あはきワールド連載「とらんすがいあ〜ぜ」 第3回
おもしろい経絡のはなし(2)〜経絡を見て、病をイメージする〜
『経絡が病む…経絡を治療する』
高齢になって「足首が痛くて歩けない」と訴える例があります。胆経は「気をつけ!」の姿勢で手が
触れる足の両外側を、くるぶしまで真っすぐに下っていますが、このくるぶし近くに中年頃からブヨブ
ヨしたふくらみができます。ちょっと見ると「座りダコ」のようですが、何年もかけて大きく硬くなっ
ていって、最後には足を動かせないほどに痛み始めます。
ある患者さんは、くるぶしの周辺に3つ、さらに指に寄ったところに最も硬いひとつがありました。
この最後の一つは、手の甲の指の付け根(ゲンコツで出っ張るところです)にある骨のグリグリと同じ
くらいの大きさです。「痛みがひどいので、多分骨折じゃないかと思う。整形外科で写真を撮ったが、
飛び出した骨が固まったんじゃないだろうか」というような説明でした。よく見れば、元々でもなけれ
ば、飛び出すべき骨もない場所です。「これ、ゴミですよ」と言うと「ゴミぃ?!」。
「そう、足の先は心臓から遠いし重力も邪魔するし…で、いろんな老廃物が残りやすいんです。こん
なところに骨はないから、治療してればなくなりますよ」。そして週1回の治療と同時に、患者さんに
毎日自分で灸をするように指示しました。私の予測では数カ月はかかるだろうと思っていたのですが、
驚いたことにその患者さんは2週間でほとんど跡形もなく、「飛び出した骨」を消してしまいました。
初めの1週が過ぎて再来したときに「先生がゴミっておっしゃいましたが、毎日お灸をしていたら、骨
だと思ってたのがブヨブヨしてきました」と驚きを訴えました。さらに翌週には、手の甲のグリグリほ
どあった塊が、ほとんど場所もわからないくらいに消えてしまっていました。70代というこの患者さん
の年齢を思えば代謝の速さは全く驚くほどですが、体がその気になればできないことではない…しかし
普通なら数カ月を要する仕事です。
明け方に痛みで目覚める、というようなことがときどきあります。ある患者さんは「朝の必ず4時に
痛む」と言い始めてから、1カ月間、その訴えが変わりませんでした。普通なら痛みの場所と動かし方
などをよく調べ筋や腱の問題を考えますが、1カ月間毎日同じ時刻となると別の要素も考えなくてはな
りません。
経絡を使った治療の中に「子午流注」というのがあります。子丑寅卯…十二支を12経絡に重ね合わせその時刻(子の刻なら午前零時の前後1時間ずつ)ごとに、治療経絡を選ぶやり方です。根拠や正式な理論はあまりよく知りませんが、時刻がからんだ症状のとき、時に役に立つことがあります。
その患者さんの痛みは、元々は胆経にあって、初めは殿部から足先までだったのですが、筋への治療の効果もあってその頃は膝から下、特に足首辺りだけに狭まっていました。「子午流注」の表を見ると午前4時はドンピシャの胆経。治療穴として挙げられているツボをよく見るとこれも痛む場所の辺りで確かに深部の凝りなどがありました。結局そこに治療を集中したことで、その患者さんの1カ月以上に渡った「午前4時の激痛」は治ってしまったのです。
子午流注は元の時代の鍼灸四書に含まれる子午流注鍼経という書物に書かれた方法ですが、十二支は陰陽論の元になった「卜」の時代からのものです。誰がいつ、その関係をまとめたのか私は知りませんが、たいした発見だと感心します。
治り方は、まず4時という時刻が曖昧になり、徐々に痛み方も和らいでいく…というものでした。子午流注の経絡とツボがあまりにピタリと的中してしまったせいか、何か体が「患部はココだよ〜、早く治してよ〜」と時刻を使って知らせてきたように思えてしまいました。東洋医学の成り立ちが膨大な観察の蓄積を礎にしているということから考えると、経絡と時間帯に何か関係があり、そういうケースを蓄積してまとめたら子午流注の形になった、ということなのかもしれません。
子午流注にもいろいろなやり方があり、同じ時刻でも日によって経絡が変わるような方法もあるようです。日本で手に入る資料では午前4時には肺経が充てられているものがほとんどで、むしろ4時を胆経とした私が使った資料の方がめずらしいものだったようです。こういういろいろな方式は時間が経つうちに原形からずれてきたものがあるのかも知れず、試行錯誤によって発展したのか誤って伝わったのかどれが原形でどれが亜流なのか…よくわからない部分もあります。しかし原典の意図が伝わらないのは発展とは言えないので原典は重要です。
いずれにしてもこうした理論は東洋医学の中にあるあまたの理論の一つでしかなく、決していつでも有効なものではありません。「私は○○法でやります」と一つの理論だけを選択する学生がたくさんいますが、それは広範な知識も十分な理解もないために、単に方法論だけで解決しようとするだけのことでしょう。こうした理論はいくつもストックしておくものの、数年に1例、2例が的中するという程度のもので、治療のほとんどは洞察や知識で行ない、ときに上のような特殊な例で奏効することもある、というくらいに考えなければなりません。鍼灸は方法論ではないのです。
経絡に何かあると、その経絡に関係した場所、関係した症状に変化が出ます。
学生のとき、クラスにスポーツトレーナーの男性がいました。陸上競技のトレーナーをしているその人は、筋肉なんて歩く以上に使ったことのない私たちにも、運動選手並みの力で揉み治療をしてくれます。あまりの痛さに悲鳴をあげたり汗びっしょりになったり、という彼の治療は女性にはちょっときついものでした。
あるとき女性のクラスメートが彼の揉み治療を受けていました。彼女は筋肉が少ないスレンダーな女性で、しかも生理不順の症状がありました。脾経に三陰交というツボがあります。月経や妊娠など、女性の生殖に深く関わるとされるそのあたりを揉んでいる彼と、痛みに口をキッと結んだ彼女を見て「ダメだよ〜、この人の脾経を強揉みしちゃぁ…」と注意したのですが、「なぁに、大丈夫だよ、手加減してるから」と彼は一向に手を緩めません。心優しい彼女は心配する私に「大丈夫ですから…」と言ったのですが、その翌日。彼女が私に「生理が来ちゃったんだけど、今までにないくらい痛くて痛くて」と言いました。
――予定日なの?
「ううん、ゼンゼン早いの。しかも鮮血がすごい量で」
――それ、生理だと思うの?
彼女は数秒黙ってから
「…堕りちゃったんでしょうか…」と苦笑いしました。
――だと思うね、私は。だからやめろって言ったのに…。
三陰交は堕胎のツボ、というのは話には聞いていたけれど、これが妊娠初期の女性だったらと思うとぞっとします。
脈は饒舌
臨床の場でたくさんの脈を診ていると、脈は変動的であって、ある程度恒常的な体の状態を表すほど一定ではないと感じます。古典の医書である『難経』の中の第69難、第75難は「本治」と言って基本的な体質や病気の本質を改善するために使われる場合が多く、現代の日本では脈診によって難経を利用する方法がオーソドックスに使われていますが、実は同じ患者でも脈は一定ではありません。
たとえば肺の脈がとても強いとき、私は「風邪気味ですか?」と聞いてみます。けっこうな割合で当たっているのですが、その半分くらいはその次の治療に来たときに「先生に風邪気味? と聞かれましたが、帰った翌日から熱が出ました」というような報告を聞くことになります。
脈が強い時には、その経絡に関係した部分が「頑張っている、ムリしている」ことが多いものです。頑張っているのとムリしているのとでは違いますが、その違いは脈では「いい感じに元気」な脈と「奥の方で強く打っているのを感じる」「ムリヤリ強く打っている」のような良くない感じの強さとの違いになって現れます。
脾の脈が強いとき、それがいい感じであれば「3度のゴハンが楽しみでしょ?」と聞くと「やだ、そんなのわかっちゃうの?」と言われたりしますが、深いところで強く重く感じるときには「お腹どうしました?」と聞くと暴飲暴食を続けたときだったり、ひどい便秘で腹痛がしていたりします。
おもしろいのは女性で腎が元気良く打つとき。この脈は毎月周期的に現れます。また肝が強いときにはストレスを受けていることが多く、眠りの質(寝つき/夢見/眠りの浅さ)などが悪くなっています。
では、逆に弱いときはどうでしょう。脾の脈では冷えて下痢をしていたり、食欲不振だったりすることが多いのですが、体質的に胃腸が弱い人でも脾の脈が弱ります。また、脾は栄養を取り出して配分するところから、低体温や冷えなどもかなりの確率で脾の脈に出てきます。ストレスもピークまでは肝の脈が強くなる形で出ますが、それを超えて失意のときには肝の脈が逆に弱くなり、もっと大きな失意では心の脈が弱まることもあります。
私は脈ではこういった患者さんの状態を読み取っていますが、これは誰かから教えられたものではなく、自分の5臓のイメージから患者さんに質問をしていって積み重ねたものです。言われればナルホドと思うかもしれませんが決してこれが全てではなく、こういうイメージを豊かにもって5臓の機能や状態を描くことが「脈状を読み取って意味を持たせる」ために不可欠なのです。
日本で脈診と言うとストレートに難経に直結してしまう傾向がありますが、それにとらわれずに脈を読む方法はいくらでもある…それは鍼灸師が「どれだけ患者の様子を知りたいか」という気持ちの表れが努力と試行錯誤という形になったものといえるでしょう。
経絡の使い道は決して難経式治療だけのものではなく、書いてきたとおり内臓や器官の働きに対してアプローチする「近道」または「窓口」です。経絡には「流注」という道すじがあって、単に「腕の外側を通る」だけでなく、経路の途中で出合うツボや小さな分岐・合流なども記載されています。
これによれば、肺経として描かれている線は鎖骨から指先までなのに、実際に起こる場所は「中焦」つまりみぞおち付近で、しかも「水分」(おへその上)まで下がって大腸に会ってから横隔膜を貫いて胸まで戻り、それから図に描かれる肺経ラインに入るわけです。他の経絡でも「喉を挟み」とか「舌根を循る」など、ツボや経絡として挙げられていない場所が書かれています。
脳卒中の後遺症を専門に診ているある先輩に「嚥下困難(ものを上手に飲み込めない障害)って、どうする?」と聞かれました。脳卒中の後遺症であれば中枢神経が原因になっていることが多いと思いますが、抹消に問題があって起こる嚥下困難もあるので、どんな様子か聞いてみましたがどうもよくわかりません。
「う〜ん…流注、かなぁ」と私。「確か、喉を挟み、とか舌根をどうとか、っていうのがあったと思うけど?」
「そうか。流注かぁ…」と先輩。
嚥下困難は、自律神経の不調または喉や舌の運動神経や筋力の障害で起こりますが、「五行で言うとどの臓が司るか」という分類は知られていません。こういう場合、鍼灸師は自分で答えを探さなければならないのです。西洋医学的には神経や嚥下のメカニズムを考え、東洋医学的には「食べる」「喉」などから考えていきますが、統合してもバラバラに考えてもなかなか難しい問題です。私はアッサリと「流注」と答えましたが、ここが各々のセンスであり、決して流注が正解ということではなく鍼灸師ごとのセンスで答えも様々に変わるわけです。
私は過去に一度、「シャックリを止めてくれ!」と言われて「横隔膜を貫く」という肺経を使ったことがありました。鍼灸師のセンスとは、純粋に発想だけを言うのではなく、過去の成功例や経験も加わるわけです。
このように経絡とは、川が流れるのと同じように水路のような気の流れが、通る道々に影響され、また影響を与えます。周囲が病めば滞り、流れが滞れば周囲が病むもの、そして岸辺に水を与えるように気のエネルギーで周囲を浸しながら流れているものなのです。
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