◆元旦礼拝説教2009.01.01◆ |
――イザヤ60:1-4によって――
「起きよ! 光りを放て!」。……この年の元旦に、我々に向けて呼び掛けられる御言葉の第一声は「起きよ」である。倒れ伏している者への呼び掛けである。あなたは横たわっていてはならない。眠っていてはならない。立ち上がらなければならない。うずくまっていてはならない。そういう時ではない。 「起きよ」との呼び掛けに結び付いている第二声は「光りを放て」である。起きはしたが、闇の中に佇んで、何も出来ないでいるというのではない。起きなければならないことが分かっているので、とにもかくにも起き上がったが、闇の中にいて右も左も分からず、自分自身も闇そのものだということではない。闇の中にいるが、闇の只中であるからこそ、あなたは光りを放つべきである。 何故か。――「あなたの光り」が来たからである。このように呼び掛けられる前の状態は、59章9節に記されている通りであって、「われわれは光りを望んでも暗きを見、輝きを望んでも闇を行く。われわれは盲人のように垣を手探り行き、目のない者のように手探り行き、真昼でも黄昏のように躓き、強壮な者の中にあっても死人のようだ」と言っていたのだ。その状態からの転換が起こった。――どういう転換か? あなた自身について言えば、あなたは光りではなく、闇の子であり、闇の一部分をなしているものに過ぎない。しかし、あなたには「あなたの光り」が来た。あなたは「これが私の光りだ」と言えるものを持ったのである。それも、あなたの光りがどこかにあって、それを当てにしているから、闇の中にいながら、慰めを感じているという事情ではない。 あなたの光りが来て、その光りがあなたを照らし始めたのだ。すなわち、あなたの光りである主が来て、その栄光が輝き出て、あなたは照らし出された。だから、あなたは輝かなければならない。そのことを知ったからには、ただ知っているだけでなく、その通りに輝いて生きる。それが信仰者である。これは信仰者のあるべき姿というのでなく、あるがままの姿である。 このことは今、年の初めであるだけに、心に新らしく響いて、よく聞き取れた、というのではない。何時でも聞こえていなければならない言葉である。――周囲を見回すと、世の人々は、せめて年の初めだけでも、気を引き締め、気持ちを新しくして、立ち返るべき所に立ち返り、向かうべき目標を再確認したいと願っている。人がそれぞれ自分の思いを新たにしようとしていることに、我々がとやかく批判する謂われは何もないが、我々が彼らと同じように、せめて正月だけでも思いを新たにして歩もうと言っているなら、それは余り意味のないことである。 「あなたの光りが臨んだ」と言う。……あなたは光りを持たないけれども、あなたの光りであるお方、すなわち主が来られ、その栄光が輝き出たというのである。それはどういうことを言おうとしたのかを考えて見よう。 預言者が「あなたの上には主が朝日のごとく上られ、主の栄光があなたの上に現れる」と言った時、それは来たるべき日に実現することを、ことの成る前に預言として宣言し、「これは主の宣言であるから、必ず成る」との含みで言ったものである。したがって、現に主の光りが射して来ているのではない。「見よ、暗きは地を覆い、闇はもろもろの民を覆う」と言われる。そのように、暗きが地を覆い、闇が民を覆っているのが、目で見ることの出来る現実である。 それでも、目に見えている現実のほかに、見ずして信じる者には、目で見る以上にありありとした現実、すなわち信仰によって捉えられている信仰の現実、「主の言葉であるから必ず成る」と確認している信仰の現実がある。人々は「そんなものはない」と言うが、我々は「いや、それこそが確かなものではないか。それ以外のものは確かなようでも不確かではないか」と断言することが出来る。 イザヤの時代、預言者は神から示された言葉を人々に語ったが、その預言を受け入れた人たちも「主の預言であるから必ず成る。すでに成ったと同じである」と信じた。言い換えれば、今は「預言」であるが、来たるべき日には成就するものであって、それを未だ不確かなこととしてでなく、既に確実となったこととして彼らは把握した。そして、こう把握して充足を味わった。 そのような時代が預言者の時代であったが、その最終段階において、最後の預言者であるヨハネを胎内に宿すエリサベツは、訪ねて来たマリヤに「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は何と幸いなことでしょう」と祝福した、とルカ伝1章45節に記されている。エリサベツもマリヤも主の約束の言葉が今成就しようとしている事態を的確に掴んだ。 それと比べると、預言者イザヤが信仰において捉えている事態は、信じる確かさという点で、エリサベツやマリヤに劣っていないが、成就したと知る捉え方としては、確定的に言い尽くされてはいないままである。すなわち、まだ現在にはなっていない、未来を望み見て語っていたのである。 イザヤの言葉で十分我々は励まされるのである。旧約の民はこの言葉から生み出された信仰、来たるべきお方を信じ、受け入れる信仰を確立した。しかし、我々はイザヤと同じところに立っているのではない。我々はむしろ、エリサベツやマリヤの立つところに立つ。すなわち、キリストは約束の彼方におられるのでなく、すでに来られたお方なのだ。彼は見える姿としてはもうここにはおられないが、それは事態が来臨以前の状態に逆戻りしたということでなく、彼は来臨して、なすべきことを果たし終えた上で、去って行かれたのであって、彼が来られる前の状態では最早ない。 主イエスはマタイ伝13章16節以下で宣言しておられる。「あなた方の目は見ており、耳は聞いているから幸いである。あなた方に良く言って置く。多くの預言者や義人は、あなた方のいま見ていることを見ようと熱心に願ったが、見ることが出来ず、またあなた方のいま聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである」。 キリスト以前とキリスト以後で、世界のありようが決定的に変わったことを知らなければならない、と主は教えておられる。イザヤやその他の預言者の語った言葉は、今なお我々に対し十分な説得力を持っているが、我々は預言者の後に随いて行く預言者の弟子ではなく、キリストの後に随いて行くキリストの弟子である。光りを求めて歩むのでなく、キリストの光りのうちを歩んでいるのである。 旧約の信仰者たちは光りを待ち望んだ。そしてその信仰の故に、まだ来ていなかった光りを、まことの光りとして捉え、信仰によって真実なるいけにえを捧げ、信仰によって義なる者と認められ、信仰によって死を見ないように天に移された。それでも、キリストに与って生きる我々の方が、旧約の民よりも遥かに優れた恵みに与っている、と新約のヘブル書は11章で語っている。 「起きよ、光りを放て」と今日聞いている我々は、イザヤの時代の人々が聞いた以上の確かさを、喜びを、充実を聞き取っているという確認をシッカリ心に留めたい。つまりイザヤを照らした光りよりも、さらに優れて確かな光りが我々を照らしているという事実を、曖昧にしてはならない。 そのことを曖昧にしているのが、今日のキリスト教会の現実ではないかと我々は憂える。「起きよ、光りを放て」と呼び掛けられたならば、「そうなのだ、我々はシッカリ御言葉を聞き取らなければならないのだ」と姿勢を改めるクリスチャンはまだかなりいる。けれども、イザヤの言葉をシッカリ聞き直さねばならない、と反省しておさらいするイザヤの弟子たちのレヴェルで考えているだけではないのか? 我々はもっと高く狙いの照準を上げなければならない。闇がまだ覆っている状態にあるのではない。 「もろもろの人を照らすまことの光りありて、世に来たれり」と福音書は宣言する。そのお方は到着したもうたのである。もろもろの人はそれによって照らされたのである。世界は変わったのである。 イザヤの預言をもう少し続けて聞こう。「もろもろの国は、あなたの光りに来、もろもろの王は登るあなたの輝きに来る」。 ここで呼び掛けられている「あなた」、それは14節の終わりで言われる「主の都、イスラエルの聖者のシオン」である。そこにもろもろの国人と、もろもろの王が来る。このことはイザヤ書2章でも予告されていた終わりの日の完成である。信仰の父アブラハムへの約束も、あなたの子孫によって世界の全ての人々は祝福を受けるということであった。 終わりの日にイスラエルが世界の頂点に立つというよりは、イスラエルが神の祝福を全世界に行き渡らせるために用いられる、と取る方が適切であろう。エルサレムの光りが、世界の人々に「このエルサレムの光りを目標にして集まれ」と呼び掛けているのではない。エルサレムが光りとなって、その光りを目指してと言うよりは、その光りによって世界の人々の歩みが運ばれて間違いなく集まるのである。 さらにその次、4節でこう言われる、「あなたの目を上げて見回せ、彼らは皆集まってあなたに来る。あなたの子らは遠くから来、あなたの娘らは、かいなに抱かれて来る」。「彼らは皆集まってあなたに来る」と言われるところの彼らがどれだけの人を指すのかを議論することは要らない。要するに全てである。これまで全く縁のなかった国々の王たちも来る。あなたの子たちも帰って来る。 これは49章12節に「見よ、人々は遠くから来る。見よ、人々は北から西から、またスエネの地から来る」と言われ、同じ章の22節で「見よ、私は手をもろもろの国に向かって挙げ、旗をもろもろの民に向かって立てる。彼らはその懐にあなたの子らを携え、その肩にあなたの娘たちを載せて来る」と言うのと同じである。 エルサレムの子たちが世界中から集まって来る情景が描かれている。その子は囚われていたのか。殺されたのか。失われていたのか。散らされたのか。もともといなかったのか。それはどう取っても良い。54章の1節に「子を産まなかった石女よ、歌え。あなたの天幕の場所を広くし、あなたの住まいの幕を張り広げ、惜しむことなく、あなたの綱を長くし、あなたの杭を強固にせよ」と言われるのは、このことに関連している。 「起きよ」と呼び掛けられたエルサレムは、先には子を産まなかった母、子を失った母、孤独な独り住まいの母になぞらえられていた。だが回復されたエルサレムには子たちが集まって来る。殺された子たちが甦ったのか。子でなかった諸国民が、エルサレムの子として加えられるのか。母から新しく産み出されたのか。それはどちらであっても良い。とにかく、多くの子らが加えられる。 「あなたの目を上げて見回せ」と呼び掛けられるのである。目を上げれば、あなたの子として新しく加えられる者たちが、遠き地から、続々と近づいて来るではないか。 ひとたびキリストの光りが照った。罪の闇は吹き払われた。倒れ伏していたシオンは起き上がる。そして光りを受けて自ら輝く。さらに、目を上げて見回し、多くの子たちが帰って来るのを見るのである。その子たちは一旦失われた子たちの回復である場合もある。旧約の歴史はすでに失われたイスラエルの氏族があるという事実を語っているが、失われたイスラエルの回復も預言されている。その子らが帰って来るのは当然である。 しかし、子でなかった者、つまり異邦人が子として加えられることも、この預言の中に含まれていると理解すべきであろう。それが使徒行伝2章に書かれているエルサレム教会の成立である。 「あなたの目を上げて見回せ」との呼び掛けは、今日のキリスト教会にも向けられている。我々の目を来たりたもう主に向けて大きく開こう。 |