親鸞聖人は、承元元年(1207)2月、朝廷の念仏弾圧により流罪で最も重い遠流になり、越後国(現在の新潟県)の国府に流された。
聖人の一行は、北陸道を下り越中国(現在の富山県)と越後国の国境を経て、西頸城郡青海町市振を通り、北陸道最大の難所といわれる「親不知」を越えられ、現在の能生町木浦から船に乗って国府の居多ヶ浜に向かわれたと伝えらている。
●所在地/新潟県西頸城郡青海町
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承元元年(1207) 春の初め。念仏停止によって越後国府へ流罪となった親鸞聖人は、ここ居多ケ浜に上陸しました。
親鸞聖人は、35歳から42歳までの7年間この国府にて過ごしました。 案内板より
木浦から船に乗られた親鸞聖人が上陸された浜として有名。この居多ヶ浜には「親鸞聖人上陸之地 居多ヶ浜」の石柱が建っている。
また浜を見下ろす高台には上越市が展望台を設け、その脇には『もしわれ配所におもむかずは、何によりてか辺鄙の群類を化せん、これ猶師教の恩致なり』と刻まれた石碑がある。
●所在地/新潟県上越市五智
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親鸞が上陸したのち、一番最初に参拝した神社であるといわれている。親鸞はここで『すえ遠く法を守らせ居多の神 弥陀と衆生のあらん限りは』と詠み、早く赦免になるよう、そして念仏が盛んになるようと祈願した。
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越後の7不思議
葉が片側一方向にだけ伸びるアシ。親鸞が神社に参詣し念じたところ、池に生えるアシが一夜にして「片葉」になったと伝える。
片葉の葦は西方浄土を向いているとか、常陸へ旅立った親鸞に引かれて関東の方向へ向いているなどといわれている。
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居多ヶ浜から歩いてすぐのところに天台宗の国分寺がある。
ここは親鸞聖人が最初に住まわれた「竹之内草庵」があった場所といわれる。
境内には草庵の跡を示す「竹之内草庵跡石碑」、聖人が「鏡ヶ池」に写った姿を自ら刻まれたと伝えられる「親鸞聖人座像」が安置された「親鸞堂」がある。
●所在地/新潟県上越市五智3丁目20-21
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親鸞聖人が国府に配流中、木曽義仲の一家臣が聖人に深く帰依し、覚円坊最信の名を賜ったという。聖人が越後をあとに東国へ旅立った後、最信はこの地にのこり一宇を興し、「覚円坊」と称した。天正3年(1575)教如上人から寺号をうけて「光源寺」と改め、享保17年(1732)東本願寺17代真如上人の時に本山の抱地となり、高田別院の支院として「国府御坊」と呼ばれたが、その後支院と光源寺とを併せて一寺となった。ここの本堂は、御影堂と本堂を併設した構造で大変めずらしく、御影堂の中央には「流罪勅免御満悦御影」が掛けられている。
●所在地/新潟県上越市国府1丁目4-1
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