◆抵抗権とキリスト教信仰◆

2.もう一つの考え方

 神の戒めがあって、それに逆らうことを命じる命令が、上にある権威、この世の支配者である人間から与えられる場合、「人に従うよりは神に従うべきである」という原理にのっとって、抵抗権は全く明快に説明される。だが、これは宗教的な事柄の場合だけであって、それ以外では抵抗の理論は同じようには成り立たない。しかし、地上を統治するに不適任であるという理由があれば、政治権力を交替させて良いという思想は古くから多くの民族の中にあった。

 この場合、反抗の正当性はどういうふうに証明出来るのか。中国には「易姓革命」という言葉が古くからある。革命とは「天命」が革る(あらたまる)という意味で、天の意向が別の姓の者に統治させるのである。つまり、これまでの支配者に反抗して倒し、別の姓のものが王朝を建てる。それが超越者の意志に基づくという解釈である。その点、この革命思想も「人に従うよりは、神に従うべきである」という原則と共通だと言えなくはない。

 しかし、観念としては似た形を示すが、聖書の言うことと中味はずいぶん違うことは見ておきたい。天命が革ったと言う場合、その根拠がハッキリ示されたわけではない。権力欲の旺盛な者が自分に都合の好いように、また人々に納得させるように説明しただけである。

 神の民の中で「神の意志」と言われる場合、それはとってつけた理由であってはならない。取ってつけた理由でそう語るのは偽預言者で、偽預言者も結構多くいたことは旧約の歴史に見られる。偽預言者はその時代には真の預言者以上に勢力を持っていたのである。しかし、それらの偽預言者の語った言葉が神の言葉として恒久的な権威を維持することにはならなかった。神の民の中で、神の啓示でないものは排除されて行ったのである。

 ソロモンの有能な臣下であったヤラベアムは、ソロモンの北部支族に対する苛酷な賦役に批判を持つが、反抗を決定的にしたのは預言者アヒヤを通じて語られた言葉である(列王上11:26-40)。ソロモンの死後、ヤラベアムは北部10支族を糾合して、ダビデ王家の支配から分かれた国を建て、自分が王となる。そのとき、ソロモンの直系であるレハベアムは、国を取り戻すために精鋭18万人を率いて攻めて行こうとしたが、神の人シマヤに神の言葉が臨んで、「あなた方は戦ってはならない。このことは私から出たのである」と告げられる(列王上12:21-24)。神の言葉を語るシマヤに対して、レハベアム王の権力は何ともすることが出来なかったし、南王国は神の意志を尊ぶほかなかった。とって付けた「易姓革命」の言い分と非常に違うものがあるが、この件は今のところここまでにして置く。

 ヤラベアムの反抗は不公平な賦役を理由とし、この理由を神も認めておられたと考えられる。つまり、神は公平を地上における支配の第一義とされるのであるから、不公平な負担に苦しむ者らが反抗することは必ずしも神の意志に反することではない。

 神が究極の支配者であるとの立場をひとまず離れて、理不尽な支配に対して抵抗する事例は人類の歴史に少なからず見られる。このような抵抗が悪であると権力者は決め付けるのであるが、地上の権力は一時的なものであるから、権力の作り上げた善悪の基準は永続せず、抵抗は必ずしも悪でないという認識が民衆や民衆の側に立つ知識人の中には定着する。権力が書き上げて教え込もうとする歴史では、抵抗はつねに黙殺されるが、物事を正しく考えようとする知者の間では、抵抗を全面肯定するのでないとしても、無視できない事実として学ばれていた。この傾向は、大雑把な言い方であるが、人間というものへの関心の深さと連動している。

 


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