はじめに

先ず自己紹介を少し。私は1943(昭和18)年の生まれで、大学に進学して東京に出るまでは新潟県で育った「元新潟県人」である。その後、1973 年、鹿児島大学に職を得たので、鹿児島に来てそのまま住み着き「鹿児島県人」となった。私の妻は1942(昭和17)年の生まれで、育ったのは滋賀県である。二人は京都 大学に勤務していたときに知り合い、1970 年に結婚した。


このページの第一部は「越後と薩摩」の「比較地域文化」がテーマである。 私はこれまで、新潟、東京、京都、鹿児島と、歴史、文化、気候・風土が異なる土地を巡ってきたので、それぞれの土地の文化を比較して見ることが習慣化している。 日本を「東文化圏」と「西文化圏」に分ける見方があるが、越後出身の私と近江出身の妻との結婚は、まさに「異文化」の出会いであった。このこともこのような テーマを考えるきっかけになっていると思う。このページの内容は以下の通りである。


第一部の1. では、越後と薩摩の気候・風土を比較して書いた。私は2009 年に大学を定年退職したが、その後、自由な時間が増えたので、「鹿児島県の歴史散歩」(鹿児島県高等学校歴史部会編、山川出版)を買い求め、この本に導かれて興味が赴くままに鹿児島県内の史跡を訪ね歩いていた。そして、15 世紀の中ごろに越後まで旅をした薩摩人がいたことを知った。これがきっかけで、薩摩と越後の歴史をその関係性を中心に調べるようになったが、第一部の2. は、この過程で得た知識をまとめたものである。


明治の中頃、鹿児島にやってきて「薩摩見聞記」を著した、本富安四郎(1865 −1912 年)という新潟県人がいたことを知ったのは、私が鹿児島にてすぐの頃で、地方紙「南日本新聞」に載った記事によってであった。「薩摩見聞記」は、歴史学、地域史、民俗学の研究者には良く知られた文献であり、2016 年に鹿児島県 の「明治維新150 周年記念事業」として出版された『明治維新と郷土の人々』には、その内容の一部が紹介されている。この本富安四郎が私の母校、新潟県立長岡高校の大先輩であり、しかも長岡高校の前身の長岡学校、長岡尋常中学校、長岡中学校(旧制)の教師であったことを知ったのは2000 年のことであった。さらに、彼が鹿児島にやってきた「いきさつ」を知ったのは、2020 年のことであった。安四郎が長岡高校の第一校歌の詞の原作者であることに気付いたのは、さらにその後であった。長岡高校の創立150 周年にあたる2022 年直前にこのようなことが明らかになったことに、私はなにかしら因縁めいたものを感じたのである。そこで、本富安四郎について何かしら書き残しておきたいと思い、書いたのが第一部の3.の文章である。幕末期から明治期にかけて薩摩にやって来た越後人は他にもいたが、第一部の4.は、その一人である、薩摩藩・開成所英語教授・巻退蔵(=前島密)について書いたものである。第一部の5.では、「県民気質」と 「数学文化」を中心に、薩摩と越後の比較「地域文化」について述べた。


本富安四郎は、鹿児島県・宮之城(現・さつま市)の盈進(えいしん)尋常高等小学校の教員・校長として2年半ほど鹿児島に滞在した。「薩摩見聞記」には、薩摩人士の科学・数学に対する態度について書いている部分があり、数学の教育・研究者である私は、この記述に特に興味を持った。江戸期の日本には、「和算」という、世 界に類をみない独特の数学文化があったが、明治維新により日本の近代化が推し進められたことにより、「西洋数学」に置き換わっていくことになる。第二部は 「西洋数学と和算」をテーマにしている。当初、この部分は「越後人・本富安四郎の『薩摩見聞記』および私自身の「家族史」を通して日本の近代化を考える」をテーマにして書くつもりであったのだが、これは次の機会に譲ることにする。   



             
第一部 越後と薩摩


 
1.薩摩の歴史・気候・風土
    
越後と薩摩の気候・風土


はじめに、越後と薩摩の自然、気候、風土を比較することから始めよう。今から42年前の1973年(昭和48年)春に、初めて鹿児島にやって来たときの第一印象は、 「鹿児島(市)は坂の多い町だなあ」というものであった。最初に住んだのは、伊敷の鹿児島女子高のすぐ近くにあった国家公務員合同宿舎である。妻と一歳になったばかりの 娘を京都に残しての単身赴任であった。夜になると明和方向の丘の斜面に沢山の明かりが灯り、キラキラ輝くのが見えた。新潟にいた時、5歳から18歳まで住んだ長岡は、 4キロメートル程離れたところまで、500メートル〜700メートル級の山々(東山丘陵)が迫っているとはいえ、町自体は極めて平板な地形の上にあり、変化に乏しかったので、 鹿児島のような坂のある町は好ましく思えた。丘の斜面に這いつくばるように町が広がっている風景は異国情緒さえ感じさせてくれた。程なくして、鹿児島市は平地が少なく、 人口の増加とともに、多くの新興住宅地がシラス台地の丘陵に開発されていることを知った。翌1974年(昭和49年)春に建売住宅を買い、半年遅れで鹿児島に やって来た妻と娘とともに住むことになるのだが、そこもそのような新興住宅地の一つであった。

 

伊敷の公務員宿舎の庭先には、何種類もの名も知らぬ草々が小さな花を沢山つけていた。その色彩の豊かさに、「さすがに南国」と思ったものである。
県の木「カイコウズ(海紅豆)」 (アメリカディゴ)(花言葉:夢・童心)
ブーゲンビリヤ(花言葉:情熱) 、 ハイビスカス(花言葉:新しい美・勇敢)等の色鮮やかな南国の花々を知るのも程ないことである。これらの花の色の鮮やかさは、南国特有のもので、人々の心を浮き立たせて くれるものがある。南国の明るさはこの辺から来ているのだと思う。

 

他方、亜熱帯地方にある鹿児島では、メリハリがきいた四季の変化を感ずることは少ない。のっぺりと季節が推移して いくように感じられる。まず、桜の季節。鹿児島にも桜の名所はあり、また、街路樹としても沢山植えられているので、春になると人々はお花見を楽しむが、鹿児島の桜は大木というのがほとんどない。だから鹿児島の桜の季節は控えめに過ぎ去って しまう。鹿児島の桜は、気候・虫害等の関係で大きく育つことが出来ないのではなかろうか? 次に紅葉の季節。鹿児島の町の街路樹はクスノキ、クロガネモチ、イヌマキ等の常緑樹が多いせいもあるが、 街全体が紅葉に色づくということはない。ところどころ黄色に色づいた銀杏の木は見かけるが、紅色に色づいた木々を街中で見かけることはほとんどない。こんな状態なので、本土で一般的な 紅葉の季節は鹿児島にはないと言っても過言ではないように思う。


私が鹿児島にやって来た1973年当時の桜島は活動期にあり、時々噴煙を上げ、灰を鹿児島市街地に降らせていた。伊敷の宿舎から空を 見上げていると、黒い雲が桜島方面からこちらに向かって流れて来た。しばらくすると、パラパラと音を立てて灰が降って来て辺り一面薄暗くなった。このようなことがしばしばあった。 その頃、桜島が大爆発する夢を良くみた。逃げても逃げても噴石が後を追ってくる夢である。うなされるようにして目を覚ますのが常であった。数年すると、さすがにそのような夢はまったく 見なくなった。鹿児島を含む南九州の独特の景観は、何万年、何十万年、何百万年に渡る火山活動が作り上げたものであるということ、火山の近くに住んで生活を紡ぎ、文化を築いてきた 人々の歴史に思い至るようになったのはつい最近のことである。

 

郊外に出かけた時の景観は、新潟と鹿児島では全く違うのだが、鹿児島には一か所だけ私が生まれ育った、ふるさと新潟を思い起こさせてくれるところがある。それは大隅半島の鹿屋から 高山町方向に進んだ肝付川流域の風景である。なぜだろうかと考えてみると、それは川と水田と遠くに見える山並みのせいであることに気付いた。調べてみると肝付川は一級河川なのである。 鹿児島県の一級河川は他には、霧島の北麓に源を発し、東シナ海に注ぐ川内川しかない。川内川は鹿児島県の北部を流れているので、南部に住む私が見る機会はほとんどないのである。


大きな川が存在するためには、水源と水域が必要である。鹿児島県に大きな川が少ないのは、高い山と広い平地が少ないせいだと思う。特に県南西部の薩摩半島はそうである。歴史をひも 解くと、古代、大和朝廷の勢力が南九州に入り込んで来たのは、大隅半島の肝付川下流域からであって、この辺りには古墳も数多く発見されている。他方、新潟県には信濃川、阿賀野川 (上流は只見川)、荒川、関川、姫川の五つの一級河川がある。これは新潟県が南北に長く、背後に高峻な山脈が控えていることによる。新潟が米の生産県として発展したのは、このような 自然条件に起因しているのである。ちなみに、平成25年のお米(水稲)の都道府県別収穫量は、664,300トンで新潟県が全国1位、鹿児島県は114,900トンで、佐賀県、岐阜県、大分県についで 全国28位である。 ちなみに、お隣の宮崎県は、93,600トンで全国31位である。人口は平成25年で、新潟県が233万人、鹿児島県が168万人である。


最後に、参考までに新潟県と鹿児島県の月別、降水量、最高、最低、平均気温(統計期間:1981年〜2010年)を示す表を掲載しておく。新潟県が11月、 12月、1月に降水量が多いのは降雪、または雪交じりの雨による。鹿児島県が6月、7月に降水量が多いのは梅雨前線の停滞と、南から湿気を含んだ空気が大量に入り込んで来ることによるものと思われる。新潟県の年平均気温は13.9℃、年降水量は1821.0mm、 鹿児島県の年平均気温は18.6℃、年降水量は2265.7mm である。

左図 新潟県、右図 鹿児島県 (左軸 気温 単位 ℃、 右軸 雨量 単位 mm)

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海の道

 

鹿児島に住み着いて42年になるが、幼少時代を雪深い新潟で過ごした私が強く感じているのは、鹿児島と海との 繋がりについてである。新潟県も日本海に接しているし、私が5歳の春まで住んだ新潟市は、信濃川の河口に開けた港町であるが、海との繋がりを特に意識することは なかった。小学校時代から高校時代を過ごした長岡市は、海よりも山を意識させる土地柄であった。


私が鹿児島と海との繋がりを強く意識するのはなぜだろうか? つらつら考えてみるに、理由の一つは、鹿児島は北の地方(北薩地方)を除けば、薩摩半島、大隅半島 という二つの半島からなっているせいではないかと思う。 半島は三方を海に囲まれていることもあって、そこに住む人々に海を身近なものに感じさせてくれる。 私が住んでいる鹿児島市のシラス台地からは、桜島が浮かぶ錦江湾(内海)が見えるし、車を駆ると30分ほどで、東シナ海に面した吹上浜に到達できる。フェリーで対岸の 大隅半島に渡ると、太平洋岸までは車で1時間30分ほどである。


もう一つの理由は、鹿児島には沢山の島があるせいではないだろうか? ここで地図を取り出して眺めてみる。 鹿児島本土の南西方向に大小さまざまな島が弧を描いて沖縄本島まで延びていることがわかる。硫黄島、口永良部島、種子島、屋久島、トカラ列島、奄美大島、徳之島、 沖永良部島、与論島等の島々である。沖縄本島の先は、久米島、宮古島、石垣島、与那国島と続き、日本最西端の島、与那国島と台湾とは目と鼻の先である。あたかも 海上の道が鹿児島本土から南西方向に向かって台湾まで伸びているように見える。これらの大小さまざまな島々を、「島嶼(とうしょ)」というらしい。 「島嶼(とうしょ)」という言葉は鹿児島に来て初めて知った言葉であった。


ここで、あらためて世界地図を取り出して眺めて見る。すると私が思っている以上に、台湾とフィリッピンとはすぐ近くであることが わかる。その先は、インドネシアの島々とマレー半島である。これらで囲まれた海が南シナ海で、南シナ海はマラッカ海峡を経てインド洋に通じている。


目を鹿児島の西方および北西の海に転じてみる。すると、そこには甑島があり、長島がある。長島のすぐ隣は天草で、天草の島々を 北上すると、五島列島、平戸島、壱岐、対馬、済州島(韓国)がある。これらの島々は、鹿児島から北部九州、朝鮮半島に通じるもう一つの海の道といえるのではないだろうか?


歴史的にみると、これらの海の道は新しい文化の伝播経路であった。鹿児島では、薩摩芋を「サツマイモ」とは呼ばない。 「唐芋(カライモ)」もしくは「琉球芋」というそうである。「サツマイモ」という呼称は、沖縄、鹿児島以外の本土の人々が使っている呼称なのだ。この事実も鹿児島に来て 初めて知ったことであった。調べてみると、「サツマイモ」の原産地は南アメリカ大陸、ペルー熱帯地方とされる。スペイン人或いはポルトガル人により東南アジアに もたらされ、ルソン島(フィリピン)から中国を経て1597年に宮古島へ伝わり、17世紀の初め頃に琉球、鹿児島、九州、その後、八丈島、本州へと伝わったという。「サツマイモ」は、 鹿児島の南西、西方、北西に延びる海の道により、日本に伝播した典型的なモノに思える。


1543年、種子島に漂着した中国船に乗っていたポルトガル人によって鉄砲が伝えられ、戦国時代の日本に多大な影響を与えたことは誰でも 知っていることであろう。東シナ海を航行していた船は度々難破し、鹿児島の南西に延びる島々に漂着したのである。古代においても、仏教の戒律を日本に伝えた中国の僧、鑑真は、 度々の渡海の失敗の後、752年、薩摩坊津の秋目に上陸している。当時、坊津は博多、津(伊勢)と並ぶ、日本三津の一つであった。


日本にキリスト教を伝えたイエズス会の宣教師、フランシスコ・ザビエルは、マラッカで出合った薩摩の人、ヤジロウ、−ヤジロー、 または当時の音韻からアンジロウ(アンジローとも)、洋風にアンジェロ(天使の意)とも言われる− の手引きで、1549年に鹿児島湾奥の現・鹿児島市祇園之州に上陸している。 そして、伊集院城(一宇城、現・鹿児島県日置市伊集院町太田)で守護大名の島津貴久に謁見している。ヤジロウの素性は定かではないが、ザビエルが書き残したものによれば、 薩摩もしくは大隅の人で、誤って人を殺め、薩摩半島最南端の山川に来ていたポルトガル船に乗って、マラッカに行き、そこでザビエルに出合ったという。一説には、 ヤジロウは貿易に従事する人であったともいう。その後、ザビエルに導かれてインドのゴアに渡り、その地で日本人として初めて洗礼を受けたという。

最後に、海の道による朝鮮からの文化の伝播について記しておく。鹿児島には薩摩焼という焼き物がある。 白薩摩と黒薩摩とあるなかで、 白薩摩は白地に細やかな文様を紅や金粉を使って描いた華やかな焼き物である。この焼き物は、1598年、豊臣秀吉の二度目の朝鮮出征(慶長の役)の帰国の際に、薩摩の戦国大名、 島津義弘によって連行された朝鮮人陶工によってもたらされたものであるという。その子孫の沈家は、日置市美山(みやま)に工房を構え、その技を現在に伝えている。


古来、鹿児島は海の道を通して、中国、東南アジア、西洋、朝鮮等の外国との交流が深い土地柄であったと言うことができるであろう。 鎖国が実施された江戸時代においても、薩摩藩は琉球王国を支配下におき、琉球王国を介して中国(清国)、東南アジアと交易を行っていたのである。


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鹿児島人はどこから来たのか?

 

現在は休止状態にあるようだが、「かごしま自由大学」というものが有り、数年前、そこで「鹿児島人はどこから来たのか?」という連続講演が あったので聴きに行った。 中村明蔵氏(元鹿児島国際大学)が歴史学の立場から、8世紀の初め、中央政権である大和朝廷に対して反乱を起こした鹿児島の先住民、隼人(はやと)について 語られた。また、ベトナム、ラオスに度々赴き現地調査を行っておられる川野和明氏(黎明館学芸員)が、民俗学の立場から、それらの地域で暮らす人々と南西諸島(鹿児島から種子島、屋久島、 奄美大島、沖縄本島を経て台湾まで続く大小様々な島々のこと、前稿、「海の道」を参照)で暮らす人々との習俗、文化の類似性について語られた。川野氏は、ご自身の研究に基づき、鹿児島人は この海の道を通って南から来たと信じて疑わないということであった。


ところで、「鹿児島人」という言葉は日常、あまり耳にすることはないが、何を意味するのであろうか? 常識的には、先祖代々鹿児島に住みついて 来た人々の末裔ということであろう。確かに、それぞれの「地域」には、それぞれの風土の中で長い時間をかけて形作られてきた独特の文化がある。中でも顕著なのは、食べ物や言葉遣いや習俗で あろう。気質というものもそれに含まれるかも知れない。


しかし、人類学的、遺伝学的にみたとき、「鹿児島人」に特有な形質を特定することは可能なのであろうか? 近年、DNAゲノム解析の技術は非常に 進歩しているようであるが、このような研究については聞いたことがない。 そもそも、先祖代々鹿児島に住んでいる人達の中に、古代の「隼人」にまで繋がる血筋の人々はどれくらいいるので あろうか? 素朴な疑問であるが、これらの疑問に答えることは大変難しいことであろうことは十分想像できる。


1986年(昭和61年)に、鹿児島湾(錦江湾)奥の海を目の前にした、国分市(現・霧島市)の標高250mのシラス台地に工業団地を造成中、大規模な 縄文時代の集落跡が発見された。現在は整備されて、「上之原縄文の森」公園となっており、中にはミュージアムがある。


その後、10年程かけて発掘調査が行われた結果、この遺跡は近世から縄文時代早期前葉までの遺跡群を含む複合遺跡であることがわかった。特に 遺跡群の最下層である、9500年前の桜島噴火の火山灰層の下からは、当時において日本列島で最古の大規模な定住集落跡(竪穴式住居跡52軒)が発見された。この地層は約一万年前から4000年ほど 続く縄文時代早期の前半に位置づけられるものであり、貝殻文様の土器(貝文土器)多数、集石遺構39基、連結土穴(煙道付炉穴)16基、道跡2本が姿を現した。集石遺構は石蒸し料理に、 連結土穴は肉の燻製に用いられたと考えられている。


この遺跡では、さらに9500年前の桜島火山灰層と7500年前の桜島火山灰層の間の地層から、総数約10万点の遺物が出土した。その中には装飾性に すぐれた文様を持った土器や土製耳飾り、土偶、一括埋葬された、「丸のみ形石斧」の技法を受けついだ磨製石斧大小65個、地面に埋められた状態での一対の壺形土器等が含まれており、当時の 人々の豊かな精神生活がしのばれるものであった。これらの発見は、「縄文文化は東日本で栄えて西日本では低調だった」という、それまでの常識を覆すこととなった。


ここで「丸のみ形石斧」とは、丸木舟を刳り抜くのに用いられたと思われる石器で、鹿児島県内では、縄文時代草創期(約一万3000年前〜一万年前) の遺跡として有名な加世田市(現・南さつま市)の栫ノ原遺跡や鹿児島市掃除山遺跡,志布志町東黒土田遺跡,さらに縄文時代早期後半(約7,000年前)に相当する鹿屋市前畑遺跡,種子島の 西之表市立山遺跡、奄美本島等で出土している。他にも南は沖縄本島、北は長崎県五島列島で発見されており、この時代に「海の道」に沿って、一つの文化圏が存在していたことが推定される。


最近、児童向けの本ではあるが、「NHK日本人―はるかな旅(2)巨大噴火に消えた黒潮の民―南からきた日本人の祖先」 (馬場悠男・小田静夫監修、NHKスペシャル・「日本人」プロジェクト編集、笠原秀構成・文、あかね書房、2003年刊)という本があることを知った。この本で扱っているのは、上述の鹿児島の 上野原台地で暮らしていた縄文人のことであると思われる。ここでいう「巨大噴火」とは、およそ7300年前にあった、鬼界カルデラ(薩摩半島の南50kmの海底にあるカルデラで、その北縁には 薩摩硫黄島、竹島がある)の火砕流を伴う大噴火のことで、その時の火山灰(アカホヤ火山灰)は、遠く北陸、東北地方や朝鮮半島南部でも確認できるという。

   

鹿児島の先住民、隼人もまた、南から「海の道」を通ってやって来た海洋民族の末裔なのであろうか? その可能性は十分ある。


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新・海の道

 

日本民俗学の父と言われる柳田国男(1875−1962)の生涯最後の本に、「海上の道」(筑摩書房、1961年刊)という本がある。現在は岩波新書としても 出版されている。柳田は、最初の移住は漂流・漂着であったとしても、宝貝(古代、貨幣や装身具等の材料として珍重されたコヤスガイ、ヤコウガイ等の巻貝)の魅力にひかれて中国大陸から南西諸島にやって 来た人々がおり、これらの人々によってイネが日本に伝えられたと考えた。南方からイネを伝えた海の道があったというのである。日本民族と稲作とは不可分な関係にあり、イネがなければ 日本民族は成立しないと考え、その稲作は南方からやって来たという確信は、柳田の生涯変わらぬ信仰に近いものであったという。


しかし、この考え方に対しては、言語学、歴史学、とりわけ考古学の立場から強い反対があったという。稲作文化は弥生文化と結びついており、 弥生文化は一方的に九州から沖縄本島にまで南下しており、逆に北上する文化の痕跡は認められないというのである。私が昔習った日本史でも、紀元前3世紀中頃に水田稲作の技術を持った人々が 中国や朝鮮半島から北部九州にやって来て、そこから水田稲作が日本全国に広まったということであったと思う。もっとも、水田稲作の開始をもって弥生時代の始まりとみなすと、弥生時代の 始まりは紀元前8世紀まで遡るという最近の研究(「弥生時代の歴史」、藤尾慎一郎著、講談社現代新書、2015年刊)もあるようである。これは遺物に残された炭化物中の炭素14の量を用いた年代の測定が より精密にできるようになったことと、この方法により導かれた炭素年を私たちが認識できる暦年代に換算する較正(こうせい)年代法が進歩した結果であるという。


柳田の「海上の道」の学説は、学会で完全に否定されたかにみえた。にもかかわらず、その後の展開はいささか違うようである。


柳田の問題意識は、「日本人はどこから来たのであろうか?」ということと共に、「日本民族と不可分の関係にあるイネがどこから来たのか?」と いうことであったと思われる。このことに関連して、「NHK 日本人 はるかな旅(4)−イネ、知られざる一万年の旅、大陸から水田稲作を伝えた弥生人」 (馬場悠男・小田静夫監修、NHKスペシャル「日本人」プロジェクト編集、笠原 秀構成・文、あかね書房、2003年刊)という本がある。様々の学問分野における、それまでの研究成果を総合して、 一つのストーリーとして書かれているので、児童向けの本ではあるとはいえ、なかなか興味をそそられる本である。この本により、稲作伝播の歴史を概観しておこう。ポイントは「水田稲作」と 「稲作」は同じではないということである。


イネにはジャポニカ種とインディカ種があることは私も知っていた。しかし、ジャポニカ種に熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカがあることは、この本 で初めて知った。熱帯ジャポニカは背が高く、稲穂も長いが穂の数は少ない。温帯ジャポニカは背が低く、穂も短いが穂の数が多い。DNA分析によれば、熱帯ジャポニカの方が温帯ジャポニカよりも 古いことがわかっているという。


イネは紀元前1万年頃、長江(揚子江)中流域で栽培されるようになったと考えられている。世界最古のモミは、長江中流域の玉蟾岩(ぎょくせんがん) 遺跡でみつかっている。長江下流域、中国浙江省の河姆渡(かぼと)遺跡は紀元前5000年頃の遺跡であるが、そこで見つかった炭化米は熱帯ジャポニカであった。河姆渡(かぼと)の民は高床式 住居に住み、稲作を行うとともに、海に出て漁もしていた。河姆渡(かぼと)遺跡からは移動式のかまども出土しているという。紀元前3000年頃には、長江下流域の稲作地帯で、天然の湿地や 天水田にかわって、水田が見られるようになる。水田を作るには、高い土木技術、水利技術が必要である。水田という新しい環境のもとで、熱帯ジャポニカのイネは、遺伝的に新しいイネ (温帯ジャポニカ)に生まれ変わっていったと考えられている。紀元前11世紀から紀元前10世紀には、水田稲作の技術は朝鮮半島南端にまで達していた。ちょうどその頃、日本列島は寒冷化に 向かい、食糧危機に陥っていた。


日本の対馬にヒトが住み始めたのは、紀元前10世紀の後半(縄文時代後期)以降のことである。現在、対馬の神田で栽培されている古代米は熱帯ジャポニカで あるが、これを伝えたのは、河姆渡(かぼと)の民のような、長江下流域の東シナ海沿岸の漁民ではなかったかと考えられている。すると、イネは紀元前10世紀の後半には日本に伝えられていた ことになる。河姆渡(かぼと)の民が伝えたかもしれない潜水漁の伝統は今でも対馬の人々に受け継がれているという。


韓国南部の慶尚南道・釜山市にある勒島(ろくとう)遺跡からは、九州北部に住む縄文人との交流を裏付ける遺物(縄文土器)が出土している。 また、韓国東三洞貝塚からは、大量の縄文土器とともに、佐賀県伊万里市産出の黒曜石がみつかっている。これらの事実は、縄文時代において九州北部の縄文人と韓国に住む人々の間に交流が あったことを裏付けている。

   

1979年に、紀元前600年頃の縄文晩期の遺跡である、唐津市菜畑遺跡が発見されたが、そこで水田の遺跡が見つかった。そこに住んでいた縄文人が 朝鮮南部に渡り、水田稲作の技術を学んで持ち帰ったものと考えられている。つまり、水田稲作は縄文時代の晩期には行われていたことになる。ここでのイネは温帯ジャポニカであった。


ところで、「プラントオパール分析法」というものがある。プラントオパールとは、イネをはじめ、ムギ、ヒエ、アワ、トウモロコシなど、イネ科の 植物に含まれるガラス質(硅酸体)の細胞膜のことである。ガラス質のため、イネ科の植物が腐って消えてなくなっても、土の中に残るのである。このプラントオパールを土の中から検出して、 その形によって、イネ科のどの植物かを明らかにすることを、「プラントオパール分析法」という。この方法により、岡山県、島根県、鹿児島県にある9ヶ所の縄文遺跡でイネのプラントオパールが 見つかった。このことは、日本の縄文時代に、広い範囲でイネが栽培されていたことを示している。これらの縄文遺跡から見つかったイネのプラントオパールは、熱帯ジャポニカのものであった。


イネがどのような経路を通って日本に伝わったのかについては、これまで、朝鮮半島経由説、中国からの直接渡来説、 海上の道=南島経由説の三つの説があるという。しかし、これらの説は、「水田稲作と水稲(温帯ジャポニカ)」を前提したもので、「焼畑稲作と熱帯ジャポニカ」を意識したものでは ないという。植物遺伝学者の佐藤洋一郎氏によれば、「熱帯ジャポニカ」が、海上の道=南島経由説で日本列島に渡来した可能性は強いものの、まだ決定的な証拠は見つかっていないという。


その可能性を補強するものとして、自然人類学者、金関丈夫(1897−1983)による、「南島式耨耕(どうこう)文化論」や、それを受けついだ、 民俗学者、佐々木高明氏(1929−2013)の「南島農耕文化論」がある。「耨耕(どうこう)」とは、棍棒や鍬(くわ)を用いて人力により土地を耕す、もっとも原始的な耕作方法をいう。 タロイモやヤマイモの栽培には棍棒が用いられ、穀物の栽培には鍬が用いられる。 佐々木によれば「南島農耕文化」を特徴づけるものは、冬作の作季、アワとイモ(熱帯系のヤマノイモや サトイモ)を主作物とする畑作と踏耕やヒコバエ育成型の稲作との共存、独特の農具、夏正月をはじめとする儀礼や信仰などであるという。

   

佐々木高明氏は、「南島」での自身の現地調査に基づいて、「南島農耕文化」の基礎を形成しているのは、「オーストロネシア型稲作」であると 唱えておられる(佐々木高明著:「南からの日本文化(上)、(下)−新・海上の道」、NHK ブックス980、日本放送出版協会、2003年刊)。ここで「南島」とはオーストロネシアのことであり、 オーストロネシアとは、台湾から東南アジア島嶼部、太平洋の島々、マダガスカルなど、「オーストロネシア語族」と呼ばれる人々が暮らす地域をいう。かねては、「マレー・ポリネシア語族」 と呼ばれていた人々の言語と台湾原住民の諸語との類縁性が証明されて、現在は一括してこのように呼ばれているという。オーストロネシア語族は台湾からフィリピン、インドネシア、 マレー半島と南下し、5世紀頃にインド洋を越えてマダガスカル島に達し、さらに東の太平洋上の島々に拡散したと言われている。

 

「オーストロネシア型稲作」のイネは熱帯ジャポニカである。佐々木は、「南島」での豊富な現地調査によって、この「オーストロネシア型稲作」 を含む「南島農耕文化」の分布状況を明らかにした。そしてこの「分布状況」を根拠として、この「文化」が南から北へ「海の道」によって伝播することに伴い、イネが日本に伝えられた 可能性があると主張しているのである。


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北の「海の道」

 

南国薩摩に関わる「海の道」について書いたので、北国越後に関わる「海の道」につても書いておこうと思う。北国の「海の道」に関して、まず、思い浮かぶのは、 近世、江戸時代における「北前船」と「山丹交易(さんたんこうえき)」のことある。


「北前船」とは、江戸時代から明治時代にかけて日本海海運で活躍した、主に「買積み」の「廻船」のことである。「買積み」とは、商品を預かって 運送するのではなく、船主自体が船の寄港先で売買して利益を得ることを目的に、商品を買って積み込むことをいう。「廻船」とは、港から港へ巡る船のことである。「北前船」の航路は、 上りは対馬海流に抗して、北陸以北の諸港から、下関を経由して瀬戸内海を通って大阪に向かう(下りはこの逆)。「北前船」の最北端の寄港地は蝦夷地(北海道)の江差である。越後では、 岩船、新潟、小木(佐渡)、出雲崎、柏崎、今町(現直江津)などが北前船の主な寄港地であった。何を運んだかというと、下り荷(北国方面)には、蝦夷地の人々への 酒類・飲食品類・衣服用品・煙草などの日常生活品、瀬戸内海各地の塩(漁獲物処理に不可欠)、紙、砂糖、米、わら製品(縄・ムシロ)、蝋燭(原産地は瀬戸内)などであった。上り荷(畿内方面)は、 殆どが海産物で、 商品農作物栽培のための肥料である鰊粕、数の子、身欠きニシン、干しナマコ、昆布、干鰯などであった。特に昆布は大坂から(または長崎から)薩摩を経て、沖縄経由で中国に まで密輸出されたという。北海道、越中、薩摩、琉球(沖縄)、清(中国)までのルートを「昆布ロード」ということがあるというが、北の「海の道」と南の「海の道」が、「昆布」を通して互いに 繋がり、中国まで延びていたという事実は、大変興味深いことに思われる


「山丹交易」の「山丹」とは、山旦、山靼とも書き、主にウイルタ族(ツングース系)、ニブヒ族(モンゴロイド)、オロチョン族(ツングース系)など が住んで居た、極東ロシアの日本海沿岸地域をいう。ここの居住民とアイヌ人との間で、主として樺太(サハリン)を中継地と行われた交易が「山丹交易」である。


山丹人は、中国清朝に貂(テン)皮を上納する代わりに、清朝皇帝より下賜された官服や布地、鷲の羽、青玉などを持参して樺太に来航した。アイヌ人は 猟で得た毛皮や、和人よりもたらされた鉄製品、米、酒等を、山丹人が持ち込んだ品と交換した。アイヌ人の中には山丹交易をするばかりではなく、清朝に直接朝貢していたものもいたという。 山丹人とアイヌ人との交易によってもたらされた品々は、アイヌ人によって蝦夷地の松前藩にもたらされた。さらに、これらの品々は、松前から日本海側の「西回り航路」と太平洋側の「東回り航路」で 日本の各地に運ばれた。 これらの交易も含めて「山丹交易」ということもある。「山丹交易」でもたらされた品で特に有名なのが「山丹服」 ないし「蝦夷錦」と称される華麗な刺繍の施された満州風の 清朝の官服であった。


ここで、時代を古代にまでさかのぼってみよう。日本の古代における、北の「海の道」は、ヤマト政権が北方の蝦夷(えみし)をはじめとする「異民族」の 馴化と征伐のために大船団を送った「道」であった。工藤雅樹氏の「古代蝦夷」(吉川弘文館、2011年、2000年の初版第一刷の復刻版)という本によると、「日本書記」には次のような記述があるという (同書、pp.99〜100)。


・658年〜660年(斉明4〜6年)、毎年、越国(こしのくに、現在の福井県敦賀市 から山形県庄内地方の一部に相当する地域)の国守、阿倍比羅夫が180〜200艘の大 船団を率いて日本海を北上する遠征を行った。
・658年(斉明4年)7月、蝦夷200人余りが都にのぼり物を献上し、能代と津軽の郡領などが位を与えられた。
・ある本云、阿倍比羅夫が粛慎(しゅくしん)と戦って帰り、虜49人を献上した。
・660年(斉明6年)3月、阿倍比羅夫は200艘の船で三度目の遠征に出かけ、道南の日本海側のどこか、または石狩川河口まで行き、ここで粛慎と出合い無言貿易を持ちかけたが成功しなかった。


また、544年(金明5年)12月、粛慎人(あしはせのひと=しゅくしん)が佐渡に到来したという記述が日本書記にあるという (田中圭一他著、「新潟県の歴史」、山川出版、1998年刊、pp.41〜50)。


ここで、「粛慎(しゅくしん)」というのは、当時、現在の中国東北部、極東ロシア日本海沿岸(沿海州)、樺太(サハリン)に住んで居た人々で、 人種的には日本の縄文人と同系統であるという説もあるようである。古代においても日本海の対岸に住む人々との関わりはあったのである。

   

ここまで書いてきて気づかされるのは、中国、朝鮮の歴史については、ある程度の知識はあるものの、朝鮮以外の日本海対岸の地域、現在の中国東北部や 極東ロシアの日本海沿岸地域に、どのような人々が住み、どのような国を作ってきたのか、そしてそれらの国々と日本はどのような関わりを持ってきたかについては、ほとんど何も知らないということで ある。今後の課題としたい。


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2.薩摩の歴史

豊州家初代・島津季久の四男・守興と鹿児島の米山薬師

 

私が鹿児島に「米山薬師」という場所があることを知ったのはいつの頃だったろうか? 私は2009年に大学を定年退職した後、「鹿児島県の歴史散歩」(鹿児島県高等学校歴史部会編、山川出版)を買い求め、この本に導かれて興味が赴くままに 鹿児島県内の史跡を訪ね歩いていた。おそらく、この「鹿児島県の歴史散歩」の本の中の「姶良・蒲生・加治木を歩く」の項に「米山薬師」の名前を 見出したのが最初であったと思う。


私はもともと山歩きが好きで、中学生の頃から私の郷里新潟県長岡市の近辺の山々に登っていた。長岡は、 信州の山奥に端を発した日本一長い川、信濃川が山間部を抜けて平野部に入り、川幅が広くなったところの右岸に開けた町である。現在は平成の大合併に より市域も拡がり人口も増えているが、私が中学生だった頃の人口は13万人ほどであった。長岡は徳川家譜代の大名牧野家の城下町であった。市の中心部 から東方 4km 程のところに、東山丘陵と呼ばれる山々が迫っている。この丘陵の最高峰は標高765mの鋸山である。どっしりした、形の良い山であり、 その名からわかるように、この山の稜線は遠くから眺めると鋸の歯のようにギザギザしていた。私の想像であるが、古来、鋸山は修験道の修行の場で あったのではなかろうか。旧長岡市の北方、蔵王町にある蔵王堂(現・金峰神社)に、修験道の仏様、蔵王権現が安置されていることが私の想像力を 掻き立てる。この鋸山に登ると左手斜め前方に、ピラミッド型の見事な山容をした山が目に飛び込んでくる。海の近くに聳え立つ独立峰なので一際 目立っている。これが私が知っている米山である。古来より日本海を航行する船の目印になっていたことであろうし、人々の信仰の対象になっていたこと であろうことは想像に難くない。それほど目立つ山で、神々しさを感じさせる山である。米山の標高は992.5mで上越市と柏崎市の境界に鎮座している。私の父方の 祖父の実家があった上越市佐内町からも良く見える。ちなみに柏崎市は私の郷里長岡市の隣の市である。私が新潟県に住んでいた頃(大学に進学して東京に 出るまでの18年間)、米山に一度は登ってみたいと思っていたが結局果たせなかった。米山の頂上には薬師堂があり、薬師如来が祀ってあるという。 私が知っているこの「米山」と鹿児島の「米山薬師」は関係があるのであろうか? 調べてみると驚いたことに大いに関係があるのである。


鹿児島の米山薬師は、鹿児島湾(錦江湾)の湾奥に注ぎ込む別府川(二級河川)の河口を少し遡った 左岸の高さ125mの岩山の上にある。住所は姶良市鍋倉である。この鍋倉には豊州家島津家の墓地があり、この墓地の敷地に、かつて総禅寺という寺が あった。豊州家島津家は、守護大名、島津宗家8代島津久豊(1375年−1425年)の三男、島津季久(しまづ すえひさ、1413年−1477年)を初代とする 島津氏の分家である。初代島津季久が豊後守を称したことから「豊州家」と呼ばれることになった。この総禅寺が所蔵していた「米山薬師由緒」には 次のように書いてあるという(米山薬師神社ホーム・ページより転載)。


『この薬師は総禅寺開山起宗和尚の発願による建立である。起宗和尚諸国遍参の時、越後の米山が薬師の 霊場であるというので、百日参籠していた。ある時白髪の老人が現れ、和尚と共に参籠した。老人は起宗に「私は仏師である。師は薬師に帰仰している ようなので、薬師像を造り差し上げましょう。」と言った。起宗は大いに喜びお願いした。日を待たずしてその老人は師の元を訪れ、薬師の像を与えた。 六寸六分の坐像である。また起宗に「後日師が故郷へ帰ったらすぐに寺を建立し、人々を苦しみから救いなさい。」と告げた。起宗はその薬師像が 並みの物ではないことが分かり、老人の名を尋ねたのだが、ついに老人は答えることなく去ってしまった。どこへ行ったのかも分からない。起宗はこれを 不思議な事であると思い、昼夜肌身離さずこれを敬礼した。


起宗は京へ至った際、薬師像を仏師に見せることにした。像を見た仏師は驚き「この像は人が造った物では ありません。去る春の末頃、この三條仏所にある人が現れ、この像を私に見せてきたのです。」と言った。去る春の末頃といえば、老人が薬師を持って 米山に来た時である。起宗はますます不思議であると感じた。 起宗は本藩に帰ると、ここの岩岡がまるで越後の米山のようであったので、この像を安置した。そして米山薬師と名付けたのであった。それ以来の霊験は 数えきれないほどである』。


ここで総禅寺を開山した起宗和尚とは、豊州家島津氏初代、島津季久の四男、島津守興のことである。 15世紀の中頃、室町時代、薩摩の武家の四男坊が僧となり、諸国を行脚し、遠路はるばる越後の国にまで足をのばしていたことを知ったことは、私の中 に一入の感慨を引き起こすに十分であった。


2011年4月の末、私は鹿児島の米山薬師を訪ねた。米山薬師のある姶良市は、蒲生町、姶良町、加治木町の 三つの町が合併して2010年にできた新しい市であり、現在は鹿児島市のベッドタウンとなっている。私は鹿児島中央駅からJR日豊本線に乗り、帖佐駅で 降りた。鹿児島中央駅から五つ目、鹿児島、竜ヶ水、重富、姶良の次が帖佐であり、乗車時間は25分ほどであった。帖佐駅西口の正面道路を道沿いに行き、 空港へ通じる高速道路をくぐって進むと25分くらいで別府川にかかる橋(帖佐橋)にでる。この橋を渡ったところが鍋倉の地で、現在、帖佐小学校がある 場所には、江戸時代、薩摩藩の地頭仮屋があったという。また手前の別府川左岸、帖佐橋のたもとには納屋町御倉があって、このあたりの政治・経済の 中心地であった。米山薬師は帖佐小学校の東側裏手にある岩山の頂上 (右端の山の上の旗の辺り)にある。岩山頂上への登りは、かなりの急登であるが、鎖のついた柵が登山道沿いに 設置されていたりして、125mの高さを登りきるにそれほど苦労することはない。頂上には薬師如来を祀る薬師堂があった。頂上からの眺めは良く、桜島、 鹿児島市の吉野台地に通じる重富の白銀坂(しろがねざか)方面、別府川上流蒲生方面の山々が良く見えた。また北西の足下には、米山薬師を建立した 起宗和尚(豊州家島津氏初代島津季久の四男、島津守興)が開山した総持寺跡(現在は豊州家島津家の墓地)が見えた。現在の別府川の水量はそれほど 多くはないが、満潮時には上流の蒲生方面まで船が入ったという。しばしの間、「帖佐名所は米山薬師、前は白帆の走り船」と謡われた昔日を偲んだ。


帖佐小学校の西側道路を北に進むと帖佐稲荷神社に行きつく。鬼島津と謳われた戦国武将島津義弘 (1539−1619)は、1596年から1606年まで、ここに居館をおいたいたという。その屋敷の石垣が今も残っている。島津義弘が朝鮮出兵したのは、 文禄の役(1592−1593)と慶長の役(1597−1598)であるから、慶長の役はここから出陣してここに帰ってきたことになる。また、「島津の退き口」 で有名な関ケ原の戦いは1600年であるから、やはり同様、ここから出てここに帰ってきたことになる。島津義弘が朝鮮から連れ帰った陶工金海 (和名:星山仲次)は、義弘居館の北西に宇都窯を築き、義弘好みの茶陶を焼いたという。これらの作品は加治木の御里窯の製品とともに「古帖佐焼」 として大変珍重されてきた。宇都窯跡は1934年 (昭和9年)に発見され、現在は県指定史跡となっている。この窯跡は義弘居館から歩いてすぐのところ なので私も訪ねてみた。


薩摩藩の地頭仮屋跡(現在の帖佐小学校)や、島津義弘居館跡(現在の帖佐稲荷神社)、古帖佐焼 宇都窯跡などがある鍋倉の平地部の北側には、米山薬師がある岩山と同じくらいの高さの小山が連なっている。この小山には、かつて平山城 (平安城・帖佐本城・内城とも云う)と高尾城という山城があった。高尾城は平山城の支城であるという。ウイキペディアで平山城について調べて みると次のように書いてあった:


『(平山城は)1282年(弘安5年)頃、京都の石清水八幡宮から下向した善法寺法印了清が築城した。 善法寺法印了清は、石清水八幡宮の祠官の一族であったが、当時、石清水八幡宮と関係が深かった大隅正八幡宮(現在の鹿児島神宮)領の帖佐郷平山村 の領家職として、石清水八幡宮の神璽を奉じ、一家眷族、僧侶、医者、大工、染師、土器師等873人を率い、船で帖佐松原八幡の江湖に到着した。更に 別府川 を遡り、清泉が湧き出している折橋山山上を社地に定め、鍋倉八幡神社(現在の帖佐八幡神社)を創建した。大隅正八幡宮に対して、新たに 勧請した八幡ということで、「新正八幡宮」と称した。了清は、八幡の脇に、平安山八流寺増長院を別当寺として建立した。更に神社の西に平山城を 築き、地名から平山氏を名乗った。大隅国の守護であった島津氏と平山氏は養子縁組を行っており、当初は行動を共にしていたが、次第に対立する ようになり、享徳年間(1452年 - 1454年)に島津氏第9代島津忠国の弟、島津季久が、平山氏第9代平山武豊を討って帖佐郷を領有した。敗れた平山氏は 指宿へ、一族は鹿児島の武村へ移された。季久は、別府川の対岸に瓜生野城(建昌城)を築いて居城とし、平山城には次男の忠康を配し、平山氏の名跡 を継承させた。また、季久の三男の満久は隣郷の加治木氏の養子とし、季久の威勢は近隣に及んだ。』


すでに言及したことだが、この島津季久(すえひさ、豊州家島津家初代)の四男が帖佐米山薬師と 豊州家島津氏の菩提寺総禅寺を創建した起宗和尚(島津守興)である。私は山の上の平山城跡にある帖佐八幡神社まで登ってみた。帖佐八幡神社の鳥居 の前方は平山城の南城があったところで、現在は「桜公園」となっている。公園からは桜島と別府川河口方面が良く見えた。帖佐八幡神社の境内には 善法寺了清(平山城初代城主平山了清)が植えたと伝えられる樹齢700年の大銀杏があった。私は、今から700年以上も前に京都からはるばる一族郎党 873人とともに、この帖佐の地に移ってきて、この地を170年近く治めた平山氏一族の興亡に思いを馳せた。


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島津家中興の祖・島津貴久以後の薩摩

豊州家島津氏初代島津季久の時代よりも一世紀ほど時代が下るが、鍋倉に居館跡がある島津義弘には三人 の兄弟があった。義久、歳久、家久である。島津四兄弟と云えば、義弘を含めたこの兄弟をさす。義久が長男、義弘が次男、歳久が三男、家久が四男 である。この四兄弟の父親が「島津の英守」と称えられた島津本宗家第15代当主・島津貴久(1514−1571)である。貴久は永正11年5月5日 (1514年5月28日)、薩摩島津氏の分家、伊作家・相州家当主の伊作忠良の長男として田布施亀ヶ城にて生まれた。この伊作忠良は島津氏中興の祖と 云われ、隠居後は日新斎(じっしんさい)と名乗り、「日新斎いろは歌」を作ったことで知られている。この忠良・貴久の頃、 島津氏は一門・分家・国人衆の自立化が進み、さらには第12代当主・島津忠治、第13代当主・島津忠隆が早世し、第14代当主・島津勝久は若年のため、 島津本宗家は弱体化していた。そこで勝久は相州家の忠良を頼り、大永6年(1526年)11月、貴久は勝久の養子となって島津本宗家の家督の後継者 となった。大永7年(1527年)4月、勝久は忠良の本領である伊作に隠居し、貴久は鹿児島の清水城に入って正式に家督を継承した。しかし加世田や 出水を治める薩州家当主・島津実久はこれに不満を持ち、島津勝久を担いで忠良・貴久親子との間に争いを起こした。この争いを制して薩摩の国を 統一したのが島津貴久である。その後、忠良・貴久親子は薩摩・大隅・日向三国の統一を果たした。さらに貴久は島津四兄弟とともに九州統一を目指し 軍勢を北に進めたが、あと一歩というところで全国統一を目指す豊臣秀吉の軍勢に押し戻され敗北した。しかし薩摩・大隅の二か国と日向の一部 (諸県地方・佐土原など)の領有権は安堵された。島津氏第16代当主の座は貴久の子、義久に継承され、その後は義久に男子がいなかったので、 義久の弟の義弘に、さらにその後は義弘の子、忠恒(後に「家久」に改名)に継承された。この忠恒が初代の薩摩藩藩主である(注:以上の記述はウイキペディアに負うところ大である)。


私は、島津本宗家の居城があった現在の鹿児島市上町(かんまち)地区の地形が島津義弘の居館跡が ある姶良市鍋倉の地形に似ていることに気づいた。どちらも前方に河口に近い川があり、背後には山城がある。島津本宗家の居館は鹿児島市上町の 清水中学校の地にあったが、その前方には錦江湾に注ぐ稲荷川(二級河川)があり、裏手の小山の上には清水城があった。島津氏の居城は山の上の城と 麓の居館が一体となったものであり、島津本宗家第15代当主島津貴久はこの清水城に住んだ。しかし手狭になったため、より海に近い場所に新たに 城を築いて移り住んだ。この城は「内城」と云われ、現在の大竜小学校の地にあった。後詰めの城として、稲荷川を挟んだ海側の小山の上 (現在の多賀山公園)に、平安時代末期から続いていた東福寺城があり、内城自体は簡単な屋形作りの平城であったと思われる。その後、内城には島津本宗家 第16代当主島津義久が在城し、文禄4年(1595年)まで住んでいたが、豊臣秀吉の圧力のため、富隈城(国分市)に移転した。その後、内城は、 義弘の子、忠恒の居城となったが、忠恒は朝鮮出兵で国元にはおらず、ほとんどこの城を使うことはなかったと思われる。しかし、慶長7年(1602年)、 忠恒の命により島津氏の本城が鹿児島城(鶴丸城)に移ると、内城は廃城となり、その跡には貴久、義久の菩提寺、大龍寺が建立された。大竜小学校 の名前はこの寺の名前に由来する(注:以上の記述も一部ウイキペディアに負っている)。


新潟県の米山がある柏崎市は、私の郷里長岡市の隣の市で、日本海に面しており、風光明媚な鯨波という 海岸があったため、私の幼少年期、たびたび海水浴やキャンプに出かけていた場所である。しかし、柏崎市自体については、これまで詳しく知る機会は なかった。このたび調べてみたところ、この地も姶良市鍋倉地区、鹿児島市上町地区と似たような地形をしており、しかも明治維新における 北越戊辰戦争の舞台になっていて、新政府軍側の兵士を送り出した鹿児島とも少なからず縁がある土地柄であることがわかったのでこのことを書き留めて おくことにする。徳川の世から明治の世への移行期、日本国内では新政府軍側と旧幕府軍側との間で戦争があった。戦争は、慶応4年1月3日−6日 (1868年1月27日−30日)の鳥羽・伏見の戦いで始まり、明治元年10月21日―明治2年5月18日(1868年12月4日―1869年6月27日)の函館戦争で終わった。 この間、日本のあちこちで両陣営の間で戦いが繰り広げられたが、米山のある柏崎も、私の郷里長岡もこの戦いの舞台になった。これらの一連の戦いが 行われた年の干支が戊辰であったので、この戦争を戊辰戦争という。ただし、函館戦争の最中に干支は戊辰から己巳(きし)に変わっている。


旧柏崎市は日本海に注ぐ二つの川、鵜川、鯖石川(いずれも二級河川)の沖積平野の上に拓けた街である。 鵜川は米山山塊の一部である尾神岳(757m)を源流に持ち、鯖石川は十日町丘陵を源流に持っている。上杉謙信(1530−1578)、上杉景勝(1556−1623) が越後の統治者であった戦国時代から織豊時代にかけて、鵜川右岸には枇杷島城というお城があった。鯖石川の河口には越後有数の港湾柏崎湊があった ので、この時代、この辺りは政治・経済の中心地の一つであったと思われる。枇杷島城は、1598年、豊臣秀吉による上杉景勝の会津への移封に伴い 廃城になった。


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戊辰戦争における越後と薩摩

慶応3年(1867年)、第15代将軍徳川慶喜(1837年-1913年)が大政奉還をし、 王政復古が成り、薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩を中心とする新政府が樹立された。新政府は徳川慶喜の「納地納官」(土地と官職の返納)を 決定した。この頃江戸では、「御用党」と名乗る浪人の一派が勤王志士の名を騙って、江戸市中の裕福な商家を襲い金品を巻き上げる強盗同様な 行為が頻発していた。この浪人たちが三田の薩摩藩邸を根城にしていることを突き止めた江戸幕府は、庄内藩に命じて三田の薩摩藩邸を焼き討ちさせた。 この事件をきっかけに、新政府軍側の薩摩藩・長州藩の軍隊と旧幕府側の徳川幕府・会津藩・桑名藩の軍隊が京都南郊の鳥羽・伏見において衝突した。 戦いは武装に勝れ、外国との実戦経験もある新政府側が勝利した。敗れた旧幕府側の将軍徳川慶喜、会津藩主松平容保(かたもり、1836−1893)、 桑名藩主松平定敬(さだあき、1847−1908)らは、滞在していた大阪城を密かに抜けだして幕府の軍艦で江戸に帰った。これ以降、三人は朝敵とされ、 新政府軍の追討の対象とされることになった。松平容保と松平定敬が徳川慶喜とともに朝敵とされた理由は、それまで、容保が京都守護職、定敬が 京都所司代の職にあり、尊皇攘夷派の志士達を、京都見廻組および新撰組を用い取り締まる立場にあったからである。ちなみに容保と定敬は 尾張支藩・美濃高須藩の第10代藩主松平義建(まつだいらよしたつ、1800年-1862)の七男と八男であり実の兄弟である。また幕末の激動期に重要な 役割を果たすことになる徳川御三家の一つ、尾張藩第14代・第17代当主徳川慶勝も松平義建の次男であり、松平容保・定敬と兄弟である。江戸に帰った徳川慶喜は天皇へ の恭順の姿勢を示しため、上野の寛永寺に謹慎した。


司馬遼太郎が小説「峠」でその生涯を描いた越後長岡藩士河合継之助は鳥羽・伏見の戦の当時、藩の 家老として藩主牧野忠訓(ただくに、1837−1913)ととも大阪にいて、数十名の長岡藩士と大阪の玉津橋の警衛にあたっていた。藩主牧野忠訓、河合継之助をはじめとする長岡藩士は、鳥羽・伏見の 戦いには参戦しておらず、戦い終結後は独自ルートで江戸に帰った。河合継之助は江戸に着くと藩主忠訓を国元に返した後、江戸藩邸に残り、長岡藩 の全財産を処分した。そしてプロシア人武器商人エドワルド・スネルから当時の日本に三つしかないというガトリング砲(最新式機関砲)を二つ買った。 そしてプロシア船を雇い、ガトリング砲と江戸にいた長岡藩の家臣団約150名とともに津軽海峡を経由して新潟に帰った。この時、桑名藩主松平定敬一行が同乗 を申し出たので桑名藩士および会津藩士約200名も一緒に新潟に行った。桑名藩は藩主不在のまま激論の末、新政府軍への恭順を決めたため、松平定敬は桑名藩に帰れなくなったのである。 松平定敬一行が新潟に行ったのは米山がある柏崎に桑名藩の飛び地(6万石)と幕府の預かり領(5万石)があったからである。松平定敬と会津の 松平容保と二手に分かれた方が新政府軍に対して戦略的に有利であるという思惑もあったからかも知れない。桑名藩が柏崎に飛び地を持っていたのは、 桑名藩4代藩主松平定重(1644−1717)がお家騒動のため、越後高田藩に移封されたことと関係あるのであろうか? 会津藩も越後とは関係が深く、 蒲原郡に5万石、魚沼郡に3万石の飛び地を持っていた。柏崎・長岡の隣の小千谷(おじや)は会津藩領であり、会津藩兵が駐屯していた。

   

実は桑名藩と長岡藩は京都所司代の職を巡って因縁があった。前・長岡藩主牧野忠恭(ただゆき、1824−1878)は松平容保が京都守護職であった とき、京都所司代の職にあったが、一年務めた後、公用方河合継之助の進言により辞任した。牧野忠恭の後に京都所司代の職に就いたのが桑名藩の 松平定敬であった。

   

新潟港に着いた桑名藩主松平定敬一行は、新潟から陸路、桑名藩の陣屋があった柏崎に移動した。 松平定敬(当時21歳)は劒野山御殿楼に入ることを憚って勝願寺に謹慎したという。しかし、関東方面から三国峠を攻略された場合、柏崎は孤立して しまうので藩主の所在地としては不適とされ、桑名藩預かり領があった加茂に移動した。加茂は「八十里越え」、「津川口(阿賀野川船運)」により 会津と通じていた。

   

桑名藩の柏崎陣屋では、主戦派と恭順派の間で激論があった。そして主戦派が主導権を握った。この頃、 鳥羽・伏見で戦った桑名藩、幕府歩兵隊(幕府陸軍)の脱走兵が新政府への降伏を拒んで、関東各地を転戦した後、越後に入り込んでいた。桑名藩士 立見鑑三郎(1845−1907)はそのような者の一人であった。桑名藩の柏崎陣屋の桑名藩士を主戦論に導くのに立見鑑三郎の影響は大きかったという。


新政府側は諸藩の帰順のために東征大総督府を設置し、北陸方面への手当てとして慶応4年(1868年)1月5日には北陸道鎮撫総督府を設置した。3月に 入ってから北陸道先鋒総督軍が越後高田に到着した。そして越後11藩の重臣を集めて朝廷への帰順を命じた。しかし、全軍を指揮する東征大総督府が 北陸道先鋒総督軍に対して江戸への即時転進を命じたことにより、越後から新政府軍は去ってしまった。 4月14日になって大総督府は諸藩に越後出兵を命じ、19日に北陸道鎮撫総督 兼 会津征討総督に高倉永?(たかくらながさき、公家)、参謀に薩摩藩士黒田了介 (清隆)と長州藩士山県狂介(有朋)を任じて越後再進攻の体制を整えた。閏4月17日、黒田・山県に率いられた新政府軍は越後進攻の根拠地である高田に参集した。 また新井に所在していた東山道総督軍の軍監土佐藩士岩村精一郎も参加して北越鎮定の軍議が開かれ、本隊は海沿いに柏崎へ進み、支隊は松之山口経由 で小出島を攻略してから小千谷に入り、信濃川を渡って長岡城を攻撃することとした。進撃開始は21日となり、海道を進む新政府軍本隊 (薩摩、長州、加賀など6藩)約2,500人は黒田・山県両参謀の指揮のもとにあった。先鋒を務めたのは高田藩家老、老竹十左衛門であった。隊は途中で 兵を分け、柿崎では一部、黒岩口(現・上越市柿崎区黒岩)へ、鉢崎では一部、谷根口(現・柏崎市谷根)へ、主力は米山峠を通過して青海川へ到着した。 そして柏崎鯨波海岸で旧桑名藩と 衝鋒隊の連合軍との間で戦闘が開始された。ここで「衝鋒隊(しょうほうたい)」とは、幕府陸軍の歩兵指図役頭取 古屋佐久左衛門が結成した旧幕府歩兵からなる組織で、副隊長は旧幕臣で剣客の今井信郎であった。旧幕府側はよく持ちこたえたが、軍事力の差は如何 ともし難く、旧幕府側の敗北であった。引き続く、小千谷での戦い、長岡城攻防戦でも旧幕府側は敗れた。


ちなみに、薩摩藩の蘭学者で島津斉彬の集成館事業を推進し、薩摩藩の水軍増兵、軍艦建造、反射炉建設を行い、薩摩藩の近代海軍の礎を築いた中原猶介は 長岡城攻防戦で負傷し、柏崎病院で亡くなっている。また、西郷隆盛の弟、西郷吉二郎(西郷従道の兄、1833−1868)も、北越戊辰戦争に参戦、長岡市の近く、 三条市五十嵐川付近の戦いで負傷しそれがもとで戦死している。その後、松平定敬は東北各地を転戦した後、最後は函館戦争で新政府側に降伏したという。


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3.越後人・本富安四郎の「薩摩見聞記」

 

明治の時代、西南戦争が終わって12年が経過した1889年(明治22年)に、鹿児島にやってきてしばらく 滞在し、そのときの見聞・体験をもとに「薩摩見聞記」(1898年(明治31年)、東京・東陽堂支店刊)を著した新潟県人がいた。本富安四郎 (ほんぷやすしろう、1865−1912)という。私がその人の存在を知ったのは、1973年に鹿児島にやって来て間もない頃のことで、 地方紙「南日本新聞」に載った記事によってであった。確かな記憶はないのだが、その記事のテーマは鹿児島県人の「県民性」についてで、 新潟県人本富安四郎が「薩摩見聞記」の中で鹿児島県人の性格・気質について書いている部分を引用し、他県人から鹿児島人がどのように見られて いるかを紹介しているものであったように思う。その後も、この新潟県人に関するこの種の記事を何度か同じ新聞紙上で見かけたような気がする。 私が感心したのは、記事の筆者たちが本富安四郎が書いた「薩摩人気質(かたぎ)」についての記述を概ね的を射ているものとして受け入れている ことであった。私はずっと、「薩摩見聞記」を著した新潟県人はどのような素性の人で、どのような経緯で鹿児島に やってきて、鹿児島で何をやっていた人なのだろうかと思っていた。


私がその人の経歴を知ったのは、中村明蔵著「薩摩民衆支配の構造−現代民衆意識の基層を探る−」 (南方新社、2000年刊)によってであった。そこに書いてあったその人の経歴によって、私は初めてその人が私の母校長岡高校の大先輩であり、 しかも長岡高校の前身の長岡学校、長岡尋常中学校、長岡中学校(旧制)の教師であったことを知った。


ちなみに、本富安四郎の「薩摩見聞記」は、明治の薩摩を知る上で 貴重な資料であることは鹿児島の郷土史研究者の間では知られていたようで、昭和37年(1962年)に、鹿児島県高等学校歴史部会により復刻版が刊行されて いる。印刷所は鹿児島の文鳥社である。中村氏の著書に書いてあった本富安四郎の経歴は、この「復刻版」の中の芳即正(かんばし のりまさ、1915−2012) 氏によるものである。芳氏はラサール高等学校教諭、鹿児島県立図書館職員、館長、鹿児島県維新史資料編纂所長、鹿児島純心女子短期大学教授、 尚古集成館館長を務められた方である。「薩摩見聞記」の「復刻版」が刊行された当時、芳氏は鹿児島県高等学校歴史部会の会員でラサール高等学校の 教諭であったものと思われる。


ところで私の母校長岡高校は明治5年(1872年)創立の長岡洋学校を源流とする古い学校で、その長岡洋学校誕生の母胎と なった長岡国漢学校設立にまつわる「米百俵」の故事は、2001年、時の総理大臣小泉一郎が国会の所信表明演説で紹介したことで知られている。 長岡高校があった長岡市は、江戸時代、徳川家の譜代大名牧野氏(7万4千石)の城下町であった。司馬遼太郎が小説「峠」で、その生涯を描いた 河井継之助は、戊辰戦争時この長岡藩の家老上席兼軍事総督であった。河井は北陸道を進軍してきた新政府軍に対して、中立の立場で新政府側と 旧幕府側との和睦交渉の仲介の労をとることを申し出たが聞き入れられず、最終的には、戊辰戦争で朝敵とされた松平容保を藩主とする会津藩救済の ために、仙台藩、庄内藩を中心に結成された奥羽烈藩同盟に参加して戦うことを決断する。その結果、長岡城下とその周辺地域は戦火に見舞われる ことになった。戊辰戦争終結後、長岡藩は廃藩こそ免れたものの、石高を7万4千石から2万4千石に減らされたため窮状を極めることになる。この時、 これを見かねた支藩の三根山藩から送られてきたのが米百俵であった。藩士たちは、これで生活が楽になると喜んだが、藩の大参事小林虎三郎は、 贈られてきた米を藩士に分け与えず、売却の上で学校充実の費用に充てることを決定する。藩士たちはこの決定に驚き反発して虎三郎のもとへと 押しかけ抗議するが、それに対し虎三郎は、「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」と諭し、 自らの政策を押しきった。この米百俵の売却金の助けを借りて作られたのが「長岡国漢学校」であった。山本有三(1887−1974)は、このことを題材にして 戯曲「米百俵」を書いている。


「長岡国漢学校」には洋学局と医学局が併置されていた。この学校を基に設立されたのが「長岡洋学校」 で、これが後の長岡中学(旧制)であり、現在の長岡高校である。長岡高校には「第一校歌」と呼ばれる古い校歌と、堀口大学作詞の「第二校歌」が ある。「第一校歌」は「我が中学の其の位置は、構は八文字浮島の、兜の城と名も高き、旧城跡を前に見て…」で始まる長い歌詞 の歌であるが、私の母校長岡高校の前身の長岡中学(旧制)の校歌であり、現在も歌い継がれている。私も高校生のときには歌ったし、現在でも歌の一番 くらいは、よどみなく歌うことができる。この「第一校歌」の詞の原作者が「薩摩見聞記」の著者本富安四郎その人であることに気付いたのはごく 最近のことである。いくつかの文献によってわかった本富安四郎の生涯はおよそ次のようなものである。


安四郎は長岡藩150石取りの中級藩士の三男として、慶応元年(1865年)2月15日に生まれている。 本富家は長岡藩の草創期から続く家柄(剣術と謡曲の師範)であった。貫市合併小学校・阪之上小学校を経て、明治13年(1880年)長岡学校(長岡洋学校の後身にして 長岡中学(旧制)の前身)に入学したが、在学3年、明治15年(1882年)12月に学校を去り、明治16年(1883年)1月より、19歳で母校阪之上小学校の 教員となった。翌年には長岡学校の教員に転身。身分は「授業生」で、担当は「日本史」と「習字」であった。


明治19年(1886年)4月、安四郎は職を辞して上京、私立東京英語学校に入学した。安四郎が教員をやっていた頃の 長岡学校は、新潟県古志郡全部と三島郡41ヵ村の連合町村会によって維持された町村立の学校であったが、明治19年、第一次伊藤内閣(明治18年12月22日− 明治21年4月30日)の文部大臣森有礼のもとで実施された教育令により、県立の中学校は1県に1校とされたため、町村費による中学校の設置は不可能となった。 このため長岡学校は存立の危機に立たされたが、長岡および周辺町村の理解と寄付金の提供によって、かろうじて町村協立の私立学校として命脈を保つことができた。 しかし、その後しばらくは、厳しい学校経営を強いられることになる。安四郎の辞職・上京は長岡学校のこのような状況の変化をきっかけとしたものであったのではなかろうか? 中島欣也著「明治熱血教師列伝−仇敵、薩摩に学んだ長岡の魂」(恒文社、2000年刊)の57頁〜59頁には、この上京の旅を描いた 「遊学」と題する安四郎の文章(「和同会雑誌」5,6号(明治28年刊)掲載)の一部が紹介されている。安四郎が原作者である長岡高校第一校歌が述べるごとく、 「世に大業を成し遂げて…」という大志を抱いての上京であった。


明治19年の教育令により、 5年制の尋常中学校と高等中学校(旧制高校の前身)が設立された。学校毎に異なるのだが、高等中学校には本科と 医学・法学・工学などの専門科があり、専門科は学部・学科により修業年数が異なっていた。またこの「改革」で高等師範学校が設立された。


東京英語学校には官立と私立があって紛らわしいのだが、安四郎が入学した私立の東京英語学校は 大学予備門(旧制第一高等学校の前身)に進学するための勉強を英語で教える予備校のような学校であったという。 安四郎は自身の経済的事情が悪化したため、明治20年(1887年)夜学科に転学し、昼間は東京外神田の芳林小学校で教員として働きながら学んだ。明治22年(1889年)3月、 東京英語学校を卒業した安四郎は、その年の10月、24歳の時、鹿児島県南伊佐郡宮之城村盈進(えいしん)高等尋常小学校教員として赴任する。 そして、翌明治23年(1890年)11月には同校の校長に昇進した。しかし、明治25年(1892年)4月、職を辞して上京。安四郎が鹿児島に滞在したのは 2年半ほどの短い期間であった。


その後、明治27年(1894年)5月から再び長岡尋常中学校(長岡学校の後身)の教員になっている。 明治29年(1896年)1月、長岡尋常中学校の生徒会組織である「和同会」の機関誌「和同会雑誌」の7号に薩摩での見聞・体験をもとにした一文、 「南薩異事」を寄稿。その内容は薩摩の士族の子弟のあいだで昔から行われていた独特の教育システム、「郷中(ごじゅう)教育」の流れをくむ、 地域における青年会活動および夜学校についてのものであった。明治29年、後の太平洋連合艦隊司令長官山本五十六(旧姓高野、戦死後元帥に昇進)が 入学したとき、本富がその担任であったという。この年、本富は本来名誉会員であるべき生徒会組織「和同会」の会頭に推戴されている。


安四郎は明治30年(1897年)10月、長岡尋常中学校の職を辞して上京。翌明治31年6月、 神田区東陽堂支店との間に「薩摩見聞記」出版の契約が成立し、明治31年(1898年)8月に出版された。明治32年(1899年)、大阪府立八尾小学校教員 になる。明治35年(1902年)6月、37歳のとき新潟県立長岡中学校(長岡尋常中学校の後身にして長岡高校の前身)に再転任。これは本富より2歳下で、 かつて一緒に勤務したことのある坂牧善辰が校長に昇任したのを機に本富を招聘したものであったという。ちなみに、この坂牧善辰は漱石の小説 「野分」 の主人公のモデルとされた人物である。 本富は「国語・漢文」と「歴史」を担当する とともに、舎監として塾生(寄宿舎の入舎生)の訓育にあたった。また生徒会組織「和同会」の刷新のために尽力した。明治45年(1912年)1月、胃病を患う。4月5日永眠、享年47歳。 死の前日、4月4日付けをもって新潟県知事から教育者の模範として表彰された。山本五十六は後年、 恩師本富のことを「言葉こそ少ないが 謹厳そのものの如き眼光の中に慈しみ深い温かさがあった」と回想しているという。


以上の安四郎の経歴について参考にした文献は、(1) 土田隆夫著『井上円了による「長岡洋学校和同会」 の設立とその後の動向』(井上円了センター年報、21号、23 -49、2012年刊、東洋大学学術情報リポジトリ)、(2)「さつま町人物伝」 (さつま町郷土史研究会、2015年11月刊)、(3)「人物探訪20 本富安四郎」(広報さつま 2018年11月号)、(4)「ふるさと長岡の人々」 (長岡市、1989年刊)、(5)「長岡高校百五十周年記念誌」(2021年刊行予定)、(6)中島欣也著「明治熱血教師伝−仇敵、薩摩に学んだ長岡の魂」 (2000年、恒文社)などである。


ところで、本富が「薩摩見聞記」の中で書いたという、「薩摩人気質」の特徴とはどのようなもので あったのであろうか? またその「特徴」をもたらしている背景や要因を本富はどのように考えていたのであろうか? 私が本富の経歴を知ることに なった「薩摩民衆支配の構造−現代民衆意識の基層を探る−」の著者、中村明蔵氏は古代隼人の研究で知られる方であるが、この本の中で氏は、 これまで日本列島史のなかの地域史を研究課題にしてきた関係上、「県民性」、「県民気質」というものにも関心を持ってきたと述べられている。 そして、これに関連するテーマを主題にした出版物として、本富の「薩摩見聞記」に注目し、関連する内容をこの本の中で詳しく紹介されたのである。 最近、私は「地域問題」への関心から、皆村武一著「近代の鹿児島―21世紀への展望」(高城書房出版、1990年)という本を読む機会があったが、 この本でも本富の「薩摩見聞記」の中の「薩摩人気質」についての記述が紹介されていることを知った。「薩摩人気質」の特徴をもたらしている背景や 要因については、こちらの方が簡潔にまとめられているので、ここではこの皆村氏の本に基づいて、本富の「薩摩見聞記」の中の「薩摩人気質」 についての記述を紹介することにする。それに先立ち、「薩摩見聞記」における本富の言明の意図を理解するための一助に、彼が鹿児島にやって来た 前後の日本の政治状況を概観しておく。


明治新政府は薩長土肥各藩から一人ずつの参議による合議制によって進められていたが、明治6年 (1873年)、征韓論に敗れた旧薩摩藩出身の西郷隆盛と旧土佐藩出身の板垣退助が下野することになる。このとき西郷とともに、中央政府に仕えていた多くの 薩摩出身の役人・軍人・警察官が職を辞して鹿児島に帰ったという。明治7年(1874年)、板垣退助は愛国公党を設立し、民撰議院設立の建白書を提出、 国民が政治に参加できる道を開くべきだと主張した。ここから、政府に国会開設を求める自由民権運動 が広まっていくことになった。明治10年 (1877年)、西郷隆盛は鹿児島の士族を率いて西南戦争を起こすが敗北、鹿児島城山にて自決。本富が15歳で長岡中学校(旧制)の前身である長岡学校に入学したのは 西南戦争終結から3年後の明治13年(1880年)のことであった。西南戦争には長岡藩の旧士族も戊辰戦争の仇を取ると言って、 新政府軍側の兵士として勇んで参戦したという。明治11年5月14日、当時の内務卿大久保利通が紀尾井坂で元加賀藩士等によって暗殺される。 明治14年(1881年)、薩摩出身の北海道開拓使黒田清隆が官有物を薩摩出身の実業家五代友厚に安く払い下げようとした事実が発覚し、 政府への批判が高まった。これを受けて政府は、国会開設の勅諭により、10年後の国会の開設を約束した。このような流れの中で、 「明治14年の政変」が起きた。それまで憲法制定については政府内において、君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法かを巡って論争があった。 前者を支持したのが伊藤博文と井上馨であり、後者を支持したのが大隈重信であったが、国会開設の勅諭と時を同じくして、官有物の払い下げを政府外にリークした疑いを 持たれていた大隈重信が政府中枢から追放されてしまった。同時に大隈のブレーンの慶應義塾門下生たち(主に交詢社系)も政府から追放された。これを「明治14年の政変」という。この年、 板垣退助は自由党を結成。これには、同じ土佐出身の中江篤介(兆民)も加わっている。翌年には肥前出身の大隈重信が改進党を結成した。明治18年 (1885年)、政府は「内閣制度」をつくり、初代内閣総理大臣に伊藤博文が就任する(第一次伊藤内閣)。伊藤内閣で文部大臣を務めた森有礼により 、明治15年(1872年)に定められた「教育令」が廃止され、明治19年(1886年)3月から4月にかけて、新たに「学校令」を公布された。これに より一貫した学校制度が整備されることになった。本富安四郎が長岡学校の職を辞して上京、私立東京英語学校に入学したのは 明治19年(1886年)4月であるから丁度この頃のことである。


さて、ここで話を元に戻すと、本富が「薩摩見聞記」の中で薩摩人の性質の特徴として あげたことは次のようなことである。


(1)「質朴にして勇猛」であるが「優しき心情」を有している。その友誼心の厚さは私交上に おいては美点であるが、公事上においては欠点となっている。つまり、親戚・朋友の立身出世のために、公務官職を左右し、以っていわゆる藩閥情実 の病根を作るに至ったことは、世間の非難攻撃を免れざるところである。

(2)感情の激しきこともまた薩摩人の特徴である。薩摩人士が、一般に科学を好まず、特に数学に不得手であるのは、感情激しく気短かで、 忍耐と理想に乏しく、一度試みて成功しなければ、あたかも力及ばずといってこれを放棄し、何度も繰り返し思考しないことによるものである。 実に、薩摩人は、一事を連続的に反復推究すること、および一定不変の理想を抱持し、理論的に判断し、追及していくということは、到底望むことは できない。維新以来の薩摩著名人の人物についてみても、この点が欠けていることが認められるのである。

(3)団結力が強いことは、薩摩人の特徴として広く世間に知られていることである。その原因として考えられることは、第一に、隼人(はやと) として、古来特殊の一種人であったこと、第二に、従って、言語、風俗等が他と異なり、一風をなしていること、第三に、辺境の地にあって、 国境険しく天然の地勢によって一国を形成していること、第四に、数百年来、常に一主(島津)を以って統括し、政治的な分割がなかったこと、 第五に、絶えず中央覇者の憎嫉を受けてきたために、自然団結してこれに備える必要があったこと、第六に、その性質感情に富み、同情を表し易く、 えこひいきが甚だ強いこと、などである。

(4)この団結力の強さの結果として次のような特徴が見いだせる。第一に、権謀術策に富んでいること、第二に、比較的衆に強くして、寡に弱きこと。 第三に、各個人独立の思想発達せず、権利自由の考えが甚だ乏しいこと。薩摩の一国は、全く軍隊的組織にして、上意下達方式で、一個人の意見を 自由に述べることは出来ない。恰も東北人は個人思想が発達して、各々孤々散漫で、団結を成すことができないのに反し、薩摩人士は専制的団結が 甚だ盛んなために、個人の意見は常に団体の世論によって圧倒され、それ以上、発展しないのである。したがって、世論と言うのもまた、ただ先輩者の 意見にすぎないのである。


はなはだ手厳しい指摘である。(4)の(薩摩人が)「権謀術策に富んでいる」というのは、 幕末期において、最初、薩摩藩は会津藩、桑名藩と一緒に「公武合体」を推し進めていたにも関わらず、途中から長州藩と密約を結んで「討幕」に 転じたことや、鳥羽・伏見の戦いの引き金となった、庄内藩士による江戸薩摩藩邸襲撃事件は、西郷らが画策した挑発行為によるものであったこと などが念頭にあったものと思われる。「薩摩見聞記」は、昭和46年(1971年)に出版された「日本庶民生活史料集成 第12巻」(三一書房)に 収められたことにより、民俗学、地域学、歴史学などの多くの研究者の目に触れることになったが、皆村氏の本によれば、当時、鹿児島の歴史学会に 大きな影響力を持っていた原口虎雄氏(1914−1986、元鹿児島大学教授、日本経済史)は、この本の「薩摩見聞記」の「解題」の中で次にように述べているという。


「東北諸藩と西南諸藩との激しい対立の基底には、東北日本型と西南日本型の社会類型の相違を 見逃すことができない。本富氏のような達識の東北人が西南雄藩型の典型薩摩の内部に入り来たり、深奥部につての精細な観察を遺してくれたことは、 学問研究上の天祐というべきか」

   

最高級の賛辞ではないか。以上の本富氏および原口氏の言明については私もいろいろ思うところがあるのだが、これは項を変えて論じることにする (次項の【越後人・本富安四郎の『薩摩見聞記』の中の「士平民」と薩摩の数学】(予定)を参照)。特に本富氏の「薩摩人士が、一般に科学を好まず、 特に数学に不得手である…」の部分、「恰も東北人は個人思想が発達して、各々孤々散漫で、団結を成すことができない…」の部分、原口氏の「東北日本型と 西南日本型の社会類型の相違を見逃すことができない。…」の部分についてはおおいに議論があるところではなかろうか。

   

本富氏の「薩摩見聞記」には薩摩人の容貌・風体についての記述もあるので、ついでながら この部分も紹介しておく。それは次のようなものである。

   

「四十府県八十州土地が異なるに従って、その人民の容貌もそれぞれ多少の相違はあるものであるが、 薩摩人は中でも著しく別風をしている。眉と目の間は近くてやや窪み、眼丸くして眼光が特に鋭い。精悍の気魂が自から現れている。良く云えば、 風采凛然として侍のようであるが、悪く云えば、温容なくして殺風景である。身体は強健ではあるが健康とは云えない。その外貌は甚だ壮んで 筋骨逞しく、激烈な労働・動作には堪えることができるにもかかわらず、体内の器械は意外に弱く、健康無病の人は誠に稀である。このことについては、 徴兵検査官がことあるごとに指摘しているところである」


中村氏の本で本富安四郎が長岡学校(旧制長岡中学の前身)の卒業生であり、長岡学校で教えていたこと、そして明治22年に鹿児島にやって来て教員を やっていたことはわかったのだが、彼が鹿児島にやってきたいきさつは謎のままであった。ところが昨年(2020年)の初め頃、インターネットで検索したところ、 鹿児島県さつま町の広報誌、「広報さつま」 2018年11月号の 「人物探訪20 本富安四郎」という記事に行き当たり、そこに安四郎が鹿児島にやって きたいきさつが書いてあることを発見した。「さつま町人物伝」(さつま町郷土史研究会、2015年11月刊)では、安四郎は盈進小学校の校長先生で名著「薩摩見聞記」の著者として紹介されている。 さつま町は、安四郎が赴任した盈進小学校があった宮之城町と近隣の鶴田町,薩摩町とが合併して平成17年(2005年)にできた新しい町である。


 

本富安四郎は明治19年(1886年)4月、長岡学校の教員を辞して上京し私立東京英語学校 (明治18年(1885年)、大学予備門の校長であった杉浦重剛により創設)に入学するが、 そこで教えていたのが鹿児島県宮之城出身の宇都宮平一(1858−1896)であった。薩摩藩は鹿児島城下だけではなく領国内の百十三カ所に 「外城(とじょう)」というものを置き、そこに半農半士の武士(外城士=郷士)を住まわせていた。宮之城はそのような外城の一つで宮之城島津家の私領 であったが、宇都宮は そこの微禄の士族(家中士)の子である。宇都宮は本富の七つ歳上で明治10年(1877年)の西南戦争に従軍している。敗戦後は獄に繋がれることはなく、釈免されて 宮之城に帰り、盈進尋常小学校の前身である宮之城小学校の教員になった。しかし、宇都宮は向学心に燃えて上京、土佐の豪商岩崎弥太郎が創設した三菱商業学校に 入学して経済学を学んだ。三菱商業学校は、福沢諭吉が創設した慶應義塾の分校的性格を持った学校であったという。本富は東京英語学校を明治22年(1989年)3月に卒業すると、その年の10月、 宇都宮平一の推薦により、かつて宇都宮が教えていた盈進高等尋常小学校に教員として赴任したのである。 宇都宮平一の詳しい経歴は 「広報さつま」 2018年12月号の「人物探訪 21 宇都宮平一」、 または「さつま町人物伝」(さつま町郷土史研究会、2015年11月刊)によって知ることができる。「さつま町人物伝」によると宇都宮は14歳のときに父親を 亡くしている。宇都宮は、没落士族の子として金銭的に恵まれない状況にありながら常に冷静沈着、君子然としている本富を高く評価していたものと思われる。 二人の間には師弟の関係を越えて心が通じるところがあったのではないかというのが私の推測である。本富の 「薩摩見聞記」は宇都宮が亡くなった後に出版されているが、その「緒言」には、「薩摩の知人故宇都宮平一君の校閲を経たり」の記述がある。


本富安四郎が宮之城の盈進高等尋常小学校教員として赴任した年の翌年、明治23年(1890年)の7月1日に 帝国議会開設に伴う第一回衆議院議員選挙が行われている。宇都宮平一はこの選挙に郷里から推されて立憲自由党(民権派)の候補として鹿児島4区 から立候補し、激戦の末、当選している。しかし、その翌々年(明治25年)の2月、帝国議会の解散に伴い行われた第二回衆議院議員選挙では、 政府寄りの吏党派の対立候補に僅か二四票差で敗れてしまう。その後、宇都宮は健康が勝れず、明治29年(1896年)12月に病没、享年38歳であった。 宇都宮は岩崎弥太郎に見込まれ、その子久弥の家庭教師をやっていたが、久弥は宇都宮の臨終を見守ってその恩に報いたという。 宇都宮平一没後、明治34年(1901)12月に追悼集「衝山言行録」(「衝山」は宇都宮の号)が刊行されたが、本富安四郎はそこに一文を寄せ、 熾烈を極めた第二回衆議院議員選挙の様子を活写している。この文を読むと、本富安四郎という人は大変ジャーナリスティックな才能を持った人で あったのではないかと思う。


ところで、宇都宮平一の追悼集「衝山言行録」には、大隈重信も追悼文を寄せている。 言うまでもなく大隈重信は明治新政府の参議兼大蔵卿であり、明治十四年の政変で一時失脚したものの、内閣制度創設後は、歴代内閣の外務大臣、 農商務大臣、内務大臣などを務め、明治期の外交・財政・経済に大きな影響を及ぼした人物であり、早稲田大学の創設者でもある。明治31年(1898年)には、大隈率いる進歩党と 板垣率いる自由党が合同してできた憲政党を基に、初めての政党内閣(隈板内閣)を総理大臣として組織している。宇都宮の追悼集の大隈重信の追悼文に 関係することだが、「広報さつま」 2018年12月号の「人物探訪21 宇都宮平一」によると、宇都宮は明治17年(1884年)、26歳のときに、 自由民権運動の闘士中江篤介(兆民)らが提唱して上海に創設された亜細亜学館に教頭兼舎監として招かれて、その経営に参加している。 館長の末広重恭が現地に赴くことができなかったので、宇都宮が館長の役割を果たさざるを得なかった。しかし学館の 経営は行き詰まり閉校。大隈が宇都宮の追悼集で思い出として書いたのは、そのときに抱えた借金の後始末をし、日本への帰国を助けてやったことで あった。中江兆民は宇都宮の追悼集「衝山言行録」が刊行される直前に亡くなっている。


宇都宮平一に関係して、フランス革命に思想的基盤を与えたとされるルソーの「社会契約論」を日本に 紹介し(和訳「民約論」、漢訳「民約訳解」)、東洋のルソーとも称せられた中江兆民の名前が出てきたことは思いもかけないことであった。 「自然状態において人間は自由で平等な存在であり、本来善良な人間性を回復するために、堕落した文明社会を捨て去り、社会契約によって理想的な 共同体を作る」というのがルソーの思想である。中江は宇都宮とともに第一回衆議院選挙に立憲自由党から立候補して当選している。本富が 小学校教師として鹿児島に滞在した明治22(1889)年10月から明治25(1892年)年4月は、まさに自由民権運動の結果、国会が開設され、第一回と 第二回の衆議院選挙が行われた時期であった。このような時代状況にあってか、本富の「薩摩見聞記」には、当時の鹿児島における庶民(農民、町人)に関する記述が 多く見受けられる。本富の「薩摩見聞記」の中には、「思想家」、「政論家」としての中江篤介(兆民)の 名前が現れる(「人物、第二性質」の項)ので、本富自身、宇都宮を介して、もしくは宇都宮に出会う以前 から、中江兆民の思想の影響を受けていたのではなかろうか。


平成28年(2016年)、鹿児島では「明治維新150周年記念事業」の一環として、「明治維新と郷土の人々」という本が出版されたが、 この中で「明治維新と市井の人々−明治維新後の庶民の暮らし」、「明治維新と女性−武家の妻」、「明治維新と子ども−庶民の教育」の項で 本富安四郎の「薩摩見聞記」の記述が紹介されている。このうち、庶民の暮らしに関係する一番目と三番目の項目に於ける記述を以下に転載する。 まず、一番目の「明治維新と市井の人々−明治維新後の庶民の暮らし」の項で紹介されている本富の「薩摩見聞記」の中の記述は次の通りである。


○ 鹿児島県においては,明治維新後十数年が経っても,士族が議員や公務員などの公職を占めており 地域の指導者的役割を果たしていた。

○ 平民は,ごく一部の鹿児島市の商人以外は誠に憐れな状態で,財産も知識も勢力もなく,士族との間には大きな格差がある。維新から20年が経ち, 他県では士族と平民の区別は戸籍上のみになったが,鹿児島では未だに名誉の称号として有効であった。

○ 平民が士族に比べ振るわない理由は,次の二つだと考えられる。

 1. 資金がない。自給自足が基本のため商業が発達せず,農村も士族が地主で強い。

 2. 士族の人口が多い。他県に比べて鹿児島県は士族が多いため,平民の力が伸びない。


既出の中村明蔵氏の著書によれば、鹿児島は四人に一人が士族であるという土地柄であった。 全国的な士族の割合は6%くらいであるから、鹿児島がいかに特殊な土地柄であるかがわかると思う。鹿児島に士族が多い理由は前にも書いたように、 薩摩藩では鹿児島城下だけではなく、領国内の百十三カ所に「外城(とじょう)」というものを置き、そこに武士を住まわせたからである。 外城に住む武士は「外城士」と呼ばれ、知行・扶持が少ないため、農耕を営んで自活せざるを得なかった。「外城士」は江戸時代後期には「郷士」と 呼ばれるようになる。この「外城制度」と並んで薩摩には「門割制度」という農民支配の構造があり、薩摩の農民は近世に至っても中世的な農奴の ような状態に置かれていた。八公二民という高率の年貢を取られ、朝六時頃から夜八時頃まで働かされていた。したがって鹿児島には明治になってからも近代化を支える民衆層が十分に形成されていなかった。「門割制度」の実態に ついては、中村氏の本で詳しく述べられている。


このことに関連するが、本富安四郎の「薩摩見聞記」には大変興味深い表が載せてある。それは、 明治20年代前半頃の県別の県会議員数を士族と平民別に記したものである。これによると士族と平民の県会議員数は、新潟県が4と60、鹿児島県が 27と3である。士族の県会議員数の割合を計算してみると、新潟県が約6パーセント、鹿児島県が90パーセントである。新潟県の士族の県会議員数の 割合は、全国的な士族数の割合とほぼ等しいから全国的な平均に近いものと思われる。ところが鹿児島県の場合は、士族の割合25パーセントに比して 士族が県議会に占める割合は異常なほどの高さを示している。本富は、このような結果をもたらしている要因についても、鹿児島の社会の深奥部に 入り込んで鋭い分析をしている。本富の鹿児島での短い滞在期間を考えるならば、これは驚くに値することではなかろうか。


鹿児島県の「明治維新と郷土の人々」の「明治維新と子ども−庶民の教育」の項で紹介されている 「薩摩見聞記」の中の本富の記述は次の通りである。


○ 鹿児島県の就学児童の割合は、全国最低である。男子は就学対象児童の半分を越えてた程度で、 女子は就学児童の8〜9%に過ぎない。石川県は、男子が80数%、女子が60数%就学している。

○ 鹿児島市内の小学校の男女比は2対1だが、地方では最高でも男女比が3対1で学校によっては女子はいない場合もある。

○ 他県では維新から既に20数年経っているが、鹿児島県は事実上、10数年しか経っていないため就学率が低い。鹿児島の維新は西南戦争後からと 言って良く、それまでは封建制度が続いていた。西南戦争によって、鹿児島の人は世の進歩に遅れたことに気付いた。

○ 西南戦争後に鹿児島では各種学校の設置が盛んになり、明治20年(1887年)頃には小学校の積立金(有力者からの献金等を基にしたものと考えられる) は全国3位、学校の面積は全国2位になった。


薩摩では昔から士族の子弟のあいだで「郷中(ごじゅう)教育」という独特の教育が行われていた。 これは先生が生徒を教育するのではなく、年長者が年少者を指導するもので、判断力を養うための問答「詮議」や武芸の稽古、「虎狩物語」や 「三州府君歴代歌」などの暗唱を行った。これは薩摩武士団の士気を維持し、高めることを主たる目的にした教育であったものと思われる。 本富が新潟に帰った後、長岡尋常中学学校の生徒会の機関誌「和同会雑誌」に寄稿した一文、「南薩異事」は、この「郷中教育」の流れをくむ、 地域における青年会活動および夜学校についてのもので あったことは既に述べたところである。本富にとっては、鹿児島にやって来て初めて見たこの教育の印象がよほど強かったものと思われる。 他方、本富は次のようにも書いている。


「薩人が尚武の風を奨励するのはまことに結構なことであるが、その一方で、このことにのみ偏重して、学事上の奨励、 注意をしないので、子供たちが些細なことで学校を休んだり、家に帰っても復習をしない。また学業成績が不良であっても無頓着である。このような ことでは、子供たちが我儘、怠惰に流れ、その頭脳が軍人的粗葬簡単となって、緻密の思想、耐久の精神を欠き、学事を厭い、特に深奥なる哲理、 数理の研究に耐えることができない。薩人の気質はあくまで軍人的で、好んで陸海軍に入ろうとするにも係わらず、今日では、軍人となる者もまた おおいに学術を要するときであるから、諸種の兵学校において薩人が不成績を免れることが出来ないのはこの理由によるものである。」


鹿児島宮之城で教員を務めた本富の実感であったのだろう。なお、鹿児島県高等学校歴史部会による、 本富の「薩摩見聞記」の「復刻版」は、鹿児島県立図書館に所蔵されていて貸出可能である。明治31年版は、現在、 国立国会図書館のデジタルコレクション ( https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1901155/1 )として公開されていて、インターネットで自由に 見ることができる。「日本庶民生活史料集成 第12巻」(三一書房、昭和46年(1971年)刊)所収の「薩摩見聞記」は、その「解題」を書いた原口虎雄氏に よって、原作にはない句読点が施してあって読みやすい。そのうえ「補注」も付いていて便利である。


新潟県立長岡高等学校記念資料館には昭和37年に復刻された「薩摩見聞記」が3冊、明治31年刊の「薩摩見聞記」の「序」の稿本、 明治26年の稿本「薩摩風俗」(ともに安四郎の長男、本富一郎氏(元群馬大学教授)の寄贈)が所蔵・展示されているという。


<関連論文>

[1] 坪井昭二 :「第一校歌原作者・本富安四郎の『薩摩見聞記』と長岡の数学」、長岡高校同窓会会報 第76号(令和3年7月1日発行)、p.10

[2] 坪井昭二 :「越後人・本富安四郎の『薩摩見聞記』と薩摩の数学 ―西洋数学受容過程を通して日本の近代化を考える−」、日本科学者会議機関誌「日本の科学者」(2023年8月号) 、p.45-p.53

[3] 坪井昭二 :「越後人・本富安四郎の『薩摩見聞記』の中の「士平民」と薩摩の数学」、鹿児島大学名誉教授の会「樟寿会」のホーム・ページ (https://www.kagoshima-u.ac.jp/shoujukai/) の「会員のひろば」に掲載

<追記>

・[1] は「日本科学者会議鹿児島支部」のウェッブ・サイト ( http://jsa-kagoshima.sakura.ne.jp/) の「2021年度第2回科学のひろば」 からダウンロード可能
・[2] は Researchmap の著者のページ(https://researchmap.jp/shoji-tsuboi)よりダウンロード可能

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3.薩摩藩・開成所英語教授・巻退蔵=前島密

 

前島密(まえじまひそか)と云えば、「日本郵便(郵政)の父」として知られている人物である。私はその人が 越後・高田(現・新潟県上越市)の出身であることは以前から知っていた。その前島が、幕末に薩摩藩の洋学校「開成所」で英語教授を務めていた巻退蔵と 同一人物であることは、2016(平成28)年に、鹿児島県が「明治維新150周年記念事業」の一環として刊行した、「明治維新と郷土の人々」という冊子によって知った。 越後人・本富安四郎について、いろいろ調べている最中のことであった。越後人・前島密は、どのような経緯で薩摩藩・開成所の英語教授を務めるようになったのだろうか?  私は大いに興味をそそられた。


前島が亡くなった翌年、1920(大正9)年に、前島家から「鴻爪痕」という本が刊行されている。これは、前島と親交のあった市島謙吉氏に よって編纂されたもので、700余頁の大部な本である。この本のうち、明治9年までの「自叙伝(未定稿)」、市島謙吉氏による明治9年から終焉に至るまでの「後半生録」、 および「年譜」を一緒にしたものが「前島密−前島密自叙伝」(人間の記録21)として、「日本図書センター」から1997年に刊行されている。最近では、2019(平成元)年に、 加来耕三著「明治維新の理念をカタチにした−前島密の構想力」が「つちや書店」から刊行されている。この加来氏の本には、『行き路のしるし−前島密生誕百五十年記念出版』 (橋本輝夫監修、郵趣出版、1986年刊)がたびたび引用されている。この『しるし』は、1881(明治14)年に書かれた前島密の自筆遺稿集らしいが、私は未見なので、 これが「前島密−前島密自叙伝」(人間の記録21)に含まれる「自叙伝」と同じものかどうかわからない。いずれにしろ、加来氏の本には当時の前島密を取り巻く政治状況が 具体的に書かれていて大変参考になる。これらの本に描かれている、幕末から明治にかけて、志を持って激動の時代を生き抜いた男の姿は、私に深い感動を与えてくれた。越後長岡藩士で 幕末の洋数学者、鵜殿団次郎と前島との意外な接点も、上述の「自叙伝」によって知ることができた。 明治政府出仕後の前島と、大久保利通、大隈重信、土佐出身の豪商、岩崎弥太郎らとの交わりも興味深い。以下、これらの本に沿って、前島密の半生を追ってみようと思う。


巻退蔵(前島密)の幼名は房五郎といい、1835(天保6)年1月7日(太陽暦で2月4日)に、越後国頸城郡下池部村の上野助右衛門の子として生まれた。助右衛門は名字を許された豪農で、 造酒屋を営んでいた。母は、越後高田藩十五万石の目付役・伊藤源之の妹「てい」で、彼女は助右衛門の後妻であり、夫と先妻の間には、すでに一男一女があった。房五郎が生まれて 半年あまりで父助右衛門が亡くなった。房五郎が5歳になった年、「てい」は上野家を去り、実家のあった高田で母子二人の生活を始めた。「てい」の弟は糸魚川藩一万石の医家・相沢を 継いでいた相沢文仲(ぶんちゅう)であった。文仲は利発な房五郎を見込んで、糸魚川に呼び寄せ、漢学、漢方医学などの学問の初歩を学ばせた。11歳になった房五郎は、 高田藩の儒者・倉石トウ窩(とうか)のもとに入門し、儒学を学んでいる。その頃の房五郎は漫然と医学の修得を目標としており、 儒学はその基礎としてのものであった。儒学は、当時の知識人の一般教養であった。房五郎は、1847(弘化4)年、12歳のとき、蘭方医を志して故郷を後にし、独り江戸に向かった。


江戸に着いた房五郎はまず、糸魚川藩(藩主・松平直春)の下屋敷を訪ねたものの門前払いを喰わされている。そこで、次善の策として、糸魚川藩主の儒学の師を務めた、 都沢亨(一関藩儒)のもとへ押しかけ、なんとか塾生にして貰うことができた。しかし、持ち金はすぐに底をついた。房五郎は叔父の文仲に手紙を書いて泣きついたが、 あっさり断られている。そこで、学僕として雇ってくれる医師を捜して、あらゆる伝手を頼ってその斡旋を依頼してまわった。そして、運よく、開業医の上坂良安と云う人の家に、 学僕として入ることができた。以後の彼の人生は万事がこの調子であった。彼の生きざまは、志をもって懸命に努力しさえすれば、誰か助けてくれる人が現れ、 道は自ずと開けるものだということを教えてくれているように思われる。


房五郎の学び方は、あらゆる機会を捉えて学ぶという極めて実践的なもので、学者タイプの人間の学び方とはまったく異なるものであった。 彼は士族と農民の間の階層の出身(父親が豪農、母親が士族の娘)で、その点、世間を渡っていくうえでの逞しさを身につけていたように思う。例えば蘭学の学び方である。当時の日本には、 まだ活字印刷は普及しておらず、部数の多少あるものは木版刷りであったが、それでも部数は少なく、そのため書物はいずれも高価で、一般にはそれを手書きで写す筆写本が普及していた。 房五郎は江戸橋のほとりの「達磨屋」と知り会い、阿蘭陀本の邦訳書の筆耕の仕事を請け負い、収入を得ながら、西洋の知識を学んでいった。なかでもシーボルトの鳴滝塾で学んだ 高野長英が邦訳した『三兵答古知幾(タクチイキ)』は前後三回筆写し、ついには他人にこの本の内容を講義できるまでになったという。ちなみに、『三兵答古知幾』は、プロシアの 軍事学をオランダ語に翻訳したものを、さらに日本語に翻訳したもので、歩兵・騎兵・工兵(砲兵)の「三兵」を動かしての「takitek(タクチイキ)」=戦術(タクティクス)について 述べた解説書であった。


房五郎の人生の転機は、1853(嘉永6)年6月、アメリカ東インド艦隊司令官ペリー率いる黒舟の来航とともにやって来た。この頃、アメリカの 捕鯨船が日本の近海にまで進出しており、アメリカは、薪・水・食料を補給してくれる港を求めていた。ペリー艦隊は,蒸気フリゲートの「サスケハナ」と「ミシシッピ」, 帆走スループの「サラトガ」と「プリマス」からなっていた。このとき、蒸気艦の「サスケハナ」が「サラトガ」を、「ミシシッピ」が「プリマス」を曳航して浦賀に入港した。房五郎は、 幕臣で浦賀奉行の井戸石見守弘道が、ペリーの応接使として浦賀へ赴くこと、その石見守が行列の小者を求めていることを知るや、口入屋に頼みこみ、奴(やっこ)としてこの行列に 加わり浦賀に赴いている。房五郎、19歳のときである。 千石船の25倍の巨船、しかもペクサン砲という、当時の最新鋭の大砲を搭載した軍艦を見て、胸の内に湧いてきた感慨を房五郎は のちに、次のように回想している。「此ノ遭ヒ難キノ時<国家ノ多難ノ際>ニ遭遇ス。豈ニ徒(いたず)ラニ生涯ヲ医ノ小技ヲ以テ終ユヘケンヤ。須(すべから)ク志ヲ勃興シ、 微力ヲ国ノ大事ニ尽スベシ<今日ノ急務ト云ヘルハ海防策ニ過クルハナシ>ト」(加来著前掲書、p.42)。蘭方医志望から「救国の志士」への方向転換であった。


その後、房五郎は西国を巡る旅に出た。旅の目的は海防の現状をわが目で確かめるということであったらしいが、野宿を前提としたもので、 日本オオカミや山犬に襲われる危険を冒してのものであった。江戸から信濃路をとり、いったん郷里に立ち寄ったのち、北陸路を抜け、山陰地方から馬関(下関)を経て、豊前小倉に上陸、 博多から海岸沿いに長崎へ、南下して肥後から日向に至る。国への出入りを厳しく管理していた薩摩には入らず、豊前佐賀関(現・大分県大分市佐賀関)に戻り、 そこから四国・伊予国(現・愛媛県)へ。伊予から讃岐(現・香川県)へ出て、船で紀州に上陸、伊勢路を巡って、三河に至り、東海道に入って伊豆下田に到達、船便で江戸に帰った。


江戸に戻った房五郎は、旗本・設楽弾正(したらだんじょう)の屋敷に下僕として住み込むことができた。この弾正の実兄が、幕末にその開明ぶりを謡われた岩瀬忠震(ただなり)であった。 房五郎は1855(安政2)年、20歳のときに、西洋流砲術の大家・下曽根金三郎に入門している。 この下曽根金三郎は、高島流西洋砲術の創始者・高島秋帆の二番弟子で、秋帆の一番弟子が、佐久間象山の西洋砲術の師で伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門(英龍、ひでたつ)であった。


黒船来航の翌年、1854(嘉永7)年3月、日米和親条約が結ばれ、下田と函館が開港された。幕府はそれまで、江戸湾における砲台(お台場)の 建設に力を注いできたが、江戸湾の防備には近代的な軍艦を整備しなければならないことを痛感し,その後一週間ほどで帆装軍艦と蒸気商船をオランダに発注することを決めた。 これを受けて、安政2(1855)年6月、オランダ製の蒸気船スームイング号が長崎に入港(オランダ国王からの寄贈)、御かんこう用船となり、観光丸と命名された。同年10月、 幕府は長崎に海軍伝習所を設立。観光丸は、航海術、機関学を学ぶための海軍伝習所の練習船となった。 幕末から明治にかけて活躍する幕臣の勝海舟、榎本武揚はこの伝習所で学んでいる。しかし、房五郎には長崎の海軍伝習所で学ぶ資格がなかった。


幕府は、安政3(1856)年6月、築地に「講武所」を設立し、旗本の師弟に洋式兵術を学ばせた。安政4(1857)年、観光丸を長崎から江戸に 回航。このとき、観光丸の運用長を務めたのが旗本の竹内卯吉郎貞基であった。同年4月、幕府は講武所の中に「軍艦教授所」(後に、「軍艦操練所」と改称)を設けて、 竹内を教授に任命した。竹内は高島秋帆のもとで西洋砲術を学び、安政元(1854)年の時点で、 海軍伝習所の準備に来日したオランダ海軍のヘルハルドゥス・ファビウス中佐に、反射炉使用法や汽船操縦法を学んだのち長崎海軍伝習所に入所した経歴の持ち主であった。


当初、この回航の実務を、幕府御船手頭で七百石取りの江原圭助が担当するとの下馬評があった。これを知った房五郎は、江原邸にもぐり込み、 江戸における「軍艦教授所」に自らも加えて貰うべく「修活」を行っている。しかし、江原の軍艦奉行就任は流れ、房五郎の伝習も実現しなかった。このとき房五郎は、江原邸にいた 磐城平藩士の槙徳之進に、長沼流軍学の講義を受け、その奥義の伝書『兵要録講義』二十冊の筆写を許して貰っている。転んでも、ただでは起きないのが房五郎の信条であった。 房五郎は竹内に頼み込み、観光丸が江戸湾を出航するための試運転の際に蒸気機関の見習い生として乗せて貰うことに成功した。房五郎は、機関学や航海術に携わる教師 (多くは長崎海軍伝習所の一期生)たちに、積極的に話しかけ、疑問をしつこく質した。このとき、房五郎にとって意外だったのは、軍艦教授所の教授や海軍士官候補生たちは、 国防の要である海軍を作るのに金が必要だということはわかっていても、その金を生み出すには諸外国との貿易が必要であるとの発想が全くなかったことであった。士農工商の身分制のもとで、 商いは卑しいもの、武士がかかわるものではないという常識がまかり通っていたからである。


この頃、函館の幕府奉行所のもとに、「諸術調所」が設立されたという情報がもたらされた。教授(所長)は武田斐三郎(あやさぶろう) (成章)であるという。武田は伊予大洲藩士で、緒方洪庵に学んだあと、安政3(1856)年、江戸に出て、佐久間象山に入門し、そこで西洋砲術に加え、西洋流の築城術を身につけていた。 安政6(1859)年、佐久間象山の推挙で幕臣となり、航海術を学び、長崎や蝦夷地に派遣されて、ロシアのプチャーチン、アメリカのペリーとの折衝にあたっている。そのうえ、蝦夷地では 函館の弁天崎砲台、亀田の五稜郭などを設計、建設の指揮を執っていた。「諸術調所」の教授は武田ただ一人であったが、外部の者にも門を開いているというのが何よりも魅力であった。


安政5(1858)年3月、「諸術調所」に入所すべく、房五郎は函館に向け、江戸を後にした。23歳のときであった。このとき、房五郎は名前を 「巻退蔵」に変えている。『中庸章句』(儒学の古典『中庸』の注釈書)の巻頭に、『中庸』を解説したくだりがあり、「其の書は始めに一理を言ひ、中ごろ散じて万事となり、 末に復(ま)た合して一理となる。之を放てば則ち六合に爾(わた)り、これを巻けば則ち密に退蔵し、その味わい、窮まりなし」とある。「巻退蔵」の名前はここに由来するという。 「退蔵」とは「退(ひ)いて蔵(かく)れる」の意である。この年の6月、幕府は、大老井伊直弼のもとで、朝廷の勅許を得ぬまま、日米修好通商条約を始めとする、 安政の五か国条約に調印した。第13代将軍・徳川家定の後の将軍継嗣問題もからみ、率兵上洛を決意していた薩摩藩主・島津斉彬が、軍事演習を指揮、閲覧中に発病し、同年7月16日(新暦 8月24日)に急逝した。 享年50歳(満49歳)であった。


函館についた退蔵は、函館奉行所調役の山室総三郎の屋敷に寄寓することになった。安政6(1859)年に、退蔵は「諸術調所」に 入所を許されている。しかし、教授の武田は多忙であり、講義は開店休業の状態であった。退蔵は「諸術調所」が所蔵する米人ボーデッティの航海書ほか、閲覧可能な洋書を独学で勉強した。 わからないところは先輩に尋ねた。そのうち、「諸術調所」には「函館丸」というスクーナー型帆船(2〜4本マストを持つ、縦帆式の洋式帆船)を所有していることが知れる。 実習費が捻出できないため、そのまま港に繋がれているのだと云う。ここで、士と農の身分の際(きわ)で育った退蔵の本領が発揮される。退蔵は、「函館丸」 を使って蝦夷地の海産物を大阪に運んで売りさばけば、利益が得られることを武田に建議した。士分の武田には、このような発想はまったく無かった。前島の「自叙伝」には次のように書いてある。


「余はここにおいて建議して日く、蝦夷海産物の価はここに低くして大阪辺に高きを以て、これを運搬して利益を得べきなり。 今函館丸の空しく港内に碇繋するは惜まざるべからず。海産物の運搬によりて経費を償うに余りあるべし。但し官船なるを以て、商人と利を争う事は或は政府の許さざる所なるやを 知るべからざるを以て、名を日本海測量に藉りて、荷足のために海産物を積むとせば、名実共に挙(あが)るを得んと」


武田は退蔵の建議を受け入れ、安政6(1859)年7月、箱館奉行所が所有する箱館丸に乗り、産物を積んで自ら指揮し、門下生を率いて、 佐渡‐隠岐‐馬関(下関)−長崎‐播暦‐摂津‐堺と巡行し、さらに、上総、下総から陸奥を経て南部の宮古で越冬し、ここで熔鉱炉を見学、翌安政7(1860)年1月、箱館に帰って来た。 退蔵自身は、この航海によって、航海測量と帆船の運転を学ぶことができた。さらに、同じ年、箱館丸による2回目の日本一周の航海実習が行われ、これにも退蔵は測量役として乗り込んでいる。 退蔵は、2回目の航海はあまり乗り気ではなかったようであるが、武田の推挙があり、塾生の勧めもあって乗船した。その後、廻船問屋に頼んで、廻船問屋の海陸の実務を学び、 さらに樺太南岸まで航行している。退蔵の頭の中には、この頃、既に船を使って貿易をする構想が湧いていたのかも知れない。この年の3月3日に、「桜田門外の変」が起こり、 井伊大老が暗殺された。3月18日より年号が「万延」に変わった。


こうした箱館での生活は実り多いものであったが、江戸の友人から、時勢多難な時、江戸に帰れとの連絡があったため、江戸に帰ることにして、 箱館奉行所の支配組頭向山栄五郎に従って江戸に帰ってきた。万延元年12月のことであった。このとき、退蔵が仕えた向山栄五郎は、後に徳川慶喜の名代として、パリ万国博覧会に参加するためにパリに 渡航した徳川昭武に従って渡仏している人物である。 江戸に戻った退蔵は、長崎奉行所の調役に任じられた旗本の従者として長崎へ赴いている。このときの長崎滞在は短かったが、瓜生寅(うりゅうはじむ) という人物と知り合いになった。瓜生は元福井藩士で、15歳のとき、藩政の不祥事により、父が処刑された。そのため、一家は離散。独り京都に上った瓜生は、退蔵と同様、医学から蘭学の道に進み、 さらに時世を考えて英学修行を志して長崎に遊学していた。後に退蔵が、長崎において、何礼之(がれいし)の英語塾の塾生のための寄宿舎として作った「倍社」の所長を依頼することになる男である。


万延2(1861)年、ロシア軍艦「ポサドニック」による対馬占領事件が起こった。幕府は、ときの外国奉行・小栗忠順(ただゆき)らを現地へ 派遣したが、ロシア軍艦は容易に退去しようとしない。そこで、幕府はイギリスの力を借りつつ、改めて外国奉行の野々山丹後守兼寛(かねひろ)を派遣。これに外国奉行組頭に昇進した 向山栄五郎も随行することになり、退蔵はこの従者として同行することになった。同年8月、江戸を出発した行列は、中山道をノロノロと進んだ。ゆっくり対馬に向かって進むうちに、 イギリスがロシア軍艦を撤去してくれることを期待してのことであった。40日以上もかけてようやく長崎に到着した一行は、ここでも無為に時間を費やし、10月下旬になってようやく、 薩摩藩の「天祐丸」を借りて対馬に向かったが、予想通りロシア軍艦は既にいなかった。

   

対馬からの帰路、退蔵は「今、自分に何ができるか」を考えた末に、長崎に留まることにした。 江戸時代、鎖国下の日本にあって、長崎は西洋文化の主たる流入口であったが、 幕府は安政5(1858)年に、日米修好通商条約をはじめ、同様の条約をイギリス、フランス、オランダ、ロシアとも結び(安政五カ国条約)、安政6年(1859年)には、 箱館、横浜、長崎(下田を閉鎖)を開港し、本格的な貿易が開始されていた。したがって、万延2(1861)年頃の長崎は、国際都市として活況を呈していた。新潟、神戸の開港、 江戸や大坂の開市も予定されていたが、攘夷運動の高まりにより、これらは大幅に延期された。退蔵は、既に航海術を修得していたし、機関学も講義できるまでになっていた。 出雲松江藩や越前福井藩が汽船を購入すると、それに応じて操船技術を教導し、ときには回航の実務を担うこともあった。

   

この長崎滞在中に、退蔵は舶来の『米国連邦志略』という書物と出会っている。後年、退蔵は、この書物の中に「駅逓」(郵便)のことが 書かれていたと回想している。退蔵は、キリスト教の伝道のかたわら洋学=英語を教えていたアメリカ人宣教師、チャニング・ムーア・ウイリアムズ (Channing Moore Williams、中国名: 維廉、1829 - 1910)に、アメリカの通信制度のことを質問したという。このウイリアムズは、米国聖公会に属しており、中国での伝道活動のあと、 安政6(1859)年、ジョン・リギンズとともにプロテスタント最初の宣教師として長崎にやってきた。文久2(1862)年10月には、ウィリアムズは、ジョージ・スミス主教の寄金と 居留外国人の献金によって長崎・東山手居留地内(東山手11番地)に完成した英国聖公会会堂(日本で最初のプロテスタントの教会)の初代チャプレン(チャペルで働く聖職者)となった。 この時期、ウィリアムズのもとを訪れた高杉晋作に、欧米事情を教授している。また、大隈重信、巻退蔵らに英語や数学などの英学を教えた。ウィリアムズはのちに立教大学を 創設するが、早稲田大学創設者の大隈重信、校長となる巻退蔵にも大きな影響を与えた。

   

長崎に居つづけた退蔵は、文久3年(1863年)、幕府が遣欧使節団を準備しているとの情報を耳に挟み、その通訳官の候補に 何礼之助(がれいのすけ)(のちの礼之(れいし))の名前があがっていることを人伝に知った。この何礼之助は、唐通事で住宅唐人(華僑)の子孫である何静谷(栄三郎)を父として、 天保11(1840)年に、長崎で生まれている。天保15(1845)年、父の引退に伴い、5歳で家督を継いだ。15歳の頃中国語を修めた。この頃、外国艦が日本近海に迫り、開国を求める動きが 加速していたため、西欧語の習得の必要性が増していた。何(が)は在長崎の唐人から華英辞典を求め、独学で英語を学んだという。安政5年(1858年)に日米修好通商条約が締結されると、 長崎も開港地となり通商が開始されたため、幕府から税関業務の従事を命ぜられた。同年7月、幕府が設立した長崎英語伝習所で英語を学び、後には教師も勤めている。この英語伝習所は、 英通詞(つうじ)の養成を目的に、安政5(1858)年に設立されたものである。最初は英・仏・露の語学伝習所として始まり、英語習得を希望する生徒の増加により、英語伝習所が分離、 独立した。英語伝習所の生徒は通詞や地役人の子弟であり、教師は長崎海軍伝習所のオランダ海軍軍人や、英国人のラクラン・フレッチャー(Lachlan Fletcher、後の横浜領事)らが務めた。 1859年にアメリカ人のD.J.マゴオン(マクゴーワン Macgowan)に英語を学んだ後、ウィリアムズ(既出)、リギンズ(既出)、R.J.ウオルス(ワルシ Walsh)、フルベッキより、本式の英語を 学び、次第に通訳・読書が上達し英語の達人となっていった。文久元(1861)年の「ロシア軍艦対馬占領事件」の際には、長崎奉行の退去交渉に通訳として随行している。英語通訳の功績により、 文久3年(1863)年7月に長崎奉行所支配定役格に任ぜられ、幕臣となった。ついで長崎奉行所の英語稽古所の学頭となった。


文久3(1863)年、孝明天皇に攘夷を約束した幕府は、12月に不可能を承知の上で横浜港の再封鎖を交渉するため、フランスへ外国奉行・池田長発を全権とする交渉団を派遣することになった。 何(が)が通訳として随行を命ぜられたのは、この遣欧使節団である。退蔵は何(が)に、「自分こそ従者にふさわしい」と売り込んだ。「自叙伝」・『鴻爪痕』に次のように書いている。 「是に於いて彼国の実況を概見したし、と熱望し居たる余は、彼地に至らば止まるべき好機を見出すべきやとの空想に駆られ、何れ、何等の準備も無くして、其従者たらんと請いしに、 氏は之を諾せり」。同年12月、二人は筑前福岡藩の帆船「コロンビア号」(邦名・大鵬丸)に乗船して江戸を目指した。ところが運悪く、途中、汽罐の漏水などの故障が続出し、 ようやく江戸に着いたときには、既に使節団は品川沖を出帆した後であった(12月22日出立)。


 

長崎に戻った何(が)は、英語伝習所に殺到する捌き切れない入門者を収容すべく、自邸に私塾を開くこととし、その塾長には退蔵を任命した。 この塾には、アメリカ人宣教師フルベッキなども参加し、内容も充実していて、塾生は瞬く間に300名を超えた。退蔵を塾長とする英語塾は順風満帆かと思われたが、退蔵が思いついて作った塾生のための 寄宿舎、「培社」が足を引っ張る結果となった。英語塾には、着の身着のままの貧しい塾生が沢山いた。見るに見かねた退蔵は、低額の費用で寝泊まりできる寄宿舎、「培社」を 開設した。所長は、以前知り合った瓜生寅に依頼し、自分は経理を引き受けた。「培社」は、瞬く間に満杯になったが、寄宿生の大半は低額の費用すら持たない人々であり、もともと収支が 合っていなかった。赤字分を補うため、退蔵らは、これまで以上に、諸藩が長崎で購入した汽船の航海士、機関士として雇われて、物品を他郷に運び、 一方で翻訳も手掛けた。そうこうするうちに、薩摩藩から洋学の教授として、退蔵に招聘依頼が来た。「培社」の一人、薩摩藩士・鮫島誠蔵(諱は尚信)の斡旋によるものであった。


文久元(1861)年9月以降、退蔵が江戸に戻らず、そのまま長崎に留まっていた前後の薩摩藩では、丁度、幕末の動乱が沸点に達しようとしている 時期であった。この頃の日本史の年表を書き出してみると、次のようになる。

・文久2(1862)年3月、島津斉彬の後を継いで薩摩藩主となった茂久(のちの忠義)の父、久光は、公武合体運動を推進するため、兵を率いて上京

・同年4月23日、寺田屋事件が起こる。伏見寺田屋に結集していた有馬新七ら薩摩藩の尊王攘夷派過激分子を、久光の命により粛清

・同年5月9日、朝廷に対する久光の働きかけにより、幕政改革を要求するため勅使を江戸へ送ることを決定。要求事項は次の3項目:

 1)将軍・家茂の上洛、
 2)沿海5大藩(薩摩・長州・土佐・仙台・加賀)で構成される5大老の設置、
 3)一橋慶喜の将軍後見職、前福井藩主・松平春嶽の大老職就任

・同年5月21日、久光は勅使・大原重信に随従して京都を出発、6月7日、江戸到着、7月6日、慶喜の将軍後見職、春嶽の政治総裁職の就任を実現させる。(文久の改革)

・同年8月21日、江戸を出発しての帰路、生麦事件が起こる。

・同年12月24日、会津藩主・松平容保、京都守護職として京都に入る。

・文久3(1863)年7月(太陽暦8月)、薩英戦争おこる。

・同年8月18日、8・18クーデター、公武合体派の公卿・会津藩・薩摩藩が攘夷派の公卿・長州藩勢力を排除、尊攘急進派公家7卿の都落ち

・元治元(1864)年3月、薩摩藩の久光の建議に基づいて設けられた参預会議が、孝明天皇が希望する横浜鎖港をめぐって、限定攘夷論(鎖港支持)の徳川慶喜と、武備充実論(鎖港反対)の 島津久光・松平春嶽・伊達宗城とのあいだに政治的対立が生まれた。結果的に久光ら3侯が慶喜に譲歩し、幕府の鎖港方針に合意したものの、両者の不和は解消されず、参預会議は機能不全に 陥り解体。薩摩藩が推進した公武合体運動は頓挫。久光は3月14日に参預を辞任、小松帯刀や西郷隆盛らに後事を託して、4月18日に退京し、5月8日に鹿児島着

・同年4月、桑名藩主・松平定敬(さだあき、松平容保の実弟)、京都所司代に就任

・同年(1864)年6月5日(7月8日)、池田屋騒動が起こる。京都三条木屋町の旅籠・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、京都守護職配下の新選組が襲撃

・同年7月19日、禁門(蛤御門)の変。 一会桑政権(将軍後見職・一橋慶喜、京都守護職・会津藩主松平容保、京都所司代・桑名藩主松平定敬(さだあき)が中心にいたので、このように 呼ばれる)が薩摩藩の助けを借りて、上京出兵してきた長州藩兵と戦火を交え、敗走させる。これにより、長州藩は朝敵となる。

・同年7月23日、第一次長州征伐(〜同年12月)、西郷隆盛が長州との交渉にあたる。

・同年8月5日、四国(英・米・仏・蘭)連合艦隊の下関砲撃


薩摩藩は、文久3(1863)年7月の薩英戦争で敗者になることはなかったが、軍事技術面、とりわけ海軍力での西洋との差を思い知らされ、 戦争後の和睦交渉を経てイギリスと急接近することになった。その結果、薩摩藩は、1864(元治)年6月に、洋式による軍制拡充と軍事強化の人材養成を目的とする洋学校「開成所」を開設した。 その英語教授に退蔵をスカウトしたのである。元治元(1864)年10月17日、退蔵は招聘を受け入れて、薩摩藩の御雇いとなった。その直後、紀州藩から、藩が長崎で購入した蒸気船「明光丸」 の機関士、航海士として紀州まで乗り込んで廻船してほしい、との依頼が来たので、この仕事を片付けてから薩摩に赴くことにした。「明光丸」の紀州への廻船の仕事を終えて、 12月末に長崎に帰ってくると、退蔵が経営する「培社」に騒動が起こっていた。「培社」の所長の瓜生寅が「社」の金を使い込み、「社」の寄宿生と対立し、紛争状態にあった。仕方なく、 退蔵は「培社」の閉鎖を決断した。


慶応元(1865)年正月、退蔵は薩摩藩の船で薩摩に向かった。船中で西郷吉之助(隆盛)の姿を見かけたが、言葉を交わすことはなかった。 薩摩藩の開成所は蘭学と洋学の二つに分かれていた。洋学の生徒の数は日増しに増え、退蔵独りでは捌ききれなくなったので、「培社」の寄宿生であった林謙三と橘恭平を呼び寄せ、 助手としている。薩摩藩の退蔵に対する待遇はいたれりつくせりであった。はじめは客分扱いであったが、薩摩藩は退蔵に藩士身分(小姓与、こしょうぐみ)を与えるという好意を示した。


ある時、藩士の奈良原繁の家での酒宴招かれたことがあった。このとき同席した大久保利通が退蔵に話しかけて来た。「お主は航海術と機関学をともに 修めたと聞いたが、本当か? わが藩はいま海軍の建設を急いでいる。願わくは、お主の知識を薩摩海軍に貸してくれないか」。これに対する退蔵の返答は次のようなものであった。 「曰く否、余は海軍士官たるを欲せず。商船事業の世話役たらんことを願ふ。顧(おも)ふに海事(海軍)の事、幕府及び諸大藩皆既に之に注意せり。故に其の人競ひ出でその力大いに振はん。 而して商船の事に至りては殆ど着目する者なきが如し。是れ本邦尚武の風ありて士を尊び商を卑むの弊習に因るべし。余は自ら量(はか)らず此の卑商の弊を矯(た)めん(是正せん)が為め、 商船事業の世話たらんと希望するのみ」。さすがの大久保もこの時点で、日本全体の「富国強兵」のために、産業を興し、貿易を振興する必要性に思い至っているわけではなかった。


退蔵は、薩摩藩家老・小松帯刀やその他の志士に接して藩情を問うと、藩の大勢が倒幕で固まっていることを知った。退蔵が考えていたのは、 幕府が大政を朝廷に奉還し、併せて国政国防の費用に供すべき若干の領地を献納し、その不足分は他に賦課して、徐々に国政を改革していく道であった。それを実現するには、すぐにでも 江戸に帰り、既知新知の有力者に謀り、その方策を描かせないといけないと考えるようになった。丁度そのとき、退蔵の異母兄の上野又右衛門の大病が、友人たちの手によって伝えられた。 退蔵はこれ幸いと、休職願を出し、慶応元(1865)年12月1日に薩摩を出港し、江戸を経由して12月21日、郷里に帰った。退蔵は薩摩を後にするとき、藩命をもって、自分に代わるべき人の 推薦を嘱託されたので、長岡藩士・鵜殿団次郎を推薦すると、必ず斡旋の労を取るべしと命じられたので、それより、風雪を冒して長岡に至り、鵜殿を説得したが、ついにその目的を達する ことはできなかった、と「自叙伝」に書いている。長岡藩士・鵜殿団次郎は、幕府蕃書調所の数学教授を務めていた洋学者である。元治元(1984)年、幕府の歩兵指南役を命じられたが、 まもなく病と称して辞職し、郷里の長岡に帰っていた。


実は、退蔵が薩摩に滞在していた慶応元(18965)年の2月より、勝海舟の神戸海軍操練所閉鎖に伴い、勝の塾生20名程が小松帯刀の世話で 鹿児島に滞留しており、その中に鵜殿団次郎の異父弟、白峰駿馬(1847−1911) がいたのである。この事実は桐野作人氏の「さつま人国誌151」(2010年5月31日付、南日本新聞)で知った。 白峰たちは2か月後、長崎に移動し、坂本龍馬を中心に、薩摩藩の援助のもとで亀山社中を起こしたが、鹿児島での滞在期間が退蔵と重なっているので、おそらく退蔵と白峰は鹿児島で会って いるのではなかろうか。白峰は、その後、長崎の何礼之の英語私塾に薩摩藩士として入塾している。白峰は、坂本竜馬の「海援隊」の一員として活躍し、明治なってからアメリカに渡り、造船業を学び、神奈川県青木町(現・横浜市青木町)に白峰造船所を興した。しかし、数年後、経営に失敗して倒産している。晩年には「白峰砲丸」という砲弾を発明して叙勲されている。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                               

神戸海軍操練所は、元治元年(1864年)5月に、幕府軍艦奉行の勝海舟の建言により、幕府が神戸に設置した海軍士官養成機関・海軍工廠で あるが、同年7月19日の「禁門の変」の責任を問われ、同年11月10日、勝が幕府軍艦奉行を罷免されたことに伴い閉鎖された。薩摩藩士で後の海軍大将・伊東祐享も神戸海軍操練所の塾生で あったが、鹿児島県立図書館所蔵の「海軍中将伊東祐享君之事績」によると、操練所の閉鎖後、伊東は行方がわからなくなったという。後年の伊東の回顧談によると、伊東はこの時、江戸に 赴き、幕府の「軍艦操練所」に入所したが、開店休業の状態で、やむなく、郷里・長岡に帰っていた鵜殿団次郎を訪ね、鵜殿の自宅に寄宿し、航海術の教えを受けたという。鵜殿の名前は それだけよく知られていたということであろう。 これは1865年2月以降の事であり、伊東が長岡から鹿児島に帰ったのは、1866年4月であるから、退蔵が鵜殿を訪ねた1865年12月には、 伊東は鵜殿の自宅に寄宿していたのである。後年、退蔵は、何故、鵜殿が薩摩藩の招聘に応じなかったのか、その理由を、伊東の懐旧談(「展墓追懐」(「長岡中学読本」人物編所収)を参照 )によって知った、と「自叙伝」に書いている。退蔵が訪ねた時、鵜殿のもとには、既に幕府から軍艦役格への召命が来ていて、鵜殿はこれに応じることを決めていたのである。後に、 鵜殿は、勝海州の推挙により、幕府目付役に昇進している。幕府瓦解後、鵜殿は長岡に帰り、明治元(1867)年、38歳で病没した。「日本の数学100年史 上」 (「日本の数学100年史」編集委員会, 岩波書店, 1983年)に「数学が良くできる人」として名を残すほどの人であった。


江戸に帰った退蔵のもとに、幕臣で京都見回組の前島錠次郎という人が、母一人を残して急死し、跡継ぎがいない、との話がもたらされた。 慶応2(1866)年 3月、退蔵は前島家の養子となり、家督を継いで前島来輔と名乗った。退蔵は幕臣となったのである(以後、「退蔵」を「前島」と記す)。この年1月、伏見寺田屋事件が 起こり、坂本龍馬が襲撃された。同年8月、前島は、幕府開成所頭取の松本寿太夫の紹介で、開成所の反訳(ほんやく)筆記方になった。これは、教授たちが翻訳した内容を修正しつつ 筆記するという仕事であった。松本は前島の仕事ぶり、その学才に惚れ込み、慶応3年(1866年) 5月に、「開成所数学教授」のポストを用意し、内定となった。しかし、 前島はこれを辞退した。前島がついたのは、兵庫奉行所の手付役であった。


これに先立ち、慶応2年(1866)年12月、第二次長州征伐の失敗、14代将軍家茂の急死を受けて、将軍後見役であった一橋慶喜が15代将軍に 就任した。慶喜は孝明天皇の崩御で、慶応3(1867)年正月9日に天皇になった明治帝の勅許を得ないまま、懸案になっていた兵庫の開港事業を進め、開港反対の公家を説得して、5月29日、 勅許を得た。そして、7月には、兵庫奉行・柴田日向守剛中(たけなか)を派遣するに至った(大阪町奉行との兼任)。前島には、神戸開港に伴う関税や保税倉庫の実務を学ぶという意図が あった。この後、歴史は大きく動いた。同年10月、徳川慶喜が大政を朝廷に返還、11月、京都近江屋で坂本竜馬と中岡慎太郎が暗殺される。12月、王制復古のクーデターが起こり、 徳川排除の政治体制ができる。翌慶応4(1868)年1月、鳥羽伏見の戦いが勃発、5月、五か条の御誓文が発布される。4月、江戸城無血開城。鳥羽伏見の戦いが起こったとき、 前島は兵庫奉行所の支配調役として神戸にいた。いわば敵地の真っただ中に、取り残されたようなものであったが、少しも慌てず、税関に詰め切りで残務整理にあたり、官軍と化した 薩長側に奉行所を引き渡す際に、いささかの遺漏も無いように心がけたという。


江戸に戻った前島の耳に、大久保一蔵(利通)が都を京都から大阪に遷す考えである、との風評が聞こえてきた。しかし、前島の考えでは、遷都の地は江戸でなければならなかった。 そこで、前島は建白書を大久保に届けることにした。この建白書の草案が本人の手許に残っていたので、その内容を知ることができる。建白書には副陳書が添えられていて、 そこに述べられている、遷都の地が江戸でなければならない理由の要点は、およそ次の通りであり、いずも説得力がある。

(1) 大政府所在の帝都は、帝国の中央の地でなければならない。将来の蝦夷地開拓のことを考えると、浪華は不便であり、江戸こそふさわしい。

(2) 浪華は運輸の便利な地であるというが、これは、和形小船の時代のことである。これからは大型蒸気船の時代であるから、これを受け入れることができ、また修理するに 便利な土地である必要がある。この点で浪華はふさわしくない。これに反して、江戸は既に築かれた砲台を利用して、安全かつ大型船を繋ぐ港を容易に造ることができる。また、 横須賀(小栗忠順の創業した製鉄・造船所)も近く、修繕も容易である。

(3) 浪華は市外、四通の道路が狭隘で郊外の平野も広くないので、将来の大帝都としての発展は望めない。これに反して、江戸の地は八道の道路は広く、四顧の雲山もはるか 遠くに見えるほど広いので、将来の発展が望める。

(4) 浪華の市街は狭小にして、車馬を走らせるのに適していない。これを改築するには、経費もかさみ、多くの民役を必要とする。これと異なり、江戸の市街は道路も広く、 一つの工事も必要としない。

(5) 浪華に遷都すると、皇居・官庁・要人の屋敷・学校など皆新築する必要がある。 しかし、江戸には、官衙、大きな学校、諸侯の藩邸、有司の邸宅が備わっているので、これらを利用すれば工事の必要がない。

(6) 浪華は帝都にならなくとも、衰退を心配する必要は無い。しかし、江戸は帝都とならなければ、市民は四方に離散して、寥寥たる東海の一寒村となってしまうであろう。 帝都を江戸に遷すと、百万の市民は安堵し、外国に対しては、世界著名の大都を保存することにより、皇国の偉大さを示すことができる。


差出人は、「江戸寒士 前島来輔」としたためた。この建白書をいかにして大久保利通に届けるかが問題であった。世情は混乱しており、 通常の飛脚便では、無事に届くかどうか保証できなかった。そのとき、英国公使パークスが国書を奉呈するために大阪に行くという情報が入った。そこで前島は自分をその通訳の一員に 加えて貰おうと考えた。人脈を辿っていくと、日本語通訳官アーネスト・サトウにたどり着く。サトウは前島に好印象を抱き、彼の望みを聞き、自国の蒸気船に乗せて、大阪まで運んでくれた。 しかし、パークスの大阪滞在の期間は短かったので、この間に大阪から京都まで足を運び、大久保に建白書を手渡せるかどうか、確証はなかった。そこで、やむなく前島は「封緘し、 使丁(使い)を遣(や)りて、これを送呈」し、京都へ運ばせた。建白書は奇跡的に大久保の許に届き、その内容を吟味した結果が、江戸への遷都となった。これは、後年、前島が新政府に出仕し、 大久保と言葉を交わす機会が訪れたときに確かめられたことである。


江戸城が無血開城された後も、関東、北越、東北、蝦夷の各地で新政府軍と旧幕府軍との間の戦いは続いた。明治元(1868)年5月15日、 上野の山に立て籠もった旧幕臣からなる彰義隊は、わずか半日で崩壊、潰走した。同年同月24日、御三卿の一つ、田安家の亀之助が徳川宗家を相続し、駿府(現・静岡市)に70万石を賜って、 新たに立藩した。この時点で、旧幕臣には次の三つの選択肢があった。1)朝廷(新政府)に使える、2)帰農する、3)駿府への無禄移住。前島が選択したのは、3)であった。 前島は藩老勝海舟より、駿河藩留守居添役(のちに留守居役に昇進)に任じられた。行政手腕を買われた前島は、改めて明治2年正月から、遠州中泉奉行に任じられた。天竜川に沿って、 信濃の国境までの約8万石の地を統治する役であった。


明治2年6月17日、薩摩・長州・土佐・肥前の4藩が「版籍奉還」(領土と人民を朝廷に返上)、これにより、駿河藩は静岡藩と名前を変えた。 同じころ、新政府は官員が通称を用いることを禁じ、諱(いみな、正式の名)を使用するよう、通達を出した。ここに至って、名実ともに「前島密」が誕生したことになる。「来輔」は 通称で、「密」が前島の諱であった。諸藩の行政官=奉行も廃止され、新政府は中央集権化を目指して、地方行政の人材を中央から派遣するようになった。前島は中泉奉行の職を解かれ、 静岡に戻り、改めて「開業万物産係」に任じられた。藩立の物産会社を創る役であった。その調査に着手している最中、新政府の民部省から前島に出仕命令が届いた。上京し て民部省九等出仕を拝命したのは、明治2年12月28日のことであった。


この頃の新政府=太政官制は、たびたび変わっていてわかりにくい。「大蔵」と「民部」の二省が、その権限において重なることが多く、 揉めることが多かった。明治2年8月、民部省は大蔵省に併合されるが、翌年の7月には再び、分離、民部省は独立する。内務省はまだ誕生していなかった。前島が召命を受けたときの民部省は、 民部兼大蔵卿を伊予宇和島藩前藩主・伊達宗城が務めており、その下で事実上の全権を掌握していたのが大輔(たいふ)の大隈重信であった。その下の少輔(しょうゆう)が 長州藩士・伊藤博文、大丞(だいじょう、ナンバー4)が同・井上馨であった。西郷隆盛・大久保利通・木戸孝充(たかよし)の「維新の三傑」は、各省の上に超然としていた。 新政府内で最大の実権力を握り、行政の中枢たる民部省ではあったが、地道な行政手腕と「構想力」を持った人材が不足していた。この穴を前島のような旧幕臣が埋めていたと云ってよい。 前島は、旧制度を改め、新制度を創るための「改正掛」に参画して仕事をした。扱う内容は、租税制度、駅逓の方策、度量衡の統一、貨幣制度、禄制の改革、戸籍編成、電信・鉄道など 多岐に渡った。大隈は前島を評価し、改正掛のまま、租税権正(ごんのかみ、7等)に昇進させた。ようやく前島は「奏任官」になったのである。明治3年5月10日付で、租税権正のまま 駅逓権正も兼任することになった。


明治4年7月の「廃藩置県」に対応して、同年6月、大久保は参議を辞任して大蔵卿に就任した。同年7月27日、 大蔵省が民部省を吸収合併することが決定され、この時点で、大蔵卿であった大久保が前島のはるかうえの上司となった。明治4年11月12日、右大臣・岩倉具視を全権大使とし、 大久保、伊藤、山口尚芳(なおよし、外務少輔・佐賀藩出身)を副使とする約50名の使節団が、横浜をあとに欧米列強へと旅だった。この使節団の目的は、 1)徳川幕府が条約を締結した国々を歴訪して、元首に国書を奉呈する、2)欧米先進国の制度・文物の視察、3)目前に迫っていた条約の改定期限(明治5年5月26日)に向けて、 条約改定の予備交渉を行う、ことであった。


明治6年5月末、大久保が長い外遊を終え帰朝すると、留守政府を預かっていた西郷隆盛・江藤新平・板垣退助らが決定した李朝朝鮮への 使節派遣の一件―西郷を送り込み、開国を迫る。もし従わなければ討つ―いわゆる「征韓論」を巡って、帰朝組の大久保・木戸孝充・岩倉具視らとの間で大論争が起こった。大久保は 内政を優先し、まず国力を高めるべきことを主張した。この論争は大久保ら帰朝組の勝利に終わったが、同年10月、敗れた留守政府内の征韓論派、西郷隆盛、江藤新平、板垣退助らは、 いっせいに連袂辞任した(明治6年の政変)。ここに至って大久保は「内務省」の新設に動き、自ら参議兼内務卿になった。内務省は外務と文部を除く国政の中枢の権力を一手に集めた省で、 このとき大久保は名実ともに政府の「宰相」となり、独裁者に等しい権力を手に入れたと云ってよい。明治7年1月9日、この内務省に「駅逓寮」が移され、 前島は、さきに昇進していた大蔵省三等出仕の役は解かれたものの、専任の駅逓頭になった。同月29日、前島は、駅逓頭を兼務したまま、内務省のナンバー4である内務大丞に任じられた。


明治7年2月、参議を辞任した江藤が郷里の佐賀で擁立されて佐賀の乱が起こり、敗れた江藤は処刑された。同年7年4月、台湾出兵が行われた。 これは、さかのぼること明治4年10月、琉球の島民が台湾に漂着したところ、50余名が原住民に殺された事件であった。この内戦外征にあたって、政府系の「大日本帝国郵便蒸気船会社」は 全く機能しなかった。そもそも遠洋の航海に、この会社の船は役に立たなかった。また、政府系であるがゆえに反大久保派=木戸ら長州閥の息もかかっており、大久保の独断で動かすことが できなかった。ちなみに、維新の三傑の一人、木戸は台湾出兵に反対して、参議を辞任している。苦悩する大久保に、たくみに近づいたのが、土佐出身の豪商・岩崎弥太郎であった。これには 大隈の仲介、前島の進言もあり、大久保は政府が欧米諸国から購入した汽船13隻の運用を岩崎の企業集団・三菱に委託することを決めた。岩崎はこの軍需輸送を成功に導き、大久保の信頼を獲得、自らも 莫大な利益をあげるとともに、この宰相を後ろ盾することに成功した。


台湾出兵は、西郷隆盛の弟・従道(つぐみち)が独断で台湾に乗り込み、兵をもって事件の発祥地・牡丹郷などを占領。大久保の清国との 交渉によって、賠償金50万両を清国から得て、撤兵したものであった。このとき、大久保は、前島に「前島さァの郵便のおかげで、 おいは外交で勝ち申した」と語ったと云う。これは、前島が創った郵便制度が、清国に、琉球が日本国の一部あることを認めさせることに有効に働いたことを言っているのである。


琉球王国は、慶長14(1609)年、薩摩藩の侵攻により、薩摩藩と朝貢国‐宗主国の関係を結ばされ、その後250年以上にわたって徳川家の 治める日本の事実上の首都である江戸に一連の使節団を派遣していた。その一方で、中国とも冊封(朝貢)関係を続け、使節団の受け入れ(冊封使)と派遣(進貢使)を行っていた。 琉球王国は、いわゆる日本と中国への「両属」の関係にあったのである。明治政府は、1872年(明治5年)9月、琉球王国の使節団を東京に派遣させ、明治維新の成功を祝う言葉を 述べさせている。天皇は外務卿(外務大臣)の副島種臣に詔書を読み上げさせ、その中で琉球国王・尚泰を「琉球藩王」に昇格させ、華族に列した。が、当然のごとく、清国は日本の この措置に納得するはずもなかった。琉球の日本国への帰属は、微妙な問題を含んでいたのである。台湾出兵での清国との交渉過程でこのことが問題になった。これに先立ち、前島は駅逓頭として、 政府お雇いのアメリカ人ブライアンの助けを借りて、明治6年8月に日米郵便交換条約に調印していた。これにより、日本の切手を貼った郵便物は、そのままアメリカへ送達され、 アメリカを経て同国が国際郵便条約を結んでいる諸外国にも送付されるようになった。前島は清国の動きを封じるように、明治6年、駅逓寮の官吏を琉球藩庁へ派遣し、日本内地の郵便が 琉球間でも通じるよう、折衝に当たらせた。明治7年1月には、政府系の「大日本帝国郵便蒸気船会社」に命じて、琉球―東京間に一年6回往復の郵便船を開通させた。同年3月には、 首里、那覇、今帰仁(なきじん)すなわち運天港の4か所に郵便仮説所を設置、その他、琉球国内の9か所に郵便取扱所の開設を強行した。清国に乗り込んだ大久保は、この郵便編入の 既成事実のおかげで、琉球が日本領であることを主張することができたのである。


明治9年2月、明治政府は、国家予算の3割を占めていた旧士族の家禄と維新の功労者に対する賞典禄を廃止する「秩禄処分」を断行した。同年3月、 帯刀禁止令を公布。同年10月、熊本県では廃刀令への反対運動として神風連の乱、呼応して福岡県で秋月藩士宮崎車之助を中心とする秋月の乱、山口県で前原一誠らによる萩の乱など 不平士族による反乱が続き、それぞれ鎮圧された。明治10年1月29日に、旧薩摩藩の士族が中心となり、西郷隆盛を大将に擁立して、日本国内では最大規模の内戦となる西南戦争が起こった。 西郷隆盛に呼応する形で福岡でも武部小四郎ら旧福岡藩士族により福岡の変が起こった。西南戦争は新政府側の勝利に終わる。9月24日、西郷隆盛は鹿児島城山岩崎谷での最後の戦いで 腰と太ももに銃弾を受け、別府晋介の介錯によって最後を遂げたと云われている。西南戦争の最中、熊本城攻囲の危機に際して、臨時に巡査を徴募し、「徴募巡査」と命名し、新選旅団なる 一団を派遣することになったが、その責任者である川路大警視も戦地に赴いた後であったので、警視の事務が内務に属する関係上、その徴募の事務が前島に回ってきた。前島は、 この募集区を選ぶにあたって、主として、10年前の戊辰戦争のときに、薩摩のために惨憺たる憂き目を見た東北、北陸の各県にしたところ、これが実戦において、おおいに功を奏したという。


西南戦争中の5月26日、木戸孝充が出張先の京都で病死。翌明治11年(1878年)5月14日、馬車で皇居へ向かっていた大久保利通が紀尾井坂付近の 清水谷(現・東京都千代田区紀尾井町)で元加賀藩士らによって殺害された。ここにおいて、「維新の三傑」はすべて亡くなった。


明治14年(1881年)、薩摩出身の北海道開拓使黒田清隆が官有物を薩摩出身の実業家五代友厚に安く払い下げようとした事実が発覚、政府への 批判が高まり、政府は、国会開設の勅諭により、10年後の国会の開設を約束した。憲法制定については、政府内において、君主大権を残すビスマルク憲法か、イギリス型の議院内閣制の 憲法か、を巡って論争があった。 前者を支持したのが伊藤博文と井上馨であり、後者を支持したのが大隈重信であったが、国会開設の勅諭と時を同じくして、官有物の払い下げを政府外に リークした疑いを 持たれていた大隈重信が罷免された。同時に大隈のブレーンの慶應義塾門下生たち(主に交詢社系)も政府から追放された。これを「明治14年の政変」という。この結果、 日本は君主大権を残す専制型の政治体制をとることになった。


前島もこのとき一緒に下野、46歳のときであった。政府を追われた大隈重信が総理を務めた立憲改進党に前島も参加している。大隈が経営し 開校に至った東京専門学校(現・早稲田大学)の校長を、明治20年8月から同21年7月まで務めた。さかのぼって、大日本帝国憲法発布に先がけて、明治18年12月に内閣制度が発足し、 初代内閣総理大臣に伊藤博文が就任した。このとき、農商務省から駅逓・管船の二局を移管し、廃止した工部省から電信・燈台に二局を引き継いで、逓信省が新設された。 初代逓信大臣は榎本武揚であったが、前島は、請われて、明治21年11月から24年まで、逓信次官を務めている。



4.越後と薩摩の比較「地域文化」−「県民気質」と「数学文化」を中心に−

 

 地球上の或る「地域」に人が住み着き生活を始めると、そこに「文化」が生まれる。それは発生において、その「地域」の気候、地形、地質などの自然条件に規定されるであろうし、その発展において、その「地域」の人の歴史に規定される。これを「地域文化」という。ある一つの「地域」で生まれた「文化」が他の「地域」に伝播し、その生息域を拡大することもあるし、もともと他の地域にあった「文化」と融合して新しい「文化」を生み出すこともある。一口に「地域」と云っても、その広がりにおいて大小あろうが、ここで問題にするのは、日本国の「越後」と「薩摩」の二つの「地域」の「文化」についてである。19世紀半ば、日本に押し寄せてきた欧米列強の圧力により、日本は世界に向けて開国するとともに、それまで続いていた封建制(幕藩体制)を廃止し、天皇を頂点とする中央集権的国家をつくり、近代化を進めた。その過程で日清、日露、日中、太平洋戦争を経験することとなったが、それは日本の東アジアへの帝国主義的拡大の歴史であった。結果は、英米ソ中ら連合国に対する無条件降伏となり、戦後は、アメリカの占領下で民主的改革が進められた。以来80年近くに渡る日本の歴史は、私のこれまでの人生と重なっている。明治維新から現在に至る過程で、ロシア、中国に共産主義政権が生まれたことが現在の世界に大きな影響を与えている。ロシアを中心とするソ連(ソヴィエト社会主義共和国連邦)は、1991年末に崩壊したが、ロシアは世界に対して依然として一定の影響力を保持しており、中国は経済面・軍事面での近代化を成し遂げ、世界の大国となった。2024年現在、世界には、戦争の頻発、環境破壊、貧富の拡大、人心の荒廃など様々な矛盾が噴出しいる。世界は多極化しており、先行きは甚だ不透明である。このような時代にあって、現在、世界の中で日本が占める位置を知ることは重要なことであろう。私が「越後」と「薩摩」の「地域文化」を比較して考えるようになったのは、まったくの偶然によるものであるが、最近、この二つの文化を知ることは、「日本文化」の基層を知るうえで意味があるのではないかと考えるようになった。なぜかというと、「越後」と「薩摩」の「地域文化」は、それぞれが、近代化が始まる以前の江戸期における(「米作り」中心の)「農」の文化と、武士を中心とした「武」の文化を代表しているのではないかと考えるようになったからである。私の現在の基本認識は次のようなものである。現代の日本では「都市化」が進み、「市民」を中心とする文化が隆盛を極めているが、これは、「近代化」によって盛んになった「商工の文化」の延長線上にある文化である。しかし、その基層には「農の文化」と「武の文化」が横たわっていると。これに古代から続く「公家の文化」と「寺社の文化」を加えることにより、現在の「日本文化」の諸相を多面的に捉えることが可能になると。古来、「農業」と「武力(軍事力)」は、「国家」の重要な構成要素であった。


西南戦争が終わって12年が経過した1889(明治22)年10月に鹿児島にやって来て、宮之城・盈進尋常高等小学校の教員・校長として2年半滞在した元越後長岡藩士の子(次男)、本富安四郎(1865−1912)は、そのときの体験・見聞を基に、『薩摩見聞記』を著した。この著作には、明治中期の薩摩の風俗・社会の様子が書かれているので、民俗学・歴史学の貴重な資料として後世の人々から注目されるようになった。『薩摩見聞記』の目録(目次)は、「土地,気候,歴史,人物,年中諸事,葬婚,遊戯,歌舞音曲,訪問,宴会,飲食物,旅店,言語,貧富,邦制,士平民,交通,教育,風儀,宗教,農業産物」となっている。最初の「土地」,「気候」,「歴史」,「人物」は、薩摩の自然、歴史、人に関する記述であり、「年中諸事」以降が、薩摩の風俗・社会に関する記述である。社会に関する記述については統計データが多用されているのが特徴的である。これは当時、欧米から入ってきた「統計学」の影響であると思われる。「人物」の項目は、「第一 容貌風体」、「第二性質」からなっている。私が特に興味を持ったのは、この「第二性質」の部分である。そこには鹿児島県人の「県民性」、「県民気質(かたぎ)」が書かれていた。そもそも、私が初めて本富安四郎の『薩摩見聞記』を知ったのは、私が1973年に鹿児島にやって来て間もない頃のことで、 地方紙「南日本新聞」に載った記事によってであった。その記事のテーマは鹿児島県人の「県民性」についてで、 本富が『薩摩見聞記』の中で、このことに関連して書いている部分を引用し、他県人から鹿児島人がどのように見られて いるかを紹介しているものであった。その後も、『薩摩見聞記』に関するこの種の記事を何度か同紙上で見かけたと思う。 その後、2000年に地元の南方新社から、『薩摩民衆支配の構造−現代民衆意識の基層を探る−』という本が出版された。著者は、鹿児島国際大学教授(当時)で、「古代隼人の研究」で知られた中村明蔵氏であった。日本列島史のなかの地域史を研究課題としていた中村氏は、この本の中で、鹿児島県人の「県民性」、「県民気質」を考察し、その先行研究の一例として本富安四郎の『薩摩見聞記』を取り上げられたのである。人々の「容貌」は、人類学的、遺伝学的に規定されるものであろうが、「地域」に住む人々の「気質」は、その「地域」の風土・歴史に規定されるから、その「地域」の「文化」を表出したものであると云えるのではなかろうか。 私が「県民性」、「県民気質」に興味を覚えるのはこのことによる。地域的特性としての「県民性」は、長い歴史的時間をかけて形成されたものであるから、その変化は緩慢であり、「地域」を越えた人と人との交流が盛んになった現代においても人々の意識の底に存在していると思われる。


本富の『薩摩見聞記』の中には「東北人気質」と「薩摩人気質」を比較して記述した部分がある。この場合、本富は「東北人」の中に「越後人」を含めて考えていることは、次に示す二つの事実により確かめることができる。本富の『薩摩見聞』が出版されたのは、1898(明治31)年であるが、その元になった稿本「薩摩風俗」は、本富が鹿児島を去った1892(明治25)年の夏から翌年の春にかけて東京において執筆された。この稿本は、現在、本富の母校、新潟県立長岡高等学校の記念資料館に展示されている。私も同じ高校の出身で、2022年、同窓会事務局長・福原国郎氏のご厚意で、これを閲覧することができた。この稿本の98頁から99頁にかけて、「県会議員ニ在リテモ一昨年(1891(明治24)年のこと)末ニ於ケル東北諸県ノ比較ヲ見レバ実ニ左ノ如し」の文言に続けて、「東北諸県」の士族と平民の県会議員数の一覧が載っているが、ここで云う「東北諸県」には、現在の東北諸県、「青森、岩手、秋田、山形、宮城、福島」のみならず、「神奈川、埼玉、千葉、長野、新潟、群馬、栃木、茨城」も含まれいる。したがって、ここで云う「東北諸県」は、越後を含む「日本列島の東北部に位置する諸県」を意味している。


最近わかったことであるが、本富は『薩摩見聞』の他に、『地方生指針』と題する、地方生を対象とする東京遊学案内を1887(明治20)年6月に出版している。これが出版されたのは、本富が、教師をしていた「長岡学校」(旧制長岡中学校、現・長岡高等学校の前身)をやめて上京し、私立東京英語学校に入学した翌年のことである。この出版物は、その復刻版が『近代日本青年期教育叢書、第V期・進学案内 第2巻』(日本図書センター、1992年刊)に所収されているので現在でも読むことが可能である。その第一編下の33頁に、「在京各地書生気風ノ差」と云う項があり、ここで本富は、日本を「奥越部」、「関東部」、「中国部」、「九州部」の四つに分け、それぞれの地域の書生の気風の特徴を次のように記述している。

「奥越ノ人ハ動作緩慢不活発ニシテ率先機ニ乗ジ事ヲナスノ気力ナク且ツ甚ダ交際ニ疎ク団結親和ノ力薄クシテ共同一致以テ事ヲ謀ルコト甚ダ難キガ如シ然レドモ亦大ニ質直温厚ノ良風アリテ妄リニ浮動スルコトナク能ク沈重ニテ事物ヲ熟考回思スルノ気質ニ富メリ」

「関東人ハ動作軽怱ニ過ギテ沈着ナラズ動モスレバ気ニ走リ勢ニ乗ズ最モ多弁饒舌ニシテ奸詐ノ弊アルガ如シ然レドモ又敏捷怜悧機ニ臨ミ事ニ處スルニ迅速ニシテ且ツ義侠ノ風アリ」

「中国ノ人ハ最モ弁舌ヲ善クシ応答交際ニ長ジ動作軽快気性活発ニシテ諸事ニ機敏ナリ然レドモ其弊稍々狡猾ニ失シ信義ヲ守ラズ殊ニ軽薄ニシテ着実ノ気象ニ乏シク久シク事ニ堪ユル能ハザルガ如シ」

「九州ノ人ハ勇悍剛毅信誼厚ク友情深ク気ヲ尚ビ義ニ勇ミ然諾ヲ重ンズ然レドモ思想粗略ニシテ事物ヲ熟考スルコト能ハズ頑陋ニシテ自カラ重ンジ改良取捨ノ智ニ乏シキガ如シ」

さらに、「従って、奥越の人は文事に適し、関東中国の人はともに一般の事務に適し、九州の人は武事に適する」と述べ、これらの気風の違いが生ずる原因を寒・暖・熱の気温の違いに求めている。本富が云うところの「東北人」は、ここでの「奥越ノ人」に相当すると考えてよいと思われる。


さて、「東北人気質」と「薩摩人気質」の違いであるが、本富は『薩摩見聞記』の中で、射的における態度の違いを用いて次の様に描写している。

「或人甞(かつ)て評して曰く彼の射的を為すを見るに東北人は感情遅緩にして第一発に誤るも敢えて騒がず悠々寛々二発を誤り三発を誤るも為に激情せず幾度も平気に狙い直(なほ)せども薩人ならば第一発を誤るや直に眼を瞑(いか)らし毛髪を逆立て気急ぎ腕震ひ狙も定めずして直に之を放ち二発三発引続いて誤れば忽ち叫んで銃を地上に抛(なげう)ち去る」。

続けて、薩摩人士の感情の激しさを物語るものとして、次の逸話を載せている。「先に魯国皇太子の島津氏を訪わんとするや西郷南洲猶生存して魯艦に乗じて鹿児島に帰来するの説喧(かまびす)しく世間に唱へられ或いは口角沫を飛ばして其真を説く者あり薩人某客この事を論じ曰く西郷程の豪傑死すべき筈なしと客屈せず某激昂奮然として座を起つ須臾にして厠中「チェスト−」を絶叫するを聞く行て之を見れば剃刀既にその喉を断つ何ぞ其思想の単純簡易にして其行事の無意味なるや之或は神経疾の人ならん然かも之を以て薩人を推(お)せば中(あた)らずといへども蓋し遠からずなるなり」。これは本富が実際に遭遇した出来事であろうか。 本富が鹿児島に滞在していた明治24年5月6日、世界旅行途中のロシア帝国・ニコライ皇太子(後のニコライ2世、ロシア帝国最後の皇帝)が、ロシア帝国海軍の艦隊を引き連れて鹿児島を訪問した。最終目的地はウラジオストックで、シベリア鉄道の極東地区起工式典に出席するためであった。このとき、巷には、西郷隆盛は西南戦争で死なず、ロシアに逃れまだ生きており、このロシアの軍艦に乗って鹿児島に帰ってくるという噂があったのである。


「東北人」一般に当てはまるかどうかはともかくとして、越後人の「気質」に関しては、上述の本富の記述は概ね妥当するであろうことは、越後に暮らしたことのある私としては首肯せざるを得ない。これは、越後が雪国であり、半年近くも雪に閉ざされた生活を強いられてきたこと、住民の多くが単作の米作りを生計の柱とした農民であること等によるものであると云えるだろう。他方、薩摩人は古代から薩摩隼人の呼称で知られているように「俊敏さ」をもって知られてきた。諸説あるが、隼人とは隼(ハヤブサ)のような人の意である。安四郎は薩摩人士が何事かに心を刺激されて感泉俄かに湧いてきて抑えることが出来なくなったときに発する「チェスト−」と云う掛け声に薩摩人の感情の激しさを感じている。私は薩摩人の「気短さ」というよりは、越後人の「持久力」に対して薩摩人の「瞬発力」を対比させた方が妥当であるように思う。この「瞬発力」は、「肉を切らせて骨を切る」一撃必殺の薩摩の剣法、「示現流」によく現れているように思う。この薩摩人の特質は(亜)熱帯性気候と火山性風土に起因するものであると思われる。薩摩は山地が多く、一部を除き越後のような大規模な水田はないが、火山性台地上に薩摩芋、茶が良く育つ。


閑話休題。ここで江戸時代における「数学文化」に目を転じよう。私が江戸時代の「数学文化」の地域における有り様の違いに関心をもつようになったのは、本富の『薩摩見聞記』のなかの次の一文による。 「薩摩人士が、一般に科学を好まず、特に数学に不得手であるのは、感情激しく気短かで、忍耐と理想に乏しく、一度試みて成功しなければ、あたかも力及ばずといってこれを放棄し、何度も繰り返し思考しないことによるものである。 実に、薩摩人は、一事を連続的に反復推究すること、および一定不変の理想を抱持し、理論的に判断し、追及していくということは、到底望むことはできない。」


ここで、日本における「数学文化」の歴史を概観しておこう。日本における数学の起源は、6 世紀に百済から仏教とともに暦が伝わった頃にさかのぼる。当時、中国古代の最大の数学書である『九章算術』が輸入されていた。奈良時代になると、中国の科挙制度にならった律令制官僚制度の試験において、数学が正規科目として取り上げられるようになった。その後、日本の「数学」に、さしたる進展はなかったが、戦国時代から信長・秀吉の時代を経て、軍事技術や築城術の革新、鉱山開発や検地などの社会的必要性や、商業の発達によって、江戸時代に入ると日本独特の「数学文化」が花開いた。江戸時代の「数学」は「ソロバン」による計算と、算盤(さんばん)と算木(さんぎ)を用いた天元術からなっていた。天元術は一種の器具代数であり、日常の生活に用いられることはなかったが、天文・歴術では代数方程式を解くことが求められ、その計算に必要であった。


「ソロバン」による計算の書は、吉田光由(1589−1673 年)の『塵劫記』(1627 年刊)が有名である。光由は朱印船貿易で財をなした豪商角倉家の一族である。光由は15 世紀末、朝鮮経由で日本に移入された中国の数学書『算法統宗』(1593 年、明代の民間数学者、程大位の著)を基にして『塵劫記』を書いたと云われている。『塵劫記』は「ソロバン」を用いていろいろな計算をする本である。というよりは、「ソロバン」に習熟するためにいろいろな問題が並べられていると云ってよい。ちなみに『塵劫記』が扱った計算問題は、「米の売買とそれに伴う計算」、「金銀両替」、「銭の売買」、「利息」、「絹布の売買」、「検地」、「船賃」、「升」、「収穫と税」、「種々の工事」、「測量」、「開平方」、「開立法」など多岐に渡る。経済生活が発展した江戸時代はこのような計算を必要としており、したがって『塵劫記』は江戸時代を通して広く読まれた。また類書も数多く出版された。光由が亡くなる1673年までに、『塵劫記』は21種類も出版されたが、そのうち光由自身によるものは四種類か五種類であるという(小川束著:『和算―江戸の数学文化』、中公選書114、2021 年刊、p.35)。


算盤と算木を用いた天元術は、15 世紀末に朝鮮経由で日本に移入された中国の数学書『算学啓蒙』(1299 年、元代の民間数学者、朱世傑の著)によっている。この書はアラビアやインドの影響が見られるという。後世、「和算家」と呼ばれるようになった人々はソロバンで計算をし、代数方程式を天元術で解くことによって、いろいろな数学の問題を解いた。「和算家」としては、関孝和(1642?−1708 年)とその高弟、建部賢弘(1664−1739 年)が有名である。 孝和は25歳のとき、 奈良の寺にあった中国の数学書「楊輝算法」(元時代の天元術の書、 方陣,、不定方程式等も扱っている)を写本し研究している。 また元の時代に書かれた「授時歴」や清から輸入された暦書「天文大成管窺(かんき)輯(しゅう)要(よう)」80巻を独力で読み切ったという。「和算」は、 数学を知的遊戯として楽しむ文化として、 生け花・お茶と同じように庶民のあいだにも広まった。 「関流」、「中西流」、「最上(さいじょう)流」などのギルドを形成し免許制度をとっていた。 数学を学んでいる人の中には、数学の問題を作り、 問題が解けるとその答えを絵馬のようにして神社・仏閣に奉納する人が現れた。この絵馬を「算額」という。このような文化は世界に類をみないものである。


江戸時代、時代が下ると、全国を旅しながら、地方の数学愛好家を訪ねて数学を教える、遊歴算家と呼ばれる人々が多数現れるようになった。「数学文化」の地方への伝播には、「数学書」の流通とともに、このような遊歴算家の存在が与かって大きかった。その遊歴算家の一人に、越後の農民出身の山口和 (?‐1850) がいた。山口は新潟県北蒲原郡水原町(現・阿賀野市)の出身で、農家(豪農)の三男であった。関流五伝・日下(くさか)誠の弟子の望月藤右衛門から数学を学び、その後、江戸に出て、関流の長谷川寛(1782‐1838)の内弟子になった。長谷川寛は、江戸の町人(鍛冶屋)の出身で、当時、身分を問わない数学塾として有名だった「長谷川道場」を主宰していた人物である。佐藤健一著『和算家の旅日記』(時事通信社、1988年刊)によれば、山口は、3回遊歴の旅に出ている。1回目、2回目では、常陸、下総、東北を巡り、3回目では、北越、山陽、九州、山陰を巡っている。九州では、小倉、博多、長崎、島原、天草、熊本、久留米、宇佐を巡り、博多、筑前国怡土郡中ノ村、伊万里、長崎では数学者、数学愛好家に会っている。旅先で算額があると聞けば、それが納められた神社・仏閣を訪ね、数学愛好家がいると聞けば訪ねて数学を教えた。名前が知られた数学者には会いに行き、数学に関する情報交換をした。同じ佐藤氏の著書、『日本人と数−江戸庶民の数学』(東洋書店、1994年刊)、『日本人と数−続・和算を教え歩いた男』(東洋書店、2003年刊)によって、数学を知的遊戯として楽しむ文化は、日本全国津々浦々の庶民(町人、農民)の間に広く浸透していたことを知った。


前述の本富安四郎の薩摩人士の科学・数学に対する態度に関する一文を読んで、まず考えたことは、薩摩には「和算家」と呼ばれるような人はいたのだろうかということであった。私が先ず注目したのは、「算額」の全国的な分布状況である。ウエッブ上には「和算の館」というサイト( http://www.wasan.jp/ )があり, そこに全国の「算額」の一覧表が載っているので覗いてみた。すると、新潟を含む東北諸県には「算額」が比較的多く存在するのとは対照的に、山口, 高知, 佐賀, 熊本, 宮崎, 鹿児島の各県は、いずれも「算額」の空白地帯であることに気付いた。 ただし, 佐賀には2009年奉納の算額があるがこれは除いてある。本富は『薩摩見聞記』の中で、「一般に西南地方は士族の勢力何れも盛んであるが、薩摩はその極点である」と述べているが、この「西南地方」と「算額」の空白地帯が符合しているように思われた。 私はこの事実に基づき、「この地域には、 趣味・教養として数学を楽しむ文化、および数学を探求する文化、いわゆる「和算」の文化は存在しなかった」という仮説を立てた。今後の検証を待つところであるが、江戸時代の「数学文化」については、一般論として次のことが云えるのではなかろうか。


先ず、江戸時代の武家社会では、ソロバンを用いて計算する仕事は「小吏の所業」として蔑視されていたことを知る必要がある(磯田道史著:『武士の家計簿―「加賀藩御算用者」の幕末維新』、新潮新書、2003年刊、p.20)。ただし、古来、暦を作ることは君主の仕事として重要であったから、天文・歴術に関する「数学」は別である。江戸時代の「数学を楽しむ文化」は、先ず、京都、大阪、江戸など、当時の大都市における「町人文化」の一部分として起こり、それが地方の中小都市およびその周辺に住む農民の間に広まったものであろう。当時の「数学」(「算学(和算)」または「西洋数学」)を学ぶ方法は、現代と同じように出版物によって自学自習するか、「学校」で習うかのいずれかであった。当時の学校は、「藩校」または「郷校」(地方士族のための学校)、「私塾」、「寺小屋」であった。「藩校」、「郷校」は士族のための学校であり、「漢学」、「国学」が教えられていたから、「数学」が教えられることはなかった。当時の町人の数学と云えば「ソロバン」であり、これは主に「寺小屋」で教えられていた。江戸時代も後半に入ると「数学(算学)」の流派が確立し、「数学」を専門に教える「私塾」が現れるようになった。最近の歴史学では、江戸時代の町人文化のピークを、「元禄文化」(1668‐1704)、「宝暦・天明文化」(1751‐1789)、「化政文化」(1804−30年)の三つとするようである。「元禄文化」は京都、大阪など上方を中心とする文化、「宝暦・天明文化」は田沼意次が権勢を振るった宝暦・明和・安永・天明期の文化、「化政文化」は江戸を中心とする文化である。元禄期と宝暦・天明期の間に、新井白石(1657‐1725年)による文治政治(正徳の治、1711?16年)と8代将軍吉宗による「享保の改革」(1736‐56)があり、宝暦・天明期と化政期の間に松平定信による「寛政の改革」(1787‐93年)があって、化政期の後には水野忠邦による「天保の改革」(1830〜44)があった。それぞれの改革は、風紀粛清、飢饉対策、財政的立て直し、金融引き締めなどを意図したものであった。町人文化の三つのピークと和算家との関係で云うと、関孝和は元禄期の人、関流四伝の藤田貞資に抗して論陣を張った最上流の始祖・会田安明(1747 −1817年)は、宝暦・天明期から化政期の人、遊歴算家・山口和は化政期の人である。


薩摩藩における「数学文化」の状況を知るためには、薩摩藩における「数学書」の出版・流布の状況および教育の状況を知る必要があるのだが、「数学書」の出版・流布に関しては、私の知るところでは、1864(元治元)年に創設された薩摩藩洋学校・開成所の図書目録にある「幾何学、ケルドル、1827年刊」のみである。教育に関しては、1976年に「鹿児島県教育史・復刻版」(大和学芸図書、鹿児島県教育委員編)が刊行されており、これが参考になる。江戸時代は身分制の時代であり、教育に関しては、「士族」と「町人」、「農民」を区別して見る必要がある。薩摩藩8 代藩主・島津重豪(しげひで)(1744−1833年)は、蘭癖大名と呼ばれるほど西洋の科学・技術に興味を示し、オランダ商館医シーボルトと懇親な関係にあったことで有名である。重豪は文治政策をすすめ、藩校として造士館・演武館(1773年)、医学院(1774年)を作った。戦国の遺風を残した粗野な士風を改めようと、上方から商人、役者、芸妓、娼妓などを呼び寄せている。鹿児島市には繁華街の中心に「天文館」という場所があるが、かつてここには、簡天儀、測午表、望遠鏡等を備えた、明時館という暦を作る施設があった。これを創ったのも重豪で、1779(安永8)年のことであった。薩摩藩では渋川春海が貞享暦を作った時以来、改暦があるたびに藩士を派遣し編暦を学ばせていたが、たまたま 1765(明和 2)年、幕府が天文台を江戸牛込に造り、同じ場所に新暦調所をおいたとき、薩摩藩から助手が登用された。そこでかつて宝暦改暦のとき助手を務めた水間良実が派遣されたが、水間は天文方佐々木秀長についてこれを助け、8 年後の 1772(安永元)年に帰藩した。これを契機に薩摩の天文台と暦局が設置された。これが明時館である。明時館では天体の観測と計算による天体の運行の予測、ならびに暦の編纂が行われた。重豪は蘭学者を招聘していたが、興味を持っていたのは、実学としての医学・天文学・地理学・本草学であり、家臣に「数学」を学ばせることはなかったであろう。仕事のうえで、計算や測量技術を必要とする勘定方、普請方、賄方などの下級武士は、数学の「刊行物」により自学自習するか家庭内教育によって必要な数学を学んでいたものと思われる。


本富安四郎が教員・校長を務めた宮之城の盈進高等尋常小学校は、宮之城島津家15代当主・島津久治(1841−1872)が1858(安政5)年に設立した学問所「盈進館」に始まる。宮之城島津家は「御一門」(加治木、垂水、重富、今和泉)に次ぐ、「大身分」(私領主)の家柄であった。島津久治は、国父島津久光の次男で、1863(文久3)年の薩英戦争や1864(元治元)年の禁門の変では藩主に代わって兵を指揮している。「盈進館」は当時の薩摩藩内にあった「郷校」のひとつであった。この「盈進館」でどのような教育が行われていたか知る資料はないが、藩校・造士館に準じた教育が行われていたものと思われる。ちなみに本富安四郎を盈進高等尋常小学校の教員に推薦した薩摩・宮之城出身の宇都宮平一は、若き日、選ばれて藩校・造士館に留学している。


薩摩藩の士族の間には、「郷中教育」という独特の教育があった。薩摩藩では数十戸を単位とする方限(ほうきり)と呼ぶ区割りによって一つの組を作っていた。 その組の中の侍衆を「郷中(ごじゅう)」と呼んだ。戦時にはこの「組」がそのまま軍事組織になった。「郷中教育」は先生が生徒を指導するのではなく、年長者が年少者を指導するもので、 判断力を養うための問答「詮議」や武芸の稽古、 「虎狩物語」や「三州府君歴代歌」などの暗唱を行った。これは薩摩武士団の士気を維持し、 高めることを主たる目的にした教育であった。「郷中教育」を通じて薩摩の士族の若者たちの間で先輩から後輩に教え込まれていたものとして、島津家中興の祖、島津家15代当主・島津貴久(1514−1571年)の父、島津忠良(1492−1568、36歳で剃髪して日新斎と名乗る。以来人々は日新公と呼ぶ)が作った「いろは歌」と、関ヶ原合戦の生還者で、島津義弘の家臣・山田昌(しょう)巌(がん)(1578−1668年)が出水外城の地頭であったときに定めたと云われる「出水(いずみ)兵児(へこ)修養掟書」があった。薩摩には、桂庵玄樹(1427−1508年)を祖とする南薩学派と呼ばれる朱子学の伝統があった。玄樹は山口の人で臨済宗の僧であり、明国に留学した後、島津家11代当主・島津忠昌(1463−1508年)に招かれて薩摩に至り、朱子学を講ずるとともに、『大学章句』を出版して士民の教化に務めた。日新公の「いろは歌」は、この朱子学や、日本古来の神道、仏教の教えをもとに、人としての日常の規範、政治をとる者の心がけ、武人としての心がまえなど47首の歌にしたものである。「出水兵児修養掟」は、もともと出水外城の「郷中教育」の掟であるが、勤倹尚武の徳を教えたものである。出水外城は肥後と国を接する地にあったから,国境の守りとして、古来から最も尚武の地であった。「出水兵児修養掟」が,他の郷中のそれと比較して優れていた点は,武勇のほかに「ものの哀れ」を求めたことであった。薩摩藩では、幕末期、島津家28代当主・島津斉彬(1809−1858年)の時代に、士風の刷新を目的として郷中教育の総点検が行われた。1852(嘉永5)年5月には、各郷中に対して其の実情を報告するよう厳命が発せられている。この厳命に応じて新たに郷中掟を定めて報告したものとして「下荒田郷中掟」が残っているが、その10項目に「筆算之儀は日用の急務に候間兼々修行致すべき事」とあるのは注目すべきことである。これは薩摩藩に開成所が設立され洋学教育が行われる以前のことであるから、ここで云うところの「筆算」は西洋流の10進位取り記数法に基づく紙の上の「筆算」ではなく、「書」と「ソロバン」のことであろう。


薩摩藩における「町人」、「農民」の教育に関しては、越後を含む東北諸藩と大きく異なっていた。そもそも庶民の教育機関である「寺子屋」が薩摩藩にほとんど無かった。これは薩摩藩では庶民の宗教である一向宗が禁止されていたかことも関係しているものと思われる。また、薩摩藩には、越後を含む東北諸藩のように、庄屋を頂点とする農民の自治組織がなかった。薩摩藩には、「郷士」を含む士族階級が農民を押さえつける制度(「外城制度」と「門割制度」)があり、豪農が生まれる余地はなかった。地方の「郷」においては自給自足を基本としていたから商業に携わる人がいたとしても半農半商であり、藩との繋がりが強い一部の特権的商人の他に豪商が生まれる余地はなかった。薩摩では「数学を楽しむ文化」の担い手である「庶民」が未発達であったと云える。この辺の事情については、詳しくは、拙稿『越後人・本富安四郎の『薩摩見聞記』の中の「士平民」と 薩摩の数学』( https://www.kagoshima-u.ac.jp/shoujukai/re_tsuboi.pdf )の「3 薩摩の「邦制」と「主平民」」を参照されたし。ここで「邦制」とは政治支配の構造のことである。薩摩藩は加賀100万石につぐ天下第二の雄藩で,石高77万石と云われるが,これは籾(もみ)高で,他藩なみに米高に計算すると37万石程度にしかならず,農業的にみれば決して裕福な藩ではなかった。本富の『薩摩見聞記』(第3版)の38頁には、薩摩藩と東北諸藩の士族の戸数を比較した記述があるが、それによると、薩摩藩の士族戸数が46,529戸であるのに対して、新潟、福島、宮城、山形、秋田、岩手、青森の東北7県(新潟を含む)の士族戸数は49,252戸で、ほぼ拮抗している。薩摩藩の士族は、総人口の約4分の1で全国比率の約5倍であったから、いかに士族の数が多かったかが理解できるであろう。これは、薩摩藩では、鹿児島城下に住む武士だけではなく、領国内113カ所の「外城」に住む半農半士の武士も数に入れているからである。これらの士族たちは「郷中教育」により、士気、体力、武力を高める教育を絶えず行っていた。このような「邦制」が敷かれていた薩摩藩は、私には古代ギリシャの軍事的・都市国家スパルタとイメージが重なって見える。


『日本教育史資料集』(文部省、明治10年代)によって、梅原徹氏はその著『近世の学校と教育』(思文閣、1988年刊)の第八章において、江戸時代・明治以降に区分して、各府県の私塾・寺子屋の分布を調査・集計している。そこに示された数字は、中央政府による学事統計への各府県当局の協力姿勢も影響していると思われるので、そのまま信じるわけにはいかないが、鹿児島県の場合、他府県に比べ、私塾・寺子屋の数が極めて低く、私塾は江戸期、明治期、時期不明が、それぞれ、0、1、0、計1、 寺子屋は、19、0、0、計19となっている。鹿児島県の地域ごとの内訳は、総数のみを記せば、鹿児島郡(市)が、私塾・寺子屋がそれぞれ、1,1、川辺郡が、0、13、大島郡が、0、5である。この集計は地域的に偏っているので、県下全域に大量の調査漏れがあったことを想像させるものである。

   

私塾・寺子屋の合計数が一番多いのは長野県で、私塾は江戸期、明治期、時期不明が、それぞれ117、1、7、計125、 寺子屋は、1196、48、97、計1341となっている。長野県がこのように多い理由について、海原氏は次の様に述べている。「長野県では、中小藩の分立、天領・知行地の散在、街道の発達、京都・江戸文化の流入などの諸条件が相乗的に作用して、一般民衆の間に広汎な学習要求を生み出し、またそれに応えうる多数の知識人が存在したという文化的風土があった。」また寺小屋の総数は、山口(1304校)、岡山(1031校)も多いが、これには「藩士時代の萩藩や岡山藩当局が特別に教育熱心であったことが働いているようである」(前掲の海原氏著書、p.298)。薩摩藩の農民、町人の状況については、海原氏は次のように述べている。「(薩摩藩の)租税は収穫の八割(八公二民)、公役のごときは「月三十五日」といわれたように、想像を絶する過酷な負担を強いられていたが、これをともかくも可能にしたのは、ほかならぬ郷士制度である。<中略> 要するに (薩摩の農民には) 寺子屋教育を享受する「カネ」も「ヒマ」など、そもそもありえなかったというわけである。」、「寺子屋教育をいっそう切実にしたはずの町人階級はどうであったのか。砂糖専売にみられるように、重要な国産品をすべて藩専売としていた薩摩藩では、商業資本の発達はいちじるしく出遅れ、町人人口そのものが寡少であったが、その大半は零細な小商人、すなわち「士族の御用足(達)し」を勤める類でしかなかったから、読み・書き・ソロバンへの需要はきわめて貧弱であった。」(同書、p.299)

   

それにしても江戸時代の数ある外様藩の中でも薩摩藩の特異性は際立っているように私には思われる。薩摩は1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いに、島津家15代当主・島津貴久の長男・島津義弘が約1500名の兵を率いて西軍として参戦している。戦陣の斜め後方にいてしばらく様子を見ていた義弘軍は、西軍の敗色が濃厚とみるや、約300名の家臣とともに、目の前の敵中を突破して命からがら薩摩に逃げ帰った。無事生還できたのは、義弘を含むわずか80数名であったという。これが有名な「島津の退(の)き口」である。にも拘わらず、義弘の兄・義久と子・忠恒の2年に渡る交渉の結果、島津氏は全所領を家康によって安堵されている。ついでながら付言しておくと、現在も鹿児島の市民行事として行われている「妙円寺詣り」は、日置市伊集院町にある義弘を祀る徳重神社(元妙円寺)に参拝するため、鹿児島城下の武士達が甲冑に身を固めて関ヶ原の戦いの前夜に当たる旧暦9月14日の夜に鹿児島城下を発ち、往復約40qの道のりを、夜を徹して歩いたことに由来するものである。家康は1606(慶長11)年、他の有力大名には授けなかった「家」の字を義弘の子・忠恒に与え、家久と改名させている。さらに1609(慶長14)年には、薩摩藩に琉球出兵を認め、琉球国12万石を島津氏の所領に加えさせている。このような処置は家康が島津氏を優遇しているようにさえ見えるが、その理由を知る資料はないという。

   

鹿児島の島津氏別邸・仙厳園に隣接するミュージアム・尚古集成館館長の松尾千歳氏は、島津氏と家康との特別の関係を、現存する資料に基づき次のように推理しておられる(2024年2月15日付南日本新聞『世界史の中の鹿児島(19)』)。関ヶ原の戦いの直前、家康は島津氏を通じ、中国・明に国交回復を働きかけていたことを示す文書があるという。また、朝鮮出兵が始る前に、島津義久の中国人家臣・許(きょ)儀後(ぎご)が、出兵開始と島津氏が秀吉に謀反を計画していることを伝える明側の資料があり、それには、その謀反に「東海道」、つまり家康が関与しているとあるという。これを受けて福建軍門の巡撫(長官)・許(きょ)孚遠(ふえん)は、日本の武将に謀反を促し、秀吉を討った者を「日本国王」に封じることを皇帝に上申するとともに、島津側に使者を派遣し、接触に成功している。当時、明とパイプを持つ大名は島津氏しかいなかった。家康は江戸幕府を開いた後、・許孚遠の提案を実現するために島津氏を利用しようとして、島津氏を処分せず、優遇したのではないかと云うのが松尾千歳氏の推理である。家康には明皇帝から日本国王に封じられれば、政権はより盤石になるという思いがあったのではないかという。薩摩では島津家10代当主・島津立久(1432−1474年)の頃は、対明貿易の花形だった硫黄島の「硫黄」のお陰で勘合貿易でも優位に立ち、京都で始まった応仁の乱(1467−1477年)の外にいて、さながら独立国家の観があった。薩摩では古くから明との関係が深かったのである。


薩摩藩は宝暦年間(1754(宝暦)4年−1755(宝暦)5年)、木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)の治水工事を幕府から仰せつかるなどの試練を受けながらも、徳川家と姻戚関係を築くなどして幕府との友好関係を保ち、それ故の財政赤字を抱えながらも幕末まで生き延びた。そして調所広郷(笑左衛門)(1776−1849年)による財政改革により、余剰財源まで蓄えるに至った。これには琉球を介した密貿易や南西諸島特産の「黒砂糖」の専売が与かっていた。日本の南の「どん詰まり」にある薩摩藩が、なぜ明治維新の中核を担った多くの人材を輩出するに至ったかは、「明治維新の不思議」であるが、私はその理由は、軍事国家・薩摩を支えた外城制度と郷中教育、そして、海洋国家・薩摩が琉球を介して行っていた中国との朝貢貿易など、多年に渡る諸外国との接触の中で育んだ国際感覚にあると考えている。薩摩藩には職制として、唐通事(通詞)、朝鮮通詞、および幕末には西洋通詞(蘭通詞、洋通詞)が置かれていた(徳永和喜著『海洋国家薩摩』、南方新社、2011年刊、第四章、第一節)。

 

「さつま」の「つま」は「隅っこ」のことで、「さ」は、早百合(さゆり)や早乙女(さおとめ)の「さ」と同じ美称であるという(『薩摩のキセキ』、編者・薩摩総合研究所「チェスト」、総合法令出版社、2007年刊、p.303)。薩摩は文字通り本州の隅っこ、地果てる土地であった。しかし、薩摩の南には海が開け、硫黄島、口永良部島、種子島、屋久島、トカラ列島、奄美大島、徳之島、 沖永良部島、与論島等の島々を経て、沖縄本島に通じていた。沖縄本島の先は、久米島、宮古島、石垣島、与那国島と続き、日本最西端の島、与那国島と台湾とは目と鼻の先である。このように薩摩は、鹿児島本土から南西方向に向かって伸びる海の道により、台湾、中国、呂(ル)宋(ソン)(フィリッピン)、安南(べトナム)、暹(シャ)羅(ム)(タイ)、ジャワ(インドネシア)と繋がっていた。その先のマラッカ海峡を経れば天竺(インド)に至る。鹿児島の西方および北西の海に目を転じると、甑島、長島、五島列島、平戸島、壱岐、対馬、済州島(韓国)を経て、北部九州、朝鮮半島に通じるもう一つの海の道があった。琉球のサンゴ礁の干潟でしか生息しない貝(イモ貝・ゴホウラ貝など)の腕輪が、北部九州だけでなく韓国南部の古代遺跡や蝦夷地の古代遺跡からも出土しているように、太古の昔からこの海の道を通じて広く交流が行われていた。


日本に仏教を伝えた中国の僧、鑑真が、日本に上陸したのは薩摩坊津の秋目であり、752年のことである。当時、坊津は博多、津(伊勢)と並ぶ、日本三津の一つであった。1543年、種子島に漂着した中国船に乗っていたポルトガル人によって鉄砲が伝えられ、戦国時代の日本に多大な影響を与えた。東シナ海を航行していた船は度々難破し、鹿児島の南西に延びる島々に漂着したのである。日本にキリスト教を伝えたイエズス会の宣教師、フランシスコ・ザビエルは、マラッカで出合った薩摩の人、ヤジロウ の手引きで、1549年に鹿児島湾奥の現・鹿児島市祇園之州に上陸している。 そして、伊集院城(一宇城、現・鹿児島県日置市伊集院町太田)で守護大名の島津貴久に謁見している。日本にとっては、薩摩は新しい文化が入ってくる南の玄関口であった。島津貴久の子・義久は、南薩の良港・山川港を島津氏の直轄地にし、唐船貿易のみならず南蛮貿易も掌握して、貿易による経済力の蓄積を構想していた。義久の子・忠恒(家久)は、構想にとどまらず、実際、京都・大阪の商人達と結びつき広域的な貿易を展開していた(前掲徳永和喜著書、p.22−p.28)。家康が江戸に幕府を開くと忠恒は、家康から朱印状を発行して貰い、明との間で朱印船貿易を行った。これは3代将軍家光によって鎖国令が発令されるまで続いた。海洋国家・薩摩の面目躍如というところである。


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第二部 西洋数学と和算


 
江戸期における西洋数学受容過程


江戸時代を通して西洋数学の知識の輸入には三度の大きな波があった。一度目が、西洋の天文暦法を使った改暦が試みられた18世紀初め、8代将軍吉宗の時代、二度目が外国船が頻繁に日本の周辺に現れるようになった19世紀の初めから中頃にかけて海防策との関係で、三度目が1854年(嘉永7)年に日米和親条約が結ばれ、開国して以降の幕末期である。一度目は漢書を通じて、二度目は長崎出島にもたされた蘭書を通じて、三度目が漢訳書もしくは英書を通じてであった。


キリスト教思想の流入を防ぐために、1630(寛永7)年、「禁書令」が定められていたが、1720(享保5)年、8代将軍代吉宗は改暦の必要上から「禁書緩和令」を発令した。これにより『崇禎歴書』全百巻が輸入された。当時使用されていた貞享歴(5代将軍綱吉の時代、中国元代の暦、「授時歴」をもとに渋川春海(はるみ)が編んだもの)の不備を指摘されていたためである([21]、p.109)。『崇禎歴書』は明末の崇禎帝の時、徐光啓がアダム=シャールら宣教師達から西洋暦法を学び、改暦のために刊行した暦書で、内約20巻は数学、特に幾何学に関する内容であった。以後、暦術、測量術、航海術に関係する数学として、三角関数表や 球面三角法、さらに対数などが入ってくる。この頃、イエズス会のキリスト教宣教師マテオ・リッチ(利瑪竇)によるユークリッドの『原論』の第6章までの漢訳書『幾何原本』は既に存在していたが、著者がキリスト教の宣教師であると云う理由により輸入は禁止された。


18世紀終わりから19世紀初めにかけて、オランダ通詞を通じて入ってきた理学書としては、志(し)筑(づき)忠雄(1760−1806年)による『暦象新書』(上・中・下、1798−1802年)がある。この本によって、ニュートン物理学が初めて日本に紹介された。高野長英、二宮敬作、伊東玄朴、戸塚静海らが長崎のシーボルトの鳴滝塾(1824−1828年)で学んでいる。この頃、日本の近海に外国船が頻繁に現れるようになったため、1825(文政8)年に「異国船打ち払い令」が出されている。


阿片戦争(1840−1842年)後の上海において、イギリス人アレクサンダー・ウィリー(ワイリー)(偉烈亜力、1815−1887年、宣教師)を中心として西洋数学の普及を見る。彼の口授を支那の学者が筆記して、多くの漢文数学書が著述又は翻訳された。その一・二を挙げれば、『数学啓蒙』(1853年)、『代数学』(1859年、ド・モルガンの書の漢訳)、『代微積拾級』(1858年、アメリカのルーミスの書の漢訳)、『幾何原本』(ユークリッドの(『原論』)の6巻までを、マテオリッチ(利瑪竇)が徐光啓の協力を得て漢訳したものに、ウィリーが最後まで漢訳したものを付け加えて合本したもの)などである。これらの書物が文久年間(1861−1864年)に数多く輸入されている。 \par \bigskip  

日本において西洋数学が最初に組織的に教えられたのは、開国後の1855(安政2)年に幕府によって設置された「長崎海軍伝習所」においてであった。「長崎海軍伝習所」は海軍士官を養成する学校であった。オランダ軍人を教師に、航海術・運用術・造船学・機関学・船具学・測量学・算術・砲術・砲調練などの諸学科を学ばせた。幕府は1857(安政4)年に、長崎海軍伝習所の第一期生で成績優秀な幕臣15名位を江戸に呼び戻して、築地の講武所内に「軍艦教授所」を開いた。「軍艦教授所」はその後、1864(元治元)年に「軍艦操練所」と改称されている。1857(安政4)年には、柳川春三(しゅんさん)(1832−70年)が、算用数字、位取り記数法を用いた最初の算術書である『洋算用法』を出版している。この柳川春三は数学者というよりは洋学者と呼ばれるべき人で、語学の才能に優れていた。1862(文久2)年には蕃書調所を洋書調所に改組して、その中に数学局が置かれた。1863(文久3)年に洋学の教育研究機関として幕府開成所を設置。1864(元治元)年秋、開成所規則を制定し、学則を欧米の学校にならい、教授科目を蘭・英・仏・独・露の語学と天文・地理・窮理・数学・物産・化学・器械・画学・活字の諸科とすることになった。これに伴い、幕府開成所の数学教授であった神田孝平によって『数学教授法』が出版された。 幕府開成所最後の頭取であり、開成所の後身である開成学校の初代頭取を務めたのが、『洋算用法』を著した柳川春三であった。


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薩摩藩の洋学教育

 

鹿児島市には繁華街の中心に「天文館」という場所がある。かつてここには、簡天儀、測午表、望遠鏡等を備えた、明時館という暦を作る施設があった。これを創ったのは薩摩藩8 代藩主・島津重豪(しげひで)(1744−1833年)で1779(安永8)年のことである。薩摩藩では渋川春海が貞享暦を作った時以来、改暦があるたびに藩士を派遣し編暦を学ばせていたが、たまたま1765(明和2)年、幕府が天文台を江戸牛込に造り、同じ場所に新暦調所をおいたとき、薩摩藩から助手が登用された。そこでかつて宝暦改暦のとき助手を務めた水間良実が派遣されたが、水間は天文方佐々木秀長についてこれを助け、8年後の1772(安永元)年に帰藩した。これを契機に薩摩の天文台と暦局が設置された。これが明時館である。明時館では天体の観測と計算による天体の運行の予測、ならびに暦の編纂が行われた。重豪は蘭癖大名と呼ばれるほど西洋の科学・技術に興味を示し、オランダ商館医シーボルトと懇親な関係にあったことで有名である。重豪は文治政策をすすめ、藩校である造士館・演武館(1773年)、医学院(1774年)も創っている。重豪は戦国の遺風を残した粗野な士風を改めようと、上方から商人、役者、芸妓、娼妓などを呼び寄せている。一方これらの施策に対する反発も大きかった。藩の財政支出が増大するとともに、税の負担者である農民が疲弊したからである。重豪は1787(天明7)年、43歳で隠居し、藩主の地位を15歳の嫡男、斉宣(なりのぶ)に譲った。斉宣は『鶴亀問答』を著し、近臣に藩政改革の意思を示したが、その内容は忠孝文武、節倹仁慈を説くものであった。この斉宣の意思に沿って改革を進めたのは『近思録』(朱子学の教本)を愛読する質実剛健の薩摩人士達であったので、「近思録派」と呼ばれる。しかし、彼らの施策は復古色の濃いもので重豪がすすめた開明的、進歩的な施策と真っ向から対立したため重豪の逆鱗に触れた。その結果、樺山久言・秩父季保両家老をはじめとする近思録派の人びとに厳しい処分が下り、藩政から一掃されることになった(近思録崩れ)。斉宣も1809(文化6)年、強制的に隠居させられ、藩主の座は斉宣の嫡男・斉(なり)興(おき)に引き継がれた。重豪は1833(天保4)年正月、89歳で亡くなるまで、傍若無人ともいえる程の生き方を貫いたが、これが可能だったのは、もって生まれた才気に加えて、77万石の外様雄藩の藩主、後見役としての地位と、11代将軍家斉の岳父(二女茂姫は家斉の正室)としての威光があったからであると思われる。


薩摩藩が明治維新において極めて重要な役割を果たしたことは誰もが認めるところであろうが、それを可能とした理由は、やはり「軍事力」の優位性であろう。「軍事力」の優位性が王政復古のクーデターを成功させ、戊辰戦争を勝利に導く原動力になった。その影響力は、西南戦争で薩摩が敗者となるまで続いた。薩摩藩では他藩に先駆けて藩財政の立て直しと軍事力の「近代化」が図られていた。重豪・斉宣の時代、薩摩藩は莫大な借金を抱え経済的に困窮していた。藩財政の立て直しは、重豪の御側用人・調所広郷(笑左衛門)を中心にしてすすめられたが、様々な方策を講じることにより、1840(天保11)年には、藩庫貯備金50万両の外に諸営繕費用200万両に達するまでになった。


薩摩藩は1609(慶長14)年、琉球を支配下に置くとともに奄美五島を直轄地にし、幕府の特許のもとで琉球を通じて中国と貿易を行っていたので、このルートから西洋事情に関するニュースはいち早く入手できた。1837(天保6)年、モリソン号事件が起こった。モリソン号とは、広東のアメリカ商社オリファント商会の船で、日本人海難船員7名を日本に送還し、それを機会に日本との貿易とキリスト教の布教の端緒を開こうと浦賀沖に来たが、砲撃を受けて目的を果たさず、転じて薩摩・山川港に接近停泊した。薩摩藩は異国船打払令に基づき砲撃したが、モリソン号は浅瀬に投錨し無風で動けなかったにもかかわらず、何らの損傷を与えることができなかった。モリソン号は、そのまま脱出し広東へと帰っていった。従来の日本の砲術では通じないことを知った薩摩藩は、藩士を長崎に派遣し、高島流砲術を完成させた高島秋帆に西洋砲術を学ばせた。そのうえ、薩摩藩は高島秋帆の仲介で西洋の銃砲を購入し、1842(天保13)年には、鹿児島弁天築地で西洋銃砲の鋳造を始めた。藩主の斉興も大砲射撃演習を検閲し野戦教練を行っている。これ以来、高島流砲術が島津家御流儀となった。


1844(弘化元)年以降、琉球・長崎へ英米仏の船が外交・交易を求めて相次いで渡来するようになったことを端緒として、薩摩藩領の喜界島・徳之島・奄美大島・甑島にも仏英船が来航するようになった。このような状況に危機感を持った薩摩藩では、1846(弘化3)年、藩主・斉興は世子・斉(なり)彬(あきら)を帰国させ、外圧に備え海岸防備などの指揮を執らせることを幕府へ願い出た。幕府も、当時、抜群に外国事情に明るく、英名高い斉彬に期待し、老中を藩邸へ遣わしこれを許した。同3年10月頃から軍事力強化・軍制改革の具体的取り組みが始まった。軍役の基になる給地高の改正、洋式兵制への移行、洋式銃砲製造のための鋳製方の設立、砲術館の設立、銃弾・砲弾製造に必要な研究を行う製薬館と火薬製造所の設立などである。砲術館は洋式銃砲の運用術を研究するところであり演習施設であった。館内には「書籍方」、「書写方」という施設があり、軍事科学書の保管と写本の作成も行われていた。


1851(嘉永4)年2月、斉興の後を継いで藩主の座についた斉彬は、世子時代の頃から摂取し続けてきた洋式築城術・防衛術を基に錦江湾防備のための洋式砲台を建造した。さらに、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興した。1851(嘉永4)年7月(太陽暦で8月頃)には、土佐藩の漂流民でアメリカから帰国した中浜万次郎(ジョン万次郎)を保護し藩士に造船法などを学ばせた。ペルーが来航したのはその直後の1953(嘉永6)年のことであった。1854(安政元)年、洋式帆船「いろは丸」を完成させ、帆船用帆布を自製するために木綿紡績事業を興した。続いて西洋式軍艦「昇平丸」を建造し幕府に献上している。黒船来航以前から蒸気機関の国産化を試み、日本最初の国産蒸気船「雲行丸」として結実させた。1855(安政2)年に幕府によって開設された長崎海軍伝習所には、五大才助(友厚)、川村與十郎(純義)ら16名の薩摩藩士を伝習生として送り込んでいる([15]、p.942)。水軍隊(海軍)創立のための布石であった。また、下士階級出身の西郷隆盛や大久保利通を登用して朝廷での政局に関わった。しかし、幕政改革をともにすすめた老中・阿部正弘の死後、大老に就任した井伊直弼によって斉彬は遠ざけられてしまった。1858(安政5)年、これに抗議するため率兵上洛を決意するが、軍事演習を指揮、閲覧中に急逝した。これに伴い台場建設は一時中断されるが、新藩主・茂久によって継続された。


藩主・茂久の父・島津久光が斉彬の意思を継ぎ、兵を率いて江戸に出向いての帰途、1862年9月14日(文久2年8月21日)、「生麦事件」を起こし、これがもとで翌1863年8月(文久3年7月)、イギリスとの間で戦争が起こった。いわゆる「薩英戦争」である。薩摩藩はこの戦争で敗者になることはなかったが、軍事技術面、とりわけ海軍力での西洋との差を思い知らされ、戦争後の和睦交渉を経てイギリスと急接近することになった。その結果、1864(元治)年6月に、洋式による軍制拡充と軍事強化の人材養成を目的とする洋学校「開成所」を開設した。また、開成所教授・石河確太郎の建言に基づいて、翌年の正月、イギリスへの留学生を送り出している。後に初代文部大臣として日本の近代的教育制度の整備に尽力した森有礼(金之丞)(1847−1889年)は、この開成所で英学を学び、イギリス留学生にも選ばれている。この「開成所」の学科目に「天文、地理、数学、測量、航海」とある。このうち「数学」は算術・幾何・代数、「測量」は平面三角法、「航海」は球面三角法を含むものであったと推測される。薩摩藩において「数学」が教科として教えられたのはこの時が初めてであった。斉興・斉彬時代に創設された「砲術館」はその後、度々名称が変更されたが、1867(慶応3)年1月に「陸軍所」となり、同時に、新たな軍隊組織が組織された。


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江戸期の和算文化

日本における数学の起源は、6世紀に百済から仏教とともに暦が伝わった頃にさかのぼる。当時、中国古代の最大の数学書『九章算術』が輸入されていた。奈良時代になると、中国の科挙制度をまねた律令制官僚制度の試験において数学が正規科目として取り上げられるようになった。その後、日本の「数学」に、さしたる進展はなかったが、戦国時代から織豊時代を経て、軍事技術や築城術の革新、鉱山開発や検地などの社会的必要性や、商業の発達によって、江戸時代には日本独特の数学文化が花開いた。


 

江戸時代の「数学」は「ソロバン」による計算と算盤と算木を用いた天元術という、一種の器具代数からなっていた。「ソロバン」による計算は江戸時代を通して広く読まれた、吉田光由(1589−1673年)の『塵劫記』(1627年刊)が有名である。光由は朱印船貿易で財をなした豪商角倉家の一族である。光由は15世紀末、朝鮮経由で日本に移入された中国の数学書『算法統宗』(1593年、明代の民間数学者、程大位の著)を基にして『塵劫記』を書いたという。ちなみに『塵劫記』が扱った計算問題は、「米の売買とそれに伴う計算」、「金銀両替」、「銭の売買」、「利息」、「絹布の売買」、「検地」、「船賃」、「升」、「収穫と税」、「種々の工事」、「測量」、「開平方」、「開立法」など多岐に渡る。算盤と算木を用いた天元術は、同じく15世紀末に朝鮮経由で日本に移入された中国の数学書『算学啓蒙』(1299年、元代の民間数学者、朱世傑の著)によっている。この書はアラビアやインドの影響が見られるという。いわゆる「和算家」と呼ばれ人々はソロバンで計算をし、代数方程式を天元術で解くことによって、いろいろな数学の問題を解いた。「和算家」としては、関孝和(1642?−1708年)とその高弟、建部賢弘(1664−1739年)が有名である。関は25歳のとき、奈良の寺にあった中国の数学書『楊輝算法』、(元時代の天元術の書、方陣、不定方程式等も扱っている)を写本し研究している。また元の時代に書かれた『授時歴』や清から輸入された暦書『天文大成管窺(かんき)輯(しゅう)要(よう)』80巻を独力で読み切ったという。関の生涯については謎の部分も多いが、江戸詰の甲府藩士として御賄、御勘定役人を務める一方、検地や測量に関する業務にも携わっていたこと、主君甲府藩主徳川綱豊(後に家宣と改名)が叔父の将軍綱吉の養子になって江戸城西の丸に入ったのに伴い、西丸御納戸組頭となり御家人となったこと、其の4年後に没したことは確かなことである。関は一元高次代数方程式の近似解法を開発した。これは当時のヨーロッパにおいてホ−ナ−(Horner)の方法として知られているものと同じものであった。関は算木を用いる天元術から一歩でて「傍書法」という筆算による代数計算の体系をうち立てた。これは「点竄(てんざん)術」と呼ばれる。多元連立代数方程式の消去法による解法から行列式の概念に達した。円周率、円弧と弦の長さの関係なども研究した。続いて建部は逆正弦関数のテーラー展開に相当する式を見つけている。関流和算家としては18世紀末に安島(あじま)直(なお)円(のぶ)が出て曲線の長さや曲線で囲まれた部分の面積を求めるため、今日の定積分に相当するものを考案している。これらの円と関わる数学は「円理」と呼ばれる。関、建部らは数理の世界の法則性を研究する「数学者」と云える存在である。日本数学会には50回目の年会を記念して1995年にこの二人の名前を冠した学会賞を設けている。


「和算」は、数学を知的遊戯として楽しむ文化として、生け花・お茶と同じように庶民のあいだに広まった。「関流」、「最上(さいじょう)流」、「中西流」などのギルドを形成し免許制度をとっていた。数学の問題を作ったり、問題が解けると「算額」を作って神社に奉納した。この「算額文化」を含めて江戸時代の数学文化には次の三つの流れがあったと云える。


(1) 実用数学
 ・庶民(商人、職人、農民)の実用数学(ソロバン)
 ・下級役人(武士)の実用数学(ソロバン、計算術、測量術)
 ・国の統治者(武士)としての実用数学−天文・暦術と軍事技術(兵学、砲術、築城術、航海術、造船(蒸気船)術、造銃砲(小銃・大砲)術)

(2)趣味・教養としての数学(算額文化)
 ・担い手は庶民(町人、上層農民)

(3)和算家の数学(算盤と算木、点竄術、代数方程式、円理)
 ・担い手は主として下級武士、上・中層農民、商人


明治になって国民教育として「西洋数学」が導入されたとき、それが短期間で可能であったのは江戸時代に「和算」が広く行われていたからであると考えられる。しかし、ユークリッドの『原論』の漢訳本、『幾何原本』が幕末の文久年間(1861−1864年)に日本に入ってきたとき、ほとんどの和算家はその意義を理解しなかった。彼らの数学は技巧的に難しい問題を考え、それを解くための多元連立方程式を立て、それを天元術または傍書法(点竄法)で解くというものがほとんどであった。彼らの数学には証明がなかった。数学における論証が広く理解されるようになったのは、明治になってユークリッド幾何学が定理の証明を含めて教えられるようになってからである。


日本において、ユークリッド幾何学が公理系から出発して証明付きで初めて教えられたのは、1871(明治4)年に来日した アメリカ人理化学教師、W.E. クラーク(Edward Warren Clark、1849 -1907年)によってであり、静岡藩の静岡学問所に於いてであった。明治維新により徳川幕府が瓦解した後、徳川宗家は駿河・遠江・三河に70万石を与えられ一大名となったが、その藩が静岡藩である。静岡藩には幕末期に幕臣として西欧に留学した人たちが沢山いた。それらの人たちが中心となって創られたのが静岡学問所である。静岡学問所でのクラークによるユークリッド幾何学の講義は、『幾何学原礎』(クラーク先生口授、山本正至・ 川北朝隣 謬、 文林堂)として1875年(明治8)年に出版された。この本に先立ち、1873(明治6)年に既に、中村六三郎によって、証明付きの幾何学教科書としてディヴィス(Davis)の『幾何学初歩』が翻訳刊行されている。この本は文部省推薦図書(教科書)となった([23]、p.236)。証明付きユークリッド幾何学の普及には、我が国最初の数学の大学教授、菊池大麓(だいろく)(箕作大六)(1855−1917年)の寄与するところが大きい。菊池は蛮書調書の筆頭教授・箕作阮甫(1799−1863年)の娘婿・箕作秋(しゅう)坪(へい)(1826−1886年)の二男である。1866(慶応2)年、満11歳のとき、幕府派遣・第一次英国留学生14名(内2名は取締役)の一人として英国に留学(留学生中、最年少)、ロンドン大学のユニバーシティ・カレッジの付属高校、ユニバーシティ・カレッジ・スクールに通学したが、1867(明治元)年、幕府瓦解のため帰国。1870(明治3)年、明治政府の命を受け、2度目の英国留学。はじめ、ユニバーシティ・カレッジ・スクールに通った後、ケンブリッジ大学のセント・ジョーンズ・カレッジに入学、数学を専攻、教師の中にはトドハンター(Isaac Todhunter、1820−1884年. 『The Element of Euclid』の著者)もいた。1877(明治10)年5月、帰朝、この年の6月に設立されたばかりの「東京大学理学部」の教授に就任、数学と物理を教えた。同年、「東京数学会社」の設立に参加している。


明治の初めには「西洋数学」と「和算」が共存していた時期があったが、次第に「和算」は「西洋数学」に取って代わられ、数学史の研究対象となっていく。これは西洋数学が物理・化学・工学

など、軍事、殖産興業に必要とされた諸科学の基礎としての位置を占めるようになったことによるものであろう。ヨーロッパにおいて数学が軍事・産業技術との結びつきを強めていくのは、市民革命を経て「資本主義経済システム」が確立されていく過程と軌を一にしていた。17世紀、「ニュートンの力学」の誕生を契機に成立した「微分積分学」は、18世紀を通して、D.ベルヌーイ(1700−1782年)、オイラー(1707−1783年)、ダランベール(1717−1783年)、ラグランジュ(1736−1813年)ら大陸の数理科学者によって、「解析学」として整備されていた([44])。「和算」の歴史的研究は現在も活発に行われていて新たな知見がもたらされているようである([26])。また「和算」を現代の数学教育に生かそうとする試みも行われている([27])。



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「詳証術は万学の基本なり」という、佐久間象山の有名な言葉がある。この言葉は『\ruby{省}{しょう}ケン\ruby{録}{ろく}}』(岩波文庫、「ケン」の漢字は欠字)の中にある。「省ケン録」とは、あやまちを省みる記録の意であるが、象山が獄中にあったときの感懐を後でまとめたものである。象山(1811‐1864年)は本来、儒学者であったが、主君・信濃松代藩主真田幸貫が幕府老中として海防掛についたのを機に、日本国の海防のための方策を研究することを命ぜられ、西洋の書物を渉猟するなかで、蘭学・兵学にも通じるようになった。象山は鎖国論に対して開国論を早くから主張した。「夷の術をもって夷を制す」というのが彼の考えであった。1854(嘉永7)年、門弟の吉田松陰が再来航したペリーの艦隊で密航を企て失敗するという事件を起こした。象山もこの事件に連座し、伝馬町牢屋敷に入獄した。その後、1862(文久2)年まで、松代での蟄居を余儀なくされた。


「詳証術」はオランダ語の Wiskunde の訳で数学のことであるが、「詳しく証明する術」の意味から、この文章をもって象山が数学の演繹的証明を知っていたと理解するのは誤りであることを元東海大学教授・川尻信夫氏(故人)は主張されている([21])。川尻氏の精細な研究によれば、この言葉を最初に使ったのは和算家・内田五観(1805 ? 1882年)であり、象山は五観からの受け売りであるという。五観は「詳証術」ではなく「詳証学」という言葉を使っているのだが、この語は『崇禎歴書』に採録された、プトレマイオスの『アルマゲスト』に由来するという([21]、p.127)。五観は1805(文化2)年、幕臣・宮野弥市郎の二男として江戸に生まれた。幼少より和算の才を発揮し、1822(文政5)年、18歳で関流6世宗統の伝を承けている。和算と平行して、僧・釈円通より暦学を学び、1822(文政5)年、または1828(文政11)年に、瑪得瑪(マテマ)弟(テ)加(カ)塾を開く。同門の先輩、和田寧より、円理の術の伝授を受ける。これを基礎に、円理豁術を発展させた。五観は和算家であると同時に歴算家であった。1831(天保2)年、26歳のとき、高野長英に入門し蘭学を学び始めた。五観は長英から、イオニア学派の自然哲学に始まり18世紀のウオルフに至る西洋哲学史(主には自然哲学史)の概要、およびベーコンの学問分類をプロトタイプとする、ディドロ、ダランベールら18世紀フランス「百科全書派」の学問分類を学んだ。川尻氏の研究によれば、五観は(1)「詳証学」と云う言葉を「百科全書派」の数学の項を執筆したダランベールによる最も広い意味での数学、即ち純粋数学(数論・幾何学)と混合数学(力学・光学・天文学・地理学・年代学・軍事建築術・流体静力学・水力学・航海術等)を含むものとして使っている、(2)ヨーロッパの数学的自然学の基礎にあ



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幕末の加賀藩に関口開(1842−1884年))という和算家がいた。1856(安政3)年、満14歳のとき、加賀藩数学師範算用者で和算家の滝川流(規矩流)2世・滝川秀蔵に入門。1864(元治元)年正月、滝川流和算皆伝および指南免許を取得し、1868(明治元)年には加賀藩藩校の洋算教師に採用されている。関口は加賀藩の外国方役人等について英語を学び、洋算は自分で学習したという。その後、多くの洋数学の翻訳書を著した。明治初期の最大のベストセラー数学書『新撰数学』(22万部)は彼の著作である。薩摩藩には、このような「和算家」はいたのであろうか。また薩摩の庶民は和算家の師匠について、数学を趣味・教養として楽しむことはあったのであろうか。『薩摩見聞記』の中の本富安四郎の薩摩人士の科学・数学に対する態度の記述を読んで最初に思ったのはこのことであった。インターネット上には「和算の館」というサイト( http://www.wasan.jp/ )があり、そこに全国の「算額」の一覧表が載っていたので覗いてみると、山口、高知、佐賀、熊本、宮崎、鹿児島の各県はいずれも「算額」の空白地帯であることに気付いた。ただし、佐賀には平成21年奉納の算額があるがこれは除いてある。安四郎は『薩摩見聞記』の中で、「一般に西南地方は士族の勢力何れも盛んであるが、薩摩はその極点である」と述べているが、ここに云うところの「西南地方」と「算額」の空白地帯が符合しているように思われる。このことからして、私は「この地域には、趣味・教養として数学を楽しむ文化、および数学を探求する文化、いわゆる「和算」の文化は存在しなかった」という仮説を立てたが史料に基づいて実証できたわけではない。今後の課題である。薩摩藩では幕末期の廃仏毀釈により寺院が徹底的に破壊された事情を考慮に入れる必要があると思われる。一般的には、武士の勢力が強いところでは、趣味・教養として数学を楽しむ文化の担い手である町人・農民の力が未発達であるからであると云える。



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この論稿で用いた「西洋数学」という言葉は、決して「西洋」で生まれ、そこで育った「数学」のみを意味しているわけではないことを注意しておく。「数学」はインターナショナルかつユニバーサルなもので、あらゆる文明は、記号や表記法の違いはあっても、その発祥おいて「数学」を文化として含んでいるのが一般的である。様々な文明における「数学」が互いに影響しあい、融合し、統一されて現在の「数学」ができている。一例をあげると、現在、私たちが使用している算用数字と10進位取り記数法である。これは遅くとも7世紀にはインドにおいて広く使われていたことがわかっている([40]、p.57)。10進位取り記数法にとっては、空位を表す 記号0が重要であるが、この記号は、60進法で数を表していた古代ギリシャの天文学者達の記号から来ているという説もある([40]、pp.61−62)。このインド数字と位取り記数法は14世紀から16世紀にかけてアラビアを通じて西欧社会に伝わった。10進小数は古代中国にもあったが、ヨーロッパで初めて使ったのは16世紀末頃のオランダのステヴィンである。


江戸時代の日本には、16世紀末に朝鮮から日本に入ってきた中国の数学書を基に独自に発達した数学文化があった。これを「和算」と呼ぶのに対して、16世紀末以降、ヨーロッパ人の東アジア進出に伴い、日本にもたらされた数学を「西洋数学」と呼んでいる。そもそも「数学」という言葉は、我が国最初の学会ともいうべき「東京数学会社」の内部委員会の検討を経て、1882(明治15)年にMathematicsの訳として採用されたものであった。Mathematicsの語のもとになったギリシャ語の原義は「学ばるべきもの」と云う意味である。もちろん、ヨーロッパ社会においてこの言葉が意味する内容は時代とともに変わっているが、江戸時代後期から末期にかけて日本で使われてきた「算」とか「算術」が意味するものとは、その広さや深さにおいて異なるものであった。


「文明」は英語では、「civilization」であるが、この語はラテン語の「国家」を意味する「シヴィタス」から来ているという。「国家」と呼べる程に発達した複雑な社会では、数を用いて計算したり、長さ、面積、体積などの量を測定することは必須なことであった。ここから、実用的な「算術」、「幾何学」が生まれた。「算術」を意味する英語の「arithmetic」は「数を用いて計算する技術」、「幾何学」を意味する英語の「geometry」は「地面・地球を測る」という意味である。この「算術」、「幾何学」の他に数学の源となった文明社会に共通するもう一つのものは、「天文・暦術」である。農業にとって、季節の移り変わりを知ることは重要な事であった。また国の統治者にとって、人々の時間を統制することは必要なことであったし、日食・月食を予測することは自らの権威を高めるうえで役に立った。古代中国には、皇帝は天の意思を受けて政治を行うもので、天の意思は天文現象に現れるという思想があった。これを「観象受時」という。この考え方によって天文観測による占星術が発達した。このような事は多かれ少なかれ、いずれの文明にも共通することである。古代律令制の日本にも中国から伝来したものではあるが、このような仕事に携わる人たちがいた。「暦術」には、その方法において「西洋」と「東洋」では違いがあって、「西洋」では「幾何学的モデル」を用い、「東洋」では膨大なデータから種々の「天文定数」を決め、これを用いて代数方程式を立て解く「代数的計算」によっていた。円や球を用いた幾何学モデルによる古代ギリシャ・ローマ文明の天文学は、ローマ帝政期の天文学者、プトレマイオス(紀元83年頃 −168年頃、英称はトレミー)の『アルマゲスト』全13巻(紀元150年以降)として伝わっている。


私が学んだ数学は、古代ギリシャのポリス国家とそれに続くヘレニズム期の国々および古代ローマにおける数学を源とするものであって、「ヨーロッパ数学」と呼ばれることがある。この数学における「算術」は実用的な計算に関わるものではなく、「数」の世界の法則性(例えば、現在、最難問の未解決問題とされている、素数分布に関する「リーマン予想」など)を研究するもので、「数論」と呼ばれる。「幾何学」も実用的な測量術に係わるものではなく、「イデア」としての幾何学図形の性質を研究するもので、論理的な証明が重んじられる。都市国家アテネにあったプラトン(429−347BC)の学校「アカデミア」の入り口には、「幾何学を知らざる者入るべからず」と書いてあったというが、これはプラトンの哲学の探求には「幾何学」に必要な論理的に議論を進める仕方が求められていたということであろう。プラトンは数学をピタゴラス(572?−492?BC)を祖とする学派の数学者達に学んだと云われているが、ピタゴラスの学派は「世界は数なり」を信条とする秘密結社のような団体であったという。数学における「証明」は、ギリシャ数学に特有なものであるが、感性的認識を否定し、純粋思惟の世界に向かうことを主張したエレア学派の哲学とピタゴラス学派の数学が出会うことによって生まれたという([41]、p.178)。エレア派の哲学者としては、パルメニデス(515BC頃)、ゼノン(490BC頃の生まれ)が有名である。プラトンの弟子のアリストテレス(384−322BC)は、師の死後、プラトンの「アカデミア」を去り、遍歴の途についた。紀元前342年、マケドニア王ピリッポスの招きを受け、王子アレクサンドロス(のちの大王)の養育係になった。その後、紀元前335年にアテネに戻り、彼自身の学校「リュケイオン」を開いた。論理学の完成によって、学問の支配原理を確立したのはアリストテレスである。彼にとっては、感覚で知覚できる個々の事物が基本的実在であり、師プラトンの「イデア」の概念には批判的立場をとった。彼は、観察に基づく実証的な生物学の研究も行っている。中世ヨーロッパにおいて、アリストテレスの学問体系は、キリスト教神学の「権威付け」に利用され、スコラ哲学を生むことになる。


この古代ギリシャ世界(ギリシャ語を用いる文化圏)における数学に関する知識は、紀元前300年頃のエジプト・アレキサンドリアの数学者、ユークリッドによって、『原論』(『ストイケイア』)全13巻としてまとめられて後世に伝えられた。これは、前提条件としての定義、公準、共通概念から出発して論理を用いて演繹的に導出された定理、命題、系からなる体系である。以後、『原論』の演繹的記述の形式はヨーロッパ社会における学術書の記述の仕方のモデルとなった。


ユークリッドは、古代ギリシャと東方の文化が融合したヘレニズム期のエジプト・プトレマイオス朝の数学者であるが、少し遅れて、シチリア島のイラクサにアルキメデス(287?−212BC)が、小アジアのベルガモンにアポロ二ウス(262?−?BC)が現れた。アルキメデスは単に数学者にとどまらず、天文学者、物理学者であり、技術者であった。彼は、梃子や浮力など直接、機械に関わることを手掛け、実際に、「コクリアス(かたつむり)」と呼ばれる、水を汲み上げる機械を発明している。これは、灌漑、排水に利用された。また、現在では積分によって計算される、種々の曲線で囲まれた平面図形の面積、立体図形の表面積および体積、或る種の立体図形の重心を求めている。彼が発見した数学の「事実」に、「球とそれに外接する円柱の体積および表面積の比は、ともに2:3となる」がある。数学のノーベル賞といわれる「フィールド賞」のメダルの表側には、アルキメデスの肖像とラテン語の銘文、「己を高め、世界を捉えよ」が、裏面には、「球とそれに外接する円柱」が刻まれている。アポロ二ウスは、著書『円錐曲線論』の中で、後世に二次曲線として知られるようになる、放物線、楕円、双曲線の性質を明らかにした。


古代ギリシャ・ヘレニズム期の数学は、後に続くローマ帝国にも受け継がれた。ローマ帝国は、395年に東西ローマ帝国に分裂したのち、ゲルマン人の北方からの侵入により、476年にローマを中心とする西ローマ帝国が滅んだ。その後も、プラトン、アリストテレスをそれぞれの創始者とする学校、「アカデミア」と「リュケイオン」は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)において存続したが、529年、ユスティニアヌス1世によって閉鎖された。これに先立ち、ローマ帝国内にはキリスト教が徐々に浸透していたが、392年、テオドシウス1世によって、「三位一体派」のキリスト教がローマ帝国の「国教」に定められている。「アカデミア」と「リュケイオン」が閉鎖されたのは、そこで教えられていた内容が「三位一体派」のキリスト教の教義に反する恐れありとされたためである。これらの学校を活動の拠点としていたギリシャ人知識人の中には、東ローマ帝国の敵国であった隣国のササン朝ペルシャに逃れ、ホスロー1世(Khusrau1、Khosrow、在位:531−579年)の保護下に入る者も現れた。ササン朝ペルシャの首都は、チグリス川東岸の古代都市・クテシフォン(Ctesiphon)であるが、この都市は中国と中東を結ぶ「シルクロード」の要衝として栄えた町であった。


東ローマ帝国とササン朝ペルシャの間では、たびたび戦争が起こったので、アラビア半島の西海岸に沿って新しく交易路が開かれたが、その交易路にあった都市・メッカに生まれたマホメット(570年頃−632年)によって、イスラム教が創始された。マホメットは、もともとこの交易路で中継貿易に携わる商人であった。イスラム教の勢力は瞬く間に成長し、ササン朝ペルシャを倒し、現在のトルコ、イラク、イラン、シリア、イスラエル、エジプト、サウジアラビア、チュニジア、モロッコ、スペインに跨る大帝国を築いた。これは「イスラム帝国」、または「サラセン帝国」と呼ばれる。最盛期はアッバス朝・カリフ(750 −1258年)の時代で、そこでは、古代エジプト文明と古代バビロニア文明の基礎の上に、アラビア、ペルシャ、ギリシャ、インド、中国の文化を融合した文明が栄えた。762年、カリフ、アル・マンソー(Al-Mansor、在位:754−775年)は、古代バビロニアの首都バビロンの近くに都市バクダートを築いたが、この地において、ユークリッドの『原論』やプトレマイオスの『アルマゲスト』などがアラビア語に翻訳された。『千夜一夜物語』で有名なカリフ、ハールーン・アッ=ラシード(763−806年)が、ギリシャの科学書のアラビア語への翻訳を推奨したからである。アッ=ラシードの息子で第8代カリフのアル・マアムーンは、803年に「賢者の館」と呼ばれる学術研究機関を作り、学術の興隆に尽くした。古代ギリシャの数学とは異なるタイプの数学、代数方程式の理論と代数学が生まれたのは、この時代、この地域においてである。820年にバクダートの数学者、アル=フワ―リズミーは「約分と消約の計算の書」を著したが、この書には代数方程式の解法の技法として、「移項(ジェブルーアルジェブラ)」と「同類項簡約」のことが書かれていた。代数学(アルジェブラ)の語は、「移項(ジェブルーアルジェブラ)」から来ているし、計算手順を示す「アルゴリズム」の語は、「アル=フワ―リズミー」に帰せられる。ただし、文字式を表す記号は、この時代にはまだなかった。これが現れるのは、16、17世紀の西ヨーロッパにおいてである。


 ピタゴラス−プラトンの学統の学校、「アカデミア」ではMathematicsの内容は「数論」、「幾何学」、「音楽」、「天文学」であった。「数論」、「幾何学」は、それぞれ、「物理学」(弦の長さの比と音程との関係)と「宇宙構造論」(天文学)と結びついていた。これに「文法」、「修辞学」、「弁証術」を加えたものを自由七学芸といい、ヨーロッパ中世末の教会・修道院付属の学校や大学における標準的カリキュラムになった。12世紀から始まる「国土回復運動(レコンキスタ)」を通じて、8世紀から12世紀にかけて栄えたアラビア文化がイベリア半島を通して西ヨーロッパに伝えられた。特に代数学とアラビア数字(=インド数字)を用いた計算法の流入は大きな影響を与えた。Mathematics の内容に変化が現れるのは、この頃からである。これは当時の西ヨーロッパにおける市民階級の台頭と呼応していた。ユークリッドの『原論』もこのアラビア文化の流入を通して再発見され、アラビア語からラテン語に翻訳されてヨーロッパに広まった。そしてアラビアを源流とする「代数学」とユークリッドの「数論」、「幾何学」が結びついて、17世紀にデカルトの「解析幾何学」、「代数幾何学」が生まれた。


 ルネサンス期(14−16世紀)の三大発明と云えば、「火薬」、「羅針盤」、「紙と活版印刷術」であるが、これらはすべて中国起源のものである。これらの技術はヨーロッパにおいて実用化され、世界を大きく変えていくことになる。17世紀の「科学革命」は、1543年、コペルニクスの地動説の書、「天球の回転について」の出版とともに始まったと云ってよい。その後、ティコ・ブラ−エ、ガリレオ、ケプラーを経て、ニュートン(1642−1727年)の力学に至る。ティコ・ブラ−エはデンマークの貴族で、極めて正確かつ包括的な天体観測を行い、天体の運行に関する詳細な記録を残した。ケプラーはティコの助手であったが、ティコの天文観測データを使用してケプラーの法則を発見した。惑星の運動に関するケプラーの楕円軌道モデルは、「ニュートンの力学」の誕生に重要な役割を果たしているが、このモデルの根底には、古代ギリシャ・ローマ文明の幾何学モデルを用いた天文学・暦術の伝統があったと云えるのではなかろうか。1687年に出版されたニュートンの「自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)」の記述の仕方は極めて「幾何学的」なものである([44])。「変量の数学」である「微分積分学」の成立は、「天文学」と地上の「力学(運動学)」を統一した「ニュートンの力学」の誕生(万有引力と運動法則の発見)と深く結びついていた。ここで、「微分積分学」の「成立」とは、微分、積分の「記号」の創出とともに、関数の微分、積分(不定積分)が、互いに他の逆演算になっていること、すなわち、「微分積分学の基本定理」の「発見」によって、種々の「無限小計算」を系統的に行うための「アルゴリズム」が確立されたことを意味している。現在、私たちが使っている、微分・積分に関する記号については、30年戦争(1618−1648年)後のドイツ封建諸侯お抱えの学者・哲学者であり、外交官であった、ライプニッツ(1646−1716年)に負うところが大きい。



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<参考文献(順不同)>
 

[1] 『日本庶民生活史料集成 第12巻』(谷川健一・宮本常一編集、三一書房、1971年)所収の「薩摩見聞記」(元鹿児島大学教授・原口虎雄氏による「解題」、「補注」がある)

[2] 『国立国会図書館のデジタルコレクション 』(URL: https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1901155/1)所収の「薩摩見聞記」(明治31年刊行の初版と明治35年刊行の第3版がある)

[3] 「薩摩民衆支配の構造−現代民衆意識の基層を探る」(中村明蔵著、南方新社、 2000年)

[4] 「明治維新と郷土の人々」(「明治維新150周年記念事業」出版物、鹿児島県、2016年、「明治維新と市井の人々−明治維新後の庶民の暮らし」、「明治維新と女性−武家の妻」、「明治維新と子ども−庶民の教育」の項)

[5] 「衝山言行録」(宇都宮平一追悼集、1901年12月、国立国会図書館デジタルコレクション)

[6] 「宮之城町史」(宮之城町史編集委員会編、宮之城町、1974年(別に2000年刊のものがある。これには「別冊資料」がついている)

[7] 「さつま町人物伝」 (さつま町郷土史研究会、2015年11月)

[8] 「鹿児島県の歴史」(県史シリーズ46)(原口虎雄著、山川出版社、1973年)

[9] 「鹿児島県の歴史」(県史シリーズ46)(原口泉・永山修一・日隈正守・松尾千歳・皆村武一著、山川出版社、1999年、2011年刊の第2版がある)

[10] 「鹿児島県教育史 上」(鹿児島県教育会、1940年)

[11] 「鹿児島県教育史 下」(鹿児島県教育委員会、1961年)

[12] 「島津重豪」(芳即正著、人物叢書、吉川弘文館、1980年)

[13] 「幕末の薩摩―悲劇の改革者、調所笑左衛門」(原口虎雄著、中公新書、1966年)

[14] 「調所広郷」(芳即正著、人物叢書191巻、吉川弘文館、1987年)

[15] 「薩藩海軍史 上巻」(明治百年史叢書第71巻、侯爵島津家編纂所編、原書房、1968年)

[16] 「大久保利謙歴史著作集5−幕末維新の洋学」(吉川弘文館、1986年)

[17] 「大久保利謙歴史著作集4−明治維新と教育」(吉川弘文館、1987年)

[18] 「幕末期薩摩藩の洋学摂取と海防強化への実践」(山内勇輝著、尚古集成館学芸員、「明治維新150周年若手研究者育成事業研究成果報告書 平成28年度→平成30年度」鹿児島県、2019年)

[19] 「薩摩藩旧蔵洋書に関する一考察」(山内勇輝著、尚古集成館紀要 第16号、 2017年)

[20] 「薩摩人とヨーロッパ(増補版)」(芳即正著、鹿児島の歴史シリーズ@、著作社、 1982年)

[21] 「幕末におけるヨーロッパ学術受容の一断面 −内田五観と高野長英・佐久間象山」 (川尻信夫著、東海大学出版会、1982年)

[22] 「幕末・明治初期 数学者群像(上)幕末編」(小松醇郎著、吉岡書店、1990年)

[23] 「幕末・明治初期 数学者群像(下)明治初期編」(小松醇郎著、吉岡書店、1991 年)

[24] 「鵜殿春風」(今泉鐸次郎著、北越新報社、1912(大正元)年、鵜殿は長岡藩士で 幕末期、「幕府蛮書調所」の数学教授を務めた)(現在は「Googleブックス」で 検索して無料で読むことが可能)

[25] 「和算―江戸の数学文化」(小川束著、中公選書114、2021年)

[26] 「現代思想 特集:和算の世界」(青土社、Vol.49-8 、2021年)

[27] 「今、なぜ和算なのか」(田村三郎、現代数学社、2015年)

[28] 「森有礼」(犬塚孝明著、人物叢書188巻、吉川弘文館、1986年)

[29] 「森有礼−悲劇への序章」(林竹二著作集2、筑摩書房、1986年)

[30] 「明治的人間」(林竹二著作集6、筑摩書房、1984年、森有礼と田中正造を取り上 げている)

[31] 「前島 密−前島密自叙伝」(人間の記録21、日本図書センター、1997年)

[32] 「数学教育史―一つの文化形態に関する歴史的研究」(小倉金之助著、岩波書店、1932年)

[33] 「日本の数学100年史 上」(「日本の数学100年史」編集委員会、岩波書店, 1983.年)

[34] 「高木貞治とその時代−西欧近代の数学と日本」(高瀬正仁著、東京大学出版会、2014年) [35] 「日本の数学 西洋の数学−比較数学史の試み」(村田全著、中公新書611、1981年)

[36] 「文明論之概略(現代語訳)」(福沢諭吉著、伊東正雄訳、慶應大学出版会、2010年)

[37] 「西洋天文学史」(Michael Hoskin著、中村 士訳、Science Palette、丸善出版、2013年)

[38] 「東洋天文学史」(中村 士著、Science Palette、丸善出版、2014年)

[39] 「ギリシャ数学の始原」(アルパッド・サボー著、中村幸四郎・中村清・村田全著、玉川大学出版部、1978年)

[40] 「数学の黎明−オリエントからギリシャへ」(ヴァン・デル・ヴェルデン著、村田全・佐藤勝造訳、みすず書房、1984年)

[41] 「ギリシャ人の数学」(伊東俊太郎著、講談社学術文庫、1990年)

[42] 「ユークリッド『原論』の成立−古代の伝承と現代の神話」(斎藤憲著、東京大学出版会、1997年)

[43] 「近世の数学−無限概念をめぐって」(原亨吉著、ちくま学芸文庫、2013年)

[44] 「古典力学の形成−ニュートンからラグランジュへ」(山本義隆著、日本評論社、1997年)

[45] 「破天荒<明治留学生>列伝(小山 謄(のぼる)著、講談社選書メチエ168、 1999年)

[46] 「明治熱血教師列伝−仇敵、薩摩に学んだ長岡の魂」(中島欣也著、恒文社、 2000年)

[47] 『武士の家計簿―「加賀藩御算用者」の幕末維新』(磯田道史著、新潮新書、2003年)

[48] 「近代日本を拓いた薩摩の二十傑」(原口泉著、燦燦舎、2019年)

[49] 「近世日本の人口構造」(関山直太郎著、吉川弘文館、1958年)

[50] 「新潟県の歴史」(県史シリーズ15)(田中圭一・桑原正史・阿部洋輔・金子達・中村義隆・本間恂一著、山川出版社、1998年、2004年刊の第3版がある)

[51]「第一校歌原作者・本富安四郎の『薩摩見聞記』と長岡の数学」(坪井昭二著、長岡高校同窓会会報第76 号、2021 年、p.10)

[52] 「越後人・本富安四郎の『薩摩見聞記』と薩摩の数学 ―西洋数学受容過程を通して日本の近代化を考える−」(坪井昭二著、「日本の科学者」2023年8 月号、p.45-p.53)

[53]「越後人・本富安四郎の『薩摩見聞記』の中の「士平民」と薩摩の数学」(坪井昭二著、鹿児島大学名誉教授の会「樟寿会」のホーム・ページ(https://www.kagoshimau.ac.jp/shoujukai/)「会員のひろば」に掲載)

以上



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おわりに

 

越後で育った私が、今から半世紀も前に初めて薩摩の地にやって来た時の第一 印象は、「色彩の鮮やかさ」、「活火山」、「坂」、「海」の四語にまとめられる。南国の明るい太陽のもとで見る、ハイビスカス、ブーゲンビリア、カイコウズ(海 紅豆)などの花の色の鮮やかさは私の心を浮き立たせてくれた。また、近代的都市のすぐ近くに活火山が煙を上げている風景は異国的であり、勇壮な薩摩の気風 を象徴しているようであった。鹿児島県は平地が少なく、そのほとんどが数万年前の火山活動で形成されたシラス台地である。鹿児島に「坂」が多いのはこのことに由来する。鹿児島が殊更に「海」を感じさせるのは、周囲を「錦江湾」という内海と、太平洋、東シナ海の外海に囲まれた、薩摩、大隅の二つの半島からなるせいであると思う。離島を多く抱えていることもその理由の一つであろう。


薩摩藩は明治維新において重要な役割を果たした。その薩摩の地に暮らしてみて、薩摩には「武の文化」が現在でも脈々と流れていると感じるようになった。ここで云う「武の文化」は、島津家を中心とした鹿児島城下の「城下士」の「武の文化」だけではない。江戸時代の薩摩には、「郷士」と呼ばれる半農半士の「武士」が沢山いたが、これは薩摩には平地が少ないという地理的特性と無関係ではあるまい。「郷士」は藩から支給される禄は少なく、自ら山あいや山の上の土地 を開墾して薩摩芋や茶を作った。「武の文化」というとき、鹿児島城下以外の地方に住む「郷士」層の「武の文化」を含めて考える必要がある。


薩摩藩は歴史学者によって「海洋国家」と呼ばれることがある。薩摩藩は江戸時代、幕府公認のもとに琉球国を支配下におき、中国(明・清)と朝貢貿易を行なっていた。これに先立ち、15 世紀中頃の対明貿易の花形だった硫黄島の「硫黄」のお陰で勘合貿易でも優位に立ち、京都で始まった応仁の乱(1467 − 1477年)の外にいて、さながら独立国家の観があったという。


その後、越後と薩摩の歴史を学ぶことにより、歴史の中で、この二つの地域が果たした役割や、人的交流について関心を持つようになった。新潟県には、信濃川、阿賀野川、荒川、関川、姫川の五つの一級河川がある。これらの河川を治水して、その下流域の沖積平野に灌漑施設を作って、米作りを盛んにしたのが越後 である。江戸時代の農業の中心は「米作り」であったから、その意味で、越後は「農の文化」を代表していると云ってよいのではないか。本富安四郎が著した『薩摩見聞記』は、米作り中心の「農の文化」圏から、半農半士の郷士が住む「武の文化」圏にやって来た、元士族で越後人の「異文化体験記」であると云える。


1990 年代に入って、私が頻繁に外国に出かけるようになってからは、世界的レベルでの「異文化理解」、「異文化交流」の大切さを認識するに至った。私の次女がイギリス在住のカナダ人と結婚し、二人の男子を設けたので、益々その感を深くしている。考えてみれば、一人の人間にとって、他人は「異文化的存在」であ る。その意味で、個人レベルでの人と人との交流は「異文化交流」であり、「異文化理解」が前提になっていると云ってよい。今、世界ではあちこちで戦争が繰り 広げられ、多くの命が失われている。戦争をするのは「国」であるが、「国」と「国」との戦争は、いかにしたら止められるのであろうか? 私は、「国」を越えた民間レベルでの交流を盛んにし、人と人との連帯を広げていくしかないだろうと考えている。そのために「異文化理解」の心を全ての人が共有する必要がある。「異文化理解」の心とは、自分を相対化し、相手の立場になって考えることである。この「越後と薩摩」も、そのような「異文化理解」の心で読んで頂くことを願うものである。。   



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