◆抵抗権とキリスト教信仰◆

8.抵抗することの積極的意味

 悪しき権力、あるいは権力の悪しき部分に対する抵抗には、「自分にはそれに従うことが出来ないから、不利を蒙っても抵抗するほかない」という消極的面だけでなく、積極的意味を持つ。すなわち、正しい抵抗は権力の是正のためにも、支配される者の利益のためにもなる。しかし、権力側はこれを価値なき行為と宣伝し、抵抗する人とその周辺に、抵抗は罪であると思わせる。その宣伝のポイントは通常「公共性」とか「秩序」とかいうところに置かれるが、歴史の必然がこうなのだという論法になることも、われわれは経験して来た。

 歴史の必然がこの方向を取らせており、国家は新しい世界秩序の建設に向かっているのだから、国民はこの貢献に参加せよ、というような命令は、今日では神懸り、あるいは狂気として相手にされなくなった。だが、60年前には本気で信じられていた。今ではなくなったからといって、今後もないとは言えないであろう。神懸りに乗りやすい体質の人は昔よりも増えている。

 公共ということは旧憲法下では余り重要視されなかった。公共の利益よりは天皇の位が象徴するものの方が大事だということになっていたからである。今では、「公共」ということが本当に重んじられているわけではなさそうだが、「公共の安全」という言葉が出て来ると、反対しにくい雰囲気がある。

 例えば、「公共の安全のために個人の行動や言論を制限しなければならない場合がある」と言われる。それはそうかも知れない。しかし、何が公共の安全を危うくしているかについては根拠が曖昧ではないか。豊かな国がエネルギーを浪費し、それで地球温暖化が進み、気候の変化が現われて来ているというようなことは、公共の安全が侵害されていることであるが、そういう方面には少数の人しか関心を向けていない。要するに、好い加減なのである。こうして本当の公共性は踏みにじられて行く。この好い加減な理論を持って来て良心の抵抗を封じ込めようとする策略を、打ち破るだけの知恵や理論や説得力を信仰者は身につけなければならない。

 われわれの抵抗は徹底した非武装抵抗であるが、理論武装は必要である。「悪魔の策略に対抗して立ち得るために、神の武具で身を固めなさい」(エペソ6:11)と言われる「武具」はその後に語られている通り、霊的なものの比喩であるが、これをもう一段拡張することは許されると思う。すなわち、自分自身を十分納得させるだけの真理性があることの確認、それの反映としての説得力が戦いには必要である。この武具を備えることは、確かに難しいし、人はなかなか説得されない。われわれの説得力は実に不完全なのだ。それでも、説得しようという善意の努力と、学びを断念してはならない。馬鹿になり切らなければ抵抗はできないと言われるのは、気持ちとしては受け入れられるとしても、周囲の人をも道連れとして破滅するのを辞さない、ということではあるまい。抵抗は世のため人のためなのだ。抵抗によって私自身はこの世で抹殺されるが、来たるべき世で救われる、と確信するだけでは自己の救いだけが目的であり、犠牲による功績取得で終わる。われわれがこの世に置かれて、この世の真の主権者のみむねを実行するという大事な点が見えなくなってはいけない。抵抗がこの世のためであり、この世の不条理を除去する変革がここから起こるという見通しが当然あたえられているのである。


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