◆抵抗権とキリスト教信仰◆

6.抵抗する神の民

 「抵抗」という言葉を耳にする機会が格段に増えた。思い過ごしかも知れないと自戒しているが、本気で生きようとする人なら誰でもこういうことを考えているのではないか、と思われるほどの我慢の限度を越えた空気が吹き荒れている。かつてはそうでなかった。「これでよいのか」という呟きはあった。呟きが次第に高まって来たことも感じていた。その呟きはだんだん叫びに近づいて、今では「抵抗」という言葉に凝縮しかかっている。

 イラク戦争の時からの世界的動向である。その前のアフガン戦争の時も同じであったが、9・11のショックで人々の判断力は狂い、まだ常態に戻っていなかったので、自分の意見を纏めることの出来ない人が多かった。だが、イラク戦争の前には、良識派と見られるほどの人は皆、この戦争に反対した。

 にも拘らず、戦争が始まってしまった。「良識では悪を制することが出来ないのを思い知ったか」との悪魔の高笑いが聞こえてくるような気がして腹立たしかった。それから、あっけなくフセイン政権は崩壊し、戦争終結が宣言された。ところが、その時から戦争の泥沼化が甚だしくなった。間違った戦争を始めたのだから、いよいよ悪くなるのは前から分かっていたではないか、という議論は正論だと思うが、そのように論じても空しい。戦争は終わった、とブッシュが得意になって言った後から、人はどんどん殺されて行く。イラクの抵抗者も死ぬ。アメリカ兵も死ぬ。そして戦争の当事者でない、誰もが死なせたくないと思っていた多くの人がムザムザと殺されて行く。開戦理由の虚偽は誰の目にもハッキリした。それでも、戦争を始める力を発揮した者が、まるで呪いに掛かったかのように、無意味な戦いを終わらせる力を持たないのである。ここに至って悪魔の高笑いは、腸をひき千切るほど辛いではないか。

 「悪魔の高笑い」という、幾分ふざけた寓話的表現で言われているものこそがわれわれの抵抗の相手である。ことの深刻さに或る程度気付いている人は必ずしも少数者ではない。まともな議論が通って、戦争が防止され、あるいは大規模な戦争にならぬ先に火が消され、国内での不公平が除去されていたなら、ヒューマニズム万々歳。人は余り考えなかったかも知れない。今やそれは空想に過ぎない。

 ところが、間違いがほぼ十分と言えるほど立証されている戦争が、止められないのである。こういうことは政治の常なのだとあしらわれるかも知れないが、現代の異常さは、これまでの常識の許容範囲を越えている。だから、「抵抗」の声が大きくなる。

 この抵抗の状況を目に見える範囲に矮小化し、また分かりやすい常識次元に引き下してはならない。在来の考え方なら、或る国の首相とか、大統領とか、政策集団とか、政治体制に抵抗のターゲットを絞れば足りると思われた。今の人は、政治の劣悪さが、政治家の生き方のあざとさや、それが明らかに連動している社会全般の品位の喪失、倫理の崩壊、凶悪犯罪の年少化などと組み合わさった一塊のものであることに気付いている。だから政治的発想のみによって抵抗を提唱しても、何かが抜けているから、人は乗ってこないし、自分も体を張って戦うことが出来ない。

 幸いなことに、われわれは聖書から、「われわれの戦いは血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、闇の世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである」と教えられている(エペソ6:12)。抵抗の相手を照射すべき眼力が地上的なものにしか及ばないようなことでは駄目だ、と諭されているのである。

 この知恵を信仰のない人に説いても、相手にされなかったが、人々がほんとうの抵抗とは何かを考え直し、模索し始めた今は違うと思われる。しかし、自分は知っているから教えてやろう、と言って、人々の期待を集めるようなサモシイ心を起こしてはならない。人が賛成してもしなくても、われわれは真理の言葉を証しする。抵抗は今日、神の民にとって証しの課題である。悪がこれほど跋扈している時代に、「神は生きておられると信じる」と言う者が何もしないで平然と座っておられるとすれば、その言葉は証しを伴わぬ空疎な欺きごとであると自ら暴露する。

 神の民はそのような証しの戦いに召された者としての霊的修練を受けていなければならなかった。今はもう遅すぎるかも知れないとは言うまい。

 


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