◆抵抗権とキリスト教信仰◆

10.抵抗の武具となる生きた言葉

「抵抗」という言葉は昔の日本、特に教会の中では禁句であった。クリスチャンといわれる人は、上からの押し付けを何でも素直に受け入れるように躾けられた。「これはオカシイ」と言う人は教会から追い出されたものである。戦争に負けて、「上にある権威」の言うことにはウソが多いと分かったので、ごく真面目なクリスチャンも政府の宣伝に乗らないようになり、時には抵抗が必要だと考えるのが常識化した。世間一般では、今や「抵抗」という言葉が、何の意識するところもなしに語られる。「上にある権威」が権威の実を伴わない場合が多すぎるので、抵抗する方がまともではないかという考えがかなり広がった。「抵抗」はまだ「流行語」にはなっていないが、ある人たちの間では、軽さにおいて流行語と同格である。その言葉の軽さを苦々しく感じる人がいる。抵抗に反対だというのではなく、軽く使われることに心を傷つけられるからである。それでも、この言葉が自由に口に出来る環境になった経過は大切にしなければならない。使わないでいると、言葉が錆付いて、死語になってしまうかも知れない。軽い言葉が吹き飛んでしまうような嵐の時代が来ているのである。

小さい言葉にもそれぞれの歴史が封じ込められている。その言葉を使う人がこの歴史を掘り起こして噛み締めているなら、軽々しい使い方は出来ない。「抵抗」という言葉に関しては特にそうである。軽い言葉として「抵抗」を論じていては、議論や言葉遊びになるかも知れないが、抵抗そのものは成り立たない。

日本列島を「言葉の軽さ」という津波が襲ったのは、テレビの営業開始の時期と重なっている。断わっておくが、ここでテレビを論じるつもりは全くない。津波の震源はもっと深いところにあると思うからである。とにかく、津波にさらわれて、言葉がなくなり、言葉の屍骸ばかりが巷に溢れるようになった。この津波でキリスト教会の受けた損害は莫大である。生きた言葉が大幅になくなった。しかし、建てなおすことは出来る。それをしないことには「抵抗」をいくら叫んでも、言葉は語った端から消えて行くだけである。

私たちは武力抵抗を否定する。武力を使うことが悪であるのみでなく、悪を増大させる愚かな業だと知っているからである。だから、本能のまま衝動的に武装して抵抗するよりは殺されるほうが、後々のことまで考えれば、はるかに賢いということが分かっている。これは後々のことまで考える知恵を持つからである。そのように、暴力は行使しないが、暴力でないものを使って抵抗する。

ここで、普通には暴力と看做されていないものも暴力になることを知っておかねばならない。言葉も暴力化する時がある。売り言葉に買い言葉の応酬がエスカレートして流血事件が始まることはよく知られている。だが、見るからに乱暴な暴力沙汰以外に、言葉の暴力は幾らでもある。例えば、冤罪の判決文。通常、極めてもっともらしい言葉が書き連ねてある。もし、裁判官が自分に負った任務の重大さを弁え、一生懸命に真実を探ったなら、無実の人を故なく殺すことにはならなかったはずであるのに、手を抜いたところを、もっともらしい言葉で誤魔化したために、法律用語という言葉による殺人が行なわれた事例が多い。神はその殺人を赦したもうであろうか。

教会の抵抗は言葉によるのであるが、その言葉は相手の論理性を越えた、つまり理不尽や誤魔化しを明らかにするだけの、正確さを持つのみでなく、のちの世においていよいよ輝き出る真理性を持たねばならない。


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