西暦 |
和暦 |
タイトル |
内容 |
○○
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古墳時代
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八木岡瓢箪塚古墳
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規模・形状の美しさとともに芳賀地方随一とされる、前方後円墳の八木岡瓢箪塚古墳が作られた
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670
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天智9年
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後の天武天皇 青蓮寺の地に太子堂を建立
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673
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大海人皇子が即位し、( 天武 )天皇になる。ちなみにこのときから天皇という名前が登場
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676
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白鳳4年
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中村八幡宮 建立
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天武天皇(在位期間673~686) の命令で全国に八幡宮が建てられました。中村八幡宮は、その一つといわれています。
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781
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天応元年
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久下田城の始まりは『上館』
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久下田城は 桓武天皇(在位781~806)の左大臣 藤原魚名が奥州勢に備えてこの地に構えた 下館、中館、上館 3館のうちの上館に当たる。その後この地に 天文14年(1545) 第6代 下館城主であった水谷出羽守政村(蟠竜斎)が、宇都宮氏の来襲に備えて、新しい城を築いた。
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806
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大同元年
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平城天皇 無量壽寺(鳥栖)の地に勅願所を建立
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819
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空海、高野山に( 金剛峰寺 )建立。
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832
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天長9年
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荘厳寺 建立
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慈覚大師(794~864)の建立 当初、円仁自作の観音菩薩像を安置し「観音妙法体同」という言葉から寺名を妙法寺と呼び「東福院別当坊」と称した。また本尊の阿弥陀如来像は慈覚大師が唐の五台山より奉じてきた霊仏なので山号を「御堂山」とも称した。
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1046
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永承元年
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源八幡太郎義家の戦勝祈願
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源八幡太郎義家(1042-1106)は奥州安倍一族征討のため石清水八幡宮に戦勝祈願をし、北関東に八社の八幡宮を祭祀し戦勝祈願をした。当宮はその一社と伝う。八八幡(やはちまん)と称され広く知られる所となった。
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1051
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東北で安倍頼時が反乱、すなわち( 前九年 )の役が起きる
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1051
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永承6年
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源頼義 勝利を祈願
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源頼義(988~1075)は安倍貞任、宗任との戦(前九年の役)の勝利を祈願し宿営する。
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1062
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康平5年
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荘厳寺修復
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源頼義、本堂、鐘楼門に至るまで諸堂を修理再興する。
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1156
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保元の乱。後白河天皇と崇徳上皇が藤原氏・平氏・源氏を巻き込み戦争。崇徳上皇が敗北。
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1156
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保元元年
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中村城の築城 『中村城跡案内板』より
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東西191メートル南北182メートルの長方形の遺跡が残されている。濠の深さは約6メートル、幅9メートルである。地域内には遍照寺、天然記念物のかやの木や中村大明神(祭神=中村小太郎藤原朝宗)があり、ほとんどが築城当時のまま保存され、城跡を研究する上で貴重な資料である。中村朝宗が保元元年(1156)から中村の地に住み、館を築いて中村荘を管理した。中村荘は藤原摂関家の荘園であった。朝宗の子常陸介宗村は源頼朝の奥州征伐に従軍し、戦功をたて伊達、信夫2郡の地頭職となり、その子朝定が中村を継いだ。
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1159
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平治元年
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平治の乱
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平治の乱。源義朝・藤原信頼と平清盛・藤原通憲(信西)が戦争。序盤は義朝軍が信西を斬首するなど元気だったが、清盛が逆転2人とも殺される。義朝の子、源頼朝は伊豆に流罪。
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1159
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平治年間
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中村城 築城別説
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築城者については、摂関家領の中村庄を管理した藤原(中村)朝宗とされているが、時期については、保元元年(1156)説と平治年間(1159~60)説がある。(遍照寺古寺誌・中村沿革史)
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1160
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永暦元年
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頼朝 伊豆へ
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頼朝が捕えられ伊豆に流される。
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1173
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承安 3
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親鸞 誕生
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藤原有範卿の長男として日野の里にて親鸞聖人 誕生される。
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1174
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承安四
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義経 奥州へ
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義経(遮那王)は鞍馬山を出て、吉次とともに奥州へ下る。 遮那王元服、九朗義経と名乗る。
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1181
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治承5年
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親鸞9歳 慈円のもとで出家
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1185
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文治元年
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平家 滅亡
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平家を一の谷、屋島・壇浦で破り滅亡させる。
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1189
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文治5年
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伊達政宗の故郷 中村
義経自害、弁慶立往生
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源頼朝は藤原泰衡一党を征伐する為奥州に向かう。当時の領主中村常陸介入道念西宗村はこれに従軍大戦功を挙げ奥州伊達郡地頭に補せられ移住した。以後伊達氏を名乗る。
頼朝軍 秦衡、義経の居所衣川の館を襲う。弁慶、大薙刀で防戦し、立往生する。義経自害する。秦衡、頼朝に攻められて死ぬ。(奥州藤原氏滅亡)
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伊達政宗の故郷 2
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「吾妻鏡」に記されている「時長・入道念西」(朝宗・宗村の二説ある)の子供達が、文治5年(1189)の奥州合戦の石那坂合戦で戦功を挙げ、伊達・信夫郡を領するようになった。本領の中村庄と伊佐の地は嫡男為宗が領して「伊佐」を称した。「伊佐」姓の者は「吾妻鏡」にも登場している。
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1193
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建久4年
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源頼朝が圭田を寄進
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源頼朝は当宮の戦勝祈願を多とし33丁の圭田を寄進。源頼朝の花押を印した簡札が残されている。伊達家は東宮を崇敬し押殿造替屋根葺替等を行いさらに数々の名品を奉納、それらは今日当宮の宝物として大切に保存されている。
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1199
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正治元年
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頼朝 死す
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頼朝、死亡。馬から落ちたか 北条氏による暗殺されたか定かではない。
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1201
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建仁元年
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親鸞 六角堂にて聖徳太子の示現を得 法然上人のもとへ行く
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1207
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承元 元年
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親鸞 越後へ流刑
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承元の法難
法然上人は土佐へ、親鸞聖人は越後へ流刑
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1221
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承久 3
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親鸞 稲田時代
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山伏弁円が板敷山で親鸞聖人を暗殺しようとするが失敗。稲田の草庵へ斬り込むが、親鸞聖人のお徳に打たれ、剣を投げ捨てお弟子となる
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1224
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元仁 元年
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『教行信証』のご執筆 完成
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1262
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弘長 2年
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親鸞
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親鸞聖人は弘長2年11月28日、京都で90年の波瀾万丈の生涯を閉じられました。
親鸞聖人の御遺言が『御臨末の御書(ごりんまつのごしょ)』として今日に伝えられています。
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1274
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文永11年
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文永の役。モンゴル軍が博多に上陸。日本軍は苦戦したが神風が吹いて、モンゴル軍は壊滅して撤退。
一遍が( 時宗 )を開く。
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1281
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弘安4年
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弘安 の役。またもモンゴル軍やってくるが、またもや神風が吹いて、撤退 神国 日本 神風神話
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1293
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永仁元年
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八木岡城 築城
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八木岡高房により築城 八木岡氏は、芳賀氏11代高俊の子高房が八木岡の地に分封され、地名をとって八木岡を称した。芳賀氏は宇都宮氏の重鎮として活躍し、有力な支族も輩出しているが、それら芳賀一門の中でもっとも古参なのが八木岡氏である。八木岡高俊には跡継ぎがいなかったため、高房は隣領の常陸小栗御厨(茨城県協和町)の領主、小栗重宗の子高政を養子に迎えて2代目として。以降、八木岡氏は本家芳賀氏とともに宇都宮氏の先兵となって乱世を駆け抜けることになる
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1333
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元弘3年
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足利高氏の裏切り。高氏が幕府から朝廷方に寝返り、六波羅探題が陥落。
新田義貞が鎌倉を攻略し、幕府滅亡。
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1333
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元弘3年
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中村城
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「長沼文書」の建武2年(1335)4月10日付け後醍醐天皇の綸旨の中に「中村庄地頭小栗掃部助重貞」とある。中村庄が小栗氏の支配に移った記録はないが、元弘3年(1333)5月9日に六波羅探題北条仲時が自害したとき、伊佐治部丞等も自害している(太平記)のでこのときと考えられる。
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1335
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興国4年
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中村城
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中村太郎経長は、建武2年(1335)7月の中先代の乱に、足利尊氏に味方して本領を回復し、伊達行朝と共に北畠顕家に属して、伊佐城に籠ったが興国4年(1343)11月に伊佐城が落城し、宇都宮氏の家臣として中村庄の一部を領有した。しかし、応安元年(1368)宇都宮氏綱が鎌倉に反対して破れ、本領が三分の一になった(鎌倉大日記)とあり、このとき中村庄は結城領になった。そして、永亨12年(1440)の結城合戦の結果、再び宇都宮領になったと思われる。
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1338
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廷元3年
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足利幕府成立。
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1338
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廷元3年
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遍照寺 創建
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真言宗智山派、如意山。創建、暦応年間(1338~39)関東管領足利利基。開山、醍醐山三宝院賢俊僧正。弘法大師八十八か所の関北霊場。金剛界大日如来坐像は南北朝時代法印康誉の作で県の指定文化財。境内には、樹齢800年のかやの巨木がある。
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1339
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暦応2年
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八木岡城 最初の落城
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鎌倉幕府の崩壊後、南北朝の動乱が起こり、1339年2月、南朝方の北畠親房は戦況劣勢の関東での復権を目指し、戦上手の公家武将、春日顕時を常陸方面に派遣した。春日顕時は常陸南部の関城(茨城県関城町)を本拠にし、近在の領主の手勢を結集して、益子方面から北朝方に属する下野へ攻め込んだ。この時、八木岡城は落城している。
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1343
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興国4年
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中村城
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中村太郎経長は、建武2年(1335)7月の中先代の乱に、足利尊氏に味方して本領を回復し、伊達行朝と共に北畠顕家に属して、伊佐城に籠ったが興国4年(1343)11月に伊佐城が落城し、宇都宮氏の家臣として中村庄の一部を領有した。しかし、応安元年(1368)宇都宮氏綱が鎌倉に反対して破れ、本領が三分の一になった(鎌倉大日記)とあり、このとき中村庄は結城領になった。そして、永亨12年(1440)の結城合戦の結果、再び宇都宮領になったと思われる。
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1345
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康永4年
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荘厳時に残る南北朝時代の古暦~ 三島暦 具注暦と仮名暦(ぐちゅうれきとかなごよみ)
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暦には、漢字で書かれているので真名暦(まなごよみ)とも呼ばれる「具注暦」と、仮名文字で書かれた「仮名暦」がある。「具注暦」は暦注が備わっていることから、そう呼ばれるが、「仮名暦」にも暦注は記されている。 陰陽寮によって作られた暦は11月1日に天皇に献上され、それから諸官庁に配られた。貴族達はそれを書写して用いた。やがて仮名文字が発明されると仮名暦がつくられるようになり、木版刷りの仮名暦がつくられたのは鎌倉時代頃といわれている。普通、仮名暦はひらがなであるが、カタカナ暦も少数残存している。 現存する最古の具注暦は正倉院の天平18年(746)の暦(断簡)とされてきたが、近年、更に古い木簡の具注暦の断簡が出土している。仮名暦の古いものとしては嘉禄2年(1226)の暦の一部(宮内庁所蔵-書写暦)が知られている。 栃木県真岡市荘厳寺には仮名暦の3年連続の暦が残されており、そのうちの康永4年暦(1345)の版暦は完全な形の暦として残存しており、今のところ最も古い。具注暦で、行間が空いているものは、間明き暦(まあきごよみ)とよばれる。行間に日記やメモが書かれ、日記として残されているものがある。国立天文台所蔵の具注暦は断簡。裏打ちを透かして10日分が見える。(正中2年-1325推定年)仮名暦は筆写暦で巻子。年代的には新しい。(万延2年-1861) 『国立天文台ホームページより』
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1451
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宝徳3年
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中村八幡宮本殿
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奥州伊達氏十一世持宗によって建立される。
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1467
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応仁元年
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応仁の乱。
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京都を舞台に将軍家・守護大名家の家督争いを背景とした大合戦
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1526
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大永6年
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中村城 廃城①
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落城については、天文13年(1544)10月7日に水谷蟠龍斎政村によって中村日向入道玄角が攻落された(中村沿革誌)とする説がある。しかし、「水谷蟠龍記」には父の治持が玄角を討取ったとあり、「寛政重修諸家譜」の治持の譜文に、猿山の合戦後、中村12郷が結城・水谷領になったとある。猿山合戦は大永6年(1526)であるので、この年が廃城と考えられる。
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1543
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天文12年
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新兵器
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ポルトガル人が種子島に漂着。 鉄砲を伝える
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1544
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天文13年
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中村城 廃城② 『中村城跡案内板』より
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中村朝宗 築城以来380年間代々中村氏の居城であったが、1545年天文13年10月7日 下館城 主水谷出羽守正村に攻められて落城。 14代城主父 入道玄角は居城に於いて討死、城主 中村小太郎時長は 居城を焼き奥州米沢にのがれ、宋藩伊達家に属し、名を中村日向と号し、奥州岩ケ淵の館を賜り代々岩沼に住んだ。
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1545
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天文14年
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久下田城の築城
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第6代下館城主であった水谷出羽守政村(蟠龍斉)は、宇都宮氏の来襲にそなえて往時藤原魚名の築いた公家営(栃木県二宮町)の上館の跡に築城、下館の岐城とした。政村は、下館の本城を弟の勝俊にゆずり主として北の守りを固め、その間小栗城攻略をはじめ小田城、北条城、海老ヶ島城を攻略している。
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1553
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天文22年
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川中島の戦い第1回戦。武田信玄VS長尾景虎(後の上杉謙信)
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1560
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永禄3年
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桶狭間 の戦い。織田信長が今川義元の大軍を破る
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1582
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天正10年
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本能寺の変
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1600
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慶長5年
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関ヶ原の戦い。
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徳川家康率いる東軍が、石田三成が実質的な指揮を執った西軍を何とか破る。小早川秀秋の裏切りで何とか家康勝利。
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1623
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元和9年
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中村八幡宮の社領
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建久4年(1193)源頼朝が寄進した田33丁の社領を、元和9年(1623)下館城主水谷勝隆が検地縄入れして取り上げてしまった
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1625
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寛永2年
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中村八幡宮の社叢
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社領が取り上げられたため、氏子、村人と相談の上、以後の社頭修理のためにと、境内にすぎ・ひのきの苗2400本を植えた旨記録されているが、それが社叢を形成した。
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1635
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武家諸法度の改正。大名は1年おきに江戸に来なけらばならない、 参勤交代 制が定められる。
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1639
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寛永16年
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久下田城の廃城
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第8代勝隆が備中国成羽(岡山県成羽町)に移封後廃城となった。
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1679
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延宝7年
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中村八幡宮に名刀 義光 が寄贈された
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仙台藩主伊達家の始祖宗村が奥州征伐の折、使用した指揮団扇(軍配)を当社に奉納したが、子孫の綱村がこれを所望され、当時の神官に交渉して下げ渡しを受け、そのかわりにこの太刀を延宝7年(1679)奉納した旨が、この太刀を収めた漆塗りの刀箱の蓋に記されている 『真岡市文化財資料より』
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1682
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天和2年
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中村八幡宮本殿建立
バブル経済時代
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伊達綱村は、伊達政宗から三代目の仙台城主で、幼年は伊達騒動で有名な亀千代丸である。夫人は、時の老中稲葉美濃守正則の娘で、将軍の命によりめとらされた。延宝9年(1681)長子扇千代丸が生まれたので、その御礼を兼ねて親子3人の寿命長久を祈願し、神社建立のため金子弐百枚を代参をもって寄進したことが書かれている。此の時 名刀 盛重 も寄進された 現在の本殿は、それによって天和2年(1682)建立されたものである。伊達氏は、中村八幡宮をその発祥の地の鎮守として尊崇し、事あるごとに祈願を捧げ、明治初期に至るまで絶えることがなかった。『真岡市文化財資料「紙本墨書 伊達綱村夫人自筆願文」より』
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1723
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享保8年
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中村八幡宮本殿
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伊達吉村によって従来の桧皮葦をかや葦に改められた
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1850
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嘉永3年
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下野国誌
佐賀藩で、日本初の反射炉が建設される。工業化の第一歩。
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河野守弘の著書「下野国誌」出版に用いた桜坂の版木で、225枚が横松氏の国誌堂に保存されている。下野国誌は、嘉永3年(1850)代官山内董正、呉服商岡部久兵衛等の後援と出資を得て、印刷の運びとなった。筆耕者は、北越の書家遠藤竹邨、挿絵は、南画家田崎草雲である。この版木は、守弘から浅草の千種房、守弘の郷里の古山の観音堂と転々とし安住の地国誌堂に納まった。 『真岡市文化財資料「下野国誌版木」より』
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1853
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嘉永6年
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ペリー来航。
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1867
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明治元年
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明治維新。
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王政復古の大号令 ・・・天皇中心の新政府が樹立が宣言される。同時に小御所会議が開かれ、慶喜に対し、官位辞退と領地返上を命じる。
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1894
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明治27年
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日清戦争。
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1904
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明治37年
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日露戦争。
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1905
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明治38年
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「中村尋常高等小学校」ができる。(真岡市立中村小学校)
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1923
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大正12年
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関東大震災。
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1945
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昭和20年
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日本降伏。
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原爆投下。日本降伏。財閥解体・政党復活・政治犯の釈放・農地改革・メーデー復活。
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1948
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昭和23年
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富無 誕生
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皇紀2608年
衆議院で「教育勅語等排除に関する決議」が、参議院で「教育勅語等の失効確認に関する決議」がそれぞれ可決。
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1971
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昭和46年
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富無 栃木県真岡市に移住
アポロ14号 月に着陸
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1972
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昭和47年
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荘厳時に残る南北朝時代の古暦~ 三島暦
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昭和47年、栃木県真岡市にある荘厳寺の不動堂の本尊、居貫不動尊の玉眼がポロリと内側に落ちたことから、約650年前の歴史が現代の陽光の中に飛び出してきました。不動尊像の修理依頼を受けた仏師が頭部の前半分を外したところ、頭部からは般若経文、頸部からは宝筐印塔の印紙、胴体からは驚くほど多量の古文書が次々と出てきました。古暦(三島暦)は、この古文書の中に混じり、紙背にはびっしりと印仏を押されていました。どうやら、暦は印仏を押すことを主として使用されたものと思われます。しかし、この古暦によって、時代を判定することが出来ました。3年分の、しかも完全な形での暦の年代は、康永4年(1345)、康永5年(1346)、貞和3年(1347)と3年連続でした。発見当初、古暦は余り注目されませんでしたが、その後、暦の研究者達の目に止まり、これが日本の暦研究の上で極めて重要な発見であること、また、発見された場所が関東であること、仮名版暦であることなどの理由により、三島版暦であろうということが報告されました。本暦は書写暦で、その暦面には中世らしい美しい肉筆仮名文字でたくさんの暦注が整然とならんでいます。 貞和年間といえば、将軍は足利尊氏、朝廷は南北二つに分裂していた室町前期時代です。 『三島市ホームページより』
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1988
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昭和63年
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中村八幡宮本殿
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銅板葺にする
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