2009.10.11.

ローマ書講解説教第3

――1: 3b-4
によって――

 

 福音の核心部は御子に関わるところにある、ということを明らかにした次に、今日はその御子が如何なるお方であるかを学ぶことになる。これは我々の意表を衝く教え方であるかも知れない。すなわち、普通に考えて、御子について、先ず彼がこの世に来たりたもうたこと、あるいは生まれたもうた時のことから語り始めるのが分かり易いのではないかと予想する。すでに、預言者によって聖書の中に予め約束されていた、ということが教えられたではないか。

 だから、御子がこの世界に生まれて来られた劇的な物語りを聞くことから始めるのが適切だと思っている人もあろう。こうして、キリスト降誕の物語りが喜んで受け入れられる。――しかし、使徒パウロは、福音について語ろうとしているのに、キリスト降誕の物語りを語ろうとはしていない。

 4つの福音書の中でキリストを降誕のことから説き起こしているのは、マタイとルカだけである。マルコとヨハネはキリストの降誕について一言も触れない。パウロはローマ書で福音書を教えようとしたのではないが、福音について論じる段になっても、キリストの生まれたもうた出来事、クリスマス物語りについては何も言わない。

 それはキリストの降誕を無視していることではない。またキリストの降誕の物語りが、どうでも良いもの、いかがわしい物語りと見ているということではない。パウロと行動を共にしたルカが、使徒行伝を書く前にルカ伝を書いており、このルカ伝福音書がキリストの降誕を詳しく調べて、その約10ヶ月前から書き始めたことを見ても、パウロの福音がキリストの降誕を除外したものでないことは明白である。

 キリストが生まれたもうた歴史、それを巡る出来事がどうでも良いというのではなく、別の角度からキリストを捉えようとしている。こういうことは分かり難い議論ではない。教会が古くから唱えて来た信仰告白では、「御子は聖霊によって処女マリヤより肉体を取りて人となり」うんぬんと言う。御子が生まれて来られた事実を無視しているのではないが、福音として簡潔に言い表そうとすると、降誕の物語りから始めていては長くなる。

 そこで、どういうふうに生まれたか、というような物語りの形でなく、またどういうふうに成長されたかの歴史も省略して、御子が果たしたもうた決定的な役割、すなわち「死」と「復活」による贖いに絞って、その死と復活が有効であるためには、御子が本質的に何であられるかを短く論じようとする。神学では一般にこういう論じ方でキリストが何をされたか、何であられるかを纏めて「キリスト論」すなわちキリストについての教理とする。

 最も簡潔に纏めたと思われるのは御子が「まことの神、まことの人」、あるいは更に厳密を期して「まことに神であられ、まことに人であられる」という捉え方で、これは5世紀になって出来たものであるが、まことの神というのも、まことの人というのも、内容としては、すでに福音書の中で十分に確認されていた。人という要素の側面からの捉え方と、神という要素の側面からの捉え方とが以前からあったが統一されていなかった。それが綜合された。そのように綜合される以前には、「神」であられるという要素と「人」であられるという要素が、別々に、しかし何ら矛盾するものでないことを当然のこととして了解しつつ、理論にしないままで、把握されていた。しかし、このままでは混乱が起こると気付いたので、矛盾しないことを言おうとして、神であられると捉える観点と、人であられる観点とが、両面とも受け入れられる言い表わし方が生まれる。そういう考え方を採り入れて、福音の教えを混乱なしに整えて行こうとする努力がなされてきた。

 実は、こういう捉え方も新しいものとは言えない。ヨハネの福音書には「言葉は肉体となりて我らの内に宿りたまえり」と言われている。これは、「神なる言葉」が「人となった」ということで、これは、御子が神であり、また人であるというのと内容的には同じである。神であり人である、という言い方よりも、神が人となったという言い方の方がむしろ聖書的であると言える。

 さて、3節で学ぶ「肉によれば……」と、4節の「聖なる霊によれば……」は、御子を肉の面からと霊の面から捉えようとする考え方を使った新しい理解のし方である。慣れない人にとっては分かり難くて、混乱を生むかも知れないが、むしろこういう捉え方でこそ全体が良く分かるし、良く纏まると言うべきである。

 「肉によれば」という言い方はパウロの文章の中に決して珍しいものではない。むしろ、パウロの考え方・捉え方の特色を示していて、この言い方を捉えることによって良く分かる面がある。

 「肉」という言葉には説明をつけなければならない。「肉」とその後に来る「霊」とは対立し、相互に矛盾するという通俗的理解が割合拡がっている。しかし、今日のところでは「肉」とは、むしろ「人間」という意味である。「肉」と「肉体」とは別の言葉であって、混同されることが多いけれども、意味としても区別する場合があって、その時には「肉」は「悪の原理」の意味を強く持ち、「肉体」は必ずしも悪でなく、被造物としての「身体」である。

 つまり、本来聖書にはなかった二元論の考えが入り込んでいて、そのように受け止めなければならない場合があるが、ここではそうでない。――84節では「肉によらず霊によって歩む私たち」、次の節では「肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思う」と言う。その節以下「霊」と「肉」を対立原理として語る文章が続くが、13節はそれと違う論じ方をする。霊と肉は対抗する原理ではない。霊と肉は合わさって一つとして捉えられる両側面である。 

 以上のように、ここで「肉によれば」というのは、「肉体をもった人間として見れば」という主旨を言おうとするものである。そこには「人間」に纏わりついている「罪」や「汚れ」や「弱さ」、凡そマイナスの要素は含まれていない。平易に言うならば「人間である我々と出会う者として」という含みである。人間として来られた点について言うならば、特にダビデの子孫だという一点で総括すれば良いのである。

 では「ダビデの子孫」ということにどれだけの意味が含まれているか。一つには、ダビデは架空の人物や身元不明の人でなく、出自の明らかな、チャンとした名前の人の意味がある。ダビデは王であったが、王者の素質は受け継がれているという意味はここでは考えなくて良い。実在の人物であり、その血統を引いている。

 もう一つ、ダビデの血統から出た子がメシヤとして来るという期待が古い時代からあった。「預言者によって予め約束されていた」という前に出た言葉にもこの意味が含まれていた。そういうことがあるから、主イエスが来られた時、ある人はこれをダビデの子ではないかと言ったが、それを明言する人は極度に少なかった。例えば、エリコのバルテマイのような人だけが敢えてこう発言するだけで、殆どの人は内々感じることはあっても口に出し切れなかったし、その発言は周囲の人によって封じられた。

 4節に入る。「聖なる霊によれば」という句は「肉によれば」と対句になっている。が、これを大小の比較という意味で並べたものと取らない方が良いと思う。「肉」と「霊」を対照させる言い方が先程触れたように8章に出て来て、それはローマ書の中ではかなり大事な箇所である。しかし、対句の形式でいわんとする意味は全く異なる。8章では霊と肉は信仰者である我々人間を理解する時の鍵として用いられる。1章ではキリスト理解の鍵として用いられる。

 ここでは肉と「霊」なのか、肉と「聖霊」なのか。肉によれば、霊によれば、という対称的な捉え方がパウロの思想にあって、それがここでも用いられたが、ここでは「原理としての霊」によって判断されるのではなく、「神の霊」である聖霊の働きによって御子と定められたと解釈しなければならないのかどうか。

 議論して良いことと思うが、我々信仰者にとっては聖霊によらないで御子を御子として受け入れることはないのであるから、そこまで立ち入って論じる必要はない。もっと大事なことが次にある。それは死人の復活である。

 パウロがアテネに行った時、アレオパゴスで、哲学議論の好きな人たちに死人の復活を論じたところ、馬鹿にされたということを我々は使徒行伝17章によって知っている。しかし、パウロが今クリスチャンと言われる人のところに来て、死人の復活の説教をしたならば、あの時と余り違わない仕打ちを受けるのではないか。パウロがここで言っている死人の復活をまともに信じるクリスチャンは今は少ない。

 御子が肉によればダビデの子として来たもうたことについて、少なくともクリスチャンの中で認めない人はいない。クリスチャンでない人でも、ダビデの子であることは信じないが、ナザレのイエスという人物がいたことは認めており、その人の言葉を読む事まではする。讀んで感激する人もいる。しかし、感激すればそれで上出来だということではない。

 パウロはエルサレムの議会に引き出されて、使徒行伝22章に記されているように「私は死人の復活のことで裁判を受けている」と語ったところ大混乱になった。これは死人の復活ということを或る程度知っている人たちの間でこの主題が取り上げられた時の収拾のつかない状態である。

 死人の復活という教理をユダヤ教の神学者の間で、受け入れるべきかどうか、決定が出来なかったのである。このことはユダヤ教では未だに決着のついていない問題だと言うべきかも知れないが、我々はハッキリ確認している。ただし、パウロが理解したように理解したとは決していえない。

 パウロにとっては死人の復活は原理の条項であった。「ダビデの子が来る」ということと対をなす約束であった。「死人の復活がないならキリストも甦らなかった」とIコリント1516節で言われているように、死人の復活は、原理として、先に、確かとは言えないけれども論じられ、立てられ、約束されていた。パリサイ派の神学者としては受け入れていた。しかし、理論としてこうでなければならないと考えていたが、事実として確認した訳ではなかった。

 ところが、事実として確認する日が来た。それがダマスコにおける出来事である。だから、彼は直ちにユダヤ教からキリスト教に回心したのである。

 復活についてキチンと教えていない教会が多く、したがって復活を堅く信じていないクリスチャンが多い。それでも主イエスの十字架の死に直面し意気阻喪した弟子たちが三日目に雄々しく立ち上がったことを聞いて、その力強い証言を受け入れている人は少なくない。

 この復活についてパウロが言うのはIコリント153節以下にある通りである。「私が最も大事な事としてあなた方に伝えたのは私自身も受けたことであった。すなわち、キリストが聖書に書いてある通り、私たちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてある通り、三日目に甦ったこと、ケパに現われ、次に十二人に現れたことである。うんぬん」。これが一番大事なこととして伝えられた信仰の伝承の型であった。肉によれば、霊によれば、はそれとは違うが、似た働きをする。

 死人の復活をパウロが事実に接する以前から知っていたことは、彼が伝えられて信じたと言うのとは違うではないかと疑問に思う人もいるのではないか。だが、そうではない。キリストは、ただ死んで甦ったのではなく、聖書に書いてある通り、死なれ、聖書に書いてある通り三日目に甦られた。聖書に書いてある通りとは、新約聖書に書いてある通りなのだという意味でないことは言うまでもない。

 聖書に書かれている通りとは、旧約で預言されており、それが書かれているという意味である。復活は旧約聖書に書かれていたということである。だから、死者の復活は約束されていた。その約束がキリストによって成就したので、単にキリストが甦られたということでなく、死人の復活が開始され、キリストにあって死ぬ者がキリストにあって甦ることは確かになった。

 彼が神の子ではあるまいかと推定した人は少なからずいたようである。彼を十字架につけた現場の指揮官の百卒長も彼の死にざまを見て「この人は本当に神の子であった」と証言した。しかし、それで確かになったのでなく、死人からの復活によって、力をもって神の子として確定され、確立されたもうたのである。

 これが私たちの主イエス・キリストである。

 


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