大教養部数学教室のメンバーに加わった。私が京大数理研にいた時に中野茂男先生のゼミに出席 していたことが縁で、私が鹿大に誘ったのである。その年の3月、九州大学で春の学会があり、その際、宮嶋さんと一緒に大学近くの食堂で食事をしていると、宮嶋さんの京大数学科 の同級生という青年が入って来た。その青年は首にギブスをはめていた。春スキーに行って転倒したということであった。これが、「ホッジ理論と代数幾何学」の分野で、その後長く お付き合いをすることになった、後の大阪大学教授、臼井三平さんとの最初の出会いであった。話をきいてみると、彼は永田雅宜先生の学生で、「重み付き射影空間内における 超曲面の局所トレリの問題」 で博士号を取ったばかりであるということであった。私はこれ幸いとばかり、当時、私が考えていた 「通常特異点持った代数曲面の非特異正規化に 関する局所トレリの問題」 で共同研究をやらないかと持ちかけてみた。すると彼も興味を示したので、数理解析研究所の短期共同研究に応募したところ、幸いにも採用されたので、1977年の 夏休み前に、数理解析研究所で一週間ほど、二人で共同研究をやった。共同研究では、私が 「局所トレリの問題」 を多項式環に関するある種の問題に帰着させるところまでを 説明した。彼は非常に積極的で、その年の夏休みに彼の方から鹿児島にやってきた。彼は、その後も精力的に研究を続け、この研究で得た結果を、1978年、コペンハーゲンで あった代数幾何の研究集会で発表された。その内容は、「Deformations and local Torelli Theorem for certain surfaces of general type, Lecture Notes in Mathematics 732, Algebraic Geometry, Proceedings, Copenhagen 1978, 605-629, Springer, 1979」 として公刊されている。このように、「通常特異点を持った代数曲面の非特異正規化の局所トレリ の問題」 は、私が問題提起をして、それを臼井さんが解くということで決着したのだが、考えてみると、私には、この問題を解くだけの十分な代数幾何学の知識がなかったという ことだったと思う。私のその時点での数学的バック・グランドは、「複素解析幾何学」 であり、「トポロジー」 であった。


ところで、前述の論文 「On the sheaves of holomorphic vector fields…,I, II, III」 は、東大の堀川頴二さん(故人)の論文 「On the number of moduli of certain algebraic surfaces of general type, J. Fac. Sci. Univ. Tokyo 22, No. 1, 67-78, 1975」 の結果を拡張する部分を含んでいたので、文部省の 「内地留学」 の制度を利用して、堀川さんがいる東大に一年間、滞在して、私が得た結果について話を聴いて貰おうという考えが湧いてきた。併せて、代数幾何学の基礎を勉強したいという 気持ちもあった。そこで、引受人を、当時、東大におられた飯高茂さんにお願いすることにした。飯高さんは私の一学年上で、学部の時から良く知っていたし、教職免許のための 教育実習を東大付属高校で一緒にやったことがあった。話はすんなり進み、私は1979年4月から一年間、東大理学部数学科に 「内地留学」 することになった。


東京では、練馬区東大泉町の佐々木卓方に部屋を借りて自炊生活をやった。この内地留学中にやったことと云えば、東大数学教室の 「金曜談話会」 と 「解析多様体セミナー」 で話をさせて貰ったこと、毎週開かれていた 「解析多様体セミナー」 には、欠かさず出席したこと、その当時、東京都立大に移っておられた笹倉頌夫さん (故人) のゼミに参加させて貰ったこと、東大数学科時代の同期生の山島茂穂君に付き合って貰って、その頃、代数幾何の標準的な教科書となっていた、Hartshorneの 「Introduction to Algebraic Geometry」を 「第3章コホモロジー」 まで読んだことなどである。山島茂穂君は、小平邦彦先生の講義ノート 「代数曲面」 (現在の 「東大数理科学レクチャーノ8」) の記録者であり、東京女子大に勤めていた。家は東大のすぐ近くであった。東大の 「金曜談話会」 と 「解析多様体セミナー」 では、論文 「On the sheaves of holomorphic vector fields…,I, II, III」 の内容を話したのだが、これを聴いた堀川さんの反応は、「ある特別な場合にモジュライ数を計算しただけ」 というものであった。堀川さんは、当時、辛口の発言で周囲に恐れられているところがあった。 「解析多様体セミナー」 では、最後尾の席に陣取って、講師の面々に容赦ない言葉を 浴びせているのを何度も目撃した。


小平邦彦先生は、「通常特異点を持った曲面の局所自明な変位」 に関連して2編の論文を書いておられるが、私はこの頃から、この結果を 高次元化できないだろうかと考え始めていた。そこで、鹿児島に帰る前に、小平先生にお会いして、ご意見を伺いたいと思い、先生のご自宅に電話をして会って頂きたい旨を伝えた。 小平先生は了解されたのだが、折り返し飯高さんに電話をされ、私が何者か尋ねておられたということである。飯高さんからは、一緒に行くことを申し出て頂いたのだが、私は お断りした。飯高さんと一緒だと、どうしても飯高さんに遠慮する気持ちが働いて、小平先生と自由に会話ができなくなることを心配したからである。私は鹿児島に帰る直前に、 鹿児島特産の 「ボンタン」 を持って、一人で中落合の小平先生のお宅を訪ねた。「通常特異点を持った曲面の局所自明な変位」 の 「高次元化」 の話をすると、先生は 「それは 難しいだろう」 とおっしゃった。「小平の問題」 に関しては、1888年の M. Noether の論文について話され、Enriques,、Severi を読むように勧められた。


私はこの内地留学中に、一編の論文を書いた。タイトルは 「On the number of moduli of non-singular normalizations of surfaces with ordinary singularities」 と云う。これを書いたきっかけは、東大の川又雄二郎さんが1978年に、Mathematische Annalen 235巻に発表された論文 「On deformations of compactifiable manifolds」 を読んでいて、私が論文 「On the sheaves of holomorphic vector fields…,I, II, III」 の中で定義した層 Θ(w,s) (W: 3次元複素射影空間、 S: 通常特異点を持った代数曲面)が、川又さんが定義した、対数的ベクトル場の層 Θw(logS) に等しいことに気付き、この層を使えば、前述の論文の 「3重点なし」 という 制限を外すことができ、議論を一般的に展開できることに気付いたことによる。この論文の内容は、1980年の7月に、岐阜県高山市の国民宿舎「飛騨」であった第19回「多変数関数論 サマーセミナー」 で発表している。それまでの私の論文は、すべて鹿大の理科報告に発表していたので、この論文は東大理学部のジャーナルに発表できないかと考えたのだが、 査読員として、辛口の堀川頴二さんが控えていることを知っていたので、なかなか投稿する決心がつかなかった。この論文は、しばらくプレプリントのままであったが、結局、 1983年になって、鹿大理科報告 (Sci. Rep. Kagoshima Univ., 32, 23-46) に発表した。


鹿児島に帰ってきてから、内地留学中に手に入れた、川又雄二郎さんの 「正規交叉多様体の対数的変形」 に関するプレプリントにヒントを得て、 宮嶋公夫さんと共著の論文 「Logarithmic deformations of holomorphic maps and equisingular displacements of surfaces with ordinary singularities, Proc. Japan Acad., 58A, 231-234, 1982」 を書いた。宮嶋さんは、「On the existence of Kuranishi family for deformations of holomorphic maps (正則写像の変形における倉西族の存在につて)」 という 論文で京都大学から博士号を得ていたのだが、彼と共著のこの論文は、「通常特異点を持った曲面の局所自明な変位」 を 「通常特異点を持った曲面をブローアップして得られる 正規交叉多様体の対数的変形」、 ならびに 「正則写像の変形」 に関連付けたものであった。宮嶋さんが学位論文で証明していた、正則写像の変形に対する 「倉西族」 の存在から、 通常特異点を持った曲面の局所自明な変位に対する 「普遍族」 の存在が導けることを示したものである。


私の学位論文が出来上がっていったプロセスを正確に辿ることは、今となっては難しい。いつの頃からだったか、はっきりした 記憶がないのだが、日本科学者会議の中に 「数学若手の会 」というものがあって活発に活動をしていた。首都圏に住む若手数学研究者で日本科学者会議の会員である者が中心で、 ソビエト科学アカデミー版 「数学通論―数学:その内容、方法、意義―」 (全四巻、遠山啓監訳、東京図書) の学習を活動の核としながら、機関誌も発行していた。私は日本科学者 会議の会員だったのだが、「数学若手の会」 にも入会し、会の機関誌を購読していた。多分、1982年の末頃だと思うが、この機関誌のある号に、注目すべき記事が載っていることに 気付いた。記事の著者は、長野高専の山口博巳さんという方であった。山口さんは記事の中で、R. Piene の論文 (F. Ronga と共著) 「A geometric approach to the arithmetic genus of a projective manifold of dimension three, Topology, 20, 179-190, 1981」 を紹介されていた。山口さんは、「通常特異点を持った超曲面モデル」 を 用いて、 リーマン・ロッホの公式を証明しようとされていたらしい。私は、この論文の 「幾何学的アプローチ」 の方法により、「小平の問題」 に関して私が得ていた代数曲面に関する結果を 3次元の場合に拡張できないかと考えたのではないかと思う。「幾何学的アプローチ」 というのは、ここでは、「通常特異点を持った超曲面モデル」 を用いることを意味する。 私は早速、山口さんに、関連した研究の最近の動向を問い合わせる手紙を書いた。この手紙のコピーが手元に残っていて、日付は 1983年2月22日となっている。この手紙には、私は 「生成射影 (generic projection)」 (=一般線型射影) に関心を持っており、この 「生成射影」 が、J. N. Mather の 「安定写像(stable map)」 の理論と関係があることがわかったので、同僚の宮嶋公夫さんに頼んで、一緒に M. Golubitsky & V. Guillemin の 教科書 「Stable mappings and their singularities, Graduate Texts in Mathematics 14 , Springer, 1973」を、 ニ年近くかけて読んだと書いてある。。そのおかけで、「生成射影の写像としての変形」 と 「生成射影による像である代数多様体の局所自明 な変位」 が同値な概念であることが証明できたとも書いてある。ニ年前というと私が内地留学から帰った年、1980年の末頃であるが、この頃には、J. N. Mather の論文 「Generic projections, Ann. of Math. 98, 226-245, 1973」 の存在を知っていたものと思われる。代数曲面の 「通常特異点」 は、生成射影の像に現れる特異点のことであるから、 この概念を高次元化しようとすると、「生成射影」 に行き当たるのは自然なことである。この手紙の記述が正しいとすると、1982年の末頃には、私の学位論文の内容は、 ほぼ出来上がっていたことになる。


返事はすぐに来て、山口さんは、私が 「内地留学 」の間、通っていた都立大学の笹倉さんのゼミに出席されており、私を知っている ということであった。手紙には関連する論文がいくつか挙げてあったが、もっと詳しく知りたいと思い、その年の夏、長野高専を訪ねた。そして、Matherの 「Normal form Theorem for stable germs」 を用いれば、高次元 「通常特異点」 の定義方程式を計算できるらしいことを教わった。私の学位論文では、Mather の 「安定写像」 の概念は複素解析的なカテゴリーでは意味を なさないものの、「局所安定な写像」 は意味をなし、かつ有効であること、そして、「局所安定な正則写像の変形」 と 「“通常特異点”を持った解析的部分多様体の局所自明な 変位」 は同値な概念であることを示したのである。また、高次元「超曲面通常特異点」の具体的な定義方程式を 5次元まで求めた。ソース多様体の次元 n とターゲット多様体の次元 p の組 (n, p) が、いわゆる “nice range” に入っているならば、「生成射影」 は 「局所安定な正則写像」 になると云うのが Mather の定理である。


ちなみに 「数学若手の会 」の機関誌でその存在を知った論文の著者の一人、R. Piene は、ノルウエーの女性数学者で、後々、 女性で初めて 「国際数学連合 (IMU)」 の理事を務められた方である。私が1994年から1995年にかけて、ノルウエー科学アカデミーの高等研究所 (CAS) に客員研究員として 滞在したのは、もともとは、この Piene の論文を介しての縁によるものであった。


ところで、論文 「On the number of moduli of non-singular normalizations of surfaces with ordinary singularities, Sci. Rep. Kagoshima Univ., 32, 23-46,1983」 には後日談があった。この論文がまだプレプリントの状態にあったときに、東北大学の難波誠さんに送ってあったのだが、1985年の2月に、 その難波さんから手紙を頂いた。彼の修士の学生、大川正毅さんが私のこのプレプリントを読んで修士論文を書いたので見て欲しいというのである。できれば英文の論文として 発表させたいということであった。大川さんの修士論文の題名は、「ある種の一般型代数曲面の変形について」 というものであった。大川さんは、3次元複素射影空間内の 通常特異点を持った代数曲面 S の非特異正規化 X がいつ「滑らかな」局所モジュライを持つかと云うふうに問題をたてられ、そのために必要な、私が求めていた「連結写像」が 全射になるための十分条件が、S が3重点を持つ場合も含めて一般的に成り立つことを示していた。私の論文では、S が3重点を持つ場合も含めて扱っていたものの、S が3重点を 持つ場合の「連結写像」が全射になるための十分条件には、余計な条件をいろいろ付けていたのである。大川さんの修士論文で評価できたもう一点は、S の非特異正規化Xが「滑らかな」 局所モジュライを持つような、3重点を含む通常特異点を持った代数曲面の新しい例を与えていたことである。私の論文では、S に3重点がある例は、その正規化が「エンリケス曲面」 となる、3次元複素射影空間内で、6次の多項式で定義される通常特異点を持った曲面だけで、これは既に知られている例であった。私は難波さんに返事を書き、是非、英文化をし、 適当な学術誌に発表して貰うよう頼んだ。難波さんからの再度の手紙には、大川さんは、その年の4月から北海道紋別市の高校の教員になられるということであった。その後、 私は大川さんに手紙を書き、論文の英文化の進捗状況を尋ねたが、学校の仕事で手いっぱいで、そのような時間的な余裕はないということであった。そこで、大川さんの了解を得たうえで、私が英文化をし、東北数学ジャーナルに投稿した。その際、大川さんの修士論文では、不十分な結果しか得られていなかった、大川さんが与えた 3重点を含む通常特異点を 持った代数曲面の例の非特異正規化の 「モジュライ数」 は、私が計算した。これが大川さんと私の共著の論文 「Some results on the local moduli of non-singular normalizations of surfaces with ordinary singularities, Tohoku Math. J., 40, 269-291, 1988」 である。ネットで調べてみると、大川さんは、2018年4月現在、北海道旭川市の 高校に在職されているようである。いまだ一度もお会いしたことのない共著者である。


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学位論文その後

私の学位論文となった研究の主要結果は、1983年9月、早大であった日本数学会の「秋の学会」 (総合分科会) で発表した。その当時、 千葉大学におられた、後の東工大教授、福田拓生さん宛の1983年11月11日付の手紙のコピーが残っていて、それによると、この発表の直後、私は、ソース多様体の次元 n と ターゲット多様体の次元 p の組 (n, p) が“nice range” に入っていない場合の「生成射影(generic projection)」 (=一般線型射影) は 「位相的に安定な写像になるか」 と いう問題を考えていたようである。 福田さん宛の手紙は、日本数学会の和雑誌「数学」第34巻2号に載った福田さんの論説「微分可能写像の特異点論」を見てのものだった。 手紙では、この記事の参考文献に挙げてあった、「Topological Stability of Smooth Mappings, Springer Lecture Notes in Mathematics, No.552」 中の 「C∞-写像の 位相安定性定理」 の証明方法が、私が考えている問題の解決に有効かどうかを訊ねている。私のそれまでの研究は、(n, p) が“nice range” に入っている場合を扱っていたので、 それに当てはまらない場合はどうなっているかを考えるのは自然なことであった。福田さんからは、丁寧な返事を頂いたが、この問題は難しく、その後、何も進展しなかった。 しかし、このことが縁で、1985年2月、伊豆大川セミナーハウス (日大法学部所属) であった、福田さんを研究代表者とする研究集会 「特異点シンポジウム」 で発表をさせて頂く機会を 得た。私がこの発表を終わった直後、まだ黒板近くに留まっていた私に近づいて来て、私の研究についてあれこれ意見を述べる者がいた。この人は、当時、東工大におられた岡睦雄さん であった。小平邦彦先生の娘さんと結婚した、東大の後輩がいるということは聴いていたのだが、この人こそ、その人であった。1980年3月、東大の内地留学から帰る直前に、 中落合の小平邦彦先生のご自宅を訪ねたことは、前に書いたが(「数学研究の進展」 を参照)、その際、家の門柱に、「小平邦彦」 の表札と並んで、「岡睦雄」 の表札が懸っていた ことを思い出した。その後、岡睦雄さんとは、特異点関係の研究集会で一緒になることが多くなったが、お会いしたのは、この時が初めてであった。研究集会のプログラムを見ると、 他に、福井敏純さん(都立大)、泉屋周一さん(北大)、石川剛朗さん(京大)、中居功さん(京大) (所属はいずれも当時のもの) らの名前がある。これらの人達とも、岡さんと同様、その後、 特異点関係の研究集会で一緒になることが多くなった。


学位論文を書き始めたのは1984年に入ってからと思われる。1985年の8月初旬に、完成稿を中野茂男先生のもとに送っている。中野先生の 依頼によることなのだが、学位申請論文の審査に先立ち、私の論文を、同僚の宮嶋公夫さんと、当時、京大教養部におられた、後の大阪大学教授、藤木明さんに、正誤のチェックを 含めて丁寧に読んで頂き、一方ならぬお世話になった。その年の晩秋、10月末か11月初めだったと思うが、京大数理研で審査委員会が開かれ、審査委員の面前で論文の内容を説明し、 審査委員の質問に答えた。京都大学での授与式で、「学位記」を手にしたのは、1986年3月24日のことである。


1993年になって、学位論文の続編とも云うべき論文を二編、刊行した。「Global existence of the universal locally trivial family of analytic subvarieties with locally stable parametrizations of a compact complex manifold (コンパクト複素多様体の局所安定なパラメトライゼーションを持った解析的部分 多様体の局所自明な変位の普遍族の大局的存在)」(J. Fac. Sci. Univ. Tokyo 40, No. 1, 161-201)と 「On deformations of locally stable holomorphic maps (局所安定な 正則写像の変形について)」 (Japan. J. Math. 19, No. 2, 325-342) がそれである。一つ目の論文は、「通常特異点を持つ解析的部分多様体」 と 「正規交叉な解析的集合」 を統一し、 かつ一般化した概念として、「局所安定なパラメトライゼーションを持った解析的部分多様体」なるものを定義し、任意に固定したコンパクト複素多様体の中で、これらの部分多様体 の局所自明な変位に関する普遍族が大局的に存在することを示したものである。これは、私の学位論文の「大局化」であり、難波誠さんの学位論文 「A study of complex families of compact complex manifolds, Thesis, Columbia Univ. (1971)」 の Part II、Chapter 6 「Maximal families of surfaces with ordinary singularities」 の高次元化になっている。 二つ目の論文は、写像のソース多様体とターゲット多様体を共に変形するという、学位論文で扱ったよりも少しだけ一般的な写像の変形において、「局所安定な正則写像の微小変形は 局所安定な正則写像である」 こと、および、「局所安定正則写像の変形は、無限回微分可能なカテゴリーでは自明な、写像の変形である」 こと (したがって、位相型は一定)を示した ものである。これらの論文を以て、これに関連した一連の研究に一区切りつけることが出来たと思う。。 


私の数学研究のテーマは、標語的に云うと、「射影的方法による複素代数多様体の位相的、解析的研究」 である。ここで、「射影的方法」 と いうのは、十分高い次元の複素射影空間 P^N(C) に埋め込まれた代数多様体 X を、「生成射影(generic projection)」(=一般線型射影)によって、余次元が 1 になるように、 P^N(C) の線型部分空間 (複素射影空間) に射影して得られる像 Y を通して、元の多様体 X を研究することを云う。代数多様体 X の次元を n とすれば、n<=14 ならば、 (n, n+1) は、Mather の意味での “nice range” に入っていることがわかるので、この場合の 「生成射影」 は 「局所安定な正則写像」 となり、したがって、像 Y は、P^{n+1}(C) 内の “通常特異点を持った超曲面”となる (“通常特異点”の定義による)。なぜ、「超曲面モデル」 を考えたかと云うと、超曲面は射影空間の中で、一本の斉次多項式で定義できるので、扱いが簡単で あろうと考えたからである。通常特異点を持った超曲面モデルを通して代数多様体を研究する方法は、3次元以下の代数多様体の古典的な研究方法であった。


私の研究テーマに云うところの、複素代数多様体 X の 「解析的性質」 というのは、「複素構造の変形」 と、これに関連した 「局所トレリの 問題」、もしくは、「無限小トレリの問題」 のことである。これまでも 「複素構造の変形」、「局所モジュライ」、「局所トレリの問題」 という言葉は幾度となく登場していたが、 詳しい説明はしてこなかった。これらの言葉の厳密な定義は、上野健爾・清水勇二共著「複素構造の変形と周期―共形場理論への応用」 (岩波書店、2008年刊) を参照して頂くことに して、ここでは直観的な説明を試みることにする。まず、複素多様体 X を、下部構造である位相多様体 X (または微分多様体 X) の上に、「複素構造」(=複素多様体としての構造) が一つ載っていると考える。この 「複素構造」 は、下部構造である位相多様体の構造を保ったまま、いくつかのパラメーターに正則 (=複素解析的)(holomorphic = complex analytic) に依存しながら変化するという現象が起こる。これが 「複素構造の変形」 である。「複素構造の変形」 は、もともとは、閉リーマン面 (複素1次元のコンパクト複素多様体 =複素代数曲線) のモジュライ (moduli=modulus の複数形) の研究に端を発しているのだが、高次元複素多様体の 「複素構造の変形」 を最初に研究したのは、小平邦彦と D. C. Spencerであった。彼らは、複素多様体 X の複素構造の変形族 {Xt}t in (M,o) (ここで、(M,o) は、一点 o が指定された複素解析空間で、Xo = X、 M をこの族の 「パラメーター空間」 という) で、X の複素構造に十分近い複素構造をすべて含み、かつ 「無駄がない」 ような族 (complete, effectively parametrized family) で、 パラメーター空間 M が非特異であるようなものが存在するとき、複素多様体 X は 「局所モジュライ」 を持つといい、パラメーター空間 M の複素次元 dimcM を、複素多様体 X の 「モジュライ数」 と呼んだのである。彼らは、また、複素多様体 X が 「局所モジュライ」 を持つための十分条件を与えている。他方、パラメーター空間 M が特異点を持つことを 許せば、常にこのような族が存在することを示したのが、倉西正武であった。このような性質を持った、複素構造の変形族 {Xt}t in (M,o) を 「倉西族」 と云う。


ところで、複素代数多様体 X の下部構造である位相多様体の性質を反映したものとして、(複素係数の) コホモロジー群 H^p(X, C) (0<=p<=dimcX、dimcX は X の複素次元) がある。X の実次元は 2dimcX なので、dimcX +1<=p<=2dimcX である p に対してもコホモロジー群は存在するが、ポアンカレの双対定理より、 X の実次元の半分 (= dimcX) までの p を考えれば十分である。これらは、複素数体上の有限次元(= X の p 次ベッチ数)ベクトル空間であり、これは X の複素構造の変形で変化せず、 一定である。X が複素代数多様体 (=ホッジ多様体)(もっと一般には、ケーラー多様体)の場合、このベクトル空間 H^p(X, C) には 「ホッジ分解」 と呼ばれるベクトル部分空間による 直和分解 Σ0<=i<=p H^{p-i,i}(H^{p-i,i} と H^{i,p-i} は互いに複素共役)がある。この 「ホッジ分解」 を用いて、 F^i =Σ_{0<=j<=q-i} H^{p-j, j} (1<=i<=q、ただし、q=[p/2]+1、[p/2] は p/2 を 越えない最大の整数) とおくと、部分空間による下降列 H^p(X, C) ⊃F^1⊃F^2⊃…F^q⊃F^{q+1} = {0} が得られるが、これが X の複素構造の変形ととともに、変形のパラメーターに正則 (=複素解析的)に依存しながら、ベクトル空間 H^p(X, C) の中を変位することを発見したのが、P. A. Griffiths であった。この “filtration” {F^i} は、“Hodge filtration” と呼ばれる。ついでながら、P. A. Griffiths が、複素構造の変形理論の創始者の一人である、D. C. Spencer のお弟子さんであることは、最近になって知ったばかりである。 Griffiths が発見した、ベクトル空間 H^p(X, C) (以下、これを Vp と表わす)の “Hodge filtration” {F^i} の 「分類空間」(classifying space) は、「旗多様体」 Flag (p1, p2, …, pq, Vp)(pi = {F^i の次元}、1<=i<= q=[p/2]+1) である。したがって、複素代数多様体 X の複素構造の変形族{Xt}t in (M,o) が与えられたとき、 パラメーター空間 M から旗多様体 Flag (p1, p2, …, pq, Vp) (Vp=H^p(X, C)、0<=p<=dimcX) への正則写像 Φ が決まるが、複素構造の変形族 {Xt}t in (M,o) が Xo の 「局所モジュライ」 を与えているとき、パラメーター空間 M から旗多様体 Flag (p1, p2, …, pq, Vp) への正則写像 Φ が、点 o の近傍で、1対1の埋め込み写像になっているかを 問うのが、「局所トレリの問題」 である。正則写像 Φ のヤコビ写像 dΦ が、点 o における M の接空間で1対1写像になっているかを問うのが、「無限小トレリの問題」 である。 M が非特異のときは、「局所トレリの問題」 と 「無限小トレリの問題」 は同値になる。


正確に云うと、Griffiths が扱っているのは、複素代数多様体の一般の複素構造の変形ではない。Griffiths 理論では、複素代数多様体のうえに 、「偏極」(polarization)が与えられており、複素構造の変形は、この 「偏極」 を保つもののみを考える。複素代数多様体 X のうえに、「偏極」 を与えることは、X を十分高い次元 の複素射影空間 P^N(C) に埋め込んで考えることに対応しており、「偏極」 を保ったまま複素構造を変形することは、X を埋め込んだ複素射影空間 P^N(C) の部分多様体として変形する ことに対応している。これを 「偏極代数多様体の変形」 という。偏極代数多様体 X に対しては、原始コホモロジー群 H^p(X, C)_0 (primitive cohomology group) というものが定義でき、 ホッジ分解も可能である。さらに、原始コホモロジー群の上には、非退化かつ歪対称な2次型式 Q があり、この Q に関するホッジの双一次関係式と指数定理により、偏極代数多様体 X の複素構造に対応する H^p(X, C)_0 の “Hodge filtration” H^p(X, C)_0⊃F_0^1⊃F_0^2⊃…F_0^q⊃F_0^{q+1} = {0} (q=[p/2]+1))は、Q に関するある種の条件をみたしている。このことより、 偏極代数多様体 X の偏極を保ったままの変形に現れる複素構造の 「分類空間」 は、「旗多様体」 Flag (p01, p02, …, p0q, V0p) (V_0^p = Hp(X, C)_0、p0i = {F_0^i の次元}、 1<=i<=q) のある部分多様体 Zp のザリスキー開部分集合 Dp となる。これが “Griffiths domain” と呼ばれるものである。さらに、これを Dp に作用するある種の離散群 Γ (与えらえた偏極代数多様体の族のモノドロミー群が関係する)で割った商空間 Dp/Γ が、“Griffiths の modular variety”である。偏極代数多様体の族{Xt}t in M のパラメーター空間 M から、“Griffiths の modular variety” への自然な正則写像 Φ を 「周期写像」 というのは、この写像が偏極代数多様体 Xt 上の有理型式の周期積分 (Xt のホモロジー群の基底を与える サイクル上の積分) によって与えられることによる。偏極代数多様体の族 {Xt}t in M で、M の各点で、前に説明した意味で、“complete, effectively parametrized” であるような 族が与えられたとき、パラメーター空間 M の全体から、“Griffiths の modular variety” Dp/Γ への自然な正則写像 Φ が1対1の埋め込み写像になっているかを問うのが 「大局的トレリの問題」である (一般には、もっと弱く、複素代数多様体 X に入る複素構造の全体集合とも云える、“粗モジュライ空間”というものを考え、その上での周期写像の単射性を問う)。


Griffiths 理論の応用という観点からすると、各 Xt が非特異であるような偏極代数多様体の族 {Xt}t in (M,o) が極限において退化して 特異点を持ったとき、 Xt の原始コホモロジー群 H^p(Xt, C)_0 の“Hodge filtration” H^p(Xt, C)_0⊃F_0^1(t)⊃F_0^2(t)⊃…F_0^q(t)⊃F_0^{q+1}(t) = {0} がどのように退化するかを知る ことが重要で、これは “Griffiths の modular variety” をいかにうまくコンパクト化するかという問題と深く関わっている。臼井三平さん と 加藤和也さん (東大名誉教授、 現・シカゴ大教授) は、この方向で研究を進められ、その成果を 2009年1月 に、大著 「Classifying Spaces of Degenerating Polarized Hodge Structures, Annals of Mathematics Studies No.169, Princeton University Press」 として出版された。Griffiths は初期の論文で、彼の“modular variety” の 「部分コンパクト化」 に言及しており、この観点から すると、臼井さんと加藤さんのこのお仕事は、Griffiths理論の正道を行ったものだと思う。加藤和也さんが共著者になっておられるのは、加藤さん等による、「Log 構造の理論」 が 関係してくるからであるらしい (cf. K. Kato : Logarithmic structure of Fontaine-Illusie, in Algebraic Analysis, Geometry and Number Theory, Johns Hopkins Univ., 191-224 (1988)、 L. Illusie : Logarithmic spaces (according to K. Kato), in Barsotti Symposium in Algebraic Geometry, Perspect. Math. 15, Academic Press, 183-203 (1994))。私は、Griffiths 理論を大域的観点から考察するところまでは手が回らず、「トレリの問題」 を、もっぱら 「局所的」、もしくは 「無限小的」 に考えていたのである。 私の手元には、臼井さんから贈られた署名入りの上述の本がある。この本を眺めながら、1977年に臼井さんと共同研究を行って以来、流れた40年近い歳月に想いを馳せるとき、感慨ひとしおのものがある。


複素代数多様体 X のコホモロジー群 H^p(X, C) に関しては、「ホッジ予想」 と呼ばれる有名な未解決問題がある。これは、 p が偶数 (=2c) のとき、H^{2c}(X, C) 部分空間 H^{c,c} に属するコホモロジー類はすべて 「代数的サイクル」 を含むかというもので、アメリカのクレー数学研究所 (CMI) の “millennium problem” (千年紀問題) の一つになっており、100万ドルの懸賞金がついている。Griffiths が、後に 「Griffiths理論」 と呼ばれるようになった彼の理論を創始した当初は、この 「ホッジ予想」 も念頭にあったのではないかと思われるが、この方面に関するその後の研究がどのように展開したかについては、私は知らない。2014年、Griffiths には、「Griffiths理論」 を含む いくつかの重要な研究業績に対して、「チャーン賞 (Chern Medal)」 が授与された。チャーン賞 は、中国出身の微分幾何学者、陳省身を記念して、2010年のインド、ハイデラバード の国際数学者会議 (ICM) で創設された賞で、生涯にわたる群を抜く業績を挙げた数学者に贈られるものである。


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ある種の無限小混合トレリ問題

ドリーニュ(Pierre Deligne、1944−)という数学者がいる。1974年に、当時、数論の分野で懸案であった、 「ヴェイユ-リーマン予想」(いわゆる「ヴェイユ予想」)を解いて、1978年にフィールズ賞を受賞した、ベルギー生まれの俊英である。1944年生まれであるから、 私と同世代の数学者ということになる。ドリーニュは、その後も、代数幾何学、数論、表現論の分野において目覚ましい貢献をした。例えば、安定曲線のモジュライが コンパクトであることの証明(マンフォールドとの共同研究)や、「ヴェイユ予想」に帰着させることによる「ラマヌジャン予想」の解決などである。 彼は、 これらの業績により、2013年に、アーベル賞も受賞している。ちなみに、アーベル賞は、26歳で夭折した19世紀初頭のノルウエーの天才数学者アーベルの生誕200年を 記念して、2001年、ノルウエー政府によって設けられた賞である。フィールズ賞には40歳未満という年齢制限があるが、アーベル賞にはこのような制限はなく、 生涯に渡り顕著な業績を上げた「大家」に対して授与されるものとされている。


現在では、数学の「大家」と目されているドリーニュであるが、実を言うと、私が駆け出しの数学研究者であった京大数理研時代に、 ヨーロッパで、いち早く「グリフィス理論」に注目している数学研究者がいることに気付き、その後しばらく、その人の数学出版物の後を追ったことがあったのだが、 その人こそ、ドリーニュであった。 彼の出版物で、まず読んだのは、1970年に出た、シュプリンガーのレクチャー・ノート・シリーズの一冊、 「Equations Differentielles a Point Singuliers Reguliers, Lecture Notes in Mathematics 163」であった。私がこの著作に注目したのは、「グリフィス理論」には、 代数多様体の「レフシェッツ・ペンシル(Lefshets pencil)」に付随した「周期写像」に関連して、「ピカール・フックス方程式」という確定特異点を持つ微分方程式が 現れることがその理由であった(「京都での5年間」を参照)。 翌年の1971年には、彼の「Theorie de Hodge II, Publ. Math. IHES 40, 5-58」という、分厚い論文が 出てきた。 その後、私が鹿児島に移って2年後の1975年には、その続編である「Theorie de Hodge III, Publ. Math. IHES 44, 6-77」が出た。 グリフィスの 「ホッジ理論」に関心を持っていた私は、当然、ドリーニュの「ホッジ理論」も勉強しようと志したのだが、これらの著作はすこぶる難解で、当時の私が読みこなせるような 代物ではなかった。


そんなわけで、私は、10年から15年近く、ドリーニュの「ホッジ理論」から遠ざかっていたのだが、学位論文が一段落した 1985年頃から、再び、ドリーニュの「ホッジ理論」の論文を手にするようになっていた。なぜかと云うと、ドリーニュは、彼の「ホッジ理論」において、グリフィスの 「ホッジ構造」を一般化した「混合ホッジ構造(Mixed Hodge structure)」と呼ばれる数学構造を定義し、さらに、「任意」の複素代数多様体のコホモロジー群のうえには、 この「混合ホッジ構造」が入ることを示していたからである。ここで、「任意」というのは、その複素代数多様体が「完備(complete)」(=ザリスキー位相でコンパクト)で あるか否かを問わず、また、非特異であるか否かも問わないということである。 彼の理論によれば、私が学位論文で扱った、「通常特異点のみを持つ複素代数多様体の 局所自明な変形族」からは、自然に、「混合ホッジ構造の変形族」が生ずることになる。それ故に、非特異複素代数多様体の「局所トレリ問題」(または「無 限小トレリ問題」)を、「通常特異点のみを持つ超曲面モデル」を通して研究するという私の立場からすれば、次のような問題を考えることは、ごく自然なことであった。

(1) 通常特異点のみを持つ複素代数多様体Yの「混合ホッジ構造」はどのように記述されるのか? また、通常特異点のみを持つ複素代数多様体Yの局所自明な変形族 {Yt}t in (M,o) (Yo = Y)(記号は「学位論文その後」を参照)から生ずる「混合ホッジ構造の変形族」はどのように記述されるのか?

(2) 通常特異点のみを持つ複素代数多様体Yを正規化して得られる、非特異複素代数多様体Xの「ホッジ構造」と Y の「混合ホッジ構造」はどのように関係しているのか?

(3) 通常特異点のみを持つ複素代数多様体Yの局所自明な変形族について、「局所混合トレイ問題」、または「無限小混合トレリ問題」をコホモロジー論的に 定式化できないか?

(4) (3)が出来たとして、非特異複素代数多様体 X の「局所トレリ問題」、または「無限小トレリ問題」と、X の「生成射影」として得られる、通常特異点のみを 持つ複素代数多様体 Y の「局所混合トレリ問題」、または「無限小混合トレリ問題」とはどのように関係しているのか?


80年代の半ばから、90年代の終わりにかけて、私は、自分の学位論文の結果をできるだけ一般化することを目的とした論文を 書きながら、これらの問題を考えていた。私が学位論文を書き終わった丁度その頃、「混合ホッジ構造の変形」を扱った、J. Steenbrink & S. Zucker の論文 「 Variation of mixed Hogde structure I, Invent. Math. 80, 489-542 (1985)」と、柏原正樹さんの論文「A study of variation of mixed Hodge structure, Publ. Res. Inst. Math. Kyoto Univ. 2, 991-1024 (1986)」が相次いで出版されたことも、このようなことを考えるきっかけになったと思う。


ドリーニュの「Theorie de Hodge」の難しさは、まず、そこで駆使されている層係数コホモロジー論にあった。私がそれまで 知っていた層係数コホモロジー論は多変数関数論的なものであったが、ドリーニュのそれは、極めて代数的なものであり、しかも、圏論的(categorical)なもので、 「導来圏」、「導来函手」、「ハイパー・コホモロジー」などの高度な抽象概念が駆使されていた。いわゆる「グロタンディーク流」の層係数コホモロジー論である。


ここで、数学者グロタンディーク(A. Grothenndieck、1928−2014)と、彼の時代の数学研究の動向について触れておくこと にする。グロタンディークは、私が学生だった頃の伝説的数学者と云える人物である。当時、パリ郊外のポルト・ドフィンの近くにあった、 IHES(Institut des Hautes Etudes Scientifique、高等科学研究所)は、グロタンディークのために作られた研究所であると云われていた。1960年代の半ばから、 グロタンディークの著作(J. デユドネとの共著)、「Element de Geometrie Algebraique」(EGA)が、IHESの出版物「Publ. Math. de IHES」(いわゆる「青表紙」 として、次々に世に出ていた。グロタンディークが現れる前の代数幾何学者にとっては、ヴェイユ(Andre Weil, 1906−1998 )の「Foundations of Algebraic Geometry」 が標準的な教科書であった。ヴェイユは、数論への代数幾何的方法の導入を図り、この方法により、有限体上の代数曲線の合同ゼータ関数に関するリーマン予想の類似を 証明していた。さらに、高次元の代数多様体への一般化を予想し、コホモロジー群を用いた解決を示唆していた。いわゆる「ヴェイユ-リーマン予想」と、 適当なコホモロジー理論を用いた解決である。ヴェイユは、当時、活発に活動していたフランスの数学者集団、「ブルバキ」の創立メンバーの一人であった。 「ブルバキ」第二世代とも云うべきセール(J.P. Serre、1926−)は、ヴェイユの問題提起を受けて、適当なコホモロジー理論の構築を模索していたが、 グロタンディークは、このセールに導かれて数論、代数幾何学の道に入ったという。グロタンディークはセールの層係数コホモロジー理論を発展させるとともに、 数論への応用を見込んで、整数係数の方程式で定義された代数多様体を調べる方法として、「スキームの理論」を創出した。当時、グロタンディークの著作 「Element de Geometrie Algebraique」は、「ヴェイユ予想」の解決へ向けた壮大なプログラムの第一歩であると見なされていた。


ドリーニュは、グロタンディークの「後継者」とも云うべき数学者である。ドリーニュは、14歳でブルバキの「数学原論」 を読みこなし、ブリュッセル自由大学に入るころには既に大学の数学をすべて終えていたという。グロタンディークは、IHESを訪れたドリーニュの才能を直ちに見抜き、  弱冠26歳のドリーニュをIHESの教授に強力に推薦したという。ドリーニュがIHESの教授になったのは1970年のことである(山下純一著「グロタンディーク―数学を越えて」、 日本評論社、2003年)。


グロタンディークの層係数コホモロジー論と云えば、まず論文“Sur quelques points d’algebre homologique (ホモロジー代数のいくつかの観点について)”(Tohoku Math. J, Vol.9, 119-221, 1957)であろうが、私が必要になってグロタンディーク流の層係数コホモロジー論を 勉強したのは、鹿児島に移ってからであった。ドリーニュの「Theorie de Hodge III, Publ. Math. IHES 44, 6-77, 1975」が出版されてすぐの1976年、岩波書店から、 「岩波講座、基礎数学」(全24巻、79分冊)が続々と刊行され始めた。この講座の中に、河田敬義著「ホモロジー代数学 I, II」があった。 この本は、 「圏と函手」(Category and Functor)の解説から始まっていて、まさに、グロタンディーク流の層係数コホモロジー論の教科書と云えるものであったので 、私はこの本には大変お世話になった。


ドリーニュの「Theorie de Hodge」のもう一つの難しさは、複素代数多様体の「semi-simplicial hyper-resolution(半単体的超特異点解消)」 の「存在証明」にあった。ドリーニュが定義した、複素代数多様体のコホモロジー群の上の「混合ホッジ構造」には、「Hodge filtration」(「数学研究その後」を参照) の他に、「weight filtration」と呼ばれる、複素代数多様体の「特異点」に関連した「filtration」があるのだが、この「weight filtration」の定義に、複素代数多様体 の「semi-simplicial hyper-resolution」が必要であった。ドリーニュが扱う複素代数多様体は、まったく「任意」の複素代数多様体であるから、完備(=complete)で ない(「位相的」に云えば非コンパクト)な複素代数多様体も含んでいる。ドリーニュの「ホッジ理論」では、与えられた複素代数多様体 X が完備でない場合は、Xの 「完備化」C(X)をとって、D=C(X)-X とおき、組 (C(X),D) に対して「semi-simplicial hyper-resolution」を構成するので、話はより一層複雑になる。ちなみに、 1971年に刊行されたドリーニュの論文「Theorie de Hodge II, Publ. Math. IHES 40, 5-58」では、非完備かつ非特異な複素代数多様体の「混合ホッジ構造」を扱っている。 この論文では、非完備かつ非特異な複素代数多様体 Xの「特異点」は「無限遠点」D=C(X)-Xであると考えていると云って良い。そして、D を「単純正規交叉因子」として、 「特異点解消」することにより、X の「混合ホッジ構造」が定義されるのである。私が以下で扱うのは複素代数多様体 X が完備な場合なので、この場合は D は空集合となり、X の「semi-simplicial hyper-resolution」を構成すれば十分である。簡単のため、以下においては、この場合に限って話を進めることにする。


まず、「半単体的圏(semi-simplicial category)」Δ の説明からはじめる。一つの「圏(category)」は、「対象(objects)」と 「射(morphisms)」からなるのであるが、「半単体的圏」Δの「対象」は、位相幾何学で標準的な「p次元単体(p-simplex)」Δp (p=0, 1, 2, 3, …)の全体である。 各Δp (p>=1)はその境界面として、p+1 個の Δ_{p-1} を含んでいるから、Δ_{p-1}からΔp への自然な写像が p+1 個ある。これらは「面写像(face map)」と呼ばれるが、 「半単体的圏」Δの「射」は、この「面写像」の全体である。これらの写像とは別に、「退化写像(degeneration map)」と呼ばれる、ΔpからΔ_{p-1} への写像(全部でp個) があるが、この写像も「射」の中に含めて考えたのが、通常の「単体的圏(simplicial category)」である。しかし、「半単体的圏」Δの場合は、「退化写像」は「射」 には含めないので、「半(semi-)」という名前がついているのである。「対象」を n次元以下の「単体」に制限した Δ の「部分圏」を Δ[n] で表わし、 「n-切断半単体的圏(n-truncated semi-simplicial category)」と云う。「n-切断半単体的圏」Δ[n] から複素代数多様体の圏への「反共変(cotravariant) 函手(functor)」 F による「像」を、「(n+1) 半単体的複素代数多様体((n+1)- semi-simplicial, complex algebaraic variety )」と云う。Xp:= F(Δp) とおき、 この「(n+1) 半単体的複素代数多様体」を、F(Δ[n]):={Xp} と表わすことにする。これらは「反共変函手」 Fによる像であるから、Δ[n] における「面写像」の「像」と して、F(Δ[n]) においては、Xp から Xp-1 へ、 p+1 個の複素代数多様体としての「射」が存在していることになる。しかし、以下においては、 これらの「射」は、記載上の技術的困難により省略して記す。与えられたn次元完備複素代数多様体 Y に対して、次の3条件を満たす「(n+1) 半単体的複素代数多様体」 F(Δ[n]):={Xp} を、 Y の「semi-simplicial hyper-resolution(半単体的超特異点解消)」と云う: (1)すべての Xp は非特異である。(2)X0 から Y の上への 「射」が存在する (したがって、すべての Xp から Y へ「射」が存在する)。(3)これらの「射」により、「(n+1) 半単体的複素代数多様体」 F(Δ{n]):={Xp} の「上の」定数係数コホモロジー群(そのようなものが定義できる)は、Y の定数係数コホモロジー群に「降下」する。(3)の性質は「コホモロジー降下(cohomology descent)」 と呼ばれるものであるが、ここでは厳密な定義は与えない。与えられた複素代数多様体 Y の定数係数コホモロジー群が、非特異複素代数多様体の族である、 「(n+1) 半単体的複素代数多様体」 F(Δ[n]):={Xp} の「上の」定数係数コホモロジー群によって記述できることを主張しているのである。


特異複素代数多様体 X の「semi-simplicial hyper-resolution」の構成には、広中平祐氏の「特異点解消定理」が 使われるのであるが、私が、ドリーニュの「semi-simplicial hyper-resolution」の「存在証明」に難渋していた1988年、シュプリンガーのレクチャー・ノート・シリーズの一冊として 、F. Guillen, V. Navarro Aznar, P. Pascual-Gainza, and F. Puerta による「Hyperresolutions cubiques et descente cohomolologique」 ( Lecture Notes in Math.1335, Springer, Berlin)が出てきた。この著者達は、スペインのバルセロナ大学を中心とした代数幾何学者のグループである。 彼らはこの本の中で、「半単体的圏」Δの代わりに、「立体的圏(cubical category)」 □ なるものを考え、任意の複素代数多様体に対して、「立体的超特異点解消 (cubical hyper-resolution)」が存在することを示していた。ここで「立体的圏(cubical category)」 □について説明しておこう。定義はすこぶる簡単である。 圏 □の「対象(objects)」は順序を含めて考えた自然数の集合 N の「部分集合」の全体である。「部分集合」には空集合も含んでいることに注意する。 圏 □の 「射(morophisms)」は、Nの有限部分集合 I 、J に対して、I⊂J かつ | J |=| I |+1(| J |、| I |はそれぞれ、有限集合 J、 Iの個数)であるときに限り、「対象」 I から 「対象」 J への「射」が「唯一つ」存在する。ここで、この「射」は部分集合としての「包含写像」をさしているわけでないことに注意する。単に「矢印」と考える。 順序を含めて考えた、N の有限部分集合 {0,1,…,n}を記号 [n] で表わし、「対象」を [n] に含まれる部分集合だけを考えることにより、圏 △のときと同様に、 「n-切断立体的圏(n-truncated cubical category)」□[n] が定義される。このような圏 □ を、なぜ「立体的圏(cubical category)と呼ぶかについては、 圏 □[n]が次のようにも表現できることから理解できよう。圏 □[n] の「対象」、すなわち、[n]={0,1,…,n}の部分集合の全体は、0, 1 のみを要素とする n+1 次元ベクトルの全体と完全に対応しているから、圏 □[n] の「対象」は、n+1 次元ベクトル、(0,…,0), (1,0,…,0), …, (0,0,…,1), …,(1,1,…,1) となるが、 これらは、n+1 次空間おける、稜の長さが1 の「立体(cubic)」の頂点に他ならない。このように表現したときの圏 □[n] の「射」は、圏 □[n]  の「対象」である二つの n+1 次元ベクトル α=(α0,…,αn)、β=(β0,…,βn)に対して、αi<=βi がすべての i=0,….n に対して成立し、かつ |β|=|α|+1 (|α|=Σαi、|β|も同様)であるとき、その時に限り、α からβ への「射」(矢印→)が「唯一つ」存在することになる。


バルセロナの代数幾何学者たちの「cubical hyper-resolution」から、ドリーニュの「semi-simplicial hyper-resolution」は 簡単に構成でき、したがって、「すべて」の複素代数多様体のコホモロジー群の上の「混合ホッジ構造」は「cubical hyper-resolution」を用いて記述できる ことになる。私はこれを見るなり、直ちに、通常特異点のみを持つ、2次元、3次元の複素代数多様体の「混合ホッジ構造」の記述には、「cubical hyper-resolution」が、 すこぶる相性がいいこと、さらに、彼ら(特にF. Guillen)の証明を「相対化(relativization)する」(個々の複素代数多様体に関して成立する「命題」を、 「複素多様体の変形族」に対して証明することを「相対化する」と云う)ことにより、通常特異点のみを持った、2次元、3次元の複素代数多様体の局所自明な変形族から 「混合ホッジ構造の変形族」が自然に生ずることも証明できることに気づいた。このことを、私の学位論文の内容とともに、1993年5月10日〜14日、モスクワであった 国際研究集会 “International Geometrical Colloquium”において、“Locally stable holomorphic maps and their application to a global moduli for analytic subvarieties”と題して発表した。これは、1996年になって、Journal of Mathematical Science , Vol.82, No.6(pp. 3859-3864)に掲載された。


日本において、ドリーニュの「混合ホッジ構造」の記述に、「cubical hyper-resolution」を用いたのは、私が最初であると 思う。当初、私は、「hyper-resolutions cubiques」の訳語として、「cubic hyper-resolution」を用いたが、「cubic」という語は、「3次」とか「立方体」とかの 限定的な意味で使われることが多いので、「cubical hyper-resolution」(立方体的超特異点解消)という訳語の方が良いようである。2008年に出た、 オランダ人数学者 C.A.M. Peters と J.H.M. Steenbrink 共著の「混合ホッジ構造」に関する教科書、「Mixed Hodge Structures」(Ergebnisse der Mathematik und ihrer Grenzgebiete, Vol. 52, Springer, Berlin Heidelberge)においても、混合ホッジ構造の weight filtration の構成に、cubical hyper-resolution が 使われているが、ここでも、「cubiques」の訳語には「cubical」が用いられている。ちなみに、この本の「付録」には、この本の内容を理解するに必要な 「ホモロジー代数」が説明してあるので、初学者には大変都合が良いと思われる。


私は、前述のモスクワでの国際研究集会で、二人の外国人数学者と知り合いになった。フランス人数学者、ブラセレ (J. P. Brasselet, CIRM Luminy, マルセーユ)と、ノルウエー人数学者、ラウダル(O. A. Laudal、オスロー大学)である。ブラセレは、私の鹿児島大学の同僚、 與倉昭治さんの研究に関心を持っていて、彼の方から話しかけて来た。そして、その年の秋には、早速、鹿児島を訪ねて来た。それ以来、彼は度々、鹿児島を訪ねるようになり、 これは現在も続いている。ブラセレが鹿児島に来るようになってから、彼をオーガナイザーの一人とした特異点の国際研究集会が、度々、日本で開かれようになった。 彼とのつながりによって、鹿児島大学は日本の特異点研究の拠点の一つになったと思う。この意味で、彼は、鹿児島大学および日仏の特異点研究者の交流に多大な貢献を したと云える。


ラウダルは、私が研究発表を行った講義室での、私のすぐ後の発表者であったので、私の研究発表を聴いていた。私は、ピエネ(R. Pienne) の論文(F. Ronga と共著) “A geometric approach to the arithmetic genus of a projective manifold of dimension three” ( Topology, 20, 179-190, 1981)を知ったことが、 学位論文に結びついたことを、「数学研究の進展」の項で書いたが、このピエネはオスロー大学に所属していることを知っていたので、機会をみて、ラウダルにピエネのことをきいてみた。 私は、このとき初めて、ピエネが女性であることを知った。ピエネ には、“Polar classes of singular varities” (Ann. scient. ´Ec. Norm. Sup., 4e s´erie, t. 11, 247-276, 1978) という論文があり、彼女はこの論文の結果を応用して、2次元、3次元の通常特異点を持つ代数多様体の古典的な数値的特性数に関する公式を導いていた。私はこの、特異多様体の “polar classes” に関するピエネの論文に関心があった。高次元複素代数多様体を、その「一般射影」による像である、「通常特異点を持つ複素代数多様体」を通して研究しようとするとき、 ピエネのこの論文は、必読論文だと思ったからである。丁度この頃、私は、オランダの数学雑誌 Composio Mathematica に載った、クルストファーセン(J.A. Christophersen)という人の論文、 “Hypersurface sections and obstruction (rational surface singularities)” を、アメリカ数学会のレヴユー誌(MR)でレヴューしていたのだが、この人もオスロー大学に所属していた。後々、 この クルストファーセンは ピエネの年下の元夫であることを知ることになる。私はラウダルに、機会があったらオスロー大学を訪ねたいという私の気持ちを伝えた。


私はモスクワの研究集会から帰ってから、ラウダル に、約束していた私の論文の別刷一式を送った。これには ピエネ と クリストファーセン 宛のものも含まれていた。また、オスロー大学が適当な期間、私を受け入れてくれる可能性はないかどうか尋ねる手紙も同封した。 このような手紙を書いた一番の動機は、やはり、私の研究と密接に関係していると思われる、ピエネの仕事を身近なところで、もっと詳しく知りたいということであったと 思う。丁度その頃、私の学位論文関係の研究が一段落ついて、次の研究へ向けた準備期間にあり、これからの研究には、ピエネ の特異多様体の特性類に関する研究が 大いに役に立つと思ったのだと思う。当時の私は次のような事も考えていた。私が学位論文の続編として発表した、 「Global existence of the universal locally trivial family of analytic subvarieties with locally stable parametrizations of a compact complex manifold (コンパクト複素多様体の局所安定なパラメトライゼーションを持った解析的部分多様体の局所自明な変位の普遍族の大局的存在)」 (J. Fac. Sci. Univ. Tokyo 40, No. 1, 161-201)では、コンパクト複素多様体の中の「解析的部分多様体」を扱っていたが、実際に 「局所安定なパラメトライゼーションを持った解析的部分多様体」の具体例として現れるのは、埋蔵多様体が射影的代数多様体の場合であり、この場合は、その中の 局所安定なパラメトライゼーションを持った部分多様体の全体集合には自然に代数的構造が入るに違いないということである。ラウダル は形式モジュライの専門家であったので、 この事について新しい知見が得られるかも知れないという期待もあった。付け加えれば、翌年の1994年の夏に、スイスのチューリッヒで、国際数学者会議(ICM)が開かれる ことになっていたので、これに出席し、その足でオスロに向かえば、旅費が節約できるという思いもあった。


その年の末に、ラウダルから、翌年、1994年の9月から私を受け入れてもよいという、返事が届いた。私にとって幸運だったのは 、1994年度の9月から、ノルウエー科学アカデミーの高等研究センター(CAS、ノルウエー語では SHS)で、代数幾何学に関するプロジェクト研究が実施されることになっており、 そのリーダーをラウダルが務めることになっていたことである。この研究グループの一人として、私を受け入れるということであった。したがって、私の滞在先は、 ノルウエー科学アカデミーの高等研究センターであった。ノルウエーと云えば、数学者なら誰でも知っている、N. H. アーベル(Niels Henrik Abel、1802-1829)と M. S・ リー(Marius Sophus Lie、1842-1899)の故郷である。また、小説家のイプセン(H. J. Ibsen、1828−1906)、作曲家のグリーク(E. H. Grieg、1843−1907)、 画家のムンク(E. Munch、1863−1944)などの小説家・芸術家を生んでだ国である。北極探検家ナンセン(F. W.-J. Nansen、1861- 1930)や初の南極到達者アムンゼン (R. E. G. Amundsen、1872- 1928) もノルウエー人であることを想起する人もいるかも知れない。私はまだ見ぬ国、ノルウエーに思いを馳せながらノルウエー語の勉強を始めた。 しかし、ノルウエー人男性の平均身長は約180cm、ノルウエー人女性の平均身長は約170cmであることを知ったときは、身長162cm の私は少し心配になった。 折しも、1994年の2月、ノルウエーのリルハンメルで冬季オリンピックが開かれ、その模様がテレビで放映されたので、いち早くノルウエーの雰囲気に触れることが出来た。


1994年、8月3日〜11日、スイスのチューリッヒで開かれた国際数学者会議(ICM94)に出席し、その頃書き始めていた論文 “Variations of mixed Hodge structure arising from cubic hyper-equisingular families of compact complex algebraic varieties” の概要をポスター・セッション (short communication)で発表した。国際会議の前の7月26日〜30日に、パリ第7大学であった、代数的K理論に関するICM94のサテライト研究集会にも出席した。


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3次元複素代数多様体のチャーン数

チャーン(陳省身、 Shiing-Shen Chern 、1911−2004)は、中国精華大学出身の数学者で、20世紀を代表する微分幾何学者の一人である。 1930年代半ば、ヨーロッパに渡り、 E. Cartan(1869−1951)から、当時の最先端の微分幾何学を学んだ。その後、清華大学教授、プリンストン高等研究所研究員、シカゴ大学教授、カリフォルニア大学バークレー校教授を 歴任している。彼は、コンパクト複素多様体 Xの上の複素ベクトル・バンドルπ:E→X に対して、Eの「接続形式」に付随した「曲率形式」を用いて、或るやり方(チャーン・ヴェイユ対応)で、 ド・ラム・コホモロジー類、ci(E) in Hdr^2i(X) (X の2i次ド・ラム・コホモロジー群の元、i=0, 1, …,e=dim F(複素次元), F は複素ベクトル・バンドルπ:E→Xのファイバー)を定義し、 その基本性質を明らかにした。このci(E)を複素ベクトル・バンドルEの「チャーン類」と云う(S.S. Chern: Topics in Differential Geometry, Institute for Advanced Study, Princeton, 1951)。 チャーン類の厳密な定義および基本性質については、S.チャーン著(藤木・本多訳)『複素多様体講義』(シュプリンガー数学クラシックス、第17巻、2005年)、 今野宏著『微分幾何学』(大学数学の世界(1)、東京大学出版会、2013年刊)の第7章、Griffiths & Harris 『Principles of Algebraic Geometry』 (Wiley Interscience、1994)のChapter3、Section3 などに述べられているので、それらを参照して頂くことにして、ここでは省略する。チャーン類が重要なのは 、コンパクト複素多様体XとX上の複素ベクトル・バンドルEに対して、次の「一般化されたリーマン・ロッホの定理」が成立するからである:


  χ(X,E)=∫x ch(E)・td(X)


ここで、χ(X,E)は、Eの正則な切断(cross-sections)がなす層O(E)に対して、


χ(X,E)= Σ(-1)^i H^i(X, O(E)) (i について 0 から n までの和)


で定義される、EのEuler- Poincare characteristic と呼ばれる数である。ここで、n=dimcXである。この式の 右辺の積分記号の中のch(E)は、あるやり方で定義される、Eのチャーン類、ci(E)(i=0, 1, …,e=dimcF)に関する有理数係数の形式的べき級数で、Eの Chern character と呼ばれるもの、td(X)も、あるやり方で定義される、 Xのチャーン類、ci (i=0, 1, …,n=dimcX)に関する有理数係数の形式的べき級数で、XのTodd類と呼ばれるものである。ただし、複素代数多様体Xのチャーン類とは、Xの接バンドルのチャーン類をいう。この公式は、まず、 ヒルツェブルフ(F. Hirzebruch、1927−2012)によって、複素代数多様体の場合に証明され(F.ヒルツェブルフ著・竹内訳 『代数幾何における位相的方法』、吉岡書店、1970年刊を参照)、その後、M. F. Atiya と I. M. Singer に よる、スピン多様体の上の複素ベクトル・バンドル間の楕円型微分作用素に関する「指数定理」(Index Theorem)によって、複素解析多様体の場合にも成立することが示された。古典的には、代数曲線XとX上の因子D=Σpi-Σqi (符号付き点の有限和)が与えられたとき、高々Σpiを極に、Σqiを零点に持つ有理型関数が、どれくらいあるかを示す、リーマン・ロッホの定理というものがあったが、ヒルツェブルフの定理は、その一般化と云えるものであるので、 「リーマン・ロッホ・ヒルツェブルフの定理」と呼ばれることがある。


ついでながら言及しておくと、古典的には、XがN次元複素射影空間P^N(X)に埋め込まれたn次元複素代数多様体Xの場合は、その「特性類」として、Tod canonical system と 呼ばれるものがあった。これは、Xをその接バンドルTXを用いて、グラスマン多様体G(n,N)の中へ埋め込み、この埋め込み写像による、G(n,N)の「普遍バンドル」のある種の「特性類」のXへの「引き戻し」として定義される。この「特性類」は、 複素n-i次元既約部分多様体(i=0,1,…,n)によって生成される自由加群を、有理同値0の元で生成される部分群で割って得られる商群An-i(X)(n-i次チャウ群)の元である。このTod canonical systemとXのチャーン類が互いに、 ポアンカレ双対の関係にあることを確かめたのが、私の京都大学数理解析研究所時代の上司であった、中野茂男先生である。この証明は、”Tangential vector bundles and Todd canonical systems of an algebraic variety”, Memoirs of the College of Science, University of Kyoto, Series A Vol. XXIX, Mathematics No.2, 1955, pp.145-149)にある。


私の数学研究の出発点は、大学院修士2年のとき、日本人初のフィールズ賞受賞者である小平邦彦先生の「複素多様体の複素構造の変形」と「代数曲面論」の講義を聴いたことで ある。これらの講義は、それぞれ、私の同級生の諏訪立雄君(元北海道大学)と山島茂穂君(元東京女子大学)によってまとめられ、東大数学教室セミナリー・ノート19、20として刊行されているので、現在でもその内容を知ることが できる。このうち、「代数曲面論」の講義の目的は、「一般型代数曲面」の「多重標準一次系」を用いた射影空間への埋め込みを調べることにあったのだが、講義の前半で、代数曲線の「リーマン・ロッホの定理」に相当する定理が代数曲面 の場合に証明されている。もちろん、この定理は、ヒルツェブルフによる、「一般化されたリーマン・ロッホの定理」から出てくるものではあるが、小平先生は、3次元複素射影空間内の通常特異点のみを持つ超曲面モデルを用いて証明された。 この証明の過程で、先生は、代数曲面Xのチャーン数 c2, c1^2を、その正規化がXとなる、3次元複素射影空間内の通常特異点のみを持つ超曲面Yの数値的特性数を用いて表わす公式を導かれた。そして、その証明の最後に、 「代数曲面Xの正則ベクトル場の層を係数とするコホモロジー群の次元を、その正規化がXに等しくなる、3次元複素射影空間内の通常特異点のみを持つ超曲面Yの数値的特性数を用いて表わす公式をつくれ」という問題 (以下、「小平の問題」と呼ぶ)を提出された。1973年、私が京都から鹿児島に移った当初は、この「小平の問題」を考えていて、具体的な計算をコツコツやっていた。そして、いくつかの結果を得た。また、小平先生の「通常特異点を 持つ代数曲面の局所自明な変位」に関する論文の内容を高次元化することを目的に博士論文を書いた。


一般的に、複素解析多様体Xの正則ベクトル場の層O(TX) (TXはXの接バンドル)を係数とするコホモロジー群H^i(X,O(TX))(特に、i=1,2)はXの「複素構造の変形」と深く 関係する量である。私にとって、複素代数曲面に関する「小平の問題」を、3次元複素代数多様体の場合に考えてみようと思うことは私の研究の流れからして自然なことであった。ここで、3次元複素超曲面Yが通常特異点のみを持つとは、 Yの任意の点に対して、その点を中心とする、埋蔵空間の複素解析的な局所座標を(x,y,z,w)をうまく選んだとき、Yが(局所的)に次のいずれかの式で定義されることを云う:


(1) w=0 (単純点)、 (2) zw=0 (通常2重点)、 (3) yzw=0 (通常3重点)、 (4) xyzw=0 (通常4重点)、 (5) xy2-z2=0 (尖点)、 (6) w(xy2-z2)=0 (停留点)


任意の3次元複素代数多様体Xは、十分高い次元の複素射影空間P^N(C)に埋め込んだ後、埋め込まれたXと十分一般の位置にある、P^N(C)の4次元線形部分空間P^4(C)へ 「線形射影」することによって、P^4(C)内の通常特異点のみを持つ超曲面Yが得られることがわかっている。このとき、Y の正規化がXとなる。私は、3次元複素代数多様体Xに対する「小平の問題」へのアプローチの第一歩として、 Xの接バンドルTXのEuler- Poincare characteristic χ(X,TX) = Σ(-1)^i H^i(X, O(TX)) (i について 0 から 3 までの和)

を、その正規化が X となる、4次元複素射影空間 P^4(C) 内の通常特異点のみを持つ超曲面 Y の数値的特性数を用いて表わす公式を 求めてみることにした。


 ch(TX)=3+c1+1/2(c12-2c2)+1/6(c13-3c1c2+3c3)+(4次以上の項)、

 td(X)=1+(1/2)c1+(1/12)(c12+c2)+(1/24)c1c2+(4次以上の項)


であるから、リーマン・ロッホ・ヒルツェブルフの定理より、3次元複素代数多様体Xの場合は、


 χ(X,TX)= ∫x (1/2)c13-(19/24)c1c2+(1/2)c3

 =(1/2)∫x c1^3-(19/24)∫x c1c2+(1/2)∫x c3、


となる。 ここに、c1, c2, c3 は X のチャーン類である。 定義より、複素接バンドル TX のチャーン類と複素多様体 X のチャーン類は同じものであることに注意する。 この式に現れる、

∫x c1^3 、∫x c1c2、∫x c3 

を3次元複素代数多様体Xの 「チャーン数」という。上の式より、Xの「チャーン数」がわかれば、χ(X,TX)がわかることになる。ところで、「一般化されたガウス・ボンネの定理」より、∫x c3は、Xのオイラー数χ(X)= Σ(-1)^i bi (i について 0 から 6 までの和、biはXのi次ベッチ数)に等しいことはわかっている。


また、KxをXの標準因子(X上の有理型3次形式の定める因子)とし、Kxが属する4次のホモロジー群の元、および Kx の定める直線バンドルを同じ記号[Kx]で表すと、直線バンドル[Kx]の1次チャーン類 c1([Kx])(Hdr^2(X)の元)と4次ホモロジー類 [Kx]とはポアンカレ双対定理によって、互いに双対の関係にある。ところで、標準因子 Kx の定める直線バンドル[Kx]はXの余接バンドル Tx*の3次外積バンドル Λ^3Tx*に外ならない。他方、Λ^3Tx*の1次チャーン類は余接バンドル Tx*の1次チャーン類 c1と一致する (Griffiths & Harris: Principle of Algebraic Geometry, p.414)。また、Tx* と Tx は互いに双対の関係にあるから、 c1(Tx)=−c1(Tx*) (Griffiths & Harris, ibid., p.408)。 以上より、Xの1次チャーン類 c1 は、ポアンカレ双対定理により、Xの整係数4次ホモロジー類 −[Kx] に対応していることがわかる。従って、∫xc1^3=−deg[Kx]^3 が成立する。 ここで、[Kx]^3 は、4次のホモロジー類 [Kx] の3重の交点サイクルを表す。これは0サイクル、つまり点のサイクルであるから、その次数(deg)が定まる。


チャーン数 ∫x c1c2 については、まず、Serreの双対定理から、χ(X,[Kx])=−χ(X,[1])。 ここで、[Kx]は、Xの標準因子 Kxの定める直線バンドル、[1]は「自明」な直線バンドル X×C)である。 ch([1])=1 であることと、既出のtd(X)の式より、


χ(X,[1])=∫x ch([1])・td(X)=(1/24)∫x c1c2


よって、∫x c1c2=−24χ(X,[Kx])を得る。


以上の考察より、私の目的を達するには、Xを、4次元複素射影空間内の通常特異点のみを持つ超曲面Yの正規化として得られる、3次元非特異複素代数多様体としたとき、 Xのオイラー数 χ(X)、deg[Kx]^3、および、Xの標準因子Kxが定める直線バンドル [Kx] の Euler- Poincare characteristic χ(X,[Kx]) を、Yの数値的特性数を用いて表すことができれば、χ(X,Tx) についても、同様な公式が得られることになる。χ(X)、deg[Kx]^3、χ(X,[Kx]) のうち、最も計算がデリケートなのは、オイラー数 χ(X)である。これを求めるために、小平先生が「代数曲面論」の講義中で用いられた方法を3次元代数多様体の場合に当てはめると次のようになる:


以下、Y を4次元複素射影空間Z=P^4(C)内の通常特異点のみを持つ超曲面、nx : X→Y をYの正規化写像、i : Y⊂Zを包含写像とし、f := i〇nx : X→Zとおく。Xは非特異な 3次元複素多様体となる。H0、H1を、YおよびYの特異点集合に対して、十分一般な位置にあり、かつ互いに正規直交する、Z=P^4(C)の中の二つの超平面とする。この超平面に対して、1次元射影空間P^1(C)でパラメトライズされた、 超平面の一次系 L:={H(λ: μ)=λH0+μH1}(λ:μ)?P^1(C)を考え、P∞:= H0∩H1、C∞:=P∞∩Y、Y(λ:μ)=Y∩H(λ:μ)((λ: μ)?P1(C))とおく。このとき、有限個の(λ: μ) ?P1(C))を除き、Y(λ: μ)はYの通常特異点に 起因する特異点のみを持つ曲面なので、正規化写像nx : X→Yによる引き戻し、X(λ: μ):=nx^(-1)( Y(λ: μ))は非特異曲面となる。このとき除外された(λ: μ) ?P1(C))を(λ: μ)i(1<=i<=c)とすると、各Y(λ: μ)iの上には、Yの 非特異点でそこでのYの接空間が、P4(C)の2次元線形部分空間P∞:= H0∩H1を含む点が1点だけ存在し、その点でY(λ: μ)iは非退化孤立2重点を持つことが証明できる。従って、写像fによるその引き戻しX(λ: μ)iは、やはり、1点だけ 非退化孤立2重点を持つ。Yの超平面切断による一次系L∩Y:={ Y(λ:μ)} (λ: μ) in P1(C)の、正規化写像nx : X→Yによる引き戻しは、C∞:=P∞∩Yのnxによる逆像、C∞*:=nx^(-1)(C∞)を固定点(底点)として持つので、 Xのファイバーリングを与えるわけではないが、非特異曲線C∞*に沿ってXをブロー・アップ(破裂)することによって得られる3次元複素代数多様体X*のファイバーリングを与えるので、X*のオイラー数が計算でき、従ってブロー・アップ(破裂)に よるオイラー数の変化を考慮に入れることにより、Xのオイラー数が計算できるのである。ただし、その前提として、一次系L∩Yの除外された点、(λ:μ) in P^1(C)(1<=i<=c)の個数cが計算できなければならない。代数曲面の場合、小平先生は、「極曲線」および「2次極曲線」を用いて、この数c を計算されているが、3次元代数多様体の場合はどのようにするかが問題である。


実は一般に、射影空間内に埋め込まれたn次元複素代数多様体Y(非特異、特異を問わない)に対しては、「極類」(polar class)と呼ばれる特性類、Mi(i=1,…,n)が n-i次チャウ群An-i(Y)の元として定義され、求むべき数cは、うえに述べた考察と「極類」の定義より、4次元複素射影空間内の通常特異点のみを持つ3次元超曲面Yのトップ極類M3の次数に他ならないことがわかる。 複素射影空間内の一般の特異超曲面Yの「極類」に関しては、Yの”singular subscheme” JY に対して定義される「セグレ類」を用いて表す公式が、R. Pienne の論文、”Polar classes of singular varities, Ann. scient. Ec. Norm. Sup., 4e serie, t.11, 247-276,1978“にあることは、早い時期から知っていた。一般に、記号S(V,W)によって表される「セグレ類」は、scheme Wとそのclosed subscheme Vに対して定義されるもので、VのWの中でのCone C→Vの コンパクト化(射影化)P(C+1)→Vの上のある代数的サイクルのVへの”push-forward”として、Vの次数付きチャウ群A.(V)の元である。特にVが非特異なとき、S(V,W)はVのWの中における法線バンドルNの全チャーン類C(N)の「逆」に 一致する。このように定義された「セグレ類」S(V,W)は双有理不変量である。すなわち、F : W’→W を純次元なscheme 間の双有理正則写像、V‘=F^(-1)(V) を、V の “scheme theoretic” な逆像としたとき、F*S(V’,W’)=S(V,W)が成立する。ここで、F*はA.(W’)からA.(W)への”push-forward“を表す。。


1991年4月から鹿児島大学教養部数学教室のメンバーに加わった與倉昭治さんに教えて貰った、W.Fulton の本、『Intersection Theory』(Second Edition, Springer, 1998) には、射影空間内の特異超曲面の「極類」に関するPienne の公式が載っていた(ibid. pp.84-85, Example 4.4.5)。そのうえ、この本には、特異超曲面Xの「極類」の計算に必要な、Xの“singular subscheme” の「セグレ類」の計算に 役立つと思われる公式が沢山載っていた。とりわけ、 P.161のProposition 9.2 は有効であると思われた。ちなみに與倉さんの博士(Ph.D)論文の題目は、「特異多様体のセグレ類」であった。W. Fultonの名前は、P. Baum, R. MacPherson との共著論文、 “Riemann-Roch for singular varieties”(Publications Mathematiques de l’ HES (45): 101?145, 1975)の著者として知っていた。この論文は、特異多様体に対する「リーマン・ロッホの定理」に関するものであるが、その証明には、より精密化された「交点理論」(Refined Intersection Theory)が必要であった。その「交点理論」の基礎から応用までを解説したのがこの本であると云える。


私がノルウエ―から帰った年の11月1日、2日、鹿児島大学の與倉昭治さん、大本亨さんをオーガナイザーとして、“Workshop on Topology and Geometry”が鹿児島大学で開かれた。 これには、笹倉頌夫さん(東京都立大学)、岡睦雄さん(東京工業大学)、渡辺公夫さん(筑波大学)、加藤十吉さん(九州大学)、Le Dung Trang(Univ. Provence, France)、J.-P. Brasselet(CIRM, France)など 特異点の専門家が多数参加されていた。私はこのワークショップで、”Chern numbers of non-singular normalizations of projective threefolds with ordinary singularities”というタイトルで講演をしている。この時点では、まだ具体的な結果を得ていたわけでは無かったが、それまで折にふれ計算していた途中経過を報告し、参加者から何らかのアドバイスを得たいという思いがあったからである。 実際、講演後、Le Dung Trangと加藤十吉さんからアドバイスを頂いたが、どのような内容だったのか、今となっては思い出すことができない。その後、毎年、與倉さんを訪ねて鹿児島大学にやってきて長期滞在することを常としていた、ブラセレ(J.-P Brasselet)から、Fultonの本に載っている公式の使い方などを教えて貰うなどして、3次元複素多様体のチャーン数の計算は少しずつ進んだ。 


2001年7月4日〜6日 北京化学工科大学(Beijing University of Chemical Technology)であった研究集会、“International symposium on singularity theory and its applications)”に出席し、”The Euler number of the non-singular normalization of an algebraic threefold with ordinary singularities”の題目で講演を行なった。この研究集会の性格は、はっきりわからないが、Scientific CommitteeのChairmanには、岡睦雄さん(東京工業大学、当時)の名前があるので、彼の関係で私のところにも案内状が来たものと思われる。他に、主催者事務局長として、G.Jiang(北京化学工科大学)、Editor-in-Chiefとして、D. Siersma(ユトレヒト大学、オランダ)の名前がある。この講演では、Z=P^4(C)の中の通常特異点を持つ超曲面Yが3重点(したがって、4重点も)を持たない場合を扱った。このYの特異点集合(2重点集合)は非特異曲面DYで、正規化写像nx : X→YによるDYの逆像DXはDYを2重にカバーし、Yの尖点集合CYの逆像CXで単純分岐(simply ramified)しており、正規化写像の特異点の状況はすこぶるわかりやすい。これより、Yの“singular subscheme ” JY(Yの定義式の偏微分で生成されるイデアルで定義されるYのsubscheme)の“scheme theoretic ”な逆像JX := nx^(-1)(JY)は、因子DXを含み、JXのDXの、Fultonの意味でのresidual scheme がCXであることがわかる。したがって、Fultonの本のp.161にある, Proposition 9.2を適用することにより、S(JX,X)の計算は、S(DX,X)とS(DC,X)の計算に帰着されるというのがミソであった。

この研究集会には、私の妻と妻の友人が同行しており、研究集会終了後、前年の5月〜11月に、私が受け入れ人となって鹿児島大学に滞在された、中国貴州大学数学系教授、曹乂(Cao Yi)夫妻を貴州まで訪ね、歓待して貰った。当時、曹氏の娘さん(Cao Yu)が北京師範大学の学生であり、北京滞在中は、彼女にいろいろお世話になった。詳しくは書かないが、この娘さんの案内で万里の長城に出かけた道中、当時の中国で、多くの日本人観光客が経験したであろう詐欺まがいの事件に遭遇した。1995年に初めて中国を訪ねた時(「私の1990年代」の項を参照)に続いて2度目の体験であった。


翌年の2002年には、ポーランド・科学アカデミーのMathematical Research and Conference Center (B?dlewo, Poland)であった、“Polish-Japanese Singularity Theory Working Days”に参加し、“The Euler number of the normalization of an algebraic threefold with ordinary singularities II”という題目で講演を行った。「II」としたのは、前年、北京での講演の「続き」という意味である。北京の講演では、Z=P^4(C)の中の通常特異点を持つ超曲面Yが3重点を持たない場合を扱ったが、この講演ではYが3重点を許容する場合を扱った。この場合、Yの特異点集合(=2重点集合)DYは、Yの3重点集合TYを特異点として持っている。また、正規化写像nx : X→YによるDYの逆像DX := nx^(-1)(DY)も特異点があり、その特異点集合は、TYの正規化写像nxによる逆像TX:=nx^(-1)(TY)である。したがって、JYの正規化写像nxによる“scheme theoretic” な逆像JX:=nx^(-1)(JY)のセグレ類S(JX,X)を、Fultonの本のp.161にある, Proposition 9.2を用いて計算しようとすると、まず、Yをその3重点集合TY(非特異曲線)に沿って、Z=P^4(C)に埋蔵したままblow-up(破裂)する必要があった。この点が新しい点であった。私は7日に講演を終えると、翌8日、鉄路でポズナン(Poznan)を経由してワルシャワに戻り、飛行機でフランクフルトに飛んで、そこで1泊。翌9日、フランクフルトより飛行機で、フランスのマルセーユに移動した。それは、9月9日〜13日、CIRM(Luminy, France)であった、“Singularites franco-Japonaises”に出席するためであった。


CIRM (Centre International de Rencontres Mathematiques)での研究集会“Singularites franco-Japonaises”では、“The Chern numbers of the normalization of an algebraic threefold with ordinary singularities”の題目で講演を行った。ポーランドの研究集会の講演には、計算が間に合わなかったのだが、この講演では、Z=P^4(C)の中の通常特異点を持つ超曲面Yが4重点を許容する一般の場合を扱っている。Yが4重点を持つ場合は、Yの3重点集合TYは曲線で、Yの4重点集合ΣqYで特異点を持つので、まず、YをZ=P^4(C)に埋め込まれたまま、Yの4重点集合ΣqYでblow-up(破裂)する必要がある。つづけて、非特異になった3重点の曲線に沿ってblow-upする。この講演では、∫x c1^3=−deg[Kx]^3、および∫x c1c2=−24χ(X,[Kx])についても得られた結果を報告した。これらの計算には、“adjoint formula“(または、“double point formula” )

[Kx]=f*([Y]+[Kz]) −[DX]

を使う。ここで、[Kz]はZ=P^4(C) の「標準因子類」、f:X→Zは、正規化写像nx : X→Y と包含写像I : Y⊂Zの合成写像である。


MRCC(B?dlewo,Poland)とCIRM(Luminy, France)で行った講演は、それぞれ、論文 [1]、[2] として刊行された。ついでながら述べておくと、これら二つの研究集会には、 フィールズ賞受賞者・広中平祐先生が出席されており、それぞれ、“The theory of infinitely near singularities in higher dimensions”、“Three key theorems on infinitely near singularities”と題する講演をされた。この頃、広中先生は、任意標数の完全体上定義された有限型スキームの特異点の解消を研究されていて、そのことに関連するものであった。これは、後々、“The Journal of the Korean Mathematical Societ”yに発表されたものである。広中先生のCIRMでの講演記録は、”Seminaires et Congress" 10, Sci. Math.France (2005)”にあるが、MRCC での講演記録である、“Banach Center Publications, Vol. 65 (2004)”にはない。代わりに、先生の揮毫が載っていている。それは次のようなものである。

「広中平祐 語られて学ぶこと多く 語られて夢と希望がふくらみ 語る以上は達成に励む べウンドレボ・バナッハ研究センター」

「So much can be learned from others’words. Hopes and dreams grow on your own words. And once in words, they should be achieved. Heisuke Hironaka」

このバナッハ・センター刊行物・65号は、ポーランドの数学者、Stanistaw Lojasiewiczの追悼号となっていることも併せて記しておきたい。Lojasiewiczは実解析的集合の研究で知られた人であったが、この刊行物の編集中に亡くなられたのである。


多変数元多項式環の計算において極めて有効な「グレブナー基底」の理論を知ったのは、京都大学の丸山正樹さんが、雑誌「数理科学」1994年3月号の「特集:代数幾何の広がり」の中で書かれた「Grobner Basis と代数幾何学」という解説記事においてであった。だが、本格的に勉強を始めたのは、D. Cox, J. Little and D. O’Shea : Ideals, Varieties, and Algorithms (UYM, Springer-Verlag, 1992) の翻訳書が出た2001年の頃からである。この頃、大学院修士の学生を指導するようになり、学生と一緒に勉強するようになった。私が目標としたのは、私が得た3次元複素代数多様体のチャーン数に関する公式が正しいことを確かめるための、4次元複素射影空間内の通常特異点のみを持った3次元超曲面の具体例を作ることであった。複素代数曲面の場合には、3次元複素射影空間P^3(C)の中の通常特異点を持った超曲面の例として、y^2z^2+z^2x^2+x^2y^2+xyzw=0 ([x:y:z:w]はP^3(C)の斉次座標)で定義される、シュタイナー曲面(Steiner surface)と呼ばれるものがある。この正規化は2次元複素射影空間P^2(C)である。これは、P^2(C)の斉次座標を[ξ0: ξ1: ξ2]としたとき、2次単項式を用いて、写像 [ξ0: ξ1: ξ2]→[ξ0^2: ξ1^2: ξ2^2: ξ0ξ1: ξ0ξ2: ξ1ξ2]=[x0:x1:x2:y0:y1:y2] ?P^5(C)によりP^2(C)をP^5(C)に埋め込んだ後、一次写像 [x0:x1:x2:y0:y1:y2→[y0:y1:y2:--(x0+x1+x2)]=[x:y:z:w] ?P^3(C)により、P^5(C)をP^3(C)に線形射影することによって得られる。このシュタイナー曲面の2重点集合は、3本の直線 x=y=0, y=z=0, z=x=0 であり、1点、[0:0:0:1] を3重点とし、6個の尖点、[1:0:0:√2]、[1:0:0:−√2]、[0:1:0:√2]、[0::0:−√2]、[0:0:1:√2]、[0:0:1:−√2]、を持っている。


線形射影による像の定義方程式を求めるには、グレブナー基底を用いた「消去イデアル」の理論があるので、私はこれを用いてP^3(C)の場合のシュタイナー曲面に相当する、P^4(C)の中の通常特異点を持つ超曲面の方程式が求められないかと考えた。すなわち、“Steiner 3-fold”とも云うべきものの定義方程式を求めることである。シュタイナー曲面の場合を真似て、P^3(C)を斉次座標の2次単項式により、P^9(C)の中に埋め込み、これをP^9(C)4次元線形部分空間P^4(C)に線形射影することにより、“Steiner 3-fold”の定義方程式をパソコンで求めようとしたが、途中でメモリー不足になり、うまくいかなかった。用いた数式処理ソフトは、MathematicaかRisa/Asirである。ただ、単純な例だが、“Segre Threefold”の一般の線形射影(generic linear projection)で得られる、P^4(C)の中の通常特異点を持つ超曲面の場合は、定義方程式が具体的に得られた。ここで、“Segre Threefold” とは、セグレ写像s: P^1(C)×P^2(C)∋[s0:s1]×[t0:t1:t2]→[s0t0:s0t1:s0t2:s1t0:s1t1:s1t2]=[x0:x1:x2:y0:y1:y2] ∈P^5(C)による像Σ1,2を云う。詳しくは説明しないが、これは“rational normal scroll”という幾何学的構造も持った、P^5(C)の中の3次元非特異多様体である。「消去イデアル」の理論を用いて、“Segre Threefold” Σ1,2の定義イデアルの生成元を求めると、x0y1-x1y0, x0y2-x2y0, x1y2-x2y1となる。これより、点 [x0:x1:x2:y0:y1:y2]=[1:0:0:0:1:0] は、Σ1,2には含まれていないことがわかるので、この点を中心とし、この点を含まないP^5(C)の4次元線形部分空間H : x0=0に線形射影し、その像をYとする。このとき、P^5(C)の4次元線形部分空間HをP^4(C)と同一視し、P^4(C)の斉次座標を[z0:z1:z2:z3:z4]とするとYの定義方程式は、

Z2z1^2+z1z3z4-z0z4^2=0

で与えられることがわかった。このYは3重点、4重点、停留点を持たず、2重点、尖点のみを特異点として持つ超曲面で、Yの2重点集合(曲面)DYおよび尖点集合(曲線)CYは次の方程式で与えられる:

DY: z1=z4=0,

CY: z1=z4=z3^2+4z0z4=0

したがって、n=deg Y=3, m=deg DY=1, γ=deg CY=2。また、Yの3重点集合(曲線)TYは空集合なので、t=degTY=0である。これらの値を、私が求めた3次元複素代数多様体のオイラー数 χ(X) を与える公式、ただし、X の通常特異点のみを持つ P^4(C) の中の超曲モデル Y の級数 c(class number)を含む中間的な式(文末の論文 [1] の Prop 2.3, 同様、[2] の Prop.1.2)に代入すると、いまの場合、 X=P^1×P^2なのでχ(X)=6 であるから、これより、c はゼロであることがわかる。これは、十分一般な、1次元射影空間 P^1(C) でパラメトライズされた、超平面の一次系 L:={H(λ:μ)=λH0+μH1}(λ:μ)?P1(C)に対して、Y(λ:μ):=H(λ:μ)∩Y としたとき、X(λ:μ):= nx^(-1)(Y(λ:μ)) は,すべて非特異曲線であることを意味するが、実際にこのことは、計算によって確かめることができた。


しかし、私が求めた、級数 cを与える公式(論文 [1], p.289、論文 [2], p.366)に、“Segre Threefold” の一般射影Yの数値的特性数(n=3, m=1,γ=2, t=0)を代入すると、値が負になってしまう。これは、3次元複素代数多様体 X のオイラー数 χ(X) を与える、級数 c を含む公式(論文 [1], Proposition 2.3, p.282、論文 [2], Proposition 1.2, p.356)は正しいが、cの値(Xの通常特異点のみを持つ、P4(C)の中の超曲面モデルYの級数、論文 [1], [2] では、ここでの X, Y を表す記号が異なるので注意 )は正しいが、cの値を与える公式それ自体は間違っていることを意味した。私はこのことを知ったとき、愕然としたが、気を取り直してもとの証明を一つ一つチェックしながら辿ってみた。すると間違いはすぐに見つかった。


級数 c の値を求めるには、セグレ類 S(JY,Y) を求めるすぐに必要があるのだが、これを求めるために、セグレ類に関する Fultonの公式(Fultonの本、p.161 の Proposition9.2)用いて、セグレ類 S(JX,X) を求めようというのが戦略であった。計算の結果、0次セグレ類 S(JX,X)0 は次の式で与えられることがわかる: S(JX,X)0=[DX]^3 +[ Kx・CX ]+ [Kcx] - 3[DX・CX] ここで、Kcx は、Yの「尖点曲線」CYの f : X→Z (Z=P^4(C)、f は、正規化写像nx : X→Y と、包含写像i : Y⊂Zの合成写像) による、点集合としての「逆像」 CXの「標準類」である。最初の計算では、f*[DX・CX]=0 (f*は写像f による push-forward)としているが、これは、[DX・CX]=0 を意味しているから、直観的に考えておかしいことは、すぐにわかりそうなものであるが気がつかなかった。この誤りは、写像 f による、CY の “shceme theoretic” な逆像がCXであるとして、f |CX : CX→CY にFulton の “excess intersection formula” ((Fultonの本のp.102、Theorem 6.3)を適用して、f*[DX・CX]を計算したためである。ちなみに、CYの“shceme theoretic ”な逆像の代数的サイクルは2[CX]である。誤りを正すために、“double point formula”

[DX]=f*[Y+Kz] - [Kx]

を用いて、[DX・CX]を計算しなおすと、

[DX・CX]=f*[Y+Kz]・[CY] - [Kx・CX]

となる。したがって、

S(JX,X)0=[DX]^3 +4[ Kx・CX ]+ [Kc] - 3f*[Y+Kz]・[CY]

この式に、[DX]^3 を与える式を代入し、S(JY,Y)0=nx*S(JX,X)0 を求めると、修正された級数 c を与える公式には、5deg[Kx・CX] が現れる。このことは、X のチャーン数を Y と Y の特異点に関する数値的特性数を用いて表すという、当初の目的からすると不十分なのだが、現在の到達点はこのようなものである。ちなみに、Y の具体的方程式を求めた X=P^1(C)×P^2(C) の場合について、deg[Kx・CX] を実際に計算してみると、-5となった。


上記のことを考慮に入れ、CX や CY や γ=deg[CY] が関係する項が現れる部分について計算しなおして得られた、修正されたチャーン数 ∫x c1^3, ∫x c3 の公式は文末の論文[3],[4] にある。修正後、文末の論文 [1], [2] の中の c を与える公式(それぞれ、p.289, p.366 にある)は、−(6n-11)γ が、−(n+14)γ−5deg[Kx・CX] に、チャーン数 ∫x c3 (=オイラー数)を与える公式 (それぞれ、p.289 の Theorem 4.1、p.367 の Theorem 1.15)は、(6n-15)γ が、(n+10)γ+ 5deg[Kx・CX] に、チャーン数 ∫x c1^3 を与える公式([2] の p.367, Theorem 2.1)は、−nγ が、−(2n-5)γ+ deg[KX・CX] に置き換わる。これらの論文にある、 ∫x c1c2 に関する公式は、Fulton の Intersection Theory を使わずに得られたものなので修正の必要はなく、[2] にあるものと同じである。


以上の話には後日談があった。2016年6月の末頃、北海道大学大学院理学研究院・数学部門・教授(当時)の大本亨さんからメールが送られて来た。大本さんは、1994年の3月に鹿児島大学理学部数学科の助手として就職されたが、10年後の2004年3月に北海道大学大学院理学研究科,の助教授として転出されていた。教養部廃止後、理学部と教養部が統合された1997年4月以降は、理学部数理情報科学科の同僚であった。この時代、鹿児島大学理学部は日本の特異点研究のネットワークの一拠点として、その一翼を担っていたと云って良いほど活発に活動していたが、これには、旧教養部の宮嶋公夫さん、與倉昭治さんとともに、大本亨さんの寄与するところが大きかったと思う。


大本さんのメールは、「最近,先生の2009年に出された論文(論文[3])を拝見しました。ちょうど昨年,古典的数え上げ幾何へのThom多項式の応用として学生と一緒に,通常特異点を有する射影3次元多様体Xの数値的射影特性量(numerical characters)の計算をしました。全く異なった計算方法なのでダブルチェックになります.Mをその正規化とします.c_1(TM)^3 等の公式やMのオイラー数公式([3]のProp 2.1, [2] の Prop.2.3)は完全に一致しました.しかし,X の class number cの公式([3] の p.241、セクション2の最後、[4] の p.143、セクション2の最後)は一致しません.

c = … −(n+9)γ - 4 deg[Kx・ CX] + …

となると期待したいのですが,計算の詳細が省略されていて分かりません.もしお時間があれば,チェックしていただけば有り難く思います」というものであった。この学生とは、数理解析研究所講究録 第1948 巻95-107 (2015)に、「3 ・4 次元射影空間内の曲面に関する特異射影の数え上げ」という論稿を載せている、笹島啓久さんと思われる。大本さん達が得られた式と私の式とのどちらが正しいかは、私が論文[3]で計算した、Segre Threefold のgeneric projection として得られる、通常特異点を持つ超曲面の定義方程式が威力を発揮した。この場合は c=0 となることがわかっているが、大本さん達が得た c の式では、そうならないので、誤りであることになる。その旨を連絡すると、程なく連絡があって、単純な計算ミスであることが判明したということであった。 ここにおいて、異なる方法で計算した二つの結果が一致したことになる。 これは私が得た公式の正しさを示す一つの傍証であり、私としては大変嬉しいことであった。大本さん達が得られた結果は、論文[5]として出版されている。  


私が作った具体例は単純なもので、3重点、4重点、停留点をすべて含む、P^4(C)の中の通常特異点を持つ超曲面の具体例は今のところの無いに等しい。 P^1(C)×P^2(C) と同型であり、 “ratoinal scroll” と呼ばれ、記号X2,2,2で表される、P^8(C)の中の3-fold の P^4(C)への generic projection は、3重点と尖点を持つが4重点は持たない。この場合、具体的な定義方程式も得られているが、この定義方程式に含まれる単項式の数は 134で、私が得た公式の正しさを検証するには役に立たない。ある程度計算しやすい単純な定義方程式を得るには、generic projection の中でも「特殊」なものを選ぶ必要があると思うのだが、その選び方の原理がわからないのが現状である。P^1(C) ×P^1(C) ×P^1(C) に同型な P^7(C)の中の3-fold の P^4(C) への generic projection、P^3(C) に同型な P^9(C)の中の 3-fold の P^4(C)へのgeneric projection (Steiner Threefold)は、3重点、4重点、停留点を持つことがわかるが、具体的な定義方程式は得られていない。これらの、P^4(C)の中の通常特異点を持つ超曲面 Yについては、K. L. Kleiman による“Multiple -point formulas”、および I. R. Porteousによる“Ramification formula” により、各種数値的特性数を計算できる。結果は論文[3]、[4]にある。ちなみに、Steiner Threefold Yの数値的特性数は、次の通りである:

deg [Y] = 8, deg [DY] = 20, deg [TY] = 20, deg [CY] = 20, #[Σq] = 5, #[Σs] = 40, c = 4, χ(CY, [1]) = ー10


論文[3]は、2008年7月28日〜8月1日、韓国、慶州(Gyeongju、キヨンジュ)、東国大学(Donnggk University) であった第16回国際有限無限複素解析会議(16th ICFIDCAA)での講演記録であり、論文[4]は、2009年6月29日〜7月3日、京都大学数理解析研究所であった研究集会 “Hodge theory and algebraic geometry : Occasion on the 60th birthday of Sampei Usui"の講演記録である。この数理解析研究所での研究集会は、若き日の私の共同研究者であった、大阪大学教授・臼井三平さんの還暦を祝うものであった。私が鹿児島大学を定年退職したのが、この研究集会が開かれた年の3月であり、当時の私は満65歳であった。


引用論文

[1] S.Tsuboi : The Euler numbers of the normalization of an algebraic threefold with ordinary singularities, ”Geometric Sigularity Theory", Banach Center Publications, Vol. 65, Polish Academy of Sciences, Warszawa, 273-289 (2004)

[2] S.Tsuboi : The Chern numbers of the normalization of an algebraic threefold with ordinary singularities, The franco-japonaise congres in Luminy, 2003, The series ”Seminaires et Congress" 10, Sci. Math.France, 351-372 (2005)

[3] S.Tsuboi : Linear projections of rational threefolds, Proceedings of the 16th International Conference on Finite or Infinite Dimensional Complex Analysis and Applications, Daeyang Printing (Gyeongju(慶州), Korea), 237-247 (2009)

[4] S.Tsuboi: Linear projections of smooth projective threefolds, "Hodge theory and algebraic geometry : Occasion on the 60th birthday of Sampei Usui", RIMS Kokyuroku 1745, 139-152 (2011)

[5] T. Sasajima and T. Ohmoto : Classical formulae on projective surfaces and 3-folds with ordinary singularities, revisited, Saitama Math. J. Vol. 31, 141-159 (2017)


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チューリッヒからオスロへ

私は国際数学者会議(ICM)の閉会式があった翌日の1994年8月12日、鉄道で狂気の王、ルードヴィヒ2世によって建てられた ノイシュヴァンシュタイン城があるフッセンに移動した。約2週間にわたるヨーロッパ大陸縦断旅行の始まりであった。私はノルウエー人数学者ラウダルの招待を受け、 9月から始まるノルウエー科学アカデミー高等研究センター(CAS、ノルウエー語でSHS)でのプロジェクト研究に参加するため、国際数学者会議の終了後、日本に帰らず、 ヨーロッパのあちこちの大学・研究所を訪ねながら、オスロまで鉄道旅行をすることにしていたのである。


私にとって、これは2度目のヨーロッパ旅行であった。私の最初のヨーロッパ旅行は、1991年夏にイタリア、トリエステの 国際理論物理学研究センター(International Center for Theoretical Physics)であった、“College on Singularity Theory”に参加したときである。このとき、 研究集会に先立ち、私の娘達と一緒に、イタリアとスイスを旅行したのだが、スイスのジュネーブからイタリアのローマに帰って来て娘達を日本に送り返した直後、 一人になったところで盗難にあった。フィレンツェまで鉄道で移動するためにローマのテルミニ駅の窓口で、イタリア国内の鉄道パスにスタンプを押して貰うために、 背負っていたバックパックを床に置き、一歩前に出たところ、そのバックパックを後ろから置き引きされた。バックパックには、パスポート、ホテル予約券、 トラベラー・チェック、航空券、クレジット・カード等、ほとんどすべての貴重品が入っていた。手元に残ったのは、イタリア国内の鉄道パスと現金少々、それに衣類等が入った 大型の旅行ケースであった。大型の旅行ケースも持っていこうとしたらしく、少し離れたところに倒れていた。重かったので置いていったものと思われる。 このような状況にあっては、パニックに陥っても不思議ではないと思うが、今、振り返ってみると、われながら冷静に行動できたと思う。まず私が取った行動は、警察に行き、「盗難証明書」を発行して貰うことであった。この「盗難証明書」は後々、種々の手続きをする際に重要な意味を持つことになった ので、この行動を取ったことは大正解であった。幸いなことにホテルは日本国内で予約し、料金も払ってあったので問題はなかった。私はフィレンツェのホテルから クレジット・カード会社のヨーロッパ・センターに電話をかけ、盗難カードを停止するとともに、新しいカードを研究集会があるトリエステのホテルに送って貰った。 また、日本から適当額の現金を送って貰った。日本に帰ってくるとき、ローマのテルミニ駅を歩きながら周囲を注意深く観察していると、アラブ系と思われる一人の 若い男が私を尾行してくることを確認した。このようにして、私は無事、日本に帰って来ることができたのだが、この間、パスポート、トラベラー・チェック、航空券の 再発行には大変な時間と労力を割かれることになった。この体験は私に多くのことを教えてくれた。この体験を基に、私は外国を一人で旅をする際に、自分の身を護る ために講ずべき方策をいくつか考え出していた。したがって、2度目のヨーロッパ一人旅は用意万端で何も心配することはなかった。


私は大型の旅行ケースをキッチでチューリッヒの鉄道駅からコペンハーゲンの鉄道駅まで送り、 ショルダーバック一つとバック・パック一つの軽装で旅したので、すこぶる快適であった。


8月13日、私がノイシュヴァンシュタイン城を見物してホテルに帰ってくると、エレベーターで二人連れの若い日本人女性の旅行者に会った。 一人は車椅子に座った身障者で、もう一人は二人分の荷物を持ち、その車椅子を押していた。 翌日、ホテルを発つときにも、この二人連れの若い日本人女性の姿を見かけた。 この日、私は旅行者に人気の「ロマンティック街道」をローテンベルグまでバスで移動することにしていたのだが、ローテンベルグ行きのバスに彼女達の姿はなかった。 妙に心に残る二人連れの旅行者の姿であった。


私はかねてから城郭に囲まれた中世ヨーロッパの都市を見てみたいと思っていたので、ローテンベルグは是非訪れたい場所の 一つであった。ローテンベルグは近代における経済発展から取り残されたので、中世の古い町並みが残ったということである。市内を歩くと、17世紀の30年戦争 (1618-1648)に関する史跡、展示が多いことに気付いた。30年戦争はドイツの歴史にとって大きな意味を持っているらしいと思われたが、私は30年戦争について 深く知っているわけではなかった。私にとっての30年戦争は、カトリックとプロテスタントの間の宗教戦争というくらいの理解であった。しかし、調べてみるとそう 単純ではないらしい。フランスのブルボン家とオーストリアのハプスブルグ家の勢力争いという面があったという。フランスはカトリックであるにも関わらず プロテスタント側に組して戦っている。 結果はプロテスタント側の勝利で、その結果、フランスの絶対王制は強まり、他方、当時、神聖ローマ帝国の皇帝であった ハプスブルグ家の力は弱まったという。このことが、神聖ローマ帝国に含まれていたドイツの封建諸侯の領邦の自立性を高めることとなり、結果としてドイツに 近代的な国民国家が生まれるのが100年遅れることになったという。ドイツは「遅れて来た資本主義国」として二度の世界大戦を戦っている。ひょっとするとその遠因は、 この30年戦争にまで遡るのかも知れないと考えたが、果たしてこの見方は一般的に受け入れられるものであろうか?


8月16日、ローテンブルグから鉄路で、「ロマンティック街道」の終点のヴェルツブルグを経てハイデルベルクまで移動した。 ハイデルブルグはドイツ最古の大学があるところである。この大学の研究紀要は鹿児島で良く見ていたので、私にとって馴染みのある大学であった。8月17日、 カール・テオドール橋(Alte Brucke)の上で、鹿児島経済大学(現鹿児島国際大学)の中嶋眞澄さんと会った。日本を発つ前に、中嶋さんが、旅の途中からオスロ まで同道させて欲しいと云うので、この橋の上で待ち合わせることにしたのである。8月17日、18日と中嶋さんとハイデルベルクの市内見物をし、19日には、鉄道でマインツまで移動、 マインツからコブレンツまで、二人でライン下りを楽しんだ。19日夕、ボンのホテルに着くと、リトアニアの数論研究者から中嶋さん宛にFaxが届いていた。中嶋さんは、 日本からこの研究者に手紙を送り、可能ならば訪問したい旨を伝えていたのである。Faxの内容は、「来訪を歓迎する」というものだったので、中嶋さんは、翌日、 あたふたと、リトアニアのピルニュスに向けて旅立った。後で聞いた話では、ビザなしで、旧共産圏のポーランド、ベラルーシを通過したので、国境の検問で苦労した ということである。中嶋さんは、この計画をあらかじめ私には伝えていなかったので、彼がリトアニアに行くと云いだしたときには吃驚したが、やむなく、予約してあった オスロのホテルの一人分をキャンセルした。ボンではマックス・プランク数学研究所を訪ねた。


私はその後、ボン、アンダーナッハ、ゲッチンゲン、コペンハーゲンと旅を続けた。ボン、アンダーナッハ間は、船でライン川を 上った。ゲッチンゲンに着いたのは、8月22日であった。 19世紀から20世紀を通して、紛れもなくゲッチンゲンは世界の数学研究の聖地であったと云える。ゲッチンゲンゆかりの 歴史上の数学者を三人あげるならば、ガウス(Johann Carl Friedrich Gauss, 1777- 1855)、リーマン(Georg Friedrich Bernhard Riemann、1826-1866)、ヒルベルト (David Hilbert、1862−1943)になるだろう。ガウスはゲッチンゲン大学の最初の数学教授であるが、近代数学の祖と云われている。19歳の青年ガウスが目覚めて寝床から 起き出そうとした瞬間に、正17角形を定木とコンパスを使って作図する方法を発見したというのは有名な話である。ガウスの「平方剰余の法則」は、その後の代数的整数論研究の 嚆矢となった。リーマンはリーマン面、リーマン多様体、リーマン予想にその名を残している。1854年、リーマンの教授資格講演、「幾何学の基礎にある仮説について」 では「多様体」の概念を導入し、それまでの「空間」概念に革命をもたらした。ヒルベルトは1900年、パリの第2回国際数学者会議で23の未解決問題(いわゆる 「ヒルベルトの23の問題」)を提示し、20世紀の数学研究の方向性を示唆した。東大数学教室の代数的整数論の伝統の祖となった高木貞治(1875−1960)は、1898年から 1901年にかけてドイツに留学した際に、一年間ゲッチンゲンに滞在し、このヒルベルトの教えを受けている(高木貞治著「近世数学史談3版」(共立全書183、1970年刊) の付録「回顧と展望」を参照)。


私の学生時代、ゲッチンゲンにはグラウエルト(H. Grauert、1930-2011)がいたので、ゲッチンゲンは多変数関数論、 複素解析幾何学の世界の中心地の一つと目されていたと思う。グラウエルトの前任者はジーゲル(C. L. Siegel、1896-1981)であり、その前がワイル (H. Weyl、1885-1955)であった。いずれも世界数学会の「巨星」と云って良い人々である。


1981年には「SFB170 Geometrie und Analusis」(SFB=Sonderforschungbereich)が創設されたので、この制度を利用して 日本人の数学研究者が多数、ゲッチンゲンを訪れている。鹿児島大学の同僚、宮嶋公夫さんも、この制度を利用して、1987年4月から一年間、ゲッチンゲンに滞在している。 私が「ゲッチンゲン大学数学研究所」を訪ねたときも数名の日本人研究者に会った。その中の一人、広島大学(当時)の古島幹夫さんに案内されて、ガウスとウエーバー (W. E. Weber, 1804-1891)の彫像とガウスの墓を訪ねた。


「数学研究所」の廊下の壁には、スプリンガー社の数学年表が貼ってあたが、そこに記載がある歴史上の日本の数学研究者は、関孝和(生年不明−1708)唯一人であった。


8月24日、ゲッチンゲンからデンマークのコペンハーゲンまで移動した。コペンハーゲンへは、ハンブルグを経由して、 プットガルデン(Puttgarden)からフェリーに乗った。フェリーには列車ごと積み込むので下車の必要はなかった。プットガルデンの海岸部では、風力発電の風車が数多く回っていたのが印象的であった。デンマークはスカンジナビア半島から南下したデーン人によって築かれた国であり、北欧5カ国の一つである。 北欧5カ国とは、デンマーク、ノルウエー、スェーデン、フィンランド、アイスランドであり、国旗はみな同じ図柄(スカンジナビアン・クロス)の色違いなので、 これら5カ国は歴史的に深いつながりがあり、互いに兄弟国なのだということがわかる。コペンハーゲンでは、ニールス・ボーア研究所を訪ねた。


8月27日(土)、9時45分発の列車でコペンハーゲンを発ち、デンマークのヘルシングエーア(Helsingφr)からスエーデンの ヘルシングボリ(Helsingborg)にフェリーで渡った。ノルウエーとの国境に近づくにつれ、空はどんより曇り、雲が立ち込め、雨がしとしと降り、森の中を列車が 走るようになった。ときどき列車の窓から木でできたトタン屋根の家が見えた。 私はまるで私の故郷、新潟の風景を見ているような気がした。 最終目的地のオスロに 着いたのは、同じ日の午後7時30分過ぎであった。オスロ駅前のデジタル温度計は13°Cを示していた。


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オスロでの研究生活

私は1994年8月29日の月曜日に、オスロ大学のラウダル(Olav Arnfinn .Laudal、1936−)の研究室を訪ねた。ラウダルの専門は、 カテゴリー論、ホモロジー代数学、加群と特異点の変形論であり、超曲面と超曲面の特異点の局所モジュライ空間に関する研究 (Local Moduli and Singularitites, Lecture Notes in Matheamatics, no.1310, Springer Verlag , 1988, with G. Pfister)やリー環の変形に関する研究(Deformations of Lie algebras and Lie algebras of deformations, Comp. Math., vol. 75, 1990, with H. Bjar)で名を知られた方である。ラウダル は自分で 車を運転して、市西部、ホルメンコーレン(Holmenkohren)の丘の上のFrognerseterenというレストランに連れて行ってくれた。レストランからの眺望は格別で、 オスロ市内とオスロ湾が一望できた。ラウダル は、私が家族と一緒に来ると思っていたらしく、「家族はどうした?」と聞いてきた。私は、家族は年末から 年始にかけてやってくる予定であると告げたものの、その時はまだ詳しい日程まで決まっているわけではなかった。食後、彼は私を、 「ノルウエー科学アカデミー高等研究センター」(ノルウエー語でSHS = Senter for hφyere studier ved Det Norske Videnskaps-Akademi、 英訳はCAS = Center for Advanced Studies at the Norwegian Academy of Science and Letters、以下、SHSと略記する)まで連れて行ってくれた。 SHSの建物は、オスロの南西部の落ち着いた感じの住宅街の中にあった。周辺には、ロシア、フランス、イギリス等の大使館が散在していた。SHSにはウン(Unn) という秘書がいた。私が住むべき住居へは彼女が自分の車で連れていってくれた。住居は 、Frederick Stangs gt.35 にある「フラット」(日本流に云うと 「マンション」)で、鹿児島から送った荷物は既に着いていた。フラットの内部の構造は、10畳ほどの居間、ベッド二つの寝室、バスタブ付きの浴室、 それにキッチンからなっていた。有難かったことは、フラットにはすぐに生活が始められるよう、必要なものはすべて揃っていたことである。「はし」まで置いてあった のには驚いた。秘書のウンの配慮と思われる。フラットの隣は映画館で、その隣はスーパーだった。近くには、野菜・魚の小売店、大衆食堂から高級レストランまであり、 住居および生活環境は申し分ないものであった。


8月31日からラウダルの大学院生向けの講義が始まるというので、これを聴講させて貰うことにした。 私のフラットから大学に行くには、近くで市電に乗り、マヨルシュテゥエン(Majorsten)まで出て、そここで地下鉄(T-bane) の4番に乗り換えると、次の駅が大学のあるブリンデルン(Blindern )であった。フラットからマヨルシュテゥエンまでは、歩くと15分くらいかかった。 ラウダルの講義は、非可換変形理論(Non-commutative deformation theory )についてのものだった。この頃、ラウダルはコンヌの非可換幾何学に関心を持っていた。


SHSのある科学アカデミーは、私のフラットからは歩いて10分ほどの距離にあった。私が初めて訪れたのは8月末から9月初頭に かけてであったが、アカデミーの建物前のDrammens 通りの街路樹が鮮やかな黄色に色づき、目も覚めるような美しさであった。北国で生まれ育ち、現在は南国に住んでいる 私は、久々に北国の秋をしみじみと感じる思いがした。 アカデミーの建物は、シックな黄土色で、こじんまりした2階建てであった。この建物の地下1階と屋根裏部屋を 改造して研究室20室ほどと事務室をつくり、コンピュータ・ネットワークを配置したのがSHSであった。「4階」のTower Roomと呼ばれていた部屋には大きな机が置いてあり、 SHSに滞在している研究者は、毎日、お昼になるとこの部屋に集まり、昼食をとった。昼食はあらかじめチケットを買っておき、チケットと引き換えに秘書のウンが作った オープンサンドを食べた。丸パンを半切りにしたもので、トッピングは、ハム、チーズ、サラミ、サーモン、タマゴ、野菜等であった。感心したのは、この部屋のテーブル上に、 常時、その時々にSHSに滞在している研究者の国の国旗の小旗が、円状の器具にさして飾ってあったことである。SHSは極めてインターナショナルな研究所であることがこの 「旗」をみることによって実感できた。この「4階」の部屋は、研究グループがセミナーをするときには、椅子を持ち出してセミナー室に早変わりした。後で知ったことだが、 SHSができたのは1992年とのことである。私がSHSに滞在したのは、1994年9月から1995年7月にかけてであるから、SHSができてすぐということになる。


数学の研究者が、ノルウエー人数学者として思い浮かべるのは、まず、26歳で夭逝した天才数学者アーベル(Niels Henrik Abel、1802-1827)と 「リー群」と「リー環」にその名を残して いるソーフス・リー(Mrius Sophus Lie、1842-1899)の二人であろう。この二人については、ノルウエー人著作家、アーリルド・ストゥーブハウグ (Arild Stubhaug) に よる「伝記」の日本語訳(原著はノルウエー語で書かれており、英語訳からの翻訳)が丸善出版から刊行されている (「アーベルとその時代−夭折の天才数学者の生涯」; 願化孝志訳、2012年、初版は2003年に「シュプリンガー・フェアラーク東京」から刊行: 「数学者ソーフス・リー リー群とリー環の誕生」;同訳、2013年)。1950年にフィールズ賞を受賞したセルバーグ(A. Selberg、1917−2007)も ノルウエー人数学者であるが、彼は、戦後、プリンストンの高等研究所に籍をおき、そこでずっと活躍していたので彼がノルウエー人であることを知らない日本の数学者も多いのではなかろうか。


アーベルは、一般の5次代数方程式が「代数的」には解けないことを証明したことで有名である。ここで、「代数的に解く」とは、 方程式の係数に加減乗除と冪根をとる操作を繰り返し施すことにより根を求めることをいう。アーベルの死後、フランス革命のさ中、わずか20歳にして謎の「決闘」で亡くなった 天才数学者エヴァリスト・ガロワ(Evariste Galois、1811−1832)によって、代数方程式が「代数的」に解けるための必要十分条件が明らかにされた。 今でいう「ガロア理論」である。「ガロア理論」は、代数方程式の根を置換する「群」(いわゆる「ガロア群」)の構造によって、代数方程式が「代数的」 に解けるかどうか判定できるという理論である。「群」の概念は、19世紀初頭のヨーロッパに台頭した「新しい数学」の先駆けをなすものであったと云えるだろう。アーベルはまた、 楕円積分、楕円関数に関する研究でも知られている。後にヤコビの貢献も加わって、現在では、「アーベル・ヤコビの定理」と呼ばれているものである。「高次代数方程式」や 「楕円積分」は、当時のヨーロッパの数学会では最先端の研究テーマであった。ノルウエーの人たちはアーベルを大変誇りに思っていて、王宮前の広場には、 「国民的」彫刻家ビーゲラン (Gustav Viegeland, 1869-1943) が作った、アーベルの彫像があった。写実的な像というわけではなく、若き天才のイメージを造形化した ものである。


「ガロワ群」は「有限群」であるが、ソーフス・リーは、この「群」に類似の概念を用いて微分方程式の研究を行った。 この研究は、後に「リー群」と呼ばれる「連続群」の概念を生むことになる。リー群の理論は、現在、数学・物理学の広い分野で応用されている。


私がSHSを訪れた年の2年前の1992年は、ソーフス・リーの生誕150周年にあたっており、これを記念して、この年の8月17日から 24日まで、オスロ大学とノルウエー科学アカデミーの共催で、国際研研究集会が開かれている。この実行委員長を務めたのが、私を、SHSに招待してくれたラウダルであった。 彼は1992年当時、オスロ大学数学教室の主任(chief)であったと思われる。ラウダルはまた、ノルウエー科学アカデミーの会員でもあった。


SHSには固定された研究組織があるわけではなく、学術年度(アカデミック・イヤー)毎に組織される、 人文科学、社会科学、自然科学各分野のプロジェクト研究からなっていた。私が滞在した1994年度の前年度には、「数学・物理学」、「法律・経済」、 「イプセン研究」の3つの研究グループが組織され、1994年度はこのうち、「数学」と「法律・経済」が継続され、新たに「ノルウエーにおけるMultiple-Sclorisis (原因が良くわかっていない神経疾患の一種)の疫学的研究」のグループが加わった。私が所属したのは、ラウダル が率いる「数学」のグループであった。 「法律・経済」のグループは、“Bringing Law and Ecomics to bear on Environmental Studies”を研究テーマに掲げていた。当時はあまり気に留めることもなかった のだが、今になって思うと、1972年に世界に先駆けて「環境省」(Ministry of Environment)を設置し、環境問題に力を入れていたノルウエーならではのテーマ設定であった。


私は、1972年、Wolters-Noordhoff という出版社から刊行された、 「Algebraic geometry, Oslo 1970 : Proceedings of the 5th Nordic Summer-School in Mathematics, Oslo, August 5-25, 1970, F. Oort, edito」” という本を見ていたので、オスロ大学には代数幾何学のグループがあることは知っていたのだが、当時のオスロ大学数学教室のメンバーは、 ラウダル(A. Laudal, 1936−)、 ピエネ (R. Piene, 1947−)、 エリングスル− (G. Ellingsrud, 1948−)、 クリストファーセン (A. Christophersen, 1957?−)、 ラネスタッド (K. Ranestad, 1959−) の5人であった。エリングスル−の名前は、オスロに来る前に、数学の和雑誌(「数学セミナー」または「現代数学」?)で、 彼が5次の3次元超曲面上の有理曲線の数を計算したという記事を見ていたので知っていた。SHSで「数学グループ」のセミナーが開かれるときには、これらの人たちも 参加した。ブリンデルンのオスロ大学でも週一回「代数幾何学セミナー」が開かれており、これには私も参加した。SHSには図書室はないので、本を借りたり、 文献をコピーするときは、オスロ大学に行かねばならなかった。オスロ大学の 「数学科(Department of Mathematics)」は、「Mathematics」、「Mechanics」、「Statistics」の 三つ分野を含み、パーマネント・ポジションのアカデミック・メンバーは50人ほどで、全体で、ニールス・ヘンリック・アーベル・ハウス(Niels Henrik Abel Hus) と呼ばれる一つの大きな建物(別称「数学ビルディング」)の中に入っていた。「学科」とは云うものの日本の「学部」に相当するものと思われる。「数学ビルディング」の入口に向かって 右側にはソーフス・リー講堂(Sophus Lie Auditorium)があり、左側にはヴィルヘルム・ビヤークネス・ハウス(Vilhelm Bjerknes Hus)があった。 私はノルウエーに来るまでまったく知らなかったのだが、アーベルとソーフス・リーと並んで、建物にその名前が付けられているヴィルヘルム・ビヤークネス(1862-1951)という人は、 ノルウエーの気象学者、海洋学者で、流体力学と熱力学を用いて、近代的天気予報の数学理論の基礎となる予測方程式群を作ったことで知られているという。


ピエネ は絶えず微笑みをたたえた優しい感じの女性であったが、決して華奢ではなく、むしろワイルドさを感じさせる女性で あった。彼女は2002年、北京での国際数学者会議(ICM)において女性で初めて、IMU (国際数学連合)の理事に選出されたのだが、この事実からしても彼女の人柄を推し量ることができるだろう。 ラウダル から、エリングスル−がオスロ大学数学教室の主任(chief)に就任したばかりであることを聞いた。私がSHSに到着するのと時を同じくして、 シカゴ大学のフルトン( W. Fulton )も SHS に来ていた。フルトンと云えば、バウム&マクファーソン(P. Baum, R. MacPherson )と共著の 「Riemann-Roch for singular varieties, Publications Mathematiques de lHES (45): 101-145, 1975」で知られた人であった。私が1979年から1980年にかけて、 東大理学部数学教室に内地留学した際に、東京都立大学で開かれていた笹倉頌夫さん(故人)のセミナーに参加させて貰ったのだが、このときセミナーで読んでいたのが、 この論文だった。フルトン の「Intesection Theory(交点理論)」という、分厚い本の存在も知っていたが、当時はまったく読んでいなかった。 この本のお世話になるのは、もっと後のことである。


9月、秋学期が始まってすぐの土曜日、オスロ大学数学教室主任のエリングスル−からディナーの招待を受けた。 エリングスル− の家まで一人で云った記憶はないので、多分 ラウダル の車に同乗して連れて行って貰ったものと思われる。着いてみると、フルトンも来ていた。 他にはピエネを含む「代数幾何学グループ」の人たちが来ていた。エリングスル−は自分の作った料理を各人のお皿に給仕してまわった。これがノルウエー流のやり方 なのだと思った。夕食後はローソクの灯りのもとで、皆で談笑した。談笑は真夜中近くまで続いた。暖炉には薪の火が燃えていた。私はノルウエー人が大切にしている 生活の一端を垣間見る思いがした。


その二週間後の日曜日の9月25日に、今度は ラウダルからディナーの招待を受けた。これについては、大変面白い経験をした。 ラウダルは、オスロ西部の丘陵地にあるΦsterasという街のフラットに住んでいた。マヨルシュテゥエンから、地下鉄の16 番に乗ると、その終点が Φsteras である。 ラウダルに指定された時間は19時であったので、それに合わせて、マヨルシュテゥエンには、多分、18時頃に着いたものと思われる。ところが駅の時計を見ると、 17時を指している。 私は狐につまされたような気がして、あたりを見渡すと、駅のベンチに座っているフルトンを見つけた。話してみると、丁度その日が夏時間から 冬時間への切り替えの日だったのだ。フルトンも気づかずに出かけてきたのである。仕方なくフルトンと私は、駅のベンチで一時間程を過ごすことになった。ラウダルは 上機嫌で、訪れた私たちに自分で焼いたステーキを給仕してくれた。客人を自分の家に招いて自分で作った料理を振る舞うことがノルウエー流の「おもてなし」なのだと 理解した。


SHSには、「国際ソーフス・リー・センター(International Sophus Lie Center)」 の コムラコフ(Boris Komrakov) が滞在していた。 彼は「リー理論」の専門家で、リー理論を利用した偏微分方程式の研究で数多くの論文を書いているとのことであった。彼の話によれば、「国際ソーフス・リー・センター」 は1990年、ベラルーシのミンスクで創立され、その後モスクワに分局が出来たという。私がSHSに滞在した当時は、「ソ連」崩壊から間もない頃で、旧ソ連の数学者達は、 経済面を含めて様々な面で大変困難な状況にあったはずで、彼にとって、SHS が実施しているような「visiting scholars program」は大変ありがたかったのではないかと 思う。彼は、奈良女子大学の森本徹さんの研究に大変興味を持っていた。日本に帰ってから、森本さんにこのことを伝えると、森本さんはコムラコフと連絡を取り、 その後、コムラコフがノルウエー国内で主催した、リー理論関係の研究集会に出席したとのことである。また、SHSには、リリアナ・パベル(Liliana Pavel)という、 ルーマニア、ブカレストの女性数学者が短期間滞在していたが、彼女は「半群(semi-group )」の研究者で、私の鹿児島大学教養部の先輩教授である酒井幸吉先生の論文に 大変お世話になったと云うので大変驚いた。世界がことのほか狭いことを実感させてくれたことであった。ノルウエー国内からは、世界最北の大学(当時)である トロムソ大学からフロー(Tor Fla) という研究者が参加していた。力学系の研究者らしかった。もの静かな男で研究室の机に座って何やら計算をしている姿を いつも目にしていた。「研究室」と廊下との仕切りはガラスで出来ていたので、ブラインドを下ろさない限り研究室の中は丸見えであった。分野が違うので研究上の交流は なかったが、研究室が隣り合わせであったこともあり、個人的に親しくさせて貰った。彼の友人を含めて3人でノルウエー映画を見に行ったこともあった。


9月に入ってすぐ、ハンブルグ大学のシェファー(Hans-Bernd Schaefer) と云う経済学者がSHSに短期間滞在した。 彼から、自分の車を持ってきているので、その車でノルウエー大西洋岸のベルゲン(Bergen)まで、2泊3日の旅行をしようという提案を受けた。ベルゲンは中世のハンザ同盟で 有名な都市で、グリークの生誕地としても知られている。外国人との親密な個人的付き合いは、それまで経験したことはなかったので、躊躇する気持ちがないわけでは なかったが、この際、何でも経験してみようという気持ちから彼の提案に応じることにした。


9月30日(金)の15時にSHS を出発し、その日は Gol というところで、一泊した。近くにノルウエー独特の木でできた教会、 スターブ教会(支柱教会)があるというので見に行った。シェファーがここに宿をとったのは、この教会が目当てだったと思われる。オスロから大西洋岸のベルゲンに 出るには山を越えなければならない。標高が上がるにつれ雪を見るようになった。Gol周辺は既に雪に覆われていた。翌朝、ベルゲンに向けて出発したが、高度1250mの 最高地点のあたりで次第に雪はひどくなり、ついに雪の中で立ち往生してしまった。どうなることやらと心配したが、シェファーは慌てることもなく、40km ほども 引き返して、道端のショップで滑り止めのスプレーを購入して、再び引き返した。そして見事に難所を乗り切った。私はシェファーのチャレンジ精神には、ほどほど 感心した。


ベルゲンで一泊した後、10月2日(日)21時過ぎにオスロに帰ってきた。復路は私も運転をしたが、車の運転をしながら、 いろいろな話をした。1950年代後半のドイツ映画、「白夜」の主演女優マリア・シェルの話をすると、彼も知っているという。同時代の空気を共有している気がして嬉しくなった。 「資本論」で名高い「マルクス」の名前も出してみたが、シェファーの反応は否定的なものであった。数理的な経済学をやっている彼にとっては、マルクスは そのような存在なのだろう。私が一番聞きたかったことは、「神聖ローマ帝国」のことであった。私はずっと以前から、素朴に、なぜドイツの地に「ローマ」という名がついた 「帝国」があったのか不思議に思っていたのである。シェファーは宗教的権威と世俗権力の関係についていろいろ説明してくれたが、私は心底から合点したわけではなかった。 これを知るには、おそらく、ヨーロッパ文明における、キリスト教の「役割」を知る必要があるのだろう。


この旅の中で、印象的な出来事があった。復路、シェファーは途中の雪原で車を止めると、「Sorry!」と云いながら雪の上に 放尿をした。雪国育ちの私も、幼き頃を思い出しながら彼と並んで放尿をした。異文化交流というのは、まず、ヒトはヒトとしてみな同じなのだと認識することから 始まるものであると感じた瞬間であった。


大学の「代数幾何学セミナー」は9月8日から、SHSの「数学グループ」のセミナーは9月12日から始まった。前者は木曜日に後者は 月曜日にほぼ毎週開かれた。私は、SHSのセミナーでは、10月24日と11月7日に話をさせて貰った。話の内容は、チューリッヒで開かれた国際数学者会議ICM94の ポスター・セッションで、その概要を発表した、「通常特異点を持った複素代数多様体の解析的族」から生ずる「混合ホッジ構造の変形族」を 「立体的超特異点解消 (Cubical hyper-resolutions)」を用いて記述する研究についてあった。この研究に関しては、日本から手書きの草稿を持ってきていたのだが、 この論文をブラッシュアップしたうえでAMS-Tex でタイプセットし、プリント・アウトすることを、ノルウエー滞在中の私の最低限の目標とすることにした。


雪がチラホラ舞っているのを見たのは10月3日だったが、11月10日には雪が積もった。11月末頃になると、次第に日が短くなって いくのを実感できた。朝9時頃に空が明るくなり、夕方4時過ぎには暗くなった。12月に入ると、私が住んでいたフラット近くのビュグディ大通り(BygdΦy Alle)の街路樹に イルミネーションの電球が灯った。


12月19日、妻、長女、次女が日本からやってきた。空港到着が、22時15分で、フラットに着いたのは23時を過ぎていた。 娘たちはフラットに着くなり、ベッドに潜り込むとすぐに眠りについた。 12月22日、SHS でBefor Xmas Party があったので、家族で参加した。家族にはこのパーティに 間に合うように来て貰ったのである。滞在中、前年の2月、冬季オリンピックが開かれたリルハンメルへ一泊旅行をした。年が明けて元旦から4日にかけて、 長女の親友のNさんがやってきた。妻と長女は3日に日本に帰り、その翌日にはNさんも帰った。次女だけが残り、バレー学校に通いながら3月中旬までオスロに滞在する ことになった。経緯の詳細は省略するが、次女のオスロ滞在に関しては、バレー学校の手配などを含めて、ラウダル には大変お世話になった。


1月10日には、在ノルウエー日本大使館でオスロ在住の日本人の「新年賀詞交換会」が開かれたので次女と一緒に出席した。 会場で「ノルウエー日本人会」会長の太田昌秀さんにお会いした。ノルウエー国立極地研究所の教授で、JETRO が「地球ライブラリー」の一冊として1994年5月に出版した、 「オスロに暮らす」という本の編集委員長を務められた方である。この本は家族がオスロに来るときに持って来てくれたので、オスロ滞在中は大変重宝した。「交換会」には 立命館大学産業社会学部教授の中川順子さんもおられた。中川さんはノルウエーの高齢者福祉制度の研究を目的に滞在しているということであった。「交換会」 は一時間ほどで終わり、その後、オスロ東方の太田さんの自宅(フラット)を、中川さんとともに訪ねた。太田さんの家からは、鮮やかな夕焼けに染まったオスロ湾が良く見えた。


12月半ば、日がどんどん短くなっていった頃は、毎日続く“Black Days”に優鬱な気分になり、この先どこまで短くなる のやらと心配になったが、これは杞憂であった。このような期間は思ったより短かく、1月末頃からまた日が長くなった。この頃のフラットの窓から見える夜明けの空は、 薄い赤紫と透明なブルーが混ざり合い実に見事なものであった。。


大学では、1月23日の月曜日から春学期が始まった。ラウダルが学生向けの講義をするというので、後学のために聴講させて貰うことにした。講義の内容は、ワイルの 「群論と量子力学」を題材にしたものであった。講義の冒頭で、ラウダルは、この講義の精神を、”Do Mathematics in physical way”と表現した。


3月10日、次女が帰国した。これと入れ替わるように、與倉昭治さん夫妻がオスロにやって来た。與倉さんは3月16日(木)から 19日(日)まで滞在し、17日に数学教室の「コロキュウム」で講演をした。タイトルは、”A singular Riemann-Roch for Hirzebruch characterisics” であった。 「コロキュウム」では講演前にティー・タイムが設けられていた。コロキュウムには、ピエネも出席していた。與倉さんには、孤立特異点のセグレ類を扱った論文があり、 ピエネにも、特異多様体のセグレ類を扱った論文 “Polar classes of singular varities” があったので、10年程前に、二人はお互いに手紙をやり取りしたことが あったそうである。


3月24日に単身用の別のフラットに引っ越した。元のフラットから北へ500mのところで、新しい住所はLΦvenskiolds gt.12 で あった。わずかな距離の違いであるが、街の雰囲気はまったく違った。新しいフラットの部屋からは、街を行く人々の表情が良く見え、人々の生活を身近に感じられる ような気がして嬉しくなった。この頃、私はいろいろな表情をしたオスロを求めて徒歩で街中を歩くようになっていた。フラットから大学までも幾度となく歩いて行った。 距離にして3km、歩くと40分ほどかかった。途中の街の風景には古いオスロの匂いが立ち込めているような気がして、 私のお気に入りのウオーキング・コースになった。だんだん春めいてきたので、あるとき私がラウダルに「Spring has come」と言うと彼は「Just knocking a door」と答えた。


私がそれまで入っていたフラットには、ロシアの数学者パラモドフ(V.P.Palamodov)夫妻が入った。パラモドフには「複素空間の変形」に関する 論文(総合報告) 「Deformations of Complex Spaces, Russian Mathematical Surveys, 1976, 31:3, 129-197」があり、これには以前から私もお世話になっていて、 その名前は良く知っている数学者であった。


国際数学者会議ICM94のポスター・セッションでその概要を発表し、「SHSセミナー」で2回にわたって話した私の研究は、 最終的には、”Variations of mixed Hodge structure arising from cubic hyperequisingular families of complex projective varieties. I. II” という 論文になった。「通常特異点を持った複素射影的代数多様体の解析的族」からは、この族のファイバーである「通常特異点を持った複素射影的代数多様体」 の「特異点集合」を次々に正規化(normalization)を施すことにより得られる「超立体的特異点解消(cucbical hyper-resolution)」 は一つの族をなすが、この論文では、 これを一般化した概念として、「Cubic hyper-equisingular families of complex projective varieties」なるものを定義し、この族についての 「相対的コホモロジー降下」が成り立つことを示すことにより、この族から自然に「Variations of mixed Hodge structure」が生ずることを証明している (「ある種の無限小混合トレリ問題」の項を参照)。一般に「複素解析空間」の「特異点集合」は、その「特異点集合」の「特異点集合」、そのまた「特異点集合」の 「特異点集合」…というふうに、次第に次元が下がっていく「特異点集合」が層をなしている(この「構造」を「層状構造(stratification)」と云う)。 「超立体的特異点解消」は、この「構造」に関係したものである。


相対的な「コホモロジー降下」には、定数係数コホモロジーの「コホモロジー降下」と相対的ド・ラム複体の 「コホモロジー降下」の二つがあり、前者からは混合ホッジ構造のweight filtrationが生じ、後者からはHodge filtrationが生じる。この部分の証明は、 「F. Guillen, V. Navarro Aznar, P. Pascual-Gainza, and F. Puerta: Hyperresolutions cubiques et descente cohomolologique, Lecture Notes in Math.1335, Springer, Berlin, 1988」の中のF. Guillenの証明を「相対化」することで可能である。この族から「混合ホッジ構造の変形族」が 生ずることを示すには、「ガウス・マニン接続(Gauss-Manin Connection)」に関して、「グリフィスの横断性定理(Griffiths’ transversality theorem)」が 成立することを示すことが必要であるが、この証明に、「N. M. Katz and T. Oda: On the differeneiation of De Rham eohomology classes with respect to parameters. J. Math. Kyoto Univ., 8, no. 2, 199−213 , 1968」の中の計算結果を使うところが鍵であった。複素射影的代数多様体の(局所自明な)変形族から 生ずる混合ホッジ構造の変形族を、複素射影的代数多様体の「立体的超特異点解消」を用いて記述することのメリットは、元の特異射影的代数多様体に関する 「局所混合トレリ問題」もしくは「無限小混合トレリ問題」を、非特異多様体のコホモロジーの追跡に還元して考察することを可能にするからである。最終的には、 与えられた複素射影的代数多様体の(局所自明な)変形族の「特性写像(Kodaira-Spencer map)」を、この族から生ずる混合ホッジ構造の変形族の 「ガウス・マニン接続」に関連付ける公式を証明することを目標とした。


論文を書き上げてタイプセットを始めた頃は、すでに4月に入っていた。私はSHSのプロジェクト研究の期間を6月末までと思って いたのだが、1か月ずれていたようで、5月15日をもってSHSセミナーは終了した。論文のタイプセットが終わり、大学へ行って、プリント・アウトしたのは、5月18日の 午前中であった。その日の夜、ラウダルの招待により、Engebret というレストランで、SHS の「数学グループ」の「Good-by party(打ち上げ会)」が開かれた。 その二日後、ラウダルは長期休暇のため、南仏のニースに旅立っていった。論文” Variations of mixed Hodge structure……, I. II” は、私が帰国後、 オスロ大学数学教室のプレプリント・シリーズの no.22, no.23(1995).として刊行された。


この論文 によって、「通常特異点を持った複素射影的代数多様体の解析的族」に対して、「無限小混合トレリ問題」の コホモロジー論的な定式化を与えることが出来たので、これを曲面の場合に詳しく調べて「無限小混合トレリ問題」が肯定的に解けるための十分条件を求め、さらに、 それを充たす具体例の構成する研究を引き続き行った。これについては、5月23日、大学での「代数幾何学セミナー」で話をした。残された滞在期間は、この研究を前述の論文の Part III として執筆し、タイプセットすることに費やした。


日本を発つ前に私が抱いていたもう一つの問題、すなわち、私が学位論文の続編として発表した、コンパクト複素多様体の 局所安定なパラメトライゼーションを持つ解析的部分多様体のモジュライ空間を「代数化」する問題については、ラウダルから、以前、 京都大学の丸山正樹さん(故人)が、Tohoku Math. J に発表した論文が参考になるのではないかという示唆を受けた。ラウダルの云う、丸山さんの結果とは次なような ものである: 完備代数多様体Yに対して、固定したチャーン類を持つ、Y の構造層 O_Y 上「有限」なO_Y-algebra の全体は有限型スキームの構造を持つ。 しかし、この問題に関する研究は、ほとんど進展しなかった。


5月17日は「憲法記念日」で、市内全体がお祭りムードに包まれた。私も王宮前広場に行ってみたが、市中は、民族衣装を まとって晴れやかな顔をしたオスロ市民であふれかえっていた。老若男女が軍楽隊を先頭に国旗を振りながらパレードをしていた。パレードをしている子供たちの 集団は市内の小中学校単位で編成されているようであった。 途中、小さな男の子を連れたパラモドフ夫妻に会った。


ここで、「憲法記念日」に関連してノルウエーの歴史について書いておくことにする。ノルウエーには、14世紀末以来、 400年近くデンマークの支配下に置かれていた歴史がある。ノルウエー王朝の黄金時代は、1249年〜1260年のホーコン王の時代であるが、14世紀中頃に流行した黒死病の せいで人口が半減し国力が低下した。最初のデンマーク支配は、1395年締結のデンマーク・スウェーデン・ノルウエー3国のカルマ同盟に始まる。その後、1525年に スウェ−デンは独立するが、ノルウエ−は「デンマ−ク・ノルウエ−二重王国」の中に残され、デンマークの支配は続いた。そして、19世紀初頭、ヨーロッパを席巻した ナポレオン戦争でフランスに組したデンマークが敗北すると、列強は、1814年、キール条約を結び、ノルウェ−をスウェ−デンとの同君連合に組み入れることを決定する。 この機を捉えて、当時、たノルウェ−の総督であったデンマーク王太子クリスチャン・フレゼリクは、ノルウエー国王として独立を宣言する。一方、フランス革命思想に 影響を受けたノルウエー国民の間にも独立を望む声が強く起こり、同じ年の1814年、自力でオスロ近郊のアイツヴォルで憲法制定会議を開き、当時のヨーロッパでは最も 進んでいたと云われる憲法を制定した。これを記念するのが、5月17日の「憲法記念日」である。この憲法はノルウエー国民のナショナリズムの源泉と云って 良いだろう。しかし、列強の圧力は強く、ノルウエー国王クリスチャン・フレゼリクは退位を決意、ノルウエー国民も自分たちが制定した憲法を承認することを条件に、 スウェーデンとの同君連合を受け入れたのである。ノルウエーがスウェーデンとの同君連合から離脱し、独立を果たすのは、1905年のことであった。このような歴史が ノルウエーの国民性に大きな影響を与えているものと思われる。私のオスロの第一印象は、デンマークのコペンハーゲンやスエーデンのストックホルムに比べて、 王宮や教会が質素に出来ているということであった。虚飾というものがまるでない。その理由は以上のような歴史を知ることによって納得できる気がした。


5月31日には、Frederick Stangs gt. 35の元のフラットに戻った。これは6月1日から若い数学者が来て、単身用のフラットに入る ためらしかった。単身用フラットには、日本のビジネス・ホテル同様、部屋の掃除や衣類のクリーニングのサービスが付いていた。


6月に入ってからも、” Variations of mixed Hodge structure……, III” の執筆は続いた。6月10日にはひとまず原稿は 出来上がったが、引き続きSHSで夜遅くまでタイプセットを行う日々が続いた。ある日の夜、11時ころまで、SHSの研究室で作業をしていると、ガードマンに名前 を聞かれたこともあった。この頃から少しずつ日本に向けて小包を発送したり、お土産を購入したりして、帰国の準備に入った。


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古都 トロンハイムへ

 

1995年5月23日、私はオスロ大学での「代数幾何学セミナー」で、“Infinitesimal mixed Torelli problems for algebraic surfaces with ordinary singularitites” と題する講演を行った。その直後のことだと思うが、そろそろ帰国の準備に入っていた私のもとに、大学の ラネスタッド から、6月24日から30日まで、ソーフス・リーの生誕地であるノールフィヨーレイド(Nordfjordeid)で、”Europian annual conference on Algebraic Geometry” が開かれることを知らせる案内が送られてきた。私は、これはいい機会だと思い、これに参加することにした。そして、コンファレンス終了後、近くの港から 船に乗り、ノルウエーの大西洋岸を古都トロンハイム(Trendheim)まで北上し、そこで下船、トロンハイムで数日滞在した後、SHSで一緒だったフローがいる トロムソ(Tromsφ)に飛行機で飛ぶ計画を立てた。実は以前、フローからトロムソ大学への招待を受けていたのである。しばらくしてフローから、7月4日から7日まで、大学の宿泊施設を予約した旨の e-mailを受け取った。


コンファレンスが開かれるノールフィヨーレイドへの行き方を尋ねるために、ラネスタッドの研究室を訪れると、彼が云うには、 みんなが乗っていくバスは既に満席なので、Kim Frφyshov という、ケンブリッジ大学の大学院生と一緒に、飛行機で ストランダ(Stranda)まで来てくれれば、 そこで合流できるということであった。そこで、私は6月24日、Kim Frφyshov と一緒にオスロ空港から軽飛行機でストランダまで飛んだ。


ノルウエーには、 フォーク・ハイスクール(Folk High Scool)という独特な学校がある。17歳半以上の一般人を対象にした、試験もなければ、卒業証書もない全寮制の学校である。 コンファレンスが開かれたのはそのような学校の一つであった。夏休みは学生がいなくなるので、学生の寮を宿泊施設として利用してこのような研究集会が 開かれるのである。研究集会には、シカゴ大学のフルトンも来ていた。会期中に観光地のブリクスダーレ氷河(Briksdalsbreen)へのツアーがあった。


コンファレンスは6月30日で終わったが、私一人だけもう一泊し、7月1日の朝早く、バスで「高速フェリー」(Express Coastal Steamer) の乗り場がある モーレイ(Malφy) に向かった。ノールフィヨーレイド(Nordfjordeid)は、名前からもわかるようにフィヨルドの一番奥にあり、モーレイは そのフィヨルドの入口にある町であった。8時頃、モーレイを発ったフェリーは、オーレスン(Alesund)、 モルデ(Molde) 、クリスチャンスン (Kristiansund)を経て翌日の7月2日早朝に、トロンハイムに着いた。トロンハイムは、ノルウエーの中西部にある古都である。ヴァイキングの王、 オーラブ I世は、997年、ニード川の河口、現在のトロンハイムに都を築くことを決めた。その息子、オーラブII世は積極的にキリスト教を導入し、キリスト教の 力を借りて、より広い版図の統一を図ったが、激しい抵抗を受け、1030年に敗死した。云い伝えによれば、彼の亡骸を一年後に掘り起こしてみると、皮膚は生き生きとし、 髭や爪がのびるままになっていたので、人々は驚いてこれを奇跡とし、教会を建て、そこに彼の遺骸を祀ったと云う。その後、彼は聖人(殉教者)として崇められ、この教会は聖地となり 巡礼の波が押し寄せるようになった。1152年にトロンハイムに司教区が設けられたのは、このような経緯からである。現在、トロンハイムには聖ニーダロス教会 という立派な教会がある。おそらくノルウエーで一番立派な教会であると思われる。 15世紀末、宗教改革の波が押し寄せるまで、トロンハイムはノルウエーに おけるキリスト教(カトリック)の中心地であった。トロンハイムには2泊し、聖ニーダロス教会、ノルウエー工科大学、民族博物館などを訪ねた。ノルウエー工科大学は、 その当時、ノルウエーにあった四つの大学の一つであった(他はオスロ大学、ベルゲン大学、トロムソ大学)。


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北極圏の町 トロムソ、そして帰国

 

私は7月4日の朝、トロンハイムからトロムソに飛行機で飛んだ。トロムソの空港には、SHSで一緒 だったトロムソ大学 のフローが迎えにきていた。彼の車で空港から大学に行き、私が泊まることになっている「宿泊施設」の鍵を受け取った。その「宿泊施設」は町の中心街にあり、 一般向けのフラットを大学が借り受けて、大学の「宿泊施設」として利用しているものであった。トロムソは、北極圏にある人口5万人ほど(当時)の町である。 この地域には最終氷期が終わった頃から人間が定住しており、確認できる最古の文化は極北の遊牧民族サーミ人たちによるものであるという。その後、9世紀〜11世紀の ヴァイキングの時代には、漁師や猟師が住み着いていたらしい。


北極圏とは北緯66度33分以北の地域を云う。トロムソの緯度は約北緯69度41分であるから北極圏にある。ちなみにオスロは 北緯59度56分、トロンハイムは63度25分である。1972年に設立されたトロムソ大学は、私がSHSに滞在した1994年当時は、世界最北の大学と云われていた。現在では トロムソよりさらに北のスピッツベルゲン島にスバルバール大学(University Centre in Svalbard)が設立されたので、その座をこの大学に譲っている。 地球は公転面に対して自転軸が23度67分傾いているので、北緯66度33分以北の北極圏では、冬には一日中太陽が昇らない期間があり、夏には一日中太陽が沈まない 期間があるのである。


私はトロムソ大学のフローに、「ミッドナイト・サン」を是非見たいと伝えてあった。トロムソに着いた日の夕方、フローが 車で迎えに来た。トロムソの市街地はトロムソイヤ島と云う島にあるのだが、海(フィヨルド)を隔てて東側の本土にある山に空中ケーブル (フェルハイゼン、 Fjelheizenl) で登った。空中ケーブルの終点駅は海抜420mにあり、「大きな岩」(ストールシュタイネン、Storsteinen)とう名前がついていた。山の上のレストランで 食事をして、午前0時になるのを待った。レストランの周辺には残雪やお花畑があった。緯度が高いせいで、花はすべて高山植物風の小さな花であった。午前0時が近づくに つれ、太陽は西方の山の端に向かって徐々に降りていった。しかし、沈むことはなく、最低点に到達すると、また上方に向かって昇っていった。ミッドナイト・サンの瞬間で あった。


7月5日は、市内ツアーのバスに乗り市内観光をした。トロムソ教会、市博物館、北極教会(Polar Cathedral)、 北極博物館(Polar Museum)などを巡った。トロムソのメーンストリートは木造建築物が多いので、私が子供の頃見た西部劇映画に出てくる街に似ている ような気がした。トロムソ教会近くの広場には探検家アムンゼンの銅像が港の方角を向いて立っていた。波止場近くには、漁業の基地の町らしく、 ボートに乗り銛を構えた漁師の像があった。荒々しい海の男たちの息遣いが聞こえてくるようであった。街の別の一角には、ノルウエー国旗と、おそらく市の紋章と思われる トナカイをあしらった旗を従えて海の方向見つめている軍服を着た背の高い男の像があった。元ノルウエー国王ホーコン7世(在位:1905−1957)の像であるという。 1905年、ノルウエーがスエーデンとの同君連合を解消して独立したとき、デンマークの王子を迎えてノルウエー国王とした。それがホーコン7世である。 ノルウエーは第2次世界大戦のとき、ナチス・ドイツに侵攻されたが、このとき、この国王はヒトラーの降伏要求を拒否してトロムソに逃れ、この地に 臨時政府を立てた。その後、イギリスに亡命し、そこからノルウエー国内のゲリラ部隊を指揮したという。このことを描いた映画、「ヒトラーに屈しなかった国王」 が2017年に日本においても公開されたことは記憶に新しいところである。


7月6日、私はトロムソ大学にフローを訪ねた。トロムソ大学は1972年に設立された新しい大学である。研究室、 コンピュータ室を見せて貰った。私が所属する鹿児島大学の数学教室と似たようなものであった。大学構内に特徴的な形をした「オーロラ観測所」 (Northen Lights Observatory)があった。そこでプロネタリウムをやっていたので見物した。その後、大学近くのフローの家に行った。フローには離婚経験があり、 現在の奥さんとの間に二人の子供がいた。前妻との間の子も遊びに来ていた。Armondという小学校中学年くらいの男の子であった。フローの父親も紹介された。 漁師であるという。多分、「シシャモ」のことだと思うのだが、日本に輸出している魚のことを話した。北辺の遊牧民族サーミの血を引いているとフローは云った。 サーミとは、古代よりスカンジナビア半島の北部ラップランドでトナカイの遊牧をして暮らしていた民族である。


しばらく談笑してから、フローとフローの前妻との間の子、Armund の三人で釣りに出かけた。車に小一時間ほど乗って、 あるフィヨルドの岸辺に着いた。小さなコテージが一つあり、遠くで女の人が一人、釣りをしていた。私たちはその女の人と並んで釣りをした。水面は魚の群れで 盛り上がっていた。魚はいくらでも釣れた。しばらくして、ふと目を上げると、目の前を大型の船が音もなく滑るように進んで行くのに気付いた。私は その船が水平線の彼方へ点となって消えていくまでじっと見つめていた。まるで幻を見ているような気がした。 後で調べてみると、釣りに行った 場所は、Straumhella という、地元の人たちがキャンプや釣りをして楽しむリクレーション・センターであることがわかった。


7月7日朝、私はトロムソ空港にいた。この日、私は飛行機でオスロに帰ることになっていた。飛行機の出発時間まで、 空港の建物の外に出てみた。外は広野で地上には黄色の花が咲き乱れていた。空気は澄み、天空は雲で覆われていたが、隙間から抜けるように青い空が見えた。  頭上を何羽もの海鳥が舞っていた。自分以外には人の気配がしない静寂の中で海鳥たちの鳴き声だけが響いていた。


7月7日、8日、オスロのリッツ・ホテルに二泊した後、7月9日、9時発の飛行機でオスロを後にした。その後、イギリスの ロンドン・ガトウイック空港を経由してアメリカに渡り、ボストン、ワシントンD.C.、サンフランシスコを旅しながら、ボストン大学、マサチューセッツ工科大学、 ジョージ・ワシントン大学、カリフォニア大学バークレー校などを見学して日本に帰って来た。ワシントンD.C.からサンフランシスコまでは飛行機で飛んだが、 大陸横断に要する飛行時間は正味5時間半くらいであった。途中、アメリカ大陸のど真ん中、カンサス・シティに給油のために立ち寄るのだが、その時間を除いてのこと である。その日は天気も良く、飛行機は比較的低空を飛ぶので、アメリカ大陸の様子が良く観察できた。アメリカ大陸の中部はほとんどが大農場畑作地帯であること、 西側は1/3〜1/4ほどが砂漠であることを認識できた。デンバーの「赤い岩」、北部ロッキー山脈のヨセミテ国立公園も良く見えた。


ヨーロッパからアメリアに渡って思うことは、日本がいかにアメリカ化された国であるかということであった。西海岸にある サンフランシスコは云うに及ばず、東海岸のボストンも、古い建物が一部残っているとは云え、都市の景観、人々の態度は日本に近いように思えた。 サンフランシスコに着いたのは7月15日であった。ホテル近くの日本人街に行ってみると「近鉄のれん街」があり、一足早く日本に帰ったような気分になった。  7月18日、13時25分(日本時間19日、午前5時25分)発の飛行機に乗り、関西国際空港に降り立ったのは、7月19日の16時30分頃であった。その日の夜、新大阪駅発の特急寝台に 乗り、鹿児島の我が家に帰り着いたのは7月20日の午前中であった。


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ノルウエーという国について

ノルウエーは高福祉社会の国として、常に世界の上位にランクされる国である。また女性の政治参加もめざましい。 ノルウエーにはクオータ制(割り当て制)というものがあり、公的委員会などは男女どちらも40%を下回ってはならないと法律で定められている。2018年現在、 169名の国会議員のうち女性議員は41%、首相も女性、内閣閣僚は半分以上が女性である。ネットを見ていたら、経済的指標からみた「最も国民にとって住みやすい国」 ランキングというのが載っていて、驚いたことにノルウエーが一位であった(日本は24位)。これは、2018年の「世界経済フォーラム」(WEF)の年次総会で提出された 「活動成果および重要な調査結果」によるもので、この結果は、GDP(国内総生産)とは異なる指数 IDI(The Inclusive Development Index)を使用して算出されている。 IDIの算出には、「 成長と発展(Growth and Development)」、「包括性(Inclusion)」、「世代間の共生と持続可能性(Intergenerational Equity and Sustainability) 」の 3つの中心的指数が使われている。このうち、「包括性(Inclusion)」は何を意味するかわかりにくいが、ジニ係数や世帯の平均所得などを使った 「富と貧困の偏在、所得の不平等」を表わす尺度である。ちなみにノルウエーの国民一人当たりのGDPは、ルクセンブルグに次いで世界2位である(日本は14位)。 この結果は、ノルウエーは、持続可能性を視野に入れたバランスの取れた経済発展を遂げており、国民は行きとどいた福祉制度のもとで安定した生活を送っている ことを物語っていると思われる。


ノルウエーの国の面積は日本のほぼ1.6倍であるが、人口は約540万人弱(2019年現在)で、兵庫県、北海道の人口のほぼ中間で ある。人口面からするとノルウエーは小国であると云ってよい。そのような国が、「最も国民にとって住みやすい国」ランキング一位の高福祉社会を築 いくことが出来たのは、何といっても資源が豊富なことに因ると思う。ノルウエーは昔から森林資源、漁業資源、鉱業資源、水力による電力が豊富で ある。 加えて、近年、北海で石油、天然ガスが産出するようになった。さらに言えば、ここから得られる利益を一部の人が独占するのではなく、国民が広く享受できる ような社会システムを築いているということだと思う。これは、国民の間に「草の根民主主義」が根づいているからこそ可能なのだと云えるだろう。


民族にはそれぞれの風土と歴史があり、その風土と歴史の中ではぐくまれてきた文化がある。文化は民族の精神的 バックボーンと云えるだろう。そのような文化的土壌の上に、その時々の世界情勢、社会状況を反映して現実の政治・経済活動があり、これらの総体からそれぞれの 国の社会が成り立っている。一年に満たない短い滞在ではあったが、独自の文化を持ったノルウエーでの生活を通して、私が感じたこと、考えたことを 書き留めておきたいと思う。


ノルウエーの独自性を表わしていると思われることは、ノルウエーが未だにEU未加盟国であることである。私がSHSに滞在した 1994年〜1995年当時、西欧諸国でEU未加盟国は、ノルウエー、スイス、リヒテンシュタインの三国であった。滞在中の1994年、11月28日には、EU加盟を問う国民投票 が行われたが、結果は「ノー」であった。私をSHSに呼んでくれたラウダルもEU加盟には反対であった。「EUに加盟すると、これまで育んできた草の根民主主義が否定される」 と云っていた。オスロ等の都市部では加盟賛成派が多数であるが、地方に行くと農民、漁民の独立性が強く、容易にEUに統合されることに賛成しないという。 また、フィヨルドの入り組んだ地形に住んで居る農民、漁民を政治的・経済的に中央集権化することは難しいのだとも云っていた。SHSで出合った法律・経済のノルウエー人 研究者達は、これは単なる経済上の問題ではなく、どこに文化的価値を置くかという問題であると云っていたが含蓄のある言葉である。


私がノルウエーに来て一番驚いたことは、ノルウエー人は皆、英語を話すということであった。街の人たちは、外国人とわかると英語で応対してくれるので、 こちらに来てから本腰を入れてノルウエー語を勉強しようと思っていた私はあてがはずれてしまった。ノルウエー人は小学校4年から英語の授業があるという。ノルウエー語には ボーク・モール(本の言葉)とニュー・ノルスク(新しい言葉)の二つがあり、いずれも公用語になっている。前者はデンマーク語に近く、その呼び方からわかるように 主に書き言葉として用いられ、後者は19世紀のナショナリズムの高揚の中で、古くからあった西海岸地方の方言を基にして新しく作られた言語で、主に話し言葉として 用いられるという。したがってノルウエー人は少なくとも三つの言語を習得していることになる。


さらに感心したことは、たとえば 4、5人のノルウエー人の中に日本人の私が一人いるとしよう。すると彼らは自然に英語で会話をしてくれることであった。 これは大学人、もしくは研究者仲間という特別な集団に限られたことなのか、一般のノルウエー人の場合もそうなのかはわからない。ちなみに、日本において逆の状況の 場合を考えてみたとき、果たして私達日本人は英語で会話しようとするだろうか? 決してしないし、そのような能力もないだろう。それ故、私はこのようなノルウエー人の行為に大変感銘を受けた。国際社会を生きていくうえで、国際共通語としての英語の重要性を理解しており、 その能力も身に着けているということである。ノルウエー人には自分と異なる他者と積極的に交流しようとする意識が根づいていると思わせることであった。


ノルウエー人の他者を思いやる心は日常生活の中でもたびたび目にすることができた。たとえば市電に乗ると、乳母車を乗せようと する母親の手助けや、手動のドアが閉まらないようにと、最後の人が降りるまで、ドアを支えてくれる若者の姿をしょっちゅう見かけた。その姿にはわざとらしさは どこにもなく、ごく自然な姿であった。このような他者に対する思いやりは、いろいろな社会的場面での個性の尊重に通じていると思う。


ノルウエーはEUに加盟していないものの軍事的に中立というわけではない。 NATO(北大西洋条約機構)の一員であり、 徴兵制も敷かれている。ノルウエーは第2次世界大戦のとき、ナチス・ドイツに侵攻された経験があり、このときの国王ホーコン7世はヒトラーの降伏要求を拒否して 北極圏のトロムソに逃れ臨時政府を樹立した。その後イギリスに亡命し、そこからノルウエー国内のゲリラ部隊を指揮した。ノルウエーがNATOの一員であるのは、 このような歴史的経験によるものと思われる。徴兵制により、ノルウエー の若者は高校を卒業すると一定期間、兵役に服する。しかし良心的兵役拒否が認められていて、兵役を拒否した場合は公共的機関で労働奉仕をすることが 義務付けられている。SHSにもそのような若者が働いていて、この若者から日本のゲームソフトについて質問されたことを思い出した。


在ノルウエー日本大使館であった「新年賀詞交換会」で知り合った、立命館大学産業社会学部教授の中川順子さんと、 日本からやってきた娘さんと一緒に、Huseby Kompeten Senter という高齢者ケア・ハウスを訪ねたことがあった。中川さんはノルウエーにおける高齢者福祉の 研究のために滞在されていた。かつて中川さんのもとに留学していたノルウエー人青年が案内してくれた。ここでもケアを必要とするお年寄り達が、それぞれの 個性を尊重された生活している様を見ることが出来た。お年寄りにも「集団」を好む人もいれば「ひとり」を好む人もいる。ケア・ハウスの中では、それぞれが望む ところに従って生活をしており、一律の生活を強制することは決してないという。


2000年10月26日付の南日本新聞に、ノルウエー王室のホーコン・マグヌス皇太子が、3歳の息子のいるシングルマザーの恋人と 同棲生活を始めたことを報ずる記事が載った。このシングルマザーの恋人は、かつて麻薬がらみのパーティの常連だったこともあり、一部に反対論もあったものの、 二人は一年後、国民の祝福を受けて、めでたく結婚した。ノルウエーでは若者たちの同棲生活はごく普通で、生まれる子供の半数は婚外子で、子供のいる五世帯に一世帯が シングルマザーの家庭であるという(当時)。私の周辺のノルウエー人数学者たちも男女の関係に関しては、実に開放的で自由であるように感じていたので、上記の記事には 納得するものがあった。社会福祉制度が整い、男女平等の社会を追及し、個人の自由が尊重されているノルウエーならではのことだと思う。


私が知り合ったノルウエー人数学者達の「家族」の姿は実に多様であった。あるとき、SHS内 でピエネが10歳くらいの男の子を連れて、 クリストファーセンと立ち話をしているのを目撃した。気になったので、 後でピエネに聞いてみると、その男の子はピエネの子で、クリストファーセンは 元夫(exhusband)であるという。クリストファーセンは、おそらくピエネとは 10歳は歳下と思われる青年数学者であったので、私は少なからず驚いた。また、別のあるとき、ラウダル がSHS の地下階の談話室で、30歳前後の青年と話し込んでいるのを 目撃した。後で聞いてみると、彼の息子であるという。独立した息子が父親に何か相談に来たという風に見えた。ところで、その当時、ラウダルには同居している奥さんはいな かったはずである。これは、SHSに来たばかりの頃、ラウダル に招待されて、フルトンと二人で彼のフラットを訪ねたときの様子からの推測である。しかし、 ガールフレンドはいて、私たちが退出する頃にやって来て、そのまま彼のフラットに留まった。また、日本に帰る直前、トロムソ大学のフローを訪ね、自宅を訪問したことが あった。フローは二度目の結婚で、現在の奥さんとの間に二子をもうけていたが、前妻との間にも子供がいて、その子が現在の家族のもとに遊びに来ていた。街中でフローが、 たまたま元の奥さんと遭遇して互いに挨拶を交わす姿も目撃した。


ノルウエーは小国であるにもかかわらず、国際社会で自分たちが果たすべき役割を自覚しており、その自覚に基づいた行動により、 存在感を示していると思う。「ノーベル平和賞」がノルウエー政府内に設けられた委員会によって運用されていることは象徴的なことである。また、1972年に世界に 先駆けて「環境省(Ministry of Environment)」を設置したことからわかるように、「環境問題」については極めて意識の高い国である。次世代へ向け、汚染されていない 自然を残すことが大切だと考え、持続可能な発展を可能にする環境政策を国内外において進めている。ノルウエーは四季の変化に富んだ美しい山と湖と海に囲まれた国 であり、国民はそのことを誇りにしているのである。


これまで何度も言及したが、ノルウエーは、19世紀の初めに、夭逝した天才数学者アーベルを生んだ国であり、ノルウエーの 人たちはそのことを大変誇りにしている。王宮前の広場には、アーベルのモニュメント(ブロンズ像)があるが、それがこのことを物語っている。この数学者アーベルの像は 写実的な像というわけではなく、時空を超えて思索を羽ばたかせている天才のイメージを象徴的に表現したものでヌード像である。この像が造られたのは、1902年と いうことであるから、アーベルの生誕100年を記念して造られたのであろう。このヌード像は、当時の記念碑の常識を越えたものであったので、賛否両論があったという。 しかし、この像を支持する国民の圧倒的な声をバックに、1908年に王宮前広場に設置されることになった。後述の「フログナー公園のこと」の項で述べるように、 このアーベル像を作者はヴィーゲラン(Gustav Vigeland, 1869−1943)という国民的彫刻家であった。


2001年、ノルウエー政府は、アーベルの生誕200年を記念して、「アーベル賞」を創設することを発表した。それまで、数学者の 世界には、数学のノーベル賞と云われる「フィールド賞」があったが、この賞は優れた若手研究者を奨励する意味があり、年齢は40歳未満という制限があった。しかし、 「アーベル賞」にはこのような制限はなく、生涯に渡り顕著な業績を上げた「大家」を対象としている。賞金もフィールド賞とは比較にならない100万ドルという高額で、 これはノーベル賞に匹敵する額である。2002年の北京での国際数学者会議(ICM)で、「アーベル賞」の第一回授与式が行われた。


ノルウエーは心に残る国である。人々の質実さ、穏やかさ、優しさ、人を惹きつけてやまない“Norwegian Smile”、 オスロ大学数学科主任エリングスル−の家の暖炉で燃えていた薪の炎の輝き、“Black Days”が続く真冬の夜、オスロの街のレストランのローソクの灯りのもとから沸き起こる 人々のさざめきなど、私は決して忘れることはないだろう。


私のノルウエー滞在中に、「大江健三郎のノーベル文学賞受賞」、「阪神・淡路大震災」、「地下鉄サリン事件」という 三つの大きな事件が起こった。私のノルウエーに関する記憶は、これらの事件の記憶とともに思い起こすことになると思う。


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フログナー公園のこと

 

オスロ市の北西部に広がる丘陵地帯の麓に、王宮前のアーベル像を作った彫刻家ヴィーゲランの作品だけからなる、 「フログナー公園」という大きな公園がある。24時間開放されており、無料なので気軽に訪ねることができ、市民の憩いの場になっている。私も、たまたま、 日本を発つ前に、地元の地方紙に載った、この公園の彫刻群を紹介する新聞記事を読み、興味を持っていたので、オスロ滞在中に何度か訪れた。新聞記事の著者は、古木俊夫 (1910−2003) という方で、当時、 鹿児島市にあった「グローバル・ユース・ビューロー」という旅行会社の取締役会長を務める一方、「社会教育評論家」の肩書で講演活動などをして活躍されていた。 古木氏は、偶然の機会からこの公園の存在を知り、1970年に初めて訪ねて以来、すっかりこの公園の彫刻群に魅せられてしまい、その後、20年に渡り、18回もこの公園を訪れ、 ヴィーゲランの彫刻群と対話をし、思索をめぐらすとともに、多くの写真を撮られた。そして氏はこの写真をもとに、1992年に「わが心のヴィーゲラン−オスロのフログナー 彫刻公園を訪ねる」(グラッフィク社)と云う本を出版された。この本には、ヴィーゲランその人、およびフログナー公園が出来上がっていった過程についても書かれて いるので、「公園」およびヴィ―ゲランとその時代を知るには恰好の本である。ちなみに、この本は、1993年度南日本文化出版賞を受賞している。


ところで、彫刻家ヴィーゲランは、小説家のイプセン(H. J. Ibsen、1828−1906)、作曲家のグリーク (E. H. Grieg、1843−1907)、画家のムンク(E. Munch、1863−1944)など、ノルウエーが生んだ同時代の他の芸術家たちに比べてあまり知られていない。 古木氏の著書によれば、それには理由があって、遺言により、ヴィーゲランの作品を見るためには、フログナー公園を訪れ、ノルウエーの空気の中で鑑賞することが 求められているからであるという。ノルウエー国内では、ヴィーゲランの彫刻の評価については、いろいろ議論があるらしい。私は一度、ノルウエー人数学者ラウダルに、 フログナー公園のヴィーゲランの彫刻群のことを話しに出してみたことがあったが、返って来た反応は微妙なものであった。


ヴィ−ゲランは1890年代から公共彫刻を手がけるようになり、次第にノルウェーを代表する彫刻家とみなされるようになって いった。ヴィ−ゲランが、現在のフログナー公園の中心にある「噴水の泉」の具体的プランをオスロ市に提出したのは、1900年、彼が31歳のときであったという。 ノルウエーがスェーデンとの同君連合を解消し、独立を果たすのは1905年のことである。 この時、国民は君主制と共和制のどちらを選ぶかを問う国民投票を行い、 その結果、君主制を選択した。そして、デンマークの王子を君主として迎え入れることを決めた。ヴィ−ゲランが活躍した時代は、このようにノルウエーの人々が 近代的国民国家の主人公としのアイデンティティを求めていた時代と重なっている。1921年、ヴ―ゲランが51歳のとき、オスロ市と、 現在のフログナー公園のそばにある邸宅(現在のヴィーゲラン美術館)を新しいアトリエとして提供して貰う代わりに、以後の彫刻・絵画など全ての作品をオスロ市に 寄贈するという契約を交わした。ヴィ−ゲランは完成した「公園」を見ることなく、1943年、74歳で亡くなった。


フログナー公園にあるヴィーゲランの彫刻は、ほとんどが、ブロンズ、または花崗岩でできた「普通の人たち」の裸像である。 赤ん坊、ヨチヨチ歩きの幼児から、少年・少女、青年、壮年、老年まで、すべての世代の裸の老若男女が、笑ったり、泣いたり、怒ったり、慰め合ったり、睦あったり、 励まし合ったりしている。中央の丘の上には、「モノリッテン」と呼ばれる、高さ17メートルの花崗岩の塔が聳え立っているが、この塔の表面には折り重なって上へ のびていく裸の人間群像が彫り込まれている。


これらの彫刻によって、ヴィ―ゲランが表現したかったものは何だったのだろうか? それは、普通の人たちの「生の営み」、 生まれ、成長し、老い、死んでいく「人生のサイクル」、男と女、親と子、兄と弟、姉と妹、家族、世代から世代へと受け継がれていく「家族の歴史」、そして、 それらが織りなす「人間の歴史」だったのだと思う。


ところで、ヴィ―ゲランが生きた100年前と現在では「家族」の姿も随分変わっている。 女性の経済的自立が当たり前になっている ノルウエーでは、特にそうである。私がノルウエー滞在中に出合ったノルウエー人数学者達の「家族」の姿を通してもそのように感じた。


このことに関連して一つ思い出すことがある。 私がノルウエー科学アカデミー高等研究センターの客員研究員として、 10ヵ月滞在するためには、あらかじめ在日ノルウエー大使館に申請書を提出してビザを取得する必要があった。私は申請者の書式を取り寄せて、必要事項を記入していったのだが、 その中に「Family Responsibility」という項目があった。しかし、恥ずかしながら、当時の私には、これが何を意味するのか、すぐに理解できなかった。 しばらく 考えてから、多分、これは、ノルウエー滞在中の私が経済的に家族に対する責任をどのように果たすつもりなのかを問うているのだろうと解釈した。この 「Family Responsibility」という言葉は、当時の私には実に新鮮に響いた。それ以後、この言葉は私の脳裏から決して消え去ることはなかったのだが、今、振り返ってみると、 この言葉には、男女平等の先進国ノルウエーならではのもっと深い意味が込められているのではないかという気がしてきた。ノルウエーでは共働きが普通であり、夫と妻が協同して 家庭を守り、ともに家事をし、育児をする。他方、離婚も多く、当時の皇太子のフィアンセがシングルマザーであったように、シングルで子育てをする家庭も少なく なかった。また、親が異なる子供たちが一緒に生活している「家族」もあった。「Family Responsibility」という言葉には、このような多様な形態の「家族」の「父親」と 「母親」が「経済的責任」を越えて、それぞれの相互の関係の中で親として果たすべき責任という意味があるのではなかろうか。


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私の1990年代

私にとって1990年代は激動の時代であった。世界史的に見て、そのように云い切れるかどうかはともかくとして 、私の人生史においては確実にそうであったと云える。それまで私が生きてきた時代は、いわゆる「東西冷戦」のもとにあり、アメリカを盟主とする 自由主義・資本主義陣営とソ連を盟主とする社会主義・共産主義陣営とが対立し、お互いの社会体制の優位性を競い合っている時代であった。ところが、 1989 年 11 月には、その「東西冷戦」の象徴であったベルリンの壁が崩壊し、その年の12月には、地中海のマルタ島で米大統領ブッシュとソ連共産党書記長 ゴルバチョフとの会談が行われ、「冷戦」の終結が宣言されるに至った。さらに驚いたことに、翌1990年に、ソ連において大統領制が導入され、 ゴルバチョフが初代大統領に就任したものの、1991年12月には、社会主義大国ソ連が崩壊してしまった。これら一連のことが短期間に起こったので、 突然、世界に地殻変動が起こったような感覚に襲われた。これ以後、「自由と競争」というアメリカン・スタンダードが世界を席巻し、いわゆる 「グローバリゼーション」が急速に進んだように思う。この影響は国内政治にも及び、「小選挙区制」の実施もあって、いわゆる「55年体制」と いわれた「保革対立」の構造が崩れ、連立政権と野党乱立の時代を迎えることになった。


今から振り返ると、この「グローバリゼーション」の進展には、もう一つの社会主義「大国」中国の「変容」 も大きく影響していたように思う。中国は、1960年代半ばに毛沢東によって始められた「文化大革命」が、1976年の毛沢東の死をもって終息すると、 ケ小平の指導のもと、経済的発展をめざして、「改革開放路線」を取るようになっていた。この路線の延長線上で、1990年代には、中国の「市場経済化」 と、諸外国に対する「開放」が急速に進んだ。中国が1995年に「世界貿易機関(WTO)」に加盟したのは、このことを象徴する出来事であった。


私にとっての「グローバリゼーション」は、1990年代に入ってから頻繁に、旧ソ連や東西ヨーロッパ、東アジア の諸国を訪れるようになったことであった。実を云うと、このことには、世界情勢の変化もさることながら、もう一つの要因があったように思う。それは、 後々、私の同僚になる與倉昭治さんが、1985年に鹿児島大学の工学部共通講座に赴任したことである。與倉昭治さんは、私が鹿児島大学に赴任した 年に教養課程で教えた理学部数学科の学生だった。彼は鹿児島大学理学部数学科の修士課程を修了すると同時に、その年、始まったばかりの、 米国ジョージア大学と鹿児島大学の交換留学生制度を利用してアメリカに渡り、ジョージア大学のマクローリン教授(Prof. Clint McCrory)のもとで` ` Ph.Dを取得して帰国し、彼の母校鹿児島大学に職を得たのである。彼は英語がすこぶる堪能だった。それに引き換え、当時の私の英語の コミュニケーション能力は、readingとwriting はともかくとして、hearing とspeaking は甚だ心もとないものであった。私は京大数理研の助手に 成りたての頃、英会話教室にすこしばかり通ったことはあったものの、それまで、国際的な研究集会で、英語で研究発表を行ったことはなかったし、 外国人と親しく話したこともなかった。私は、與倉さんに刺激されて、英語のコミュニケーション能力を高めるための学習を再開したと云ってよい。 英語による研究発表は定型的な表現が多いので、それほど難しいことではないのだが、問題は英語によるディスカッションや日常会話であった。 ディスカッションや日常会話は言葉のチャッキボールであるから、相手が何を云っているかわからないことには話にならない。したがって、私はまず英語 のhearing能力を高めることを第一の目標に定めることにした。その頃、丁度「ヒアリング・マラソン」という通信講座があったので、私はそれを 利用した。これには電話による、ネイティブとの会話練習も組み込まれていた。その一方で、慣用句や定型的表現を出来るだけ沢山覚えるようにした。 このようにして私はある程度の英語によるコミュニケーション能力をつけることができ、1990年代の初めの頃には外国に出かけることに対する抵抗感は、 以前に比べ少なくなっていたのである。


1990年に京都で「国際数学者会議(ICM)」が開かれ、多くの外国人研究者に接する機会を得たことも、私に与えた影響は大きかった。私の最初の外国出張 は、1991年夏にイタリア、トリエステの 国際理論物理学研究センター(International Center for Theoretical Physics)で開かれた、 “College on Singularity Theory”に参加したときであったが、この「研究集会」が開かれることを知ったのは、1990年の京都での 「国際数学者会議(ICM)」の場であったと思う。また、私が初めて国際的な研究集会で研究発表を行ったのは、1993年春、モスクワで開催された 国際研究集会 “International Geometrical Colloquium” においてであったが、この 国際研究集会の案内状は、トリエステの “College on Singularity Theory” の参加者に対して送られたのではないかと思う。このモスクワの 国際研究集会での私の発表のすぐ後の発表者が、 ノルウエー人数学者ラウダルだったことが縁で、私が1994年秋から1995年春までノルウエー科学アカデミーの高等研究センターに客員研究員として滞在する ことになったことは、この『自分史「断想」』の「ある種の無限小混合トレリ問題」と「オスロでの研究生活」の項で書いた通りである。一旦外国に 出ると、日本人および外国人研究者とのつながりも増え、それが引き金となって次々と外国に出る機会が増えていくことになった。


1995年2月、オスロにいた私のもとに、湖南師範大学の Li Yangcheng 教授からの手紙が 日本から転送されてきた。手紙の内容は、その年の10月、中国長沙(Changsha)の湖南師範大学で開催されることになっている研究集会、 「Symposium on Topology」の案内であった。 Li Yangcheng 教授とは、1989年に札幌であった「実・複素特異点研究集会」で知り合い、言葉を交わしたことが あった。その当時、Li (李)さんは、東京工業大学の福田拓生さんのもとに客員研究員として滞在していたと思う。私は中国国内で開かれるこの研究集会に おおいに興味を掻き立てられた。そして、すぐさま、出席する旨の返事を出した。


私の東大数学科の同級生に、文化大革命が始まる直前の1965年、第1回「日中青年交流会」に参加するため、 東大学生自治会を代表する一人として中国に渡った者がいた。すでに故人になってしまったが、元福岡大学教授の柴田勝征君である。日中国交回復が実現 する前のことである。彼はこのために大学院入試をキャンセルすることになり、大学院進学が一年遅れることになった。彼は学生自治会の活動家で あったが、その決断の潔さに、当時は少なからず感嘆したものである。1960年代後半、中国大陸から伝わってくる「文化大革命」という言葉は、 その実態も知らないままに、何となく私の感性をくすぐるものがあった。1960年代は、「安保反対闘争」、「大学管理法反対闘争」、 「日韓条約反対闘争」、「ベトナム戦争反対闘争」、「大学民主化闘争」など、学生による、いわゆる「反体制運動」が活発な時代であった。当時の日本には、学生運動を含めて、社会主義・共産主義を目指す社会的潮流が目に 見える形で存在していたと思う。


1970年代に入ると世界は少しずつ変わり始めた。1971年7月、アメリカ大統領ニクソンは、中国から訪問の 要請があり、それを了承したことを電撃的に発表した。この発表は世界からは衝撃をもって迎えられた。このことは、アメリカを盟主とする 自由主義・資本主義陣営による、社会主義・共産主義陣営に対する「封じ込め政策」の終わりを予感させるものであった。背景には、アメリカが軍事介入 したベトナム戦争の泥沼化と、1969年の「中ソ国境紛争」による中ソ関係の悪化があり、アメリカと中国の利害が一致したことによるものと思われる。 その後、中国の「文化大革命」が、1976年の毛沢東の死をもって終息すると、中国はケ小平の指導のもとに、経済的発展をめざして、「改革開放路線」を 取るようになっていった。しかし、1989年に「六四天安門事件」(いわゆる「第二次天安門事件」)が起こった。この事件は、「改革派」だった 胡耀邦元総書記の死をきっかけに、政治の民主的改革を求めて天安門広場に集まった、学生を中心とする市民を、中国人民解放軍が戦車を動員して 鎮圧した事件であった。この様子は、現場にいた各国メディアによって世界中に報道されたため、世界の人々が目撃することになった。この事件は、 共産党の一党支配のもとにある中国が極めて強権的な国であることをあらためて私たちに認識させてくれた。


私は中国の現状を自分の目で見てみたいという思いを抱いて、1995年10月のはじめ、中国上海虹橋国際空港に 降り立った。上海に一泊した後、翌日の飛行機で湖南省の長沙に飛び、湖南師範大学で開催される研究集会、「Symposium on Topology」に 出席することになっていた。虹橋国際空港で荷物を受け取ってゲートを出たところで、白タクの強引な客引きにあった。断っても執拗についてくるので、 なおも断ると、日本語で一言、「スケベ!」と捨て台詞を吐いた。日本人が嫌がる言葉として誰かに教わったのであろう。国際的な玄関口とも云える場所での このような行為は、中国のイメージの低下を引き起こしているであろうことを思わせる出来事であった。


ホテルで一休みしてから街に出てみた。中国国内では、まだタクシーを除いては普通乗用車が普及して いなかった頃のことである。市中は自転車に乗った人々で溢れていた。雨模様の日で、それらの人々はみな、カラフルな雨合羽を着ていた。頭から すっぽりかぶるポンチョ型の雨合羽であった。交差点で信号が変わると、自転車に乗ったそれらの人々が一斉に動き出す様は壮観であった。街には、 車が付いた屋根付き座席を自転車で引っ張る、いわゆる「タクシー自転車」が走っていた。南京東路を歩いていると、雨がポツリポツリ落ちてきたので、 ホテルに帰ろうと思い、道端に止まっていたそのような「タクシー自転車」の「運転手」に声をかけてみた。私は中国語が話せないので、もちろん英語 によってであったが通じなかった。すると、通りかかった一人の婦人が近づいて来て、英語で話しかけ、仲介してくれた。料金は20元か30元と云ったと 思う。タクシーの料金が丁度それくらいであったので、私はそれに乗ることにした。ところが、ホテルに近づくと、その「タクシー自転車」の「運転手」 は、ホテルの手前の人通りの少ないところで「車」を止めて、手振り身振りで200元よこせと云う。話が違うと押し問答になったが、如何せん言葉が 通じない。最後はその「タクシー自転車」の「運転手」は、私の財布から100元札を一枚抜き取って立ち去った。当時の中国のお金の価値は国内相場と 外国人相場があり、中国元と日本円との国際金融市場での交換レートは、100元=1000円くらいであったと思う。外国人の私にとっては、少し高めの タクシー代と思えばなんともない額ではあるが、中国人にとっての100元は日本円にして1000円の10倍の価値があったのではないかと思う。


ところで、この話には後日談があった。研究集会からの帰りも上海で一泊したので、街にでて南京東路を歩いて みた。すると私の財布から100元札を抜き取った件の男が、「タクシー自転車」の座席に、私に英語で話しかけ、仲介してくれた「婦人」を乗せて走ってくる ところに出くわした。二人はグルだったのだ。当時の中国の大都市には、外国人目当てに、このようなあくどい商売をしている中国人が沢山いたと思われる。 2001年に北京を訪れたときも、2005年に広州を訪れたときも、これに似たような経験をした。近年の中国はめざましい経済発展を遂げているので、中国社会も変わってきていると思うが、 最近のこの辺の事情はどうなっているか、気になるところである。


長沙では、湖南師範大学の宿泊施設に泊まった。これがあまり立派な施設とは云えず、水洗トイレの水が流れなかったり、 シャワーのお湯が出なかったりした。しかし、ネットで見てみると、現在の湖南師範大学のキャンパスはすっかり綺麗になって、現代的な建物群が 立っているので、このようなことは昔話になってしまったことであろう。


長沙市は鹿児島市と姉妹都市の関係にあることは知っていたが、同じ宿泊施設に鹿児島市から派遣された職員が 滞在していたのには驚いた。ちなみに、長沙の南、約 50km のところにある湘潭大学は鹿児島大学と交流協定を結んでいて、当時、私が所属していた 教養部から日本語教師として何人かの同僚が湘潭大学に派遣されていた。このように中国湖南省は、以前から鹿児島と関係が深いところであった。


研究集会は10月4日から7日まで行われた。私はこの研究集会で “Cubic hyper-resolutions of analytic varieties with ordinary singularities” と題する講演を行った。 日本人の参加者は、私の他には、広島大学の今岡光範さん、鳥取大学の下村克己さん、岡山大学の 玉村昭恵さん(故人)の三人であった。韓国からも三人の参加者があった。これらの「外国人」を除き、 他はすべて中国人の参加者であった。


研究集会の開会式で、一人、他の中国人研究者と少し離れて座っている中国人がいた。服装も他の中国人研究者 と少し違っているように見えた。話しかけてみると、その人は中国、貴州大学の曹乂(Cao Yi)と云う人であった。この研究集会を通じて親しくなり、 その後、家族を含めて交流を深めることになった。


韓国、高麗大学校師範大学の兎茂夏( Moo Ha Woo)さんともこの研究集会で知り合った。当時、韓国数学会会長を 務めていた人である。この人とも、その後、鹿児島とソウルを相互に訪問するなどの交流を持った。


研究集会二日目の夜、「晩餐会(Banquet)」が持たれた。「晩餐会」には大学の共産党の関係者が参加して いた。共産党による統制が社会の隅々にまで行き渡っている中国社会ならではのことであると思った。「晩餐会」で出された料理は、私が知っている 「中華料理」とは異なり、大変野趣に富んだものであった。テーブル中央の皿の中身は「蛇料理」だった。また、爪がついたままのニワトリの足が大皿に 盛られていた。中国人はこれを 手に取って、おいしそうにムシャムシャ食べていた。火が通ったものであろうが、私にはあまりにも生々しすぎて、 とても口にする気になれなかった。


研究集会最終日の午後は、広島大学の今岡光範さん、岡山大学の 玉村昭恵さん、高麗大学校師範大学の 兎茂夏さん、それに私の四人で市内見物に出かけた。兎さん、今岡さんは、翌日からのExcursion(小旅行)には参加せずに帰国するというので、 兎茂夏さんから誘いがあり、それに応じたのである。毛沢東が卒業したという、「湖南第一師範」や、紀元前2世紀ころの前漢の利蒼という人の墳墓から でた、その人の妻と思われる人のミイラを見に行った。このミイラは発掘当時、生きているかのような肌をしているというので、世界的に有名になった ものである。1970年代の初め頃のことであるが、私も新聞で見た記憶があった。市内の移動にはタクシーを使った。話し言葉は通じなくとも筆談で用は 足りた。この点、中国、韓国、日本のいずれも漢字文化圏にあることが好都合であった。「湖南第一師範」では、門衛の人と筆談で交渉して特別に中を 見せて貰うことができた。


研究集会後、希望者で、10月8日から11日まで、長沙の北西、約350km の山岳地帯にある、張家界 (Zhangjiajie、ジンジャエ)という観光地にバス旅行をした。外国人の参加者は日本人の下村、玉村、坪井の三人だけであった。途中、大学と思われ 施設に立ち寄り、用意されていた円卓を囲んで昼食を取った。張家界までの内陸部の道は、舗装されていない土の道路で、牛や馬に引かれた荷車を多く 見かけた。私の幼少期、昭和20年代の日本の地方都市の道路を見るようであった。バスの停車中に私が道端のお店で、みやげの焼酎を買っていると、 沢山の中国人が寄ってきて私を取り囲み、もの珍しそうに見ていた。バスの中では貴州大学の曹さんと親しく話をした。私は彼に、中国の土地制度の こと、「一人っ子政策」のこと、中国の国営企業の現状などについて質問をした。。


張家界は奇岩奇峰からなる山々が連なるところで、一日目はそれらを眺めながらの尾根歩きをした。 二日目は “Yellow Dragon Cave” という鍾乳洞と少数民族の村を訪ねた。張家界の中心には立派な宿泊施設があり、中国政府は張家界を国際的な 観光地として売り出そうとしていると聞いた。私達外国人の参加者は、主催者側から、決して英語を含めて外国語をしゃべっていけないと申し渡されて いた。私達外国人は、中国人相場の宿泊料で泊っていたからである。


貴州大学の曹さんはその後、2000年の5月から半年間、私が引受人になって、奥さんと二人で鹿児島大学に 滞在した。曹さんの専門は離散数学で、離散グラフの分類について研究していた。この滞在中にわかったことは、曹さんの父親は北京大学の教授で あったが、1950年代の終わりにあった「反右派闘争」でその職を追われたという。このような事情からして、曹さん自身、「文化大革命」では大変苦労 したのではないかと推測される。鹿児島滞在中に、曹さん夫妻と一緒に南薩へ一泊旅行をした折に、「吹上浜」を見せようと思い、海辺への砂交じり の道を車で走っていると、曹さんが「プリズン(監獄)への道に似ている」と云った。曹さんは「文化大革命」中に、そのような経験をしたのだと思う。その翌年の2001年に、私達夫婦は、貴州大学がある貴陽を訪ね、おおいに歓迎して貰った。


1997年8月、中国、北京大学で、「第5回国際有限無限複素解析会議 (The fifth international conference on finite or infinite dimensional complex analysis)」が開かれたので、同僚の宮嶋公夫さんとともに 出席した。正確には知らないのだが、この「会議」は九州大学の梶原壌二先生、風間英明さん等の研究グループが韓国の釜山大学の研究グループと 一緒に始めた、「韓日有限・無限次元複素解析会議」がもとになっていると思われる。開会式では、梶原壌二先生が、「先の大戦において、日本が 中国をはじめとするアジアの人々に対して多大の損害と苦痛を与えたことを深くお詫びします」という趣旨の挨拶をされたことが印象的だった。 私はこの「会議」で、”Complex spaces with stable parametric singularities” という題目で講演をした。Excursion(小旅行)は、 「万里の長城」であった。私は「会議」の合間を縫って、宮嶋公夫さんと二人で街にでて、「紫禁城」、「天安門広場」、「人民大会堂」を訪ねた。 「会議」には岐阜大学の竹内茂さんも参加していたが、彼とは、以後、毎年開かれるこの研究集会で、度々顔を合わせるようになった。


翌年の1998年7月、韓国、安東大学(Andong National University)で、「第6回国際有限無限複素解析会議」が開かれたので出席した。日本人参加者は博多港に集まり、 高速フェリーで釜山に渡った。私にとっては、これが初めての韓国訪問であった。私の幼少時代は、日本と韓国の間に「李承晩ライン」という 「海上封鎖線」が敷かれていて、このラインを越えた日本の漁船が韓国側に拿捕され、乗組員が拘留されるという事件が度々起こっていた。そのことを 思うと隔世の感を禁じえなかった。韓国では長い間、軍事独裁政権が続いたが、1980年代の終わりころから民主化が進んでいた。1990年代の初めに、 九州大学と釜山大学の数学研究者の間で合同の「研究会議」がもたれるようになったのは、この民主化が影響していると思われる。。


港には釜山大学のスタッフ、学生たちが迎えに来ていた。みんなで韓国料理の昼食を取った後、釜山大学のスタッフ、学生たちの車に分乗して会場の 安東大学に向かった。移動途中に見かける集落には、ほとんどと云っていいほど、教会の尖塔が立っているのが印象的であった。韓国は日本よりも、 キリスト教が浸透しているのではなかろうか? 私はこの研究集会では、 ”Infinitesimal mixed Torelli problem for algebraic surfaces with ordinary singularities” の題目で講演を行った。


安東は「儒教の里」と云われるように、朝鮮王朝時代の儒教的伝統が色濃く残っているところであった。 会議終了後のExcursion(小旅行)では、朝鮮王朝時代を代表する儒学者、李退渓(イ・テゲ)によって、16世紀末に建立された「陶山書院」を訪ねた。 また、かつての朝鮮の農村の生活様式を色濃く残している河口村を訪ね仮面劇を鑑賞した。途中、ガイドさんの口から「豊臣秀吉」という言葉が度々発 せられるのには驚いた。安東は秀吉の朝鮮侵略の進撃路にあたっているらしかった。


Excursionの最中、私に親しく話しかけてくる中国人がいた。その人は南京大学の王升(Dr. Wang Shaeng)と いう人であった。彼とは、毎年開かれるこの研究集会で度々顔を合わせるようになり、後々まで交流が続いた。中国、湖南師範大学の研究集会で知り 合った曹乂さんは、控えめな感じの物静かな人であったが、王さんは、対照的に、自分が共産党員であることを公言して憚らないような、「押し」の 強さを感じさせる人であった。彼はその後、2004年、東京三鷹、国際キリスト教大学での「第12 回国際有限無限複素解析会議」に参加した折に、 奥さんと娘さんを連れて鹿児島までやってきた。


安東大学での「会議」に先立って、1995年の中国、湖南大学での研究集会で知り合った、高麗大学校師範大学の兎茂夏 (Moo Ha Woo)さんから招待を受けていた。実は、この年の6月に、兎さんから、「福岡に行く機会ができたので、その際、鹿児島まで足を延ばしたい」 という連絡があり、私が引受人となって、鹿児島に来て貰ったのである。その折、私は兎さん夫妻を城山ホテルの展望レストランに招待してもてなした。 そのお返しという意味があったのだと思う。


私は兎さんの招待を受けることにして、安東での「会議」終了後、飛行機でソウルに飛んだ。 空港には兎さんが車で迎えに来ていた。 兎さんはまず私を南北朝鮮の軍事境界線近くの烏頭(オドウ)山統一展望台に連れて行った。途中見えたソウル中心街は東京よりもずっと現代的な都市に 見えた。統一展望台からは、河を挟んで北朝鮮の農村の様子が見えた。兎さんの説明では民族統一の願いを込めてこの展望台は建てられたという。


朝鮮民族が北と南に分断されていることは大変悲しむべきことであるが、私は、これには過去の日本が深く 関わっていることを、私達日本人はしっかり認識すべきであると思う。この問題が解決されない限り、日本の「戦後」は終わったとは言えないのでは ないかとさえ思うこともある。日本の朝鮮支配は1910年(明治43年)の「韓国併合」から始まった。その後、日本は、1927年(昭和2年)の昭和恐慌、 1929年(昭和4年)の世界恐慌もあって、満州への進出を国策として進め、国際社会から指弾されつつ、中国、アメリカと戦争を始めてしまった。その過程で戦略上の必要から、 ベトナム、ビルマ、フィリッピン、インドネシア、パプアニューギニアなどの東南アジア、南洋諸島にまで戦線を拡大して戦った。そして敗れた。戦後、日本はアメリカの占領下に置かれたが、 日本の支配が終わった朝鮮では、北緯38度線を境に、北のソ連占領地域と南のアメリカ占領地域に分断されてしまった。そして、1948年(昭和23年)に、 それぞれの地域に、「朝鮮人民共和国」と「大韓民国」が成立した。今日の分断国家の始まりである。


私が小学校に入学した年の1950年(昭和25年)の6月に「朝鮮戦争」が勃発した。ソ連に後押しされた、 金日成率いる朝鮮人民共和国軍が中国の志願兵軍とともに、北緯38度線を越えて、「民族解放」をスローガンに南に攻め込んできたのである。 アメリカ軍を中心とする国連軍はこれに反撃を加え、北緯38度線まで押し戻した。そして、1953年(昭和28年)の7月に、国連軍(実質はアメリカ軍)と 中朝連合軍との間に休戦協定を結ぶに至った。この休戦協定は現在も続いている。兎さんの話では、韓国では北朝鮮との間にいつ戦争が始まって もいいように日頃から準備を怠っていないとのことであった。


この「朝鮮戦争」は、戦後の日本社会の基本的枠組みを決めることにも深く関わっていたことを認識すべきであると思う。 「朝鮮戦争」のさなかに、アメリカ軍に代わり日本国内の治安を維持するため、「警察予備隊」が創設された。これがその後、「保安隊」となり、 今日の「自衛隊」となった。また、アメリカはこの「朝鮮戦争」を契機に、東アジアにおける冷戦の本格化を見据えて、日本を「反共の砦」の一つにする ことにし、占領政策の転換を図った。日本国内にも「朝鮮戦争」を契機に連合国との間に講和を促進する機運が生まれた。日本国内には、「単独講和」か 「全面講和」かを巡って、世論の対立があった。ここでいう「単独講和」とは、共産主義陣営を除くアメリカなどの自由主義陣営の国々とのみ講和条約を 結ぶ、「片面講和」あるいは「部分講和」ともいわれるものであり、一方の「全面講和」はソ連や中国などの共産主義陣営を含む全ての交戦国と講和条約 を結ぶことを云う。当時の吉田茂内閣は、「単独講和」の道を選び、日本は1951年、アメリカのサンフランシスコで、共産主義国であるソ連、中国を除く 48か国と平和条約を結んで主権を回復した。同時に沖縄・奄美諸島・小笠原諸島はアメリカの施政権下に置かれることになった。また、条約の調印式が あった同じ日に、日本はアメリカとの間で「日米安全保障条約」を結んだ。1960年の「日米安全保障条約」改訂は、それまで「条約」には、日本に駐留する アメリカ軍が日本の安全を保障するために軍事行動を起こす義務が書かれていなかったので、このことを明文化したものであった。その後、2015年の 「安全保障関連法」(武力攻撃事態法改正などの 10の法律改正案および国際平和支援法の制定)の成立により、いわゆる「日米安保体制」と呼ばれる ものは、ますます強固なものになっていることは周知の通りである。


日本と中国の間には、1978年になって、「日中平和友好条約」が結ばれた。しかし、日本とソ連(もしくはロシア)との間には、 北方領土問題もあり、いまだにこの種の条約は結ばれていない。


兎さんは、私を歴代の朝鮮王朝の正宮であった「景福宮」に連れていった。「景福宮」の敷地内には「古宮博物館」が あったので見物した。私だけ中に入り、兎さんは外で待っていた。見物を終えて出てきた私は、兎さんに「朝鮮王朝はいつどのようにして途絶えたのか」 と質問をした。返ってきた答えは、「1910年の日本による韓国の併合によってである」というものであった。その答えを聞いて私は自分の無知を恥じた。 私の頭の中には、「景福宮」は、日本の平城京、平安京の「王宮」と同じようなものというイメージがあって、韓国の近現代史と結び付けて理解して いなかったのである。中国の清朝が倒れたのは、1911年の辛亥革命によってであり、ロシアのロマノフ王朝が倒れたのは、1917年のロシア革命によってで あるから、韓国を含めて最後の王朝が無くなったのは、いずれも20世紀に入ってからのことである。この点、「象徴天皇制」という形の「君主制」が 残っている日本は、東アジアでは極めて特異な存在であるように思われる


私はソウルに一泊した後、飛行機で釜山に飛んだ。そして釜山で一泊し、翌日の高速フェリーで博多に渡った。 私は鹿児島に帰ってから、韓国の歴史に関する本を貪るように読んだ。


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「教養部廃止」から「法人化」へ

大学改革という面から見ても1990年代は激動の時代であった。まず、私が所属する教養部に「教養部廃止」を 含む「組織改革」の大波が押し寄せてきた。このことが具体化するのは、1991年6月に「大学設置基準」が「大綱化」されてからであった。それまでの 大学設置基準では、「大学で開設すべき授業科目は、その内容により、一般教育科目、外国語科目、保健体育科目、及び専門科目に分ける」とされ、 卒業に必要な最低単位数がそれぞれの科目毎に規定されていたのだが、科目区分も含めてこれを廃止し、履修すべき総単位数と在学期間だけが規定される ことになった。1991年7月に文部省が、京都、神戸、富山、徳島の4大学において、教養部廃止を含む組織改革案を次年度の概算要求に盛り込むことを 発表してからは「教養部廃止」の流れはさらに加速した。


これらの動きの淵源を求めて遡ると、「戦後政治の総決算」を標榜して登場した中曽根内閣により、1985年に 設置された「教育臨調」(臨時教育審議会)に行き着く。当時の世界には、米国レーガン大統領による「レーガノミクス」、英国サッチャー首相による 「サッチャリズム」に代表される「新自由主義」と呼ばれる政治・経済政策が横行していた。ここで「新自由主義」とは、できるだけ政府の関与を 少なくし、「市場」における「競争」を優先させる政治・経済政策をいう。いわゆる、「大きな政府」から「小さな政府」への転換である。当時、 アメリカも英国も財政赤字と経済の低迷に苦しんでいた。中曽根首相による「臨調行革路線」は、その日本版と云って良い。中曽根内閣は強引とも 云える手法で、「国鉄」、「電電公社」、「たばこ専売公社」の民営化を強行した。これにより官公労の労働運動は壊滅的な打撃を受けた。


「教育臨調」が設置された1985年に出された「第一次臨時教育審議会答申」に基づき、1990年から、それまでの 「共通一次試験」は「大学入試センター試験」に衣替えした。「共通テスト」への私立大学の参加、ア・ラ・カルト方式の採用が新しい点であった。


1987年9月の「第二次臨時教育審議会答申」を受けて、文部大臣の諮問機関として、「大学審議会」が設置され、これ以降、「大学改革」は「大学審議会」の答申 に基づいて実行されることになった。文部大臣から「大学審議会」への諮問・追加審議要請は、1987年10月29日付諮問「大学等における教育研究の高度化、 個性化及び活性化等のための具体的方策について」、1989年2月7日付追加審議要請(高等教育機関の果たす役割、生涯学習の場の提供など、高等教育の 規模、18歳人口減少期における対応)、同年3月14日付追加審議要請(大学院の充実、教養部廃止を含む学部教育の充実、学位授与機関の創設)、 1997年10月31日付諮問「21世紀の大学像と今後の改革方策について」、1999年諮問(答申は2000年11月22日付)「グローバル化時代に求められる高等教育 の在り方について」(国際通用性・互換性、高等教育機関と社会との往復型生涯学習の推進、情報通信技術能力の育成と情報通信技術の活用による 教育提供)などであった。


これらの「諮問・追加審議要請」の背景には、「高等教育」をめぐる社会状況の変化があったが、この「変化」 について、当時の大学人の間で十分な共通認識があったかどうかは疑わしい。ここでいう「高等教育」とは、大学教育だけを意味しているわけではなく、 高専の4,5年次の専門教育と、1976年に学校教育法の改定により新しく設けられた「専門学校」の専門課程教育を含むものである。文部科学省が作った 「18歳人口及び高等教育機関への入学者数・進学率等の推移(1960−2020)」、「大学・短大・高専の入学定員の推移(1989−2014 )」という表が あるが、これらから、当時の高等教育をめぐる社会状況の変化として読み取れることは、高等教育機関への進学率の上昇、とりわけ「専門学校」への 入学者数の増加、入学定員において私立学校が占める割合の増加、18歳人口の急減少期が目前に迫っていることなどである。18歳人口は1966年に 急上昇している。これはこの年が、いわゆる「団塊の世代」の最初の年にあたるためである。文部省はこれに合わせて、それまで、「一般教育」の 担い手であった「文理学部」を解体して「教養部」を作ったのである。その後、18歳人口は徐々に減少した後、1986年から再び上昇に転じる (第2次ベビー・ブーム)。しかし、その上昇も1992年にピークに達した後、急激に減少することがわかっていた。いわゆる「少子化時代」の 到来であった。


「社会の情報化」に対応した大学教育については、私が所属した鹿児島大学では、1980年代に入ってから 取り組まれるようになっていた。「グローバル化時代」に対応した高等教育が云われだすのは、国立大学の「法人化」が現実の日程にのぼってきた 1990年代の後半からであったと思う。


ところで、いわゆる「教養部問題」は、以前から大学人の間で議論されてきた問題であった。「一般教育」 についても、その「理念」をめぐってずっと論争があった。私は京大数理解析研究所の助手になりたての頃、京大教職員組合の中央執行委員をやらされ、 「教文部」に所属して活動していたのだが、私はその活動の中で、「教養部問題」と「一般教育」について知ることとなった。そもそも大学における 「一般教育」は、アメリカによる戦後の日本の民主化政策の一環として導入されたものである。「一般教育」の目的は、「自由と民主主義を尊ぶ市民の 育成」にあり、日本が無謀な戦争に突き進んだのは、日本のエリート層の教育があまりにも「専門教育」に偏っていたため、「総合的」な判断が できなかったためであるとされ、これを是正するには「一般教育」が必要であるとされたのである。「一般教育」を実施する組織は、戦後、設立された 新制大学の個々の内部事情によって異なり、東京大学は「教養学部」が、京都大学は「教養部」が、鹿児島大学は「文理学部」が担当した。これらの 組織は、いずれも旧制高校の教員を主とするものであった。その後、鹿児島大学では、1965年に「文理学部」が「法文学部」、「理学部」、「教養部」 に分かれ、「一般教育」は「教養部」が担うことになった。これは、前述のように、急増する「団塊の世代」の大学入学に対応するための措置であった。


従来、「教養部問題」は、まず「格差問題」としてあった。ここで「格差」とは、まず予算配分上の格差を 意味した。学部が「講座制」をとっていたのに対して、教養部は「学科目制」をとっていたが、「講座制」は「学科目制」よりも予算配分の基準となる 教官当積算校費が高かったので、学部は教養部よりも教官一人当たりの予算が多くなるしくみになっていたのである。また、教養部の教員の中には、 自分の指導学生がいないことに対する不満を口にする人も少なからずいた。私は、大学の「入口(学生の確保)」にも「出口(学生の就職)」にも責任を 持たない教養部教員の気楽な立場から、研究も教育も自由にやることができたので、組織形態に対する不満は特になかったのだが、教養部廃止が 避けられないことがはっきりしてくる状況のもとで、教養部内では、新学部もしくは新学科の創設を目指す人たちが「改革」をリードするようになって いった。しかし、何度目かの文部省との折衝の折に、「今回の改革は教育改革が中心であり、組織改革はこれを実現するためである」と教育改革の重要性 が指摘された。また「大学改革は教官のためだけのものではなく、社会に対する国立大学の使命を十分に考慮したものでなければならない」という 文部省からの厳しいお達しもあった。


それまでの「一般教育」は、人文・社会・自然の3分野ごとに開設された伝統的な学科目から構成されていた。 例えば人文分野では、哲学、倫理学、心理学、芸術学、歴史学、考古学、文学、文化人類学…といった具合である。私たちはこれらの科目を「個別科目」 と呼んでいた。私が鹿児島大学に赴任した1973年度以降は、1970年の大学設置基準改訂により、一般教育に関する規制が緩和されたのを受けて、 「総合科目」、「主題科目」、「ゼミナール」など、「個別科目」とは異なる形態の授業科目も実施されるようになっていた。私も個別科目である 「微分積分学」、「線形代数学」とは別に、「数学論ゼミナール」、「数学原論」という「教養科目」を開設した。前者では、ソビエト科学アカデミー版 「数学通論―数学:その内容、方法、意義―」(遠山啓監訳、東京図書、1958年版)の第一巻、第一章「数学の概観」を学生と一緒に読んだ。後者は、 「数学通論」の監訳者の遠山啓さんが主宰していた「数学教育協議会」のメンバーだった銀林浩さんが著した「量の世界―構造主義的分析」 (麦書房、1975年刊)を基にしたもので、諸科学に現れる様々な量をブルバキ流の構造主義の立場から分析したものであった。これらの「教養科目」は、 私自身の一般教養の再教育という面もあったので、やりがいのある授業科目であったし、学生の受けもよかったと思う。


私が関係する数学教育の教養部教育における問題点としては、「一般教育科目」と「基礎教育科目」をめぐる 問題があった。「基礎教育科目」とは、「一般教育科目」のうち、学部側が必修指定した授業科目をいう。これには「単独必修科目」と「選択必修科目」の 別があった。「単独必修科目」とは、単独で必ず履修しなければならない授業科目をいい、「選択必修科目」とは、指定された、いくつかの授業科目のなかから 指定された単位数を必ず履修しなければならない授業科目をいう。「基礎教育科目」は、すべて自然分野の授業科目であった。これらの授業科目は必修化されることに より、カリキュラム編成を拘束することになるので、人文・社会分野の人からは問題視されることが多かった。「基礎教育科目」は専門教育の一部では ないかと云う人もいた。履修した「基礎教育科目」の一定単位数を「一般教育科目」の単位に振り替えることができるという規定があったので、 これらの人たちからは、「基礎教育科目」は専門教育の一般教育への侵害であると思われていたのである。数学を含めて自然分野の「基礎教育科目」は、 工学系の学部・学科に多かった。「一般教育科目」と「基礎教育科目」の対立・矛盾は、近代になって工学教育が高等教育に加わるようになってから 現れた問題であると云ってよい。


ここで、工学教育が高等教育に加わるようになる以前の「教養教育」について触れておく。教会の権威が 支配的であった中世ヨーロッパの大学では、「教養部」にあたるものとして「学芸学部」があり、そこでは「自由7学芸」なるものが教えられていた。 当時の専門学部は「神学部」、「法学部」、「医学部」の三つであった。「自由7学芸」とは、「数論・幾何学・天文学・音楽」の 「4学科(クワードリウィウム、quadrivium)」と「文法・修辞学・弁証法(論理学)」の「3学科(トリウィウム、trivium)」のことを云う。 ここで「自由学芸(リベラル・アーツ)」とは、古代ギリシャの都市国家アテネにあったプラトンの学校、「アカデミア」で使われていた言葉で、 「自由人の学芸」の意味である。当時のアテネは奴隷制社会で、「自由人」と「奴隷」からなる階級社会であった。中世の大学での共通語は、 古代ローマの言語、ラテン語であり、「自由3学科」ではラテン語教育が中心に行われた。「自由4学科」のうち、「数論・幾何学」は、ユークリッドの 「原論(Elements)」に基づいた教育が行われた。ユークリッドの「原論」は、紀元前3世紀頃、アレキサンダー大王没後のプトレマイオス朝エジプトの 首都アレキサンドリアの数学者、ユークリッドによって、プラトン(B.C.427−B.C.347)の時代に知られていた数学の知識を体系的にまとめたもので あるとされている。この本は、定義、公理(公準)から出発して、厳密な論理的推論(証明)によって導かれた、定理、命題、系からなっている 大部な本である。これを学ぶことは、ここに書かれている知識を何かの役に立たせようとするものではなく、「論理的思考」の訓練、「人格陶冶」の 一環として行われていたのである。ユークリッドの「原論」は、ヨーロッパ社会では、「聖書」と並ぶロングセラーとなり、ヨーロッパの文化に多大な 影響を与えた。イギリスのケンブリッジ大学では、20世紀の初頭まで、「原論」が卒業試験の問題に使われていたという。


私は「自由4学科」に、なぜ「音楽」が含まれているのだろうと長らく不思議に思っていたのだが、最近に なってその謎が解けた。「万物は数なり」と述べた古代の哲学者・数学者ピタゴラス(B.C.582−B.C.496)が、弦の長さの比と和音との関係を発見し、 「ドレミファ…」の音階を作ったのだという。これは後世、「ピタゴラス音階」と呼ばれている。音楽は数論と密接に関係していたのである。天文学が 幾何学と関係していることは云うを俟たないであろう。


私が鹿児島大学教養部に赴任した当初は、医学部の学生に数学を教えることが多かった。医学部の学生には 数学を好む学生が多くいたので、私はおおいに教えがいを感じながら教育に当たっていたのだが、この教育は決して専門の「基礎教育」というものでは なく、中世の大学における「リベラル・アーツ」のような側面を持っていたのではなかったかと思う。また戦前の旧制高校における教育に通じるものが あったようにも思う。しかし、「大衆化」(いい意味で)が進んだ最近の高等教育では、このような教育は完全に姿を消してしまったと云ってよい。 まことに時の移ろいを感じさせることである。


大学設置基準の大綱化には、1980年代に入ってからの価値観の変化も大きく影響していたように思う。 それまでは「総合的専門家」が理想とされ、教養教育も「総合性」の観点から、人文・社会・自然の三分野に渡りバランスよく履修することが 求められていた。ところが1980年代に入ってから、「個性の尊重」が云われるようになった。これは日本社会が全体的に豊かになり、価値観が多様化した ことの反映であると思われる。社会が豊かになるに伴い大学への進学率も上昇した。近年は、学力試験に重きを置いた「一般入試」とは別に、 「一芸入試」のように、特別の才能や学習への意欲などの評価に基づいた選抜試験も行われるようになっている。このような状況のもとでは、 できるだけ柔軟性を備えたカリキュラムが必要とされていたのである。


1997年3月に教養部は廃止され、私はその年の4月より理学部に配置換えになった。それ以降、私は「一般教育」、 「学部教育」、「大学院教育」すべてを担うようになったため、教育負担が一気に増大した。鹿児島大学では、教養部廃止後はそれまで「教養部」で行われていた教育を「共通教育」と呼ぶこととなり、 各学部から選出された委員からなる「共通教育委員会」を中心に、全学のすべての教員の責任のもとに行われることになった。私たちはこれを 「全学出動方式」と呼んだ。


鹿児島大学の「組織改革」では、少子化を受けて、教育学部の学生定員が50名削減された一方、この学生定員 を使って、工学部に新たに「生体工学科」が作られた。教養部の理系教員の主な部分は理学部に、文系教員の主な部分は法文学部と教育学部の二手に 分かれて分属した。これ以外に、工学部、農学部、医学部に分属した人も少数ながらいた。教育学部では、教養部からきた外国語と保健・体育の教員の 受け皿として、「生涯教育総合課程」が設けられた。


理学部、法文学部に分属した教養部の教員は、大学院教育の充実のために活用されることになった。理学部 では教養部改組を契機に学科の再編が行われ、旧「数学科」、「物理学科」、「化学科」、「生物学科」、「地学科」が解体され、 「数理情報科学科」、「物理科学科」、「生命化学科」、「地球環境科学科」の四学科となった。大学院は 工学部と合体して、「理工学研究科」となり、大学院後期課程(博士課程)に理学部教員を中心とする専攻が設置された。このことに関しては、私は 「理工系大学院設置のためのワーキング・グループ」のメンバーとして、当時の理学部長、堀田満先生と一緒に作業にあたった。


「教養部改組」と「一般教育」の問題が一段落する見通しが立った1996年10月に、大学教員に対する 任期制導入を提案する大学審議会答申が出てきた。大学内には反対運動が起こったが、1997年6月に、各大学等が選択的に任期制を導入できるようにする、 「大学教員等の任期にかんする法律」が成立した。この法律は、大学における人事の停滞を一掃し、大学を活性化するためのものであるとされたが、 それまで日本の労働慣行であった、「終身雇用制」と「年功序列型賃金体系」を廃止しようとする動きの一環をなすものであったと云える。当時の 橋本内閣の背後には、アメリカン・スタンダードに基づいて日本社会の構造を変えさせようとするアメリカの圧力が強く働いていたものと思われる。 日本とアメリカの間には、1993年7月の「東京サミット」開催中の宮沢・クリントン首脳会談において、「日米包括経済協議」の設置が合意され、 翌1994年より、アメリカから日本政府に対して「年次改革要望書」が出されるようになっていた。橋本内閣は、「行政改革」、「財政改革」、 「社会保障改革」、「金融システム改革」、「経済改革」、「教育改革」の「六大改革」を唱えたが、これらは、「新自由主義」に基づく アメリカン・スタンダードの政策を推進しようとするものであった。政府・経済界サイドからみて、これは、1989年の「バブル崩壊」後の日本経済の 低迷からいかに脱却するかという問いに答えるためであった。


ここで、1989年の「バブル崩壊」に至るまでの経過を振り返っておく。1979年にアメリアの社会学者 エズラ・ヴォ―ゲルが、著書「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の中で、日本の経済・社会システムを高く評価したことにより、当時の日本は 世界の注目を集めていた。転換点は1985年のアメリカ主導による「プラザ合意」であった。1980年代初め、レーガン政権下のアメリカは「貿易赤字」と 「財政赤字」という「双子の赤字」に悩まされていた。この ことにより、ドルの魅力は薄れ、ドル相場は次第に不安定化の様相を示すように なっていた。こうした状況のもとで、1970年代末の「ドル危機」の再発を恐れた先進国は、1985年9月、ニューヨークのプラザホテルで、 米、英、独、仏、日、先進五カ国蔵相・中央銀行総裁会議を開き、協調的にドル安を図ることを合意した。当時、特にアメリカの対日貿易赤字が 顕著であったため、合意の内容は 実質的に円高ドル安に誘導するものであった。これが「プラザ合意」である。この合意により、円高がもたらされる ことになったが、日本銀行は公定歩合を引き下げずに据え置いたため、不動産や株式への投資が促され、不動産価格、株価が高騰した。また、 米国資産の買い漁りや東南アジアへの海外直接投資が増えるなどの状況が出現した。いわゆる「バブル景気」の到来である。「バブル景気」という 呼称は、日本国内の実体経済の景気を伴わない景気であったことによる。まもなくして、バブルははじけ、日本は「失われた30年」という 経済の低迷期に入っていった。


1997年7月にアジア通貨危機が起こり、タイ、インドネシア、韓国が「国際通貨基金(IMF)」の管理下に 入った。日本でも、この年の11月に、北海道拓殖銀行の破綻、山一証券の自主廃業に象徴される危機が金融機関を襲った。1998年には ロシア・中南米に通貨危機が起こった。これらは、いずれも金融面における「グローバル化」によって引き起こされたものであった。過去を遡ると、 1971年の米ドルの「金本位制」の廃止、1973年の米ドルの「為替変動制」への移行により、戦後のアメリカ主導によるIMF体制(「ブレトンウッズ体制」 とも云われる)は崩壊し、大量の国際流動資金が生み出されていた。そして、それらの資金を媒介する金融業がICT(情報通信技術)革命とむすびつく ことにより、資金移動の画期的な迅速化が実現されていた。これによりグローバル経済の金融化、金融の肥大化がもたらされた。この傾向は、冷戦の 終結とインターネットの発達により、1990年代に入ってからより顕著になったように思う。


1998年10月に、小淵内閣のもとで、大学審議会答申「21世紀の大学像と今後の改革方策について−競争的環境の 中で個性が輝く大学−」が出された。この答申の中では、「グローバル化」が進行する現況を踏まえて、大学の「高度化」、「多様化」、「活性化」を 実現するための種々の方策が提案されていた。そもそも国立大学の「法人化」の本格的検討は、1996年の橋本内閣の行政改革会議で始まったと云われて いる。その主なねらいは、国立大学の再編・統合であり、「法人化」はそのための一つの手段とされていたが、1999年4月の閣議決定で、 「国立大学の独立行政法人化については、大学の自主性を尊重しつつ大学改革の一環として検討し、平成15年(2003年)までに結論を得る」とされた。 ここにおいて「行政改革」と「大学改革」が結びついたのである。


2001年4月に小泉内閣が成立してからは、新自由主義的な政策が露骨に実施されるようになった。大学改革に 関しては、6月に文部科学省(森内閣のもとでの中央省庁再編により、2001年1月より、「文部省」と「科学技術庁」が合体して「文部科学省」に改組) から、いわゆる「遠山プラン」が発表された。その骨子は、「1.国立大学の再編・統合を進める、2.国立大学に民間的発想の経営手法を導入する、 3.大学に第三者評価による競争原理を導入する」からなっていた。多くの大学人の反対にもかかわらず、この答申を受けて、国立大学の「法人化」は 急速に進められた。2003年1月に「国立大学法人法」が成立し、2004年4月より国立大学は「国立大学法人」に移行した。国立大学法人の教職員を 「公務員」とするか「非公務員」とするかについては、最終的には「非公務員」とすることになった。


「改革」には「理想」と「現実」の二面があると思う。くだけて言えば、「タテマエ」と「ホンネ」である。「競争的環境の中で個性が輝く大学」という のは「理想」であり「タテマエ」であろう。私は、国立大学の非公務員型「法人化」の政府・経済界の「ホンネ」は次のようなものであったのではないか と考えている。


まず、国立大学の教職員を非公務員とすることにより、見かけ上、国家公務員を削減できることである。国立大学の教職員 は自衛隊と並んで、国家公務員の大きな部分を占めていたので、これは「行政改革」という点からみれば、政府にとって好都合なことであった。この 「大学改革」の淵源は、1980年代半ばの中曽根内閣による「臨調行革」にあったことを思い起こすべきである。


次に、少子化時代を迎えて、将来、大学にとって「冬の時代」が来ると云われていた当時において、国立大学は どうあるべきかという問いとの関連である。高度成長期、18歳人口の増加、大学進学率の上昇に合わせて、大学の数は増加する一方であったが、 18歳人口は1992年をピークに、急激に減少することが見えてきていた。将来的には、入学してくる学生の減少によって「倒産」する私立大学や、定員に 満たない大学が出てくることが予想された。大学の数、および大学入学定員を適正規模に保持するにはどうすればよいのか? 国立大学の統廃合も視野に 入れて、この問題の解決を「市場原理」に基づく「競争」に任せようというのが、国立大学の非公務員型「法人化」のねらいであったと思う。国立大学に 対して「護送船団方式」はとらないということが云われてから既に久しい時が経過していた。大学教員が国家公務員であったときは、 「教育公務員特例法」により、その身分は教授会によって守られていた。しかし、国立大学を非公務員型の「法人」にすることによって、 国立大学教員は「被雇用者」となり、労働基本法が適用されることになった。国立大学教員は「資本主義的」な雇用関係に置かれることになったのである。 これは、将来、経営に行き詰った国立大学が出てきたときに備えての布石であったと思う。


最後は、国の「科学技術政策」と「財政再建」の観点からのものである。バブル崩壊後、日本経済が低迷する 中、1995年に「科学技術立国」の理念を掲げ、「科学技術基本法」が成立した。経済の立て直しのために科学技術の振興を目指すものであった。ところが、 企業はバブル崩壊後の業績悪化により、企業内の研究部門を削減・廃止せざるを得ない状況が起きていたので、研究開発を大学や国公立研究機関に 頼ろうとする機運があった。一方で、経済の低迷によって税収が減少する中、高齢化社会を迎え、年金、医療、介護などの社会保障費が増加する などして、国の累積赤字は増大していた。このような状況の下で出てきたのが国立大学の「法人化」であった。国の取った方策は、従来にもまして 産官学の連携を強めることと、科学研究費を底辺までひろく「ばらまく」ことはやめ、研究者間、大学間に競争を持ち込み、選ばれたところに集中的に 研究費を投入すること(いわゆる「選択と集中」)であった。国立大学の「法人化」はこの意図に沿って設計されていた。「法人化」に伴い、各種の 評価制度が導入され、国立大学は5年毎に「中期計画」を立て、「計画」の 達成状況について評価を受けることになった。


ところで、1960年代、私が学生、助手であった頃、大学内では「産学共同反対」と書かれた立て看板を よく見かけたものである。しかし、「軍学共同反対」という立て看板はなかったように思う。もちろん、当時の大学が「軍学共同」を是認していた わけでなく、大学は軍事研究をしないということは自明のこととして受け入れられていたからだと思う。最近の大学では、「軍学共同反対」は声高に 叫ばれているが、「産学共同反対」は死語になっている。大学には「工学部」、「農学部」、「水産学部」など産業に関わる学部はあるわけであるから、 「産学共同反対」というとき、大学は産業に関わる研究をやらないというわけではなく、個別の企業との共同研究はやらないという意味である。 「官学共同」についても1960年代の大学では行われていなかったのではないか? 大学とは別に「国公立研究機関」があり、大学は「学問の自由」の 理念のもと、「学術の府」としての位置を保持していたと思う。


ついでながら「大学」と「技術革新」の関係について述べておく。1990年代のグローバル化を推し進めた 技術的要因として、コンピュータの情報処理能力の飛躍的向上、およびインターネットの普及があったと思う。大容量のデータ(情報)を高速に処理し、 伝達できようになったことの影響は、ポジティブな面とネガティブな面を含めて非常に大きかった。最近はスマホの普及により、個人から個人へ情報の 発信が手軽にできるようになっており、このことが社会に与える影響も大きなものがある。現代の「デジタル革命」はGAFA(Google、Apple、Facebook、 Amazon)という巨大デジタル企業を生みだした。これらの巨大企業は市場での公平な競争を阻害すると懸念する声も上がっている。 国際援助団体オックスファムは2020年1月、世界の超富裕層2153人の所有する資産が、世界人口の6割にあたる46億人の持つ富の合計よりも大きいとする 報告書を発表した。このような富の偏在は、ICT(情報通信技術)の発達により、世界経済の金融化が促進されたことと無関係ではあるまい。 AI(人口知能)技術とG5 (第五世代移動通信技術)については、その覇権を巡って「新冷戦」といわれる米中間の争いが進行中である。科学が技術と 結びついて人間社会を大きく変えることは、18世紀の産業革命以降、たびたび経験する ようになった。科学研究に携わる私たち大学人は、私たちの 研究成果が社会でどのように使われているか、監視を怠らず、そのネガティヴな面については、それを是正するために声を上げていくことが 求められていると思う。


私が専門とする数学も現代社会と深く関わっているのであるが、一般の人からは忘れられているところが 無きにしも非ずである(「忘れられた科学−数学、主要国の数学研究を取り巻く状況及び我が国の科学における数学の必要性」、 文部科学省科学技術政策研究所、科学技術動向研究センター、2006年5月刊)。しかし、最近は、文部科学省と経済産業省の若手官僚を中心に、 数学に関係する各界の交流会が持たれ、2019年3月に、「数理資本主義の時代 〜数学パワーが世界を変える〜」という文書が出されている。一般に 世事に疎いとされる数学研究者と云えども、世の中の流れから超然としているわけにはいかないような状況が出現している。


私が所属していた鹿児島大学の学長は、最後まで国立大学の「法人化」に反対する姿勢を貫いたので、2003年、 国立大学の「法人化」が確実になった時点で、鹿児島大学では「法人化」に向けた準備は一切していなかった。急遽、「法人化対策委員会」が設置され、 「法人化」のための準備作業が行われた。私は理学部を代表してこの委員会の委員となり、その任にあたった。


2004年4月に「国立大学法人」に移行してからは、 「中期計画」の立案、「研究」、「教育」、「管理・運営」、「地域貢献」の項目ごとの「自己点検評価」、「第三者評価」などに追 われるように なった。2009 年 3 月に退職したときの私の健康状態は、いつ突然死 があってもおかしくないような状況にあった。国立大学の「法人化」が実施されてから16年が経過した今日、その問題点が明らかになってきている。 特に基礎科学分野での貧困化が顕著であり、日本の科学・技術力の低下を危惧する声が大きくなっている。


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笹倉頌夫さんの思い出

私には二つ上の兄がいるが、笹倉さんはその兄と同じ年である。私が大学院の修士課程に進学した1966年、 笹倉さんは東大理学部の助手として職を得られた。その年、一緒に同じ講義を聴く機会があったが、笹倉さんはその講義を、日本数学会のジャーナルに 掲載された笹倉さんの最初の論文、「On some results on the Picard numbers of certain algebraic surafacs」の原稿を書きながら聴いておられた。 講義の休憩時間を利用して、久賀道郎先生から論文の書き方等について助言を受けておられた姿が昨日のことのように目に浮かんでくる。


その頃、東大数学教室には、P. A. Griffiths の「Integrals on algebraic manifolds」のセミナー・ノート の青刷りコピーが出回っていたが、笹倉さんはその学習会を率先して組織された。私も笹倉さんに声をかけていただき、学習会に参加した一人である。 ところが、Griffithsのセミナー・ノートは、草稿のまた草稿といった感じの代物で、幾つかの具体例の計算の後に一般的な定理が証明なしに述べてある という風であった。私はそのギャップを埋めながら、大変苦労をして学習会で報告をした記憶がある。結局、私はこのGriffithsのセミナー・ノートを 素材にして修士論文を書いた。それ以来、私はこの方面のことを研究テーマにするようになったのだから、今になって思えば、私の数学研究の方向づけは、 笹倉さんによって与えらえたとも言えるのである。


まもなく、笹倉さんは東大数学教室に勤めておられた満喜子夫人と結婚された。笹倉さんの人柄が、満喜子さん を生涯の伴侶として結び合わせたのだと当時思ったものである。新婚ホヤホヤの小平の笹倉さんのお宅を、今は故人になられた三宅のおばさんをはじめと する東大数学教室の職員の方々と訪問し、歓待していただいたのは楽しい思い出である。1年半ほどして、笹倉さんは満喜子夫人ともども渡米されたが、 滞在先のプリンストンから近況を知らせる絵葉書をいただいた。今も手許にある絵葉書を見ると、1969年10月10日の日付が入っている。


1979年、私は東大理学部に内地留学をした。笹倉さんは既に都立大学に移っておられたが、その時も、当時、 世田谷の深沢にあった都立大学の笹倉さんのセミナーに顔を出させていただき、いろいろお世話になることになった。確かな記憶はないが、現在(1998年頃のこと)、 埼玉大学におられる福井敏純さん、専修大北海道短大の日高文夫さん、長野高専の山口博巳さん等が出入りされていたのだと思う。女性も三人おられて、 セミナーには華やいだ雰囲気があった。現在(1998年頃のこと)、東工大教授の石井志保子さんはその一人である。セミナーでは、Baum-Fulton-MacPhersonの 「Riemann-Roch for singular varieties」を読んでいた。セミナーの後には都立大学の飲み屋で一杯やりながら話がはずむこともあった。非常に 若さ溢れるセミナーであった。笹倉さんの飄々とした人柄を慕って、笹倉さんのまわりにはいつも若い人達がいたように思う。その頃、笹倉さんから 聞いた話にこんな話がある。


笹倉さんは朝早くから自宅の近辺を出歩く習慣があったが、ある朝、警察官から職務質問をされるハメになった。警察官の目には、余程、挙動不審の人物 に映ったのだろう。笹倉さんは自分が決して怪しい人物ではないことを縷々説明したが、なかなか信じて貰えない。その時、たまたま手にしていた数学の 論文の中に「π」という文字があった。その「π」は「射影(projection)」を表す記号であったのだが、その警察官は円周率と理解した。そして、 その不審人物が確かに数学者であることを認め、めでたく釈放してくれたというのである。笹倉さんは実におかしそうにこの話をされた。


1986年のある日、鹿児島大学の私の研究室に笹倉さんから電話があった。こんど数理解析研究所で研究集会を 開くことになったので、私の周辺に何か面白い研究をやっている若い研究者がいたら紹介してくれないかというのである。私はその頃、アメリカの大学で 学位を取って帰国したばかりの與倉昭治さんを紹介した。與倉さんは研究集会で、ご自身の学位論文となった「特異多様体のSegre類」の話をされた。 その頃、日本にはカテゴリカルな観点から、大局的特異多様体の特性類を研究している研究者は少なかったので、與倉さんの話は多くの参加者の関心を 引き、講演の後には活発な討論があった。笹倉さんは、與倉さんに講演を依頼したのは成功であったと大変喜ばれた。私もそんな笹倉さんの姿を見て 嬉しくなった。この頃から笹倉さんと鹿児島大学との繋がりは、私との個人的繋がりを超えて深くなっていった。


いろいろな研究集会の際には、一緒に食事をしたり、喫茶店でコーヒーを飲んだりすることも少なくなかった。 そんな折、鹿児島に一度行ってみたいとよく口にされた。満喜子夫人のお父様が鹿児島の出身であったこともその理由の一つであったのだと思う。 集中講義に鹿児島に来て頂くことも考えられたが、当時、私は教養部に在職しており、適当な授業科目がなかった。学部の先生にお願いして呼んで頂く ことも一つの方法であったが、何となく億劫でそのままになってしまったのが大変心残りである。


1995年の「実および複素特異点」のワーク・ショップで、初めて鹿児島に来られた時には、「鹿児島は人斬り 半次郎のような目つきのするどい男性ばかりが街を闊歩していると思っていたけれども、そうでもないんだね。」と言われた。薩摩隼人の男性的イメージ が強くあったのだろう。


亡くなられた年の1997年2月、私たちの教室の談話会に来て頂いた。その前年、ゲッチンゲン滞在中に笹倉さん とも交流のあった多田稔さんが急逝された。笹倉さんは、多田さんの追悼文の編集委員長をとして奔走されたが、ようやく完成にこぎ着けた頃であったと 思う。多田さんの奥様のザビーネさんがドイツ人であったため、笹倉さんは追悼文をドイツ語に訳すことを思いつかれ、その労を與倉さんの奥様で オーストリア人のアンドレーアさんに頼まれた。そのお礼に鹿児島に伺いたいと言う申し出が笹倉さんからあり、それならということで鹿児島に来て 頂いたということである。これは與倉さんから聞いた話である


談話会の前日、笹倉さんから「今、着いた」という電話があり、その夜、鹿児島の繁華街である天文館で食事をする 約束をした。私は待ち合わせ場所の林田ホテル前に少し早くついたので、その夜、笹倉さんを案内することにしていた屋久島料理の店の下見をすることに した。私もその店は、日頃から頻繁に利用しているというわけでもなかったので、店の場所がおぼつかなかったのである。ところが、店の近くまで来ると、 なんと、黒地のオーバーのポケットに両手を突っ込み、片方の手首には鞄をぶらさげた笹倉さんが、向こうから歩いてくるではないか。私はびっくりして、 「笹倉さん!! なんでこんなところにいらっしゃるのすか?」と思わず叫んでしまった。笹倉さんも天文館の下見をされていたのである。


屋久島料理の店では、ドクター・ストップがかかっていると言われながらも、私につきあって大ジョッキの ビールを飲まれた。その時、以前にも増していかにも不健康そうに見えたのが気がかりだった。拙宅にも一泊していただいたが、これが最初にして最後に なってしまった。


今、当時の談話会の案内を取り出してみると「第101回 数学談話会」とあり、講演者は九州大学の佐藤栄一さん とお二人で、笹倉さんの演題は「射影空間上の低階のベクトル束」となっている。その年の4月から、教養部廃止を含む組織改組により、教養部数学教室 は理学部数学科と統合し「数理情報科学科」となったので、奇しくも、これが我が教室の最後の談話会になったのである。


人にはそれぞれがんばりのきく臨界点があり、しかも、この臨界点は年齢とともに変動していくものである。 この臨界点に近づくと、人は意識的にスロー・ダウンをして自己調整を図るのが常である。笹倉さんはこの自己調整が効かず、しらずしらず、臨界点を 超えてしまわれたのではなかろうか。それを許さない客観的状況があったのかも知れないが、笹倉さんは持ち前の誠実さで、この臨界点を超えて 突き進まれたのだと思う。


こうして笹倉さんとの交流を思い返してみると、私にとっての笹倉さんの存在の大きさに気付かされる。 私は、笹倉さんの気さくな人柄に甘えて、随分気安くお付き合いをさせて頂いたが、折にふれ、笹倉さんに励まされている自分の姿を見い出すのである。 一緒にいると穏やかな気持ちにさせて頂ける笹倉さんの存在は貴重なものであった。もっと長生きをしていただき、研究に、後進の指導に活躍して いただきたかったと思う。


今でも、「坪井君、一緒にコーヒーでも飲もうか。」と言いながら、人なつっこい笑顔を浮かべた笹倉さんが そのあたりから現れそうな気がするのである。


(注記)笹倉頌夫さんは1997年6月16日、急逝されました。享年56歳。この文は「笹倉頌夫氏 追悼文集」 (2000年2月刊)より、一部修正のうえ、転載したものです。


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オスロ ーその後の顛末

1995年7月、オスロから帰ってきて、まず、やったことは、その年、オスロ大学数学教室のプレプリント・シリーズの no.22, no.23として刊行された私の論文 “Variations of mixed Hodge structure arising from cubic hyper-equisingular families of complex projective varieties . I, II”の概要をProc. Japan Acad.(日本学士院紀要)に速報として発表することであった。これは “Cubic Hyper-Equisingular Families of Complex Projective Varieties. I, II” (Proc. Japan Acad., 71A, 207-212) として、 その年の11月に刊行された。このように速やかに研究の概要を発表することができたのは、学士院会員である広中平祐先生に負うところが大きかったと思う。日本数学会の 代数学分科会の評議委員から連絡があり、1995年8月4日〜7日に都立大学であった、第40回代数学シンポジウムにおいて、”Cubic hyper-equisingular families of complex projective varieties” の題目で講演させて頂くことができた。また、1995年10月5日〜7日 中国長沙(Changsha) 湖南師範大学であった研究集会、Symposium on Topologyに出席して、”Cubic hyper−resolutions of analytic varieties with ordinary singularities” の題目で講演をした。


実を云うと、オスロ大学数学教室プレプリント・シリーズのno.22、no.23と、Proc. Japan Acad.(日本学士院紀要)、 Vol.71、Ser. A、No.9に掲載された「速報」とは、内容的に完全に対応していたわけではない。私のプレプリントには、続編の「III」 があって、そこで、複素射影多様体の 局所自明な変形族f:X→M (Mは非特異複素多様体)が simultaneous cubic hyper-resolution a. X.→X→M を持つとき、複素構造の変形族の 「Kodaira-Spencer map」に対応する「特性写像」が定義できること、この「特性写像」と族f:X→Mの底空間 M から、この族のファイバーとして現れる複素射影多様体の 混合ホッジ構造の分類空間(=モジュラエ空間)への写像Φ(ホッジ構造の変形族の「周期写像」に対応)の微分写像dΦとの関係を与える公式を証明していたのである。 複素射影多様体の局所自明な変形族から 生ずる混合ホッジ構造の変形族を、複素射影多様体のsimultaneous cubic hyper-resolution(同時立体的超特異点解消) を用いて記述することのメリットは、特異射影多様体に関する 「局所混合トレリ問題」もしくは「無限小混合トレリ問題」を、非特異射影多様体のコホモロジーの追跡に還元することを 可能にすることにあって、この観点からすると、この「特性写像」に関する公式は重要な意味を持っていた。したがって、この部分を付け加えて、Proc. Japan Acad.(日本学士院紀要)の 「速報」としたのである。Proc. Japan Acad.(日本学士院紀要)、Vol.71, Ser. A, No.9 の「速報」の構成は、「1.Cubic hyper−equisingular families of complex projective varieties, 2.Cohomological descent for cubic hyper−equisingular families, 3.Vriations of mixed Hodge structure, 4.Infinitesimal period map」であった。


私は、この内容を然るべき学術雑誌に full paper として発表したいと考えた。しかし、私の元の論文は、量的に大部なもので あったので、できるだけ簡潔に書き直して、「日本学士院紀要」の「速報」の 1.2.の部分を“Variations of mixed Hodge structure arising from cubic hyper-equisingular families of complex projective varieties, I”として、「速報」の3.4.の部分を“II”として、1996年初頭に、オランダの数学雑誌、Compositio Mathematica に投稿した。 投稿先として、この雑誌を選んだのは、オランダには、当時の混合ホッジ構造の研究をリードしていた、Joseph H.M.Steenbrink がいたからである。この雑誌に投稿すれば、レフリーとして、 Steenbrinkの目に触れるであろうと考えた。私は、1990年、京都で開かれた国際数学者会議(ICM)で、混合ホッジ構造の変形に関する、Steenbrinkの招待講演を聞いていた。 私は以前からCompositio Mathematicaという雑誌には好印象を持っていた。その所以は、B5版のこざっぱりした感じの雑誌の体裁もさることながら、掲載される論文の内容によるものであったと思う。 Compositio Mathematicaが創刊されたのは1928年のことで、創刊者のオランダ人数学者、L. E. J. Brouwerがドイツの数学雑誌、 Mathematische Annalen から放免されたことによるものであった。このことを知ったのはつい最近のことである。背景には、当時のドイツ数学会の重鎮であったHilbert の「形式主義」と、Brouwerが唱える、「直観主義」もしくは 「構成主義」との思想上の対立があったという。私の投稿論文のその後については後述する。


1996年に入ってから、ノルウエ―滞在中から胸に抱いていたプランを実行に移すことにした。それは、私をノルウエ―に招待してくれたラウダル氏(Olav Arnfinn Laudal)を日本に招待する ことであった。ラウダル氏は、1936年6月生まれで、私より7歳年上であるが、ノルウエ―数学会の重鎮といってよい人で、オスロ大学数学教室教授であるとともに、ノルウエ―科学アカデミー会員であり、 国際数学連合(IMU)ノルウエ―支部長を務めていた。これを機会に、日本数学会とノルウエ―数学会との相互交流の促進に、少しでも貢献したいと考えたのである。そこで、1997年度(平成9年度) の「日本学術振興会外国人招聘研究者(短期)招聘」に応募することにした。「短期招聘」とは、来日時期が14日以上60日以内の招聘であった。私は、諏訪立雄氏(北海道大学)、 岡睦雄氏(東京都立大学)、斎藤恭司氏(京都大学)、加藤十吉氏(九州大学)、宮島公夫氏(鹿児島大学)、與倉昭治氏(鹿児島大学)、大本享氏(鹿児島大学) (所属はいずれも当時)の諸氏に研究協力者になって貰い、応募期限ぎりぎりの4月30日付で申請書を提出した。その頃、鹿児島大学の特異点研究者の研究活動は非常に活発であった。 北海道大学、東京都立大学、鹿児島大学を繋ぐ、日本の特異点研究者のネットワークができあがっていて、これを中心に、鹿児島大学でも頻繁に研究集会が持たれていた。この人脈を利用させて 貰ったのである。これが功を奏したのか、8月末には採用決定の通知が来た。事前に、採用はなかなか難しいという情報もあったので、これは大変嬉しかった。ラウダル氏もスムーズに事が運んだことに驚くとともに、 おおいに喜んでくれた。応募書類では、招聘を希望する期間を、1997年10月1日から10月25日までとした。当初の計画では、鹿児島大学でワークショップを開催するとともに、研究協力者がいる、北海道大学、 東京都立大学、京都大学、九州大学を順次訪ね、講演・研究討議を行うとしていたのだが、この年の9月30日〜10月3日に、東京大学駒場キャンパスで、秋季日本数学会が行われることが判明したので、 ラウダル氏にはこれに合わせて来日して貰い、この秋季日本数学会の代数学分科会の特別講演をお願いすることにした。代数学分科会の評議員の桂利行氏(1996年度)、坂内英一氏(1997年度)に 働きかけた結果、この計画はうまく運び、1997年6月にラウダル氏の特別講演決定の知らせが来た。これを受けて、ラウダル氏の滞在日程を見直した結果、最終的な滞在日程は次のようになった。


9月28日(日):来日

9月30日(火)〜10月3日(金):秋季日本数学会(東大、駒キャンパス)に参加

10月3日(金):秋季日本数学会代数学分科会で特別講演 “Moduli Theory and Non-commutative Algebraic Geometry” を行う。

10月6日(月):東京都立大学談話会で、講演 “Non-commutative Deformations of the Families of Modules toward Non-commutative Algebraic Geometry” を行う。

10月7日(火)〜12日(日):京都大学数理解析研究所にて、斎藤恭司氏、森重文氏、Coline Ingals (MIT) 等と研究討議(10月10日は祝日)を行う。

10月14日(火)〜18日(土):ワークショップ “Real and Complex Singularities ―Topology and Applications―”(鹿児島大学)に参加

10月14日(火)、15日(水):上記ワークショップで連続講演 “Non-commutative Deformation Theory” を行う。

10月16日(水):Get-together party

10月21日(月):飛行機で東京に移動

10月22日(水):成田より帰国

上述の鹿児島大学でのワークショップでは、私も、10月15日(水)に “Infinitesimal Mixed Torelli Problem for Algebraic Surfaces with Ordinary Singularities of type (n,r_1,r_2,r_3)” と題する講演を行った。


ラウダル氏は、日本滞在中、東京では歌舞伎鑑賞、浅草および六本木「ハードロック・カフェ」探訪を楽しみ、京都ではティー・セレモニー付の高級茶懐石料理を堪能、鹿児島では、桜島の 古里温泉の露天風呂に入浴した際、露天風呂に隣接した海(錦江湾)に泳ぎだし、水泳の腕前を披露された。私の妻の友人が霧島に持っていた別荘にラウダル氏と二人で宿泊し、私がステーキを焼いて振舞ったことも忘れえぬ思い出である。 ラウダル氏は鹿児島空港での別れ際に、近い将来また日本に戻って来たいと云われたが、氏が86歳になられた2022年現在、未だ実現していない。森重文氏が2015年から2018年まで、日本人として初めて、国際数学連合(IMU) の総裁を務められたとき、事務局長を務めた人物がノルウエ―人であることを知ったときは、数学の国際的組織での日本とノルウエ―のコラボレーションが実現したようで嬉しく思った。


ところで、Compositio Mathematica に送った投稿原稿の返事はなかなか来なかった。しびれを切らし、1996年12月の初旬に、雑誌の事務局にメールで問い 合わせるとすぐに返信メールが来た。内容は「残念ながらあなたの投稿論文はreject された。すでに、『referee report』は発送してあるので、追って届くであろう」というものであった。数日後に、『referee report』は 届いた。Reportの内容は、「この論分は、多くのページ数を技術的な言葉の定義や知られている定理の説明に費やしているが、より概念的なアプローチをすれば、もっと強力な結果を高々20ページ以内で証明できる」という ものであった。そして次のような証明の方針が書かれていた。


まず、証明の第一ステップは、複素代数多様体の間の固有(proper)かつ平坦(flat)な写像f:X→Mと、R^kf_{*}Q_X (有理数定数層Q_X の写像f によるk次順像、k:自然数 ) が局所一定な定数層となるものが与えられた時、層R^kf_{*}Q_X の上に「混合ホッジ構造の変形」(Variation of mixed Hodge structure)の構造が入ることを示す。その証明の根拠として斎藤盛彦氏の 「混合ホッジ加群」に関する結果が挙げてあった。「注意」として「この主張が意味をなすには、Mは非特異である必要があるが、これは本質的な制限にはならない。なぜならM の任意のザリスキー稠密な開集合U上の「混合ホッジ構造の変形」はM 全体に、 M-U では自明なモノドロミーを持つものとして拡張できるからである」とも書いてあった。証明の第二ステップは、Xのsemi-simplicial hyper-resolution(半単体的超特異点解消)a.:X.→X (X.= {Xp})をとる。このとき、M をM の ザリスキー稠密な開集合で置き換えることにより、各 Xp は M 上 「滑らか(smooth)」かつ「射影的(projective)」として良い。すると、全ての Xp/M の「相対ド・ラム複体」は、X 上の余単純(cosimplicial)な「対象(object)」として 張り合わすことができ、このk次順像が、局所一定な定数層 R^kf_{*}Q_X に「混合ホッジ構造の変形」としての構造を与えることを示すことができる。。


さらに次のようなコメントがついていた。(1)論文の筆者は、X の cubic hyper-resolution (正しくは、相対的なcubic hyper-resolution)を 用いているが、Navarro et al.による semi-simplicial resolution の理論を直接適用することにより、このようなcubic details は省略できる、(2)上に説明した方針に沿って証明された定理は、 この主題への有用な貢献となるであろうが、「トレリの定理」など幾何学的応用を含むものであれば、もっと興味深いものとなる、(3)論文の筆者は、混合ホッジ構造の変形に関して、『偏極(polarization)』 を考慮に入れていない。もちろん幾何学的な設定から生ずる混合ホッジ構造の変形には、常に『偏極』を入れることは可能である(polarizable)のだが、混合ホッジ構造の分類空間を明示的(explicit)に 知るためには『偏極』は必要である。


コメントの(3)に関しては、私も自覚していて、得られた「混合ホッジ構造の変形」に何らかの意味で自然な『偏極』を定義したいと思ったが果たせなかったのである。


Referee の意図は、固有かつ平坦な写像f:X→M のk次順像層R^kf_{*}Q_X の上に「混合ホッジ構造の変形」の構造が「存在」することの私の証明に現れる 「cubic details」を除くことにあったと思われる。確かに、「存在」に関しては、その分野の専門家の間では良く知られていると思われる定理(しかし証明は難しい)を使えば、手短に証明できると思われるが、私の 問題意識からすると、そのような証明では不十分であった。この論文のそもそもの出発点は、f:X→M を「通常特異点を持った複素射影多様体の局所自明な変形族」(M は非特異複素多様体)とするとき、M から  f:X→Mのファイバー Xo(o はM の代表点)の「混合ホッジ構造」の分類空間(=モジュラエ空間)への写像 Φ(ホッジ構造の変形族の場合の「周期写像」に対応) が生ずるが、この写像の微分写像(=ヤコブ写像) dΦ が 点o におけるM の接空間 To(M)において、「1対1写像」になるかどうか、すなわち「無限小混合トレリ問題」を調べることが可能になる程度に具体的に、族f:X→M の各ファイバーに現れる複素射影多様体の「混合ホッジ構造」 を記述する必要があったので、私のプレプリントの「cubic details」を省くわけにはいかなかったのである。前提となる基礎知識および既知の定理の説明をどの程度行うかについては、私はできるだけ読者が予備知識なしに読める ように配慮したため、この部分に要するページ数が多くなってしまったことは否めない。


私は Compositio Mathematica の「Referee report」が意図する方向で論文を書き直すことはせず、あくまで私の当初の問題意識に沿った方向で書き直す ことにした。私の Compositio Mathematicaへの投稿論文のPart I は、複素射影多様体の局所自明な変形族 f: X→M (M は非特異複素多様体)がsimultaneous cubic hyper-resolution a.:X.→X →M (f: X→M の各ファイバーのcubic hyper-resolutionの複素解析的族)を持つとき、写像 a. に関して、定数層および「相対ド・ラム複体」について「相対的コホモロジー降下」が成立することを示したものであったが、 この論文はもとの記述をできるだけ簡潔にしたうえで独立した論文として出版することにした。


私は2000年3月9日〜19日、スペインのバロセロナ大学のF. Guillenを訪ねた。F.Guillen はバルセロナ大学の代数幾何学グループの出版物、 “F. Guillen, V. Navarro Aznar, P. Pascual-Gainza, and F. Puerta: Hyperresolutions cubiques et descente cohomolologique, Lecture Notes in Math.1335, Springer, Berlin, 1988”の中で、複素代数多様体の「混合ホッジ構造」をcubic hyper-resolutionを用いて記述したその人であった。私はこの彼の定理のrelative versionを証明したのである。F.Guillenには、 私のCompositio Mathematicaへの投稿論文のPart I の証明をチェックして貰ったうえで、彼のサジェッションに従い記述が冗長であった部分を簡略化することができた。出来上がった論文は、F. Guillenとの共著論文 “Simultaneous cubic hyper-resolutions of locally trivial analytic families of complex projective varieties and cohomological descent”として鹿児島大学理科紀要 (Rep. Fac. Sci. Kagoshima Univ.)の No. 33(2000年) に掲載した。私はバルセロナ大学滞在中、“Seminari de Geometria Algebraica”で、「Infinitesimal mixed Torelli problem for algebraic surfaces with ordinary singularities」の題目で講演させて貰った。


繰り返しになるが、私の Compositio Mathematicaへの投稿論文のPart IIの主要結果は次の三つからなっていた。(1)f:X→M 、a.:X.→Xを前述と同じものとしたとき、 Part Iの結果より、局所一定な定数層 R^kf_{*}Q_X (k:任意の自然数)の上には自然に「混合ホッジ構造の変形」の構造が生ずること。これ示すには、Griffithsの「横断性定理」が成立することを示す必要があった。 (2)(1)の混合ホッジ構造の変形族に関して、「特性写像」ρ: T(M) → R1f*T(a.)(複素構造の変形に関する Kodaira-Spencer map に対応)が定義できること。ここで T(M) はMの接バンドル、T(a.) は simultaneous cubic hyper-resolution a.:X.→X を用いて定義され、写像f: X→M の各ファイバーに接する X 上の正則ベクトル場の層 T(X/M) と同型となることが期待される層である(事実、ある条件のもとで同型になる)。 (3)この「特性写像」と、M から局所自明な複素射影多様体の変形族f:X→Mのファイバー Xo(o はM の代表点)の「混合ホッジ構造」の分類空間(=モジュラエ空間)への写像 Φ の微分写像dΦ (=ヤコブ写像)を関係づける「公式」を示したこと。


これらの結果は、「無限小混合トレリ問題」をコホモロジー論的に考察するための枠組みを与えているとはいえ、私のCompositio Mathematicaへの投稿論文には、具体例がまったく 書いてなかったことを反省し、Part IIは、「無限小混合トレリ問題」を前面に出し、具体例を中心にまとめ直して出版することにした。しかし、そもそも非特異な複素代数多様体の局所自明な変形族の非自明な例は、「通常特異点を持った代数曲面」の 場合しか知られていなかったので、「無限小混合トレリ問題」を具体的に扱おうとすると、「通常特異点を持った代数曲面」に限定せざるを得なかった。これをまとめたのが論文“Infinitesimal mixed Torelli problem for algebraic surfaces with ordinary singularities I, Rep. Fac. Sci. Kagoshima Univ., 37, 1-71, 2004”、“Infinitesimal mixed Torelli problem for algebraic surfaces with ordinary singularities II, Rep. Fac. Sci. Kagoshima Univ., 38, 1-81, 2005”である。道具立ては大仕掛けで、得られた結果は「ささやか」という印象は否めないが、この論文の「学術的価値」はともかくとして、少なくとも、完備特異複素代数多様体の「混合ホッジ構造」を理解するうえでの「教育的価値」は あるのではないかと考えている。


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河野健一君を偲ぶ

私は、常日頃、私たちの年齢になると、いつ何があってもおかしくないと考えながら生きているので、河野君が急性心不全で亡くなったことを知ったとき、私の心中には、 さしたる驚きは生じなかった。私には、大学を定年退職した2009年頃、不整脈があったので、ある日突然倒れるということは、いつでも起こり得ることであった。その後、私の不整脈は無くなったが、 「いつ何があってもおかしくない」という気持ちは、現在も持ち続けている。


私と河野君との間には、とりわけ親密な交流があったわけではない。が、駒場寮ワンゲルの同期生として2年間、一緒に生活を共にした中で特に印象に残り、今でも思い出すことがある。 駒場寮ワンゲルは4部屋あり、各部屋にはベッドが6つ入っていた。ベッドを中心とする1区画が各人のプライベートな居住スペースで、そこに各人の机・本棚等を置き、周りをカーテン状の布で区切り、生活していたと思う。「部屋替え」や 「ベッド替え」はときどきあった。1年のときだったか2年のときだったか、はっきり覚えていないが、あるとき、河野君と私の居住スペースが隣り合わせになった。その頃、彼はテープレコーダーを持っていて、毎日、レシーバーを耳に当て、 英語のヒアリングの練習をしていた。時折、声を出してスピーキングの練習をすることもあったと思う。単なる英会話の練習ではなく、外国人観光客相手の通訳の資格を取ることを目的にしていたように思う。ある日、無事、 資格試験に合格したと云って、嬉しそうに帰って来たことを記憶している。それからは、日曜日になると、外国人観光客を案内するのだと云って、出かけて行くようになった。


当時、河野君がテープレコーダーを持っていたこと、そして、通訳の資格をとることを目的に英会話の練習をしていたことは、今になって思うと大いなる驚きである。私は、 京大数理解析研究所に助手として就職した1968年頃、英会話学校に通ったことはあったが、長くは続かなかった。実際に英会話を使う場面がなかったからである。私が必要に迫られて、通信教育のテープ教材や電話による外国人との会話練習等により、英語のヒアリング・スピーキングの学習に精を出すようになったのは、1980年代の終わり頃であるから、河野君との間には、25年程の時間差があったことになる。私は大学に入学した当初は、人口15万人程の地方都市から大都会に出て来て、その環境の変化に順応することに精一杯で、英語のヒアリング・スピーキングにまで目を向ける余裕はまったくなかった。当時の英語教育は、読解・作文が中心であったことを思えば、私のような学生が一般的であり、河野君が時代を一歩先んじていたのだと思う。


その後、学部に進学した以降の彼の人生は知る由もなかった。彼が、私が京大数理解析研究所に助手として就職した1968年に毎日新聞社に入社したこと、ソ連が崩壊した1989年春から1992年秋にかけて、毎日新聞のモスクワ支局長だったこと、私にとって激動の時代だった1993年から1999年まで、毎日新聞の論説委員を務めていたこと、その後、毎日新聞を退職し、1999年から2004年まで県立長崎国際大学(現・長崎県立大学シーボルト校)の教授であったことを知ったのは、私が鹿児島大学を退職した後、駒場寮ワンゲル同期会に出席するようになり、河野君と再び顔を合わせるようになってからのことである。河野君は大学の研究者であったので、国立研究開発法人科学技術振興機構(JST)が運営する、日本の研究機関に在籍する研究者に関するウエッブ上のデータベースサービス、 Researchmapに、彼のページがある。それによると、彼は1974年から1976年まで、British Councilの奨学金を得て、ロンドン大学のLSE(The London School of Economics and Political Science)の大学院で研究に従事している。これには、彼が駒場寮生だった頃に身に着けた英語力が十分、物を云ったであろうと推測している。


近年はインターネットが発達し、ウエッブを通じて、いろいろ調べることができるようになったので、ウエッブ上で生前の河野君の活動の様子を知ることが可能である。それらの活動の中で、特に私が共感した二つの事績をここに紹介して、彼を偲ぶ縁(よすが)にしたいと思う。


河野君は、2006年6月に「日本記者クラブ」のホーム・ページの「取材ノート」の欄に、1989年から1992年にかけて、毎日新聞モスクワ支局に務めていたときの体験をもとに、「断片−ロシア有情」( https://www.jnpc.or.jp/journal/interviews/22362 )と題する記事を書いている。彼はこの記事の中で、ソ連に対して、最初は、「日本や西欧社会の常識がまったく通用しない不条理な社会」という悪い印象を持ったが、ソ連の様々な階層の人々と交わる中で、「多民族国家としての多様性」、「厳しい自然に耐える労働者や農民の素朴な人間性」、「生活苦の中でも失わない文学や音楽への愛情」、「圧政と向き合ってきた知識人の思考と精神の奥深さ」などに目を開かされる思いがしたと書いている。


河野君は2010年発刊の長崎県立大学国際情報学部研究紀要 第11号に、「グローバル化する人の移動と高福祉国家ノルウェーの対応−移民・難民増に人道主義はどこまで耐えられるのか−」と題する論文を発表している。これは「長崎県立大学学術リポジトリ」でウエッブ上、自由に閲覧可能である。ちなみに、彼が在籍した県立長崎国際大学は、1999年に設立された新しい大学で、2004年に廃止となり、佐世保に本部を置く、長崎県立大学に統合された由である。河野君はこの論文の「結びに代えて」の中で、「これまでドイツ,フランス,オランダ,デンマーク,イギリスの移民問題の取材を重ねてきたが,今回の現地調査でノルウェーほど移民・難民に寛大な国はないとの結論に至った。この10年余りでノルウェーの移民人口は倍増し,オスロはすっかり多民族・多文化の都市に変貌した。短期間でのこれほどの激変を経ていながら,街を行き来する人々の表情に険しさはない。治安も他の欧州の都市に比べて格段によい。多数の難民・移民を受け入れて,穏やかさと開放性を維持している秘密はどこにあるのだろうか。」と書いている。そしてその誘因として、ノルウエ―という国の「豊かさ」と、ノルウエ―人の国民性としての「寛容さ」を挙げている。ノルウエ―は、2008年で、1人当たりの国民所得は日本の2倍以上の約8万7000ドルと世界一を誇っている豊かな国である。自国で必要な電力は水力や地熱発電でまかない,北海から産出する石油・天然ガスは輸出し、そこから得た利益を、国民の「年金基金」として運用している。しかし、日本と同様、ノルウエ―でも人口構造の高齢化は確実に進行している。河野君は、「ノルウエ―の年金政策・移民政策は、この人口構造の変化に備えて設計・実施されているのは間違いない。」と結論づけている。また、「人類がかつて経験したことのない高齢化社会に日本はどう備えるのか。確かな将来設計はまだできていない。」と問題提起している。


私は、河野君がモスクワを去った翌年の1993年5月10日〜14日に、モスクワで開かれた国際研究集会「International Geometrical Colloquium」に出席し、研究発表を行った。これが私にとって初めての「国際研究集会」での発表であった。ソ連崩壊後の混乱期であったが、研究集会の期間中に、クレムリン宮殿内の劇場ホールでクラッシク・バレーを鑑賞する機会もあった。研究集会終了後のロシア正教の教会を巡るツアーにも参加した。モスクワ近郊に宝石のように点在するロシア正教の教会は、息を飲むほどの美しさであった。短期間の滞在であったが、ロシアの自然の美しさ、人々の温かさ、芸術・建築・文化の水準の高さを知る旅であった。


この研究集会で、ノルウエ―人数学者、ラウダル氏(A. Laudal)と知り合い、彼の招待で、1994年9月から翌年の7月まで、ノルウエ―科学アカデミーの「高等研究センター」(CAS)に、客員研究員として滞在した。私の研究がオスロ大学のピエネ女史(R. Piene)の研究に関係するものであったことと、たまたま、ラウダル氏の研究発表が私のすぐ後で、私の研究発表を彼が聞いていたことが縁となったのである。ついでながら付言しておくと、私の新婚旅行は、シベリア・バイカル湖の旅で、1970年の10月のことであった。船で横浜からナホトカへ、ナホトカからハバロフスクは鉄道で、その後、ハバロフスクからイルクーツクまで大陸横断鉄道の車中で3泊する旅をした。私にとって、これが初めての海外旅行であったこともあり、とりわけ想い出深い旅となった。以上、述べたような事情からして、私は、ことの他、強い「想い入れ」をロシア・ノルウエ―に対して抱いていたのである。前述の河野君の活動の事績を知ったとき、私は大変嬉しい気持ちになったのだが、それはこのような理由による。彼は前述の長崎県立大学国際情報学部研究紀要の論文の中で、30歳代の若き日、ロンドン大学留学中に知り合ったノルウエ―人の親友のことを語っていて、「彼やその家族,友人と久し振りで再会したが,他者への心遣いのこまやかさ,議論はしても人を貶めない温和さ,長崎の被爆体験への関心の高さなど,人々の優しさと知性の高さを改めて感じた。」と述べている。熱血漢、河野君のなんとも嫋やかな言葉ではないか。



(注記)河野健一君は、2022年12月、急性心不全で亡くなられました。


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ノルウエー人数学者ラウダル氏のこと

私は1994年9月から翌年の7月まで、オスロ大学数学教授ラウダル氏(Olav Arnfinn Laudal、1936年6月19日−)の招きにより、ノルウエ―科学アカデミー(Norwegian Academy of Science and letters)の高等研究センター (CAS) に客員研究員として滞在した。ノルウエ―には、古典的代数幾何学の流れを汲む、独自の学風の代数幾何学者の一群がいることは、1970年代の中頃から知っていた。私の学位論文のきっかけとなった論文、“A geometric approach to the arithmetic genus of a projective manifold of dimension three” (Topology, 20, 179-190, 1981) の著者、ピエネ女史 (Ragni Piene、1947年1月18日−) も、その一人であった。 「一般の5次代数方程式が代数的に解けない」 ことを証明した、19世紀初めの天才数学者、アーベル (Niels Henrik Abel、1802-1829) の彫像が、オスロの王宮前広場の一角にあることも知っていた。この像は、20世紀の初め、ノルウエ―がスエーデンから独立し、国民意識が高揚した時期に、国民的彫刻家グスタフ・ヴィーゲランによって作られたものである。政治家や軍人ではなく、数学者の彫像が王宮前広場にある国ノルウエ―は、何かしら私を引き付けるものがあった。私は、このような国を一度は訪ねてみたいという思いを、学位論文を書き上げた1980年代の中ごろから抱くようになっていた。1993年5月10日〜14日、モスクワであった 国際研究集会 “International Geometrical Colloquium”において、たまたま、ラウダル氏の研究発表が私の発表のすぐ後だったこともあり、 「機会があったらオスロ大学を訪ねたい」 という私の意志を伝えたところ、彼がリーダーを務めていた、ノルウエ―科学アカデミーでのプロジェクト研究の客員研究員として招待してくれたのである。彼はノルウエ―科学アカデミーの会員であるとともに、当時、オスロ大学数学教室の学科長も務めており、ノルウエ―数学会の重鎮とも云える存在であった。ノルウエ―政府は、2001年、アーベルの生誕200年を記念し、アーベルの名を冠した新しい数学の賞、「アーベル賞」 を創設することを公表し、2003年より、毎年、数学の分野において傑出した業績をあげた人物に対して授与されるようになった。受賞者は、ノルウェー科学アカデミーによって任命された5人の数学者からなる委員会によって決定される。数学のノーベル賞と云われるフィールズ賞が、4年毎に開催される国際数学者会議 (ICM) において、40歳未満の数学者に対して授与されるのに対し、アーベル賞は、各年であること、年齢制限がないこと、賞金額がノーベル賞に匹敵するほど高額 (600万ノルウェー・クローネ、約1億円) であることに特徴がある。この 「アーベル賞」 の創設に、ラウダル氏のリーダーシップと政治力が、いかんなく発揮されたであろうことは十分推測できることである。私のノルウエ―滞在中は、高校を中退してオスロにやってきた私の次女のことを含めて、公私に渡り大変お世話になった。この恩に報いるため、私は、1997(平成9)年度の 「日本学術振興会外国人招聘研究者 (短期) 招聘」 制度を利用して、氏を日本に招聘した。氏は、1997年9月28日から10月22日まで日本に滞在し、東京、京都、鹿児島を巡り、日本の数学者と交流する機会を持った。東京では、東大駒場キャンパスであった、1997年度の秋季日本数学会代数学分科会で、特別講演 “Moduli Theory and Non-commutative Algebraic Geometry” を行うとともに、東京都立大学談話会で “Non-commutative Deformations of the Families of Modules toward Non-commutative Algebraic Geometry” と題する講演を行なった。鹿児島では、ワークショップ “Real and Complex Singularities ―Topology and Applications―” において、連続講演 “Non-commutative Deformation Theory” を行った(「オスロ−その後の顛末」の項を参照)。以下、氏の人柄を知る縁に、公私にわたる氏との交流の中でのいくつかのエピソードを紹介したいと思う。


私が氏に初めて会ったのは、1991年の夏、イタリアのトリエステにおいてであった。「会った」というよりは、たまたま「出会った」と云った方が良い。トリエステは、イタリアの北東端、旧ユーゴスラビア(現スロベニア)との国境近くに位置し、アドリア海に面する風光明媚な保養地として知られる町である。かつてのオーストリア・ハプスブルグ家の別荘がミラマーレ城として公開されている。この年、8月19日から9月6日まで、トリエステにある理論物理学国際センター(International Center for Theoretical Physics)において、「特異点理論に関する学校」(College on Singularity Theory)が開催された。その前年、京都で第21回国際数学者会議(International Congress of Mathematicians)が開かれ、森重文氏が日本人として3人目のフィールド賞受賞者となったが、この京都での会議に出席した私は、何らかの機会に、この「特異点理論に関する学校」のことを知ったのだと思う。この「学校」の Director には、V. Arnold(U.S.S.R)、Le Dung Trang(Vietnam)、B. Tessier (France) と共に、斎藤恭二さんの名前があった。斎藤さんは、 「学校」 では、”Introduction to periods of integrals” と題する連続公演を行った。日本人としては、他に、諏訪立雄さん、岡睦夫さん、加藤十吉さん、石井志保子さん、寺尾宏明さん、泊昌孝さん、土橋宏康さん、卜部東介さん(故人)、山田浩さん、矢野環さんが講演を行なった。理論物理学国際センター (ICTP) は、海岸通り (ミラマーレ通り) から山側に入った高台にあった。 「学校」 が終わったある日、私は、斎藤恭二さん、諏訪立雄さん、岡睦夫さんと一緒に坂を下りて、海岸通りに面した 「ピッツェリア」 (ピザを専門とする料理店) で、ピザを食べていた。店には、ほとんど客はいなかったが、ふと気が付くと、少し離れたテーブルで、一人、ピザを食べている外国人がいた。彼はこちらを見ながら、 「Japanese Mathematicians」 と呟いた。それ以上の会話はなかった。彼は自分が「Norwegian mathematician」であることくらいは名乗ったと思うが、その時は彼の名前を知ることはなかった。それがラウダル氏であった。当時の資料を取り出して見てみると、氏は“Moduli of singularities and module on singularity” と題する講演を行なっている。しかし、私には氏の講演を聴いた記憶はない。


この「学校」の開催期間中に世界を揺るがす大事件が起こった。英字新聞の第一面に、「ソ連共産党崩壊」の文字が躍った。私はそれが何を意味するのか理解するのに、しばしの時間が必要であった。


1993年5月10日〜14日に、モスクワで開催された国際研究集会「International Geometrical Colloquium」の案内状は、トリエステでの「学校」の参加者に対しても送られたのだと思う。モスクワの「国際研究集会」には、斎藤恭二さん、岡睦夫さん、卜部東介さん、石井志保子さんが参加していた。1993年と云えば、ロシアは、1991年末にソ連邦が崩壊した後の混乱期にあったが、モスクワの春は美しく、野にはタンポポの花が咲き乱れ、街路樹の白い花が盛りを迎えていた。5月9日は「対ドイツ戦勝記念日」であり、花束を携えて街を行き交う人々の表情は明るく生き生きとしていた。会議の期間中に、クレムリン宮殿内の劇場ホールで、クラッシック・バレーを鑑賞する機会もあり、ロシアの文化水準の高さを感じた。しかし、街を歩くと、時々、路傍に倒れている人の姿を目にすることもあった。多分、酔いつぶれて倒れていたのであろうが、ソ連崩壊後の政治的・経済的混乱が市民生活に与えている影響を垣間見る思いがした。


モスクワの北東近郊には、「黄金の輪」と呼ばれる都市群があり、ロシア正教の教会や修道院が散りばめられた宝石のように存在していた。研究集会終了後の5月15日に、これらの教会・修道院を巡るツアーが組まれていた。ソ連崩壊後、教会勢力は、それまでの迫害・抑圧から解放されて復権していたものと思われる。当初、私はこのツアーには参加せずに帰国する予定だったのだが、帰りの飛行機の「re-confirmation」(単に予約するだけではダメで、現地に着いてから確実に乗ることを現地の航空会社に通知すること)が遅れてしまったため、最初予定していた帰りの飛行機の席がキャンセルされ、帰国日が二日遅れてしまった。このせいで、私はツアーに参加することができたのだが、これは不幸中の幸いであった。ツアーは、モスクワ北東約70kmのザゴルスキー(Zagorski、現Sergiev Posad)にある至聖三者聖セルギイ大修道院と、約120kmのアレクサンドロフ(Alexandrov)を訪ねた。アレクサンドロフは、16世紀中頃、三ヶ月の間だけ、モスクワ・ロシアの初代ツァーリ、イヴァン4世(イヴァン雷帝)の都があったところである。都がモスクワに移された後も、イヴァン4世は、アレクサンドロフにあった施設を離宮として利用したという。私達が、ロシア正教の教会・修道院の美しさを堪能して、モスクワに帰ってきたのは、暗くなりかけた夕食時であった。主催者側のロシア人数学者達の提案は、最近できたばかりのファーストフード店、「マクドナルド」で食事をしようというものであった。この頃、モスクワに「マクドナルド」が出店していたのは、ゴルバチョフ政権が推し進めた「ペレストロイカ」(再構築)の一環としての経済の自由化政策によるものと思われる。このロシア人数学者達の提案に対して、ヨーロッパから来た若い数学者達から、「レストランでフルコースの食事をし、これにロシア人数学者達を招待しよう」という声が上がった。この時、「それを決めるには Vote(投票)が必要だ」と発言した者がいた。これがラウダル氏だった。「Vote(投票)」は、賛成する者はバスを降り、反対する者はバスに残るという形で行われた。レストランの食事には、中学生くらいの娘さんを連れた、やや年配のフランス人女性数学者が参加していたが、ラウダル氏は、この二人の隣に席をとり、二人をエスコートするように会話をしながら食事をしていた。氏は1936年の生まれであるから、この時、57歳で、ツァーの参加者の中では、最年長ではないかと思わせる初老の紳士であった。子供連れのフランス人女性数学者をエスコートするのは、自分の役割と自覚していたのではないかと思う。


1997年9月末から10月にかけて、ラウダル氏は私の招きに応じて日本にやってきた。私は氏と一緒に、東京、京都、鹿児島を巡ったが、道中、日本の文化に関する私の説明で、氏が声をたてて笑ったことが二度あった。一度は日本人の宗教心の「いい加減さ」について、「日本人は神道とともに生まれてきて、キリスト教で結婚し、仏教とともに死んでいく」と云ったとき。もう一度は日本における「東の文化」と「西の文化」の違いとして、「日本では正月に餅を食べる習慣があるが、その餅の形が東日本では四角で、西日本では丸い」と云ったときであった。


C.P. スノーの「二つの文化と科学革命」について二人の間で話題になることがあった。この本は、C.P. スノーのケンブリッジにおける1957年度リード講演、“The Two Cultures and Scientific Revolution” と、これについての海外の批判、さらにスノーによるこれらに対する反批判を収めたものである。日本では、松井巻之助訳で1967年に「みすず書房」から刊行されている。私も読んでいたが、私が読んだのは、1984年刊の第三版であった。二つの文化とは、「人文文化」と「科学文化」のことである。ノルウエ―科学アカデミーの英語訳は、“Norwegian Academy of Science and letters”であるが、この「Science」と「Letters」がこれに当たる。ここで云うところの「科学革命」は、「1905年以後の原子的な粒子が工業につかわれだした時期」、もっと限定的に、「1930年以降のエレクトロニクス、原子力工業、オートメーションの時代」のことであるとスノー自身が書いている。16世紀末から17世紀にかけての近代科学成立期の「科学革命」、18世紀から19世紀にかけての産業革命(動力革命)と結びついた「科学・技術革命」とは異なることに注意する必要がある。19世紀末は、エックス線の発見や放射能の発見など、それまで知られていなかった自然現象が相次いで発見された時期であった。イギリスは階級社会であり、支配的立場にある人々は、「人文文化」に属する人が多く、「科学・技術」に対する理解が不十分で、「科学・技術」に関する施策が十分なされてこなかったため、このままでは、当時、「科学・技術」に力を入れていたアメリカやソ連に後れをとることになり、世界におけるイギリスの影響力の低下は免れないという「危機意識」がスノーにはあったと思われる。ちなみに、スノーの父親は典型的な19世紀の職人で、家は決して裕福とは云えなかったが、スノー自身はケンブリッジで、物理学がもっとも創造的であった時期に分子物理学の研究に従事したことのある文筆家であった。第二次世界大戦勃発以来、イギリスの国家公務員採用委員を依頼され、また科学・技術者の戦争協力への組織化の功績によって、1957年にサーの称号を授けられている。


マージナル・マン(marginal man)という概念がある。社会学者のバート・E・パーク(1864-1944)とエベレット・ストーンクイスト(1901-1979)によって唱えられた社会学の概念で、二つの異なる文化の影響を受けながらも、そのどちらにも完全に所属できない人のことを指し、日本では、境界人、限界人、周辺人などと訳される。私は大学人として、いわゆる「文系的人間」と「理系的人間」の乖離と対立を目にすることが度々あったので、この観点からC.P. スノーの「二つの文化と科学革命」に興味を持ったのだと思う。私の立場は、「総合的専門家」を理想とし、「文系的教養」と「理系的教養」を統合することであった。Wikipediaによると、ラウダル氏は、晩年は地方議会(Barum municipal council)の代議員(deputy member)を務めておられたようで、社会党左派(Socialist Left Party)に属する「政治家」でもあった。思い返せば、氏は「数学者」に収まらない「総合的教養人」であるとともに、「政治的人間」であることを思わせる言動に遭遇することが何度かあった。


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家族史「断想」−父秀夫と、その次弟政男さんのこと−

自分史を語るには、その人がその中で育った家族の歴史についても語る必要があると思われる。このような思いから、私の家族史の一断面を、私の父秀夫とその次弟政男さんを中心に述べてみたいと思う。ここで父の次弟政男さんを取り上げるのはそれなりの特別な事情があるからである。私の父の世代は戦争に駆り出された世代である。父の男兄弟は父を含めて4人(早逝した異母兄の又一さんを入れると5人)いたが、戦争との関り方はそれぞれが異なっていた。その中で外地に赴いたのは私の父と次弟政男さんだけである。政男さんは、砲弾が飛び交う戦争の最前線で戦った経験の持ち主であることは、父から聞いて知っていた。私の手許にある、新潟県長岡市東神田三丁目1323番地を本籍地とする祖父芳郎の戸籍謄本によると、政男さんが結婚したのは、1943(昭和18)年、26歳のときであった。政男さんが二度戦地に赴いていることは、最近入手した政男さんの従軍記録から知ったが、結婚したのは、二回目に戦地に赴く前年のことである。終戦後、中国から帰った翌年の1947(昭和22)年に、新潟市で第一子が誕生している。しかし、一年後の1948(昭和23)年に協議離婚し、親権者を父政男と定めたが、その翌年の1949(昭和24)年に親権者を母親に変更する裁判が確定し、子は母親に引き取られた。その後、政男さんは再婚することはなく、生涯独身を通した。私は、保育園に入園した1949(昭和24)年春から、大学に進学して東京に出た1962(昭和37)年春まで、祖父が建てた長岡市東神田の家で育ったが、その家には政男さんも一緒に住んでいた。私は政男さんとは一言も口をきいたことはなく、家族として交わることは全くなかったのだが、私の父と政男叔父との軋轢を目撃することはあったので、政男さんが私の自分史の一部分を占めていることを否定することはできない。政男さんは、私の両親が東京に出て、私の兄夫婦と一緒に住むようになった1971(昭和46)年以降も、長岡市東神田の敷地内に建てた小屋のような「離れ」で生活していたが、1983年(昭和58)年3月19日に孤独死した。享年65歳であった。亡くなっていることは、母屋を借りて住んでいた家のご主人が見つけたという。


遡ると、私の記憶は終戦直後の新潟市の生活から始まっている。クリスマスの朝、枕元に置いてあった一個のミカンとスルメの足と紙に包んだ白砂糖のことは鮮明に覚えている。あれこれ考えてみると、あれは1946(昭和21)年のクリスマスの朝だったと思われる。私の誕生日は12月20日であるから、3歳になったばかりであった。当時、私達一家は、新潟市本町三番町の母方の大叔父高橋正平さんの家に間借りをして暮らしていた。私達は、父母と兄、私の4人家族であった。父は新潟中郵便局に勤めていた。戦争中、父が仏印(フランス領インドシナ)で、通信・郵便業務に当たっていたことは、父から聞いて知っていたが、詳しい話を聞くことはなかった。いくつかのエピソードを聞いた記憶はあるのだが、どのような内容だったかは忘れてしまったから、取るに足らぬ内容だったのだろう。私は父の従軍記録を知りたいと思い、2016(平成28)年2月に、新潟県福祉保健部福祉保健課援護恩給室に請求して、父の兵籍簿、従軍記録を手に入れた。それによると、父は内地帰還のため、1946(昭和21)年4月3日、ベトナムのハイフォン(海防)を出港し、4月22日浦賀に上陸、同日、従軍解除命令、原所属に復帰を命じられている。原所属とは、新潟中郵便局のことであろう。これによれば、私のクリスマスの朝の記憶は、父が戦争から帰還し、新潟中郵便局に復帰して間もないころのことだったことになる。


父は職場で、当時、日本の占領統治下にあった東南アジアで通信・郵便業務に携わる文官を募集していることを知り、自ら志願してシンガポール、仏印に赴いている。後々、母が、「こんな重要なことを自分に相談することもなく、一人で決めてしまった」と云っていたことを覚えている。父の従軍記録によると、父は通信第一連隊の通信書記として1943(昭和18)年11月10日に、神奈川県相模原にあった東部第八十八部隊に入隊している。同隊を後にしたのは12月25日である。父の戸籍謄本によると、この日付は私の出生届けを出した日付と一致している。私が生まれたのは、その5日前の12月20日であった。私が、2003年、新潟大学教育学部附属中学の還暦を祝う同期会が長岡であったのを機に、新潟市南区吉江(旧西蒲原郡味方村大字吉江)606番地にあった母の実家の高橋家を訪ねた際、当主の熊一さん(母のただ一人の弟)から、身重の私の母と一緒に、神川県相模原まで出発直前の私の父に面会に行った話を聞いた。


もうすこし詳しく父の従軍記録を見てみると、父は1944(昭和19)年1月11日下関発、1月29日仏領インドシナのサイゴン(西貢)に上陸。陸路タイ・マレーを経由して、2月16日にシンガポール(昭南)着、第11野戦郵便隊付を命じられている。その後、周辺のいくつかの野戦郵便隊に勤務した後、サイゴン転出のため、1945(昭和20)年5月4日、第11野戦郵便隊本部に復帰し、シンガポールを出発、陸路マレー・タイを経由して、6月10日サイゴン着。6月20日、ハノイ(河内)第221野戦郵便所勤務を命じられ、6月22日サイゴンを出発。7月20日ハノイ第221野戦郵便所着。8月14日に停戦詔書が発布され、8月18日復員下令。しかし、すぐに復員できたわけではない。第221野戦郵便所はその後、東京州広安省八塞(バッチャン)に移駐。父は、そこからさらに広安(カイエン)分所に派遣され業務にあたっている。バッチャンの第221野戦郵便所に復帰したのは、1946(昭和21)年3月18日であった。3月23日、乗船地終結のため、バッチャン出発、3月25日ハイフォン(海防)着、4月3日ハイフォ出港となった。


私は父秀夫の兵籍簿から、父の学歴が「逓信講習(所)普通科卒業」であることを知った。父が「トンツー」の電信技術を学んだことは知っていたが、正式な学校の名称を知ったのはこの時が初めてであった。三上敦史(愛知教育大学)著「逓信講習所 ・逓信官吏練習所に関する歴史的研究一文部省所管学校との 関係に注目して一」(「日本の教育史学」(教育史学会紀要)、Vol.50、2007年)によれば、当時、国家公務員として給料を貰いながら電信技術を身につける、一年制の逓信省の講習所があった。三上氏の論文によると、一年制の逓信講習所の中に、仙台逓信局逓信講習所新潟支所があるから、父が学んだのはこの講習所であると思われる。普通科の修業年数は一年であった。当時、郵便と電信・電話は分離しておらず、逓信省の管轄下にあった。逓信講習所はこの逓信省管轄下の学校であった。私は子供の頃、父が「自分は長岡工業学校中退である」と云うのを度々耳にしている。調べてみると、それまで高等小学校卒を入学資格とする、3年制の長岡工業学校が、1925(大正14年)4月から尋常小学校卒を入学資格とする、5年制に変更になっていることがわかった。父は1912(大正元)年11月3日生まれであるから、丁度この年の3月に尋常小学校を卒業したことになり、父が入学したのは、この5年制の長岡工業学校であろう。逓信講習所入学資格は、14歳以上、高等小学校卒業程度の学力を有することであったから、父が長岡工業学校を中退したのは、2年修了時の1927(昭和2)年3月であり、その年の4月に逓信講習所普通科に入学したものと思われる。逓信講習所普通科は一年制であるから、卒業したのは、1928(昭和3)年3月ということになる。そして、この年の4月から長岡郵便局に勤めることになったのではなかろうか。私が中学3年生になったばかりの1958(昭和33)年4月に、父は30年永年勤続表彰を受け、長野市にあった郵政省の出先機関での式典に出席するために夫婦ともども、善光寺詣を兼ねて長野旅行に出かけているが、この事実と符合している。父が長岡郵便局に勤めるようになった1928年頃の祖父芳郎の本籍地は新潟県西頚城郡能生町大字能生6902番地にあったが、この祖父の戸籍謄本によると、私の父は、1930(昭和5)年6月、満17歳のときに、この戸籍から抜けて、長岡市東神田町三丁目1323番地に分家して自分の戸籍を作っている。これは父が職についたのを機に一人前になったことを自覚させるために祖父がとった措置だったのではなかろうか。祖父が自分の戸籍を西頚城郡能生町大字能生から長岡市東神田三丁目に移したのは1949(昭和24)年のことであった。


私が大学に進学して東京にでたとき、東京都教育委員会の指導主事をしていた、父の3番目の弟・芳雄さんから、父が画家になりたくて家出をし、上野駅で保護されたことを知らされた。父はこのようなことを自分から語ることはなかったので、これを聞いてそれまで私が抱いていた父のイメージが大きく変わった。父が長岡工業学校に入学したのも、逓信講習所に入学したのも、祖父に半ば強制されたものであったのではないかと思うようになったのである。父のすぐ下の弟の敬さんは、「係累に関する覚書(一)」(これには付属文書が二つある)と題する文書を遺されたが、このコピーを、2023年に息子の美樹さんに送って貰った。それによると、祖父は暴君的な存在であったという。敬さんが小学生の頃、毎月25日に祖父が月給を貰ってくると、その夜か次の日の夜に、商家(米屋、酒屋、炭屋、雑貨屋など)へ、私の父と手分けして支払い代金を届ける使いをさせられたという。当時はツケで買うのが一般的で、待っていたら月末に商家が集金に回ってくるのだが、その先手を打って支払に行ったのは、全額を支払うのではなく、その5割か7割で我慢して貰い、残りはボーナス払いとするためであった。敬さんはこの時は情けなく嫌な思いをしたと書いておられる。私が祖父に対して抱いていたイメージは、明治の家父長的威厳を感じさせるものの、気短で「瞬間湯沸かし器」のような側面をも持った人というものであった。私は子供の頃、祖父が祖母や私の父のみならず、近所に住む会社の同僚に対しても仕事上のことで怒声を発している姿を目にしている。「覚書(一)」には、祖父は秀才で有名だったとも書いてあるので、相当な自信家だったのだろう。


祖父は、1883(明治16)年2月28日、新潟県中頚城郡佐内村1番地(現上越市佐内) にて、高橋安平、セキの五男として生まれている。このことからして祖父が卒業したのは高田中学であったのだろうか。私は父から、祖父は東京に出て東京物理学講習所(東京理科大学の前身)で物理と数学を学んだと聞いた。晩年は長岡市に本社があった北越製紙で庶務課長をしていたが、もともとは東京物理学講習所で身につけた測量技術で身をたてた技術畑の人であった。北越製紙に務める前は、越後鉄道や朝鮮総督府で働いていた。父のすぐ下の弟の敬さんは(旧制)長岡中学で優等生だったそうだが、中学卒業後は、祖父から長岡高等工業学校と県立新潟師範学校第二部の受験を勧められ、両方に願書は出したものの、長岡高等工業学校にはもともと行く気はなく受験をすっぽかした由である。師範学校も全く気が向かなかったが、学費がほぼ官費であったので、家庭の経済事情を察してしぶしぶ受験し、ともかく合格して祖父の顔を立てた。しかし、勉学意欲がわかず、一年の夏休み明けには退学届けを出したという。その後、敬さんは北越製紙の市川工場(千葉)で2年間働いた後、志を立てて小樽高等商業学校に進学された。敬さんは、卒業後、大手商事会社で働くことを考えていたが、自分の意向はまったく無視され、祖父によって祖父が務めていた北越製紙に強引に就職させられたという。1937(昭和12)年のことであった。ちなみに敬さんは、北越製紙の副社長にまで昇進されて、1981(昭和56)年に退職された。


私の父母は、1941(昭和16)年5月1日に長岡市役所に婚姻届けを出している。父が満28歳、母が満25歳のときである。結婚式は長岡市蔵王にある金峰神社(蔵王様)で挙げたという。母は、結婚前は職業婦人で、新潟市の日赤病院や、高崎市の個人病院で看護婦として働いていた。二人の結婚は、母の実家の近くに住む人の仲介によるものであったと母から聞いた。母の実家があった、西蒲原郡味方村大字吉江(現・新潟市南区吉江)は、新潟市の中心部から南西に20q 程のところにある。現在の新潟市南区吉江には、坪井姓の人が多く住む一角があるので、父母の結婚の仲介をした人は、その筋の人だったと思われる。味方村の坪井姓の人達は、祖父芳郎が婿入りした能生町の坪井家の血筋と繋がりを持った人々ではなかろうか。ちなみに、祖父芳郎の実家近くの上越市(高田市と直江津市が合併して1971年に誕生)清里区には、今でも坪井姓の家が5,6軒あるという。結婚直後の父母は、父方の祖父母と一緒に長岡の家に住んでいた。父母が結婚した翌年の1942(昭和17)年1月10日に私の兄洋一が誕生したが、祖母アイに邪険にされたという話を母から聞いた。事の真相はわからないが、母と祖母との折り合いが悪かったのは事実だったのだろう。これは二人の性格の違いや育った家庭環境の違いによるものではないかと思っている。祖母アイは、1881年(明治14年)11月20日に、新潟県中蒲原郡小林村大字鍋潟13番地、児玉三蔵、タツの長女として生まれている。祖父の戸籍謄本によれば、芳郎とアイが結婚届けを出したのは1912(大正元)年11月1日で、これは私の父が誕生した二日前のことである。この時、祖父は満30歳、祖母は31歳になる直前であった。「覚書(一)」によれば、二人とも2度目の結婚であった。アイには前夫との間に子供がいたが連れ子とはせず、アイの実家に預けて芳郎と結婚したという。私は2010年(平成22年)に、祖母アイの父親・児玉三蔵さんの戸籍を調べたが、1920(大正9)年に新潟市の白山浦に転籍をしており、転籍後80年以上が経過しているので、中蒲原郡小林村大字鍋潟の戸籍は廃棄されたということであった。祖父芳郎が住んでいた学校町と白山浦は隣の町内であるから、祖父芳郎とアイの父親・児玉三蔵さんはともに新潟市に住んでいて、仕事上何らかの接点があったのではなかろうか。


私の父母が結婚した当初、祖父母の家には、三男の政男さんと末子で長女の千代さんが一緒に住んでいたはずだから、気苦労も多かったはずである。おそらく父母は兄洋一が生まれた翌年の1943(昭和18)年の春頃に新潟市の郵便局に転勤したのではないかと思われる。私達家族が父方の祖父母と再び一緒に住むようになったのは、1949(昭和24)年の春からであった。祖父の家が建っていた長岡の土地は、この時まで借地であったが、戦後、インフレ抑制等のため、国によって財産税が課された際、この土地の所有者は、財産税をこの土地による物納としたため、1949(昭和24)年3月1日付で、この土地は国の所有になった。その後、同年4月30日付で国から払い下げられて父名義の土地となった。これは祖父と父とが相談して決めたことであろうが、このことが、私達一家が長岡に転居した直接のきっかけになったものと思われる。


父母、兄、私の四人家族が、父方の祖父母と一緒に長岡の家で生活を始めた当初は、叔父の政男さんは家にはいなかった。長岡の家は2階建てで、半分がトタン屋根、半分がセメント瓦の家であった。セメント瓦の部分は後で増築したのであろうが、上階と下階にそれぞれ8畳の部屋があった。トタン屋根の部分は、下階が8畳の客間、7畳半の茶の間、9畳ほどの台所からなっていた。玄関の上り口の正面が7畳半の茶の間、上り口から左に曲がると8畳の客間に沿って廊下があり、その突き当りがトイレで、その前を右に曲がると2階に上がる階段があった。その階段がトタン屋根の部分とセメント瓦の部分の境界となっていた。トタン屋根の部分の上階は8畳、4畳半、3畳の部屋からなっていたが、私達家族は、1955年(昭和30年)に祖父母が亡くなるまでの6年間は、この部分に住んでいた。3畳の部屋は物置として使用していたので、実際は、8畳、4畳半のスペースが、父母、兄と私の四人の生活空間であった。炊事は階下で生活する祖父母とは別で、まったく独立した生活であった(「長岡の家」参照)。はっきりした記憶はないのだが、多分、私が小学1,2年の頃だと思う。ぐっすり眠り込んでいた私は、ただならぬ気配に目が覚めた。おそらく真夜中に近い時間であったと思う。玄関側の廊下のトタン張りの小屋根の上をミシリ、ミシリと歩く音がする。私達4人家族が寝ていたのはその小屋根に沿った2階の8畳間であった。その部屋の小屋根側は障子戸と雨戸がたててあったが、私が目にしたのは、その戸がその音の主によって外から開けられないよう必死に抑えている父と母の姿であった。私はしばらく何が起こっているのか理解しかねていたので恐怖心はまったくなかった。そのミシリ、ミシリという音の主は政男さんであった。政男さんに用があったのは、私たちが寝ていた部屋の隣の8畳の間であった。かつてそこが政男さんの部屋だったのだろう。政男さんはそこに置いてあった私物をとりに、皆が寝静まった頃を見計らって、小屋根に梯子をかけて登ってきたのである。階下の祖父と顔を合わすことができない事情があったものと思われる。


このような事件があってからしばらくして、政男さんは私達家族の生活空間の隣のセメント瓦部分の二階の8畳間に住むようになった。二階の二つの8畳間は廊下でつながっていたが、政男さんが住むようになってからは、二つのドアで仕切られるようになった。1955年に祖父母が相次いで亡くなった後は、政男さんはセメント瓦部分の一階の8畳間に住むようになり、それまで政男さんが使っていた部屋は、新潟大学教育学部の学生に貸すようになった。政男さんがなぜ離婚したかについては、確かなことを知っているわけではない。家庭内暴力があったとか、職場で度々いざこざを起こし、仕事が長続きしなかったなどの理由ではないかと推測している。政男さんは離婚したのち、祖父によって坊さんにするためにお寺に預けられた。政男さんは経が読めるまでになったが、お寺の生活も長続きはしなかった。夜中に長岡の家に忍んできたのは、寺を抜けだした直後のことだったのではなかろうか。祖父母が亡くなって、政男さんが長岡の家のセメント瓦部分一階の8畳間に住むようになってからは、たびたび政男さんが経をあげる声が聞こえてくるようになった。


2023年末から2024年初めにかけて、朝日新聞紙上に「戦争トラウマ」に関する記事が載った。まず2023年12月11日付の朝日新聞に、中国人の匪賊を斬ったことを誇る父親が嫌で嫌でたまらなかったタレント武田鉄矢さんについて、「たどり着いた武田鉄矢さんのゆるし」と題する記事が載った。2024年3月26日、27日付の同新聞には、「戦争トラウマ」と題して、(上)、(下)の二回に渡って、「心の傷」を抱えた元兵士の家族の実態に関する記事が載った。戦後ずっと社会の底に沈んでいたものが、今になって表に出てきたように思われる。「戦争トラウマ」は、PTSD(Post Traumatic Stress Disorder、心的外傷後ストレス障害)の一種である。戦争は生きるも死ぬも地獄で、生きて戦地から帰還した者も心に傷を負い、家族に対する暴力行為などとなって現れるのである。


私が「自分史」を書き始めた2015年頃から、政男さんは戦争被害者だったのではないかと思うようになっていた。私が政男さんの戦歴を具体的に知りたいと思い、政男叔父の兵籍簿、従軍記録を取り寄せたのは2023年11月であった。政男さんの兵籍簿によると政男さんの学歴は、「高小卒、逓信講習所卒、中学四修」であった。政男さんは父と同じく、逓信講習所を卒業していることを知った。父と異なるのはその後(旧制)中学に進学していることである。政男さんが生まれたのは1917(大正5)年12月3日であるから、尋常小学校6年、高等小学校2年、逓信講習所1年、中学4年を順調に終了したとすると、中学4年を修了したのは、1937(昭和12)年3月、満19歳の時だったことになる。逓信講習所終了から中学入学までに一年の間があったことは十分考えられることであるが、その場合、中学4年修了は、1938(昭和13)年3月、満20歳だったことになる。こちらの方が可能性は高いように思われる。5年制の旧制中学の4年生は、卒業を待たずに、上級学校である高等教育機関(高等学校、大学予科、高等師範学校、専門学校、陸軍士官学校、海軍兵学校、高等商船学校など)に進学できた。これを「中学四修」というらしい。しかし、「覚書(一)」の別紙資料には、政男さんは中学5年の2学期に中退したとあるので、政男さんは中学4年修了後、なんらかの上級学校の入学試験を受けたにもかかわらず合格することはなかったのではなかろうか。1937年は、この年の7月に盧溝橋事件が発生し、これをきっかけに日中戦争が始まった年である。『長岡高等学校 百五十年史』(2021(令和3)年10月発行)の巻末年表の1937年の項(p.381)には、「5月から毎月1日、国旗掲揚・宮城遥拝神宮遥拝、その他の遥拝式も度々あった。他に戦死者遺骨出迎、出征兵士歓送、軍用列車歓送、神社参拝、市民葬出席なども度々あり、昭和20年まで続く」とある。1937年から戦時色が濃くなり、これが終戦まで続いたことがわかる。政男さんは1939(昭和14)年1月10日、満21歳のとき、現役兵として独立山砲兵第一連隊補充隊に入隊し、同日第五中隊に編入された。その後の従軍履歴は以下の通りである。


1939(昭和14)年4月6日独立山砲兵第一連隊補充要兵として同隊に転属、同日、屯営出発。4月8日宇品港出帆し、4月13日塘沾(タンク―、天津市)に上陸。4月21日独立山砲兵第一連隊に到着し、同日第一中隊に編入。4月22日〜6月3日、東南部山西(省)掃蕩戦に参加、6月3日〜22日、臨汾平地の警備、6月23日〜8月25日、晋東作戦に参加、8月26日〜10月2日、趙城付近の警備並に戦闘に参加、10月3日〜11月20日、西部山西(省)掃蕩戦に参加、11月21日〜20日、東作戦に参加、12月21日〜1940(昭和15)年3月24日、曹張鎮(現・山西省曹張村か?)付近の警備並に戦闘に参加。


1940(昭和15)年3月25日〜4月28日、春季晋南作戦に参加、4月29日〜5月20日、郷寧作戦に参加、5月21日〜6月8日、曹張鎮付近の警備並に戦闘に参加、6月9日〜7月14日、河津付近の警備並に戦闘に参加、7月15日〜9月4日、新緯付近の警備並に戦闘に参加、9月5日〜21日、緯県東北方地区の戦闘に参加、9月22日〜10月7日、新緯付近の警備。10月8日、移駐のため侯馬鎮(現・侯馬市か?)を出発、10月22日まで石太鉄道沿線の警備並に戦闘に参加。10月23日、右足背皮下蜂窩織炎(ほうかしきえん?)にて陽泉(現・山西省陽泉市)陸軍病院に入院。11月22日、同病院退院着隊、11月23日〜12月14日、石太鉄道沿線の警備並に戦闘に参加、12月15日、内地帰還の為 娘子関を出発。12月20日、塘沾出発、12月27日、宇品上陸、12月28日、高田帰着。


1941(昭和16)年1月7日、第一中隊編入、1月13日復員完了。1月1?日山砲兵第十六連隊に転属を命ぜられる。同月19日高田発、同月同日金沢着、同月同日山砲兵第十六連隊第三中隊に編入。12月21日第52師団臨時編成に依り第一大隊段列(支援部隊?)に編入(注:第52師団は、1940年(昭和15年)8月から常設師団のうちの8個師団が満州に永久駐屯することになり、代替の常設師団として同年7月10日に留守師団を基幹に編成された6個師団のひとつである。ほかに第51師団・第54師団・第55師団・第56師団・第57師団があった)。


1942(昭和17)年6月29日善行證書付与(官等級兵長−伍長の下、上等兵の上)、6月30日現役延期解止除隊となった。


(この合間の1943(昭和18)年10月18日に政男さんの婚姻届けが出ている。)


1944(昭和19)年6月25日臨時招集のため野砲兵第72連隊に応招、同日第6中隊に編入。6月29日山砲兵第19連隊補充要員として転属の為 仙台出発。7月1日下関発、同日釜山上陸、7月3日 鮮満国境(安東、現・丹東市)通過、7月5日山海関通過、8月8日急性気管支炎にて湖北省武昌県武昌陸軍病院に入院、9月6日 同院退院同日部隊追及のため武昌出発。


1945(昭和20)年8月14日停戦詔書発布、8月18日復員下令、9月2日停戦協定締結。10月7日湖西省湖口地区柳村に於いて山砲兵第19連隊到着、同日第2中隊編入、10月8日湖西省湖口地区に集結、10月9日マラリア罹患、10月19日?癬にて柳村第13師団第4野戦病院に入院、12月19日同院退院、同日原隊復帰。


1946(昭和21)年5月12日内地帰還のため湖口港出発、5月31日上海港出港、6月6日佐世保港上陸、同日招集解除。総合功績昇級「勲功甲」、官等級 昭和21年6月6日陸軍兵長。


政男さんが1944(昭和19)年の2回目の応招のとき、朝鮮を経由して中支戦線に赴いているのは、この年の6月19日、マリアナ沖海戦で日本軍は大敗し、西太平洋の制海権と制空権を喪失したためと思われる。日本は絶対国防圏を破られ、この頃から日本本土空襲や通商破壊が激化した。また、国民も疎開を強いられるようになった。政男さんが戦地から帰還したのは、満28歳のときであった。政男さんの青年期は戦争に明け暮れる日々であった。


私の父秀夫は他人との争いを好まない穏やかな人であったが、唯一度だけ、政男さんに対して怒りを爆発させたことがあった。祖父母が亡くなって、政男さんと同じ家で暮らしていた頃のことである。私は時折、大きなマントを身に纏い街中を歩く政男さんの姿を見かけることがあった。政男さんはその異様とも云える姿で父の職場に現れたのである。政男さんにとって身近な身内は私の父だけであった。お金の無心にきたのか、または父に頼まないといけない喫緊のことがあったのだろうか。父は職場から帰ってくるなり、政男さんの無神経さに地団太を踏んで怒りをぶっつけた。


父は勤勉実直、刻苦勉励の人であった。私が子供の頃、父が職業上必要な毛筆習字、ペン習字、ソロバンなどのスキルを身に着けるため、自習書により、時間を見つけて反復練習をする姿を目にしながら育った。時折、絵筆を手にすることもあった。長岡郵便局では私が小学生の頃は貯金課に属していた。仕事は内勤と外勤に分かれていて、父は、最初は外勤であった。赤塗の郵便局の自転車に乗って、近郊の農村を貯金の勧誘をして回るのである。家に帰ってくるのは遅かった。木枯らしが吹いて建付けの悪い家の戸がカタコトと音を立てる晩秋の夜、炬燵に入りながら、母と子二人が父の帰りを待っている光景を時々思い出す。郵便局という地味な職場に40年以上勤め、「自分は学歴がないので出世できない」とぼやきつつ、1971年3月に長岡郵便局会計課長補佐で退職した。


母は気が強い人であった。父が優柔不断な人であったので、このような性格にならざるを得なかったのだと母は云っていた。浮世離れしたような父のもとで、家計のやりくりをしていたのは母だった。私が小学生の頃、洋服の仕立ての下請けの内職をしていた。出来上がった洋服を仕立屋に持っていくのは私の役目だった。質素倹約してお金を貯めて東京小金井に小さな建売住宅を買ったのは母の才覚によるものであったろう。若い時、義理の父母との間の葛藤を経験しつつも、私の兄夫婦と一つの家に住むことを夢見つつ実現させた。しかし、親子孫の三代が一緒に住むには家が小さすぎた。嫁舅の問題は世代を超えて繰り返すものである。母は猜疑心が強い人であった。農家の二女として育ち、町に出て職業婦人として生きて行く中で身に着けたことだったとは思うのだが、この性格は最後まで私は好きになることが出来なかった。


<追記> 父の長弟・敬さんが遺された、「係累に関する覚書(一)」(これには、「資料(2)」、「資料(3))の付箋がついた付属文書が二つある)と題する文書に、興味ある記述があるので、そのことを記しておきたい。


(1)敬叔父は、1945年8月15日の終戦のラジオ放送は長岡の実家で聞いたという。当時、北越製紙新潟工場に勤務していた敬叔父は新潟市に住んでいた。8月13日、新潟県知事名で、「新潟市が強力新型爆弾(原子爆弾)による攻撃目標になっている恐れが出て来たので、市民は即時、市内から緊急避難すべし」という布告が号外で出された。そのため、鉄道で長岡の実家に避難したという。これに先立つ8月1日、長岡はB29による空襲で市街地の大半が焼け野原となっていた。長岡空襲の炎は新潟市からも見えたという。敬叔父は長岡空襲があった翌日の8月2日、長岡の北越製紙本社および工場の安否確認・見舞いのため、新潟から自動車で会社の特派員として長岡を訪ねており、このとき東神田の実家が焼け残っていることを確認していた。


(2)私の手許には、坪井芳郎に関する戸籍謄本が4種類ある。そのうち、坪井芳郎を戸主とするものは二つで、一つは能生を本籍地とするもの、もう一つは昭和24年2月3日付で能生から長岡市東神田に転籍したものである。残りの二つは、祖父芳郎が能生の坪井キソと入夫婚姻する前のものである。祖父は、坪井キソと入夫婚姻の届を出す際に、「政次郎」から「芳郎」に名前を変えている。これは、この残りの二つの戸籍からわかる。祖父芳郎の改名前の「政次郎」の名前が載っている一番古い戸籍謄本は、芳郎の父高橋安平(天保9(1839)年9月3日生)を戸主とするもので、住所は「新潟県中頚城郡佐内村一番地」となっている。この戸籍に五男政次郎(明治16(1883)年2月28日生)とあるのが、生年月日からして、祖父芳郎であると思われる。次に古い戸籍謄本は、高橋豊次郎(慶応3(1868)年6月3日生、高橋安平・セキ二男)を戸主とするもので、住所は「新潟県中頸城郡有田村大字佐内230番地」となっている。住所が変わっているのは、市町村制が施行されたのに伴い、佐内村が有田村に吸収合併されたためと思われる。この戸籍の戸主・高橋豊次郎の名前が書かれた欄には「明治37年10月6日前戸主・安平死亡により家督相続」とあり、上欄には、「明治37年10月25日、家督相続届出受付、明治41年1月17日裁判の許可に因る隠居届受付」とある。この戸籍に、五男政次郎(明治16(1883)年2月28日生)の名前があり、その上の欄に、「明治40(1907)年3月21日に、中頚城郡有田村大字三ツ橋523番地の吉沢喜太郎母サヨと養子縁組届出受付により除籍」とある。それとともに、同じ戸籍の最後に、高橋安平・セキ五男芳郎(1883(明治16)年2月28日生)とあり、その上の欄に、「明治40(1907)年4月9日に、中頚城郡有田村大字三ツ橋523番地の吉沢喜太郎母サヨとの養子縁組を協議離縁し、同年7月15日に西頸城郡能生町大字能生81番、坪井キソと入夫婚姻届受付により除籍」とある。ここに記載されている、「五男政次郎」と「五男芳郎」の生年月日が同じであるため、同一人物であると思って間違いない。


ところで、敬叔父の長男の美樹さんに送って貰った、「資料3」(昭和42(1967)年4月29日、亡父母の13回忌の際に集録したもの)にある、祖父芳郎の実家の住所、「中頸城郡百間町字下吉野」は、上述の戸籍謄本のいずれにも現れない。敬叔父が、「直江津」の一つ手前の「黒井」で頚城鉄道に乗り換えて「百闥ャ駅」で下車、と具体的に書いているので、そこに祖父芳郎に関係する家があったことは事実と思われるが、上述の戸籍謄本にある家とどのように関係するのか、「謎」である。ちなみに、高橋安平・セキ長男・高橋安五郎(文久2(1863)年生)は、明治23年3月15日廃嫡し、長野県上高井郡小山村大字小山71番地に分家、四男・高橋大次郎(明治5(1872)年生)は、明治20年9月15日、長野県上高井郡小山村321番地、高橋佐太郎と養子縁組をしている。高橋安平を戸主とする家を継いだのは、二男・高橋豊次郎であった。高橋豊次郎を戸主とする戸籍謄本の弟・大次郎の名前の上欄には、「明治21年7月9日、長野県上高井郡小山村高橋佐太郎養子離縁に付復籍、明治37年10月25日家督相続人に指定届出受付、明治41年1月17日、家督相続届出受付」とあるので、安平・セキ二男・豊次郎が隠居した後、中頸城郡佐内の坪井家本家を継いだのは、安平・セキ四男・大次郎であった。


このたび、祖父芳郎に関する戸籍謄本を見直してみて、一番古い、高橋安平を戸主とする戸籍謄本には、三男の記述が無いことに気付いた。ひょっとすると、「中頸城郡百間町字下吉野」は、この三男が分家した住所かもしれない。三男は明治3年ころの誕生と推測されるので、明治16年生まれの祖父芳郎とは、一回り以上歳が離れていることになり、この兄が芳郎の学資を出して育てたということはあり得ることではないかと思うのだが、事実はどうであろうか。


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私の少年時代

私たち家族がそれまで住んでいた新潟市から父方の祖父の家があった長岡市に引っ越した1949(昭和24)年の春から一年間、私は近くにあった長岡家政学園高等学校(現・中越高校)付属の保育園に通った。祖父の家の裏手には新潟大学教育学部長岡分校があった。長岡は江戸時代、徳川幕府の譜代大名、牧野家の城下町であり、新潟大学教育学部長岡分校の敷地には、かつて長岡藩家老・稲垣家の下屋敷があり、足軽長屋が軒を連ねていたという。ここに1900年(明治33年)に新潟県女子師範学校が開設された。長岡家政学園高等学校は、明治38年12月、斎藤由松が長岡市長町に、この学校に入学するための予備教育を行う私塾として設立した斎藤女学館が始まりであるという。私が高校3年になったとき、中越高校と改名し男女共学となったが、それまでは女学校であった。祖父の家は東神田町の北端にあり、小路を挟んだ向こうは愛宕町であった。私は、家の前の小路の一筋向こうの愛宕町の大工の息子、西脇敏春君と、毎朝連れだって保育園に通った。この西脇敏春君の存在は祖母が教えてくれたものである。保育園には年配の金子先生と年若い川田先生という二人の保母さんがいた。私はその年若い川田先生が子供達と一緒に園庭で遊ぶ姿を遠くから眺めていた。その優しそうな姿にほのかな思慕の思いを抱いていたのだと思う。


保育園に通ったのは一年の短い期間であったとはいえ、不思議なことに西脇君以外に園にいた男の子の名前は一人も覚えていない。記憶に残っているのは二人の女子の名前だけである。一人の女の子はNさんといった。この頃の地方都市では、女の子でも幼女は道端にしゃがみこんでパンツをおろし、用を足すのが普通だった。もちろん小の方である。私は幼心に男の子と異なる女の子の体の構造に興味を持つようになっていたのだと思う。ある日、私は保育園で、そのNさんと鬼ごっこをした。そして、私が鬼になり、逃げるNさんを捕まえたら、Nさんの大切なところを見せて貰う約束をした。首尾よくNさんを捕まえた私は、彼女をトイレに連れていった。するとNさんは、「ほら」といってパンツをおろし、彼女の大切なところを見せてくれた。ただ「ワレメ」が見えただけだったが、私は持っていた積み木で、その部分に「ぺったんこ」、印を押した。終わるとNさんは年配の保母さんの金子先生のところに駆けて行って私の所業を告げた。もちろん私は金子先生にしかられるハメになった。保育園の玄関の框に腰をかけ、泣きながら靴を履いている自分の姿を今でも思い出す。その日は、そのまま保育園を早引きしたのである。もう一人の女の子はTさんといった。ある日、Tさんは保育園からの帰途、保育園の近くにあった彼女の家に私を連れていった。そして母親に「一番好きな男の子を連れて来た」と告げたそうである。これは後になって私の母親を通して聞いたことである。幼児の世界とはいえ、男女の関係はいろいろあったのである。


一年間の保育園生活の終わりが近づいた頃、私は家の裏手にあった、新潟大学教育学部長岡分校付属の小学校を受験させられることになった。これは私の母親自身の考えによるものだったのか、それとも祖母のすすめに従ったものだったのかはわからない。いずれにしろ、その頃の「附属小学校」が地域の「エリート学校」であることは知っていたはずである。「附属小学校」は音感教育に力をいれていて、入学試験にピアノの音を聞き分ける試験があるというので、そのための対策として、保育園の金子先生がピアノの鍵盤を押して、音を聴き分ける訓練をしてくれた。しかし、ほんのちょっとの時間だけだったので、本番では、ほとんど効果はなかったであろう。入学試験当日、学校の廊下で椅子に座って待たされているとき、窓の外を見ると、降りしきる雪の向こうに我が家が見えた。後日、母が結果を聞きにいった。「不合格」だった。私は「誤って電球を壊してしまったら、どうしますか?」という問いに、「買って返す」と答えたそうである。当時、多くの家庭では、各部屋に傘のついた裸電球が天井からぶら下がっているのが普通だった。学校側が期待したのは、「謝る」というような類の答えだったのだろう。「買って返す」という答えは、私の母親の当時の経済観念を反映したものであったであろう。このような答えを返すような私は、育ちのいい良家の子供たちが集まる「附属小学校」には相応しくないと判断されたのだと思う。私は1950(昭和25)年4月から、地域の市立校である「川崎小学校」に入学した。2学年上には私の兄がいた。


川崎小学校は、福島江という人工の灌漑用水路と栖吉川という自然の川に挟まれた領域にあり、道路筋の集落を除けば、周りはすべて田んぼであった。私は福島江に架かった橋を渡り、田んぼの中を真っすぐ伸びる道を通って学校に通った。栖吉川は学校の裏手を流れ、学校のグランドはこの川の堤防に接していた。栖吉川の向こう側の田畑は、4q程離れた山の端まで続いていた。学校の東側に見える山々は東山丘陵といい、高さ400m〜500mほどの山々が連なっていた。主峰は標高746mの鋸山という形の良い山であった。


川崎小学校では2023(令和5)年10月に創立150周年の記念式典が持たれているので、設立されたのは1873(明治6)年ということになる。これは明治新政府によって学制が発令された翌年にあたる。設立の正確な経緯はわからないが、当時の多くの小学校がそうであったように、村の篤志家によるものであったのではないか。私が通った昭和20年代には、長岡市も人口が増えて市街地が拡がり、川崎小学校は市街地と農村部の境界に位置するようになっていた。したがって、学校には多様な階層の家の子供たちが通っていた。とはいえ、親の職業まで正確に知っている友人は限られていた。私が知っていた親の職業を思いつくままに挙げると、大工、魚屋兼仕出し屋、食料品経営、私鉄電車の踏切手、国鉄勤務、市立図書館勤務、獣医などである。学校から遠く離れたところに「平柳」という集落があったがそこから通ってくる級友がいた。おそらく彼の家は農家であったであろう。当時、「旦那様の家」という言葉が使われていたから、元小作人の子もいたと思われるが、実際にはそのような級友は知らない。大方の印象では、サラリーマン家庭の子が多かったような気がする。我が家もそのような家の一つであった。


旧長岡藩は戊辰戦争の時、新政府軍と長岡城を巡って二度戦い、敗れ城下町は焼け野原となった。また先の戦争において、終戦間際の1945(昭和20)年8月1日夜、B29による無差別焼夷弾爆撃を受け、市街地の約8割が焼け落ちた。例外的に祖父の家があった東神田一帯は空襲を免れた。家の前の小路を西に200mほど進むと信越線の線路に突き当たる。その線路沿いにあったバラック風の家に友人を訪ねたことがあった。その家は床板がむき出しで、家族はその上にゴザを敷いて生活していた。私が小学校に入学した1950(昭和25)年頃はこのような家があちこちに存在していたと記憶している。長岡市役所のホーム・ページには、「長岡市政ライブラリー」というページ (https://www.city.nagaoka.niigata.jp/elibrary/index.html) があり、そこの「市政のあゆみ」には、市政が施行された1906(明治39)年以降をいくつかの時代に分け、それぞれの時代ごとに長岡市の主な出来事が記載してある。この時代区分に従うと、「戦後復興期」(1946(昭和21)年〜1955年(昭和30)年)の後半が私の小学校時代にあたり、「高度経済成長期」(1956(昭和31)年〜1969(昭和44)年)の前半が中学校時代にあたる。私が小学校に入学した年に、新潟県との共催で、新潟県産業博覧会(長岡博)が、神田通りの西側の西神田町一帯を会場として開催されているが、母と一緒に見に行った記憶がある。この頃、長岡市は戦災からの復興の途次にあった。


小学校の学級担任は、1,2年は今泉雅子先生であった。今泉先生は同じ町内に住んでいた。私の家には風呂はあったが、私たち家族は階下に住む祖父母とは独立した生活をしていたので、家の風呂は使わず、私と兄は母に連れられて、歩いて15分位のところにある銭湯にいった。途中、今泉先生の家の前を通るのが常であった。銭湯では子供連れの先生と一緒になることがあった。私は小学校1,2年までは、母と一緒に女湯に入っていたのである。私たちのクラスには浮浪児風の不登校児が二人いた。彼らの家庭事情は全く知らないのだが、その二人が教室の外側の壁板の下方にある小窓を開けて授業中の教室を覗きにくることがあった。小窓がガラッと空いて彼らが顔をみせると、先生が「捕まえて !」と叫んだ。私たちは、その声に応じて外に飛び出し、二人の後を追ったが、逃げ足が速く捕まえることはできなかった。冬になると一晩でドカ雪が降り、学校の周囲の田んぼの中の通学路が雪に埋まってしまうことがあった。そんな日の朝、学校に行くと、向こう側から学校の用務員さんが雪かきをしながらこちらに進んでくるのが見えた。私は保育園時代と同様、近くに住む西脇君と一緒に登校していたが、私達二人はその用務員さんに向かって雪をラッセルしながら進んだ。道なき道をすすむ勇士のような気分であった。


小学校3,4年の学級担任は吉田英子先生という独身の若い先生であった(私が6年生の時に結婚されて、姓が中川に変わった)。私は吉田先生が担任であった小学校4年の頃が「わんぱく盛り」であったと思う。それだけにこの時期に関しては、いろいろ思い出すことがある。一番の思い出は、「カエルの缶詰」事件である。当時、私たちの小学校では、午前中に4時限の授業があり、1,2時限と3,4時限の間に「短くない」休憩時間が組まれていた。多分15分から20分くらいの休憩時間だったのではないだろうか。私は級友5,6人と一緒に、その「短くない」休憩時間に、学校の裏手を流れている栖吉川を、「手づかみ」で魚を取りながら上流に進んだ。栖吉川は普段は水量が少なく、清流が川底の小石を洗いながら流れていた。その川の岸辺の草で覆われた淵に、じっと動かずに潜んでいる魚を、そっと両手を左右から入れて捕まえるのである。私たちはその魚を「ワカサギ」と呼んでいたが、今になって思うと、栖吉川のような川に「ワカサギ」がいるはずもなく、採れた魚は「オイカワ」や「ハヤ」であったと思う。繁殖期になると「オイカワ」のオスは鮮やかな婚姻色に変わった。私たちの仲間には「手づかみ」の名人がいた。しかし、その日に限って不漁であった。仕方なく、私たちは川底に落ちていた缶詰の空き缶を拾って、その中に捕まえたカエルを入れて持ち帰った。ところが、私たちは魚取りに熱中したあまりに、3時限の授業に大幅に遅れてしまった。担任の吉田先生は日頃は優しい先生であったが、その時ばかりは罰として、私達悪童連は廊下に立たされることになった。


私は生来、「負けず嫌い」であった。それを示すエピソードに次のような話がある。新潟に住んでいた頃のことである。昭和23年の春、二つ上の兄は近くの白山小学校に入学することになった。近所に住む大人は、「こればっかりは、お兄ちゃんに勝てないね」と私をからかった。すると私は、「(学校に行く兄を)うしろから追いかけて行って、頭をコッツンコしてやるわ」と云ったという。この「負けず嫌い」の性格は、少なくとも私が大学に進学してより広い世界に身を置くようになるまでは顕著であったと思う。小学校4年生の時の級友にK君という子がいた。いつも小奇麗な服を着ていて、先生が音楽の時間に独唱をさせると張りのある高音で上手に歌を歌った。その彼が、ある時、「安善寺」という寺にあった珠算塾の「会員証」を自慢げに私に見せた。それを見た私は、自分もその珠算塾に通いたいと思った。そこで父に頼んでみた。しかし、父はすぐに「ウン」とは云わなかった。私はそれなら直接ソロバンを教えて欲しいと父に頼み込んだ。父は職業柄、毎朝ソロバンの練習をするのを常としていたのである。私の熱意に根負けした父は、私がソロバン塾に通うことを許してくれた。私は熱心に塾に通い、そのソロバン塾の大会の「読み上げ算」の部で一番の成績を上げ、賞状を貰うほどになった。


私は、「負けず嫌い」であることと関係していると思うが、「見栄っ張り」でもあった。ある日、先生は、みんなが良く聴いているラジオ番組を尋ねた。みんなは「ハーイ、ハーイ」と手を挙げた。私も負けずに手を挙げた。その頃、我が家にラジオは無かったにもかかわらず、である。すると先生は真っ先に私を指名した。私は躊躇なく、「笛吹童子」と答えた。当時、NHKの連続ラジオドラマとして、新諸国物語「笛吹童子」が放送されており、子供たちの間で人気を博していることは、級友との日頃の会話の中で知っていたからである。我が家では、階下の祖父の茶の間にはラジオはあったが、私たち家族がそれを聴くことはなかった。新潟に住んでいた国鉄職員の母方の義理の叔父が、ラジオを設置してくれたのは、私が5年生のときであった。


3,4年生の時の通知表が残っているが、3年生の1学期の「行動の記録」の「所見」に、「素直で無邪気でありますので級友に非常に人望はあります」とあり、2学期の「学習の記録」の「所見」には、「発表するときの態度が良くないようです。恥ずかしがって時々答えない事もあります」とある。それが4年生になると、私は「ガキ大将」になっていた。クラスの「お楽しみ会」で、私の脚本・演出・主演で「ロビンフッド」の劇をやった。秘密の「隠れ家」でその劇のための衣装や舞台装置を作った。私は知らず知らずのうちに他人への思いやりを欠くようになっていたのだろう。4年生の時の通知表の2学期の「行動の連絡」の「ひとを尊敬する」の項目が「ふつう」に〇がついている。「学習の連絡」の「所見」には、「学習態度真面目で成績優秀、稍々落ち着きを欠きにぎやか過ぎる事もある」とある。私は学期初めの選挙で「級長」に選ばれていたのだが、先生は学期の途中で「人気投票」を実施した。結果は、おとなしく成績優秀のS君が一位で私は二位だった。先生は、私の唯我独尊的な「思い上がり」に気付かせるためにこのようなことをしたのだと思う。


4年の学年の終わりが近づいた頃、吉田先生は私を人目のない体育館の入り口に連れて行き、本をプレゼントしてくれた。その本は「趣味のハンドブック−昆虫採集(2版)」(加藤正世著、三十書房、1953年刊)であった。この本のお陰で、私はその後、捕虫網を持って野山を駆け巡る昆虫少年になった。この本は70年近く経った今も私の本棚にある。私が実際に蝶や蜻蛉や虫を求めて山に行くようになったのは5年生になってからであった。その当時、家の近くに悠久山と栃尾を結ぶ栃尾鉄道の下長岡駅があった。昆虫採集に行く主な行先は三つあり、その内の二つは下長岡駅から栃尾鉄道に乗り、悠久山駅まで行き、悠久山駅前の野球場を挟んで左に曲がり、成願寺温泉を経て標高500mほどの森立峠に至るコースと、野球場を挟んで右に曲がり、栖吉を経て標高600mほどの花立峠に至るコースであった。残りの一つは、下長岡駅から栃尾鉄道の栃尾方面行の電車に乗り、浦瀬で下車して高津谷高原、または榎峠に至るコースであった。明治20年頃、浦瀬のあたりで油井が発見され、長岡は石油ブームに沸き、街は活況を呈したという。明治末期には早くも産油量が減少に転じ、衰退が加速したが、私が昆虫採集に訪れた頃も石油を汲みだすポンプを支える鉄塔があちこちにあり、ギーコ、ギーコ音を立てて動いていた。長岡には精密機械の製作所や鉄工所が多くあるが、これは油送管など採油に関する鉄鋼製品を製造することがきっかけになったからだという。


5,6年は安中忠三先生という男の先生が担任であった。クラスには「素行不良」と目される、T君、K君、N君という級友がいた。私は3人とは良好な関係にあった。その証拠に、3人は自分たちで手作りした木の刀を私の家まで持ってきて私にプレゼントしてくれた。理由はわからないが、この3人組がある日の放課後、安中先生から水が入ったバケツを両手に持ったまま長時間、廊下に立たされ、説教を受けるという体罰を受けた。これは後日、吉田英子先生から聞いた話である。いかにも男の先生らしいやり方だと思うが、当時はこのようなことが許容されていたのである。


学校には「山なみ会」という生徒会組織があり、小学校6年生になるとその会長の選挙が行われた。6学年は3学級あり、全部で190名ほどの生徒がいたが、その生徒の間の互選であった。私は1、2、3学期を通して生徒会長に選ばれた。地域には「少年団」という子供たちの自治組織があり、その「東神田分団長」にも選ばれた。私は学業成績も良かったので、卒業時には「山なみ賞」という優等賞を貰った。6年の終わりが近づくと附属中学への受験が話題になった。受験を希望する生徒は男女別々に、夜、先生の自宅に集まって特別の指導を受けた。私のクラスからは男3人、女3人が受験し、合格したのは男一人、女二人であった。合格した男一人は私であった。私は附属中学の生徒会組織である「学友会」の「入会式」で、新入生を代表して挨拶をやらされたので、おそらく良い成績で合格したものと思われる。附属小学校の受験のときとは違って、私には自信があった。その理由は、私が5年生のときに、東京国立にあった郵政省の「中央講習所」に、一年間の講習に行った父が、帰ってくるときの「みやげ」に買ってきた私立中学受験対策用の参考書と問題集を兼ねたような分厚い本を持っていたからであった。私はその本に基づいて自学自習していたので、学校の通常の授業では習わないような知識を沢山身につけていたのである。


私は毎日、小学校への行きかえりの途中、小奇麗な格好をした附属小学校の生徒と行きかうことが常であった。彼・彼女らが、私が日頃接している子供達と異なることは一目瞭然であった。夏になると、彼らは学生帽に白いカバーをつけ、洋服には白い襟をつけた。附属中学に進学してからわかったことであるが、彼・彼女らは会社経営者や裕福な商家、それに医者・法曹関係・会計士・大学教授・教師など専門職の子弟が多かった。私の家の裏手にあった新潟大学教育学部長岡分校は、その頃は、附属の幼・小・中学校を残して、市南東部の学校町に移転していた。その空いた部分に、新しく市立の東北中学が開校し、川崎小学校の卒業生のほとんどがその中学に進学した。2年上の私の兄は、その東北中学の第一期生であった。私を生徒会長に選んでくれた小学校の級友たちと別れて、「エリート学校」と目される附属中学に進学することになった私の立場は微妙なものであった。ある日、例の3人組のT君、K君、N君が下校する私を待ち伏せしていた。彼らの目には、当時の私は鼻もちならぬ存在に映っていただろうと思う。私は大事に至らぬ前に、彼らを振り切って逃げた。


記憶に残っている6年生のときの級友の一人に入村康治君がいた。彼は転校生であった。教室の最前列に席があり、そこから半身に構えた姿勢でクラス全体の様子を伺っていた。体は小さかったが大変大人びて見えた。ある日、全校生徒を前に開かれた読書発表会で、ナポレオンの伝記について語り、その大人びた内容が校長先生を驚かせた。当時の私には、ナポレオンはまったく無縁な存在であったので、彼はどのような家庭環境で育ったのだろうかと思ったものである。私は附属中学校に進み、彼は市立の東北中学に進んだ。当時、地域唯一の公立の普通高校であった長岡高校に進学したとき、再び彼と一緒になった。高校3年生のときは同じクラスであった。長岡高校はいわゆる「進学校」で、3年生の後半になると、「受験対策」のための授業に特化された。入村君はそのような学校側のやり方に疑問を呈し、クラス担任の先生には堂々と異議を申し立てていた。彼は大学には進まなかった。高校卒業後、彼と再会したのは私が東大理学部に進学して、駒場から本郷に移ってからであった。本郷の構内で手渡されたビラに彼の名前があった。彼は東大医学部附属病院分院に職員として勤務しつつ、新左翼系の政治組織に属し青年労働者として活動していた。手渡されたビラに書かれていた、東大安田講堂前銀杏並木通りに面した教室に彼のアジ演説を聞きにいった。それは私が大学院修士課程に通っていた、1966年4月から1968年3月の間のことであったと思う。新東京国際空港建設に反対する三里塚闘争が始まったのは1966年6月のことであった。私は2020年代に入ってから、彼が「村岡到」の名前で言論活動を行っていることを知り、彼の著書「日本共産党をどう理解したら良いか」(出版社;ロゴス、2015年刊)を入手した。この本にある「経歴」によると、彼は1980年政治グループ稲妻を創生、1996年に解散、その後NPO法人「日本針路研究所」を立ち上げ、 季刊Plan B. (出版社; ロゴス)を発行するとともに左翼系の書籍の出版事業を行っている。彼にもっとも影響を与えた思想家は「梅本克己」であるということも、この本の「あとがき」で知った。


附属中学では一学年2クラスで、私は3年間を通して1組で、担任は佐藤一雄先生であった。附属中学に進学した当初、私は大変緊張していた。級友はみんな私とは全く違う人種のように思っていたからである。そのような先入感が私にはあった。一学年は100名ほどで、付属小学校から進学してきた者と外部から入学してきた者がほぼ半々であった。附属小学校から進学してきた者で最初に友達になったのはY君であった。彼のすすめで吹奏楽部に入部してホルンを吹くようになったが、これは私の人生の中でも極めて貴重な経験であったと思う。Y君は、市街地の西部、信濃川に近い柿川べりにある大きな商家の末っ子で年上の兄や姉がいた。「東大」という言葉を初めて聞いたのは彼からであった。部活動は他には、「園芸部」、「バトミントン部」、「科学部」、「陸上競技部」、「野球部」に入った。「野球部」に属していたのは、3年生のときの短い期間であったが、主将のI君に頼まれてのことで、「私が入部すれば、それにつられて一緒に入部する者が出るから」といこうことであった。私は自分が決して運動神経が良い方ではないことは自覚していた。しかし、3年生のときの運動会の各部対抗リレーで、科学部が多くの運動部を抑えて優勝したのは痛快であった。体が大きく足が速そうな2年生二人と、足の速い3年生のY君と私の4人でチームを組んだ。アンカーには3年生のY君を配し、トップの2年生でリードを奪い、私が2番手で受けてリードを保ったまま3番手の2年生に繋いで、そのままアンカーのY君が一番でゴールに飛び込む作戦をたてた。レースは作戦通りに運んだ。


中学一年の夏休みにY君の友達のO君を誘って、私を含めた3人で妙高山に登る計画を立てた。なぜ妙高山だったのかというと、私が小学校6年のときの修学旅行で、上越地方の越後五智国分寺、春日山城跡、高田城跡などを巡った後、信州にまで足を延ばし、妙高山の麓にある赤倉温泉に泊まった。このとき見た妙高山の美しい姿が印象に残っていたからだと思う。当初の計画では私達3人だけで登るつもりであったが、これは無謀というものであった。妙高山は優しそうな山容をした山であるはいえ、2500mを越える高山である。それまでの私の山の経験といえば、長岡近郊の標高500m〜600mの東山丘陵の山々だけであった。この登山計画はO君の母親が知るところとなり、知り合いの東京の私立大学登山部の学生に連れて行って貰うことになった。実際は、山には登らず、妙高山中腹の高原を少しだけ歩いて帰って来た。中学二年の頃には、私たちの学年の中にテントを持って山や海に出かけてキャンプをするグループが出来ていた。このグループでは、東山丘陵・八方台裏手の「柳市(やないち)の池」、鯨波海岸、守門岳中腹の道院高原の池の端などでキャンプをした。守門岳は、新潟県と福島県の県境近くにある、三つのピークを持つ大きな山容の山で、主峰は標高が1573mあった。東山丘陵の主峰・鋸山に登るとその裏手に守門岳の立派な姿を望むことができた。その姿に魅せられて登頂するつもりで中腹までいったが雨にたたられ、やむなく下山したのが道院高原の池の端のキャンプであった。


3年生になると生徒会の会長・副会長の選挙があった。私はY君の推薦を受け立候補することになった。自ら進んでというわけではなく、あくまで受け身の立場であり、生徒会の運営について何らかの見識・抱負を持っていたわけではない。結果は、会長、副会長とも落選した。私は生徒会総会の時の議長を務める評議委員会委員長の役に納まった。3年生の後半になると受験体制が組まれ、学力別のクラスに分かれ受験対策に特化された授業が行われた。全県模試も行われるようになったので、否応なく成績の順位を気にするようなった。私の成績順位は常に上位であったから、私は「優等生」として周囲から見られ、私自身もそれに答えられるよう、勉強をするようになった。


附属中学の卒業生は数名の例外を除くと、男子は長岡高校、女子は第二長岡高校に進学した。女子のなかには例外的に本来男子校である長岡高校に進学する者もいた。長岡高校、第二長岡高校はともに普通高校であった。二つ上の兄が第一期生として卒業した市立東北中学では、普通高校に進学した者は全体の約一割、実業系の高校を含めて上級学校に進学した者は全体の半分ほどであった。残りの半分の生徒は「金の卵」として、東京方面に集団就職した。


総じて中学の3年間、私は学業、部活動、生徒会活動、部外活動に活発であったと思う。しかし、高校に入学した頃から、学業以外の活動に対して消極的になっていった。私にこのような変化をもたらした要因として思い当たるのは次のことである。私は中学3年のときは身長が162cm〜163cmほどあり、クラスの中で身長は高い方であった。しかし、身長の伸びはそこで止まってしまい、高校に入学する頃に急速に身長を伸ばした級友たちに追い越されて、彼らに上から見おろされるようになった。私の家は経済的に豊かではなく質素倹約を旨としていたので、食事は質素で栄養素・カロリーとも十分であったとは云えなかった。大学の入学試験前に学校であった健康診断のための採血の際には、水のように薄い血が出てきて、採血をしていた保健婦さんを慌てさせた。このような状態では血潮滾る高校生活は到底望めなかったと思う。


「父さんの小さかったとき」(塩野米松文、松岡達英絵、福音館書店、1988年刊)という絵本がある。著者は二人とも雪国の出身で、特に絵を描いている松岡達英さんは、私と同じ新潟県長岡市の出身で、生まれた年も私と一年違いの1944(昭和19)年である。したがって、この本に描かれている街と田園の風景や子供たちの姿は私が見たり経験したりしたものとまったく同じであると云ってよい。私が通った川崎小学校と見紛うばかりの田んぼの中の小学校の絵もある。ただ一つだけ、私が懐かしく思い出すことでこの本に描かれていないものがある。それは「しみわたり(凍み渡り)」である。「雪が凍みる」とは、雪が凍ってカチカチに硬くなることであるが、「雪が凍みる」と田んぼに積もった雪の上も人が自由に歩けるようになる。これが「しみわたり」である。それが出来るためには一定量の雪が降り積もっている必要があるから、「しみわたり」をしたのは、2月から3月にかけてであって、それも天気の良い朝であった。昼間、太陽の光が雪の表面に当たると、雪は表面から解けて水となり、降り積もった雪の中にしみ込んでいく。そのまま夜になると地表面から空に向けて熱の放射があり、地表面の温度は急速に低下する。大気中の水蒸気が少ないよく晴れた夜間ほど、この熱の放射は多くなる。この状態を放射冷却と云う。「しみわたり」が天気の良い朝に出現するのはこの理由による。私が通った小学校の周囲はほとんどが田んぼであったから、「しみわたり」の出来る日は、どこまでも続く雪原が子供たちの遊び場に変わった。


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私の数学研究と科学者会議

 45年も前(2018年当時)のことを思い出しながら、このような文章をつづっているのは、私の科学者会議への思い入れがことのほか強いからだと思います。これは、私の中に、私が鹿児島にやってきて科学者会議に入会した直後の活動を通して、科学者会議には大変お世話になったという気持が強くあるからなのですが、私の科学者会議への感謝の気持ちを込めて、このことを書き留めておきたいと思います。


<京都での5年間>

 私は1968年3月に東大大学院修士課程数学専攻を修了するとすぐに、京都大学数理解析研究所に助手として就職しました。現在では、国立大学法人等の助手(=助教)のポストは激減しているので、博士課程を修了し、博士号を取得していても、国立大学法人等の正規の教員(研究者)として雇用されることは、極めて難しくなっていますが、当時は、修士論文以外に公刊された学術論文がない私のような者でも、国立大学の助手として就職できたのです。今からすると信じられないことですが。私は早速、修士論文の中のオリジナリティがあると思われる部分を学術論文として刊行したいと思い、論文にまとめる作業にとりかかりました。しかし、一年ほどかけて書き上げた論文は、諸々の事情により、出版されずじまいに終わってしまいました。その後、修士論文から派生したテーマについて研究を行い、いくつかの結果を得たのですが、その評価については、私自身、あまり自信が持てないでいました。


ところで、私は就職すると同時に京都大学職員組合に加入させられ、翌年の1969年4月からは、中央執行委員をやらされることになりました。 職場には組合の中央執行委員は若手の助手にやって貰う慣行があったのだと思います。その当時の京都大学は、いわゆる「大学紛争」の真最中で、大変騒々しい雰囲気の中にありました。私が就職した前年の1967年、医師法一部改正・登録医制度に反対し研修協約の獲得をめざして、東大医学部自治会と青年医師連合が行ったストライキに対する処分の撤回を求める闘争と日大の学費値上げ反対闘争に端を発した大学紛争は燎原の火のように全国の大学に拡がり、京都大学においてもヘルメットをかぶりゲバ棒(ゲバ=ゲバルト)を持った学生が大学当局と対峙する状況がありました。 私が組合の中央執行委員をやることになった1969年の1月には、東大の安田講堂を占拠した「新左翼」と呼ばれる学生達と機動隊との攻防戦があり、その年の東大入試は中止になりました。後にノーベル物理学賞を受賞されることになった益川敏英さん(現日本科学者会議代表幹事)も当時、京大理学部の助手をしておられて、組合活動に参加されていました。益川さんがテレビで、「ノーベル賞の対象となった論文は、京都大学で組合支部の書記長をしていた時に書いたものである」と話しておられるのを聞きましたが、これは、多分、1970年のことだったと思います。組合の集会で益川さんの姿を見かけたことがありました。


私はそれまで、どちらかというと政治的、経済的な社会問題に関しては疎い人間でした。 与えられた京都大学職員組合中央執行委員という役目を型どおりに、こなして終わるという選択肢もあったのですが、私の性分としては、やるからには自分で納得してやりたいという気持ちが強かったのだと思います。「マルクス経済学講座」全四巻 (宇佐美誠次郎・宇高基輔・島恭彦編、有斐閣、1967〜68年刊)を買ってきて読んでみました。全四巻の内容は、第一巻が「マルクス経済学入門」、第二巻が「現代帝国主義論」、第三巻が「国家独占資本主義論」、第四巻が「日本経済分析」でした。私はマルクス経済学を学ぶ中で、史的唯物論の基本命題、「(社会の)下部構造は上部構造を規定する」を知りました。


私は組合活動を通して、社会的存在としての自分を見つめ直すことになりました。これは、私自身の出自に関係しているのだと思いますが、数学科の学生時代を通して、数学研究者の「貴族性」というものを感じていましたので、数学そのものを社会の下部構造との関係で考えてみたいという気持ちが湧いてきたのです。丁度、この頃、私は数学研究において、はっきりした展望が持てないまま、私自身の数学的蓄積(知識と経験)の貧しさを痛感せずにはいられない状況にありました。このような状況の中で、たまたま数理研の掲示板に貼ってあった、鹿児島大学教養部数学教員公募の文書をみて、応募したところ、縁あって採用して頂くことができたので、1973年4月に鹿児島にやって来たのです。まったく未知の土地で、「自己再生」を図りたいという気持ちが強くありました。


<自然科学研究会>

 そこで日本科学者会議に勧誘され会員となったわけですが、早速、支部の事務局に入ることになりました。その時の事務局長が、現在もお元気にご活躍の仲村政文さんでした。そして、まず、やったことは「自然科学研究会」を作ったことでした。振り返ってみると、私が学生だった1960年代は、フランスのブルバキ集団の活躍が盛んで、日本にもそれに呼応する若手を中心とする数学者集団があり、数学の抽象化が極度に進んだ時期でした。華麗な抽象的数学構造物の姿に圧倒されて、初めて現代数学を学ぶ者には、その背後にある数学的実体が見えにくくなっていたと思います。このような時期に主体性を失わずに数学研究を進めていくためには、どうしても科学的な数学観を身につけ、自分自身がよって立つ足元を固める必要がありました。そこでまず、自然科学全体の構造の中での数学の位置を知り、数学の本質を明らかにしたいと思ったからだと思います。「自然科学研究会」では、いろいろな専門分野の方に、自分のやっている研究について話をして貰うことから始めました。やがて、哲学者と物理学者の協同作業による「現代自然科学と唯物弁証法」(岩崎允胤・宮原将平共著、大月書店、1972年刊)の学習へと進んで行きました。


<『資本論』素人学習会>

 1974年、私は組合の書記長をやり、鹿児島で日教組大学部の「全国教研集会」を持ちました。このとき組合の教文担当として、「全国教研集会」の世話役を務めて頂いた教育学部の清原浩さんと一緒に、「『資本論』素人学習会」なるものを立ち上げました。私が「資本論」を読んでみようと思い立ったのは、京都における組合活動の中で社会的存在としての自分自身を見つめ直すことを強いられたことを契機として、人間の社会の運動・発展の法則を知りたいという強い欲求を持つようになったことと、「自然科学研究会」をやりながら読んだ、見田石介の「科学論」の中に、「資本論」の方法こそが科学の方法であると書いてあったことによります。


歴史的パースペクティブを持って、数学の発生から現代数学に至るまでの道筋を人類の歴史とも重ねながら知る必要も感じていました。そこで、教養科目「数学論ゼミ」を開講し、学生と一緒に、ソビエト科学アカデミー版「数学通論―数学:その内容、方法、意義―」(遠山啓監訳、東京図書、1958年刊)の第一巻、第一章「数学の概観」を読みました。いうまでもなくこれは、弁証法的唯物論の立場に立った「数学史」、「数学論」の本です。数学の歴史を知らず、現実の世界から離れ、現代数学の一断面だけを頭の中で抽象的に思考している状態は、非常に不健康で無理をしている状態なのではないかと私には思われました。


ソビエト科学アカデミー版「数学通論」の監訳者の遠山啓さんは、「数学教育協議会」という組織を主宰され、「水道方式」という算数・数学の学習・教育方法を提唱されていました。そのメンバーの一人であった銀林浩さんが書かれた「量の世界―構造主義的分析」(麦書房、1975年刊)という本は、私に新しい視点をもたらしてくれました。数学はさまざまな「量」を通じて他の諸科学とつながっているわけで、その多様な「量の世界」をブルバキ流の「構造主義」の立場で分析されている様は「目からうろこ」という気持ちでした。高度に抽象化した現代数学には、できるだけ「量」からは離れようとする力が働いているので、数学の世界にどっぷりつかっている者には、到底、思いもつかないことでした。私はこの本を題材に教養科目「数学原論」という講義をしましたが、学生たちも大変興味を持って聴いてくれたと思います。一般の人が、より広い視野から数学に興味を持って学習できるようにするには、このような教育は必要なのだと思いました。


組合活動を一緒にやったこと、「『資本論』素人学習会」を一緒にやったことが縁で、鹿大教育学部で行われていた清原さんのゼミに参加させてもらい、そこでピアジェの「数量の発達心理学」を学習し、個体(=個人)レベルにおける数学的概念の形成・発達の過程を学ぶことができたことも、私の数学観の形成に大いに役にたちました。


これまで述べた私がやった活動は、私自身の「一般教養」の再教育であったと言えます。このような「教養教育」が私の数学研究に直接寄与することはなかったと思います。しかし、私の数学研究を支える精神的なバックボーンになったことは確かで、これは私にとっては大変意義のあることでした。このような「自己再教育」のきっかけを与えてくれた「自然科学研究会」には感謝しています。


<数学若手の会>

 以上のことに加えて、もう一つ書いておきたいことがあります。いつの頃からだったか、はっきりした記憶がないのですが、日本科学者会議の中に「数学若手の会」というものがあって活発に活動していました。首都圏に住む若手数学研究者で日本科学者会議の会員である者が中心で、ソビエト科学アカデミー版「数学通論」全四巻(前出)の学習を活動の核としながら、機関誌も発行していました。私は「数学若手の会」に入会し、会の機関誌を購読していたのですが、1980年代のある号に、注目すべき記事が載っていることに気付きました。記事の著者は、山口博巳さんという方で、早稲田大学大学院修士課程を卒業された後、長野高専に勤務しておられました。山口さんは記事の中で、R. Piene の論文(F. Ronga と共著)“ A geometric approach to the arithmetic genus of a projective manifold of dimension three, Topology, 20, 179-190 (1981) “を紹介されていました。私は大学院の修士時代に小平邦彦先生の「代数曲面論」の講義を聴いたのですが、その講義の中で先生が提出された、「代数曲面の正則ベクトル場の層を係数とするコホモロジー群の次元を、通常特異点を持つ代数曲面モデルの数値的特性数を用いて表わす公式をつくれ」という問題(以下、「小平の問題」と呼ぶ)を考えていて、この頃、この問題に関連してささやかな結果を得たばかりでした。小平先生は「代数曲面論」の講義の中で、「通常特異点を持つ代数曲面モデル」を用いて、代数曲面に関する古典的なリーマン・ロッホの定理を証明され、その最後に「小平の問題」を提出されたのです。私は、R. PieneとF. Ronga共著の論文の3次元射影的多様体の「算術種数」に対する「幾何学的アプローチ」の方法により、私が得た2次元射影的多様体に関する結果を3次元の場合に拡張できないかと考えました。「幾何学的アプローチ」というのは、ここでは、「通常特異点を持つ超曲面モデル」を用いることを意味します。私は早速、山口さんと連絡をとり、長野高専を訪ね、いろいろ教えてもらいました。 そして、代数多様体の“通常特異点”が、J. N. Mather のStable maps の理論と関係していること、この理論は、J. N. Matherの一連の論文、“Stability of C∞ Mappings I, II, III, IV, V, VI (1968~1971)”に書かれていることを知りました。J. N. Matherの安定写像の理論は「無限回微分可能」なカテゴリーでの話なので、それまで主として「複素解析的」なカテゴリーで研究をやってきていた私は、J. N. Matherの論文に接することはなかったのです。このJ. N. Matherの安定写像の理論を知ったことが、1986年の私の学位論文「Deformations of locally stable holomorphic maps and locally trivial displacements of analytic subvarieties with ordinary singularities」 (局所安定な正則写像の変形と、通常特異点を持った解析的部分多様体の局所自明な変位) に繋がりました。


ちなみに「数学若手の会」の機関誌でその存在を知った論文の著者の一人、R. Pieneは、ノルウエーの女性数学者で、後々、女性で初めて「国際数学連合(IMU)」の理事を務められた方です。私が1994年から1995年にかけて、ノルウエー科学アカデミーの高等研究センター(CAS)に客員研究員として滞在したのは、もともとは、このPiene の論文を介しての縁によるものでした。


数学研究は孤独な作業で、最後は一人でやりきらないといけないもので、誰も助けてはくれません。しかし、一人だけでは何もできないというのも事実です。「教養教育」と「数学研究」の両面に渡り、得ることの多かった科学者会議の活動には深く感謝しています。


(注記)この文は「50周年記念誌〜誌上交流と活動記録〜」(日本科学者会議鹿児島支部、2019年6月刊)より、転載したものです。


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数学と私

この「自分史」を書き始めたきっかけの一つは、私が大学を定年退職した2009年の2月に、「現象と本質のはざまで −大学教員生活41年をふり返って」と題する最終講義を行った際に、私の元大学院修士課程の学生のKさんが発した次の質問であった:「数学は先生にとって何だったと思いますか?」。退職時の私には、この問いに対してじっくり考えてみる時間的、心理的余裕はなかった。それが可能になったのは、退職後、自由な時間ができてからである。この「問い」について考えることは、私の人生について考えることであった。そして記憶を遡りながら書き始めたのが、この「自分史」であったので、その結びは、このKさんの問いに対する私の「答え」で締め括ろうと思う。私はKさんの問いを三つの異なる問いに分解して考えてみることにする


(1)私の成育過程において、数学は私にとってどのような存在であったか

私が育った家庭環境、社会的背景、大学に進学するまでの学校生活については、この「自分史」の「記憶の始まり」、「新潟の思い出」、「寄居浜迷子事件」、「祖父芳郎のこと」、「長岡の家」、「吉江のこと、母のこと」、「坪井又一さんのこと」、「家族史「断想」−父秀夫と、その次弟 政男さんのこと」、「私の少年時代」、「1961年夏」などのセクションに書いてある。 19世紀最大の数学者の一人であり、近世数学の祖と称せられる、 カール・フリードリヒ・ガウス( Johann Carl Friedrich Gaus、1777 - 1855年)は、ドイツのブラウンシュヴァイクにおいて、煉瓦職人の親方の父親と、慎ましい母親の下に生まれた。両親ともに学問とは全く無縁の家庭環境で育ったにもかかわらず、彼は子供の頃から並み外れた神童ぶりを発揮したと言われている。1796年3月30日の彼の日記には、目覚めてベッドから起き上がる瞬間に、コンパスと目盛りの無い物差し(つまり、ここでいう「物差し」とは、単に線をひくための道具)のみを用いて正17角形を作図する方法を思いついたことが記されている。これは当時としては数学史上の一大発見であった。ガウス19歳のときである。私もガウスと同じく、両親ともに学問とは全く無縁の家庭環境で育ったが、数学上の発見を巡るガウスのような逸話は皆無である。小学校の高学年では、蝶や虫を求めて野山を駆け巡る昆虫少年であった。これは私の小学校3,4年の担任だった吉田英子先生に頂戴した、「趣味のハンドブック−昆虫採集(2版)」(加藤正世著、三十書房、1953年刊)という本の影響が大きかった。中学時代は科学部に属し、真空管ラジオの制作に凝っていた。これは兄の影響による。兄は中学校で無線通信に詳しい先生と出会い、真空管ラジオの制作を始めた。兄は高校時代には「無線部」の部長をしいて、モールス符号による無線通信(いわゆる「アマチュア無線」)にも凝っていた。大学は工学部の電気工学科に進み、東京三鷹に本社があった「日本無線」に就職した。この兄の軌跡は、5年制の長岡工業高校を中退し、「トンツー」の電信技術を学ぶ「逓信講習所普通科」を卒業した、私の父の後を継ぐものであったと云える。


私の父は今で云うところの中学校卒、母は小学校卒相当の学歴の持ち主であったが、家では「子供の科学」という、小学校高学年・中学生向けの科学雑誌を購読していたから、一般の庶民の家庭よりは、子供の教育には熱心だったと思う。母がときどき、算数に関しては学校の授業に先んじて、新しいことを教えてくれることもあった。「時間の計算」などがそれである。父母参観の際に、みんなの前で母に教わったその計算術を披露して、先生を驚かせたことがあった。参観に来ていた私の母は鼻高々であっただろう。私は小学校4年生のとき、父に頼んでソロバン塾に通わせて貰ったが、これは計算を間違いなく、迅速に遂行するうえでは効果があったと思うが、数学的思考と関係があったわけではない。


そもそも「数学」という言葉は、我が国最初の学会ともいうべき「東京数学会社」の内部委員会の検討を経て、1882(明治 15)年に Mathematics の訳として採用されたものであった。Mathematics の語のもとになったギリシャ語の原義は「学ばるべきもの」と云う意味であり、古代ギリシャ社会においては、それが意味するものは、「算術」、「幾何学」、「音楽」、「天文学」であった。ここでいうところの「算術」は「計算術」を意味でするものではなく、今でいう「初等整数論」に相当するものであった。ドレミファソラシドの音階には「ピタゴラス音階」という名前が付いているように、この音階は古代ギリシャの数学者、ピタゴラスが作ったものであるという。「音程」や「和音」は音の周波数の比と関係しており、ここにおいて「初等整数論」と「音楽」が関係してくる。「幾何学」を意味する英語の「geometry」は「地面・地球を測る」という意味であり、「幾何学」はその発祥において、土地の「測量術」と密接に関係していた。天体の動きを知ることは、農耕生活と密接に関係していたので、「天文学」は実用上重要であった。古代西洋人は幾何学的モデルを通して「天体現象」を考えたので、円や球を扱う「幾何学」は「天文学」とも密接に関係していた。


振り返ってみると、私は小・中・高の学校生活を通して、「数の不思議」に目覚めることはなかった。数学に関して特に私の記憶に残っているのは、中学校のときに習った「2次曲線」である。一定の長さの一本の糸の両端を、それぞれの先端に結び付けた2本のピンをノートに突き刺し、その糸に鉛筆の芯をひっかけて図形を描くといろいろな形の楕円ができた。それが私には面白く感じられた。古代から中世にかけての理論的な数学と云えば、「数論」と「幾何学」の二つである。近世における「代数学」、「微分積分学」の誕生によって、この両者は互いに結び付けられることになるのだが、現代における「純粋数学者」は、「数論系」と「幾何学系」に二分されるように思われる。フランスには19世紀初めにナポレオンによって創設された「パリ工芸学校(Paris Ecole Polytechnique)」があり、ここからは数学を用いた自然現象の解明や、数学の工学への応用を目指した数学者が数多く輩出した。現代で云うところの「数理解析学」の源流はここにある。「純粋数学」という言葉は、この「数理解析学」もしくは「応用解析学」に対して用いられる言葉である。数学を大雑把に、「数論」、「幾何学」、「数理解析学」の三つに区分したとき、私の幼少時代の数学に対する嗜好は「幾何学」にあったと云えると思う。


中学校に入ると数学が苦手な人が増える。これは小学校のときの算数に比べて、内容がより抽象的、論理的になるせいであると思われる。論理的な思考が苦手な人には数学が苦手な人が多い。私は、数学には覚えないといけないことが少なく、原理・原則を理解してしまえば、後は論理的に考えることによって結論に到達することができるので好きだった。考え続けて最後に問題が解けたときの喜びもあった。試験の点数もよかったので、おのずと自分は数学が得意という意識が出来上がっていったと思う。


私は高校では「数学部」の部長を務めていた。しかし、高度な理論的な数学を勉強していたわけではなく、高々難しい受験数学の問題を解いていた程度のことであった。私の高校では2年生になると、理系コースと文系コースにわかれたが、私は迷わず理系コースを選択した。文系コースではなく理系コースを選択したこと、「物理部」、「化学部」、「生物部」、「地学部」ではなく、「数学部」を選択したことに、私の嗜好が現れている。しかし、これは多分に偶然的なことであったと思う。人間や社会や自然に関する当時の私の知識は限られており、背後に深い思索があったわけではない。


(2)私が数学の教育者・研究者としての人生を選択するに至ったいきさつはどのようなものであったか

この問いに対する私の「答え」は、この「自分史」の「駒場での生活」、『「進学振り分け」の頃』、「学部生の頃」、「大学院生の頃」のセクションを読むことによって理解して頂けると思う。率直に云えば、私が自分の人生について考え始めたのは、大学に入ってからであった。私の高校時代は、いわゆる「優等生」として互いに競争させられ、「優等生」同士、互いに友人として交わることもなく、学校側の管理下に置かれていた。大学に進学することによって、 この抑圧的状況から解放されたという気持ちが強かった。このことにより自分の人生について考える余裕ができたと云える。人生について考えることは、社会の中でどう生きていくかを考えることであるわけだが、当時の私は現実の社会に関する知識は乏しく、私の社会的意識は、はなはだ未成熟であった。他方、自意識だけは人一倍強かった


大学に入学した頃、私は、ノーベル賞作家、ロマン・ロラン(1866-1944年)の「ジャン・クリストフ」(世界文学全集23、24、25、新庄嘉章訳、新潮社、1961年刊)を憑かれるように 読んでいた。ジャン・クリストフの幼年期は、ベートーベンをモデルにしているというが、私が魅せられたのは、芸術家の燃えるような魂の軌跡であった。私が自分の人生に求めていたのは、実利的なものではなく、精神的なものであった。これは当時、私が「実社会」と繋がるチャンネルが狭かったことの裏返しでもあったと思う。漠とした「出世欲」、すなわち「世に出て人々に認められる欲」がまったく無かったと云えば嘘になるが、私は自分自身を見つめ直したとき、早々に「出世欲」を満たす道を諦め、いつしか「学者・研究者」としての道を究める人生に憧れを持つようになっていた。この「学者・研究者」としての道を究める人生を実現する手立てとして私の最も身近にあったものが数学であった云える。数学が私を惹きつけた理由を考えてみると、それは数学が論理的な学問であり、論理的に考えていけば必ず理解できるという、「明証性」にあった。後々、数学の研究に携わるようになってから、論理だけを追っても、なかなか理解できない数学にたくさん出会うことになるのだが、当時はそのような自信を持っていた。また、数学が抽象的な学問であり、数学研究の先に、経験を越えた未知の世界があるのではないかという漠とした期待があった。「学者・研究者」になる一番の近道は、生活と研究時間が十分保証された大学の教員になることであった。そのためには大学院に進学して修士の学位を取得することは必要条件であったから、私はその道を選択した。


私の修士論文は「有理型式の周期行列からなるある空間と、複素射影空間内の超曲面の なす continuous system の local moduli について」であったが、この論文にはネタがあった。私が大学院修士課程に進学した頃、東大数学教室には、P. A. Griffiths のセミナー・ノート 「Some Results on Moduli & Periods of Integrals on Algebraic Manifolds I, II, III」 の青刷りコピーが出回っていて、この勉強会が組織されていた。オーガナイザーは、当時、東大数学教室の助手をしていた、後の都立大学教授の笹倉頌夫さん(故人)であった。私にも声をかけて頂いたので、私はこの勉強会に参加し報告も行った。私の修士論文はこのときの報告を基にしたものである。


私が東大大学院修士課程数学専攻を修了したのは、1968年3月であるが、その前年、1967年の冬に、京都大学数理解析研究所で代数幾何関係の研究集会があり、修士論文をほぼ書き上げていた私にも発表の機会を与えて貰うことができた。私が大学院修士課程を卒業すると同時に、京都大学数理解析研究所の助手として就職できたのは、この研究集会において私の研究発表を聴いていた、同研究所教授・中野茂男氏のお陰であった。



(3)大学に数学の教育者・研究者としてのポストを得たのち、私は数学にどのように取り組んできたか

この問いに対する私の「答え」は、この「自分史」の「京都での5年間」、「鹿児島での生活」、「数学研究の進展」、「学位論文その後」、「ある種の無限小混合トレリ問題」、「オスロでの研究生活」、「オスロ − その後の顛末」、「3次元複素代数多様体のチャーン数」、「私の数学研究と科学者会議」のセクションに書いてある。全体的なアウト・ラインは以下の通りである。


京大数理解析研究所の助手となった私は、私の修士論文の中のオリジナリティがあると思われる部分を学術論文として刊行したいと思い、一年ほどかけて、「Generalized Poincare residu cohomology operator」と題する論文としてまとめた。しかし残念ながら、この論文は種々の事情により学術論文として刊行されることはなかった。この辺のいきさつは、この「自分史」の「京都での5年間」に書いてある。私は大学を定年退職する前年の2007年に、この論文を部分的に含む、総論的・解説的な論文を、鹿児島大学理学部紀要に発表した。「Rational integrals of the second kind on a complex projective manifold and its primitive cohomology, Rep. Fac. Sci. Kagoshima Univ., 40, 1-33」がそれである。この論文は鹿児島大学リポジトリに掲載せれているので閲覧可能であるが、鹿児島大学リポジトリ掲載の私の論文の中で、一番ダウンロード数が多い。今でも研究上の需要があるものと思われる。


私が京大数理解析研究所に助手として就職した当時の京都大学は、いわゆる「大学紛争」の真最中で、大変騒々しい雰囲気の中にあった。私は就職した翌年の1969年4月から京大職員組合の中央執行委員をやらされることになった。この組合活動は私に、社会的存在としての自分自身を見つめ直す機会を与えてくれた。私が「マルクス経済学」と出会ったのは、この組合活動を通してである。私はマルクス経済学を学ぶ中で、史的唯物論の基本命題、「(社会の)下部構造は上部構造を規定する」を知った。


丁度、この頃、私は数学研究において、はっきりした展望が持てないまま、私自身の数学的蓄積(知識と経験)の貧しさを痛感せずにはいられない状況にあった。そのようなとき、たまたま、数理解析研究所の掲示板に貼ってあった鹿児島大学教養部数学教員公募の文書をみた。早速応募したところ、縁あって採用して貰うことができたので、1973年4月に鹿児島大学教養部に講師として赴任した。当時、京大理学部物理学教室に、鹿児島出身の永田忍先生という方がおられた。永田先生とは組合活動を通して知り合ったのだが、先生は鹿児島に赴く私に、「鹿児島は都会だから」と「なぐさめ」とも「はげまし」ともつかない言葉をかけてくれた。地方国立大学における人事のやり方を知らない私の友人の中には、私が組合運動にのめり込んだばかりに、上司の教授に睨まれて辺鄙な土地に左遷されたと思った人もいた。戦前の帝国大学の時代ならばそのようなことはあり得たことだが、当時の地方国立大学の人事は民主化されており、公募による選考委員会・教授会による選考がほとんどであった。当時の数理解析研究所の助手のポストは任期が定められていたわけではなかったが、博士論文につながる学術論文を書かなければという、プレッシャーは絶えず感じていた。博士論文が書けず、また当面書ける見込みもない私にとっては、中央から遠く離れた地方国立大学教養部への転出は願ってもないことであった。


私が鹿児島大学教養部に赴任して先ず取り組んだことは、私自身に対する「人間教育」であったと云って良い。まず、日本科学者会議鹿児島支部に加入して「自然科学研究会」を立ち上げた。また「『資本論』素人学習会」を、組合活動を通じて知り合った、教育学者の清原浩氏と立ち上げ、大月書店の『資本論』四巻本の第一巻を読んだ。これらの研究会を立ち上げた背景には、論理的な明証性を持っているがゆえに確実なものと思っていた数学の「本質」を、自然や人間社会を含む世界全体との関りにおいて考えてみたいという問題意識があったからである。これらの活動の中で、「唯物弁証法」、ないしは「弁証法的唯物論」を学んだ。唯物論は哲学の根本問題、「意識が先か物質が先か」に関係している。意識が先とするのが、「観念論」であり、物質が先とするのが「唯物論」である。「唯物論」には「機械的唯物論」と「弁証法的唯物論」があるが、私は弁証法的唯物論者になった。弁証法も数学と同じく「論理的」なものであるが、数学が論理的であることと意味が異なる。記述された数学の体系が従っているのは「形式論理」(アリストテレスの論理学)である。しかし、数学の研究は、決して「形式論理」に従っているわけではなく、「弁証法的」なものである。ここに至って、記述された数学を理解することと、数学を研究することとの質的な違いを認識するに至った。


ドイツの有名な哲学者、F・ヘーゲル(1770−1831年)は、著書『法哲学』の序論に、「理性的なものは現実的なものであり、現実的なものは理性的である」と述べている。ここで「理性的」とは「理に適う」という意味であろうが、ヘーゲルにとっての「理」は「弁証法的論理」であった。ヘーゲルは「絶対精神」というものを考え、これが現実の世界に現象するとしたが、この「絶対精神」は人間の意識が考え出したものであるから「観念論」である。古代ギリシャの哲学者プラトンも「イデア」というものを考え、「イデア」が普遍的な存在で、現実の世界はそれが一時的に現れた仮の姿と考えたが、これも観念論である。観念論には「主観的観念論」と「客観的観念論」とあって、ヘーゲルもプラトンも客観的実在としての「絶対精神」、「イデア」を考え、それらが第一次的なものとしたので「客観的観念論」である。「主観的観念論」は、一人一人の個人にとってその人が見ている世界が実在であり、他は虚であるとするものである。私の幼少時代、私達は言葉を通じて他の人々と意思疎通をしているが、その実、一人一人の人間それぞれが見ている世界は異なっているのではないかと思ったことがあった。ヘブライ大学の歴史学教授、ユヴァル・ノア・ハラリは、その著「サピエンス全史」のなかで、ホモ・サピエンス(「賢い人」の意、現生人類が属する種の学名)は、ある時期に、主観としての認識だけではなく、他人も同じものを認識しているという認識を持つことによって、虚構を共有する能力を身に付けた。このことは、ホモ・サピエンスが集団としての力を発揮させることに大きく役立ったと述べている。ホモ・サピエンスがネアンデルタール人などの旧人類に打ち勝って繁栄することができたのは、この「虚構を共有する能力」によるものであると述べている。彼はホモ・サピエンスがこの能力を身に付けたことを「認知革命」と名付け、「農業革命」、「科学革命」と並ぶ人類の三大革命のひとつとしている。私は史的唯物論の基本命題、「上部構造は下部構造に規定される」は正しいと考えているので、「唯物論」の立場に立つものである。また、弁証法の三法則、(1)量から質 への転化,またその逆の転化の法則,(2)対立物の相互浸透の法則,(3)否定の否定の法則 も正しいと考えているので、哲学的には「唯物弁証法」の立場に立つものである。人間の思考も、人類の歴史も、科学の歴史も、この法則に従って展開していくであろうことを疑っていない。


鹿児島大学教養部の教員として、教育に関しては、基礎教育科目としての「線形代数学」、「微分積分学」だけではなく、教養科目として「数学論ゼミナール」、「数学原論」を行った。「数学論ゼミナール」では、ソビエト科学アカデミー版「数学通論―数学:その内容、方法、意義―」(遠山啓監訳、東京図書、1958年刊)の第一巻、第一章「数学の概観」を読んだ。ソビエト科学アカデミー版「数学通論」の監訳者の遠山啓さんは、「数学教育協議会」という組織を主宰され、「水道方式」という算数・数学の学習・教育方法を提唱されていた。そのメンバーの一人であった銀林浩さんが書かれた「量の世界―構造主義的分析」(麦書房、1975年刊)を読んだときは「目からうろこ」の気持ちであった。この本は諸科学に現れる多様な「量」の世界をブルバキ流の「構造主義」に基づいて分析している。私はこの本を題材に教養科目「数学原論」という講義をしたが、学生たちも大変興味を持って聴いてくれたと思う。数学が高度に抽象化し、「量」をできるだけ数学から排除しようとする傾向が強まっているとき、一般の人々が、より広い視野から数学に興味を持って学習できるようにするには、このような教育は必要なのだと思う。「『資本論』素人学習会」を一緒にやったことが縁で、鹿大教育学部で行われていた清原浩氏のゼミに参加させてもらい、そこでピアジェの「数量の発達心理学」を学習し、個体(=個人)レベルにおける数学的概念の形成・発達の過程を学ぶことができたことも、私の数学観の形成に大いに役にたった。


数学の修士論文のもとになったのは、P. A. Griffiths のセミナー・ノート 「Some Results on Moduli & Periods of Integrals on Algebraic Manifolds I, II, III」であるが、もう一つ私の数学研究の原点になったものがある。それは私が修士2年のとき、日本人初のフィールズ賞受賞者、小平邦彦先生が東大数学教室で行った、「代数曲面論」と「複素多様体の複素構造の変形論」の講義である。このうち、「代数曲面論」の講義の目的は、「一般型代数曲面」の「多重標準一次系」を用いた射影空間への埋め込みを調べることにあったのだが、講義の前半で、代数曲線の「リーマン・ロッホの定理」に対応する定理が代数曲面 の場合に証明されている。もちろん、この定理は、ヒルツェブルフによる、「一般化されたリーマン・ロッホの定理」から出てくるものではあるが、小平先生は、3次元複素射影空間内の通常特異点のみを持つ超曲面モデルを用いて証明された。 私はこの素朴とも云える「通常特異点のみを持つ超曲面」という幾何学的対象に親しみを感じた。私の生涯に渡る研究はこれを巡るものであったと云っても過言ではない。


小平先生は、代数曲面の「リーマン・ロッホ・ヒルツェブルフの定理」の証明の過程で、代数曲面Xのチャーン数 c2, c1^2を、その正規化がXとなる、3次元複素射影空間内の通常特異点のみを持つ超曲面Yの数値的特性数を用いて表わす公式を導かれた。そして、その証明の最後に、 「代数曲面Xの正則ベクトル場の層を係数とするコホモロジー群の次元を、その正規化がXに等しくなる、3次元複素射影空間内の通常特異点のみを持つ超曲面Yの数値的特性数を用いて表わす公式をつくれ」という問題 (以下、「小平の問題」と呼ぶ)を提出された。1973年、私が京都から鹿児島に移った当初は、この「小平の問題」を考えていて、具体的な計算をコツコツやっていた。1985年の私の博士論文「Deformations of locally stable holomorphic maps and locally trivial displacements of analytic subvarieties with ordinary singularities」(京都大学、論理博第936号)は小平先生の「通常特異点を 持つ代数曲面の局所自明な変位」に関する論文の内容を高次元化したものである。「数学研究の進展」のセクションでも書いたが、私の数学研究の主な成果は、次の三つにまとめられる。

(1)通常特異点を持った複素代数多様体の普遍族の存在 (小平邦彦先生の曲面の場合の 高次元化と大局化) を証明したこと。
(2)(1)の族に付随して現れる混合ホッジ構造の変形族に関する無限小混合トレリの問題のコホモロジー論的な定式化を与えたこと。
(3)通常特異点を持った3次元複素代数多様体の非特異正規化のチャーン数を与える数値的公式 (曲線、曲面の場合の古典的公式の3次元バージョン) を証明したこと。


振り返ってみると、私が数学の教育者・研究者としての人生を選択するに至った初期の段階においては、私は素材としての数学 ―数・図形・空間・代数方程式・関数・確率・統計− ではなく、出来上がった理論体系としての数学に惹かれていたのだと思う。すなわち私を惹きつけたのは、体系としての数学の美しさと論理的明証性にあったのだと思う。ここで「論理的」というのは、「形式論理的」の意味である。他方、「真理」を探究する学者の生き方にロマンを感じていたのも事実である。私には小説を書くように数学の研究をやりたいという漠とした夢を持っていた。それ故ストーリー性のある数学を好んだ。難しいこととは思うが、私の研究成果をできるだけ沢山の人に伝えたいという思いもある。「数学は先生にとって何だったと思いますか?」という問いを発した、私の元大学院修士課程の学生、Kさんの修士論文の表題は、「複素代数曲線の特異点の解消と還元」であった。望むらくは、これに続くものとして、「複素代数曲面の特異点の解消と還元」という表題の本を執筆したいと考えている。これが実現すれば、私の研究の出発点となった、東大数学科修士課程のときに聴講した、小平邦彦先生の「代数曲面論」への回帰を果たすことなる。これには広中平祐先生の「特異点の解消理論」を完全に理解することが必要である。今後の課題である。



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おわりに

 

いつの頃からか、私は朝日新聞紙上に月一回掲載される、加藤周一氏(1919 −2008 年)の「夕陽妄語」と題するエッセイを読むことを無上の楽しみとするようになっていた。簡潔にして要点を抑えた文章で、何よりも論理的で説得力があっ た。その行間からは、氏の奥深い教養の香りが立ち昇っくるのを感じた。私は氏が、2004 年に発足した「憲法九条の会」の呼びかけ人として、井上ひさし氏、大江健三郎氏、小田実氏、澤地久枝氏らとともに名を連ねていることは知っていたから、「夕陽妄語」を楽しむようになったのは、それ以後のことで、私の定年が 間近かな頃であったと思う。私は「かごしま9条の会」の会員であった。


私は定年退職後、氏が書かれた「自分史」、「羊の歌−わが回想−」(岩波新書F96、第49 刷、2009 年2 月刊、第1 刷は1968 年刊)、「続羊の歌−わが回想−」(岩波新書F97、第35 刷、2009 年1 月刊)を読んでみた。「夕陽妄語」の著者・加藤周一氏はどのような人生を歩んでこられた方なのか、知りたいと思ったから である。加藤氏は1919 年の生まれであるから、私よりも二回り上の未年である。私の「自分史」に「小羊の歌」という題名をつけたのは、加藤氏の「自分史」の題名にあやかったものである。


「羊」という言葉から、私が先ず思い浮かべるのは、羊飼いに導かれて移動する「羊の群れ」である。そこから「従順」という言葉が連想される。家族の歴史を振り返ってみたとき、権力に抵抗することも、社会的矛盾に憤ることもなかった(ようにみえる)私の父の姿は、「羊」に例えられるのではないかと思えて来 た。「小羊」もしくは「仔羊」という言葉が、キリスト教徒にとって特別な意味を持つことを知ったのは後々のことである。


私の父方の祖父は農家の5 男として生まれ、明治という日本の近代化の時代に青年期を過ごした人である。東京に出て物理・数学を学び、身に付けた測量技術で職業人として生きた人であったから、「近代人」と云えるだろう。私の父は、明治の「近代化」がもたらした中国・西欧列強との戦争に、一国民として駆り出さ れた世代である。その戦争が無条件降伏で終わり、日本はアメリカに占領され、アメリアの従属国となった。日本は日米軍事同盟を基軸とする日米安保体制のも とで、「高度経済成長」を成し遂げた。私の青年期はこの時代と重なっている。日本のバブルがはじけ、低成長期に入ってから、もう40 年以上が経過したが、今、日本は転換期を迎えていると思う。世界は対立と分断の時代にあり、世界のあちこちで戦争が起きている。このような時代に、私たちは「国」という組織をあらためて考え直してみる必要があるのではないか。人類史の一部として、私たちの歴史を見る視点も重要であると思う。「文明とは結局、人の知徳の進歩と云うて可なり」という福沢諭吉の言葉は現在も生きている。人の「知徳」の進歩を促す うえで、教育の重要性はいくら強調してもしすぎることはない。


最後に家族に対して一言。妻久子は、多くの人に助けられながら、職業人として「働き続けること」を貫いたから、経済的に自立しており、おかげで、私は家庭の経済面で煩わせられることはなく、自分のやりたいことを好きなようにやることができたから、感謝の一言に尽きる。子供たちに対しては、青年期において 向き合って語り合うことが出来なかったことが反省点である。しかし、これは難しいことで、私も少年期後期、青年期において、父母と人生について語り合うことはまったくなかったから、致し方のないことであった。孫たちには、二世代上の私の知識・経験は役に立たないと思う。「歴史意識」と「国際感覚」を身に付けて、自らの力で新しい世界を切り拓いていって欲しい。   


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