◆ 2008.3.20.

 

聖木曜日礼拝説教
――マルコ14:12-26によって――

 

過ぎ越しの日、弟子たちが主イエスに過ぎ越しの祝いである晩餐をどうするのか、と問うている。彼らが催促し計画を導いたと見るならば、間違いである。しかし、当日になっているのに、主は何も指示を与えておられないので、彼らが焦り出した、あるいは不安になったということは想像される。

 主が今年の過ぎ越しの際に御自身が死に渡されることを期して、エルサレムに上りたもうたことを、弟子たちは理解してはいないながらも感じており、或る恐れを心に納めつつ随いて行く。週の初め、エルサレム入城の日から連日、これまで触れたことのなかったような出来事が次々と起こって来る。弟子たちには不安もあるが期待が湧いている。しばらく後であるが、主が死から復活したまい、その40日後、弟子たちは「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのはこの時ですか」と尋ねる。使徒行伝16節の伝える通りである。その時こう言ったということは、それ以前から、その方向に向けて、彼らの思いが凝集しつつあったことを示しているのではないか。

過ぎ越しの当日もそうだった。何かが起ころうとしているらしい。しかし、何が起こるのか全然掴めていない。時間が刻々に過ぎて行く。たまりかねて、「主よ、今夜の過ぎ越しの備えはどうなっていますか」と問うた。

彼らの問い掛け、あるいは促しに幾らかの意味を持たせようと考えることは許されると思うが、それは結局、定まらぬ期待と不安について、あれこれ論じるだけで終わる。大事なことは、主がすでに用意しておられたということである。歩き出すと、備えられた道が見えて来る。少し進めば、もう少し見えて来る。こうして過ぎ越しの晩餐が用意されていることの全体が見えて来た。

そういうことが見えて来たことが、この晩餐の意味だと言うならば、それは単なる思い付きによる勧めに過ぎない。ここにはもっと大事なことがある。それが今夜、直視されなければならない。しかし、その大事なことが始まる前に、すでに用意がなされていたこと、それが主によって、他の誰も与ることなしに、なされていたことを知った驚きに、暫く目を留めることは無益ではない。

弟子たちに焦りがあり・不安があったことに触れた。それは我々に分かるのだ。すなわち、我々にも、特にこの時代の中で、焦りや不安があるからである。世界全体が不安だというだけではない。世界が不安なことは言うまでもなかろう。イラク戦争一つ取り上げても、この無意味さは説明するまでもなく分かっている。戦争の理由だと言われている事情が嘘であることも分かっている。戦争を止めさせようという声が上がり、運動が起こった。このもっともな主張があるにも拘わらず、5年経っても戦争が止まない。止めさせる力がない。理にかなったことが、理にかなわないことに打ち勝つことが出来ないでいる。我々は焦るのである。

それでも、「主の民に対する約束があるではないか」と答えることを我々は教えられている。ところが、約束のもとにある民と呼ばれる教会は、ジリジリと追い詰められ、崩壊しているではないか。主の約束が成就しないうちに、成就を待つ民である教会が、待ちくたびれて遂に消えてしまうのではないのか。「主よ、約束の成就の時はまだなのですか?」と苛立った問いを発しようとしている人が増えて行く。

説明は要らないのではないか。今夜、「来たれ、すでに備わりたり」という声を聞く時、この言葉が、このように思い悩んでいる人にこそ向けられると言っては、言い過ぎであろうが、我々にもまさに適切な言葉なのだ。――以上は今日この聖句から学ぶことの謂わば序幕、あるいは幕開き前である。

 「夕方になって、イエスは12弟子といっしょにそこに行かれた」。――ここで幕開きになった。

12弟子」と書かれているが、2人は先に行って用意をした。だから10人が主イエスに導かれてその場所に行ったとのである。その場所は秘密であった。夜、群衆のいないところで逮捕される、あるいは暗殺される危険があったから秘密にしたのである。夕方になってから、人に知られないように、主はオリブ山を出て市内に入りたもうた。

その家は主だけが知っておられた。それがどこであったか、穿鑿してはいけないわけではない。だが、今は触れない。主が知っておられて、その後に随いて行くことで我々は満足なのである。今夜も、我々が苦労して時間をやりくりして主の晩餐に集ったということは、脇に置いて、主が連れて来て下さったことだけで頭が一杯であって、それで良いのである。

これが単なる共同の食事でなく、「過ぎ越しの祭り」の正式の礼拝、旧約の聖礼典の頂点に位置付けられる儀式であったことは忘れないで置きたい。その儀式の意味を我々の聖晩餐は引き継いでいるのである。

旧約の規定する過ぎ越しの祝いは、儀式面から言えば、男子は主の前に出ること、すなわちエルサレムの宮に昇って犠牲を捧げ、祈りを捧げることであるが、それに伴う実質的な礼拝は家族の礼拝である。形としては食事である。神に供えた小羊を料理して、人が神とともに食する酬恩祭である。これは人々にとって最高の喜びである。その場で一家のあるじは、子供らに過ぎ越しの出来事とその意義とを教える。

この過ぎ越し祭りは一夜の儀式であるが、一週間に亙る除酵祭が結び付いている。除酵祭は、家中からパン種を取り除き、パンはパン種を入れないで焼く。つまり、奴隷状態から解放されて、主に仕える民となったからには、主に仕える者に相応しく、汚れを取り除かねばならないということを表わす。

したがって、新約の過ぎ越しでも、除酵祭に見合うものが結び付いていることを見落とさないようにすべきである。キリストによって贖われた者らの集まりである教会は、謂わばパン種を交えていない粉の塊である。そこで、パウロはコリント人への第一の手紙56節以下で言う。「あなた方が誇っているのは宜しくない。あなた方は少しのパン種が粉の塊全体を膨らませることを知らないのか。新しい粉の塊になるために、古いパン種を取り除きなさい。あなた方は、事実パン種のない者なのだから。私たちの過ぎ越しの小羊であるキリストは既に屠られたのだ。故に私たちは古いパン種や。また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種の入っていない純粋で真実なパンをもって祭りをしようではないか」。

主イエスの最後の晩餐が、死の前夜の訣別の食事であったと思っている人が多い。そのため、葬儀の先取りであるかのように、重苦しく、悲しみに閉ざされた会合であったかのように受け取られていることが多いのではないか。主が御自身の死について説きたもうたことは後に見る通りであり、またコリント人への第一の手紙の11章にあるように「主の死を示す」ことである。

だから、我々の聖晩餐にそのような重々しい雰囲気があるのは、それなりの意味がある。しかし、旧約の過ぎ越しは、禍いが過ぎ越したことの喜びであった。それが指し示していた真の過ぎ越しが成就したことこそが、キリストにある過ぎ越しにおいては祝われる。すなわち、旧約の過ぎ越しにおいては、小羊が屠られることによって禍いの過ぎ越すことが象徴されたのに対し、新約の過ぎ越しにおいては、イエス・キリストが屠られたもうたことによる禍いの過ぎ越しが記念される。キリストの血によって我々の罪からの贖いは完成したのである。その喜びは大きい。

ところが、この大事な祝宴に連なる12人のうちの一人が主を裏切るという事実がここに伴う。これは謂わば汚点のように付き纏う。これがなかったかのように看做そうではないかと言っても無理がある。

けれども、12人のうちの一人が主を裏切ったように、我々の聖晩餐の交わりの中からも、必ず、あるいは恐らく、脱落者が生じるのだと、確認することが命じられているのではない。ここに福音の教理の不可欠な要点があるかのように論じることは邪道である。ユダがいてこそこの聖礼典が成り立っていると考えてはならない。ユダがいなくても、主がここで言われた祝福はことごとく真実である。そして、ユダが混じっていても、それによって主の宣言したもうたことが空しくなることはない。

 それにしても、事実、脱落者や裏切り者が出たではないか、と言われる。しかし、必ず誰かが脱落すると言われたのではないのである。我々一同には「恐れ戦きて己が救いを全うせよ」との語り掛けが繰り返される。

さて、いよいよこの過ぎ越しの食事の中心部に移る。旧約の過ぎ越しにおいては、小羊の肉が中心であったが、キリストの過ぎ越しにおいては小羊ではない。パンと葡萄酒である。最後の晩餐の中で小羊の肉が食されたことは確かである。二人の弟子が先にエルサレムに入って支度したのは、先ず小羊の奉献とその料理であった。12節に「小羊を屠る日」と書かれているように、彼らは小羊を屠った。しかし、食卓に小羊の丸一匹の肉が載せられたことも、主がその肉を切り分けたもうたことも書かれていない。真の小羊が屠られるので、それの象徴になる羊肉については触れる必要がなかった。

 今や重要なのはパンと葡萄酒である。ということは、この食事に用いられる材料が入れ替わったということではない。

パンに関しては、主はパンを取り、祝福してこれを割き、弟子たちに与えて「取れ、これは私の体である」と言われた。「これは私の体」というところに力点がある。

在来の過ぎ越しは屠られる小羊の肉が中心であったと先に見た。すなわち、来たるべき過ぎ越しは、まことの小羊が屠られることによって、民らにとっての窮極の敵であるサタンの支配からの解放が神の小羊なるキリストの死によって成就するということを象徴的に予告していた。この預言は成就した。だから、先にも引いたように、パウロはコリント人への第一の手紙の57節で「私たちの過ぎ越しの小羊であるキリストはすでに屠られた」と宣言するのである。もはや小羊の肉でなく、キリストの体を受けることが大切になって来る。

また、小羊が犠牲として捧げられたことを記念して、犠牲を捧げよとは言われず、取れ、食べよ、と言われた。犠牲を捧げることは彼が果たして下さった。我々はそれを受けるだけで良いのである。では、受けて食べた者はどうなるのか? 「私の肉を食べ、私の血を飲む者は私におり、私もまたその人におる。生ける父が私を遣わされ、また私が父によって生きているように、私を食べる者も私によって生きるであろう。天から下って来たパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者はいつまでも生きるであろう」。――ヨハネ伝656節以下のみ言葉である。

葡萄酒の杯について、二つのことを今日は聞き取って置こう。第一に、「これは多くの人のために流す私の契約の血である」と言われた。

契約の血とは、旧約の契約に際して、獣の血を器に取って、半ばを祭壇に注ぎ、半ばを契約を立てる者に振り掛けるのであるが、民らに振り掛ける方の血をそう呼ぶのである。その血を注がれることによって、契約に与る者は、与る者に相応しい実質を与えられることを暗示していると読み取るべきである。この契約の血を注がれたことに対応するのが聖晩餐において「契約の血を飲む」ことなのだ。

契約というのは何についての契約かを問う必要はない。キリストとの関係、またキリストにおいて成り立つ神との関係は、全体として「契約」なのである。何らかの関わりがあるというのではない。また、単に愛し合っているという関係でなく、契約が結ばれ、その結び付きは保障されているのである。

最後にこう言われた、「あなた方によく言って置く。神の国で新しく飲むその日までは、私は決して二度と葡萄の実から造ったものを飲むことをしない」。

「良く言って置く」とは宣言また預言の言明形式である。「預言者の象徴的行為」と呼ばれる型に従っている。こういう言葉が預言された実例を私は知らないが、こう言って葡萄酒を飲み干す時、これは宣言として看做されたことは確かである。

何を宣言されたのか。訣別であり、再来の約束であり、再来の日は近いとの予告である。それ故、我々も「主は近し」、「主よ来たりませ」と唱えつつ、杯を飲み干すのである。

 

 


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