2009.11.08.

ローマ書講解説教第5

――1:7-9
によって――

 

 手紙の初めの部分の結びは、宛名人の名と祝福の祈りである。ここは当時の手紙の形式通りである。パウロの他の手紙は必ずしもこの形式を踏んでいないが、ローマ書はまだ会っていない相手に宛てたものであるから、格式を守ったのである。
 手紙はパウロから、ローマにいる「全ての聖徒」へ送られた。それ故、一部の人でなく、個人でなく、限定なしに、ローマにいる「全ての聖徒」のことが考えられていた。
 「ローマにある」ということに特別な意味があったのか。それはないと思う。どこにいるかで人間の値打ちが違うという考えは間違っている。特権的な地域はない。世界中どこでも平等なのだ。旧約の民の中には、エルサレムの特殊性の意識がときどき持ち上がった。しかし、イエス・キリストは、エルサレムでなければならないということはなくなった、とヨハネ伝4章で教え、どこででも「霊とまことをもって」礼拝することだけが大切だと教えたもうた。ローマでなくても、どこでも通用する真理が語られた。
 ローマにおいてユダヤ人の間に帝国の支配に対する批判的・反抗的な行動があって、彼らがローマに居住することを禁止された事実をパウロは知っている。そのために13章が書かれたと考えられなくはない。もっとも、特にその事件に触発されて、ローマ書が書かれたと解釈する謂れはない。
 つまり、この書簡は世界のどこにも通用するものとして書かれたと我々は理解しており、それゆえ、これは我々自身に向けられた書として受け入れる。
 ただし、帝国の首都ローマという場所について、パウロが何も意識していなかったと思ってはならない。間もなく学ぶことであるが、ローマにキリストの民の群れが出来たことが、全世界に知られている事実は、特別に感謝すべきことなのである。さらに、パウロは自分も何とかしてローマに行きたいと思っているのである。この「ローマ」という地の意味については後ほどもう一度触れる。
 「聖徒」という言葉は我々がしばしば聞くし、自分でも語るものである。これは「キリスト者」、あるいは「信仰者」というのと同じ意味であると見て良い。キリスト教の一部には特別に徳の高い人を「聖人」と呼んで崇める風習が横行しているが、聖書の中にはそのような考えはない。神の他には聖なる方はない、というのが原理である。人々の中に聖なる者が生まれることも、人が修練を積んで次第に向上して聖なる人の域に達することも否定される。
 ただ、キリストにあって、聖でない者が聖とされる。「聖徒」とはキリストにある者である。キリストにある者となるのは「生まれかわり」である。聖霊によってキリストと一つになり、我々の「聖」となりたもうたキリストの聖に与るものが「聖徒」と呼ばれる。これはキリスト教会で一般的に言われる言い方になった。
 この聖徒についてなお、「神に愛されていること」と「召されていること」が付け加えられる。「愛されている者」という呼び方は最も喜ばしい呼び方である。だから、人は親しい人に向けて「愛する者よ」(つまり愛された者よ)と呼び掛ける呼び方が最上のものであると考えている。私から愛された者よ、という意味で呼ばれることもあろうが、むしろ、「神から愛された者」よという捉え方の方が適切だということに気付いている人は多いはずである。すなわち、私があなたを愛してあげている、という言い方は軽々しく使えないことを人は自覚しているのである。だが、神が愛したもう。したがって、神から愛せられる。
 ところで、私は神から愛せられるに相応しいのか、という疑問を自らに突きつけねばならない実情に我々は気付いている。つまり、神から怒りと刑罰を受けなければならないのが我々だということを悟らざるを得ない。
 しかし、キリストにあって神を知る時に、神は怒りの神でなく、罪の赦しの神である。神は御子の死によって御自身を世と和解させたもうた。ここにキリストの福音の中心部がある。この確信を得て、我々は神に愛される者の喜びを受け入れることが出来るのである。
 それが「召された」者である。召されたという言葉は特に「聖徒」という言葉に結び付いているのであるが、召されることが直ちに聖とされることであると取るならば短絡であって、混乱が起こる。この直ぐ前のところに「召されてイエス・キリストに属する者となった」と言われた。召される、すなわち呼び入れられることは、キリストのものとなることに直結する。すなわち、自分で捜し出し、自力で接近するのでなく、呼び込まれ、引き入れられるのである。
 「私たちの父なる神および主イエス・キリストから、恵みと平安があなた方にあるように」。これはパウロの最も多く用いた祝福の言葉である。祝福とは良き言葉であるが、聞くに心地よい言葉を贈るということではない。これは良きものを贈りたもう神への祈りである。
 「平安」シャロームということばは、古くからユダヤ人の間で最も一般的に用いられた祝福の言葉である。「平安」あるいは「平和」は旧約聖書の中で最も有り難い言葉であった。イエス・キリスト御自身もこの言葉を用いて人々に祝福を与えておられた。「恵み」という言葉も、極めて一般的な祝福の言葉である。この二つの言葉は解説ぬきで或る程度相手の心に届き、挨拶ことばとして親しまれている。
 そこで、我々自身がこの言葉を用いる場合、どういう思いを込めるべきかを考えて見よう。「恵み」と「平安」は言葉として美しいのであるが、表面が美しいというだけではいけない。実質的な祝福を送り込むことになっているかどうかを検討しなければならない。つまり、恵みと平安という言葉が、無難な、耳に心地よく響く言葉ではあるが、実質的な祝福の作用をしているか、の検討である。確かに、恵みと平安というだけでは浅薄な、また欺きの言葉になる危険がある。
 それが「我々の父また主イエス・キリストから」送られる祝福であることが明らかである時に、その祝福は送る者にとっても、受ける者にとっても力であり、慰めである。だから、我々も恵みと平安を、自分の善意からの贈り物でなく、父および主キリストからのものとして人に送るのである。それは上辺の挨拶ことばではなく、父および主キリストがこれを送り届けて下さるからである。
 挨拶を終わって、用件の最初、これもまだ入門部分に属するが、相手方についての感謝の思いが述べられる。
 ローマにあるキリストの教会の信仰が、全世界に知られたことについて感謝するというのである。パウロがローマにあるキリスト教会について情報を得たのは、コリント伝道を始めた初期、最近ローマから退去させられて移って来たばかりのアクラとプリスキラのキリスト者夫妻に会ったからであると思われる。パウロ自身、コリントで伝道して行くためには、生活費を得る手段として天幕の製造と販売の仕事をこの二人と一緒に始めたので、ローマにいるキリスト者の信仰が並々ならぬ深いものであることをアクラ夫妻との交わりの中で知ったに違いない。
 ローマについてパウロには関心があった。いつか行ってキリストの福音を伝えなければならない。しかし、道は遠く、障碍はおびただしい。ところが、すでにローマで伝道が始まっており、立派な信仰が養われている事実を知って、パウロは感銘を受けたのである。世俗的な名誉心や抱負ではなく、自分は世界伝道のパイオニアとしてローマに行かねばならないと考えていた。しかし、すでにローマ伝道は始まっていた。
 それが誰によって何時始まったのか分かっていない。お伽話のようなことでなく、アクラとプリスキラのような歴とした証人が立っている。確かな事実でありながら詳細は分からない。その事実を尊重しなければならない。誰が働いたかという事実が分かっていないから、その事実の背後におられる主の計画と働きを感謝をもって思うほかないと言っているのである。
 ローマについて何故関心があるかについて触れて置きたい。世界最大の町への憧れなどというものはない。当時、各種の新しい宗教がローマを目指していたことが研究者の間で知られている。どうしてこうなったのか、その議論をする必要はないと思う。そのような諸宗教がそれなりに受け入れられていたことも論じる必要はないが、人々が新しい宗教を求めていた状況は理解しても無駄ではない。すなわち、古い時代に、人々はそれぞれの地域の中で、地域宗教を信じていたが、ローマ帝国というような世界国家が出来て、地域宗教は人々の求めを満たすものではなくなったという事情は分かる。こうして、いろいろな宗教がローマに入って、ローマ帝国の権威に迎合することを企てたが、全て衰頽して、帝国に迫害されていたキリスト教だけが生き残ったということも事実である。
 キリスト教が生き残ったのは、聖書の宗教が世界宗教としての資格を持っていたからであるが、世界帝国が出来て行き、世界帝国が普遍的で現実的なローマという世界都市を作ったことと無関係ではない。パウロは世界宗教という考えを持っていたから、世界都市としてのローマに関心をもったのであろう。これは我々にも分かっている筈である。日本という国の中で人々が日本的宗教を信じている時、我々だけは世界宗教を信じているのである。
 「あなた方の信仰が……」と言っているは、ローマのクリスチャンの活動や組織が注目されているということだけでなく、むしろ、彼らの信じている信仰の内実、言い表されている信仰の要項、その理解の深みを捉えていると見なければならない。
 その信仰が全世界に言い広められているとは、全世界の教会でローマの教会の信仰が有名になっているということではない。キリスト教会は当時、幾つかの点を結ぶネットワークがあっただけである。すべての教会にローマ伝道のことが報告されていたとは思われない。ローマ帝国の記録の中にキリスト教のことが載るのはもっと後である。それでは、「全世界に」と言われたのは誇張であったと取って置くべきか。それは少し違う。パウロは誇張でなく、確かに、これは全世界に知らせられたと捉えている。それは、「世界」の捉え方から見て行かなければならない。
 世界という言葉は誰でも知っているが、この言葉を知っているということと、この言葉を使うキリスト教的な見方が出来ているということとは別である。イエス・キリストは「全世界に出て行って福音を宣べ伝えよ」と言われた。だから、キリストの御言葉を聞いている者は、自らの信じている福音が「全世界」という規模のもとで力を発揮するものだということを知っている。
 福音が狭い領域で語られ・聞かれているだけではいけないのであって、全世界に普及しなければならない、という意味で語られたことは確かであるが、それは単に福音を受け入れる者のいる地域が必ず、地の果てにまで拡がって、広大でなければならないということとは違う。
 かつてマケドニアの王であった人が、マケドニアだけでなくギリシャ全部を支配することを考え、その思いを遂げ、それだけで満足せず、東へ東へと支配を拡げて、インドにまで達する世界帝国を打ち立てた。そのような世界帝国を建てようとした征服者は他にもいる。そしてその考えで建てられたものは全て滅びて行った。それと同じように、キリストの福音を信ずる者の王国が、世界帝国の理想を実現するものでなければならないと我々が考えているわけではない。キリスト教会において伝道!伝道!と呼号する人が、結局、帝国主義者の世界征服や商人の販路拡大主義の真似をするだけに終わる危険が大いにある。それではいけないという理解を持たねばならない。
 パウロは世界に福音を弘める使命に生きた人であるが、自分の考えのもとに全ての人々の考えを征服しようとしたのではない。人間の救いはイエス・キリストの十字架の贖いによらずにはありえないのであるから、このキリストを信ぜよと力を尽くして呼び掛ける他ないと信じた。
 神は世界の中から先ずアブラハムを選び、彼と契約を結び、お前の子孫によって世界の民は祝福される、と約束された。世界の民を祝福する者となる約束を担っている民らがその使命を担うのである。我々は拡大や成長を求めるのでなく、神の造りたもうた世界のなかに祝福が拡がることを求めるのである。

 


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