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温故知新(故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る) 豊岡のめがね橋を守る会

 田原坂Ⅲ 西南戦争遺跡・田原坂第3・4次調査の概要(抜粋:豊岡橋)
(熊本市教育委員会)

 このページは、熊本市が主体となり、平成21年度から25年度まで西南戦争遺跡の学術的記録を目的に田原坂周辺の調査が実施
され、ここで紹介するのは、平成23年8月から24年3月、平成24年4月から25年3月まで実施された田原坂第3・4次調査の概要
書の一部を紹介するものです。

※このページに掲載している文章、写真、図面等は、熊本市の文化振興課の許可を事前に得ているものであり、当サイトに掲載
している内容等の無断転載を固くお断りします。

・西南戦争遺跡・田原坂第1次調査
・西南戦争遺跡・田原坂第2次調査

西南戦争遺跡・田原坂第3・4次調査の概要
・西南戦争遺跡・田原坂第5・6次調査の概要

 豊岡の眼鏡橋
 田原坂入り口の木の葉川の支流の中谷川(田原川・滑川)に架かる単一アーチ橋である。構造は反り橋で、古写真でも確認でき
る。輪石は横積みだが、要石のみ長手積みとする。石材は凝灰岩。石材は主として江田石で円台寺石も使用され、支保工には南関
の大工が呼ばれたと考えられる。架橋年代が確認できる石橋としては熊本県最古で、江戸時代後期11代徳川家斉の享和2年(1802)
10月である。
 規模は径間(アーチ両橋脚間の水平長)38尺3寸・11.6m、拱矢(アーチ頂部と基礎石上面の垂直高)14尺6寸・4.43m、幅12尺
・2間・3.63m、長さは現状で12.5mである。長さは後世の改変後の数値であるため、本来の数値は現状では不明である。基礎石
上面レベルは左右岸とも標高21.33mで、水平に施工されている。
 要石には上流側に架橋に携わった庄屋などの名前が、下流側には石工名、年号などが刻される。
上流側 石橋造立請込 鈴麦村 田原村 庄屋 彦次郎 正院會所詰 彌兵衛 右同総代 孝三郎
    右同 甚兵衛 右同 良助
下流側 山本郡(滑)川 内田手永月田村 石工 理左衛門 右同 紺吟衛門 右同 次平
    右同 惣八 正院手永圓臺寺村 右同 太平 南関手永関東村 大工 嘉右衛門
    享和二壬戌十月吉日
 (玉名市月田・江田石)(熊本市北区植木町円台寺・円台寺石)(玉名郡南関町関東・南関石)
 本眼鏡橋は比較的大形で地域の中核的な石橋である。川沿いの玉東町側の旧道(長洲往還)の先、国道208号線沿いには「田原坂
攻撃官軍第一線陳地址)の石碑が建つ。西南戦争の際には、官薩両軍ともこの石橋を通行し、官軍は田原坂本道の右翼と左翼に回り
込むためこの川沿いの旧道を通り、本石橋を拠点に出撃したと伝わる。本石橋は西南戦争時の主たる交通路と道幅を示す重要な遺構
である。田原坂は「大砲を通すことのできる唯一の道」とされ、その道幅は本橋の幅と推定できる。現在の田原坂も幅4mで、当時
と大きく変化がないことが知られる。平成23年4月28日熊本市指定有形文化財建造物
 
【地形測量図】

図面下が上流側で、右側が国道208号線側、左側が熊本市側になります。
【豊岡の眼鏡橋 詳細図】
【豊岡の眼鏡橋 平面図】
【豊岡の眼鏡橋 立面図(上流側)】

・竣工時の石材は、輪石(アーチ部)の全部と、輪石上部の左岸側の壁石と
右岸側上部にわずかな範囲に見られる程度です。左岸側に新しく積まれた壁
石は、布積みになっています。
【豊岡の眼鏡橋 立面図(下流側)】

・竣工時の石材は、輪石(アーチ部)の全部と、輪石上部の左岸側の壁石と
右岸側上部にわずかな範囲に見られる程度です。左岸側に新しく積まれた壁
石は、谷積みになっています。
【豊岡の眼鏡橋 左岸取付面立面図】

・竣工時の石材は、輪石(アーチ部)と上下流の基礎部、下流側の排水溝に見
られ、上下流の護岸は殆どが新材です。
【豊岡の眼鏡橋 右岸取付面立面図】

・竣工時の石材は、輪石(アーチ部)と下流側の護岸にに見られ、上下流の橋
に接した護岸は殆どが新材です。
【豊岡の眼鏡橋 下面見上げ図】

・竣工時の石材は、輪石(アーチ部)全部に見られます。全体的に石材のヒビ
割れが無数にあり、折損も多くみられます。
【豊岡の眼鏡橋 下面展開図】

・竣工時の石材は、輪石(アーチ部)全部に見られます。全体的に石材のヒビ
割れが無数にあり、折損も多くみられます。
   【豊岡の眼鏡橋 下流側要石】

・石工名、年号などが刻されています。

・山本郡(滑)川 内田手永月田村 石工 理左衛門 右同 紺吟衛門 右同 次平
 右同 惣八 正院手永圓臺寺村 右同 太平 南関手永関東村 大工 嘉右衛門
   【豊岡の眼鏡橋 上流側要石】

・架橋に携わった庄屋などの名前が刻されています。

・石橋造立請込 鈴麦村 田原村 庄屋 彦次郎 正院會所詰 彌兵衛 
 右同総代 孝三郎 右同 甚兵衛 右同 良助
   

【豊岡の眼鏡橋 上流側右岸より】







【豊岡の眼鏡橋 下流側右岸より】
   

【豊岡の眼鏡橋 部分詳細】
   
【豊岡の眼鏡橋 部分詳細】
眼鏡橋の観察
 遠めには、損傷は上流左岸輪石下部が目立つ程度であるが、全体的に石材のヒビ割れは無数にあり、折損も多い。輪石は左岸側
でアーチが下にたわんでおり、優美な円弧を描かない。

 輪 石 基礎石は左岸4石、右岸3石。輪石は要石まで含めて160石で構成され、左岸24列73石、中央1列13石、右岸24列74石
である。1列は2~4石で構成され、3石積みが最も多い。2石積みは下半に採用され、4石は左右岸とも5列ずつで上半に多い傾向が
ある。
 下面は揃えられ、下幅は左岸24列中22列が1尺・30cm、下から21列目9寸・27cm、23列目1尺1寸・33.5cm。右岸は24列中21
列が1尺・30cm、下から15列目と21列目は9寸・27cm、23列目1尺1寸・33.5cm。上幅は概ね下幅1尺なら1尺1寸で、厚みはばら
つきがあり、1尺5寸・45cm~1尺7寸・52cmほどである。

 要 石 要石は12石が長手積みで、1石のみ横積みである。上流側4石は同規模だが、下流側と中央にはばらつきがみられる。
刻文のある要石は、上部がコンクリート被覆のため詳細は不明ながら、現状で上流側は上幅3尺3寸5分・101.5cm、下幅3尺・91
cm、厚2尺5分・62cm、長さ1尺1寸1分・33.6cm。下流側は上幅3尺5寸6分・108cm、下幅3尺5分・92.5cm、厚2尺・60.5cm、
長さ1尺1分・30.6cm。下面の反りは5分・1.5cmである。輪石の中でこの2石のみが表面に工具痕はあまり残さず、平滑に仕上げ
られている。

 太 枘 太枘は豊岡の眼鏡橋の特徴の一つで、上下流左右岸、24点ずつ計96点、表面輪石と輪石の間に用いる。残存数は上流
左岸11点、上流右岸16点、下流左岸15点、下流右岸16点の計58点、確認できないのが上流左岸1点、上流右岸5点、下流左岸1点、
下流右岸の3点の計10点で、約6~7割の残存率である。太枘の石材、色や形は様々で基本的には長扁平な小石材で、長さ12cm、
幅5cm程度の長方形、長円形、三角形などの赤色、青色、緑色、白色などの河原石を用いる。これらの太枘は遠方ではなく、本橋
周辺の普通の河原石である。太枘穴は太枘が自然石ゆえに各々に応じた形で、深さは1寸5分・4cmほど、使用する石材を決めてか
ら、輪石に掘り込んでいる。太枘には輪石の縦ズレ防止と装飾的意味合いの双方が考えられる。

 壁 石 壁石は建造時の残存が少なく、特に左岸では補修による新石部分が多い。不ぞろいの切石を水平積みにし、輪石に接す
る部分は輪石の形状に合わせて加工する。また、下流側右岸では石材に削痕跡があり、西に続く旧道の川沿いには当時の護岸石垣
も残存しており、壁石と護岸を直角に結合させるのではなく、曲線を描くように護岸に接続させていた可能性が高い。古写真でも
この部分は隅切状に欄干が設置されている。撤去された旧材は新積み護岸などに再利用されている。

 その他 親柱と欄干は古写真に見られるが現存しない。川中でも探したが確認できなかった。上流側左岸の護岸は平面屈曲して
水を受け流す構造で、屈曲部分6尺4寸5分・1.94m、平行部分は8尺5寸・2.58mの合計14尺9寸5分・4.52mが当時のまま残る。
石垣隙間に河原石を詰めており、旧道の護岸石垣と同様の構造である。排水溝は暗渠で下流側左岸壁石に接しており、開口部の間
口は縦2尺2寸・66.5㎝、横1尺8寸・55cmで、右壁を基礎石上に立て、左壁は2石を底石1石に立ち上げ、天井石は2石。右壁立石
は小口部を切り込んで、天井石を受ける。右岸には切石の敷石があるが、構造材ではないようだ。
工具は痕跡から推定が可能で、現在でいえばツルハシ、ヨキ、ノミなどが使用されたようだ。また、左岸下流側の田園が低いのは、
右岸の旧道を保護するために遊水池の機能を持たせていると思われる。なお、本石橋築造に関する古文書があり、費用の一部など
が知られる。

第Ⅲ章 まとめ
 田原坂本道は西南戦争遺跡の中心主体で、最大の激戦「田原坂の戦い」の主戦場である。本道の確保のために官薩両軍ともに多
大な犠牲を払い、多くの記録や記憶、唄などとして語り継がれ、日本全国に広く流布している。古写真にも多く写されており、現
在と比較しても大きな変化がないことが知られる。また、周辺一帯も調査によって戦跡の遺存状況が良好であることが判明してお
り、本道の重要性が裏付けられつつある。
今次の二の坂調査で田原坂公園北半部との攻守の一体性が確認できた意義は大きい。 



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