◆元旦礼拝説教2010.01.01

――              エレミヤ29:1-14によって――

 

 
 エレミヤ書29章は、預言者エレミヤが、エルサレムからバビロンに捕らえ移された人たちに書き送った手紙である。エルサレムはバビロン軍によって攻撃されて降伏し、王も主立った人たちも、また高度の技術を持つ職人たちも、人質としてバビロンに連れて行かれた。これが紀元前597年の第一次捕囚である。

 このあと、紀元前582年に第二次捕囚が行われる。人質が取られ、ユダ国は反抗出来なくなったはずであるのに、ユダはまた反抗し、エルサレムは徹底的に壊滅し、人々は貧民を除いて全て捕囚となった。

 今日エレミヤ書から学ぼうとしているのは、第一次捕囚の時にエレミヤがバビロンに送った手紙である。新しい年の開けた朝に聞くには場違いではないかと感じる人がいるかも知れない。

 しかし、我々が現在おかれている状況は、いわば「捕囚」のようなものではないか、と言われるならば、その通りと感じないではおられない。自分の国で暮らしているのではなく、敵の国に囚われて来ているようなもので、敵の監視のもとに置かれ、言葉も行動も制約されているのではないか。

 旧約の民の歴史の中で、70年に亘ったバビロン捕囚を知らない人はないが、これは思い起こすのも疎ましい出来事と見られ、その経過を聖書の中から学びなおすことは余りされていない。旧約の歴史全体の中でのバビロン捕囚を取り上げれば、そこから学ぶべきことは随分大きい。例えば、イスラエルの民の間で歌われていた詩篇、これはずっと昔から歌われたものだが、バビロン捕囚の際にまた新しく作られて伝えられたものが多く、バビロン捕囚という経験を経ることによって、格段に深みを増したことに気付いている人は少なくないであろう。にも拘わらず、バビロン捕囚のイスラエル精神史における意味を説く人は、ユダヤ人の中には余りいない。

 主の民が地上に建てた王国、その繁栄の記録は殆どない。事実そのようなものは、あっても忽ちに消え失せた。滅び去った王国の回復を約束する預言は多い。それは聞く者を大いに勇気づける。旧約のそのところをシッカリ讀んでいてこそ、約束されていたキリストを正しく捉えることが出来るから、キリスト者はそこを好んで讀む。

 しかし、来たるべき回復と繁栄の預言から受け取る動機付けは大いに意味あるものであるが、具体的にそこから学び取る知恵、生き方は余りない。描かれていても、旧約の歴史はキリストの来臨に焦点を置いていて、その来臨は新約聖書が描くほどには印象的ではないので、我々を振るい立たせる効果は乏しい。

 それと比較すれば、バビロン捕囚に関する記述、捕囚の民に与えられた指示や警告はそのまま我々にとって役に立つのである。何よりも、現在の我々をバビロン捕囚の民と同定することに大きい意義がある。旧約聖書しか讀まないユダヤの民は、バビロン捕囚の事実を重く受け止めているが、記憶するよりは忘却したい屈辱の歴史であるから、その事実の意義を積極的に掘り下げるようには気持ちが働かないらしい。

 しかし、我々キリストの民の間ではバビロン捕囚の出来事は有効な教訓として生きていて、今もバビロン捕囚を或る意味での現実として掘り下げられ、それが信仰の修練として生かされるのである。

 イエス・キリストは「時は満ちた。神の国は来た。悔い改めて福音を信ぜよ」と宣言された。これは最も重要な宣言であるから、我々は繰り返し学んでいる。何よりも神の国は来たのである。架空のもの、空想の中に留まるものでなない。彼方に憧れるものでもない。現実に来ているものである。だから、我々は神の国の民として行動しなければならない。我々の為すべき事の根拠はハッキリしている。我々の言うこと、為すべきことは、もし我々が神の国にいるとしたら、こうするであろう、という架空の原理に立っているのではない。

 このことは確かである。いや、神の国は来ていないではないか、と反論する人がいることを我々は知っているが、「神の国は来た」と言われたところから神の国が始まったと捉えていないならば、キリスト教は単なる空想である。せいぜい一つの思想に過ぎない。

 しかし、神の国が来ているにしては、おかしいことが多過ぎると思う人はいるであろう。そう考える人に譲歩するわけではないが、このように答えれば良いのではないか。神の国が成就して、我々は神の国の民であるが、神の国の国民の身分のままで、神の国でないサタンの王国の捕囚になっているのが現実ではないか。そのことに気付いたならば、今の我々の日常の信仰の歩みを深める機会が少なからずある。

 預言者エレミヤはバビロン捕囚の同時代を生きた。彼はバビロン捕囚が主の御旨によるものであることを以前から預言していた。そして、バビロンの攻撃に対して抗戦しないで屈服し、滅びを免れるべきであると預言した。しかし、ユダの王朝も一般国民もエレミヤの預言に聞き従わず、彼の預言の通りユダの敗戦、バビロンへの捕囚は現実となった。これだけ警告したのに聞かなかったのだから、彼らの苦難について責任はない、と言うことは出来たのだが、エレミヤはそのようには言わず、苦しむ民と共に苦しみ、最後は国の滅亡の後、国内の敗残兵がエジプトに逃亡する時、拉致され、エジプトで殺された。

 さて、エレミヤが語った御言葉の要点を聞こう。第一点は56節である。「あなた方は家を建てて、それに住み、畑を作ってその産物を食べよ。妻を娶って、息子・娘を産み、またその息子に嫁を娶り、娘を嫁がせて、息子・娘を産むようにせよ。その所であなた方の数を増し、減ってはならない」。

 どうして、こう言うのか。「あなた方は神に背いたからこういう結果を招いたのだ。だから、先ず悔い改めよ」と言うべきではなかったのか。我々ならば、それが正解だと考えてしまう。が、神はそう言われなかった。では「悔い改めは必要ない」と言われるのか。「悔い改めよりも先にすべきことがある」と言われるのか。

 そうではない。これからの70年、その全体が民族をあげての悔い改めでなければならない。その悔い改めのために主なる神はユダの国を滅ぼし、ユダの民を捕囚の地位に貶めたもうた。しかし、悔い改めとは、自分に懲罰を課し、自分を打ち叩き、自分を苦しめ続けることではない。

 聖書が悔い改めを語る時、それを自己に対する懲罰、一切の喜びの剥奪、という意味に取って良い場合があることは確かである。しかし、深い意味での悔い改めは、自分を痛めつけることではなく、総括的に言うならば再生であって、それは神のなしたもう恵みの業である。実際、我々の罪に見合うだけの厳罰を課したならば、我々は即座に潰れてしまい、再生の余地はない。神はそのような処置をされない。

 確かに再生には時間が掛かる。自分自身のことを考えても分かるではないか。悔い改めを始めて、そこから一生涯かかってもまだ完成していない。バビロン捕囚も70年掛ければ十分というものではなかった。悔い改めをそういうスケールで捉えるべきであるならば、持続する悔い改めの生活を考えなければならない。

 未婚の者なら、これから結婚し、子供を産み、その子供が大人になって結婚し、子供を産む。このようにして民族の再生の営みは続くのである。それでも、完成には至らない。何代も掛かるのである。

 「その所であなた方の数を増し、減ってはならない」。悔い改めることと数が増して行くこととは、うまく結び付かないであろうが、長期に亘る民族の再生の間に数が増えるのは極く当然である。捕囚の期間は70年と言われた。幼い日にバビロンに連れて行かれ、老齢になってからエルサレムに帰った人もいる。生きている間には帰れなかった人もいる。その子が、またその孫が故郷に帰ったという場合もある。したがって、孫子の代まで及ぶ捕囚の生活について語られたことは適切である。

 ここでバビロン捕囚の例を地上の教会の歩みに当てはめて考えて見よう。教会はいわばバビロンに捕らえ移された民のようなものである。捕囚からの帰還に当たるのは御国の最終的到来である。それは70年程度で済むものではないかも知れない。だから、何代も何代も掛かって、我々の孫の孫が神の国に入る。それが我々の受けている約束である。その時に約束の民が生き残っているはずである。

 その約束を我々はキチンと受け止め、その約束の継承に相応しく、子たちが孫たちを産み、孫たちが曾孫たちを産んで、約束の民が継続しているという展望を開いているかということを考えよう。

 第二点に移る。7節である。「私があなた方を捕らえ移させたところの町の平安を求め、そのために主に祈るが良い。その町が平安であれば、あなた方も平安を得るからである」。

 これまた意外な勧告に思われるかも知れない。「あなた方を捕らえ移させた町」、それはバビロンのあちこちの町である。預言者エゼキエルの場合はケバル川のほとりであった。ユダの人たちにとってはどこも敵の地である。呪うべき地と思っていた人は少なくないはずである。しかし、預言者を通じて語られたのは、「その地の平安を祈れ」との命令であった。その地を呪ってはならない。

 その地が平安であれば、あなた方も平安だから、という理由がある。ということは、自分の平安に帰着するから他の人の平安をはかれということであろうか。平安、また平和は他者と切り離して自分の平和を論じることは成り立たないから、どこに論拠を置いても同じであるが、聖書の論法では、神はアブラハムを祝福し、地のすべての民が彼によって祝福されるようにしたもうた。だから、神に祝福された者が祝福の発信元になる。平安の送り手になる。バビロンに捕らえ移された者は、行った先々で初めは人から忌み嫌われることがあるとしても、間もなく移された先々で平和の発信元に変わる。

 イエス・キリストが「幸いなるかな平和ならしむる者」と言われたのはこのことである。

 第三点として神は言われる。8節、「あなた方のうちにいる預言者と占い師に惑わされてはならない。また彼らの見る夢に聞き従ってはならない。それは彼らが私の名によってあなた方に偽りを預言しているからである。私が彼らを遣わしたのではないと主は言われる」。

 国を失って囚われ人としてバビロンに行った人は、心細いので惑わされ易かった。惑わす者は至る所にいた。預言者と自称する者。神のお告げを夢で受けたと言う者。本国にいても同じような惑わしはあったが、今は一層精神的に不安定である。預言でないものを預言と思わないように注意する必要は大きかった。

 囚われ人の中から神が預言者として起こしたもうたエゼキエルがいるが、その活動の開始は捕囚後5年である。

 第四点に移る。10節、「主はこう言われる、バビロンで70年が満ちるならば、私はあなた方を顧み、私の約束を果たし、あなた方をこの所に導き帰る」。この預言は的中した。と言うよりは、計画した主御自身が僕である預言者を通じて知らせたもうたのであるから、その通りに成就するのは当然である。

 バビロン捕囚は70年と預言され、その通りになったが、我々が囚われている現代のバビロンはいつ終わるか。それは預言されていない。我々は知らないし、知ろうとすることが間違いである。しかし、我々には不安はない。主はこう言われるからである。「私があなた方に対して抱いている計画は私が知っている。それは災いを与えようというものでなく、平安を与えようとするものであり、あなた方に将来を与え、希望を与えようとするものである。その時、あなた方は私に呼ばわり、来て、私に祈る。私はあなた方の祈りを聞く。あなた方は私を尋ね求めて、私に会う。もしあなた方が一心に私を尋ね求めるならば、私はあなた方に会うと主は言われる」。

 


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