2002.11.27.
台湾神学院「アジア伝道史」出版の感謝


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「アジア伝道史」の翻訳・出版を記念して、こういう機会を設けて下さったことに感謝しています。本の中にも書いてありますが、これを書くに当たって台湾から多くのことを学びました。先ず、台湾神学院の教会史の教授をしておられた徐謙信先生からです。
 先生も私と同じくカルヴァンを専門に研究しておられました。本格的なカルヴァン研究をしていたのは、台湾では徐先生一人でした。
 私の知る限りでは、先生の教え子の牧師方は、面白くない講義であったと言われますが、それはその通りであったとしても、先生は専門外の領域についても豊かな学識の持ち主で、私は談話の中で中国のキリスト教について多くのことを学びました。また、先生は私を連れ出して本屋まわりをして下さいました。中国関係のキリスト教文献の知識を私はこうして吸収したのでした。
 本を書く者として、自分の文章が他国語に翻訳され、出版されることは非常な光栄であり、喜びです。台湾で私はこの喜びを二度味わうことを許されました。一度目は28年昔のことですが、1974年初めて台湾に来た時、台南のキリスト教書店で私の「宗教改革者カルヴァン」の訳「只為神的榮耀、宗教改革者喀爾文的一生」(台湾教会公報社)を見つけ、2年前に出ていたことに吃驚するとともに、有り難いという思いにジーンとしました。訳者の王南傑先生は、断りなしに出版したことで非常に恐縮されましたが、私としてはそんなことはどうでもよく、むしろ嬉しくまた有り難かったのです。私の書いたもので韓国語で出版された本が今のところ3冊あります。中国語に訳されたものとは別の本です。余分のことですが、韓国語に訳された物を挙げますと、「戦争の罪責を担って」、「カルヴァン『キリスト教綱要』について」、インターヴユー「神社参拝を拒否したキリスト者」です。他にまだ出版されていないものが2点あります。一つの国でしか読まれない書物ではないということは、とても名誉だと思います。
 「アジア伝道史」というこの本を書くべき理由に目覚めさせ、書くために励まし、本に書かれる内容を教えられたことについて、アジアの多くの国に負っているのは言うまでもありませんが、最も多くを台湾に負っています。今日、こういう会を持たせて頂いたのは、私の方から願い出たことでありまますが、私はこの本について、すなわち、本を書く動機を与え、材料を提供し、翻訳をして下さり、出版をして下さり、さらに買って読んで下さる、そのような数々の恩義を蒙っている台湾の方々に、お礼を言いたいのです。今日、このマカイ記念講座に出席して下さった方々に、台湾を代表し、ここに出席できない方々に代わって私の感謝を受けて頂きたいと思います。



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私がこの本のなかで言いたかった一つのこと、それは、アジアの国々に対する日本の戦争責任と植民地支配の責任であります。この二つは一連のものでありますから、一つにして「戦争責任」と呼ぶのが適当だと思います。この責任のために「アジア伝道史」を書いたと言って過言ではありません。
 私は外国留学をしないで、ズッと日本の中だけで勉強し、また仕事をしていましたが、1974年に初めて外国に出ました。5月に韓国に行き、11月に台湾を訪れました。1年の間に二重の衝撃を受けたことになります。外国に出て、そこから日本を見直す時、日本の中だけで考えていては決して見えないことが見えて来ます。そのとき、すでに50歳を越えていましたが、遅くても学び直さなければならないと感じ、それ以来頭の中を切り替えてアジアを学び、アジアの国々をせっせと訪れるようになりました。
 それも、自分で道を切り開いて訪ねて行ったというよりは、先方からの呼び掛けに応じて出かけて行ったのが実情であります。例えば、台湾に最初に来たその翌年、台湾長老教会は宣教110年の行事のために私を招いて下さいました。2ヶ月に亘って台湾全土の教会で長老教会の精神という講演をしました。行った先々で貴重な出会いを経験しました。私はこの出会いは神が与えて下さった賜物であり、したがってまた、この賜物を活かし用いることが自分の課題であると感じ、大切にして来ました。この出会いの中で教えられ、一生懸命に考えたことは、その前から或る程度考えて来たことでありますが、日本の戦争責任、特に日本の教会の戦争責任でした。
 アジアに対する戦争責任という問題について、私は60年代後期から、本も書き、あちこちで論じていますが、今日は限られた時間しかありませんから、考えて来たことをお話しするのはとても無理だと思います。ただ、アジアの国々の伝道史を書くとき、日本の戦争責任の思いを込めて書いたということは言っておきたいと考えています。
 そのことに関連して、もう一つ言いたいのは、台湾に関する責任です。先に言いましたが、私は取り組み始めたのが遅いにも拘わらず、特別にチャンスを与えられて、台湾を詳しく理解することが出来ました。それだけに台湾を知った者には責任があるということを覚えずにおられませんでした。したがって、台湾に対する日本の責任を誤魔化しなしに知らなければならないのです。
 日本では、朝鮮に対する植民政策は間違ったものであったが、台湾に対してはもっとマシな政策を採ったと一般に信じられています。しかし、私はその見方は誤魔化しであると思っています。台湾の人たちは長い中国文化の中で養われた大度の精神で日本を見ています。さらに、日本の後で入って来た支配者の暴虐ぶりは日本の圧制を割り引きさせる働きをしました。しかし、台湾においては朝鮮にまさる搾取と弾圧が行われたことを今日の良心的な研究者は数字を挙げて論じています。霧社事件という事件一つを取り上げただけでも、日本の植民政策が如何に失敗であったかが分かります。これは恥ずかしいことでありましたから、日本政府は真相を極力隠しました。
 心に深く残る事件がありました。1995年、これは日本が太平洋戦争に敗れて植民地支配を全て止めた時から50年経った記念の年です。日本の総理大臣が舌足らずの談話ですが戦争責任の表明をし、キリスト教の各派、各団体もブームのように罪責表明をしました。私たちは以前から戦争責任を深める運動をしていましたから、その時、ブームに乗るのでなく、醒めた目で見て考え、こういう罪責表明は超教派でしなければならないと思い立ちました。戦争遂行のために、キリスト教は一丸となったのですから、戦争の謝罪も個々の教派や既成組織でなく、超教派の連合でしなければなりません。私たちは一人でも多くのクリスチャンに賛同を求め、心を込めて罪責表明文を書き上げました。この文章は礼拝の中で発表されましたが、台湾と韓国から日本に来ておられる先生方もそこにお招きして、応答をして頂きました。
 韓国の先生は普段は日本人キリスト者に対して辛口の批判をされるのですが、その時は「よくぞここまでやった」と言ってくれました。ところが、台湾の先生は、厳しい態度を崩さず、「台湾は付け足しのように扱われている」と批評されました。私たちの背筋が寒くなる発言でありました。宣言文の起草に当たった委員たちは、台湾に関する部分だけでも書き直そうと思い立ちました。
 日本人は台湾に対する責任を「付け足し」としてしか扱って来なかったのです。しかも指摘されるまではそのことに気付かなかったのです。目は主に韓国に向いていました。
 韓国からの糾弾の方が厳しかったので、日本人は、韓国への支配は苛酷であったが、台湾のためには良いことをして来たので喜ばれている、という錯覚を起こしました。この批評は、「あなた方はこれが付け足しだということが分からぬうちは、台湾についてまだ何も分かっていないのだ」という含みであります。
 このように日本に向けて直言して下さる方がおられるとは、何と感謝すべきことでしょうか。実は、その直言をして下さった先生が、今回の書物の訳者であり、当時、千葉の台湾教会の牧師であられた蘇慶輝先生です。
 



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戦争は、大抵の国がこれまで繰り返して来たことでありますから、戦争の憎しみを戦後まで残さないようにすれば良いと考えられていました。しかし、太平洋戦争が終わって、これがどういう戦争であったかを知った時、私たちはこれまで国々が行なっていた程度の反省では足りないと感じました。日本が敗戦に至るまでやってきたアジア侵略は「悪かった、ゴメンナサイ」で終わる程度のものではないのです。
 また、実際に戦争をやって来た私自身の思いを言うならば、戦争が終わった時、「これを最後の戦争にしなければならない」と、人から強いられたのでも、教えられたのでもなく、自分で考えずにおられませんでした。あのまま過ぎて行くのでは余りに空しいのです。その空しさを踏まえた上で、「今度こそ戦争のない世界を再建するのでなければ、生き残った意味を否定することになる」と思いました。したがって、戦争原因の究明は、これまで考えられた以上に厳格でなければなりません。ずーっと考え続け、長く苦しむのでなければ上辺だけのものになります。
 太平洋戦争が終わったのは、私が軍隊に入って1年8ヶ月の後でありますが、私はその年の1月から最前線に出て、海防鑑の乗組員になっていました。海防鑑は次々沈んで行きましたから、私は毎日、今日が人生最後の日なのだと自分に言い聞かせていました。その時は死の覚悟だけしておれば生きているつもりになれたのですが、敗戦の日以後は実質的に生きなければならなくなりました。幸いにしてキリストを信じていましたから、如何に生きるべきかの迷いも悩みもありません。
 しかし、その分、厳しく自分が問われます。キリストの前では「汝ら悔い改めよ」との命令が突きつけられます。ところが、悔い改めなければならないことは、とにかく分かるのですが、どう悔い改めてよいかがなかなか掴めませんでした。長いことかかって、私は戦争罪責の悔い改めを深めて来ました。その内容と経過については、とうていここで語り尽くすことは出来ません。
 一言で言うならば、悔い改めとは再生でありますから、古い私が犯したのと同じ罪を繰り返さないことです。しかし、戦争中、間違いを犯した私は、同じような流れに、同じように流されて、同じ過ちを繰り返しているのではないか、と思われてなりません。だから、自分との闘いをして行かねばなりませんでした。
 私は生きて帰って来て、大学で学びなおし、それから召しを受けて福音の伝道者になり、すでに53年になりますが、私の戦争責任をキチンとさせるとは、あのような間違いを繰り返さぬ教会を建てることでなければならないと考えて来ました。
 あの戦争の中で日本の教会は罪を犯しました。あれは間違っていたのではないかという意識は当然、戦後の教会の中にありました。しかし、掘り下げが足りないではないかと私はズッと感じています。掘り下げが足りないから、自分では感じていても次の世代に伝えていません。戦争経験世代がいなくなると、若い人は戦争のことをまるで考えなくなってしまいました。戦争を潜って来た人たちは、生きているうちに伝えるべきことをキチンと伝えて置くべきでした。しかし、戦争の中で自分たちが被害者であったことしか伝えられておりません。
 ハッキリ言って、日本の国家が過ちの繰り返しをしているのと同様、日本の教会は同じ過ちを繰り返す教会になっています。体質は変わっていないのです。ただ、「これではいけないのではないか」と気付いている人は少数おります。私はその人たちと一緒に、御言葉に聞きつつ日本の教会を検討する学びを続けて来ました。これは「信州夏期宣教講座」という名前のグループであります。10年続けて来ました。
 10年学んで何が分かったか。――根本的なところで日本の教会は方向を間違っていたということが分かりました。例えば、同じキリストの教会と言いながら、台湾のクリスチャンとは一緒にならないような教会を作っていました。日本人の教会ではあってもキリストの教会であるかどうかは極めて怪しかったのです。キリストのものであるべき教会が、日本のもの、天皇のものとして取り込まれてしまったのです。バビロン捕囚よりもっと悲惨です。そして、日本のクリスチャンはその悲惨に気付かなかったのです。
 信州夏期宣教講座は報告書を出版していますが、最近号は「キリスト教と日本との衝突」という題です。これまで、衝突を避けよう避けようとして、ついに骨抜きになったことの反省が表れています。
 



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では、そのように骨抜きになって行ったのはどうしてでしょうか。悪いことをしているという意識を持ちながら、ズルズルと力に押されて妥協して行ったのでしょうか。そういう面もあります。しかし、もう一面、良いことをしているつもりで、自分から進んで悪くなって行った事実もあります。
 日本政府は明治の初めに近代化を国策として選びました。近代化とは富国強兵というスローガンでもあらわされますが、アジアの貧困から抜け出して西洋の仲間入りをすることでした。この近代化をアジアで真っ先に推進したのは日本でした。それはアジアを踏みつけて自分が上に立つことであり、これが苛酷な植民地経営となり、惨憺たる戦争災害を招き、ついに日本自身がその戦争によって滅びたのです。
 この近代化、日本ではこれを具体的には「脱亞入欧」(アジアを脱却してヨーロッパの仲間入りする)と言うのですが、この国策に最も忠実に励んだのがキリスト教会でした。だから、近代の行き詰まりと一緒に教会も行き詰まったのであります。
 私たちはこのように、キリスト教が日本に来てから如何に変質し、悪くなったかを見て来たのですが、探求を続けるうちに、キリスト教は日本に入って来る前、すでにおかしくなり始めていたのではないか、と考えざるを得ないような場面にときどき出会うようになりました。
 責任回避をしてはなりません。しかし、何もかも日本が悪かったと言っているだけでは、打開策がなかなか見えて来ないのです。日本が近代化を間違えたことは確かでありますが、アジアの他の国も近代化路線を走っています。日本の失敗のあとを見て走っているのですから、日本ほどの失敗はしていないと思います。しかし、20世紀後半、アジアの国々は産業の近代化で著しい進歩をしましたが、物欲と拝金主義が度を過ごして蔓延っています。多少修正されるでしょうが、前途は楽観出来ません。だから、他の国々が失敗しないよう、失敗の経験者が助言することは有意義です。
 確かに、キリスト教がアジアに持ち込まれた時、既におかしくなり始めていたと私は思います。キリスト教の宣教師が植民地獲得の先兵としてやって来たとは言いませんが、その宣教師のキリスト教は植民地主義と正面から戦うものではありませんでした。個人的には賛成出来ないという気持ちでも、近代国家の中でキリスト教会は植民地主義や資本主義と対決しなくてよいように毒抜きされていました。あるいは、機構の複雑化の中でダブル・スタンダードを使い分けて何とも感じないようになっていました。まさに近代化されていたのです。
 こういう近代化に立ち後れた国々が東アジアにあり、そういう国は20世紀の後半には遅れを取り戻すための大躍進をしますが、西アジアには今日に至るまで近代化に興味を示さないイスラム国があります。それらの国は最も貧しく、産業は振るわず、近代化の意欲もなく、人権思想も低調で、西欧諸国また日本からも軽蔑を受けていました。しかし、彼らは軽蔑を受けながら、西欧あるいはキリスト教諸国に追随しない自負を持っていました。この自負は近年いよいよ明確になって来ていると思います。キリスト教は厳しく問われるようになりました。その追及が全部当たっているとは言えませんが、少なくとも彼らはますます自信を持ち、キリスト教はますます自信喪失をさらけ出しています。
 自信というものを重要視し過ぎては危険だと私たちは承知しています。しかし、確かに確信することはキリスト教の生命で、その確信が大きく揺らいでいることが今日のキリスト教の大問題なのです。
 このキリスト教がどういうものとして立ち直るか、私にはまだ答えが出せません。そのうちに昨年の9月11日が来ました。アラブ世界からキリスト教は問いを突きつけられたと感じました。この問いに答えることと、キリスト教が本来のものに立ち返ることとは合致するのではないかと私は思っています。



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さて、今日はもう一つのことをお話ししようと思っていました。時間が余り残っていませんので、極く簡単に述べることしか出来ませんが、今回のマカイ講座のテーマになっている先祖崇拝の問題です。
 キリスト教がアジアに入ってきた初期、――それは16世紀のカトリック伝道ですが、その時すでにカトリック内部で先祖崇拝を是認すべきか否かの激突がありました。その争いはヨーロッパ人による、ヨーロッパの論法を用いた争いですが、彼らがアジアの問題を論じたのはヨーロッパの争いをアジアに持ち込んだということではなく、アジアのためにやってくれた論争だと思います。その論争を今引き継ぐということも十分成り立つのですが、私はそれとは別の観点からお話ししたいと考えています。
 プロテスタントがアジアに入ってきた時、海外伝道をする程の熱心さのあるキリスト教は聖書に忠実でありましたから、先祖崇拝を厳しく拒否することを教えました。その厳しい姿勢は抵抗を呼び起こしましたが、社会の近代化が進むにつれて抵抗は後退して行ったように思います。
 さて、台湾にとって直ぐの隣りは日本の沖縄県です。その沖縄県の沖縄島には高い密度で米軍基地が置かれています。沖縄の人々は毎日の生活を米軍基地によって圧迫されています。しかし、反対しても踏みつけられるばかりだと分かっているので、人々は黙ってしまいます。
 しかし、黙らない人が少数いるのです。その中でみんなに信頼されている中心人物は島田善次という牧師です。
 この沖縄県は日本で最も先祖崇拝の盛んな地です。そこで、キリスト教は沖縄県では先祖崇拝を受け入れなければ伝道できないと、多くの人は考えています。昨年、沖縄県でキリスト教会は先祖崇拝を受け入れるべきかどうかについてのシンポジウムがありました。そこでただ一人反対を叫んでいたのは島田牧師なのです。
 神以外のものを拝んではならないという戒めを忠実に守ることと人間の生活を脅かすものに断固反対することは一見別問題のようですが、同じ人間の真心と良心の叫びです。
 神のみを神とすることが貫けないなら、米軍基地を狭い沖縄に集中させている不正と闘い切れません。
 先祖崇拝に反対しなければ米軍基地への反対を貫けない、と彼が言うもう一つの理由があります。すなわち、沖縄に大部分の米軍基地を押し付けたのは日本の天皇制なのですが、その天皇制と戦う姿勢を持たなければ、基地反対を貫くことは出来ず、先祖崇拝をしていては天皇制と戦えません。なぜなら、先祖崇拝と天皇制は根が繋がっているからです。
 お断り11月27日に行なわれた講演は原稿なしでしたので、後日、記憶を辿って文章化しました。すると、いろいろと足りないところが目に付くようになりました。それで、加筆しました。分量的に倍くらいになりました。基本的姿勢は変わっていないと思います。