◆元旦礼拝説教2005.01.01◆

――ルカ13:1-5によって――

 

 痛ましいことが世界の各地で次々と起こっている。我々自身にはまだ大がかりな悲劇が押し寄せていないかも知れないが、地球全体のことを思うと、苦痛に泣く人は急激に増加した。その人たちの苦悩を考えると、「主よ、いつまでですか。いつまであなたはあなたの創造したもうた人類を苦しめたもうのですか」と嘆いて、訴えずにはおられない。しかも、我々の判断によれば、どんなに慎重に考えても、不幸な事態はこの年さらに深刻になって行くと覚悟せずにはおられない。
 この不幸な予想を疑ったり、否定したりすることは的外れであろう。神は恵み深いお方なのだから、我々は常に幸福になって行くことを期待していなければならないと言う人がいる。だが、神の怒りを引き起こすような忌まわしいことを人間が重ねているのに、「神よ、私に対して恵み深くあれ」と要求することは出来ない。今のように神に逆らう企てが行なわれている時代に、神の恵みを期待することは不当である。神の怒りがいよいよ募ると考えるほかないであろう。――ただし、我々は自分の立てた予想に従って生きるのでなく、神の摂理に従って歩むのであるから、自分の予想に固執してはならない。
 神に逆らう企てがなされていると言ったが、神を信じない人たちの間で行なわれている業のことだけを指すのではない。むしろ、神を信ずると言っている人たちが、「神を信ず」と口で言うのと裏腹に、神を本気では信じておらず、侮っており、神を自分の都合の良いように利用することだけを考え、人間の言いなりになる偶像を作り、その偶像しか拝まない。したがって、その当然の結果として、気の抜けた、形だけのキリスト教に成り下がって、神の御名を汚している、そういうことをこそ見なければならない。
 ペテロの第二の手紙4章に、「裁きが神の家から始められる時が来た」と教えるが、今日のクリスチャンの多くは、裁きは教会の外で行なわれるものであって、教会の中は裁きを免れた安全地帯であると信じているようである。しかし、すでに裁きが始まっているのに、そのことを知らないでいるのは、架空の安全に乗っかって、悔い改めを拒んでいることであるから、目に見える崩壊よりももっと恐ろしい破滅が進んでいると言わなければならない。神を信じていない人の中にも、世界の苦悩とか、隣人の痛みとか、人間の死と生について真面目に思い悩む人がいるのであるから、聖書を読んでいる人は、もっと真剣に生きることを求めるのが当然であろう。
 この苦難の世界を見て、世の終わりが来たのだ、裁きが始まったのだ、世界は間もなく滅びるのだ、と思わずにおられない人も少なくないようである。世の終わりが来ていることが感じられないようでは、世俗的な思想に引きずられているのだと教える宗教的指導者が次第に増えて行くに違いない。その教えが本当らしく思われて来るかも知れない。だが、そのような考えに対して警戒しよう。それはイエス・キリストの福音と関係のない、単なる思い付きに過ぎない。「兄弟たちよ、あなた方は暗闇の中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなた方を不意に襲うことはないであろう。あなた方はみな光りの子であり、昼の子なのである」とテサロニケ人への第一の手紙5章4節は言っている。我々にとっては終わりの日は希望の対象として与えられるのであって、恐怖と絶望の対象として与えられるのではない。
 主イエス・キリストも「戦争と戦争の噂を聞く時にも、慌てるな。それは起こらなければならないが、まだ終わりではない」とマルコ伝13章で言われた。落ち着かなければならない。早とちりしてはならない。人間が慌てて考えるほどには、終わりは軽々と来るものではない。
 世界がこれほどおかしくならなかった昔、一応理由らしいことを理由として、話しがつかない場合、国と国とは戦争を起こした。それは本当の理由でなかったかも知れぬが、理由があるように見られた。別のことが理由だということは、戦争を起こす人自身にも見えなかった場合が多いらしい。ところが、今日では、理由にならないことが理由にされ、その偽りは多くの人に見抜かれている。では、戦争は起こせなくなったのかと言うと、そうではなく、誰も納得していないはずだと思われる無意味な戦争が次々に起こるのである。これだけでも世の末ではないかと思われるであろう。
 さらに、以前ならば戦争を遂行する者にとっても、戦争は何とか避けたいもの、そして始まったのちには、一刻も早く止めたいものであった。ところが、今では戦争に携わる実務者と、戦争を命令する権力者との開きが大きくなったからであろうか、無意味さがいよいよ見えて来ているのに、ブレーキが掛からなくなっている。殺し合いにならない前にお互い自己を抑制するという知恵は、働かなくなったようである。だから、いよいよ世の終わりではないかと感じさせられる。けれども、主は言われる、「まだ終わりではない」。終わりのように見えたとしても、まだ終わりではない。
 確かに、人間は愚かであって、破滅の道をまっしぐらに突き進んでいるように見えるのであるが、人間の賢さが決定権を持たないのと同様、人間の愚かさにも自分を破滅させる力があるということは出来ない。時は神のみが知り、神のみが掌握したもう。
 それでも、今は異常な時なのだ。自分にとって特別なことは起こっていないのだから、今の時を何でもない時期だと呑気に構えている人がいるが、現に苦しんでいる人が増えていることを考えれば、勝手なことは言えない。
 特別な霊的感覚を備えた人にだけ、今の時が特別な時だということが洞察出来るというのでない。特別な感覚を持っていなくても、苦しみに遭う人が、あちらにもこちらにも起きているのを見れば、普段とは違うのだということは分かる。しかも、その人たちは我々の助けなければならない隣り人であるから、私の普段の仕事を差し置いて助けに駆けつけなければならない特別な時であり、平生と同じように構えていて良いとは言えない。今は非常事態だと言って間違いないと思う。平生の務めを平生通りやって、ただ、人々のために少し余分に働けば良いというのでは間に合わなくなった。こういう事態の中で我々の愛が真実であるか見せ掛けに過ぎないかが問われる。
 さて、我々はさらに真剣なことを問われている。聖書に記された歴史を読んでも、神が顔を隠したもうた時や、神の怒りの時が、特別な時期としてあったことが教えられる。今、世界各地で起こっている多くの悲惨事は、神が慈しみの御顔を向けることを中断しておられると見るべきだと思われる。平時であれば、神は良き者にも悪しき者にも平等に日を照らし、雨を降らせて、偏り見ることのない愛を人々に示しておられた。しかし、今は神の慈しみは簡単に論じられるものではないであろう。我々は単に敬虔に生き、単に祝福されて歩み、恵みに感謝し、応答して、この世を過ごすという尋常の歩みでなく、この非常事態、この悪しき時代の中で、上からの助けを祈り求めつつ、特に神が我々に対して和解者としての御顔を向けたもうことを求めつつ、この試錬の中で隣人を自分自身を愛するのと同じように愛しつつ、生き抜くのである。神の和解は今のような時代には一層熱心に求められねばならない。
 今日の相次ぐ災害を見、その禍いに遭っている人々を見るならば、同じ血肉を備えた者として、彼らの痛みを私の痛みとして負う同情心を持たないわけには行かないであろう。重荷を負わせられている隣人を忘れてはならない。しかし、今苦難に遭っている人々に同情するだけではいけないのである。勿論、苦難に遭っている人を見放して、もっと大事なことがあるのだと言い訳をすることによって、人を助けようとしない者は、禍いが自分に降り懸かった時、人から助けを得ることは出来ない。
 主イエスはルカ伝13章で言われた。「シロアムの塔が倒れたために押し殺されたあの18人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。あなた方に言うが、そうではない。あなた方も悔い改めなければ、皆同じように滅びるであろう」。
 この御言葉は今の我々にピッタリなのだ。シロアムの塔が倒れた事件について、我々は何も知らない。シロアムの池の近くにあった塔、すなわち、城壁の一角が張り出して、望楼になっていたのであろう。そして、その望楼、見張りの塔が倒れて、18人の死者が出たということがあったようである。しかし、知らなくても、主イエスがこの例を引いて言わんとされた意味は十分分かるであろう。人々が18人も一度に事故に遭うことは、昔は例外的な大事件として人々の記憶に残ったのである。今日でなら、その衝撃の大きさはインド洋の一角から起こった津波に置き換えて見れば、鈍い我々にも分かるであろう。しかも、余談になるが、海中にあった今回の地震の震源に最も近い陸地は、インドネシヤの北部、国内紛争で莫大な人数の民衆が軍隊によって殺戮されたアチェ地域である。アチェの殺戮は津波のあともまだ続いているということである。人間の邪悪さと無関係に自然の災害が及んでいるように思われるのであるが、我々の理解を超えたところで、人間の作り出す禍いと、自然の引き起こす禍いとが結び付いているのかも知れない。
 世界中に続々と起こっている戦慄すべき出来事、また日本国内でも随所に見られる災害、そして政策の失敗によって弱者が受けている苦難は、我々に及んでいないからといって、我々が神の怒りに該当する悪事をしていない、と安心して良いわけはない。今、現に災害に遭っている隣り人に出来る限り、何らかの助けの手を差し伸べることは必要なのであるが、それと共に、今、主から聞く最も大事なことは、あなた方自身の悔い改めである、と言われていることである。自分自身に立ち返り、神に立ち返ることこそ今日の我々にとって最も真剣な課題である。
 では、我々は悔い改めて神に立ち返るだけで良いのか。それだけではいけないのではないか、と言う人が多いであろう。神に立ち返ることは何よりも大事なことであるが、我々も何かをしなければならないのではないか。そういう意見がクリスチャンの間でも健全な理論であると考えられている。しかし、今週の日曜日の礼拝の中で聞いたように、国がまさに滅びようとする時に、預言者によって与えられた御言葉は、「落ち着いて、静かにし、恐れてはならない」という命令であった。
 神があたかも在したまわぬかのように、あるいは、在したもうことは在したもうのであるが、神が在ますだけでは足りないから、神の力の足りない所を補うために、人間が精一杯励まねばならないというのが正しい意見であるのか。これこそ正しい意見であり、これを実践することこそ貴いのだと多くの人は考えている。あれもこれも仕事をこなすのが模範的な信仰者であるという思い込みは広く行き渡っている。
 しかし、預言者を通じて神は言いたもう。「何もするな。静かになれ。恐れることもするな」。――何もしなければ滅ぼされてしまうほかないではないか、と人は言う。一見そうであるように思われるであろう。けれども、譬えを借りるならば、溺れるまいとしてジタバタすることによって、いよいよ沈んで行くということがある。何もしなければ、体が浮くのである。
 何もしないとは、全能の神のなしたもう業に全てを任せることである。神が在したまわぬかのように、人間の努力によって神の力の不足を埋めて行こうとするならば、神はいよいよ見えなくなる。むしろ、人間が引き下がることによって、神の立ち現れたもうのが見えて来るのである。
 聖書が教えるように、神が戦いたもう。人間が神のために戦わねばならないのではないか。そうではない。我々には力がない。神のみが戦い、そして、神が勝利したもう。その神の勝利を確認し、それに我々が与ること、それが我々の勝利であり、我々の勝利獲得の方法としてはそれしかない。気を付けて、静かにし、恐れない。そこに我々の勝利がある。
 今日が世界の未曾有の危機であるということには間違いがない。だから、これまで以上に知恵と力を出しきって戦わなければならない、という呼び掛けは一見もっともらしい。しかし、これまで難問が起こった時、人間の力がそれを解決したのであろうか。思い違いをしてはならない。これまでも解決はつねに主が来たって決着を付けたもうたではないか。それを確認するのが我々の務めではなかったか。
 恐れてはならないのである。神が生きたもうのである。そのことを新しい年の初めに喜ばしく確信しよう。


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