2009.11.15.

ローマ書講解説教第6

――1:9-10
によって――

 

 9節から10節にかけての言葉は、日本語訳では節の区切りのない長い文章である。原語でも切れ目のない文章であるが、言葉の並び方が違うから、翻訳ではますます切り離さない方が適切だと見られて、910節が一続きの文章になっている。日本語で聖書を讀む以上は、この日本語訳にしたがって讀んで行く他ないと思う。理解し易くするためには、言葉の並びの順序、語順を変えて見ることも許されるであろう。
 いろいろ並べ換えを試みて宜しいが、パウロの語った本来の順序になるべく沿って行くとすると、9節では先ず「なぜなら、私の証し人は神だからである」という言葉が来る。あなた方のために私が祈っている、と先の節で言ったが、祈っていることがウソでない証しは、私がいろいろ述べ立てるまでもなく、神が立てておられる。だから最も確かであるという意味である。
 「証し人」「証人」という言葉は我々にとって初めて出会う言葉ではないが、日常生活では使わないから、いささかモノモノシイという感じがあるかも知れない。まだ会ったことのない相手に語るのであるから、非常に緊張して語ったのであろうという事情が窺える。
 会ったことのない人から、予告なしで真剣な事柄について語り掛けられて、戸惑っているかも知れない人に、私とあなたの間には神が立っておられ、その神は私がどういう人間であり、私の語ることが真実であるかどうかを証ししておられる、と言うのである。要するに、神を私の証し人に立てる。神が私の保証人になって下さる。それは、まことに心強い。
 証人とはいろいろな場合に立てられるが、最も適切なのは裁判である。訴える人がいて、訴えられている私がいて、判決を下す人がいて、そこに証言する人が連れて来られる。私が有罪か無罪かはその人の証言に懸かっている。
 裁判でなくても、証人が必要な場合がある。私について客観的に証言してくれる人が必要である。パウロはこの時、自分のための証言者として神が立っておられることを信じていた。我々も神の証言しかない場所に立たされることがあるのを知っている。ほかに誰も見ていなかったが、神が見ておられたので、私は真実を語ることしか出来ない。そういうことは私に対立する人がいてもいなくても同じであるが、証人という地位に立つ人がいてくれるのが必要な場合は、神と私だけでなく、第三者がいる場合である。今の場合、その第三者は手紙の宛名人、ローマの人たちである。
 この場合、宛名人は神を証言者として連れて来て、神に証言させて、パウロの語ることが真実であるかどうかを判定するのか。すなわち、あなた方は、神を証言人として、私の言うことが真実であるかないか判定せよ、と言うのか。――そういうふうに想定することは出来なくない。
 けれども、この場合、そして我々にも関わる多くの場合、神を証人として呼んで、証人尋問をして、私の言うことが本当かどうか判決を下す、ということではない。ここで呼び掛けられている手紙の宛名人、ローマ教会の兄弟たちは、私を訴える者、私を疑う者、あるいは私を審く裁判人になぞらえられているのではない。兄弟たちは同じ立場にいる。私の味方である。だから、神が証人であると言うのは比喩である。しかし、自分が今真実を語っていると知って貰いたいという思いをこめてこう言った。
 その神をパウロはどう捉えているか。「私が私の霊によって仕えている神」と言う。ここには比喩の意味は全くないものとして聞かなければならないのは当然である。
 神に仕えるという言葉は神礼拝のことである。そして、神礼拝は一つの儀式と考えられることが多い。実際、或る種の儀式を伴わない神礼拝は、空想的なもの、遊びごとになってしまう危険がある。しかし、儀式をすれば良いという解釈には問題がある。
 「あなた方が捧げる多くの犠牲は私に何の益があるか。……あなた方は私にまみえようとして来るが、誰が私の庭を踏み荒らすことを求めたか」イザヤ書1章のこの御言葉は儀礼としての礼拝の偽りをハッキリ告げている。儀式の形を整えたり、犠牲の献げ物を増やしたりすることは、礼拝の中味の充実にはならず、神の求めたもう正義を行うことこそ、神の喜びたもう礼拝であるということが、その後に続けて語られる。
 ただし、そのことを社会的正義や道徳の実行が神礼拝になるという意味に解釈するならば、これまた由々しき誤謬である。「神は霊であるから、礼拝する者も霊と真をもって礼拝しなければならない」とヨハネ伝423節で言われることで結論がつくのであるが、神に仕えるのは霊によってである。
 人は自分に出来る最善の業を行うことによって神に仕えたいと当然考える。そして、最善のことをしていないと思うことは耐え難い心の痛みであるから、最善の境域に到達しようと努力して、それぞれ自分なりに、考えられ得る最高のことをしようとしている。ところが、人々が最善と思ったものが、余りにもまちまちの形になっているのを、世界の諸宗教を見れば分かる。
 イエス・キリストは「霊と真とをもって」神礼拝を行えと言われた。これが外見によってでなく、規定を詳しくすることによってでなく、という意味を含むことは容易に分かる。そのため、人々は、出来るだけシンプルな形式が良いという主旨であろうと考える。それが良いのだと思った人もいるのだが、それは手抜きになるのではないか、と考える人もいるから、考え直さなければならない。霊と真をもって、という言い方は最高のものを規定した、と考えて良いのだが、決して安易にならないように主に問い続けることが課せられている。ところが、これではどこまで行っても完全に達することは出来ず、絶えず不安を感じないではおられないのではないか、と心配する向きがあろう。その心配は要らない。こちらから、完全を目指してよじ登って行くという譬えは場合によっては有効であるけれども、却って禍いになることもある。すなわち、神の恵みが一切に先立つという大前提が忘れられるからである。
 パウロは「霊によって」神に仕えている。これは、全ての信仰者に共通することである。次の、「御子の福音を宣べ伝えて仕えている」ということは、パウロには当て嵌るが、必ずしも全ての信仰者に当てはまる訳ではない。というのは、すでにこの手紙の初めの方で聞いたように、福音のために選び別かたれ、「召されて使徒となった」者、また、全ての異邦人を信仰の従順に至らせるように、「恵みと使徒の務めを受けた者」その者がこの務めを遂行する。
 選びがあって召しがある、こうして福音を宣べ伝える務めが成り立つ。務めというものは、いわば規格に適った器や升のように、ものを入れて持ち運ぶことが出来るのであって、この召しを受けなければ働きを担うことは出来ない。つまり自発的に、志願して、その自発性が評価されて務めが全うされるということはない。
 それはおかしいではないか、と言う人があろう。ヴォランティアの方が雇い人よりも積極的だから良質の奉仕をするではないかと言われる。いや、そうではない。先程もイザヤ書で聞いたことだが「あなた方は私にまみえようとして来るが、誰が私の庭を踏み荒らすことを求めたか」と神は怒りたもう。また言われる、「あなた方が捧げる多くの犠牲は、私に何の益があるか」。――彼らの自発性は神を怒らせるだけである。
 人が良かれと思ってした事であるから、神はそれを喜ばなければならない、とどうして言えるであろうか。人間の意志決定の方が神の意志決定の先行するのであろうか。神の決定が先立ち、人はそれに服従するのではないか。たしかに、人間の住む世界の中では、自発的に考え出されたものの方が価値の高いものとされる。そのことは認めて良いであろう。しかし、人々がそれぞれ自発的に良かれと思うものを作り出して、その結果世界中が廃棄物に溢れるようになってしまって、とにかく、人々の自発性を抑止しなければならないと考えるようになっているではないか。少なくとも神奉仕に関しては、神に従うという順位を守らなければならない。
 「はじめに言葉があった」とヨハネ伝が言うことは反論の余地ない深い意味を持つ聖句であると多くの人は認めている。神の言葉が先ずあり、それに則って全ては作られた。人間の救いも、初めにあった御言葉に則っているのである。召されるとはそういうことである。人の自発的な申し出があって、それならば、と神が受け入れて、その自発性に応じた仕事を考えて下さるというような妄想をしてはならない。
 救いの言葉を持ち運ぶ器は、器という喩えに従って言うが、それだけの容積を持たなければならない。たとえば、小さい容器では必要なだけの栄養分を届けることが出来ない。救いに必要なだけの救いの御言葉という言い方は適切でないから用心して使わねばならないが、救いの言葉が乏しく語られるだけであれば、それを信じた信仰は、どんなに一生懸命信じられていているとしも、「信仰による救い」には至らない。つまり、語られねばならない言葉が十分語られなければ、聞いた限りは信じたとしても、救いの言葉になっていなかったから、救いに至らない。
 例えば、キリストの十字架の贖いによる罪の赦しということが語られてなかったなら、信じていないことになるから、キリストの救いの核心部に到達していないものを信仰と呼んでいたことになる。救いが恵みであることも教えられなければならない。
 使徒が「選ばれ」「召される」とは、救いを齎らす資格・能力を授けられることでも、能力ありと認定されることでもない。ある使徒には悪霊を追い出す力があり、ある使徒にはそれがないという差異がある。では、能力に欠けておれば、使徒としては勤まらなかったのか。そうではない。悪霊を追い出す力を持たなくても良かった。しかし、福音は十分伝えられるだけ持っていなければならず、それは能力ではなく、いわば袋の大きさである。袋は空にして畳めば袋の大小は分からない。しかし、その袋には福音が完全に入らなければならない。
 主が召された者とは福音が全部入るだけの袋を授けられた者のことである。その空袋を一杯にして使徒たちは出掛けて行く。
 その中味、これは「御子の福音」と言われる。先には「神の福音」と言われた。御子の福音と別のものではない。福音は神に由来しないわけには行かない。神によらないものを作り出したり、神からのものでない人間の考えや人生経験を掻き集めたりして、福音と看做そうとしても、福音ではない。
 福音、幸いなる使信、おとずれは、神の真実と慈しみから発する。そして神は真実であられ、また慈しみに富んでおられるから、神から来る言葉の多くは福音である。旧約の言葉も多くは恵みの言葉である。ただし、旧約の場合、福音であることが必ずしも明瞭に読み取れるとは言えない。だが新約の光りを当ててみれば、福音がここにあると分かる場合は多い。
 新約においては、マルコ伝の冒頭に「イエス・キリストの福音のはじめ」とハッキリ述べられている。なぜ、それが福音と呼ばれるかについて説明は要らない。こういうものが福音だと定義する基準があって、それにしたがって福音と名付けたということではない。これこそ福音だということが明らかであるから、説明ぬきで十分なのである。
 福音としては神から出たものが一つあるだけである。いろいろな福音があるということは本来あり得ない。だから、救いは一つであって、あの教えによる救い、この教えによる救い、というような雑多性はない。そして福音は「御子の福音」しかない。御子の福音とは「イエス・キリストの福音」と同じである。それを御子の福音と呼ぶのは、要するに福音の内容は御子だからである。
 御子の福音という呼び方は珍しいものではないが、聞き慣れていない人があるかも知れない。簡単に説明して置く。イエス・キリストは御自身のことを「子」と呼んでおられた。その時、それ以外の人が彼のことを「子」とか「御子」とか呼ぶことはなかった。彼が肉体を纏った姿では地上におられなくなって後、弟子たちは彼のことを「御子」と呼ぶようになった。ここには見るべきことが二点ある。
 一つに主御自身が自分を指して子と言われたその意味がそのまま受け継がれている。もう一つは、「父なる神」と「子なる神」との区別を教会は理解するようになった。
 この福音を「宣べ伝えて」自分は神に仕えていると言うところを最後に見て置く。宣べ伝えるとは「説教する」ことである。人が聖書を開いて讀み、信仰を得る例がある。しかし、本来は福音は読書することでなく説教を聞くことによって受け入れて信仰が立ち上がるのである。このことは改めてローマ書1014節以下で学び取らねばならない。神の言葉は文字になったため消えぬものとなったが、本来は字を讀むのでなく、宣べ伝えられた言葉を聞く事によって伝達されるのである。聞くことによって信仰は生まれる。 

 


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