【判例 日新製鋼事件 最高裁 平成2年11月26日】 |
Z(参加人・被上告人)は、Y(被告・控訴人・被上告人)に在職中、同社の住宅 |
財形融資規程に則り、元利均等分割償還、退職した場合には残金一括償還の約定 |
で、同社から87万円を、A銀行から263万円をそれぞれ借り入れた。各借入金のう |
ち、Yへの返済については、住宅財形融資規程およびYとZとの間の住宅資金貸付 |
に関する契約証書の定めに基づき、YがZの毎月の給与及び年2回の賞与から所定 |
の元利均等分割返済額を天引きするという方法で処理することとされ、Zが退職 |
するときには、退職金その他より融資残金の全額を直ちに返済する旨約されてい |
た。Zは、交際費等の出費に充てるため借財を重ね、破産申立てをする他ない状 |
態になったことから、Yを退職することを決意し、Yに対して、退職の申し出とと |
もに、上記各借入金の残債務について、退職金等による返済手続を依頼した。Y |
は、Zの退職金と給与から各借入金を控除し、Zの口座に振り込んだ後、Yの担当 |
者が、Zに対して、事務処理上の必要から領収書等に署名捺印を求めたが、Zはこ |
れに異議なく応じた。その後、Zの申立により、裁判所は破産宣告をし、X(原告 |
・被控訴人・被上告人)を破産管財人に選任したところ、Xは、YがZの退職金に |
つき、以上のような措置をとったことは、労基法24条に違反する相殺措置である |
として、Yに対して退職金の支払いを請求した。 |
判決の内容 労働者側敗訴 |
労基法24条1項所定の「賃金全額払の原則」の趣旨とするところは、使用者が一 |
方的に賃金を控除することを禁止し、もって労働者に賃金の全額を確実に受領さ |
せ、労働者の経済生活を脅かすことのないようにしてその保護を図ろうとするも |
のというべきであるから、使用者が労働者に対して有する債権をもって労働者の |
賃金債権と相殺することを禁止する趣旨をも包含するものであるが、労働者がそ |
の自由な意思に基づき右相殺に同意した場合においては、右同意が労働者の自由 |
な意思に基づいてされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存 |
在するときは、右同意を得てした相殺は右規定に違反するものとはいえないもの |
と解するのが相当である。もっとも、右全額払の原則の趣旨にかんがみると、右 |
同意が労働者の自由な意思に基づくものであるとの認定判断は、厳格かつ慎重に |
行われなければならないことはいうまでもないところである。 |
本件事実関係によれば、Zは、Yの担当者に対し右各借入金の残債務を退職金等で |
返済する手続きをとってくれるように自発的に依頼しており、本件委任状の作成、 |
提出の過程においても強要にわたるような事情は全くうかがえず、各清算処理手 |
続きが終了した後においてもYの担当者の求めに応じ、退職金計算書、給与等の |
領収書に異議なく署名押印をしているのであり、また、Zにおいても、右各借入 |
金の性質及び退職するときには退職金等によりその残債務を一括返済する旨の前 |
記各約定を十分認識していたことがうかがえるのであって、本件相殺におけるZ |
の同意は、同人の自由な意思に基づいてされたものであると認めるに足りる合理 |
的な理由が客観的に存在していたものというべきである。 |
【用語解説】 |
労働基準法第24条1項 賃金全額払いの原則 |
賃金は、通貨で、直接労働者に、その残額を支払わなければならない。 |
例外 |
@法令に別段の定めがある場合 |
A労働協約に別段の定めがある場合(通勤定期券、住宅供与などの利益) |
4.全額払いの原則 |
使用者は当該計算期間の労働に対して約束した賃金の全額を支払わなければなら |
ず、賃金からの控除は原則として許されません。例外として、法令により別段の |
定めがある場合(給与等の源泉徴収、社会保険料の控除など)や事業場協定を締 |
結した場合(社宅や寮などの費用、労働組合費のチェック・オフなど)には賃金 |
の一部を控除して支払うことができます。全額払い原則の趣旨は、使用者が一方 |
的に賃金を控除することを禁止し、もって労働者に賃金の全額を確実に受領させ、 |
労働者の経済生活を脅かすことのないようにしてその保護を図ろうとするところ |
にあります。そして、判例によれば、この原則は、相殺禁止の趣旨も含んでおり、 |
労働者の債務不履行(職務の懈怠)を理由とする損害賠償債権との相殺(関西精 |
機事件)や労働者の不法行為(背任)を理由とする損害賠償債権との相殺の場合 |
であっても(日本勧業経済会事件)、使用者による一方的な相殺は全額払い原則 |
に違反します。 |
ただし、上記判例のように、使用者が労働者に対して有する債権と労働者の賃金 |
債権とを相殺することについて、労働者が自由な意思に基づいて同意した場合、 |
この同意に基づく相殺は全額払い原則に反するものではありません。これは、賃 |
金債権の放棄に関する合意についても同様です(シンガー・ソーイング・メシー |
ン・カムパニー事件 )。もちろん、このような同意が労働者の自由な意思に基 |
づくものであるとの認定判断は、厳格かつ慎重に行われなければならない。例え |
ば、署名のある念書や清算手続の書類などにより証明できる場合であり、黙示的 |
な同意は、容易には認められません。また、同様の考え方は、賃金減額の合意の |
場合にも適用され、判例は、賃金減額に対する黙示の同意の成立には慎重です。 |
(更生会社三井埠頭事件)また、過払賃金を後に支払われる賃金から差し引く |
「調整的相殺」については、過払いのあった時期と合理的に接着した時期におい |
て賃金の清算調整が行われ、労働者の経済生活の安定を脅かさない場合(予告が |
ある場合や少額である場合)に認められます(福島県教組事件)。 |
なお、ストック・オプションの付与は労基法上の賃金にはあたらないので、就業 |
規則等で定められた賃金の一部として扱うことはできないとされています(平9. |
6.1基発412号)。したがって、給与の一部をストック・オプションの付与をもっ |
て充てる措置はその分だけ賃金を支給していないことになり、本条違反となりま |
す。 |