後編




「やっと、忘れる事ができたのに…」

自分のアパートの簡素なベッドに寝ている俺は美貌の男の腕の中でポツリと呟いた。
いや違う、忘れる事なんてできない。
ただ思い出さないように記憶を封じていただけだ。
明け方まで散々俺を蹂躙したヴィンセントはまだ目覚めていない。
本当ならすぐにでも腕を払って逃げ出したかった。
しかしそんな事をすれば目の前の男が起きてしまう。
それに外へ逃げられたとしてもヴィンセントの部下が身を潜めているはずだ。
ふうっと溜息を小さく吐いた時、携帯の音が鳴った。
ハッと顔を上げた途端、翠色の目と合う。
身体を強張らせた俺を引き寄せ瞼の上にキスをするとさっきから鳴り続けている音源の方へと 視線を移す。
俺はそっと手を伸ばして床に脱ぎ捨ててあるスラックスを掴みポケットに入っている携帯を取り出した。
ディスプレイを見ると木原一樹の名が。
ヴィンセントの前で電話に出ていいものか迷った。
すると携帯をサッと奪われ勝手に通話ボタンを押されてしまった。

「おい…っ!」

文句を言おうとしたが俺の目に男の指に嵌めてあるアリーシャの形見の指輪が映った。
5年前にヴィンセントに奪われ、結局返してもらえなかったあの指輪だ。
それが目の前にある。

『大内さん?あの、木原ですけど…昨日は家に帰れましたか?…えっと、その。昨日 俺、言いかけた事あったじゃないですか。あらためて伝えたいんで今度二人でー』

ピッと通話を切る音がして指輪に気を取られていた俺は我に返った。

「あ…」
「随分となつかれているな。俺がいない間に…」
「うわっ」

ヴィンセントの指が俺の尻の間に潜り込みグッと中へ入って来た。

「他の男を咥えこんだか」
「そ、そんな事する訳ないだろ!!」
「そうだな。男とも女とも関係を持たなかった」
「え?」

俺は目を丸くしてヴィンセントを見上げた。
なぜ、そんなはっきりと断定できるんだ。
確かに誰かと付き合うだなんて考えもしなかった。
だから身体の関係だなんてそれこそ無い。
――この男を除いて。

「なぜ、そう言い切れる…」
「お前の情報は常に知らせるよう、言ってある」

誰に?と、思った瞬間にこの男の部下だと勘付いた。
……俺は。
俺は、あの日からずっと見張られていたのだ……っ!
ゾッとして一気に背筋が凍りつき今まで気付かなかった自分の浅はかさを罵った。

「木原一樹か…。早めに摘み取るか」

その言葉に言い様のない漠然とした恐れが俺を襲う。
この男はマフィアだ。
摘み取るだなんて…それは最早、木原を…。

「おい、木原に何をする気だ!」
「もちろん、消す」

俺は顔を引き攣らせる。
どうして、どうして…。

「愛する潤に好意を持つ者は俺以外許さない」
「お前…何を言って」

やはりこの男、日本語を間違って覚えているんだ。

「昨日もそうだが俺に愛していると言ったな。 いいか、それは」

そこまで言って俺はイタリア語に切り替えた。

『愛している、の言葉、間違っている』
『間違っているだと?どこが間違っている。俺は潤を愛している』

え?
今度は俺がイタリア語が分からなくなったようだ。
この男が愛しているだなんて、俺を愛してるだなんて、そんな事信じられるか!
ヴィンセントは動揺する俺を抱きよせ耳元で腰にくる声で甘く囁いた。
愛している―と。
硬直していると左手を掴まれた。
ヴィンセントは己の指にある指輪を取り、俺の指に嵌める。
アリーシャの形見であった指輪が俺の左の薬指に帰って来た。
だがやはりサイズが大きく簡単に外れそうになる。
それになぜ左の薬指なんだ。
そこにするのは結婚指輪だぞ。
本当ならアリーシャとの結婚指輪があるはずなのだが生憎、お金が無かったので指輪は買って あげられなかったんだ。
アリーシャは指輪がなくたって二人で一緒にいられるんだから気にしないでと優しくほほ笑んでいた。
まあ、アリーシャのだからいいかと左の薬指にある指輪をジッと見ていると ヴィンセントに手を取られ手の甲にキスを落とされる。

「今はそれで我慢してくれ。直ぐに用意する」
「用意って」
「俺と潤の指輪だ」

ヴィンセントと俺の指輪…?
一体、何を言っているんだ?

「俺はこの指輪が戻ってくれば他のなんていらない…」

指輪を二度と取られないように右手で左の薬指を包み込んだ。

「そう言うな。それが欲しければやろう」

何だよ。
やるって。
この指輪はアリーシャのなんだぞ。
文句の一つでも言ってやろうとした時、ノックの音がした。
外からヴィンセントの部下の声がする。

『ヴィンセント様、お時間です』

ヴィンセントは目を細めた後、俺をやっと解放して服を身に着ける。
黙ってそれを見ていると布団にくるまっている俺に向かって手を差し出した。
何の意図があるのか分からずヴィンセントとその手を交互に見ている俺に信じられない事 を言ってきた。

「潤、お前はアリーシャと愛し合っていたと思っているようだがそれは間違いだ。 あの女は潤を愛してはいなかった」
「なっ!」

その言葉にカッとした。
アリーシャが俺を愛していなかっただと!?
お前に何が分かる!
あの幸せな日々を知らないお前に嘘でもそんな事を言われたくはない!

「信じられないようだが事実だ。アリーシャは、ああ見えて計算高く狡猾で強かな女だ。 恥じることはない。我々の世界の者でもあの女には騙された。俺の父もそうだったように」
「アリーシャの事をそんなふうに言うな!自分の姉だろ!?」

俺の知っているアリーシャは儚げで誰にも優しくてとても綺麗で可愛かった。
自然に俺の手が左手の薬指にある形見の指輪を撫でた。

「その指輪はアリーシャが父から奪っていったものだ」

ピタッと撫でていた手が止まった。
そして俺は目を見開く事になる。

「ヴァレッティーノの指輪。代々のヴァレッティーノのボスが付けている指輪だ。 それがなければ継承も出来ない」

驚いた俺は瞬きもせずヴィンセントを見上げた。
これがマフィアの継承の指輪だって?
ヴィンセントが言っている事が正しければどうしてアリーシャは。
俺の困惑を感じ取ったヴィンセントは一言、問うた。

「知りたくないか?アリーシャの事を」
「え?」
「指輪を奪い日本まで逃げたアリーシャの心の内を」
「アリーシャは…」

アリーシャは。
俺と結婚するために駆け落ちという形で日本へ来たんだ。
指輪を持っていたのは…持っていたのは…。
べ、別にそれを知ってどうする。
そんな事を知らなくたって俺はいい。
だから知りたくないと伝えようとした。
するとヴィンセントは玄関の方へと行き誰かと会話をしていた。
そして手に何かを持ち、また戻って来る。

「見ろ」

俺に寄こしたのは一通のエアメールだった。
英語で書かれている差出人の住所と名前を見たが知らない人だ。
もちろん行き先のイタリアの住所も知らない。
そんな手紙を俺に渡して何をしたいのだろうか。

「この手紙は?」

ヴィンセントは開けて読めと促した。
少し躊躇いながら封筒を開けて中の手紙を取りだす。
文字は日本語で書かれていた。
俺はその字体に見覚えがあった。
その事を感じながら読み始め…。

「嘘だ」

俺は一言茫然と呟いた。
送った相手は親しい、信頼している者のようだった。
最初は相手の事を気遣った文章で始まる。
そして本題に入ると…俺の名前は出て来ないが明らかに俺だと分かる人物の事が 書かれていた。

『イタリアで知り合った日本人の男と今一緒に暮らしています。 私の計画に使った男とは順調に新婚生活を送っています。 笑ってしまうでしょ?私が新婚生活よ。結婚だなんて私が一番望んでなかったのに。 もう少しでこの苦しみから解放されます。ああ、どうか悲しまないで。 私はホッとしているのーーー』

まさか…。
でもこの字はアリーシャの字だ。
少し斜めのほっそりとした字。
もしもこれがアリーシャの本音だとしたら…。
スッとヴィンセントが俺の手から手紙を抜き取り封筒に入れた。

「嘘だ…嘘だ」

信じたくなくてこれは何かの冗談だと思いたかった。
ヴィンセントが俺の顎を掬い顔を上げさせた。

「嘘だと思っているのなら共に来い」

ヴィンセントが再び俺に手を差し出す。
アリーシャの事を知ってる気がしただけで俺は何も知らなかった。
俺を見てくるヴィンセントの翠の瞳がアリーシャと重なる。
何も知らずにこのまま暮らして行く事も出来る。
だけど、俺は知りたい。
それを恐いと思うけれど知りたいんだ。

「行けば本当にアリーシャの事が分かるんだな」
「ああ、分かる」

俺は差し出されたヴィンセントの手をグッと強く握った。
それが果たして正しい選択だったのか。
その答えが出るのは当分先の事になるだろう。







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