主イエスの御苦難を理解するために、キリスト者の間で通常行なわれているのは、十字架を見上げること、十字架を思う思いを深めることであろう。ゴルゴタの十字架を思うことは、主の受難の一切をここに集約するという意味であると理解される。その理解に異議を唱える必要は少しもない。ただし、主イエスの受難の他の部分を切り捨てて、金曜日の昼前から3時頃までにあったことに思いを集中することは、許されるとしても、それが主の受難の全てでないということは知って置かなければならない。だから、金曜日以外のところにも思いを向ける時が必要であろう。彼が地上で過ごしたもうた時の全てが受難であったと言っても言い過ぎではない。
受難週だけでなく、キリストの御苦難をつねに偲び続けることが重要である。さらに言うならば、キリストの苦難を事実としては認めていながら、その意義はなるべく考えないで置こうとするならば、そのようなキリスト教は命の枯渇したキリスト教となってしまう。今日のキリスト教の無力また無気力の主要な原因はここにあると断定して差し支えないと思う。
一般に、主の受難を特に記念する日は金曜日であるが、主御自身が「私の記念としてこのように行なえ」と言って、聖晩餐を制定されたのは木曜日である。だから、木曜日に主の苦難を記念することは大きい意味を持つと我々は理解している。今週、主の日に聖晩餐の制定の箇所について学んだので、今夜はそれに続くゲツセマネのくだりを学ぶことにしたい。
ところで、金曜日の受難の出来事は全ての人の目の前に、何一つ隠さずに示されたものである。それに対して、木曜日の夜のゲツセマネにおける苦しみは、弟子たち、しかもその一部にしか見ることが許されなかったものである。この違いに留意しよう。また、マタイ伝とマルコ伝のこの箇所には「私は悲しみの余り死ぬほどである」と言われた御言葉があり、ルカ伝では省略されているが、省略されて良いほどの意味の軽い言葉であったと思ってはならない。十字架を負う苦しみ、十字架に釘で打たれ、槍で脇腹を突き刺される痛みよりも、ゲツセマネにおける苦しみの方が軽かったと見てはならない。ゲツセマネの苦悩が隠されたことは無視して良いという意味ではない。それがキリスト者といわれる人々にも隠され、忘れられることになったとすれば、キリスト教は大きくねじ曲げられてしまう。
金曜日、主イエスはポンテオ・ピラトの前に毅然としてお立ちになった。ピラトは主イエスに「あなたは王なのだな」と尋問し、主は「あなたの言うとおりである」とお答えになった。我々はここに地上の王国とキリストの王国の明らかな対比を読み取ることが出来る。地上の王国は、主を捕らえ、裁判に掛け、彼を有罪にすることも無罪にすることも出来る権限を持つ者として誇っていた。その裁判を見ていた多くの人もキリストをただ被告人、敗北者としてしか見ていない。
けれども、我々は知っているが、多少の知識がありさえすれば、ピラトによって代表されていた王国がやがて屈服し、消え失せたことは確かなのである。信仰のない人でも、目に見えた権威・権勢が、はかない、殆どその場限りのものであることが分かる。イエス・キリストは必ずしも敗北者でないということまでは信仰のない人にも或る程度分かる。信仰者にとっては、十字架を負って鞭打たれつつゴルゴタに向かいたもう姿は、むしろ勝利を先取りしたお方の姿に見える。
実際、十字架の上に掲げられた罪状書きには「ユダヤ人の王」と記されていた。このように書いたピラトに、本当のことが見えていたとは思われないが、彼は自らの判断を越えた力によって、そう書くほかなかった。キリストの勝利はまだ露わではないが、御言葉を聞く者はその勝利を知っている。十字架に架けられたキリストの痛ましさを忘れて良いわけではないが、十字架にはすでに勝利の光りが指してきているのを見ないわけには行かない。
キリストの王国は無力ではないのだが、大軍団を派遣する力を持っていながら、その力を行使することはない。まるで無力であるかのように見える。だから、打たれたなら打たれたままである。キリストに従う者は、キリストがそうなさったように暴力を行使されず、悪の力に、力をもって抵抗することはされないから、敗北だと見られ勝ちであるが、必ずしも皆がそう見るわけではない。信仰のない人の間でも「敗けるが勝ち」という諺が受け入れられる。苦難を受けたことが必ずしも敗北でないことを理解する人はいるのである。
それと比べて、木曜日夜ゲツセマネにおけるキリストの御苦難は、このことだけに限って見るならば、解決の糸口の見出せない底しれぬ破綻である。――もっとも、ルカ伝では、ゲツセマネに行かれる前に、晩餐の席で、28節に、主イエスは「あなた方は私の試練の間、私と一緒に最後まで忍んでくれた人たちである」と語っておられる。さらに、次の29節では、「私の父が国の支配を私に委ねて下さったように……」と言われる。これらの御言葉は、すでに試練に勝利しておられたことを示唆するものと取るほかない。そういうことがあるが、今、ゲツセマネの場面で、勝利が分かっているにもかかわらず、如何にも危ない状況にあるかのような芝居を演じておられたと取ってはならない。真実に危機に曝されておられた。
主は祈って言われた、「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯を私から取り除けて下さい」。
主の受けておられる試練は平易な言葉で説明出来るものではない。ただし、難しいから、これは奥義であるとして、説明の及ばないところに棚上げして置こうと言うのではない。聖書の丁寧な釈義と神学の解説で、難解なところも解くことが出来る。だが、今日はそれをしないで、難しいところは丸飲みして置いて良いであろう。
主イエスにとって危機があっただけではない。この祈りを聞けば我々も動揺する。もし、ここで祈られた通りに、杯が取り除けられたならば、目出度し目出度しということなのか。そうでないことは言うまでもない。もしそうなら、我々を罪の中から贖い出す唯一の道はなくなってしまうのである。
この試練は大きかったけれども、解決はすでに約束されていたのだ、と言うことは容易に出来る。それは答えとして決して間違っていない。すなわち、すでに旧約の預言はキリストの勝利を予告していたのである。イザヤ書53章は救い主の苦難を告げるとともに、その苦難の克服も予告された。「彼が自分を、とがの供え物となす時、その子孫を見ることが出来、その命を長くすることが出来る。かつ、主の御旨が彼の手によって栄える」。とはいえ、試練がなかったのと同様であると見てはならない。
「御心ならば、どうぞ、この杯を私から取り除けて下さい」という祈りには、直ちに「しかし、私の思いではなく、御心が成るようにして下さい」との優先する祈りが付け加えられるから、「結論は初めからついていたのだ」と言うことは、真実を語っているかのようであっても、現実にある「試練」というものを、まるでないかのように安易に考えるという罪を犯すことになる。
試練は、結果から見て、勝利を確証するためのものであった、と言える場合が少なくない。全ての試練がそうであって欲しいと我々は願う。しかし、試練が確立のためでなくて破滅に終わる場合はある。その結果がどうなるかは我々には分かっていない。試練に勝つという確信は大事であるが、試練というものが本当はないのだと肚の中で思っている慢心は危険である。そして、確信と慢心は容易に区別出来るものではない。だからこそ試練の試練たる意味がある。
我々の救い主が試練を受けたもうたということは素朴に信じようとする人には意外であろう。しかし、主は御生涯の終わりの時期だけでなく、公的な務めを始めたもうに当たってもサタンの試練をお受けになった。それらの試練を主が軽々と突破したもうたように見えるかも知れないが、例えば40日の断食ということだけを取り上げても、並大抵のことでなかったことは分かる。
試練というものは、激しい戦いによってこそ突破出来るものであり、主イエスは正しく激しい血みどろの戦をされ、こうして勝利に至りたもうたのである。我々は自分では戦いをせず、戦いの結果である勝利に与っているだけであるため、戦いそのものについては理解が出来ていない。それが咎められるとは言えないとしても、試練との戦いの苛烈さについては知っていたい。我々には試練が何もないわけではない。不注意に過ぎてしまうことも多かった。
勿論、我々にとっては試練はまともに襲い来ると到底耐えられないので、避け所に隠れてやり過ごす場合が多い。しかし、試練に注意し、これを深く知ることは自分にとっても、また兄弟たちを助けるためにも有意義である。
主はゲツセマネに着いて先ず言われた、「誘惑に陥らないように祈れ」。この「誘惑」は「試練」と同じ言葉である。主が試練を受けたもうことと弟子たちが試練を受けることとが同等であるというのではないが、或意味で重なる部分がある。そして試練に対する主の勝利に我々も与ることが出来る。
現在は悪しき時代、危機の時代と言われている。試練の襲いかかって来ている時である。その危機はいっとき耐え忍ぶならば克服できるというようなものではない。出口の見えない長いトンネルに入ってしまった。我々の経験を言うならば、直ぐ抜け出ることが出来ると思っていたトンネルは、想像を遥かに越えて深かったということにようやく気付き始めた。その時代のなかで今この年の受難週を迎えたのである。この年の受難週はこれまでに増して深い思いをもって迎えたい。
我々がキリストに寄り頼まなければならないことの意味が、ようやく分かり始めたと言えるかも知れない。たしかに、我々はこれまでキリストの御苦難について浅い理解で済ませていた。それではいけないということにだんだん気がつくようになって来た。
キリストの御苦難の深みをさらに深く掘り下げよう。そして、キリストの勝利が我々の勝利となっていることをさらに固く確信しよう。