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――ルカ24:44-49によって――
今日、復活節に当たって、ルカ伝24章から学ぼうと願っているが、章の初めから通して讀んだ上で、特に44節以下49節までに記されたところに重点を置きたいと思う。
44節には。「私が以前あなた方と一緒にいた時分に話して聞かせた言葉はこうであった」と書かれている。――これは復活の主イエスの第一声ではない。第一声は、実はこれは主イエス御自身の発せられたものでなく、ルカ伝では二人の御使いが語ったとなっている。だが、主が直々に語りたもう代役を彼らが勤めたのであって、キリスト御自身が語られたと受け取って何も不都合はない。第一声は「あなた方は、なぜ生きた方を死人の中に尋ねているのか。その方はここにおられない」であった。 これは数人の女たちに向けて語られた言葉であって、それについてはこの章の初めの5節に書かれている。女たちというのは、10節にその名前が挙がっているが、マグダラのマリヤ、ヨハンナ、ヤコブの母マリヤ、そしてその他にも数人の女たちがいたことが記されている。 二度目の主イエスの顕現、そして第二声は、ルカ伝によれば、この日、エルサレムを離れて、エマオに向かった二人の弟子に対してである。それは路上であった。路上という言葉一つを取り上げても、我々の人生と重ね合わせて、思い巡らすことが多々あるのであるが、今はそれに触れない。彼らが除酵祭の半ばにしかならないのに都を出て行ったのはどういう事情であったかについても詮索はしない。その一人はクレオパという名であったが、この名について我々はここ以外の箇所から何も聞いたことがない。そして、もう一人については、名前さえ分からない。とにかく、この二人は、主イエスの比較的近いところにいたらしいが、12弟子の中にいない第二のランクの人であると思われる。 この二人がエマオの用件を放棄し、スグに立ってエルサレムに帰って見ると、11弟子とその仲間が集まっていて、「主は本当に甦って、シモンに現われなさった」と言っていた。つまり、クレオパたちがエルサレムに帰って来る前であろう。そして、クレオパたちが主イエスと出会っておりながら、夕方になるまで、それと気付かなかった、その出会いの後であろうかと思う。どちらが早いか遅いかを詮索しても殆ど意味はないと思うが、一応、3度目としておくと、主は三度目にペテロに現われたもうた。ペテロに対して、主は、最後の晩餐の時こう言われた、「シモン、シモン、見よ、サタンはあなた方を麦のように篩に掛けることを願って許された。しかし、私はあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直った時には、兄弟たちを力づけてやりなさい」。22章31-32節に記されている。 ペテロは復活の主と出会って、立ち直り、散ってしまった弟子たちを呼び集め、主と会ったことを告げ、そこにクレオパたちも加わった。その時に、主は4回目に現われたもう。これまでは謂わば非公式な顕現であって、出会った人はそれを個人の体験のうちに留め置いてはならないと感じ、他の弟子たちに告げた。それと比較すれば、今回は謂わば公式の顕現であって、御自身の復活について、それが夢を見たことでないのを示すために、物的証拠を上げたもう。すなわち、先ず、私の手足を見なさい、触って見なさい、と言われるのである。次に、「ここに何か食べる物があるか」と言って、食べ物を持って来させ、それを食べて見せたもう。幻影を見ているのでないことは確かになった。 もはや、この知らせと、知らされた出来事とを疑うことは出来ない。しかし、疑うことが出来ないから信じるほかなかったとしても、それで確かだと思ってはならない、ということを我々は知っている。例えば、私がここに立って語っている。私は生きている。私を見る人は幻影を見るのではない。これは夢物語ではなく現実である。しかし、私が今日生きているのは確かだとしても、明日は死んでいるかも知れない。目で見る事実はそのように不確かなものである。 確実なように見えても、見えている事柄そのものが不確かであったならば、現実とか、実際とか、言われていることには、大して意味がない。例えば、人々は権力によって作り出される既成事実を、動かすことの出来ない確かなものと考えて、抵抗を諦める。けれども、権力というものは決して長持ちしないし、その既成事実も容易に崩壊する。今日の午後には政府が崩壊するということも十分ある。 イエス・キリストは手と足に触らせて、ご自分が生きておられることを確信させたもうた。事実が事実であると確認させることは大事なことである。しかし、主はそれだけでは足りないということも知っておられたのである。44節からの御言葉はそのために語られたのである。奇跡を見て信ぜざるを得ないということはある。しかし、その信じ方は、確かでない。御言葉を聞いて信じるのでなければならない。 ここで、ベタニヤのラザロの復活の事件を思い起こして比べてみたい。一世を震撼させた事件である。民衆の興奮はどんどん広がって行く。大祭司は、「もう手が付けられないほどの騒ぎになった。収拾をつけるためには、あのイエスを殺すほかない」と決断した。ラザロの復活の事実確認を人々はしたのであるが、事実が事実であると言うだけでは永遠的な意味はない。ラザロは生き返ったが、また死んでしまった。彼の復活は昔話し、また奇跡物語りとして残るだけである。 キリストの復活も、歴史的事実ではあるが、それだけならば歴史物語りなのである。物語りとしては驚くべき事実、崇高な、きよらかな、そして生きる勇気と喜びを与える物語りである。それは十分有用な物語りである。しかし、この物語りに感動していても、それだけでは、やがて私を本格的に訪れる死から逃れることは出来ない。だから、主が甦りたもうたという事実を確認することは不可欠であるが、それだけに終わらないで、御言葉の学びを受けなければならない。 ただし、そういう教えが44節から始まったと捉えては正確でない。本格的にその教えが始まったのは44節であると見るべきであろうが、女たちに最初に与えられた言葉は、確かにこれと似ている。それはこうであった。「まだガリラヤにおられた時、あなた方にお話しになったことを思い出しなさい。すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目に甦る」。キリストは予告しておられたではないか。その予告は実現したではないか、という意味である。 次に、エマオへの道において、クレオパたちに語られたのも同じ主旨の言葉であった。25節以下にあるが、「ああ、愚かで心が鈍いため、預言者たちが説いた全ての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったか」。こう言って、モーセや全ての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について記してある事どもを解き明かされた。悟りの鈍さをたしなめておられると言う点、前の場合と共通するが、この問題は今日は省略する。 主が口ずから解き明かしたもうても、二人はまだ目を開かず、一緒に食卓について、主がパンを取り、祝福してこれを割き、彼らに渡したもう段階でやっと彼らの目が開けた。その後で二人は、「道々お話しになった時、また聖書を解き明かして下さった時、お互いの心が内に燃えたではないか」と語り合う。すなわち、復活の事実があるだけでなく、――事実は事実として大切な、欠かせないものではあるが、その意味の解き明かし、それは聖書の解き明かしという形で行なわれるが、これが伴わなければならない。 以上に見たことが、これまでに既に教えられたのであるが、ここ44節で、いよいよ本格的に教えが始まる。「モーセの律法と、預言者と、詩篇とに、私について書いてあることは、必ずことごとく成就する」。 「必ず」という言葉で訳されていることが、これまでの二つの箇所にもあった。7節、「人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目に甦る」。この「必ず」は罪人の手に渡されから、三日目に甦るまでの全部に掛かっている。 もう一つは26節で、「キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったか」と言われる。 ごく一般的に言うならば、「神が約束されたことは必ず成就する」となる。その約束とは、キリストに関わる約束である。キリストを度外視して、ただ約束を果たすと言うのは、人道としても考えられなければならないことであるが、普遍的に広がって、抽象的になり、曖昧になる。神の約束はキリストを送るという具体的な形において結実している。キリストについての約束でなければ漠然とした抽象論である。 ローマ人への手紙の初めに、「この福音は、神が預言者たちにより、聖書の中に予め約束されたものであって、御子に関するものである」と書かれているが、これは我々が今日学ぼうとしているのと合致する。 「神は恵み深く、神は真実であられる。神を信じなさい」と呼び掛けることは、比較的多くの人から納得の行くこととして受け入れられるかも知れない。多くの宗教はそういうことを内容としている。しかし、考えて納得が行くということと、救いの確かさとは必ずしも結び付かない。神の約束はキリストであって、キリストによって実現すると教えられている我々は、キリストを追い求めることによって確かさを捉えることが出来るのである。 神の約束が必ず成就すると言う場合、その「必ず」は、先に見たように、「苦しみを受け」にも掛かっている。彼は必ず苦しみを受けなければならない。だから、彼は先ず苦しみを受ける者として御自身を示したもう。我々は幸福に満ち満ちた福徳円満な方を我々の主として選ぶのでなく、我々のために苦しんでくださるお方の後について行く。苦難の主こそ間違いなしに我々を救うお方なのである。このように。必ず苦しみに遭うお肩こそ、必ず栄光を受け、我々の救いを全うしたもうのである。必ずということは十字架と復活に結び付いている。 さて、「私について書いてあること」と言われた、この「書かれた」という言い方が、この聖句の特徴というほどではないが、今日学ぶことの中では重要である。約束されたことは、書かれたことなのである。それはどういうことかと言うと、神の言葉は永続性があるから、聞いたなら一生忘れないという性質のものであって、つまり、神の言葉を聞くとは、心の碑に刻まれるといういうのと重なる。言葉は文字として与えられる。 神がモーセに十誡を授けたもうた時も、2枚の石の板に手ずから文字を刻んで与えたもうた、と書かれている。これは初めから言葉が文字として書かれた形で与えられたと記録されるケースであるが、多くの場合、初めは言葉が語られ、それが口から口へと語り伝えられるうちに、文書として書き留められるようになったと理解される。また、語られた御言葉を「書き記せ」と命じられたケースも多い。キリストの教会の中では、聖書と神の言葉とを同じ意味に使っている場合が少なからずある。 言葉は文字と違う、と言われることがある。IIコリント3章6節に、「文字は殺し、霊は生かす」と書かれているが、文字が人を殺す場合があることは事実だと認めなければならない。しかし、書かれたものが必ず人を殺すわけでないということも確かである。 一方、語られた御言葉でも、自分勝手に曲げて解釈し、それによって人を殺したり傷つけたりすることがあるから、書かれた文字だけが危険だという判断は当たらない。さらに、御言葉から外れてしまって、何やらキリスト教めいた話しをしているようだが、悔い改めも、新しい命も、キリストの御跡について行くことも、律法と福音の基本も教えられない説教がある。せめて、聖書をそのまま朗読してくれたなら、と残念に思われる場合があるが、書かれた御言葉を読むこと、さらにこれを正しく解き明かすこと、御言葉に基準を置くことの大切さをもっと強調しなければ、キリスト教は消滅してしまう。 さて、今、「聖書」と簡単に言ったが、今日我々が「聖書」と呼んでいる書物と内容的に違ってはいないが、同じ形であると思うならば、まちがいである。書かれた物という語である。全巻を一つに合わせた合本はない。何十巻かの巻物が3つの群になっていた。 44節に、「モーセの律法と、預言書と、詩篇とに私について書いてあることは、必ずことごとく成就する」と言われるが、成就すべき御言葉は、書物になっておれば何でも良いのではなく、特定の書、律法、預言書、詩篇の三つのグループに纏められる書である。このうち詩篇というのは、今日言う詩篇のほかに詩歌、文学、知恵を語る箴言を含んだものと考えられる。したがって、基本的には、今日言う旧約聖書に当たる。 当時、まだ聖書の正典という規定はなかった。ほぼ纏まっていたのであるが、正典と外典の区別もハッキリしていなかったのは事実である。それでも、主はモーセの律法、預言書、詩篇と3類の書を挙げて、これが私を証しする書だと言われたことは確かであると弁えなければならない。 45-47節では、「イエスは聖書を悟らせるために、彼らの心を開いて言われた、『こう記してある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中から甦る。そして、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まって、もろもろの国民に宣べ伝えられる』」。 「このように書いてある箇所は聖書のどのか」と問われるかも知れないが、この通り一箇所に纏めて書いてある箇所はない。聖書の全体に亘ってこういうことが書いてあると主は集約される。謂わば聖書のエッセンスがこれだと言われたのである。私のために主が聖書をこのように纏めて下さったのである。第一にキリストの死と復活である。第二にキリストの名による罪の赦しと罪の赦しを得させる悔い改め。これらが聖書の焦点である。 この悔い改めがエルサレムから始まって全世界に及ぶのである、と言われる。また、あなた方はこれらのことの証人であると言われる。 さらに、「私の父が約束されたものを、あなた方に贈る」と言われる。その約束のものとは何か。これを聖霊と取る人は多い。それが最も適切な解釈である。すなわち、使徒行伝1章4-5節に主は言われる、「エルサレムを離れないで、かねて私から聞いていた父の約束を待っているが良い。すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなた方は間もなく聖霊によってバプテスマを授けられるであろう」。これはルカ伝24章49節に繋がるのである。しかし、この言葉の意味はもっと広く広がっていることを忘れてはならない。すなわち、全ての約束は、キリストに収斂し、キリストにおいて成就するのである。これも聖書に約束されていることである。
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