2010.01.17.

ローマ書講解説教 第8

――1:13-15
によって――

 13節でまた繰り返し語られるのは、ローマに行こうとした熱意である。その関心の深さが「このことを知らずにいて貰いたくない」という前置きで示される。何とかしてこの思いを受け取らせようとしている熱意が、事情は良く分からぬままであるが、伝わって来る。行って、ローマで幾分かでも実を集めたい。どういうことか。
 これほどに行きたがっている真意が分かるよう、我々の側でも努めなければならないが、その手がかりとなるのは、14節でいう「果たすべき責任」である。福音を宣べ伝える責任があるから行く、と言う。熱心にならざるを得ないのは分かる。ただの願望ではない。我々も共感しなければならなくなるのではないか。
 福音はいずれ世界宗教として広がって行くであろう、といった将来的見通しを持っているということではない。また、福音そのものに活力が満ちているのだから、おのずから増え広がって行く、という理論付けをしているというのでもない。そのような態度は責任なしでも取れる。傍観者としてでなく私自身の責任があると言うのだ。これを聞く時、我々は自らのうちにこの無責任的傾向があることに気付かせられる。
 キリスト教会では長い世紀に亘って、伝道の熱意が突出して盛んであった。さらに、ここ数百年、かつて見られなかった伝道活動が盛り上がった。それが今日では世界の多くの国で停滞している。これは問題だと感じる人が多いのは当然である。だから、往時の活発さを取り戻そうとの熱意に燃える人が我々の身辺にもいる。ところが、何か活路が見出されたかというと、閉塞状況はいよいよ進んで行く。「伝道、伝道」という掛け声を掛けることが気恥ずかしいというような風潮がある。
 マタイの福音書の結びのところで、主イエスは「私は天においても地においても一切の権威を授けられた」と主権宣言をされ、続いて、それ故に「あなた方は行って全ての国民を弟子とせよ」と命じたもうた。これは絶対的な命令として受け取られねばならない。つまり「果たすべき責任がある」。時代が違い・状況が変わったから、キリスト教の性質も変わってしまい、至上の責任とされたことも免除されると思う人が増えた。だが言い抜けが出来ると思っているとすれば、「私は天においても、地においても、一切の権威を授けられた」と言われた御言葉を無視することになる。キリストが主であるという最も重要な実質を捨てて、キリスト教の外枠だけを守ることになる。つまり、キリスト教の生命は失われる。
 それではいけない、と気付かない人はないであろう。だから、今でも、伝道! 伝道!と叫ぶ人はいる。だが、その叫びは人々の心に届かない。それは聞かない人が悪いからか。そうかも知れない。だが、むしろ我々が素直に聖書の御言葉を聞かなくなっている事実は否定できない。だから沈滞するのではないか。
 さらにもう一方、伝道! 伝道!と言いながらやって来たことは、何だったかを問われている。真実な叫びが全くなくなったとは言えないのだが、この世には人を動かそうとする声が溢れている。すなわち、国家が人々を駆り立てて国家目的に従わせようとしている。また、資本の力が宣伝技術を開発して、広告の力で人の心を左右している。それが如何に問題であるかについて、すでに気付いている人は少なくない。それでも、キリストの命令以上のものとして国家の命令に従う人は多い。教会の言葉はそれと比べて見劣りすると見られているのではないか。
 では、教会がもっと努力して、国家や大資本の宣伝力に負けない方策を開発すべきか。努力が足りず、やり方が稚拙なことは確かであるが、そもそも問題領域が違うのではないか。「私の国はこの世のものではない」と主キリストはハッキリ言われた。したがって、教会がこの世の活動領域において力を発揮しようとするのが筋違いではないのか。筋違いの場所でキリストの言葉を行き渡らせようとしても、うまく行かない。
 「私には責任がある」とパウロの言った言葉は、国家の権力や資本の力の通用する地平と別な領域でこそ理解できる。そのことなら我々には分かるのである。ギリシャ人にも未開の人にも責任がある。先には、ユダヤ人にも異邦人にもという分類であったが、異邦人伝道が使命として定まっているから、異邦人の中にギリシャ語を使う人とそれ以外の言語で話す未開人がいるという分類になり、どちらに対しても責任がある。どちらの人の心にも福音を届かせなければならない。
 聖書の言葉の解き明かしと別の話しをしているように思われるかも知れないが、そうではない。「私の国はこの世のものでない」という主の御言葉を忘れて、キリストの御国を考えるようになった誤りを訂正しなければ、パウロの言っている「責任」は理解出来ないということを我々は今気付かせられているのである。
 16世紀にカトリック教国が盛んな海外伝道を行なった。それは伝道と言われたが、領土拡張であった。かつては軍隊の力によって行なった領土拡張が、キリスト教の宣教活動によって行なわれたに過ぎない。
 18世紀以降、プロテスタント諸国が領土拡張というのとやや違う海外伝道を行なった。だがそれは教会固有の霊的な力の現われではなく、プロテスタント諸国における資本主義の発展の一翼に他ならない。それらの国における資本主義と文明の衰頽とともに、キリスト教も顧みられなくなったのである。
 それらの伝道の中にも神の言葉の力の現われを見ることが出来なくないので、我々はそのような伝道の歴史を全面的に否定してはならない。けれども、反省しなければならない面、否定しなければならない面は非常に多い。その反省の欠如が今日のキリスト教の低迷を招いていることに無自覚であってはならない。
 「私には責任がある。だから、私はローマに行こうとしている」とパウロは言った。この責任事情は我々においても同じだということに目覚めなければならない。我々の全てがローマ行きを決意しなければならないということではない。主の御旨なしに何かが起こるわけはない。しかし、当然、私は主の御旨のある所ならどこへでも行ける覚悟をしていなければならない。そういう用意が福音宣教に携わる人の中にも、聞く人の中にもないということが問題なのだ。つまり、自分自身の存在を二重にも三重にも縛り付けている生まれ育った国、そこからの発想しか持っていない。国の枠を越えた規模で福音を捉えることが出来ていない。この件については今日はここで留める。
 「あなた方の間で幾分かの実を得る」と言っていることについて述べよう。「実」というのは働きの実である。農業の作業は要するに実を採集することであるが、それを譬えにしている。実のない働きというものはない。
 では、「あなた方の間で得る実」とは何か。ローマでまた新たに信者を獲得しようとしているのか。それは当然ある。しかし、それだけでないであろう。すでにキリスト者になっている人を、ただの信者でなく、伝道の働き手として獲得することもここで考えられている。ローマの教会の活動を充実させて行くための働き手が、パウロの指導によってもっと起こされねばならない。いや、そればかりでなく、世界の教会のための働き手を、この大都市の教会の中から掘り起こすことが必要なのである。それも働きの「実」として考えていた。
 もう一つある。パウロはローマまで行ったら、それが双六の上がりのようなもので、後はそこに留まって、その教会を帝国の首都の教会に相応しい威厳や諸機能で充実させようと思っていたのではない。教会の基礎が据えられるまでは使徒としての使命があるから留まるが、基礎が据えられたならば、ここを去って、次の地、まだ誰も福音を宣べ伝えていない所に移って行く。彼が考えていた次の場所はイスパニヤであった。
 そこで、次に行く地での伝道のための資金を用意して置くことを考えていたのである。その資金がローマ教会の人々から集めた「実」なのである。「ほかの異邦人の間で得たように」とは、実際的な経験があったことを示している。ほかの異邦人教会ではどうであったかを我々は使徒行伝の学びを通じて知っている。すなわち、マケドニヤ地方の伝道の記録で見たように、異邦人教会では、一つの教会が建て上げられると、使徒は次の伝道地に進出して行き、新しい地での伝道者を支えるのは、先に建てられたばかりの教会であった。それがパウロの世界伝道の方式であった。すなわち、使徒を派遣した元の教会が、派遣された者の生活について責任を負うのではなく、生み出された教会が次の教会を生み出すための費用を醵出するのである。
 親教会に豊富な財源があって、伝道を始める資金があるから、新しい伝道地の開拓を計画することが出来るという伝道戦略があるのではない。資金の用意なしで、「行って福音を宣べ伝えよ」との命令があったから活動が始まる。
 伝道者の生活の維持は地上の誰からも保証させていない。命じたもうた主が一切を支えたもうという信頼がこの命令に対応するのである。勿論、なにがしかの当座の生活費はあるが、長期に亘る生活保障とは無関係である。むしろ、それはないものとして実行が始まると考えた方が良い。
 そこで、伝道者自身が生きて行くために、1)本人が労働して生活を支える。2)伝道者がかつて働いていた教会が支援金を送る。3)伝道者が伝道する現地で生活の資を幾分か集められる。この三つの道だけが、伝道者の生活を支えるという方策がパウロに見られる初期世界伝道の道であった。それは主イエスが弟子を派遣したもうたのと同じやり方である。
 その三つが「信仰」の原理によって立っていることを確認していなければ全く脆い。信仰によらない援助が危険なことは、信仰者の間では理解されているであろう。例えば、かつて日本が朝鮮を支配した時、日本の教会による朝鮮人伝道に、朝鮮総督府が援助金を出そうとした。その援助金を貰った教会がある。信仰による醵出金でないものは受けてはならなかったはずだが、受けた教会はある。その教会の伝道の成果は50年掛かってもゼロであった。伝道は良いことだから、金の出所が多少いかがわしくても浄財になるのだと言うのは誤魔化しである。我々はこの点、潔癖過ぎる程潔癖であって良い。
 したがって、信仰による献げ物だから淨い献げ物だ、と言うことにも慎重でなければならない。喜んで献げると言うが、見栄で、体面上している場合がある。本当は出したくないが、義理があって出さざるを得ないという場合もある。名実ともに信仰的な献げ物でないのに、見て見ぬ振りをして信仰の献げ物として受け取ったり、また強制を加えて伝道の資金を拠出させたりしてはならない。無理や偽りのキレイゴトを言っていては必ず破綻が来る。
 今パウロが「あなた方の間で幾分かの実を集める」と言っていることについて、彼が実に慎重である点を良く見て置きたい。十分な理解なしに、人のすることに釣られて拠金し、後で苦い思いをすることがないように、教会の姿勢をシャンとして置かねばならない。
 以上のようにローマに行かなければならないので、これまでにも行こうとしたことが何度かあって、それが阻まれた。それを知らずにいて貰いたくない。こう言うことが嘘でないと確かめるのは行き過ぎかも知れぬが、パウロが嘘をついているのでないことは理解出来る。この手紙を書いた時、身辺にいる人から、ローマの兄弟たちに宜しくとの伝言が沢山あったことは16章に書かれている。これはコリントで書いた。コリントとローマの関係は近いのである。
 コリントは海の中を横切る地峡にあって、両側に湾があって港がある。東に向けて行く船はケンクレヤから、ローマに行く船はレカイオンから出る。ローマ行きの便は多く、日数も余り掛からなかったらしい。コリント教会にはローマと行き来している人が多い。パウロが行こうとしたのは当然である。
 それが妨げられたのは何かの事故によってである。例えば、ユダヤ人の追放があってローマには非常に入り難いという時期が時々あった。
 それでも切なる願いとして、ローマに行ってあなた方に「福音を宣べ伝えよう」との願いがある。この「切なる願い」はパウロにとって、あれば結構、なければなくても良いという意味の付加物でなく、生存そのものである。まだ福音を聞いたことのない人たちに語るのは勿論であるが、すでに聞いているあなた方にも福音を語りたい。それはあなた方がまだ本当に福音を聞いていないからという意味ではない。パウロにとっては福音を宣べ伝えることこそが使命であり、目的であり、存在そのものであるから、誰に対しても福音を語ったのである。使徒にとってだけでなく、我々にとっても福音を聞くことは、存在に関わることである。

 


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