東京蹴球団の歴史

 

 

 

この記録は、われわれ東蹴団員のためのものである。ひろく世に知られんことをのぞみ、これを世に誇らんがためのものではない。

混沌無明の日本サッカー界の黎明期に、高く理想の火をかかげて前人未踏の道を拓いた先輩諸兄にとって名利は問うところではなかった。己に酬いを求めず、ひたすら、サッカー界のために尽くされたこれら先人にとり、サッカーは心の糧であっても、生活を支える具ではあり得なかった。そこにスポーツ人としての生きざまが存した。

連綿60年、これを受け継いで今日に至るもの、それは、ひとえに同志的団結のなさしむるところであり、利を求め離合集散する輩のよくなし得ることではないことを思う。

60年の歴史を、そのまま後に続く同志の心のよりどころとして、東蹴のある限り語りつがれ受け継がれて行くことを願い、この一冊を捧げる。

   

昭和5210

                     宮本 能冬 

 

 

 

『東蹴60年史草稿』巻頭、東蹴第4代団長宮本能冬さん(19071994)は、上記の「願い」をかかげられました。

『東蹴60年史草稿』は、東蹴60周年にあたり、宮本能冬団長が3年の歳月をかけ、心血をそそいで執筆した東蹴の歴史です。発行は1977年でした。

『東蹴60年史草稿』に残部がないため、宮本団長は、これに代わり『東蹴小史』を編みました(1978年4月)。

それは「今後入団される人達にも東蹴の歩んで来た道を知ってもらうため」でした。(『東蹴小史』・あとがき)

 

 

 

   

 

T 創 団

 1917年(大正6年)日本代表チーム(東京高等師範)がこの年はじめて体験した国際試合(同年5月、芝浦で行われた極東選手権大会)で、中国・フィリピンに大敗した。

 日本のサッカーが国際的に極めて幼稚なものであることを目のあたりにするに及んで、なんとしても斯技の普及とその強化を図らねばと決意した内野台嶺(明治42年、東京高等師範国語漢文部卒、豊島師範教諭を経て、同44年研究科に復学。大正2年同卒、東京高等師範、文理大教授)の主唱で、東京高等師範、青山、豊島両師範のOBを以てクラブチームが結成された。大日本蹴球協会発足に先立つこと4年である。

 

 東京蹴球団の名は、創立総会の席上、栗山長次郎(東蹴初代GK、大正6年青山師範卒後、ハーバード大学卒)の提案による。

 日本で初の(即ち最古の)クラブチーム、わが東蹴はかかる使命をおびて生まれた。

 

※参考文献 「東京蹴球団の創立」

1『日本スポーツの歩み』p216 (1926..20 ベースボールマガジン社発行)

2『現代スポーツ百科事典』サブタイトル、エンサイクロペディア オブ スポーツ1970年版p245(日本体育協会監修、大修館発行)

3『日本サッカーの歩み』p46(日本蹴球協会編)

 

U 第1回全日本選手権大会で優勝

1921年(大正10年)、団の創立に4年おくれて、大日本蹴球協会(現日本サッカー協会)発足。団からは理事長に内野台嶺、元老の吉川、熊坂、武井などが理事に就任、創立委員として、内野台嶺をはじめ、山田午郎、原島好文、小野田誠一などが名をつらねた。

 

この年はじめて、1回全日本選手権大会の行われ、1127日日比谷公園で行われた決勝戦で、東蹴は御影師範を1対0で斥け、全日本の覇者となった。

ラインナップは、豊島師範OB9人、青山師範OB2人の構成。

主将山田午郎(27歳、大正6年青山師範卒、LH)が、エリオット駐日英国大使の手からFAカップを受けた。

 

V 関東中等学校蹴球大会の主催

1918年(大正7年)、東京朝日新聞社の後援を得て、第1回大会を東京高等師範校庭で行う。これは、同年、大阪毎日新聞社、新愛知新聞社がそれぞれ主催して行った近畿圏、中京圏の2大会とともに、日本最古の蹴球大会である。

 

参加チームは、埼玉、青山(AとB)、豊島(AとB)の3師範と、明治学院中、横浜二中(現翠嵐高校)、佐倉中の6校8チームにすぎず、豊島師範Aチームが優勝した。

これより1933年(昭和8年)の15回大会まで存続し(途中1927年は諒闇中止・大正天皇国葬)、その後関東蹴球協会の主催と変わった。第15回大会の参加校は25を数えた。

 

W 関東少年蹴球大会の主催

1922年(大正11年)10月、東京朝日新聞社の後援で、第1回大会を日比谷公園で行った。この大会は、少年サッカー大会として我が国初の催しであり、斯界の先駆者としての東蹴の名とその功績を日本サッカー史に不朽にとどめるものである。

 

参加校は第1部(小学校尋常科)が、豊師付小、青師付小、滝野川小、第二日野小、成城学園小、有馬小、泰明小、目黒小など9校、第2部(小学校高等科)は、豊師付小、青師付小、滝野川小、第二日野小、四谷小、目黒小の6校で、1、2部とも豊島付小が優勝した。

その後は一度の中止もなく、第2次大変の前年、1940年の第19回まで続いたが、1941年(昭和16年)大戦突入の年に中止となり、以後復活を見るに至らなった。

 

X 全国大学専門学校ア式蹴球大会の主催

1923年(大正12年)12月、第1回井染杯をかけて挙行、慶大、立大、明大、法大、水戸高校の5校が参加。慶大(名称は慶大クラブ、当時慶大は未だ正式に部を持っていなかった)が優勝した。

この大会は1925年の第3回大会までで終わった。最終優勝校は法大であった。

[]井染杯

 団員井染道夫の岳父、禄朗将軍が寄贈された。

 

Y ヘーグ氏メモリアルカップ争奪大会の主催

 ウイリアム・ヘーグ氏は日本サッカー界の大恩人の一人である。特に蹴球協会設立に寄与された功績は絶大なものがある。この人に関する記録は、英国大使館に保存されている「1917 Diplomatic List」に次のものがあるが、他に文書で残っているものは殆どない。

Haigh,William,born march 14,1981. Appointed a Student Interpreter in Japan December 10,1913.

 1917年〜1918年の冬、英国大使館員のチーム「東京フットボールクラブ」(主将ヘーグ)が主唱して、英大使館杯をかけ、同杯争奪のリーグ戦が行われた。参加チームは、同クラブをはじめ、東京高師、青師、豊師、中華青年クラブ、朝鮮青年クラブ及び東蹴の7チームで、東京フットボールクラブが優勝した。当時東京地区で目ぼしいチームといえばこのくらいのものであった(故原島好文氏遺稿から)。

 ヘーグ氏は弱冠26歳であった。その後1919年に一度帰英、1921年に再び来日され横浜総領事として勤務中の1923年9月1日関東大震災で被災死され、32年の生涯を終えられた。

 団は同氏の日本蹴球界に尽くされた功績を偲び、かつその死を悼んで同年1223日、青山師範校庭で本団主催を以て追悼蹴球大会を催した。

 朝日新聞社からは弔意の花環が贈られた。水戸高校、目白中、アストラ倶、豊山中、

全豊島、独協中、成城蹴球団、青師、立大、早高、埼師、明学中、慶大、成城中の14チームが集まった。この時、父君のギル・ヘーグ氏からトロフィー(カップ)寄贈のことがあった。

 そして団は、1925年から、このカップをめぐる文字通りのオープン参加の大会を単独主催ではじめた。小学生対大学チームの公式戦など珍無類のゲームがあったりしたが、この大会は翌年の第2回大会までで立消えとなった。第1回の優勝はオリオン(法大)、第2回は帝大アヅサであった。

 なお、このヘーグ杯は管理の手落ちから、前記の井染杯と共に、その後所在不明のまま今日に至っている。

 

Z 先輩の足跡

1 第5回極東選手権大会に7名の日本代表(1921年)

 団からは露木松雄、清水芳介、安藤弘平、井染道夫、守屋英文、大橋準、星野秀臣の

7名が、国内予選を全関東のメンバーとして制覇、日本代表となり、日本初の海外遠征

チームに加わって上海で行われた大会に出場した。

 

2 清水隆三 日本代表チームのCF(1923年)

この年行われた第6回極東大会(開催地大阪)の日本代表は大阪サッカーであったが、

このチームに団員清水隆三(その年3月青師卒)が補強選手に推され、CFをつとめ、

名ストライカーとして大活躍した。この大会での日本の得点は、すべて清水隆三が挙げ

たものであつた。

 

3 山田午郎、日本代表チーム監督(1925年)

 団員山田午郎が第7回極東選手権の日本代表チーム監督に推され、マニラに遠征した。

31歳、大森町入新井第二小学校訓導であった(『東蹴60年史草稿』に記載なし)。

4 三木伸之、日本代表候補(1951年)

第1回アジア大会に派遣する日本代表候補合宿が正月に広島で行われたが、団からは

三木伸之が選ばれてこの合宿に加わった。

 

Z 初期に行った地方開拓

 大正年代から昭和一桁の時代まで、招かれて東日本各地に指導遠征を行った。

「北海道では、今でも昔話になると、必ず東蹴の名が語られる」(『東蹴60年史草稿』p58・早大OB高師康氏)。

東北、関東、中部(山梨・静岡)などの各地に足跡を残している。

 

[ 第2次世界大戦まで

 東蹴の主催大会は、関東少年蹴球大会のみとなった。

1936年伯林オリンピックを契機として、日本サッカーの水準は飛躍的に上昇した。団

は伯林大会日本代表チームの出発前の練習相手をつとめたりした(グランドは碑文谷の勧銀運動場であった)。

 その後は、他の一流チームの上昇について行けず、その実力は相対的に低下するばか

りとなった。全日本選手権、明治神宮大会(神宮競技といった、今日の国体の前身)等

には必ず参加したが、いずれも東京予選の段階で姿を消し、さらに昭和16年の大改組

(『東蹴60年史草稿』p78)以後は、存在の理由もかつての「日本サッカー界のパイオ

ニア」から「青山師範蹴球部後援団体」の色を濃くしていった。

 

\ 大戦後の東蹴

 学制改革により、青山師範・第一師範は消滅した。戦後は3代団長山田午郎を中心とする青師・一師OBの手により、いち早く東蹴の再建策が進められた。

一方、新制の東京学芸大学蹴球部の後援には、青師・一師時代にも増して力が注がれた。昭和30年代中期まで、学大蹴球部卒業生は無条件で東蹴入団の状態がつづいたが、同33年山田団長の死去後、この伝承は徐々にうすれ、昭和40年に至って、学大卒の有力団員が退団を表明してからは、卒業即入団のしきたりは失われ、事実上創団当時の姿に戻り、一校OBのクラブでは無くなった。                                                                 

1 戦後の主な戦績

敗戦の焦土から、他球団にさきがけて再建に着手した甲斐があって、1950年(昭和25年)の愛知国体には、東京予選の決勝で東大LB(全東大)を2対1で降し、東京代表となった。本大会(会場刈谷)では、準決勝を全関学(この大会で優勝、同年に全日本の覇者)と争い、接戦の末3対4で惜敗した(『東蹴60年史草稿』p96)。この試合は、NHKラジオで全国放送された(TVは未だ無かった)。

また1952年(昭和27年)には、早大WMWを3対1、東大LBを2対1で降して、東京代表となったが、仙台で行われた本大会では振るわず、ダンロップ(兵庫県代表)に敗れた。

いずれも国体サッカー「一般の部」の戦いである。この二つの戦績は、第2次大戦で一挙に後退した日本サッカー界とはいえ、わが東蹴の力が国内Aクラスのレベルにあったことを示している。僅々26年前のことである。

1963年(昭和38年)から国体サッカーに教員の部が新設された。その第1回大会(松山)では楽勝したが、第2回大会(北海道)では京都紫光クラブと決勝を争い、一敗地に塗れた。また第3回大会(藤沢)は、陣容を立て直した東蹴が、決勝で紫光クラブと三度顔を合わせ、2対1で勝ち2度目の国体制覇をとげた。

しかし第4回以後は、本大会出場権すら得られず敗退をつづけた。国体「教員の部」参加は、同時に団の実力低下を招くことになった。

 

2 現在の東蹴

サッカー界再編成の年(1967年)、東京都社会人リーグの1部にランクされたが、毎シーズン不振をつづけ、1972年(昭和47年)遂に2部に陥落した。

この年、『東蹴だより』の創刊があり、週1回のナイター練習という創団以来の強化策がとられるに至った。

 

そして苦節4年、1977年度(昭和52年度)から再び1部復帰を見、その第1年は3位に終わったが、はじめて関東リーグ入りの希望を持つ程となった。

古い団員にとっては、もとよりとるに足らぬ程の上昇と見られるかも知れぬが、国内最下部組織とはいえ、企業資本にバックアップされたチームに伍してのことを思うと、現役陣の健闘は称えられてよいものである。

 

] 総括

 創団以来、本団は必ずしも限定された一校OBのみを構成分子とするものでなく、「来る者は拒まず去る者は追わず」の態度で終始してきた。

 しかし、現実には新人補給源に事欠かずという背景があり、しかもその補給源の技術水準が比較的高いものであったことが大きく作用していたことは否めぬ事実で、勢い、一校のOBチーム化していった。今日の情勢はそういう意味では変わっている。

 また昔は、大体に於いて、一度入団すればそれは生涯団員を意味した。いかに「来る者は拒まず」といっても、団員としての義務も果たさず、ちょっと腰かけてすぐ顔を見せなくなるということはクラブ存続にとって好ましくないことだ。

なぜなら、そのような者には東蹴の伝統を担う資格はなく、かつそのような者によって東蹴の繁栄がもたらされることはあり得ないと思うからである。

 サッカーを愛し、協力してチームを盛り上げようという意欲のないところにチーム力の向上はなく、チームゲームの真髄は「For the team」がすべてであることに思いをいたすべきと信じる。

 一緒にボールを蹴った仲間は、同時に人間としても仲間でありたい。

 これこそが東蹴60年の歴史を支えてきた力であって、明日の発展につながる道もこれを除いては考えられない。

 

 変転はもとより避くべからざる世の推移である。初期の東蹴にも3年間に亘って新人補給の絶えた時期があった(『東蹴60年史草稿』p12)。

中期から3代団長存命中の東蹴の姿を、今日その通りに復元することは、好むと好まざるとにかかわらず不可能であり、また、それにこだわることが将来の東蹴の発展に結びつくことでもあるまい。このことはかつて全日本を制した一校OBチーム、WMW、慶応BRB、東大LBなど、その存在は別として、全日本レベルでのチームとしての活動は見られなくなっている事実が物語っている。即ち客観情勢がそうさせたものと解すべく、東蹴と雖も例外ではない。

 

 現在の第一線構成は創団当時のそれに戻っている。出身校はちがっても、先人は常に畏敬すべき先輩であることに変わりはなく、ボールにつながる絆は毫末もたがうことなく結ばれている。

 即ち、第一線の栄光が直ちに全東蹴人の栄光であることは今も昔も同じであり、60年の歴史が常にそうであったように、第一線の活躍こそが伝統の東蹴を守る決め手であることは言をまたぬところである。

 

「真にサッカーを愛する者なら暖かく迎え、きびしく育て、相共に励んでチーム力の充実と戦績の向上を図り、上位リーグに進み、全日本の制覇をめざす」

この目標に協力する者こそ、真の東蹴団員たるにふさわしい人物であると確信する。

 

                           1978年(昭和53年)4月

 


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