回顧と展望2002


昨年の初め、21世紀初頭の年が不幸な年になるのではないかという漠然とした不安が多くの人の胸にあった。そして実際、予感通りになった。我々はその前年から、この時代を「崩壊の時代」であると把握し、我々の教会がそのような自覚を持ち、そのような時代に対して責任を果たそうとする群れであることを伝道会を通じて外部に表明するようになった。我々はこのような時代の中で神に仕え、この時代の重圧に耐えて生きる隣人に奉仕し、そして我々自身は崩されずに立ってその務めを果たすよう祈り求めて来た。 
すでに進行していた時代の「崩壊」は、昨年、全ての人の目に露わになった。9月11日の世界貿易ビルの崩壊は、局部的な事件に終わるものではなく、世界の連鎖的崩壊の象徴である。アメリカはこのテロに対する報復として挙国一致体制に支持された戦争を始めたが、犯人逮捕の目的は達せられぬまま、最も発達した兵器を用いて、徒に多くの無関係な市民を殺傷するに終わった。「罪なき者の血を流すな」との神の命令は無視された。世界は癒されず、却ってその傷を深くし、痛みが昂じて行くばかりである。 
ニューヨークにおいて起こったこの出来事は、世界の予想しなかったものであるが、我々が心配していたテロ事件は、日本において、右翼によって、平和を願う市民を標的として行なわれるかも知れないものであった。教科書不採用や、靖国神社公式参拝への国内外の反発によって行き詰まりを感じていた日本右翼が、テロによって反対意見を封殺することはあの時点で十分あり得た。かねてから右翼の脅迫を受けていた我々はその危険を予感したが、テロに対する世界的な怒りの潮流を前にして、彼らのテロ志向は暫時ひるむほかなかった。しかし、欲求不満を暴力によって表明する以外の術を知らない思想の貧困が世界に満ちている。テロが一時的に抑圧され、またテロが採算の合わない手段だという弁えが今のところ優勢であるが、暴力の根は断ち切られていない。一方、露骨な形でない暴力が、各国政府や大資本や大組織によって、個人の人権に対して公然と行なわれており、それは殆ど何の抑制も受けていない。 
9月11日の傷がニューヨークの一劃に局限され、悲しむ者と共に悲しむ交わりの輪を世界に拡げて行けば、傷はやがて癒されたのであるが、「報復」という政策によって不幸は飛躍的に拡大され、痛みが止めどなく増殖する結果になった。日本もこの無意味な報復戦争に思慮を欠いたまま巻き込まれたため、無意味なものを意味づける新しい偽りをはびこらせることになっている。こうして、無意味さと、その無意味を隠蔽する作り事が世界に蔓延するに至った。 
真実を語ることはますます難しくなって行く。虚偽に対して「ノー」と言うことは、今ならまだ出来なくないが、真理は「ノー」という形だけでは表現しきれないのであるから、反対運動だけでは真理のための戦いが矮小化されて、真理そのものの全貌が見えなくなり、真理に即して考えることも出来なくなる日が来るであろう。 
崩壊は世界の至る所で起こっているが、特に日本の言論と思想と教育の崩壊が大きい。 
戦前の思想の自由の破綻よりももっとひどい崩壊が起こり、その結果は第二次世界大戦の悲劇にまさる惨憺たるものになると思われる。すでに現われている変化として、沈黙、すなわち語るべきことからの逃亡がある。語るべきことを言わせない圧力が教会の中にも入って来ている。崩れて行く思想界に対して我々が責任ある指導をしなければならないとは余りに大袈裟な言い方であるが、少なくとも、自分自身の考えを時代の嵐に巻き込まれないで維持するようにして置かねばならない。 
2さらに、キリスト教会が崩落し始めている現状に触れないわけには行かない。福音の真理に対する忠誠心を欠いたまま、「伝道、伝道」と呼号し、平和でないのに「平和」、「平和」と語り、愛がないのに「優しさ」を語り、その甘美な誘いに応じる人だけを幾ばくか集める成果に満足し、外面の維持を図っていた諸教会は、教勢低下の事実の前に確信を喪失し、狼狽に陥った。「伝道、伝道」と呼ばわれば幾らかの活気が取り戻せると思っている人はまだいるが、その陳腐な発想によって教会はますます萎縮し、霊的に涸渇して行くのである。 
我々は日本キリスト教会において主の召しを受け、日本キリスト教会をキリストの教会として建てることが自らの使命であると心得て励んで来たが、この教会の志の低下と崩壊は目に余るものがある。戦争中の教会体制からの脱皮を50年前に行なったはずの日基は、信仰告白の研鑽を怠ったため、今その志と同一性を失なっている。日本キリスト教会の中にも憂いと志を同じくする群れと個人は勿論あるが、日基というだけで同一と看倣すことがもはや出来ないようになった。 
かつて旧約の時代、神の民であると自認し、預言者を通しての神の警告に耳を傾けず、恵みのうちにあることに安心しきっていたイスラエルの民は空洞化して崩落し去った。 
こうして第一世紀以来「キリスト教会」と称する新しい群れが起こったが、その名によって永続性が保証されているわけではない。裁きは神の家から始まる。神の言葉を逆用して教会の温存を図ることは出来ない。教会の歴史は崩壊期に入っている。 
多くのクリスチャンの頭にあるのは、教会が辛子種から芽が出て木になって行くように成長するというイメージである。信仰者の数的増加は当然のことと考えられていた。それが教会を判定する唯一の尺度であった。しかし、主イエス・キリストが神の国を辛子種の譬えによって語りたもうたのは、地上における教会の量的増加を教えるためであったのか。 
教会が雪だるまのように大きくなった時はあるし、今後もあって不思議ではない。しかし、教会の成長の本質はキリストの体としての、またキリストに向けての成長である(エペソ4:15)。この本来の意味の成長を取り違えて、統計上に現われる増加を成長と呼び、ただ人数を増やすことのみを追い求める考えが19世紀に盛んになったが、20世紀後半には破綻した。崩壊して行く世界の中で地の塩であろうとしない信者を増やしても、そのような群れは実りなしに崩れて行くのみである。こういう崩壊は聖書の中でしばしば警告されており、したがって十分予想できたが、予想通りのことが起こっている。我々は初めから今日の崩壊を予測出来る程に賢明ではなかったが、御言葉に忠実に生きることを願い求める間に、多数者の教会とは異なる歩みをせざるを得なくなり、すでに44年の歩みを重ねて来て、少しずつ物が見えるようになった。だから、崩壊の道を避けることが出来た。 
3しかし、神は教会の崩壊の中にも、残りの者を残したもう。残りの者にこそ使命があり、そこに希望がある。そういうことをハッキリ打ち出さねばならない時が来た、と我々は御言葉から学んだ。これが昨年の学びの纏めである。学んだところに従って、我々は「残りの者の教会」を建て上げ、これを少数者の教会に相応しく整え、残りの者の教会の使命を遂行することを願うようになった。 
「残りの者」という言葉が我々の間で何かにつけて語られる機会はこれまで少なくなかった。聖書の中で大事な言葉だということは分かっていた。だが、具体的に我々が残りの者の教会を形成して、残りの者の教会の使命を果たして行くべきことについて考えを詰めることはこれまでなかった。時代が破滅的になるまで考えを十分深めるなかった愚かさを認めなければならない。 
教会が崩れた後に「教会の残りの者」が生き残るという事実もあるが、多数者の教会が崩れ去った後に「残りの者の教会」が神の憐れみによって立ち現われるという事実もある。この二つのことは、共に神の業によって残るのであり、神の力と真実と憐れみの現われであるから、切り離して考えるべきでない。ここには「隠された神の選び」という真理がある。 
ではあるが、具体的には、残りの者の教会が残されるという第二の事実をめぐって考えることが課題になる。すなわち、憐れみによって残されたのであるが、その憐れみについて思いめぐらすだけでなく、残された者に神の委託があるということ、したがって委託を担う者として整えられなければならないことを考えなければならないのである。 
これまで我々を支えて来た教会論は、ヨーロッパの教会において、特に16世紀の宗教改革の中で、考え抜かれたものの継承である。それは多数者の教会を目指すものでは確かになかったが、我々が具体的に取り組まなければならない少数者の教会を想定したものでもなかった。したがって、今我々が考えて行かねばならない問題は、昔の人の考えたこともない要素を含むであろう。それでも、基本線は変わらない。基本線は歴史を一貫する神の計画による一貫した神の民の営みである。それ故、我々の教会はこの揺れ動く時代の中でも、基本線においては変わらず、一般に「長老主義」と呼ばれて来たものを、より深い意味で捉え直しつつ踏襲する。牧師、長老、執事の三職の重要性は変わらない。 
教会は移り行く時代に直面しつつ生きるのみでなく、世の終わりを目指しており、世の終わりに至るまで存続させられることを忘れてはならない。世の終わりにキリストが再び来臨したもう時、そこには、花婿の到来を灯火をかかげ、麗しく装いして待つ乙女たちのように、完成された御業の故に彼を讃美するために待つキリストの民がいなければならない。その時まで耐え忍んで待ち、来たるべきお方を迎えて、讃美することが教会の業の完成である。勿論、教会がその時まで試練に耐えて存続するのは神の御業であるが、教会もそのことを心得て、終わりまで残る教会となるようにするのである。その時までの見通しを持たないで、刹那的な生き甲斐の満足を求める集団は、正式に教会と言えるかどうか疑問である。 
そういうわけで、現在のメンバーが死に絶えた後にも、数の多寡は問わないとしても、キリストを迎える務めを引き継ぐ世代が立ち続けるようにしなければならない。教会は少数者ではあっても、一代限りで途絶えるのではなく、代々受け継ぐべき務めを持つ。 
それは信仰の告白と、愛の業と、希望の讃美に集約される。 
今年も暗黒は続くであろうと人々は予感し、我々もそう予想している。神は我々にこの悩み多き時代の中を歩ませるご意向であるから、その御旨に従って行きたい。 
日本キリスト教会の現状を我々は今ではかなり手厳しく批判するようになったが、これは初めの志に立ち返れとの忠告であって、この教会の解体を図るのではない。個人が単なる個人として神の前に立つのではなく、他の人々との結びあってこそ神との交わりのうちに生きるように、個々の教会も単独では神の前に立たず、他教会との交わりのうちにおいてこそ立ち得るのである。 
しかし、今日の崩壊状態の中で我々は日基内の交わりについて以前よりもっと鮮明に信仰告白的立場を堅持しなければならない。名目だけ日基の教会は崩れて行くと見るからである。 
4残るのは、我々が本当に崩されずに生きているか、という問題であり、それに答える証しである。崩壊の時代とともに我々の教会も遅かれ早かれ崩壊するのか。それとも、我々は「残りの者」として生き抜くか。 
このことでは二つの面から考えなければならない。一つは、個々人が試練に勝ち抜いてその信仰生活を全うすること、すなわち聖徒として全うされることである。もう一つは、教会が教会としての体制を保ったまま、崩れずに残ることである。この二面がともどもに重視されねばならない。 
聖徒を全うして務めの業を行わせ、キリストの体を建てさせるために、使徒、預言者、牧師、教師が立てられたと教えられているが(エペソ4:11-12)、この崩壊の時代に聖徒を全うする務めが一段と重要になっていることを我々は知らなければならない。主は御自身に属する者を終わりの日まで一人も失わないで全うすると約束し、その約束のために牧師を立てておられるのであるから、その務めにある者はいっそう目覚めて務めに励まなければならない。 
具体的な問題を挙げる。
 
1)現在の牧師の職務が続けられる期間は確実に短くなっている。牧師自身の判断としては、今日の厳しい状況の中で、老人の知恵が必要とされることも増えているし、牧師の絶対数も不足しているから、1日でも長く務めを行なわねばならないと決意している。 
しかし、物理的な能力は日々少しずつ衰えているから、他の奉仕に割く力を削って御言葉の奉仕に集中しても、現在の水準を維持することが出来ない日が必ず来る。そうなった時には、名目上の牧師職に留まるべきではないと判断すべきであろう。 
後継者を得ることは必ずしも容易ではないが、主が東京告白教会の存続を必要と認めたもう限り、必ず後任の牧師を遣わしたもうと信ずべきである。ただし、その牧師が現任地を離れるまでに若干の時間を必要とする場合はあるであろう。その場合には説教を長老が臨時に代行することを覚悟しなければならない。 

2)教会は組織を守らなければならないと考えられて来た。その考えが間違っているとは言えない。しかし、教会形成を強調する教派においては往々にして生ける体としての教会を把握せず、また、体の各部を十全に建て上げることを疎かにし、組織・体制としてしか教会を見ない風潮があった。その結果、人間形成が手抜きされ、人間不在の教会が生じる。その弊害が今日露呈されている。教会の崩壊は教会の柱となるべき器の貧弱さにもよると思われる。そして、人材の貧困は現代における人間の崩壊と結び付いていると考えないではおられない。 
我々は品性を磨くことによって己れの価値を高めようとは思わないし、良き品性によって救いに到達することを願うものではなく、まして大人物や英雄の出現を待望する者ではないが、委ねられた職務をより落ち度少なく完遂するためには、各々自分の預かる器を磨かなければならない。磨くべき第一の道具は言葉である。空疎な言葉を語らないようにすることである。 

3)ディアコニアが日本キリスト教会の中で関心を持たれた時期があったが、近時、急激に熱が冷めた。これは福音の宣教という基礎を固めないままの、他国から仕入れた新しい情報への興味に過ぎなかったからであると思う。我々の教会においては基盤が違っているからディアコニアの関心は深められつつあると思う。 
我々がディアコニアとして考えている領域のある部分は教会外のNGOも携わっており、我々の働きがそれらと重なるのは当然である。しかし、共通の働きをしつつも、キリスト者が特に深く関わらなければならない領域があると思われる。すなわち、人間と事柄への深い洞察であり、そのことは教会外のNGOも認めており、教会に期待されている。これは教会に与えられている財産であるから、埋もれさせないようにし、磨き上げて用いなければならない。 
ディアコニアを国際的視点で考えねばならぬことは、海外の教会との交わりによって、数年来気付かせられているところである。 

4)祈る教会としての自覚は近年深まって来ている。祈りと実践が相反するものであると見る人は多いが我々の経験では祈りが実践の力である。今年は従来以上に祈りを盛んにして行きたい。

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