◆抵抗権とキリスト教信仰◆

3.抵抗する人々への理解

  統制に服することは、意思の相互疎通が出来ている小集団は別として、ある程度以上の規模の集団には不可欠とされ、これは常識となっている。一つの会社や官公庁の組織の中で、職務命令には当然従わなければならない。しかし、常識を鵜呑みにすることが危険な時代になっている。不服従こそ正しいのではないかと考えて見なければならない機会の多い時代になった。

 昨年バグダッドに「人間の盾」として逗留していた日本人の牧師が、その地に攻め込んできたアメリカの純朴なクリスチャン兵士と交わした会話を読む機会があった(木村公一「人間の盾」新教出版社刊)。その兵士は、組織の中にいる者として、職務命令に良心的に従うのはクリスチャンとして当然だと考えていた。彼は軍隊でそう教えられ、その通りと信じて従ったのだが、信仰者として良心的に生きるには、別の道があることを考えて見ようともしなかったし、教会でもそういうことは教えられなかった。アメリカのキリスト教の平均的レベルなのであろうか。

 同じ時代に、日本のある小学校で「君が代」のピアノ伴奏を職務命令として受けたが、良心的にどうしても従えなかったクリスチャン教師がいた(佐藤美和子ほか「なぜ、「君が代」を弾かなければならないのですか」いのちのことば社刊)。この教師の考えと行動は正しいと考えずにはおられないが、彼女は処分を受けた。処分撤回を求める訴訟が起こされたが、第一審では敗訴になった。日本の裁判官の人権意識がこの程度のものだと知って愕然としたが、この第一審の判決を是とする人が今日の日本の多数者である。彼らのうちには反キリスト教の姿勢がアリアリと見えて来た。――もちろん、全てのノンクリスチャンがそっくり反キリスト教的になったということではなく、むしろ、人権感覚のあるノンクリスチャンがキリスト教に接近して来ているのが見られる時代になった。けれども、その色分けがハッキリして来た今、怖気(おじけ)づいて、言うべきことを言わなくなりつつある「クリスチャン」もいるようである。

 従うべき職務命令と、そうでない命令との区別の出来る職業人でなければ、職業活動の中で誤りをおかす危険な時代になったということであろう。これまでは、教会の中で、信仰者は善き職業人たれ、という奨励が行なわれてきた。何が善き職業人であるかという点では、考えが甘く、企業側で雇用者を評価する評価に乗っかっていた場合がほとんどではなかったかと思う。

 しかし、企業が倫理と理想を追求しまた保持できたロマンチックな時代は去ったと言われる。利益追求をしないと、企業として立てないと言われ、その通りだと思われるような時代になった。こういう趨勢またこの価値観の中で、善悪の判断が複雑化したので、判断を停止して、言われるままに従うしかないと考えられ勝ちである。

 新しい時代の中で、教会は新しい指導プログラムを作らなければならない、と言う人もあろう。もっともな意見であるが、ほかにも同様な緊急性を持つ指導事項が多くあるから、教会では朝から晩まで講習会を開き続けなければならない。しかし、教会としてはもっと大切なことがあるのではないか。

 教会が人々の自由な判断を拘束するようなことを言いさえしなければ、信仰者一人一人には、与えられた賜物としての自由がすでに備わっているのだから、良心の自由が侵害されている情勢を感じ取るし、自らに与えられた自由を守ろうとする。良心は神の言葉の前でこそ覚醒するのであるから、御言葉が正しく語られているならば、自由を守るための戦いは特別なスローガンを掲げなくても始まる。

 


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