◆受難週の説教2002.03.24◆

――――マタイ26:20-30によって――


最後の晩餐の席上、主イエスは12弟子の一人であるイスカリオテのユダが御自身を裏切って、祭司長、律法学者、長老たちに引き渡すことを明言された。「裏切り」というこの忌まわしい出来事は、厳粛に回想すべき最後の晩餐の思い出をぶち壊す。しかし、初代教会の時から、教会は代々、主の死を記念するごとに、併せてこの忌まわしい出来事を語り伝えて来たのである。この事実を揉み消したり、省略したりすることなく、必ず思い起こすべきこととして扱ったのである。すなわち、聖晩餐を祝うたびに、「主イエス渡されたもう夜」と唱えられたが、「渡される」とは、引き渡されるという意味であって、裏切られるとも訳される言葉である。21節から頻繁に使われる「裏切る」という語はまた「渡す」という意味でもある。45節に、「見よ、時が迫った。人の子は罪人の手に渡される」と言われる「渡す」である。
 しかも、主イエスは裏切りのことを全部知っておられた。誰が裏切るか。いつ裏切るか。どういう方法で裏切るか。どういう準備がされているか、をことごとく知っておられた。26章の初めにあったように、福音書の受難の歴史は、通常、「人の子は十字架につけられるために引き渡される」との主イエスの予告の宣言から始まる。26章2節で主は厳かに申し渡される、「あなた方が知っている通り、二日の後には過ぎ越しの祭りになるが、人の子は十字架につけられるために引き渡される」。「引き渡される」という言葉がここで非常な重みを持つことを見なければならない。
 次にこの「引き渡す」という言葉が出て来るのは、14節から16節までのくだりであるが、イスカリオテのユダが裏で祭司長と引き渡す取引きをしている。そして、その裏のことを主イエスは知っておられる。
 それは単に起こるべきことを知り抜いておられたという超能力、また達観しておられた人柄を指すのでなく、進んで引き渡される場面に踏み込んで行かれたのである。それはどういうことか。第一に、これは聖書の預言の成就である。24節で主は、「確かに、人の子は、自分について書いてある通りに去って行く」と言われるが、書いてあるとは聖書に書いてあるということである。また、26章の55節にあるように、主は捕らえられる時、群衆に言われた、「あなた方は強盗に向かうように、剣や棒をもって私を捕らえに来たのか。私は毎日、宮で座って教えていたのに、私を捕まえはしなかった。しかし、全てこうなったのは、預言者の書いたことが成就するためである」。
 第二に、これが主御自身の計画であったことを見なければならない。ヨハネ伝6章70節で、「あなた方12人を選んだのは私ではなかったか。それだのに、あなた方の一人は悪魔である」と言われた。これは選びに失敗して、悪魔を入れてしまったとか、あるいはまともな者を入れて置いたのに悪魔になってしまった、という意味でなく、初めから、計画的に、一人、悪魔を入れて置いたという意味である。
 さらにハッキリしているのは、ヨハネ伝10章18節で学んだ教えであるが、主イエスは言われる。「誰かが私から命を取り去るのではない。私が自分からそれを捨てるのである。私にはそれを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これは私の父から授かった定めである」。主は御自身の権能において死を受け入れたもうた。
 受難週に主イエスは連日、昼間は宮で説教しておられたが、夜が来ると12人を連れてエルサレムを出てオリブ山に行き、山の一角、ゲツセマネという場所で夜を過ごされた。
 その地点は12人の弟子以外は知らない。つまり、身を隠したもうたということである。
 夜のうちに暗殺あるいは拉致される危険があったからである。この夜、イスカリオテのユダが武装した群衆の一団を案内してそこに来たのは、そこで逮捕することを計画していたからであった。
 逆に言うならば、もし主がこの夜ゲツセマネに行かれず、別の地点に行かれたとすれば、ユダと祭司長の計画はスッカリ狂い、逮捕は失敗に終わったのである。しかし、主はみすみす捕らえる者の手に落ちることを知りながら、いつものようにゲツセマネに行きたもうたのである。いや、ゲツセマネに行ってユダの来るのを待っておられた、と見た方が良い。「見よ、私を裏切る者が近づいた」と46節で言われるのである。
 誰も予想しなかったが、主は定まった道を知っておられ、その道を一筋に歩いて行かれる。その道は十字架の道であり、復活の道である。引き渡しがなかったならば、ユダヤの議会による裁判も、ピラトの裁判も開かれなかったであろう。人々は彼を石で撃ち殺したであろうが、裁判抜きでそれをしたのである。すなわち、当時のユダヤの政治的秩序に即して言えば、ローマの法律による裁判を経なければ、死刑を執行してはならないことになっていた。
 主イエスの死が、無秩序に巻き込まれて殺された事件や事故ではなく、法的手続きとして完璧とはもちろん言えないのであるが、一応、地上のユダヤとローマの法秩序の中で執行された死刑であることに留意する必要がある。地上の法律は罪なき者を罪に定めてはならないことになっている。それが全く機能しなかったという点も見なければならないが、では、正常に機能していたならば良かったのかというと、そういうことでもない。要するに、ここで地上の法秩序を遥かに越えた神の義の領域が見えて来るのである。
 我々もその領域に入って行かねばならない。
 キリストが地上の法廷で有罪と定められたもうたことを見るとき、我々はそこから目を高く上げて、天の法廷を思い見なければならない。救い主が地上の法廷で刑を宣告されたのが確かであるだけそれだけ、我々は確かに天の法廷で無罪を勝ち取ったのである。
 さて、裏切りというものは人間社会の中では、如何なる意味でも憎まれる極めて忌まわしい行為であるが、その忌まわしさを論じていても全く無益である。我々はここで、自分自身が主を裏切ることになりはしないか、と不安になるかも知れない。そういう不安に陥るのは自分自身についての意識が高いからであると思うことは無意味である。ヨハネ伝17章12節で、主イエスは、「彼らのうち誰も滅びず、ただ滅びの子だけが滅びました」と言っておられる。だから、我々は我々の滅びのことで取り越し苦労をするのでなく、救いに目を向けなければならない。
 「渡された」とは、ユダが手引きして、捕っ手に主イエスを引き渡したという面もあるが、もう一面、主御自身が罪人たちの手に御自身を渡したもうたことを見なければならない。45節で読んだ通りである。そこでいう「罪人」とは誰か。主イエスを捕らえに来た人たちを指すと先ず考えて良いであろう。45節で「時は迫った」と言われたのは逮捕される時という意味が先ずあるに違いない。しかし、それだけではあるまい。もっと深く読み取ろう。我々は、自分が罪人であることを知っている。それならば、私の手に主が渡されたもう、と理解することが出来るのではないか。そのように読み取るのは45節の本来の意味ではない。しかし、そう読み換えても間違いはないではないか。むしろ、そこでこそ主の死の本当の意味が明らかになるのではないか。
 全ては我々の理解力を越えている深淵である。すなわち、説明されて分かるようなものでなく、たとい的確に説明されて良く分かったとしても、それだけでは何にもならない。これは分かる分からぬというよりも、信ずべき奥義なのである。我々は賛嘆しなければならない。もっとも、分からなくても良いと言うべきではなく、この奥義は必ず分かるのである。それがとりもなおさず救いの確信である。
 ただ、我々は自分が罪人であるということはハッキリ掴まなければ、「罪人の手に渡される」ということの意味が失われてしまうのである。
 イエス・キリストが我々のために十字架につけられたもうたことを我々は皆知っている。しかし、そういう歴史があったことを知っているというだけでは、余り意味がない。
 お話しを知っているだけである。それが我々にとって何であるかを把握しなければならない。ゲツセマネとゴルゴタの事件がどんなに感動的に捉えられたとしても、感動し、憧れ、思い起こしているだけでは、永遠の救いの保証にはならない。キリストは向こう側に留まっておられるからである。救いは向こう側にあるということが分かっているだけである。向こう側の救い主が、こちら側に来ておられる現実がなければならない。キリストが私の手に渡されなければならないのだ。
 それでは、主キリストが罪人たるこの私に渡されるとは、どういうことか。時間的にも空間的にも遥かに隔たった所におられるキリストが、どうして私のものとなりたもうのか。それはひとえに、聖霊においての出来事である。我々がどんなに努力し修練してキリストに近づこうとしても、2000年の隔たり、また天に行きたもうた彼と地上に残る我々との天地の隔たりを、どうして乗り越えることが出来るか。隔たりが乗り越えられて、主と共にあるように思い込むことは出来るかも知れない。その思い込みに自己陶酔することは出来るかも知れないが、思い込みに過ぎないのは明らかである。そこには確かさは何もないのである。
 こちらから行く道はないのである。だから、そのためにこそ彼は私に聖霊の派遣を約束し、約束を信じて求めつつ待つ者にそれを与えたもう。聖霊が与えられることは事実であって、思い込みではない。この聖霊においてこそ実在のキリストは私のものとなり、私はキリストと共に生きる者となり、キリストの十字架は確かに私のものとなり、キリストの持ちたもう永遠性と一切の祝福はすべて私のものとなる。
 マタイ伝の最後の晩餐の記事にはないが、ヨハネ伝の最後の晩餐における告別説教のなかでは、聖霊の派遣の約束が重要な要素になっている。今日の聖書箇所には書かれていないことであるから、今はそのことに僅かに触れるだけに留めるほかないが、教会の教えであるから、心に深く刻んで置こう。
 そのように、聖霊の派遣についての御言葉は、今日の聖書箇所の中にはないのであるが、主イエスが御自身を我々に引き渡したもう御言葉があるから、ここは学んで置かねばならない。それは26節以下30節までの記事である。
 これはこの夜の食事の一部始終を述べたものではない。この食事は17節と18節ですでに語られている通り、過ぎ越しの祝いであった。だから、日没から夜半まで延々と続いたのである。その中のパンを割いて食べることと、杯を祝福して皆で飲むことだけがマタイ伝では語られる。パンが種なしのパンであったことについても、小羊の肉料理についても、苦菜についても、当然あったのだが、書かれていない。
 ルカ伝では、杯を飲むことが前後2度あったように書いてあるが、当時のユダヤの儀式では確かにそうなっていた。ルカ伝では一回一回の杯ごとに主の言葉があったが、他の福音書では杯を一回に纏めている。どちらが事実に近いのかと問題にすることは、今日のところ必要がないから、避けて置くことが許されるであろう。
 もう一つ、注意を促される点は、マタイの記事では、マルコもそうであるが、「私の記念としてこのように行なえ」という御言葉はない。したがって、マタイもマルコも最後の晩餐が後の教会における聖晩餐と直結していると主張してはいない。
 パンを配る際の「私を記念するためにこのように行ないなさい」という御言葉は、福音書ではルカ伝にあるだけである。だからといって、我々が聖晩餐を行なう時に読まれる主の言葉を信憑性のないものと見るべきではない。これが主の記念であることは事実なのだ。パウロがIコリント11章23節で、「私は主から受けたことを、またあなた方に伝えた」と言う通り、パウロが受け継ぐ以前に確立していたものである。したがって、我々が今日この後で守ろうとしている主の晩餐は、主の御言葉に基づいて、主の死を記念して執り行うものである。端的に言うならば、主が罪人である私に引き渡されたもうたことを、私はここで確認するのである。
 26節は記している、「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれを割き、弟子たちに与えて言われた、『取って食べよ。これは私の体である』」。
 これは過ぎ越しの祭りの守り方に則ったものであろうと思われる。過ぎ越しは初めから家族単位で守るようになっていた。一匹の小羊を食べきれない人数の場合は他の人を交えて人数を増やした。人々はエルサレムに上り、当然、神殿に礼拝に行ったが、過ぎ越しの祭りは神殿の建設以前からのものであるから、過ぎ越しの祭りは神殿と関係なく家族で行なわれた。家長が式を司った。
 出エジプト記12章に過ぎ越しの由来と、その守り方の規定がある。家族ごとに小羊一頭を屠って、その夜のうちにそれを食べ尽くす。その食事が過ぎ越しの儀式であって、家の父は子供に過ぎ越しの由来を教えて聞かせる。主イエスと12弟子の一団は主イエスを家長とする一家であった。この食事の中で教育が行なわれたのである。すなわち、過ぎ越しが成就したと教えられたのである。
 「取って食べよ、これは私の体である」と言われた。「取れ」とは私の体を引き渡すという意味である。「人の子は罪人らの手に渡される」と言われたこと、これは歴史の中でただ一回起こった出来事ではあるが、それは彼を信ずる一人一人においても起こる。
 それによって、救いが現実となる。
 ただし、聖晩餐の度にキリストが私のものとなる出来事が起こるということではない。
 聖晩餐はそのことが既に起こったことを確認するのだ。我々の信仰はつねに揺さぶられているから、確認は繰り返されなければならない。だから、聖晩餐が繰り返し行われないと、信仰の現実性が稀薄になる恐れがある。
 パンがキリストの体と呼ばれることについて、昔から沢山の議論がなされたが、そのことも今は省略して置こう。主イエスが「私の体」と言っておられるのは、「私」と言われたのと同じであると単純に受け取って置く。過ぎ越しの祭りの中心は小羊の肉を食べることであるが、御自身の体をそれと並べておられる。バプテスマのヨハネがキリスト証言をした時、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言ったが、主も暗に御自身を小羊として示したもうた。
 次に杯である。「また、杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、『皆この杯から飲め。これは罪の赦しを得させるようにと、多くの人のために流す私の契約の血である。
 あなた方に言っておく、私の父の国であなた方と共に新しく飲むその日までは、私は今後決して、葡萄の実から造ったものを飲むことをしない』」。
 罪の赦しはキリストの福音の核心部分である。その確信もしばしば揺らぐのである。だから、罪の赦しの確かさは繰り返し繰り返し証しされなければならない。
 また、主は「父の国で新しく飲む日」のことを言われたが、次回にあなた方と一緒に葡萄酒を飲むのは神の国においてであるという意味である。それは、地上で杯を飲むことが神の国に直結していることを示すのである。それは我々の守る聖晩餐においても同じである。

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