◆抵抗権とキリスト教信仰◆

1.抵抗権の源流

 「抵抗権」という言葉にはキリスト教的精神と馴染まない、反抗的で心をささくれ立たせる感じがあるかも知れない。しかし、これはそのまま聖書の用語として読むものではないが、この言葉は聖書に由来する信仰者の姿勢を表明するに必要なものである。

 聖書に例は多い。旧約聖書には律法違反の強制に対する抵抗の例が多いが(例えば、ダニエル書)、最もよく引かれるのは使徒行伝4章19節、また5章29節のペテロとヨハネの言葉である。「神に聞き従うよりも、あなた方に聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい」。「人間に従うよりは、神に従うべきである」。

 彼らはイエスの名によって語ることをユダヤの議会に禁じられたが、それに服せず、敢えて公然と語る。キリスト教会の抵抗権発動の第一号である。それは教会の最初期の事件である。

 これに続く時代、抵抗権行使の実例は数え切れない。ヨハネの黙示録13章15節に、「獣の像を拝まない者をみな殺させた」という句があるが、これは皇帝像を礼拝せよとの命令を拒否した者が殺された史実を反映している。

 宗教改革の教会が最初に掲げた信仰告白は1530年の「アウクスブルク信仰告白」であるが、その第16項、権威に対する服従を説いて来た結びに、「キリスト者は官憲に服従し、罪を犯すことなしに行ない得る一切の事柄において、その命令と法律に従わなければならない。すなわち、官憲の命令が、罪を犯すことなしには果たせない場合、人に従うよりは神に従うべきである(使徒行伝5章29節)」という。これに続く信仰告白が皆こういう条文を掲げたわけではないが、精神を受け継いだことは確かである。

 「上にある権威に従うべし」(ローマ書13章1節)という原理がある。この原理について、さらに立ち入って論じる機会を後で持ちたいが、これは神のご意志にかなうことなのだと、信仰者は一般に受け入れて来た。ただし、上に立てられた支配者が神の命令に背けと命じる場合がある。その場合、神の命令への服従が優先し、権力に抵抗しなければならない。すると秩序違反として処罰される。しかし、信仰に基づく抵抗をする人は、上にある権威が神によって立てられたのであるから(ヨハネ19章11節)、この不服従また抵抗こそが正当だと信じる。

 「抵抗権」という時の「権」、これは正当性があり、したがってその確信を内に持たなければならないとともに、正しいことであるから、それを行なう権利が本来は法によって保障されなければならないとの含みを伴う。しかし、抵抗を行なうことの権利保障は、理論的には認められるとしても、実際に抵抗し、しかも処罰されない保障を受けることは難しいであろう。

 抵抗する権利が人権の一部としてある、という考えは、もっともであるが、法律の条文に抵抗する権利が保障されると明記することは不可能に近い。すなわち、法律は守られなければならないものであるから、罰則を設けて守らせる。罰則がないのは法律として不備であり、守らない権利を保障するのは自己矛盾になる。

 古代教会の皇帝礼拝拒否者は死をもって報いられ、権利の保障を考える余地もなかった。彼らは現世における権利を放棄し、来世の報いを望み見るだけで満足した。現代でもそれに似た状況は残る。しかし、抵抗する権利を保障しなければならないという思想は古くからあった。それは、聖書の世界の外においても、「法」とか「正義」というものを真摯に考えようとする法学者や哲学者によって考えられていた

 


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