この世の権力がキリストの主権に必ずしも敵対でないと見られる時代がかつてはあったようである。権力が悪魔化するのは非常事態であって、また平常に戻るかのように見られ、人々はそういうものだと次の世代に教えた。一時的に忍耐すればよい。その考えで以前は一応通った。嵐が吹きまくっていても必ず過ぎ去る。
しかし、ほんとうにそうなのか、と疑う人が増えているのではないか。嵐がやんだと見えたのは、ほかの地域に移動しただけで、向こうの地域の人たちはかつてわれわれが嘗めたような苦渋を今味わわされている。そういうことが見えて来ると、かつて平和だと言っていた時代に、地球のどこかで嵐が吹き荒れていたことに気がつく。その地域の人たちの苦悩を何とも思っていなかった自らの罪の醜さを突きつけられる。
嵐が襲って来れば、祈った。そして、嵐が収まれば、祈りが聞かれたと思って、祈りの休眠状態に移った。そのことの愚かさ、邪悪さ、悟りのない傲慢、祈るべき課題が世界全域に満ちていることを敢えて見るまいとする頑なさ、そのことを聖書から読み取ろうとせず、したがって教えようとしなかった教会の怠慢、――神の民が惰眠を貪って祈りを縮小させているうちに悪は成長し、今や、悪が世界の全域で一斉蜂起をしている。
抵抗に関しても同じである。今、われわれは自分の国の政府が起こす理不尽のために抵抗しなければならないと感じ、また実際、抵抗しないではおられない。それはそれで正しいのだが、目の前に悪が見えて来たときにやっと抵抗するだけで良いのか。遅すぎたことには誰も気がついている。だが、そうなるまで気がつかなかったのは知恵が足りなかったという問題なのか。知恵の貧困は確かであって、言い訳は出来ないと思う。しかし、シッカリ勉強を積み上げておれば良かったというようなことではあるまい。
知恵の貧困よりも、祈りの貧困、窮乏、あるいは祈りの貧困化と何も戦おうとしなかった手抜きが問題であり、その問題に気付くことを避けている狡さが問題であろう。
世界は日に日に悪くなっている。その異常さを感じている人は少なくない。もともと悪があった。それが自然治癒力によって修復されるのだとかつては見られていた。その見方を批判しても余り意味はない。かつては修復力が有効だったかも知れないが、今日では自然の修復は効かなくなったようである。政治は日増しに悪くなり、理由なしに始めた戦争の残虐さは、ますます募って行く。民主主義も過ちを是正する力をなくした。教会も言うことは一応言うが成就しない。抵抗しなければならないことが日に日に増えて行く。手が回りきれない。抵抗の中で挫折して行く人が増えるばかりで、抵抗陣営は強化されない。
抵抗の基軸は祈りである。キリスト者の抵抗は祈りなのだ。祈りつつ、その祈りを形に表すのが抵抗だということを、口で言うのでなく、心から納得できる実践を見せてくれるのでなければ、抵抗の火は消え、抵抗を考えることも出来ないという、もっと恐ろしく望みなき時代が始まる。