◆抵抗権とキリスト教信仰◆

4.抵抗には限界がある

 「抵抗」は許されてするというよりも、むしろ神の命令、委託によって行なうと理解するのが信仰者の立場であるが、そこでは神から託された範囲を越えないという制約が重要である。この点を見失うと、「神のため」と言っていたことが、限度を越え、自分本位の抵抗にすり替えられる。すなわち、抵抗の相手である権力は必ず抵抗に対して暴力的に反応し、この暴力に対し抵抗者は本能的に自己防衛をするからである。この本能的自己防衛は「正当防衛」だと言われる。だが、ほんとうに「正当」であるだろうか。

 他者の正当防衛の権利についての同情は良いとしよう。虐げられている人から抵抗する権利まで奪うことは、余りに無慈悲な人格無視に思われる。しかし、自分が正当防衛を原理として行動することは出来ない。弱い人間が弱さのゆえに自己抑制が出来なくて、本能的に反撃するのを不可抗的と認めるとしても、それが真理でないことは明白である。人を攻撃する場合、誰もがその攻撃を正当防衛だと言うではないか。めいめいが自分こそ正当であると主張して殺しあうのは滑稽と言うよりむしろ悲惨である。

 前線に投入された兵士が機関銃を撃ちまくる。何も知らない人はそれを勇敢なわざ、崇高な使命達成の意識、と感嘆するかも知れない。だが、実情は違う。彼は怖くてたまらないから撃たずにおられないのだ。正当防衛というのは、本能的恐怖をすり替えたものに過ぎない。本能的な衝動を法律で規制するのは無理であるから、不法とは言わないが、合法化してはならない。

 イエス-キリストは正当防衛が成り立たないことを弟子たちに教えておられる。「もし、誰かがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」(マタイ5:39)。

 これを理想論だと嘲笑う人がいるし、自分に守らせようとはしないが、人には厳格に要求する道徳家もある。たしかに、この御言葉は規範であって、聞いて従わなければならない(マタイ7:24-27)。だから、他者はともかく、自分はこれに従うべく修練すべきである。では、法則でなく、個人の目標と見るべきか。そうではない。公の法則であることを知らなければならない。

 この法則が現実に行使されている実例を主は教えておられる。「私の国はこの世のものではない。もし私の国がこの世のものであれば、私に従っている者たちは私をユダヤ人に渡さないよう戦ったであろう。しかし事実、私の国はこの世のものではない」(ヨハネ18:36)。キリストは王であられるけれども、その王権を悪しき武力から守るためにその民が武力を行使することは決してあってはならない。

 このことを実行しているのはキリストの教会である。教会が武力を行使したことはあるではないか、と問われるであろう。たしかに、あった。十字軍や宗教戦争の実例を引き出すまでもない。しかし、これは間違いであったとキリスト者たちは認めている。

 だが、その過ちを二度と繰り返すことはないか。その危険はあると言わなければならない。そこで、危険を感じる人たちが心しなければならないのは教会と国家の厳密な分離である。

 教会を考える考え方と、国家を考える考え方は別でなければならない。国家を考える考え方をもって教会を考えるなら、権力志向の動機を教会に持ち込むのである。その危険を避けることはできないのか。出来る。「あなた方の知っている通り、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちはその民の上に権力を振るっている。あなた方の間ではそうであってはならない……」(マタイ20:25-28)。支配と奉仕(ディアコニア)の違いをよく理解しなければない。

 


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