遠き日々

H18.1.7  村野久子

  今昔物語と申しましょうか?私は運輸省東京陸運局へ勤務をしていました。
ここは四ッ谷駅のホームに平行したところにあり、今は地下鉄が上に通って居ります。今から50数年も遠い昔になります。

仕事は総務部会計課に所属して居りました。局の仕事の内容は自動車の新規登録、名義変更、抹消、車検、燃料(ガソリン)の配給、資材等、当時はガソリンは割り当てで自家用車で一ヶ月18リッター。しかも乗用車は、事業用一般旅客、事業用貨物、報道関係、医者、議員、官庁用と限られており、その他普通車は基地内勤務の外国人、バイヤーで占められており、ガソリンは大切なものでした。

一ヶ月の割当量ではとても足りず、闇で入手、又は代燃と云うものが使われ、配給車は前面ガラスにステッカーを貼り走行していた時代でした。

毎日昼休みには外車がよく庁舎内に止まっておりました。
フォード、シボレー、リンカーン、ダッヂ、スチュードベイカー、カイザー、フレーザー、デソート、パッカード、・・・。
今日では国産車の素晴らしい型式の様々な姿が見られますが、当時は見たものが新鮮に映り色々と目の保養になり皆楽しみでした。

また、赤坂離宮が近くにあり、当時は国会図書館になっておりましたので、よく昼休みに散歩しました。
中は赤じゅうたんが敷きつめられて居り、シャンデリアが眩いばかり輝き、二階に歩み寄り、エジプトの間に入りおしゃべりをしながら過ごしたものです。
食糧難、燃料難の折、みんな前向きで頑張ったものです。

  鮫洲の車検場は海側にあり(今はすぐ隣が埋め立てられモノレールが走り)夏はそよそよ海風が涼を運んでくれました。
庁舎内では坂道が造ってあり自動車が真ん中に進むとブレーキの合図を検査官が指示しますが、なかなか一度でパスする車は少なかったように思います。
今は全部が機械化されコンピューターでどんどん作業が進むようになり、今日では車体の下の検査にもハンマーを持った女性技官も参加できるようになって、何もかも良き時代が迎えられたことは長生きした証だと思います。

  1950年朝鮮戦争が始まり、産業界が特需景気に入っていった頃、車の台数も増えて車種の「1」〜「8」迄の分け方はこの頃出来たものですが、「6」の車種は小型3輪貨物です(マツダ、みずしま)が最近では見当たりません。
資材不足のため、エンジンの取替え(構造変更)はなかなか難しく、許可を得るためには機関番号(エンジン)車台番号(シャーシー)の石刷りを添付し、その上更に請書、念書、顛末書、始末書等を付けて申請したものでした。その頃難しい書類のあり方を知りました。

  さて、私の仕事は課長、物品会計官吏の上司の下、備品の管理、消耗品の扱い等携わって居りました。
たまには地方に出張しました。宇都宮の支所に備品(戸棚・両袖机・椅子等)の数量調べに(ワッペンを一枚一枚貼りながら)行き作業が終わって大谷と云う所に一泊しましたが、そのときの大谷の石切場は野天掘りと云って、見事に垂直に切り下げられて居りました。
道路は未だ田舎道でしたが、石切り場の前は石屋さんの店舗が立ち並び裏側には貨物の引込み線があり、多分その無蓋車で運ばれ建築用(塀)として使用されたのでしょう。
その後大谷には行った事がありませんが(追憶の彼方へ閉じ込めておきます)ニュース等で見聞きする限り、陥没事故が発生しており、大変な後遺症につながっている現在、つけが廻っているのだと思います。

  次の日は、前橋に行き同じような仕事を片付け、夕方に大きな川(利根川)を渡り、どんどん進んで伊香保温泉に行きました。ここは旅館も道も段々になっているのが特徴だと説明がありましたが、ここもその後足を運んでおりません。

会計監査・会計検査のある時は書類の整理で大忙しでしたが、上司、先輩に恵まれスムースに整理できたと思います。
実社会の表裏も勉強させて貰い私の人間形成に大いに役立った職場でした。

  四ツ谷界隈は人生の一コマですが、貞明皇后の葬列もお見送りしました。当時、牛車だったと思います。四ツ谷の交差点を回る時は砂を敷きスムースに車列が進むように配慮されました。

何時も頭にこびりついて忘れないのが人間関係で大いに培われた時であり懐かしく感じております。
  くだらない、とりとめのない事、書き連ねましたが、昔日の思い出として一笑してください。