2010.01.10.

ローマ書講解説教第7

――1:11-13
によって――

 

 「あなた方の所に行けるようにと祈っている」と先の節で言われた。それを言い直して11節では「あなた方に会いたいのだ」と気持ちを伝える。これは人間的感情を吐露しただけのものと取られ兼ねない言い方なので、言葉を付け足して「霊の賜物を分かち合いを望んでいるからだ」と説明する。これは信仰者と信仰者の出会いがどういう意味を持つことなのかを説明したもので、単純ではあるが、シッカリ抑えて置きたい。
 人と人との「出会い」が大きい出来事だという人生訓、生きる姿勢の手引きが一般に普及し、「出会い」という言葉は流行語のようになっている。話しに聞くだけでは、その人を本当に知ったことにならないから、真実に出会わなければならないと教えられる。その教えが大事なことを言っていると人々は認める。
 そういう教訓について批判的なことを言う必要はない。人生の中で出会いがないならば虚しいということはその通りである。本当の出会いがあってこそ、生きている意味の深さを考えるキッカケを掴むのである。ただし、聖書がここで言っているような出会いを、普通の出会いと同列にならべて、これで分かったという気になって済ませていては問題である。
 ここでは、「あなた方と出会って、霊の賜物を幾分かでも分かち合うのだ」と言う。つまり、会うことの中味が何かを言うのである。パウロがローマのキリスト者と会って、いろいろな事が起こるが、その中で「霊の賜物」の「分かち合い」だけを取り上げるのである。このことのためにこそローマに行かねばならないのだ。それ以外のことには関心がないのだ。――我々が人と出会って起こるさまざまな出来事、成果、それは今は伏せておいて、霊の賜物を分かち合うことを考えて見よう。
 口語訳聖書では「分け与える」と訳してあり、それで間違いとは言えないが、十分意味が通じないかも知れない。すなわち、「本来私が持っていたものを、分割してあなたに与える」という意味に取られると、「与える」、「受け取る」という関係に主眼点が置かれるようになり、意味が違ってしまう。パウロの側に圧倒的に豊かな霊の賜物があり、相手の方には賜物が乏しいので、持っている側が持たない側に贈与する、という理解では主旨が狂ってくる。ここには本来、「共有」という意味がある。与える人と貰う人、担う人と担われる人の関係ではない。
 こちらから贈与するという意味があるのではないかとの疑問が残るであろうが、12節には「お互いの信仰によって、共に励まし合う」という言い方をしているから、分け与えるという一方的なものでなく、分かち合いという相互関係だということが分かる。
 もっと分かり易く言うならば、一つの体に譬えられる教会の交わりがある。種々の肢があり、務めは別々であるが、支え合って一つの体をなし、一つの首に属する。キリスト以外に首はない。肢と肢との間に上下関係や優劣の違いはない。劣っていると見られる肢は、実はそれがなくては優れていると見られる肢は立ち行かないし、全身は支えられない。
 パウロがローマに是非行きたいと思う意味をここから理解したい。ローマ教会がすでに宣教活動を始めており、その信仰、その活動が遠くまで聞こえているが、世界的に重要な意味を持つこの都の教会が、健全に建て上げられて行くためには、まだ必要な要素がある。そのために私が行かねばならない、と言っているように思われる。
 では、どういう要素が足りないのか。――こういうことを論じた人は余りいないようだが、特に難しい問題ではないから、触れて置いて良い。すでに見て来たことであるが、ローマ教会が誰によって建設されたか分かっていない。無名の伝道者が一人あるいは複数いた。定住しなかったようだが、ローマまで来てキリストの福音を宣べ伝える人がおり、活発な教会活動が育っていた。このことは、教会にとってむしろ幸いであったとも言える。「創立者誰それ先生」という由緒が語られないことは幸いである。誰それの名によって建てられたのでなく、キリストが建てられたということだけがハッキリすれば良いのである。
 しかし、最初の伝道者の名が知られないことは幸いである面とともに、或る意味での欠陥を抱えていたらしい。それは、教会の肢々が自由に生き生きと働いていることは優れた点であるが、教会は活発に動いておれば良いというものでもない。ここまでのところで明らかに見られるように、遣わされた人がいて、遣わされた人が託せられた務めとして御言葉を語って、この御言葉によって信仰が起こされて、そこに主の教会が建て上げられる。教会はどこでもこういう過程を経て生み出される。その経過が教会としての骨格を作るのである。
 ローマ教会の場合、最初の伝道者の名は分からない。使徒あるいは使徒の職務を持つ人が来て教会の基礎を据えることがないうちに、ここでは伝道が始まったのであろう。例えば、エルサレムからアンテオケに移動して来た預言者がいたが、そのような人が来たのかも知れない。その人がどういうことを教えたか残っていない。アガボという預言者は飢饉を預言し、その通りのことが起こったから、偽りの預言者ではないと言えるが、これでは教会が建たない。また、エペソに来たアポロと言う伝道者はイエスがキリストであると聖書に基づいて論じ、多くの信者を生んだが、キリストのバプテスマは知らなかったから、これでは信者がいても教会は建たない。

 伝道者の名前を明らかにすることはどちらでも良い、と言える。それでも、キリストから遣わされた使徒の齎らす霊的賜物は、教会が建ち上げられて行くに際して必要なのだ。そうでなければ、信徒運動としては生き生きとしていても、フトその火が消えてしまうということがあるかも知れない。その実例は今日も少なくない。
 パウロがそういうことを経験したかどうかは分からない。しかし、そういうことがあり得るという認識は持っていた。例えば、Iコリント310節で「神から賜わった恵みによって、私は熟練した建築師のように土台を据えた。そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういう風に建てるか、それぞれ気を付けるが良い」と言っている。

 土台はキリストしかない。その土台は据えられたが、土台の上に建てられる建築材料が悪いとか、工事の手順が違ったりすると、建った家も傾いて来る。教会は神から賜わった恵みによってシッカリした方法で建てなければならない。その点どうであろうか。霊の賜物を持った人が行って、その賜物の分かち合いをすることがこういう時に必要なのだ。
 自分が行かなければチャンとした教会はローマに建たない、という自負をパウロが持っていたと取っては正しくないかも知れない。その賜物は使徒しか持っていない免許皆伝の奥義というようなものではない。それは分かち合い出来るものである。みんながそれぞれの分に応じて持ち寄り、分かち合い、全体で共有することが出来るものである。しかし、その賜物は自然に発生し、偶然に齎らされたものではなく、霊の賜物として与えられたもので、賜わっている人が、他の人々に分かち合うのである。
 「霊の賜物」と言われるが、この言葉は教会の中でかなり行き渡っていた教会用語ではないかと思う。というのは、この言葉はIコリント12章に頻りに用いられ、コリント教会の中にこの「霊の賜物について強い関心を持つ人がいたらしく、その関心が教会にとって必ずしも健全に作用していないことを心配して、パウロがここで心を砕いて丁寧に説明していることが見られるからである。
 そこから連想して、ローマ教会にも似たような傾向があったのではないかと想像するのは行き過ぎであるかも知れない。行き過ぎた想像ならば否定すれば済むのであるが、先程来触れて来たローマ教会に感じられた教会としての或る弱さと、霊の賜物を強調し過ぎるコリント教会の中の傾向との類似が考えられなくはないのである。

 ローマ教会の中に霊の賜物についての強い関心を持つ人たちがいたのではないかと考えられることと、ローマ教会が無名の伝道者によって開拓されたこととは結びつくのである。教会が使徒の宣教によって基礎を据えられ、使徒的な教えをシッカリ守って建てられて行く、という教会理解とかなり違った教会理解を持つ歩みをするのは霊的な教会でなければならないと主張する傾向である。そういう傾向が一般的にあることを我々は知っている。
 「霊的」ということを強調する人が、熱心であるということは一般に言える。己れを偽って、また相手を欺いて、霊的! 霊的! と言うに過ぎない場合があるが、それを度外視すれば、「霊的教会でなければならないと」力説している人が、真面目な、熱心な人だと見られるのではないか。しかし、「霊的な教会」と言われる時、その教会の内実が何であるかを問うて行くと、熱心ではあるが中味がない場合が多い。
 ローマ教会がそういう教会であったと憶測することは差し控えたい。また、パウロがローマ教会をそのような教会ではないかと疑っていたと見ることも慎むべきである。しかし、ローマ教会がそのような教会にならないように願って、パウロが建徳的な勧めを語っていると解釈するのは許されることであろう。
 我々の周辺で、いや我々の中で、「霊的教会」という言葉で人を叱咤激励することが起こるかも知れない。教会が霊的でなければならないことはその通りなのだが、「霊的教会」とか、「霊の賜物」という言葉が、内実を伴わず、単に人々を威圧するだけの脅し文句にならないように、真に有益な言葉を語るようにしたい。
 「あなた方に霊の賜物を幾分でも分け与えて力づけたい」というパウロの言葉に対して、先方から拒絶反応があるわけはないと彼自身は確信を持っている。あなた方も霊の賜物の重要性を知っているから、互いに賜物を分かち合おうではないか、と呼び掛けが行われた。こうして、霊的な賜物が何であるかが明らかになって行くようにしようというのである。
 その霊の賜物とはどういうものか。先に触れたように。Iコリント12章に記されたことをそのまま学習すれば良いと思う。その章を今は短く纏めるに留めるが、先ず言ったことは「神の霊によって語る者は誰も『イエスは呪われよ』とは言わない。むしろ聖霊に寄らなければ誰も『イエスは主である』と言うことは出来ない」である。これが霊の賜物についての総括的な教えであり、この賜物はイエスの名を信ずる全ての者に与えられる。イエス以外の者が主であると告白するのは、霊の賜物を持たない人である。御霊の賜物を受けている人なら「カイザルは主である」とか「天皇が主である」と言うことは決してない。
 次に言われたのは霊の賜物とは何であるかではなく、如何なる性質を持つかである。「霊の賜物は種々あるが、御霊は同じ」ということである。言い換えれば一つの御霊によって種々の賜物が来る。そこには多様性があるとともに、多種多様なものが一致して働く。それはキリストの体を建てる。全体の益を与える。
 その次に各論として、知恵の言葉、知識の言葉、信仰、癒しの賜物、力ある業、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解く力である。パウロはこれらが霊の賜物であることを否定しないが、霊の賜物のうち重要性のないものとして教えている。特に異言は余り益を与えない。霊によって言葉を語るならば、異言でなく預言を語ることを求めるべきであると教えている。
 これらの賜物のいちいちについては説明を省略するが、「信仰」が霊の賜物だということについては一言言う。ここで言う「信仰」は救いを齎らすものとしての信仰ではなく、信仰に伴う力を示すものである。例えば、信仰で癒されたと言う場合の信仰は、信じて罪の赦しを受け、信じて再生の御霊を受ける、という場合の信仰ではない。
 ローマに行って、教会の人々と霊の賜物を分かち合うとは、どういうことであるか。これでかなりハッキリ見えて来たのではないかと思う。
 そのように霊の賜物を分かち合うことによって互いに力をつけ合うのである。励まし合うということは、単に励ましの掛け声を掛け合うことではない。励まし合って、その時は力が湧いて来るように感じられても、その場だけに終わって虚しくなることが多いのである。
 励ましというものについても注意して聞き取ろう。その場限りの励ましではない。力を与えることである。救いに向けて前進させる力である。

 


目次へ