◆ 2008.12.21.

降誕節礼拝説教
――マタイ2:1-23によって――

 

 イエス・キリストの誕生について、マタイ福音書は1章の終わりに短い言葉で「処女」からの出生であると語る。処女から生まれたということは大いなる神秘であるが、神秘についての強調はされない。ただ、そういう事情の故に、黙って彼女との婚約を破棄しようと考えたヨセフのことは記されている。生まれた日の夜については、ルカ伝が描いているような牧歌的な風景は何も言っていない。

 キリスト誕生の時代についてマタイは「ヘロデ王の時」と言い、場所については「ベツレヘム」と言うだけである。ルカの福音書では、ヘロデの時ということに1章の受胎告知のところで触れるが、誕生のくだりでは、ヘロデに触れず、カイザル・アウグストの世、クレニオがシリヤ総督だった時代と言う。つまり世界帝国ローマ、そしてその一部であるシリヤ総督の管区、その一部であるユダヤ、その田舎ベツレヘム、そこを焦点として絞り込む。マタイ伝では、主の降誕について、21節の初めで「ユダヤのベツレヘムで生まれた」と語るだけである。

 その後、2章の終わりまで書かれているのは、降誕に関係あることであるが、付随的な事件である。マタイ伝にしか書かれていないという点で、これらの記事に関心を向ける人はいるが、印象的な人物が登場して活躍する訳でもない。出所不明の東の博士たちの来訪、そしてそこから引き起こされた陰惨な嬰児虐殺の出来事がある。キリストの降誕について学んで、敬虔な気持ちに浸ろうとする人は、打ちのめされた感を味わわずにはおられない。

 今でこそ多くの人々が集まって、説教がなされ、讃美歌が歌われ、救い主の誕生が祝われ、何も分からぬ人でも、何となく喜ばしいと感じ、またそのように感じることを軽んじてはならないと考えられている。だが、キリストの降誕があったその時には、これを喜ばしいことと言った人はどこにもいなかった。誰からも無視された。

 しかし東の国からはるばる来た人たちがいた。したがってこれは異邦人である。「博士」(マゴス)と書かれているが、深い学識を持った人という意味ではない。むしろ星占いの天文研究家、妖しげな術を使う人、魔術師、夢を解釈する人である。このような人について聖書は殆ど語っていないが、使徒行伝89節に出て来るサマリヤのシモンという人は、マゴスと書かれていないが、この類ではないかと思われる。また136節以下に出て来るクプロのパポスにいた、バル・イエス、あるいはエルマとも呼ばれる人は、確かに「マゴス」と書かれている。「東の博士」とは、想像力豊かな人々の間で発展して行った神秘な、むしろ作り話しめいた物語りだと思っている人が多いのだが、東の博士と同類の人が使徒行伝の時代にいたのではないかと考えられる。それ以上のことは何も分からないが、作り話として片付けてしまうことは出来ない。

 「東」というのはバビロン、メデヤ、あるいはペルシャであると考えられている。マゴスはその宗教、もっと幅狭く捉えるなら「ゾロアスタ教」という密儀宗教の祭司であろう。この宗教は古代の終わりの時期にはローマ帝国の中心部に進出して来ているので、サマリヤのシモン、パポスのエルマがそれであったと推定することは不可能でない。マタイ伝にある東の国の博士について、分かっていないことをまことしやかに言うことは慎みたいが、これをあり得ない話、荒唐無稽のお伽話と言うことは出来ない。

 なお「東」ということでは、ペルシャ辺りが一番ありそうに思われているが、他の考え方もある。ユダヤから真っ直ぐ東に行くとアラビヤの砂漠であるが、そこにも深い知恵を持つ人がいたと昔の人は考えていた。例えば、ヨブである。「東の人々のうち最も大いなる人」であったと13節は言う。彼のいたのは「東」であるが、そこがどこであるかは分からない。ヨブ記はその由緒が明白でないので、最も難解な書物とされているが、内容は深遠な知恵であるから尊ばれて来た。「東の博士たち」が、ヨブとヨブ記を生んだ環境から来た人だとすれば、素晴らしいことであるが、事実であることを示す痕跡はないし、後の教会の歴史にうまく繋がらないという問題がある。

 東の国から博士が来たということは、そのように、未知の世界、あるいは謎の世界、神秘の領域からの来訪である。分からないから探検して明らかにしたいという探求心を掻き立てることがあるかも知れないが、分からないから黙る、分からないから慎ましく思い巡らす、ということが課せられるのである。異邦人、異教徒でも讃美しないではおられない世界の救い主の誕生の出来事が、このように描き出されたと説明する人はいるであろう。それで納得する人もいるだろう。ただし、ここよりも東の国々の民の救いは、これらの博士たちに任せておけば良いのか。それは我々の空想を発展させるとしても、そこから我々の救いを汲み取ることは出来ない。

 嬰児虐殺の事件に移る。これはどうか。キリスト教の中には、ベツレヘム一帯で殺された2歳以下の全ての男の子たちの死を記念する祝日を定めて、この子らの救いを祈る人たちがいるということであるが、我々に分からないことを分かったように扱うことは無理である。

 嬰児虐殺を行ったのはヘロデ大王である。ヘロデは東の博士たちから、ユダヤの地で新しい王が生まれたから拝みに来たと聞いた。それを聞いて恐れたのである。つまり、王は次の王によって自分が王座を追われる事になりはしないかと恐れる。王権が内に秘めている暗部がここに見事に剔抉されている。自分を追い落とすことになるかも知れない者を、幼いうちに殺してしまおうとする。こういう話しは昔から世界の王朝の歴史の間で繰り返されたではないか。殆どの場合、王の地位を脅かすかも知れない幼な子は特定できるから、その子だけを殺せば良い。

 しかし、今度生まれた王はベツレヘムで生まれたというだけで、誰であるかも、何時生まれたかも分からない。だから、ヘロデは2歳以下の男の子は全部殺すと決めたのである。ベツレヘムの2歳以下の男の子が全員殺される。最も残忍な、また理不尽な虐殺であるが、ユダヤに新しく生まれた王という意味をヘロデが全く捉えていなかったところに一つの問題がある。それが生まれたという報道のゆえに、夥しい幼な子が殺されるとは何ということか。

 東の博士も、自分たちの齎らす報せによって大悲劇が起こるとは全く予想も出来なかった。今日ではベツレヘムの嬰児虐殺にも人々は関心を示さないほど、大量虐殺は日常化してしまった。しかし、この趨勢を最早取り返せない、諦めるほかない時代の流れの力だと感じてはならない。こういう不条理はなくさなければならない。

 幼児自身は何も分からないうちに殺された。恐怖に泣き喚く時間もなく殺されたのかも知れない。それと比べると、嬰児の母親は、抵抗する恐怖と、子供を目の前で殺される苦痛とを一度に味わわなければならない。子を殺された母の嘆きは大きいのである。

 その嘆きが、預言者エレミヤによって言われた預言の成就であったとマタイは言う。「叫び泣く大いなる悲しみの声がラマで聞こえた。ラケルはその子らのために嘆いた。子らが最早いないので、慰められることさえ願わなかった」。預言の成就だとは、偶発的な出来事でないという意味を籠めていることに注目させられる。

 この預言はエレミヤ書3115節に、マタイ伝に引用された通り記されている。ではエレミヤの預言は何を言ったものか。――意味を取り違えている人が多いのではないかと思う。ラケルがベツレヘム・エフラタで二番目の息子ベニヤミンを出産しようとし、難産であったために、泣き叫びつつ出産し、子は産まれたけれども母は死ぬ。ラケルの叫びは死の叫びである。このことは創世記35章に記される。

 そのことと、ラケルが子を失って泣くというエレミヤの預言は同じでない。エレミヤの言うのは二段構えになった預言である。子らを奪われた母たちが嘆く。ラマで嘆く。それが聞こえる。これが第一段の預言である。ラマというのはエルサレムの北8キロにあるベニヤミンの町である。実際にエレミヤの時代にエルサレムは陥落して、エルサレム市民はラマに集められ、そこからバビロンに引き行かれるのであるが、エレミヤ書40章に書かれている。そのラマにおける嘆きの声がエルサレムまで響いて来るという預言は、間もなく成就した。エルサレムは1年余の籠城に耐えたが、食べる物がなくなって遂に陥落する。こういう時には小さい子と老い衰えた人から先に死んで行く。生き残ったのは比較的健康な大人たちで、それはバビロンまで引かれて行く。

 エレミヤの預言はすぐ次の節に続いている。「主はこう仰せられる『あなたは泣く声を留め、目から涙を流すことを止めよ。あなたの業に報いがある。彼らは敵の地から帰って来ると主は言われる。あなたの将来には希望があり、あなたの子供たちは自分の国に帰って来る』と主は言われる」。――これがバビロン捕囚の帰還の預言であることは説明の必要もない。エレミヤの預言はエルサレムの滅亡と民のバビロン捕囚を先ず告げ、次にその捕囚の解放があり、帰国があることを語った。

 マタイがエレミヤの預言から引いたのは、その前段についてだけである。この前段はエルサレム陥落によって成就したと見られるのであるが、マタイはむしろベツレヘムの嬰児虐殺によって成就したと言うのである。

 マタイにおけるエレミヤ預言とその成就の解釈について、なお釈然としない感じを持つ人がいると思う。このエレミヤの預言がベツレヘムの嬰児虐殺によって成就したという解釈は、マタイの解釈と言うよりは、すでに我々が使徒行伝の初めの部分で繰り返し見たように、使徒たちの間で行われた解釈法で、マタイも用いたものである。

 主の弟子たちはベツレヘムの虐殺を、ずっと後になってから知ったのであろう。これを知ったことは彼らにとって大きい衝撃であったから、なぜこんな酷いことが起こったのかを神に問わないではおられなかった。そして答えを得た。

 このことの意味を問うていた使徒たちは、エレミヤ書からラケルの嘆きを聞き取る前に、創世記35章のラケルの死ぬ前のベツレヘム・エフラタの絶叫を読んでいた。そのベツレヘムの叫びがヘロデの虐殺による母たちの嘆きに重ねられたのであろう。ラケルが死んだのはベツレヘム・エフラタであるが、それはベニヤミンを産み落とした場所で、ベニヤミンの地にある。ユダヤのベツレヘムとは混同しようもないほど離れている。

 どうして混同が起こったのか。ラケルが死んだ時、夫ヤコブは道の端に葬って石の柱をそこに立てた。それはベテルから南に下って来る道の傍らである。ベツレヘム・エフラタの北1キロ半の所にある。名所であって、通る人はベニヤミン族でなくてもそこに葬られたラケルの悲しみを覚え、それが人々の間に諺のようなものを定着させるようになったであろう。エレミヤはベニヤミン族であるから、ラケルの嘆きについては接する機会が多かったであろうと考えられる。

 もう一つ、話しを面倒にするかも知れないが、Iサムエル102節にゼルザにあるラケルの墓の傍らで、サウルが二人の人に逢うという預言を預言者サムエルが語っている。このゼルザはこのところの記事から推定して、ベツレヘム・エフラタではなく、ベニヤミンの地ではあるが、エルサレムの北にならざるを得ない。そこにラケルの墓があったことになる。ラマに近い。ラマとラケルの繋がりが考えられて来る。

 とにかく、ラケルの嘆きが子を殺された母の嘆きにプリントされ、その嘆きの最たるものとしてベツレヘムの嬰児虐殺が行われた。勿論、ヘロデの責任は曖昧にされてはならないが、ヘロデが悪かった、あるいは王というものは得てしてそういうものだ、と言ったところで、世界の悲しみはなくならない。が、ベツレヘムの慰められる事のない嘆きは、ベツレヘムにおける誕生によって慰められるということをマタイは示した。

 最後に13-15節と19節以下、また23節を読んで置く。

 御子イエスは生まれて間もなく、エジプトに亡命しなければならなかった。亡命の苦難を先ず味わわれたのである。エジプト亡命は珍しいことではない。例えば、ソロモンの家来ヤラベアムは、ソロモンの人民使役が苛酷に過ぎるので反抗してエジプトに去って、ソロモンの死後後を継いだ息子レハベアムを追い払ってイスラエルの王となった。列王記上1127節以下に語られている。エジプトに一時難を避けるケースは多い。

 しかし、イエス・キリストのエジプト逃避行は有り触れた苦難の一つを味わわれたというだけのことではない。15節は言う。「それは主が預言者によって『私はエジプトから我が子を呼び出した』と言われたことが成就するためである」。

 これはホセア書111節の預言であるが、ホセアの言葉は神がイスラエルをエジプトから導き出し、聖き伴侶として契約を交わしたもうたにも拘わらず、イスラエルが背いた、それを再び呼び戻すというテーマで語られたのではなかったか。確かにそうである。

 しかし、かつて行なわれたことの反復があって良い。ノアの洪水は予告され、成就されたが、成就したことは人間の新しい誕生として反復される。それがバプテスマによって示される。出エジプトの時の紅海を渡ったこともバプテスマとして繰り返され、出エジプトの過ぎ越しは聖晩餐として繰り返される。

 ここでは神御自身が「我が子を私がエジプトから引き出した」と言われた点に中心がある。神自ら御子をエジプトから引き出したもうた。

 主イエスがナザレ人と呼ばれるのも預言の成就とされるが、これはそれほど重要な事項ではない。「ナザレ人」と呼ぶのは、人が通例そう呼んだだけである。その名はどこで預言されたか。士師記13章である。士師サムソンについての預言である。ただし、サムソンは初代の「ナジル人」であって、以後イスラエルの中には重要な務めのために誓願を立ててナジル人となる人が時々現れることになった。そしてナジル人は人々の間で尊敬された。聖人というのにやや似ている。しかし、髪も髭も剃らない。特別な風貌である。ちょうどバプテスマのヨハネがそれであった。

 ナジル人とナザレ人が呼び名として全く別だということは、ユダヤの人々には分かっていた。分かっていたが「かけことば」としてナザレ人と言ったのだとマタイは解釈しているのである。かけことばではあるが、人々の間でイエスは特別な人物として、ナジル人と言われかねない風格があったという意味も含まれていたようである。バプテスマのヨハネに触れたが、彼はナジル人の装いをしたと書かれていないが、ナジル人であったと思われる。それと似て、イエスはナジル人のような風体のナザレ人と言われたかも知れない。彼は美しい装いとは無関係であった。

 


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