後編 怒りで一気に俺の目の前がまっ赤に染まる。 こんなにも殺意が芽生えたのは初めてだ。 「セイジ様から離れろ!!」 俺の拳がエンゲルに届く前に気配を消していた護衛の蹴りが腹に入った。 息がつまり床に倒れる。 「げほっ、ごほっ」 立ち上がろうとするがその前に胸ぐらを掴まれて殴られる。 ぐらりと視界が揺れるその先にセイジ様の服を破いていやらしい手で触っている豚やろうが。 その上、事もあろうに首を絞め始め、 セイジ様は意識はなくても眉根を寄せ苦しそうな表情を見せる。 「だはははっ、苦痛に歪む顔は最高だな!しかし、意識がないとつまらん。おい起きろ!」 セイジ様の顔に拳が入り鈍い音を立てた。 な、何て事を!! 「止め、ろっ!!」 叫ぶ俺に対してエンゲルが不快そうな顔を向けて来る。 「まったく、この店は従業員の躾がなっておらん。さっきの女もお前も……」 言葉を一旦切るとセイジ様を見てこいつもなと舌舐めずりをした。 ……勘違いをしているっ。 セイジ様は店の者ではない。 大事な、セルファード公の大事な方なんだ! 「んん?芳しい匂いがすると思ったら。おお、こいつの血か」 殴られたセイジ様は頬が青く変色し、口の端が切れて血を流している。 まだセルファード公の伴侶だと知らなかった時、その血を舐めた事があったがセイジ様の血は極上だ。 エンゲルがセイジ様の血の味を知ってしまったら……っ! 「その方に触れるな!!ぐうっ!!……ごほっごほっ」 護衛の蹴りが再び腹に入り床に蹲って咳込む。 くそっ! 髪を掴まれて、無理矢理顔を上げさせられる。 「だはははっ!!そこで見ているがいい!ああ、いい匂いだ。どんな味がするんだ?」 汚らしい舌を分厚い唇から出して揺らしながらセイジ様の口に近づける。 「止めろ!!くそ、止めろって言ってんだ!この豚やろう!!」 護衛の拘束から逃れようと身を捩りながら叫ぶ。 殺す、殺してやる! 「止めろ―――!!」 ぺちゃりと音がした。 よく見ると床に肉片が落ちている。 「うへ?はひっ……!?」 目を丸くしているエンゲルは両手で自分の顔を忙しなく触っている。 そして床を見て自らの身に何が起きたか把握したようだ。 「ひ、ひギィ―――っ!!」 口を大きく開けた豚やろうは舌の半分が切り取られていてなかった。 パニックになって床の上で転げながら醜い声を上げているエンゲルの元に誰かが靴音を立てて近づいて来る。 顔を動かしてそっとその姿を確認すると……。 あ、ああっ! 「セ、ル、ファード公……っ!」 これでセイジ様は大丈夫だという安堵感とセイジ様をこんな酷い目に遭わせてしまった申し訳なさと 自分が護れなかったくやしさから涙が滲み出て来た。 セルファード公はとても恐ろしく冷たい目でエンゲルを見下ろしている。 チラリとセイジ様の様子を確認した直後、鋭い視線でヤツを射抜いた。 その瞬間、エンゲルの身体が後方へ吹っ飛んで壁にめり込むように激突する。 白目をむいて口から血が混ざった泡を拭いているところへ 無数の紅い刃が次々に壁に縫いとめるように容赦なく身体に突き刺さっていった。 その衝撃でヤツはビクビクと揺れている。 かろうじてまだ息があるエンゲルだったが……。 突き刺さっていた紅い刃が一斉に爆発した。 辺り一面に血や肉が飛び散る。 そこにはもうエンゲルという個体は存在しなかった。 「すごい……」 セルファード公のお力を初めて目の当たりにして胸が高鳴る。 エンゲルは逆鱗に触れてしまったのだ。 セルファード公の唯一の存在である伴侶のセイジ様を傷つけた代償だ。 「な、あっ……」 己の主が殺され、セルファード公の恐怖に支配されてしまったエンゲルの護衛は逃げようと、もつれた足で慌てて部屋から出て行こうとする。 しまった! 逃がさないぞ! 痛む身体を動かして捕まえようと立ち上がった。 その時、突然ドアが外から開いてそこからヴィーナさん達とヨルド統括長達が駆け込んで来る。 「マスター!」 未だ意識のないセイジ様を抱き上げたセルファード公の元にヴィーナさんとレイグさんが近づく。 外で待機していた二人は主が力を使った事により異変を感じて飛んで来たに違いない。 大体の状況は把握出来たのかヴィーナさんが腰に装備している二本の剣のうちの一本を抜いた。 そしてヨルド統括長とレンザク料理長が取り押さえていた護衛に突き付ける。 「こいつは私が始末するわ」 「いえ、どうか私どもに」 「あんたたちはまだ客を相手するんでしょ?汚い血を付けたんじゃ客に失礼だわ。レイグ、マスターと 一緒に先に帰って」 レイグさんは頷き、先に転移したセルファード公の後を追って呪文を唱えその場から姿を消した。 「さてさて、楽に死ねると思わないでね」 ニッコリと笑うヴィーナさんの護衛を見下ろすその目はゾッとする程、冷たかった。 あの後、セルファード公から御咎めがあると覚悟していたモルドモンテだったが、 執事であるセバスさんから非はすべてエンゲルにあり、モルドモンテに対し、 責任を取らせるような事はないという言葉をもらった。 どうやらセイジ様がセルファード公にモルドモンテは悪くないと訴えてくれたようだ。 俺宛てにセイジ様の手紙が来てその旨が書いてあった。 『―――あんなおいしい料理を出してくれる店をなくすなんてありえないですよね?しかもモルドモンテが悪いわけじゃないし。あのおっさんが全部悪い!俺、気を失っていて何もあの時の事分からないんだけど、警備隊に連行されたって聞きました。厳しく罰してもらって深く反省してもらわないと。 一つ気になっていた事があって……おっさんに襲われてた女の子、あの後、大丈夫でした?たまたまトイレに行こうとして迷ってたら助けを呼ぶ声が聞こえて来て、俺がきちんと捕まえられたらよかったんだけど情けないよなぁ、結局みんなに助けられちゃったし……。 また、モルドモンテに行くのでその日を楽しみにしています!お身体に気を付けてたくさんの人においしい料理を作って下さい! 聖司より』 あの事があってモルドモンテに嫌悪感を抱かれたらどうしようと思っていたけど自分の事より ユリルの事を気遣って下さっていた。 ユリルは最初は気分が落ち込んでいたようだがセイジ様が気にかけていたと伝えたら頬を赤く染めながら嬉しそうに笑って、今じゃなぜかセイジ様を讃えるファンになっている。 セルファード公と共にいたセイジ様が実は伴侶だと勘づいているのはヨルド統括長、レンザク料理長 そしてユリルだ。 もちろん、自らその話しはしないし、 きっと誰かに聞かれても教えたりはしないだろう。 そしてセイジ様がモルドモンテで酷い目に遭ったにも関わらず、一切その事を責めたりしないで 逆に気にかけてくれた事に対しての寛大な心や人柄の素晴らしさもそれぞれの胸の内に大切にしまっている。 これはユリルに聞いた話しだがヨルド統括長やレンザク料理長とともにノイジュ・ルエへ向かう途中、通路でセイジ様を探されているセルファード公に会ったそうだ。 恐縮しながらセイジ様の危険を知らせるとセルファード公の殺気を間近で受けてしまい、セルファード公がその場から転移した後もしばらくその場から三人とも動けずにいた。 しかし店の外から異変に気付いて入ってきたヴィーナさん達にくずれおちそうになる身体を何とか支えて事情を話し、ノイジュ・ルエへ駆け付けたという事だ。 俺はセイジ様からの手紙を読み返しながら今回の出来事が最悪の事態にならなくて本当に良かったと息を吐き、手紙に向かって一日も早く一人前のパルティになって屋敷に戻りますと改めて誓った。 そしてさらに数日経った頃……。 俺の元にヴィーナさんから手紙が届いた。 なぜヴィーナさんから?と疑問に思いつつ封を切る。 その手紙には俺が疑問に感じた『どうしてセイジ様がすでに死んでいるエンゲルを捕えたと思っているのか』その答えが書いてあった。 『未来の料理長へ。 はぁ〜い!元気に料理を作っているかしら〜?聖ちゃんからの手紙に書いてあったと思うけど、 聖ちゃんにはエンゲルは捕えたと言ってあるからマスターが殺したって言っちゃダメよー。 聖ちゃんの心は繊細だからあの虫けらやろうの命でもすごく気にしちゃうのよね。だから 殺しただなんて知ったら自分を責めちゃうと思うの。マスターともギクシャクしちゃって屋敷全体の空気が悪くなっちゃうから絶対に本当の事は言っちゃダーメーよ〜。店の者にも口止めしておいてね!ばらしたらヴィーナさんがお仕置きに行きまーす! ヴィーナより』 俺はヴィーナさんの綺麗な字で書かれている『お仕置き』を見てごくりと喉をならした。 ヴィーナさんが護衛をどのように始末したかは部屋の外に出されて分かっていない。 だけどヨルド統括長に怪我の手当てをしろと言われてノイジュ・ルエから遠ざかった俺の耳にはっきりと護衛の悲鳴は聞こえて来た。 あの時見せたヴィーナさんの冷たい瞳を思い出して背筋がゾッとする。 鳥肌が立った腕を擦りながら事情を知っている者へ口止めをしに俺は手紙を握りしめて急いで走ったのだった。 main |