◆抵抗権とキリスト教信仰◆

7.今日の課題

 抵抗権は神によって是認されているとの良心の確認を拠り所にするが、その権利はこの世の法律によって保障されていない場合が通常である。良心は抵抗を全く合法であると信じるが、政治権力が新しく法律を作って、良心的である行為や言論を非合法とすることが時にはある。「有事立法」はまさにそれである。この偽りを見抜く知恵と、迫害に対して飽くまで抵抗を貫く堅忍が大事である。

 一般に「遵法」(法律に従うこと)が重んずべきものと考えられているが、ここで言う「法」は人間の作った法であって、本来は正義のためのものであるはずであるけれども、ある人たちの利益のためでしかない場合が実際ある。このような場合、遵法しないほうが正しい。けれども、判断力がシッカリしていないとか、誤った判断材料によって誘導されるとかの原因で、何が正しいか容易に見抜けない場合がある。だから、善良なクリスチャンが誘導に乗せられて、誤った遵法へと駆り立てられるのである。この誤りを犯した人は、それに気付いて以後、一生苦しまなければならない。

 悪法も法であるから従わなければならないという思想が昔からある。ソクラテスは悪法であることを知りながらそれに従って毒を仰いだ。美談になっているが、褒めて良いかどうか、良く吟味しなければならない。悪法と知らないならば別であるが、知っていて毒を飲むことは自殺であるから、これを自殺として検討しなければならない。その検討の結論は保留して置くが、自分が毒を飲む場合と他者が毒を飲まされる場合とは全く別である。自分が飲む場合、それが正しい選択であったと言える状況はあるかも知れない。しかし、他者が冤罪で毒を飲まされる場合、飲むのが正しいと判断する権利はわれわれにはないし、そのような判断の聖書的根拠はない。

 今日、キリスト者の間で、抵抗権について考えたいという求めがある。それは時代の中に生きる者として当然である。しかし、どのようにして抵抗権思想を身につけるのか。講習会を開いたり、「抵抗権マニュアル」というような本を配ったり、そういうことで何かが分かるとしても、知識が得られただけである。アジテーションによって人々にその気を起こさせたとしても、それは政治的状況を作り出すことにはなるが、神の民の抵抗とは別のものである。神の言葉が良しとすることを私の良心が良しとして受け止める、それだけがキリスト教的抵抗権の成立である。簡単に言えば、神の言葉と祈りである。ただし、祈りとは、祈り以外何もしなくて良いということではなく、自力では何も出来なくても、何かをするように導かれることである。

 一つの事例であるが、沖縄の辺野古(へのこ)で軍用滑走路のための珊瑚礁埋め立てを阻止する地元の老人たちの座り込みに一日だけ参加させてもらい、抵抗する信仰について修練を受ける良き機会であった。作業員が現場に入ろうとするのをスクラムで押し留めるが、暴力は一切、暴言すら用いず、穏やかな説得だけでその日は帰ってもらう。こういう芯の疲れる仕事が3ヶ月続く。望みがないのになお望む希望が問われる。老人たちの抵抗を支えて来たのは他地域から駆けつけるキリスト者で、数人の牧師が交代で参加している。結局、少数者しかいないということなのか。


目次へ