2010.02.14.

ローマ書講解説教第9

――1:16
によって――

 

 前回15節で、ローマにおける福音宣教を行ないたいと願っていると語ったのに続いて、今回は「福音」について論じ始め、これがローマ書序論部分の中心主題となる。先ず今日学ぶ16節では、その福音が私にとってどういうものか、私がどう関わるか。いや、私にとってというよりも、全ての人、ユダヤ人とギリシャ人にとって何なのかが述べられている。そして、この福音において神が何をなしたもうかを語る17節がローマ書の序論だけでなく、ローマ書全体の核心部であることを世々のキリスト者は讀んで来た。我々もそれに同感しつつ讀むのである。その重みと比べるならば、16節は軽いかも知れない。それでも、見過ごしているとすれば大変な損失である。
 「私は福音を恥としない」と言い切るのである。福音を恥とする人、そういう立場にいる人を先ず批判し、それと対照して、「私は恥じない」と説かれるなら、分かり易いと思われるかも知れない。しかし、そういうふうに分かり易くして、それでいわんとしたことが的確に言えるであろうか。その逆ではないか。パウロとしては福音に捉えられた時以来、これを恥と感じることは全然なかった。それをズバリと言い切っているのを聞き取って置こう。よく知られるように、彼は回心して早々福音の宣教を始めた。一番初めはダマスコにおいて、その地に住むユダヤ人に対してであった。やがて、エルサレム、その他の地でユダヤ人以外の人々にも呼び掛けを拡大した。
 パウロのこの転向については、主の言葉がダマスコ教会の指導者アナニヤに最初から語っていた。「あの人は異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、私の名を伝える器として、私が選んだ者である」。――この言葉が間もなくアナニヤからパウロに伝えられたと思われる。パウロは素直にこれを受け入れ、生涯そのような人間として生きるほかなかった。だから福音を恥じるのとは全く無関係な生き方に徹した。
 パウロの場合はこの通りであったが、多くの人においてはそうでなかった。自分では、とにかく福音を受け入れなければななないと感じて、信じた。しかし、信じている福音を、あたかも恥ずべき物のように心に秘めて置き、人には語らない場合がキリスト者の間では多いのではないか。今日ますます多くなっているのではないか。
 悪いことではないが人に知らせるのは恥ずかしい。そういう場合があるが、それとは違う。自分にとっては宝であると思っているが、本当に大事な宝であるものは、それを自分のものだと言うのを控えるべきだと考える人がいる。純粋に個人的なことだから人には言わない。それと福音とが全く違うことがここで語られている。
 「福音」についての基本的説明はこの書の冒頭、123節で述べた。だから、済んだと言うのではない。繰り返し学びを深めねばならないが、これまでに触れていない点を論じる必要がある。
 「福音」という語について、かなり重要な、しかし見過ごされている点を学び直して置こう。「ローマでも福音を宣べ伝えたい」と15節で言われた。これは「福音を宣教する」と訳すべき一語の動詞であって、「福音」があって、それを「信じる」ことと「宣教する」ことと二つの別個のことだと分析してはいけないのである。
 商人が商品を買い込んで保管して置いて、それを売り出す時期は別に考えるということはよくある。それと同じように、「福音」を内に保つことと、それを「宣べ伝える」こととを別々のこと、また別々の段階というふうに捉える人がいる。それは福音の間違った理解である。福音は信じなければならないものであり、また信じることによって人を救うものであるが、それだけでなく、本質から言って、宣べ伝えられるべきものである。だから、宣べ伝えられないままの形であることは出来ないのである。
 難しく考えることは要らない。福音とは「喜びのおとずれ」である。おとずれは発信されまた受信されるが、当然、発信している人にも、受信する人にも、喜びなのである。福音を伝えているけれども、伝えている人自身が喜びを持っていない、あるいは喜んでいる振りをしているだけで、聞く人に喜びが伝わって来ないという場合がある。それはハッキリ言って、本当の福音ではないからである。福音は心から発してこそ心に届く。
 信じていないのに、信じた振りをしておれば利益になるから、あるいは信じると言う人が多い中で、信じていないと恰好がつかないので、信仰者らしく見せ掛けるという場合かも知れない。だが、もう一つ、これは真理であると信じているが、人前でそれを言い表さなくても良いではないか。むしろ信じていることは心のうちに秘めて置くのが本当ではないか、と思っている人が割合いる。
 「知識」というものと比較すれば分かり易いのではないか。知識を振り回すのは軽蔑すべきこととされている。だから、知識ある人は知識があるという素振りすら見せない。こういう心得が広く行き渡っているため、福音もそうなのだと取り違えてしまう人が多いように思う。しかし、この捉え方が間違っている。知識をひけらかさないようにとの教訓は、謙遜が大切だからである。知識を蓄積すること自体はむしろ大切なのだ。知識を持ち、しかも謙遜であることが良い。
 ところが、福音はそれ自体が「宣べ伝えること」と本質的に結び付いている。私的なことではなく、私の枠を越えて広がる。だから、福音が「メッセージ」にならないで、内に凍結されていたり、言葉遊びやパズルとして扱われているならば、福音でも何でもない。せいぜい福音というものについての知識があるというだけのことである。
 福音を「しまい込まれた形」と、「宣べ伝えられる形」とに分けて考えてはならない。「宣べ伝えられた形」としてのみ福音はあるのだと捉えることが大切である。頭の中、あるいは心の中にしまってあるだけでは、知識や思想と同じで、知っていることは結構だが、それでは救いの益にならない。そして、救いとは自分の救いだけでなく、他の人の救いと結び付いている。
 同じことではないが、似たこととして、心に信ずることと口で言い表すこととの結び付きがある。別のことではあるが、別々に切り離すと、生命はなくなる。福音を信ずることと福音を宣べ伝えることの関係も同じである。ただし、福音を宣べ伝えるとは本来「説教」することであるが、説教している人だけが信じているのではない。信ずる人は聞くことによって宣教に参与している。
 さて「恥じる」ということで思い起こされる主イエスの言葉がある。マルコ伝836節に「邪悪で罪深いこの時代にあって、私と私の言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使いたちと共に来る時に、その者を恥じるであろう」。同じ言葉が文脈の状況は違うが、ルカ伝926節にもある。キリスト者の間では知られていた。
 パウロが福音を「恥じない」と言うのと、主が「私と私の言葉を恥じるな」と言われたこととは同じことではないが、かなり近いということを感じる人は多いであろう。
 主が福音書で言われたことは「福音を宣べ伝えることを恥じるな」ではなく、「私を告白することを恥じるな」である。しかし、恥じないことについて両方は極めて良く似ているのである。今それを恥じる者を、来たるべき日に人の子は恥じる、と言われる。すなわち、今恥じることについて、来たるべき日に審判が降る。救われず、捨てられる。
 パウロは福音を宣べ伝えないことについて裁かれるとは言っていないが、それにかなり近いことを言う。思い起こされるのはIコリント916節があるからである。「私が福音を宣べ伝えても、それは誇りにはならない。なぜなら私はそうせずにはおられないからである。もし、福音を宣べ伝えないなら、私は禍いである」。
 そのように、ローマで福音を宣べ伝えたい、そのことを私は恥じないと言ったのは、ローマで何か一働きしたいということではなく、パウロ自身の在り方の根本に関わることである。ここに、さらにローマでそれをしたいという願いが重なっている。 ローマがパウロにとっての最終目的地ではなく、通過点であることはすでに明らかであるが、軽く考えるべきでないことに触れて置く。これはパウロだけのことでなく我々にも共通のことであるが、どの場所にいるかは、どうでも良いことである。地上のどの場所からでも神の国に行く道は開ける。
 また、どの場所で宣教した方が実りが大きいということはないし、どこで宣教したならば功績が大きいということもない。ローマで説教する人の方が田舎で説教する人よりも偉いということはない。
 そういうこととは全く別な意味で、ローマにおいて宣教することの特殊性があることに触れねばならない。ローマは有り難い場所ではないが、有り難い場所、霊場であるかのような考えを人々が持ってしまう。ヨハネの黙示録の中にローマの滅亡を予告して「大いなる都」と呼ぶ例が沢山出ている。実際これを「大いなる都」と人々は当時呼んだのである。そして、大いなる都とは、単に大きいというだけでなく、永遠の都という意味がだんだん籠められて行くようになった。それは根拠のない俗信だと言うべきであろう。確かにその通りである。けれども、人間の頭は永遠でないものを簡単に永遠的なものであるかのように格付けしてしまう。
 パウロの時代、そういうことが少し始まっていた。要するに皇帝を尊いものして置かないと国が良く治まらないと考える人たちが多いために、皇帝の挌がだんだん上がるにつれ、皇帝の住む場所を尊ぶようになって行く。同様のことが我々の身辺でも見られる。天皇のいる都が「帝都」と呼ばれて一段高い位置に置かれる。
 大切な点はここからである。大いなるものと言われても、人はそれほど本気で大いなるものとは考えていないが、それでも、そういう所謂大いなるものに対しては、感覚的に「恥じる」、あるいは「ためらう」ということが起こる。皇帝の眼前に福音を高く掲げるということとは違うが、皇帝のいる都、皇帝の名で尊く見られている町々に、福音宣教を持ち込むことに「ひるむ」ことが起こりかねない。しかし、その時「私は福音を恥じとしないのだ」と言い切る確認の意味が良く分かる。
 我々の住んでいる東京という生活環境についても似たことが言える。東京にいるから救いにとって有益だということはないし、不利になることもない。ただし、こういう環境の影響を受けて、我々の感覚がおかしくなる危険はある。隣り人を愛するということが分かり難くなることはある。福音を恥とせずに生きる生き方が鈍ることも大いにある。恥とか誉れということについての感覚が狂いやすい。
 つまらないことだと言われるならば、その通りであるが、環境の中で恥ずべきことが恥ずかしくなくなり、恥でないことが恥ずかしく思われるような変化があり、そういう環境にある教会の感性が狂って来ることはある。その分隣人を疎んじるのである。
 さて、この福音は「救いを得させる神の力」である。すなわち、福音を宣べ伝えなければ救いはあっても動き出さない。
 福音と救いの関係がどうなっているかを捉えて置こう。福音は神の言葉で、神の言葉は神から与えられる。それは出エジプトの民が荒野で日毎に神の賜わるパンであるマナによって養われたように養われる。では、今の世において、野に出てマナを拾って来て食べるのに当たるのは御言葉をどういうふうに受けることか。
 ローマ書1014-15節は言う。「信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。『ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は』と書いてある通りである」。
 遣わされる者が足を運んでやって来る。そして、声を上げて宣べ伝えることを始める。そうすると宣べ伝えられた言葉が、耳ある者の耳に届く。もっとも耳に届くものは沢山あるから、それによってかき消されることがないようにしなければならない。それは音量を上げることなのか。いや、音量を上げても届くとは限らない。そして、大音声にしなくても心に届く声はある。すなわち、信仰から発する声は信仰を呼び起こす。心から発してこそ心に届いて、心がその言葉、福音を受け入れることになるのである。それが信仰である。
 この信仰によって救いが事実となる。信仰によって確認されるまでは、福音が聞こえていても、聞いたことを良き言葉であると判断できたとしても、救いが観念として把握できたとしても、救いの実体はまだない。良きおとずれは、聞こえて来ているだけでは期待としては高まるが、未だ喜びになっていない。しかし、聞こえて来るところから始まる。


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