◆復活節説教2003.04.20.◆

――Iコリント15:1-20によって――


 今日、主の復活を記念する日の朝、我々に示されているテーマは、イエス・キリストの復活と、死人の復活との二つである。1節から11節まではキリストの復活についての教えである。12節以下は死人の復活である。

 今、キリストの復活と簡単に言ってしまったが、ここで聖書が語っているのは、キリストが聖書に書いてある通り我々の罪のために死んだこと、葬られたこと、聖書に書いてある通り三日目に復活したこと、次にペテロや12人、その他に現われ、私のような月足らずの者にも現われたこと、――これらの出来事の総合である。すなわち、復活はこの一連の連鎖の中の一つの環である。

 だから、復活だけを取り上げていては、驚くべき物語りではあっても、お話しであり、聞いて驚く話しであるとしても、聞くことによって命が与えられるわけではない。今日、多くの教会では、主の復活について語っているのだが、それを語り、それを聞くことによって教会が生きるというわけでは必ずしもない。いや、ありのままを言えば、教会は殆ど息絶え絶えで、死相を呈している。

 キリストの死と復活が一連の出来事として捉えられるならば、教会が閉塞状態に陥ることも、そこに留まることもないのだ。ところが、十字架の死からして、すでに聖書が差し出すままにキチンとは捉えられていない。語られることはあっても、教科書の棒読みのような、あるいはただのお話しでしかないため、すでに聞いた者にはもう聞かなくても分かっている、と肚のうちでは思われている。彼らは身を入れて聞くことはしなくなっている。受難週の様々な行事を型どおり守れば健全な教会だというわけでは必ずしもないが、主の死を記念し、主の死を告知するに相応しいことをしていないから、キリストの死も、福音になりきれない「お話し」で終わっている。

 今日の教会が読み落としている文言の一つは、3節から4節に掛けて二度繰り返して「聖書に書いてある通り」と言っている部分であろう。その部分を読み落としているから、驚くべきことではあっても、ただそれだけである。感銘はあったとしても、忘れられて行く。だが、聖書に書いてある通りのことが起こったのだ。それならば、それを語ることは、証言であり、また宣言となる。けれども、「聖書に書いてある通り」という言葉を見過ごしているから、自分の想像力に頼ってキリストの復活を思い描くか、せいぜい伝えられた物語りをなぞった「お話し」がされるだけである。「これこれのことであったとサ」というお話しである。

 さらに、キリストの死が「我々の罪のため」だということも見過ごされる。我々の罪のためという言葉は教会の中で飛びかっているかも知れない。しかし、語っている人自身もその罪を現実としては十分に捉えておらず、それに相応しい恐れも戦きもないままに、一つの語句として語るだけであるから、聞く人にも、大抵の場合、空しい言葉としてしか響かない。

 「我々の罪」という言葉、この言葉はこれだけで我々を震え上がらせるに足るものであるはずだが、聞く人はこの言葉をそれだけ重味あるものとしては聞かされていない。また聞こうとしてもいない。

 しかも、「我々の罪」という言葉は、何かのことがらの説明のためにここに置かれているのではない。罪の説明はここにはない。また、「罪」という、うちなる問題の問題提起のために語られたのでもない。ここでは「罪のため」と言われる。罪の問題を処理するため、ということであり、それゆえに、すでに罪は処理されたものとして示されている。今日与えられる聖句は、罪についても、罪の問題の処理についても、内容的なことは何も語っていないから、我々はそのことには触れない。だが、主が我々の罪のために死にたもうたことは銘記しなければならない。

 我々の罪のために死にたもうたとは、言葉を換えて言えば、キリストは我々を支配していた罪に対する勝利者となるために死を遂げたもうた、ということである。したがって、復活は、死においてすでに勝利者であられた方が、その勝利をありありと示したもうた事件である。

 したがって、キリストが我々の罪のために死んで下さったと聞かせられている我々は、我々のためになされたことに対応した何者かになっていることに留意しよう。

 主の復活について述べる前に、「葬られた」と言われている。これもシッカリ押さえて置きたい。葬られたのは、死にたもうたことの確認であるとも言えるが、葬られることによって確実に死人の一人となりたもうた、という意味がある。本当は死んでいなかったから、また息を吹き返したということではなく、正真正銘、死人になりたもうた。だからキリストの復活は、陰府にまで降り切っていない者の再上昇ではなく、死人の中からの復活であり、死人の復活の第一号なのである。

 この方が復活され、現われたもうた。誰にも見られるようになったというのではない。ヨハネ伝14章19節で聞いたことであるが、「しばらくしたら、世はもはや私を見なくなるだろう。しかし、あなた方は私を見る。私が生きるので、あなた方も生きるからである」と言われた。特定の人にだけ現われたもうた。我々は信じているのだから、当然、復活の主を見るのであると言ってはならない。我々は信じて、間違いなく救われるのであるが、見ずして信じる者である。月足らずのパウロにも現われたもうたとは、だれもが見るという意味ではない。限られた数の証言者にだけ現われたもうたのである。

 さて、この一連のキリストの出来事は、キリストの福音がキリストの福音であるための不可欠な諸項目として数え上げられたものではない。不可欠な項目であるととって間違いではないが、必要条件の提示、あるいは、これだけの項目が本当に揃っているかどうか、福音として語られる言葉を点検しなさい、という角度から示されたのではない。福音と言われるものの点検の必要がないという意味ではない。その必要は大いにあるが、今、問題はそれではない。福音がどのようなものとして聞く者に届くかが語られる。

 「兄弟たちよ。私が以前あなた方に伝えた福音、あなた方が受け入れ、それによって立って来たあの福音を、思い起こしてもらいたい。もし、あなた方が、徒に信じないで、私の宣べ伝えた通りの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われる」と先ず言われる。そして、伝えられたことが何であったかを再確認するために項目を挙げて行く。

 我々が信じて救われる、その信じる福音の内容は何であるか、それが先に言った一連の連鎖なのである。その連鎖の中の一つの環としてのキリストの復活に我々は今、目を注ぐ。この連鎖の中で、復活の出来事が特に大きい位置を占めていることは解説するまでもない。14節に、「もしキリストが甦らなかったとしたら、私たちの宣教はむなしく、あなた方の信仰もむなしい」と言う通りである。勿論、この復活だけ単独として取り上げるのではないことは、すでに語ったところから明らかであると思う。

 その中心点からやや逸れていると見られなくないが、無関係ではないことなので、その福音がどのように伝達されるかを今回の聖句に基づいて教えられたい。

 3節に記される、「私が最も大事なこととしてあなた方に伝えたのは、私自身も受けたことであった」。これが福音伝達の経路である。パウロ自身がこの経路に則って伝達したというだけでなく、福音が福音である以上は、この経路を経るほかない、と言う。

 私が伝えたことは、私自身、受けたことであった。私は受けて、それを伝える。謂わば水道管が送り込まれた水を送り出すように、伝えられたままを伝える。すなわち、伝道者たちは材料を仕入れて、加工して、自分自分のブランドで売り出すようなやり方はしない。キリストの福音をキリストの福音のままに伝達するのである。キリストの福音という看板が偽りでないように守らなければならない。つまり、正真正銘の「キリストの福音」でなければならない。混ぜ物があってはならない。なぜなら、キリストに由来する言葉でなければ、救う力はないからである。

 だが、伝えられたままを伝えるということの繰り返しの果てに、伝統主義に凝り固まった、発展のない、硬直した教会になって良いのか、と反論されることがあるかも知れない。もっともらしく聞こえるが、その反論には、問い返さねばならない点が多々ある。例えば、発展とは何か。発展がなければならないと思う根拠はどこにあるのか。等々である。すでに気付いている人も多いと思うが、発展ということが如何にも貴重なものだと考えられる時代があった。教会もまた発展を追い求めていた。そして、その時代を何世代か経過した後、発展というものは空しかったのではないか、という新しい疑念が起こって来た。そういうわけであるから、発展ということは今取り合わない方が良い。しかし、揚げ足取りをしていても実りはないから、まともな言葉で答えて置く。

 伝えられた言葉を伝えて行くことは、生命的な出来事である。それが硬直したとすれば、命なき言葉を伝えたからである。真実の御言葉はそこに命を吹き込んで活性化させるまでもなく、それ自体が生きている。

 伝えるという言葉は、主の晩餐を守ることに関してもキーワードであった。伝えて行く間に分量がドンドン増えて行くとすれば、増えた分は謂わば川に不法投棄されたゴミである。しかし、また、だんだん減って行って、人を救う力がない、というようなことがあってもいけない。伝えられた命の言葉は、命として受け継がれ、伝えられるのである。

 さて、今日学ばなければならないもう一つのことは「死人の復活」である。12節に書かれているが、「キリストは死人の中から甦ったのだと宣べ伝えられているのに、あなた方の中の或る者が、死人の復活などはない、と言っているのは、どうしたことか」。これは断固たる叱責である。

 「死人の甦り」という言葉は、直訳すれば「死人たちの甦り」である。死人を表わす言葉は複数である。一人の死者が、特例として甦る奇跡があるということではない。死人たち一般の復活があるというのである。コリントの教会員の中に、キリストの復活を信じない者はいなかったが、死人の復活を受け入れない者がいた。これは重大な誤謬であるという警告がなされるのである。

 同じような事例は、今日の教会の中に少なからず見られるのではないか。もっとも、今では、キリストの復活も本当は信じないクリスチャンがいるし、そういう牧師さえいる。それは深刻な大問題であるが、今、Iコリント15章のテキストについて学ぶところでは、その問題をしばらく避けて置くことも許されるであろう。キリストは神の子であって我々とは違った例外的な人物なのだから、甦られても不思議ではない、と納得するのは当然とされている。

 しかし、聖書はキリストを例外的なお方とは決して教えない。彼は我々のうちの一人になられた。彼は人と異ならなかった。キリストの復活と死人の復活、この二つを分割することはいけないのだ。

 「死人の復活などというものはない」という人がコリント教会にいた歴史的事情については、今日何も分かっていない。しかし、あり得たことだとの理解は容易である。今日も同様だからである。今日、死人の復活という言葉を教会の中で聞く機会は少ないが、初代教会においても同じであったと一般には思われている。今日学んでいる箇所以外には死人の復活を強調している箇所はないのではないか、と考えている人が多いようである。

 しかし、死人の復活が信仰の基本的条項でなかったという見解は、多くのクリスチャンの間で常識になっているかも知れないが、間違いである。その間違いが広められたのは、聖書学者たちの責任であろう。新約聖書の中にかなり濃密に出て来るこの言葉、当時の教会の精神状況を彼らが読み落としたのである。

 「死人の復活」は旧約時代から引き継いだ新約的信仰である。新約的というのは、イエス・キリストにおいてこそ確立したという意味である。旧約においては、死人の復活を語る箇所が必ずしも少なくはないが、比喩あるいは象徴として言われているのではないかと誤解されかねない曖昧さを伴っており、新約において確立したのであるが、それの謂わば根となるものは旧約から受け継がれたものである。

 一つの挿話を思い起こしたい。使徒行伝23章6節に書かれていることだが、パウロが最後にエルサレムに行った時、アジアから来たユダヤ人がパウロの姿を見て騒ぎ出し、彼は捕らえられて議会に引いて行かれた。その2日目、議会の中で大声で言った、「兄弟たちよ、私はパリサイ人であり、パリサイ人の子である。私は死人の復活の望みを抱いていることで、裁判を受けているのである」。彼がそう言うと、議会の議員の間で、死人の復活を認める人と認めない人とが分裂した。

 この実例が示す通り、ユダヤ人の中に死人の復活を信じる者と信じない者がいた。つまり、聖書解釈が分かれており、パリサイ派とサドカイ派の間で始終論争があった。それが旧約から新約に移行する時期のユダヤの状態であった。つまり、死人の復活を信じる人は信じるのであるが、それを信じる決め手となるものをもたなかった。

 パウロはユダヤ教に反逆してキリスト教に走ったと見られているのであるが、彼自身の本心を吐露するならば、彼は聖書全体に照らして、「死人の復活」を先祖から受け継いだ信仰の真髄であると思い詰めていたが、確証を持たないので、模索していた。その期間、彼はイエスを主とすることが神への冒涜であると信じて、キリスト信者を迫害していた。しかし、転機が訪れる。それはダマスコの門外でキリストに出会った経験であり、これが8節に、「そして最後に、謂わば月足らずに生まれたような私にも現われた」と言っている出来事を指すと思われる。Iコリント9章1節に「私は自由な者ではないか。使徒ではないか。私たちの主イエスを見たではないか」というのもこのことを指すのであろう。

 つまり、求めてやまなかった「死人の甦り」の証拠、その初穂、先駆け、死人の中から最初に甦りたもうた方、このイエス・キリスト、この方にそこで出会ったのである。それが彼の回心である。彼は自分が求めていたよりももっと明確に、死人の復活を信じている群れの中に入って行った。

 キリストは弟子たちに死人の復活を教えておられたから、弟子たちはそれをさらに伝えて行った。例えば、ヨハネ伝6章39節の御言葉は、「私を遣わされた方の御心は、私に与えて下さった者を、私が一人も失なわずに、終わりの日に甦らせることである」だった。キリスト信仰は死人の復活まで引いて行く。死人の復活が教えられたかどうかハッキリしないという解釈は間違っている。

 キリストの復活は信ぜざるを得ないが、死人一般の復活を信じられないのは無理もなかった、と言う人がいるが、逆である。「もし死人の復活がないならば、キリストも甦らなかったであろう」。死人の復活は信じられないけれども、キリストの復活ならば信じる、と言っていた人がいるのであるが、その理解の逆転が起こらなければならない。この逆転を確かめることによって、信仰の曖昧さは消えて行くのである。

         


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